数年前に亡くなったフォークシンガー高田渡の奥様が、夢の中で、PCを操作していると、天国にいる旦那が出てきて、寂しさに沈み込んだ彼女を心配して、こうつぶやきました。

「寂しがっているのはよくわかる。でも、これからは、猫のように犬のように遊びなさい」

その言葉に、詩人は感動して、「いかにもタカダワタル的だ」と納得します。

これは、詩人の佐々木幹郎のエッセイ「雨過ぎても雲破れるところ」(みすず書房1500円)に出てきます。彼については、著書「やわらかく、壊れる」を、前にブログで紹介しましたが、今回のエッセイも、読むと豊かな気分になります。

浅間山の北西約10キロの地点に、1972年「アリスジャム」と名付けられた山小屋が出来ました。詩人がここに足を運び、遊び、そのうちに、世代も、生き方も異なる多くの人間が集まり、穏やかなコミューンが誕生する。その素敵な空間で起こることを描いたのがこの本です。

自然への驚異やリスペクトばかりのエッセイではありません。「頬を突き刺すような冷気が入ってくる。」真冬の早朝、冬の日に死んだフォークシンガー坂庭省吾の事を思いだします。2001年から3年続いた山小屋でのコンサートは大いに盛り上がったこと。お互い京都に住んでいたので、又々盛り上った会話の数々・・・。

「京都のどこに住んでいるんですか」と詩人が訊ねると。「小さい時から東寺の近くでした」。それに対して、詩人はこう答える「いやらしいとこですね」

この受け答えに、私は吹き出した。これ、実験的ストリップを考案した有名な「DX東寺」のことを知っている、京都人どうしの会話です。(詳しくは本書で)

そこから思いだしたのは、京都駅前で薬局を営んでいた私の実家に、ある日、DX東寺のマネージャーさんが、踊り子さんの生理用品を大量に買いにこられ、二人で袋に詰め込んだことでした。帰り際、マネージャー氏から、「ぼん、遊びに来いなぁ」と言われ、高校の同級生と初めて行った懐かしい場所です。

しかし、坂庭省吾は2003年12月、53歳で亡くなります。癌でした。その最後を看取った彼のマネージャーのウチヤマさんから、詩人はその臨終の言葉を聞かされました。

「ウチヤマ、これで、ジ・エンドやな」

多くの死に遭遇しながら、人は生きてゆく。老いても、山小屋で子どもの様に無心で遊びたい、そういう人生でありたいものです。

詩人の書いたエッセイでは、長田弘のものを愛読していましたが、この詩人も捨てがたい魅力一杯です。