村上春樹の短編集「一人称単数」(文藝春秋/古書1100円)は、全8編の短編が収録されています。もともと、私は春樹は短編作家だという思いが強くありましたが、熟練度、洗練度がますます上がって、名人の高座を堪能した素敵な気分になりました。

「品川猿の告白」は、とある鄙びた温泉宿に投宿した主人公の「僕」が、温泉に入ってきた日本語を話す猿に遭遇する物語です。

「猿がガラス戸をがらがら横に開けて風呂場に入ってきたのは、僕が三度目に湯に使っている時だった。その猿は低い声で『失礼します』と言って入ってきた。」

奇妙で不思議な物語が展開します。

「『お湯の具合はいかがでしょうか?』と猿は僕に尋ねた。『とても良いよ、ありがとう』と僕は言った。

その後、僕は猿に背中を流してもらい、さらに部屋でビールを酌み交わします。

「名前というほどのものは持ち合わせませんが、みなさんには品川猿と呼ばれております」

僕は、部屋で品川猿の身の上話を聞くことになるのですが、このあたり物語の進行に無駄がなく、二人の様子がくっきりと想像できる筆さばきです。

「私はいつの間にか、人間の女性にしか恋情を抱けない体質になってしまっていたのです」と告発する品川猿。少し危ない展開になるかと思えば、オチとしては、お見事!上手い!エンディング。粋で、ちょっとセンチなラストです。

音楽に造詣が深い春樹らしい作品も何篇か収められています。名アルト奏者チャーリー・パーカーと、ありえないレコードをめぐる不思議なお話「チャーリー・パーカープレイズ・ボサノブァ」。

ビートルズの「ウイズ・ザ・ビートルズ」というレコードを巧みにイントロダクションで展開した「ウイズ・ザ・ビートルズ」。シューマンの「謝肉祭」を演奏したコンサート会場での男と女の奇妙な巡り合いを描いた「謝肉祭」。

そして、自身がファンのヤクルトスワローズをテーマにした「ヤクルト・スワローズ詩集」。ここでは、大好きだったプロ野球のことを語りながら、若い日の野球観戦と、彼が創作したヤクルト・スワローズを主題にした詩が何編か紹介されます。

「住んでいる場所から最短距離にある球場でサンケイ・アトムズを応援することに決めた。住んでいる場所から最短距離にある球場で、そのホームチームを応援するーそれが僕にとっての野球観戦の、どこまでも正しいあり方だった。」

(サンケイ・アトムズは、ヤクルトスワローズの前の球団名です)

関西にいた時は阪神タイガースを応援し、東京に出てスワローズ本拠地の神宮球場近くに住んだことで、この球団を応援するという真っ当な選択。

本書のタイトルになった「一人称単数」は最後に収録されています。これは、他の作品と違う世界が展開します。歪み出した自分の心象風景に絡みとられてゆく主人公のラストは、ゾッとするものがありますが、これも春樹の世界なのですね。