是枝裕和監督作品「歩いても、歩いても」は、劇場公開された時に観ていましたが、先日BSの放映を再度観て、その作品の持つ深さに改めて感心しました。

亡き長男の墓参りに、お盆に帰ってきた次男と嫁と連れ子、姉とその夫、そして父と母の二日間を淡々と描きます。そこには家族の死が介在していて、一見しただけでは解らない、ちょっとしたズレ、孤独、嫉妬、そして垣間見せる狂気等を織り交ぜながら、それでも何事もなかったように、人生は続いて行くのです。数年後、亡くなった父と母の墓参りに訪れた次男夫婦の背後に広がる夏の青空は、人の世の切なさと、変わらぬ故郷の風景を対比させてみごとです。

食べることを丁寧に追いかけた作風は、小津映画を観ているような気分になります。お盆に作る母の手料理、思い出深いトウモロコシの天ぷら、スイカ割り、近所の寿司屋の出前、長男のお参りにきた青年が食べた水ようかんなど。小津の世界とはまた違う家族の話ですが、底に流れる、近いようで遠い家族の抱える思いは同じ様な気がします。

是枝監督はこの映画の原作(玄冬舎500円)も自ら書いています。その最後に書かれているのは、

「あぁ、あの時こうしていれば・・・・・と気づくのは、いつもその機会をすっかり逃して、取り返しがきかなくなってからだ。人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。それが父とそして母を失ったあとの僕の正直な実感だった。」

この二行程の文章を、是枝監督は映像で語っています。ぜひ、DVDでご覧下さい。

こういう家族の話になると、庄野潤三が描いてきた小説群を思いだします。

「ザボンの花」(みすず書房1400円)を読むと、やはり飯の炊き方をめぐっての会話が出てきます。彼の小説は、特に事件が起こるわけでもなく、東京郊外に住む家族の日々を描くことで、独特の詩情を生み出します。(だから、若い時にはとてもつまならない小説だと思いました)

「夏は、一年のお祭りのように思われる。万物がみな燃えたら、夏ばんざいと叫んでいる。ところが、夏はある日、突然、終わりに来てしまう。まるで、卓上のガラスの器が、何もないのに音を立てて割れてしまったように、夏はこわれてしまうのだ」

なんて文章に出会うと、今は涙ぐんでしまいそうです。

 

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