エリック・ドルフィーで、私は歌舞伎、そして能に目覚めた? はぁ〜ですよね

ドルフィーは、30代でヨーロッパツァーで亡くなったジャズマンだ。馬のいななきに似ていると言われたバリトンサックス、恐ろしく鋭いアルトサックス、そして尺八の音色に似たフルートと多彩なスタイルを持っていた。若い頃から聴いていましたが、ものすごく好きなミュージシャンではなかった。ジャズ喫茶の薄暗い空間で、フルパワーで聴くのに適した音楽だった。

ところが、歌舞伎そして能楽を観るようになってから、ドルフィーはフェイバリットミュージシャンになった。ジャズと古典芸能。全く無関係なジャンルなのだが、考えてみると似ている点がある。ジャズの曲は、おおむねが昔のミュージカルの曲で、単純で美しいメロディを持っている。多くのミュージシャンが、メロディを大切にしながら、より自由な曲へと飛翔させんと悪戦苦闘してきた。原曲から、いかに自由になるか。もちろんドルフィーも、人一倍その事に拘った。テーマの演奏から、ソロになった時、音をすべて解放して、高みへと一気に上がろうとする。しかし、いっぽう原曲のシンプルな美しさが引き戻そうとする。引き戻す力と引き上がろうとする力がぶつかり、せめぎあう。その一つ一つの音に込められた緊張感を聞き込むことが、彼の音楽を聴く魅力だ。

いっぽう、歌舞伎、能楽。もう、こちらはすべて完璧なまでに出来上がった所作通りに演じ、演奏することが絶対の世界だ。逸脱は許されない。では、所作通りやれば、それで感動につながるか、と言えばそういうものでもない。型に押し込めようとする力と、型から自由になり、新しい表現を目指す力が、やはりせめぎあう。ドルフィーは決められた音符の進行を破壊し、新たな表現を模索し続けた。古典芸能の演者は、型を徹底的に己の身体に記憶させることで、型から離れ、やはり新たな表現を求めた。

能「道成寺」を観た時、あの緊張感に縛られた二時間、舞台でドルフィーが狂おしい程に演奏している姿が消えることはなかった。

 

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