歌舞伎囃子方の田中佐太郎「鼓に生きる」(淡交社/古書1900円)を読みました。表紙には、白髪の女性が鋭い視線で前を向いて、鼓をまさに鳴らそうとしている瞬間が撮影されています。この女性こそが、田中佐太郎さんです。えっ?女性なのに”佐太郎”?と思う方もおられるはずです。

彼女は、江戸時代から続く歌舞伎囃子方の田中傳左衛門家の、兄と四人姉妹の三女として、昭和23年に生まれました。生家の芸事が鼓だったので、お茶やお花を習うような軽い感覚でお稽古を始めます。ところが、兄が学問の道に進むことを決心し、他の姉妹たちがお稽古から疎遠になり、人一倍稽古熱心だった彼女に、白羽の矢が立ちます。しかし、歌舞伎の世界は女人禁制。そう簡単に、女性が舞台には上がれません。

田中家が担当する歌舞伎囃子は「鳴物」と呼ばれて、小鼓、大鼓など様々な打楽器を演奏します。舞台に上がり演奏する「出囃子」から、舞台下手の「黒御簾」と呼ばれる小さな部屋で舞台を盛上げる効果音を担当する「下座音楽」まで、広範囲に渡っています。その伝統ある田中家の未来が、一人の少女に託されようとしていました。限界に挑戦する様な厳しい稽古が始まり、実力を付けていきます。

それでも、女性であるという事がこの仕事には最大の障害でした。そんな時です。六代目中村歌右衛門の舞台で、囃子方の一人が急病になり、その代役として、彼女が小鼓を打つことになります。その結果、歌右衛門から「このままお嬢さんに(歌舞伎の黒御簾)をさせたらいかがですか」という、お墨付きの言葉をもらいます。最高の女形として歌舞伎界に君臨していた歌右衛門の後押しで、彼女は表舞台へと出て行きます。男性 だけの世界に初めて女性が入るのは、並大抵のことではありません。父傳左衛門は、「私語は絶対に慎むこと。きものは地味な色を着ること。笑顔は無用。たとえ役がないときでも黒御簾にいて、目と耳と空気で舞台の全てを覚えること」と、十六歳の少女にとって、極めて窮屈な心得を言いつけます。彼女はその心得を今も守っています。

女だからという理由でバカにされない様に、厳しい芸能の世界で第一線の実力を保つための姿が描かれて行きます。かなり以前ですが、NHKのドキュメンタリー番組で、彼女を特集した番組を観ました。鼓を打つ凛とした姿が、とても印象的でした。しなやかで力強い音は、厳しい修錬の中から生まれてきたのだと、本書を読んで理解で来ました。

能楽師で太鼓方の亀井忠雄と結婚し、三人の男の子を育てました、長男は亀井広忠として能楽の世界に進み、次男は歌舞伎囃子方として研鑽を積み、十三世田中傳左衛門を襲名、三男は七代目田中傳次郎を襲名して、やはり歌舞伎囃子方として、それぞれ第一線で活躍しています。家のことも子育ても、一切引き受け人任せにしない「昭和の母」らしい生き方も語られていきます。

長男の広忠は、この本の中で母親をこう表現しています。

「姿も、立ち振る舞いも、考え方も、すべて凛として、周囲に流されることなく自分というものを貫いて生きてきた人です。」

今や、古びてしまったような言葉「修行」という二文字が鮮やかに蘇ってきます。新春に読むに相応しい一冊です。

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。今回も25店舗程が参加します。お楽しみに!