一年の約半分を京都で過ごすという評論家、永江朗さんの「四苦八苦の哲学」(晶文社/古書1300円)は、タイトル通り読むのに四苦八苦させられた本でした。でも、眠くはならずに、最後まで読むことができました。

仏教のことば「四苦八苦」。生・老・病・死という基本の「四苦」と、それに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の「四苦」を加えたものが「八苦」です。本書は、その内、生・老・病・死について、永江さんが、哲学書の文章を引っ張りながら、ああだ、こうだと考えたものです。

「四苦」のうち、老・病・死は、苦しいものの原点であり、私たちが避けられないものであることはよく分かります。しかし、「生」は何故苦しいのか?ここでは、ハイデガーの「存在と時間」からの引用で始まります。

「私たちはそのつどすでに或る存在了解のなかで生き、しかも同時に、存在の意味は暗がりのうちに蔽われている」

?………..????理解できなくても心配ご無用。著者が、日常で体験するいろいろな事を例にして解説してくれます。ただ、頭の隅に置いておきたいのは、様々な原典の文章を「誤解でも曲解でも牽強付会でもかまわない。あくまで参考意見。哲学者のことばを思考の条件のようにして、わたしがじぶんで考えるきっかけにしたい。」という著者の言葉です。この本は哲学の解説書ではないということです。だからこそ、面白いのです。

最近の読んだ本の中では、恐ろしい程の付箋を貼付けました。特に第四章「生について」で、ハイデガーやらレヴィナスが登場してくると完全にお手上げ状態でしたが、著者のサポートで、それこそ「四苦八苦」しながら読みました。刺激的でした。

ここで、この本からの引用を書き出したらきりがないのですが、自殺について考察した部分に、著者のホンネが突出していたので、ご紹介します。

病気による肉体的苦痛に耐えかねて死ぬのはわかるが、それ以外の理由で自殺することについて、「人はなんてくだらない理由で自殺するのか」と著者は言います。そして、「追いつめているものはなにかと冷静に観察すると、それは欲求・欲望の一形態でしかない。欲望を棄ててしまえば、自殺なんてしないですむのに。集団本位的自殺にいたっては、アホらしいとしかいいようがない。乃木希典夫妻の殉死に感動した同時代人は多かったようだし、神社までつくって祀られたが、実につまらない死に方ではないか。(中略)仕えた王のための殉死であろうと、遥か昔にあった面目を失うようなことを償うための自殺であろうと、どちらにしてもばかばかしい。死ぬのは勝手だが、神社までつくることはないだろう。」

同感です。「殉死」の上に「お国のために」なんていうのは実にばかばかしい。

読み終わって、成る程な〜、そういう真理かと理解したこともあったけど、やっぱりわからないこともありました。今度、永江さんが来られたら聞いてみよう!