なんとも、恐ろしい台詞ですが、これ門井慶喜の「定価のない本」(東京創元社/古書1300円)に登場する主人公で、神田で古書に携わる琴岡の言葉です。

「芳松が、死んだ。という知らせを琴岡庄治が聞いたのは、昭和二十一年(1946)八月十五日、あの敗戦を告げる玉音放送のちょうど一年後のことだった。」

で、物語の幕は開きます。倉庫に積んであった本が崩れ落ちて、芳松は圧死したらしいのですが、どうも腑に落ちないという感じがした主人公が謎を解いてゆくと、そこにはGHQの謀略があったという推理小説です。でも、謎解きよりも、終戦から戦後にかけての神田古書街の描写と、歴史が面白い小説です。

神田古書街が、これほど大きくなったのは、実は「関東大震災」だったことは、案外知られていない事実です。震災で新刊書店も古書店も燃えてしまったのですが、行動力のあった古書店主たちは、汽車に飛び乗り、「震災をまぬがれた浜松へ、名古屋へ、仙台へ散った。そうして新刊本をどんどん買って東京へおくり、それを古本として売りだした。」

高値を付けられ、飛ぶように売れたのが神田古本街の発展の第一歩だったのです。こんな街で古本屋修行をしてきた琴岡は、独り立ちします。しかし実店舗を持たず、古書籍オンリー、目録のみの商売を始めます。

「古書籍はふつうの本ではない。明治維新以前の本であり、和本である。維新後に刊行されたいわゆる『古書』よりもはるかに仕入れが困難で、はるかに手元の資金がいる」

そういう本を商いにしている彼のお得意客に、徳富蘇峰がいて、キーパーソンとして登場してきます。さらに後半、GHQとの戦いで、妻子に危険が及びそうになり、田舎に逃す時に用心棒がわりになってくれるのが太宰治です。もう、こんな人物たちが出てくるだけで、日本文学好きなら読んでみたくなります。多くの希少本も登場します。また、当時からあった百貨店での市会の様子も詳しく描かれていて、古書業界の昔を知ることができます。

GHQの画策する「ダスト・クリーナー計画」に挑戦する古書店主たちの矜恃と、彼ららしい戦い方も見逃せません。

琴岡の「本を売る者に、悪者はいない」に、私たちも同じ思いです。