「フリー稼業の数少ない特権のひとつは、世の多くの人が働いている平日に一人旅が出来ること。その自由を失いたくないから、経済的には不安定であっても、フリー稼業を続けているのだとも言える。」

「旅先でビール」(潮出版/900円)の中の、著者川本三郎の言葉です。人付き合いが得意ではなく、パーティーやらゴルフも敬遠して、その代わりに「ひとりで街を歩く。日本の田舎町を歩く。ローカル線に乗る。魚師町の居酒屋で飲む。温泉につかる。」と文章を続けています。

著者は、映画評論・文芸評論・海外文学の翻訳等の一方で、旅歩き・鉄道の駅探索・居酒屋回り等のエッセイを送り出しています。この本もそんな一冊です。おっさんがぶらりと旅に出て、見知らぬ駅で降りて、ぶらぶら散歩して、駅前の居酒屋でビールを飲んで、ご満悦になるという中身です。「九月のはじめ、海が見たくなって房総に出かけた。」と言った具合で旅が始まりますが、大抵は日帰り、あるいは一泊の旅です。そして、大衆食堂に入ってビールです。

「駅前に一軒、昔ながらの大衆食堂があった。ラーメンからカツ丼までなんでもある。近年、こういう店が少なくなった。貴重。隣で女学生たちがラーメンを食べているのを見ながらカツ丼のカツを肴にビールを飲む。しみじみしてくる。 旅をしていていいなあと思うのは、名所旧跡を訪れるより、こんな駅前食堂でビールを飲む時だ。」

300数十ページの本の大半がこんな風なのですが、読んでいるうちにとても幸せな気分になってくるのです。何気ない風景を見て、フツーの店でフツーの食事をするという特別な何かを求めない旅。ハイグレードなホテルや豪華絢爛なディナーなどどこにも登場しません。ひとり静かに、そこにあるものを食べ、そこに生きる人たちの暮らしを見つめることこそ、旅の本質なのかもしれません。

青函トンネルをくぐって、函館に夜遅く着いた時、「日曜日のこの時間だから閉まっている店が多い。横丁に一軒、居酒屋が開いていた。客は私ひとりだったが、おかみさんが愛想よく迎えてくれる。ビールの肴にもらったホッケがおいしかった」

あたたかな情景が目に浮かんできます。旅情報や、グルメ情報が溢れているこの時代に、あえてこんな旅をする。幸せって、こんな些細なことだよねと伝えてくれる旅のエッセイ集です。