朝から観世会館へ、お師匠出演の舞台を観に来ました。

演目は「小督」。金春禅竹作の、平家物語から採録したお話で、こんな具合です。

小督の局は、高倉帝の深い寵愛を受けていましたが、平清盛の娘徳子が帝の中宮となったので、清盛の権勢をはばかって宮中を去り、姿を隠してしまいます。日夜嘆いていた高倉帝は小督が嵯峨野のあたりにいるという噂を聞いて、早速捜し出す勅命を弾正大弼仲国に出します。彼は、嵯峨野の小督の隠れ家にやって来る。仲国は名月の嵯峨野を馬で馳せめぐりますが、ただ片折戸をしたところというだけが目当てなので、捜しあぐねています。やがて法輪寺のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてくるので、耳をすますと「想夫恋」の曲です。その音をたよりにして、局の隠れ家を尋ねあて、帝の御文を渡し、返事を請います。小督は帝の思召しに感泣する。

とまぁ、こんな話を1時間20分ぐらいにまとめてあります。 お話がよくわからなくても、地謡の、特にラストちかくの、この台詞辺りから一気にノセル?感じとか、仲国の男舞とか、小気味好い大鼓と小鼓とのコラボとか、後見が、どどっと舞台途中で出て来て、嵯峨野の門を置いて、今までは嵯峨野でも何でもなかった舞台が、嵯峨野の隠れ家になってしまい(観客にはそう想像しなさいと強要してます)、仲国が門をくぐると、また後見が出て来て、門を片付け、ハイ家の中ですから、そう想像して下さいと言わんばかりに立ち去るという、能独特の早変わり舞台とか、能の面白さがよく出た作品です。

ところで、先日、京大のフランス文学教授、生島僚一の「蜃気楼」(76年岩波書店 初版900円)を見つけました。「大阪と京都の『丸善』」なんて本好きにはたまらんエッセイと一緒に能に関するエッセイが数編収まっています。能は退屈だからこそ、美しいというパラドックスから始まり、こう言い切っています

お能はごく単一な、わずかな美しいものを、ちょっと我々に見せてくれるものである。ちょっと、だから一層美しい。人間の美を観る目の弱さをよく心得て、美の押し売りをしない

美しいものを観る目を過信して貪欲になると、何も見えてこなくなるのかもしれません。


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