先日、小鼓の先生が出演される能「道成寺」を見に行った。能の舞台を一言で言ってしまえば、眠たくて、重々しくて、退屈で、しかしそれ以上にスタイリッシュで、過剰に興奮させる芸能だ。で、能の舞台の中でも、最高峰と言われる「道成寺」。いやぁ〜怖かった、逃げ出したくなりました。

 舞台中程、先生の小鼓と、舞い手(シテと呼びます)が、延々40分ぐらい二人だけの舞台が進行する。小鼓が一つ打つ。すると、シテが一つの所作を行う。そして、静寂。二人とも何の動きもない。そしてしばらくすると、一つの音、一つの所作、そして静寂が延々続く。

はたと気づく、私は汗をかいているのだ。舞台の二人はこの時にしか表現できない最高の音、動きを、おのれの精神的、肉体的限界を超えて出そうとしている。お互いを挑発し、殺気が舞台にみなぎる。まぁ、高度な「どつき合い」にお付き合いしているようなもんですね。その果てしない緊張の渦の中で、私の精神が反応し、快楽に体が喜ぶ。これこそ音楽ではないか!

  そんな経験を以前にもしたことがある。ジャズトランペッター、マイルス・ディビスの演奏を聴いた時だ。1969年アルバム”Bitches Brew”発表後、彼は、それまでの大人な正統派ジャズをあっさり捨てて、猥雑で欲望ギラギラなブラックミュージックに接近する。常に変化する事を原理原則にした彼のサウンドはサイケデリックな過激性をまとう。お上品なジャズリスナーや、耳の悪い評論家からはボイコットされてしまう(今でも)。

 

 私は史上最高にかっこいいと思う。死ぬまで、変化し続けることを己に課したミュージシャンって、彼ぐらいだ。その彼のライブでの”First Track”を聴く。号砲一発、マイルスのトランペットが炸裂する。その時、持ちうるすべての才能を突っ込んで彼は疾走する。この殺気。この時、この場所でしか出せない音。溢れ出るサウンドの大洪水に体が反応し、恍惚へと誘う。

能とマイルスに、何の接点もあるわけがないが、聴きやすい音楽ではないということでは一致する。音楽を聴くという事は、聴きやすい音を楽しむだけではない。時に過剰で、激しく響く音楽に見を委ね、それに自分は反応し、喜べるかどうかを確認するこだと思う。

あんまり、耳に心地よい音楽ばっかだと、ほら口当たりのいい言説を、耳元で囁くあの人、この人の餌食になるかも。だから、ipodには過激な音楽を入れて、散歩時には、音楽は気合いだ!と愛犬には伝えているのだが、ほのぼの生きることを原理原則にしている彼女には全く伝わらない様子ではある。(店主)

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