多分純文学の作家以上に、刑事小説や探偵小説を書く作家は、情景描写には念には念を入れなければならないと思います。大沢在昌の「新宿鮫」や、逢坂剛「カディスの赤い星」等の傑作群を読むとよくわかります。

元刑事で、今はしがない私立探偵の茜沢が活躍する「時の渚」(文春文庫/古書350円)は、きっちりと情景描写、そして戦中戦後の悲惨な境遇から幸せを求めて生きる人たちの歴史が、巧みに刷り込まれています。

元ヤクザの親分で、今は末期癌に冒されて余命いくばくもない老人から、35年前に生き別れた息子を探すように、茜沢が依頼されるところから話は始まります。ほんの僅かの手がかりを元に、探していきます。

「『生まれたその日に、赤の他人にくれてやった息子だよ、三十五年前の話だ』元気で生きていれば茜沢と同い年。人の記憶が風化するには十分な年月だ。困難な仕事になりそうな予感がした。」

と思った通り、捜索は袋小路に入ります。実は茜沢は、数年前に妻と子供を轢き逃げ事件で亡くし、その時の警察組織とのいざこざで彼は職を辞しています。

こういう小説の場合、主人公には深い傷があるのがお約束なのですが、感情過多に描いてしまうと、小説が安物になってしまいます。あくまでもストイックに描くことが鉄則です。人探しをしていくうちに、過去の忌まわしい事件とも関連があることがわかってきます。この辺りの物語の進め方も定石通りですが、登場人物がよく描かれているので、安心して読み進めます。

物語終盤、作家の出身校の立教大学で大活劇が描かれます。普通なら事件解決でチャンチャンなのですが、こここから更に物語が始まるのです。あえて言えば、重松清風な展開で「家族の絆」というテーマが浮上してきます。個人的には、ややオーバーラン気味に感じたのですが、亡くなった茜沢の父親の骨を散骨するシーンで、やはりこういう決着しかないと納得しました。

「寄せ波が膝を洗う深さまで踏み込んだ。水は冷たかった。ポリ容器の蓋を取り、引き波に合わせて骨灰を軽く一掴み撒いた。ほんの一瞬、波の上を漂って骨灰はすぐに沈んでいき、巻き上げられた砂と一緒になって沖合いへ運ばれていった。

また引き波を待って一掴み撒いた。永遠という時を刻む時計の振り子のように、渚は暖かやかなリズムで寄せと引きを繰り返し、やがて生きていた父の証のすべてが、海原の彼方へと呑み込まれていった。心の中に奇妙な温かい記憶だけが残った。」

ここに至って、いい物語に出会ったと思いました。

 

 

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