誠光社店主、堀部篤史さんの「90年代のこと」(夏葉社/1728円)が出ました。サブタイトルに「僕の修行時代」と書かれています。

「昔は良かったなどと言うつもりはないが、もうこれ以上いらないと強く思う。」これ以上リッチなもの、便利なもの、美味しいものはいらない。「せめて本当に必要なものを取捨選択できるぐらいは覚めていたい。そのためにはかつてわれわれに何がなく、代わりに何があったかを思い出す必要がある。」というのが、この本の出発点です。

1994年、高校生だった彼の愛読書は「ガロ」でした。仲間たちは、「週間少年ジャンプ」などの週間漫画雑誌に夢中でしたが、彼は「人と違うものを選ぶことで、かれらとははっきりと違う自分の立ち位置を確保しようと必死だった。」のです。そして、「ガロ」を始め、オルタナティブなアイテムを探しもとめ、あちらの本屋、こちらの本屋とかけずり回ります。辿り着いたのが「三月書房」。そこで「ガロ」を起点に、知らない作家や未知の作品へと触手を広げていきます。本だけでなく、音楽、映画、アートの世界へと無限に広がってゆく世界を見つけるのです。

「過去に触れてきたものがある時点でつながり、違った見え方をする。無関係だったもの同士がジャンルを越えてつながる。音楽を聴き、映画を観続けていると必ずそんな瞬間が訪れる。」

膨大な量のレコードを聴き、古本を買いあさり、映画館に足しげく通うことで、自らの思想を作り上げてゆく。インターネットなど皆無だった頃、すべての評価が検索一発で瞬時に目前に並ぶ時代ではありません。駄作、見込み外れ、失敗作を浴びることで自分なりの批評精神が磨かれてゆく。B級、C級の映画を見続けて、私も私なりの修行時代を通過したように思います。

誠光社には、よく行きます。堀部さんとは、本よりも音楽の話で盛り上がる事が多いです。本著にもアメリカのロックバンド、ソニックユースとダイナソーJrに夢中だったことが書かれていますが、80年代これらのバンドが出てきた時、私自身、パンク少年、ニューウェーブ少女たちの溜まり場みたいな、京都でも過激で、新しい音楽を扱っていたレコード店の店長をしていました。部下たちは、彼らの音楽を絶賛していましたが、しかしながら、私はダメでした。はきそうになるぐらい聴き続け、バックグラウンドや、音楽状況の情報を探しだしましたが、どうしても受け入れることは無理でした。そして、新しい音楽には新しい店長を、とバトンタッチしました。

この時に、流行の音楽、映像、文学、アートを無視して、自分で選んだものを観て、読んで、聴いたことは大きな経験でした。インターネットなんてまだまだ先の話、という時代、自分なりのアメリカンカルチャーの文脈を組立てる作業は楽しかった堀部さんも書いています。「検索型の世界は時に文脈を崩壊させる。背景のない検索結果がでたらめな組み合わせを産み、意味は剥奪され、表層だけがコピーされ続けてゆく」

最終章「1996年、本屋は僕の学校だった」で、元の職場である恵文社に、POSシステムが導入された時のことに触れています。「出版社、取次、書店の三者が無駄を減らし利益をあげられるシステムだというが、そこには『読者』のことは勘定に入っていない。効率の代わりに犠牲となるのは多様性だ。読者の傾向や層を数値化しすることによって、最大公約数を求める店舗を平均化していくことが目に見えるようだった。」

私も同じようなことを十数年前に、取次ぎのエライさんや、経営陣に向かって発言したことがあります。その場の嘲笑的な雰囲気が今も忘れられません。でも、この本を読んで、あの時の考えは間違いではなかったんだ、と力づけられました。

堀部さんが、90年代に、観て、聴いて、読んだ膨大な量の情報の一部を再生しながら、あの時代の雰囲気を見つめ、今の時代に欠けているものを明らかにしてゆく作業をまとめた本であり、その思想が、誠光社の書架に生きていることがわかります。そして私にとっては、過去のある時代の情景が目前に現れてきた刺激的な本でもありました。