角幡唯介の「空白の五マイル」(集英社/古書900円)は、極上の冒険ノンフィクションですが、

「親指の爪ぐらいある大きくて甲虫みたいに堅いマダニの仲間が、すねや腋の下、あるいは股間といった皮膚の敏感な部分にしばしば喰らいついた。思いっきり強くつまんで、全力で引き剥がすが、頭部が残ってしまうのか、マダニにやられた痕はかさぶたになり、かゆみが何ヶ月にもわたり残った。」

なんて描写がチョイチョイ顔を出しますので。この手合いのシーンが苦手の方は、ふっとばして下さい。

ツアンポー川は、チベット高原を横断しインドへと流れ込む、長さ2900キロに及ぶアジア有数の大河です。人を寄せ付けない奥地の、さらに奥地にある峡谷に向かって、19世紀、多くの探検家が挑み、消えていきました。

著者の角幡唯介は、大学生だった頃、とある書店で見つけた金子民雄の「東ヒマラヤ探険史」を読んだことが、彼の人生に大きく影響を与え、ツアンポー峡谷へとのめり込んでいきます。本書は、1924年、イギリスの探険家フランク・キングドン=ウォードが、人跡未踏だったこの峡谷の奥深くまで分け入ったことに始まるツアンボー峡谷探査の歴史から始まります。不十分な装備で、何が出るかわからない峡谷探検物語は、映画「インディージョーンズ」ばりに面白いものです。著者は幾多の難関を乗り越えて、この地へと向かいます。簡潔な文章なので、リアルにその時々の状況が頭の中で映像化されていきます。

「海抜3700メートル。富士山の高さに匹敵するチベットの中心都市ラサの冬は、誰もが想像するほどの寒さではなかった。」

チベット仏教に基づいた一大文化圏最大の都市、ラサ。2002年12月、ここから、著者の探検が始まります。崖から滑り落ち、死ぬ一歩手前で助かったり、ダニに大群に襲われ「肌がまるでは虫類のうろこにようにでこぼこしていた。数えきれないほどのダニが私の躰に群がっていた」ことも体験しながら、奥地へと進んでいきます。やがて、彼の前に登場する、その存在すら確認できていなかった大きな洞窟、未知の滝の数々。彼と一緒に、読者も一歩、一歩奥地へと入ってゆく描写は、小説以上に面白く、ドキドキさせてくれます。

しかし、その一方で、人間を全く寄せ付けない荒々しい大自然を前にして、彼が考えるのはこんな事です。

「自然が人間にやさしいのは、遠くから離れて見た時だけに限られる。超時間その中に入り込んでみると、自然は情け容赦のない本質をさらけ出し、癒しやなごみ、一体感や快楽といった、多幸感とはほど遠いところにいることが分かる。」

でも、それでも、やはり、彼は奥地を目指すのです。その情熱の深さに圧倒される一冊でした。