中央公論新社から出ている梅崎春生「ボロ家の春秋」(中公文庫/古書700円)を読みました。私にとって梅崎は熱心に読みたくなるような小説家ではありませんでした。

1915年福岡に生まれ、敗戦の年に、初期の傑作とされている「桜島」を発表しました。梅崎を読んだのは、この本一冊だけでした。あまり心に残らなかったので、その後、もうこの作家は読むことはないだろうと勝手に思っていました。

で、この文庫を手に取ったのは、同じ九州出身の作家野呂邦暢が「私は梅崎春生の作品が好きだ」とエッセイに書いていることと、書評家の萩原魚雷の解説を読んだことによります。

萩原は「梅崎春生は初期と中期以降では作風が大きく変わっている。野球の投手が力で相手をねじ伏せる本格派からのらりくらりと打者をかわす軟投派に転じる感じとやや似ている。おそらく1950年代前半がその過度期だろう。」と解説していました。

本書には50年代期の短編が四作品収録されています。タイトルになっている「ボロ家の春秋」は55年発表で第32回直木賞を受賞しました。これ、別にユーモア小説ではないんですが笑えます。ひょんな事からボロ家をシェアすることになった二人の男の諍いをシニカルに描いていきます。

そして、面白いというか変な感覚に満ちているのいるのが、「猫と蟻と犬」です。1954年3月に起こった「第五福竜丸事件」。アメリカ軍がビキニ環礁で行った水爆実験で、近くを航行していた漁船第五福竜丸が放射能を浴びた事件は、大きく報道されました。その当時の社会状況を踏まえて、小説は「どうも近頃身体がだるい。なんとなくだるい。」という主人公のセリフで始まります。

主人公の友人が、風邪をひいたんじゃなくて「ビキニの灰ですよ。ビキニの灰が雨に含まれて、それがあんたの身体にしみこんだんですよ」と詰め寄ります。じゃあ、放射能をめぐる社会派の物語に進むかといえば、どんどんと横道に逸れていって読者は煙に巻かれて、はいおしまい、という具合なのです。

梅崎は純文学とエンタメ小説の境界を行ったり来たりしながら、独特の覚めた視線で人の世を見つめていた作家だったんです。

以前に読んだ時には印象が良くなかった作家の本を、再読したら印象が良くなる経験って読書の面白さですね。

 

1975年生まれのアサノタカオさんは、2000年にブラジルに渡り、日系移民の人類学的調査に従事し、その後日本に戻り、東京の出版社で編集者として出版に携わる一方で、神奈川県にサウダージ・ブックスを立ち上げ、2020年随筆集「読むことの風」(1980円)を発行しました。

「読むことの風」はアサノさんが各種の雑誌に寄稿したエッセイやコラムをまとめたものです。自分を見つめ直すための言葉がいっぱい詰まった本だと思います。京都でのある出来事を綴った詩を見つけました。

「京都の善行堂で  詩の本を買ってバスに乗る  座席にすわり  かばんから本をとりだし ページをひらいたとたん たまらない気持ちになって 本をとじて かばんにしまう そして、かばんから本をとりだし ページをひらいたとたん  また、たまらない気持ちになって 本をとじて カバンにしまう そんなことをくりかえし 次の停留所を告げる 車内アナウンスを聞きながら この時間から降りるべきだろうかと 自問する」(2011/7.1京都)

「たまらない気持ち」という言葉が妙に心に引っかかってきます。

この本に挿画を描いているのが、絵本や様々なデザインワークで活躍するnakabanさんです。東京にある書店「title」の店主辻山義雄さんが出した「ことばの生まれる景色」(ナナロク社/古書1850円)で挿画を担当されました。出版社と辻山さんのおかげで、その時に、nakabanさんの挿画展を当店で開催できました。今回は大好きなnakabanさんの2回目の作品展になりました。

旅先で、あるいは本を読んだとき、アサノさんは言葉を紡いでいきます。nakabanさんが描く水の入ったコップの絵は、音楽のようにアサノさんの言葉に寄り添っているみたいにみえます。透明なグラスの中の透明な液体が、周りの色を吸い込むように取り込んで、自ら静かに発光しているよう。本では白黒の挿絵でしたが、原画は美しい色合いで存在感があります。本当にステキな展覧会になりました。この場をお借りしてアサノさんとnakabanさんに心より御礼申し上げます。

本を読んでいない方も、ぜひお越しください。じっと見ていると、コップがこちらに語りかけてくるようにも、また自分の気持ちを覗き込むような感じにもなります。(作品は、4点を除き非売品です)

なお「読むことの風」には、「夏葉社」の島田潤一郎さんとの対談「ことばは個人的なちいさい声を守るもの」という小冊子が付いています。お二人の言葉に対する思いが伝わってきます。(店長&女房)

⭐️アサノタカオ随筆集「読むことの風」刊行記念nakaban原画展は、9月22日(水)〜10月3日(日)13:00〜19:00 月火定休日

 

写真家奥山淳志は、以前「庭とエスキース」(みすず書房 /売切)をブログで紹介しました。北海道の山奥に住む老庭師を何年にもわたり取材し、その暮らしを明晰な文章で紹介した本でした。

奥山の新刊「動物たちの家」(みすず書房/新刊3080円)は、幼少の頃から犬や、鳥などの動物と暮らしてきた彼の動物記とでも言うべきものです。300ページ余りの本でしたが、私は一気に読んでしまいました。犬や猫と暮らし、彼らの死に立ち会った人にはぜひ読んでほしいのですが、そうではない人にも読んで欲しい一冊です。

さくらという名の犬が逝ってしまった時のことをこう書いています。

「さくらが最後の体力を使い、息を吐き、少しだけ深く長く息を吸い、そのまま自らの身体に文字通り、息を引き取ったとき、何が起こったのだろうか。心臓がぴたりと止まる瞬間とかろうじてであっても動いている状態のあわいにあるもの。何がこの筋肉からなる臓器を動かし、何が止めるのだろうか。そこにこそ生命の秘密があるのだろうか。この秘密はたとえば魂と呼ばれるもので説明がつくのだろうか。決して大げさなことを言っているわけではない。誰もが大切に持っている胸を満たす感情をここでは魂と呼んでいるつもりだ。だから、魂を語るとき、人間もそれ以外の動物ももはや区別がない。」

著者は多くの動物との出会い別れを通して、動物にとっての、そして人間にとっての生と死について深く思索します。でも、これは哲学書ではなく、あくまでも動物記です。だから、とても読みやすい。哲学的命題のような”生と死”について、彼は動物たちを通して学んでゆくのです。

「確かに犬は犬だ。人間ではない。でも、犬を犬としか見ない感覚で本当に犬のことを理解できるだろうか。たとえば、空から降ってきた雪をただの凍った水分として見るか。あるいは、その雪の中に奇跡にも思える結晶を見つけ出し、この世で最も美しい姿をしていることに気づくことができるかどうか。もし、気づくことができたら、降り積もって白いだけだと思っていた雪が頭に広がる空や渡っていく風との関わりのなかで様々な表情を持って生まれてくることを知るだろう。犬についてもその心の奥を覗き込むことで、僕たちが人間の世界に留まっているだけでは知ることができない美しく愛おしい心の在り処を見つけることができるはずだ。」

何度か辛くて本を閉じそうになったこともありました。それでも読み続けたのは、著者自身も犬たちに救われ、読者も同じように彼らに救われるからです。彼らへの深い想いと愛情、そして優しさが溢れているからこそ、本書は凡庸な癒し系動物記にならなかったのです。

ずっと、心に残る本になるだろうなぁ……..。

 

「カラスの『カ』は喉のおくにひっかかって出てこない。」

吃音があって、学校でうまく話すことができず、辛い毎日を過ごしていた少年。

そんな息子を川に連れて行ったお父さんが、肩を抱き寄せて言います。

「ほら、川の水を見てみろ。あれが、お前の話し方だ。」見ると………川は泡立って波をうち渦を巻いて砕けていました。

ジョーダン・スコット(文)シドニー・スミス(絵)による「ぼくは川のように話す」(偕成社/新刊1760円)は、とても素敵な絵本です。

少年は、川を見つめます。泡だったり、波打ったり、渦を巻いたりしています。「川だってどもっている。 ぼくとおなじように。」そして、彼は大いなる川の流れに支えられ、顔を上げて一歩を踏み出していきます。

流れる川とそこにキラキラと反射する光、堂々と流れる水の音までをあますところなく描いたシドニー・スミスの美しい絵は、少年の心情を映し、最後まで読む者を捉えて離しません。心の中に染み込んでくる絵本です。大人にこそ読んでほしいと思いました。

滑らかに話すことを求められる世界にいる吃音の子供達の怯え、悲しみを、波立ち、渦巻きながら流れてゆく川の力が解き放ってゆく物語でありながら、あらゆる人の人生がいつも流れるように進まないことを暗示しているように思えます。

「朝、目をさますと、まわりは、言葉の音であふれている。ぼくは学校へ行き、みんなのまえにでて、世界でいちばんすきな場所のことを話す。 そう、あの川のことを…….」

少年の自立への第一歩を川は微笑んで見守っているようです。

 

 

 

武田百合子著「富士日記」(文庫で全3巻)を通して読んだことがありません。何度か入荷した際に、パラパラと読んだぐらいです。正直言って、どこが面白いのかよくわかりませんでした。

「十月二十八日(金)終日小雨、曇、夕方になって晴 朝 もやしの味噌汁、ほうとうの残りを油で揚げてみる。かりんとうのようになった。ひじき煮、ごはん。/昼 おじや(卵入り)、ソーセージ。/三時 トースト、トマトスープ/夜 かに卵入りチャーハン、わかめスープ」

そんな記述が延々と続くのです。

しかし、何度もパラパラとめくっているうちに、戦後の小市民の平和な暮らしを執拗に描いてきた小津安二郎映画を観ている気分になってきました。もともと発表する予定のなかった記録ですが、ここには静かに、平和な日々を送っている人たちの姿が溢れているのです。

「富士日記」を出版している版元の中央公論新社が編集した「富士日記を読む』(中央公論新社文庫/古書600円)を読みました。小川洋子、平松洋子、村松友視らの書き下ろしエッセイと、本の解説を担当した作家たちの言葉。そして、様々な媒体に発表された書評や、百合子自身による「その後の『富士日記』」という「あの頃 単行本未収録エッセイ集」に収録された日記、さらに夫であった武田泰淳による「富士山荘をめぐる二篇」まで入ったボリューム満点の文庫です。

小川洋子の「普通、装飾をはぎ取り、物事の本質を見通そうとする時、抽象的なものに集約されがちだ。例えば、友情や人生や無常といった、誤魔化しのきく便利な言葉に。けれど百合子さんはそんな言葉に頼ったりしない。友情よりも、紫色の牛肉の方がずっと魅力的だと、『富士日記』を読めば誰にでもすぐ分かる。」という文章は、ズバリ「富士日記」の魅力を伝えています。

また、平松洋子は「『富士日記』では、歳月とともに食べ物の表情が少しずつ変わってゆく。陰影が深まり、輪郭がくっきりと濃くなってゆく。」と書いています。

昭和39年から51年まで、2年間のブランクを挟みながら描いてきた「富士日記」には、身近な人、愛犬、そして夫の死という具合に、多くの死が記録されています。「無数の食べ物の背後で、うっすら、ちらちらと蠢いているのが別離の予兆や死の影だと気づくとき、あっけからんとした一行『朝ごはん、 大根味噌汁、たらこ、のり、卵』の持ち重りがずん、とくる」と指摘した平松の視線は間違っていないと思います。

写真家ホンマタカシは「だって人生って、死という誰にも平等に訪れる決定的な終わりがあるわけですけど、人はどんなに悲しんでも、結局すぐお腹が減ってゴハンも食べるわけだし、寝て起きて、死んだ人に関係なく仕事したり恋愛するわけですよね。僕はそっちのほうにリアリティを感じちゃうですよね。『富士日記』はまさしくそういうことが書いてあるんですよね。」とその魅力を語っています。

こんなにも多くの作家や、アーティストに愛されている日記。機会を見つけて通読してみたくなりました。

盛岡市在住の作家・俳人のくどうれいんを初めて知ったのは、ミニプレス「てくり26号」(まちの編集室/660円)でした。「文学の杜にて」という特集の案内役でした。この号の表紙になっている書店「BOOKNERD」が自費出版した「私を空腹にしないほうがいい」を経て、2020年九州の出版社書誌侃々房から出たエッセイ「うたうおばけ」(1540円)、左右社から歌集「水中で口笛」(1870円)と続き、読者を獲得していきました。

そして、2021年発行された「氷柱の声」(講談社/新刊1350円)で芥川賞候補になりました。連作短編小説のスタイルで、東日本大震災が起きた時、盛岡の高校生だった伊智花が主人公です。震災から10年の時の流れの中で、彼女がどう変化し、どんな生き方を選んでいったかが描かれています。

「うん。かえせ。わたしの十代をかえせ、って、思っちゃった。なんていうか、震災が起きてからずっと、人生がマイボールじゃないかんじっていうか。ずっといい子ぶってたんじゃないかと思っちゃったんです。福島出身で、震災が起きて、人のために働こうと思って医師を目指す女。美しい努力、なんですよね。たしかに。もともとかしこくていい子だからわたしはそういうのできちゃうし、無理もなかったんですけど。でも、これからずっと美しい努力の女として生きていくなんて、もしかしたらいちばん汚い生き方かもしれないって思って、思ったらもう、無理かも!って。だから退学したの」

これは、伊智花の友達で医学部に通うトーミの台詞です。震災を経験したから、こういう生き方が美談に祭り上げられて、彼女たちに重くのしかかってゆく。

震災直後から、メディアは多くの物語を垂れ流し続けてきました。震災の当事者であってもそうでなくても、何かをしなければという思いにとらわれていき、がんじがらめになってゆく若者たちの青春群像が時に痛ましく、時に切なく描かれていきます。

東京の大企業の就職した釜石出身の青年、松田は、会社を辞めて故郷に帰る決心を上司に伝えた時、こんな言葉を投げつけられます。

「震災でちやほやされてたか知らないけど、折角震災採用なのに辞めたら後悔するぞ。」

この時、彼は震災体験者=かわいそう=助けてあげよう=それが企業の社会貢献、という図式に気づきます。

伊智花自身、震災とどう向き合うのかわからないまま生きてきました。しかし、それぞれに思いを抱えた仲間と出会うことで、自分が納得する生き方を見つけていきます。

「いまはちゃんと人生がマイボールになっているから大丈夫。やれることをやれるようにやるしかない。『今やること』がないなら作るしかない。自分がいちばん納得するようにやるんだよ」と、医学部をさっさと辞めて海外に渡り、再び福島で働くトーミは言います。

曇り空の隙間から青空が見え出してきた時に感じるような気分を、味わうことができました。

 

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「ば〜か、まだ何も始まっちゃいねえんだよ」

という威勢のいい啖呵で、映画「浜の朝日の嘘つきども」は始まります。物語の舞台は、福島県南相馬にある古い映画館「朝日座」です。2011年の大震災からなんとか続けてきたものの、コロナで打撃を受け営業が困難になり、館主(演じるは江戸前落語の柳家喬太郎)は閉館を決心して、映画館の前でフィルムを焼き始めました。そこへ突然飛びこんできてそのフィルムを奪い取り、この映画館は「閉鎖したらだめ!再開する!と宣言した女性がいました。「いや、もうすべてやったきたんだ」とつぶやく看守めがけて、言い放ったのが、冒頭の言葉です。

館主も観客も、素性がよくわからないまま、茉子というその女性のエネルギッシュな行動を追いかけてゆくことになります。タナダユキ監督のセンスの良さが光るのは、ここからです。「ニューシネマパラダイス」みたいな映画愛に満ちたセンチメンタルな映画にシフトせずに、茉子の人生に焦点を合わせるのです。

彼女は高校時代、震災が原因で家族問題で悩み、自殺しそうになったところを教師の田中茉莉子に救われます。この田中という教師、もう男にはだらしなくて、すぐにふられて、そのたびに好きな映画を観て大泣きする女性でした。田中と茉子が出会い、先生と生徒という関係を超えて友情を育て、お互い助け合いながら生き、そして永遠の別れをするまでの女性同士の物語が、映画の主軸へとなってゆくのです。

田中を演じたのは大久保佳代子。面白いTVタレントだと思っていたのですが、見事な演技でこの女教師に陰影を持たせます。主演は彼女と言っても過言ではありません。乳がんを患い、死を眼の前にした田中を見守るとても悲しいシーン。が、その最後の言葉を聞いた途端、皆大笑いさせられます。泣くことと、笑うことが同時に襲ってくるシーンがやけに哀しく愛おしい。

さて映画館は、茉子の奮闘努力で一時的に持ち直しますが、大きな借金のためついに解体の日を迎えます。このまま、解体されるかと思いきや、なんとハッピーエンドなんです!え?嘘!映画みたいやん!

そうなんです。映画って嘘の世界なんです。その2時間あまりの嘘に付き合って、泣き、笑い、驚き、共感する。そして、こんな面白いものがあるんだったら、もうちょっと頑張ろうか、と思わせてくれるのが映画なのです。

「音楽で人は救えない。でも寄り添うことはできる」と言ったのは、坂本龍一だったと思います。「音楽」の部分をそのまま「映画」に変換できると思います。

家族という存在に悩みつづけてきた茉子が、血の繋がりではなく、田中先生と新しい関係を持つことで、一歩踏み出してゆくまでを描いた映画です。主演の茉子を演じた高畑充希もとてもチャーミングでした。

とても、お勧めの作品です。

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2020年10月、日本の誇る作曲家筒美京平が80年の生涯を閉じました。普段音楽を聞かない人でも、この人の曲に接したことのない人はいないと思います。いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」などカラオケで歌った方も多いのでは。シングル総売上7560万枚!前人未到の記録です。その中には「サザエさん」の主題曲も入っています。

筒美とも交流のあった音楽家、近田春夫が迫る「筒美京平大ヒットメーカーの秘密」(文春新書/古書600円)は、この作曲家の大きさを再認識するにはピッタリの一冊です。

本書はエディターの下井草秀が、1966年から2020年までの筒美の活躍を近田と語り合うという構成を取っていて、とても読みやすい。

尾崎紀世彦「また逢う日まで」は、グループ・サウンズ全盛期にいたズーニーブーがリリースした「ひとりの悲しみ」の歌詞(作曲は筒美)を書き直して大ヒットしたなんて知りませんでした。

筒美の快進撃は、昭和四十六年にデヴューした南沙織の「17歳」と、その翌年の郷ひろみ「男の子女の子」からスタートし、やがて、アイドル歌謡曲の王者へと登りつめていきます。

「京平さんの楽曲は、基本的にゼロから生まれるものではなく、何かにインスパイアされるところから始まることが多い。70年代の外国の楽曲には、換骨奪胎して歌謡曲に置き換えたくなるような魅力的な作品がいっぱいあったんだよ。」

と近田が語るように、筒美は多くの外国の曲を学び、取り込んでいきます。そして70年代に勃興してきたニュー・ミュージックやフォークを見ながら、「木綿のハンカチーフ」のような新しい楽曲を作り出します。桑名正博「セクシャルバイオレットNo1」というロック寄りの曲まで作曲しているのです。

本書後半に、興味深い対談が三つ掲載されています。一つ目は筒美の実弟で音楽プロデューサーの渡部忠孝と。次はブルーコメッツの「ブルーシャドウ」やザ・タイガースの「モナリザの微笑み」の作詞家で、「ブルーライト・ヨコハマ」で筒美と組んだ橋本淳。そして、「真夏の出来事」の大ヒットで知られる歌手平山みき。いや〜どれも現場を知る人の対談だけに、とても面白い!あの当時の音楽業界の雰囲気が伝わってきます。

実弟の渡部忠孝との対談で、興味ある話がありました。渡辺家で二人がまだ幼かった頃の話です。

「僕(忠孝)が歌舞伎好きだったのに対して、兄は宝塚が好きでした。歌舞伎に行くのは祖母と一緒で、宝塚に行くのは母と一緒。兄は宝塚となると目を輝かせながら舞台を見つめてましたね。やっぱり、歌舞伎と違って宝塚は西洋の音楽を使ってるからかな。」

こんな本を読んでいると、筒美サウンドをまた聴きたくなってきます!

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生態学者ってどんなお仕事?本書の著者伊勢武史は、こう答えています。

「特定の生きものではなく、多くの生きものにとって普遍性な法則を探すこと、生きものの『機能』に着目し、多くの機能がからみ合って動いている自然界の成り立ちを考えることである。」

何十時間もかけてゆっくりと変化してゆく森林生態系を、研究対象にしている著者の研究は時間のかかるものなのです。「生態学者の目のツケドコロ」(ペレ出版/古書1200円)は、著者が、生態学を学ぶ過程で身につけた知識や経験をもとに、目前で起こっている事象を説明してゆく、人間も含めた生き物と環境の関係を一歩引いたところから見つめるものです。だから、生態学の歴史やら、理論やら教科書的な部分は全くありません。

「そもそも生物に『よい生物』や『わるい生物』なんてないと僕は思う。人間がある目的のために自然を利用してやろうと考えるときに、その人にとって『役立つ生物』『役立たない生物』はいるかもしれないけど、根本的に生物の存在そのものに善悪なんてない。いま日本で猛威を振るっている外来生物にもふるさとがあり、そのふるさとで生活するぶんには誰からも批判されたりしない。ところが人間がその植物を日本に持ち込んでしまったため、『悪者』として駆除の対象になってしまったのである。」

こんな風に著者は、「人と自然の関係って何だろう」という哲学的ともいえる命題に向かっていきます。「レジ袋有料化は環境にいいの?」「コロナウイルスとの向き合い方」「里山ってなに?」という科学者らしい話題の一方で、「琳派の描く植物」やら「京都のおもしろさ」といったトピックスもあります。肩の凝らない、それでいてしっかりした考えが身につく本です。

「生物学者である僕は、倫理的に何が正しいか言う立場にはない。言いたいのはただ、環境が人を変えるということ。環境に合った思考と行動ができる者たちが繁栄する。そして人間も、生物としてそのような柔軟性を持っているのだと思う。」

生態学的な視点を持つメリットを教えてくれます。

 

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インドネシアにある小さな村、ラマレラ村。ガスも水道もない。さらに、火山灰に覆われた山が迫っているこの村では、作物が全く育たない。1500人もの村人の生活を支えているのは、鯨漁。年間10頭の鯨の収穫があれば、村人全員が1年間、暮らしていけるのです。

その鯨漁は、手作りの木製の船に乗り込み、先頭に立ったモリ打ちが、巨大な鯨に向かって、ダイブしてモリを射つという古代からの漁法です。

この村の、鯨との付き合いと暮らしを3年間にわたって撮影して、ドキュメンタリー映画「くじらびと」にしたのが写真家の石川梵です。写真集「 THE DAYS AFTER東日本大震災の記憶」(飛鳥新社/古書1900円)、太古の記憶を求めて地球をめぐるノンフィクション「時の海、人の大地」(魁星出版/古書1100円)、そして映画の原作とも言える「鯨人」(集英社新書/古書600円)など、店には彼の本を置いています。私の尊敬する作家です。

おぉ〜こんな映像初めて観た、と感動したのは空撮で捉えた鯨漁。真っ青な海、その大きさに比べればちっぽけな船が、船よりも数倍大きな鯨に近づいて行く。壮大な自然の中で繰り広げられる死闘。ラマレラ村では。食べる糧を取るということは命を賭けることなのだ、という真実が胸に迫ってきます。

映画の中で、この海域で獲れるマンタ漁の最中に、マンタにかかった網に絡まれて深海に引きずりこまれて命をなくした若い村人の物語が出てきます。悲しみにくれる家族は、それでも新しい船を作り海に出てゆく。鯨とともに生きるしか道がない事実を村人は知っています。鯨はモリを撃ち込まれても、何度も何度も抵抗し、船に体当たりを敢行します。そして、海面はその血で真っ赤になっていきます。

残酷とか、かわいそうとかは全く思いませんでした。それどころか、モリ打ちが海面に飛び込む瞬間には、興奮しました。人間にはどこかに狩猟民の血が残っているのでしょうか?

個人的には捕鯨には反対です。しかし、この村では、鯨漁は命と命のやり取りなのです。

「自分たちは食うために必死に鯨と戦う。鯨も生きるために必死に抵抗する。どちらが勝つかは神様が決めることだ。」

とは、石川梵著「鯨人」に登場するモリ打ちの言葉です。

野蛮でも残忍でもなく、神聖ですらある鯨漁の姿を通して、「鯨人」の中で著者はこう結びます。

「生き物と生き物との間で交わされる命のやりとりの崇高さに、私は痺れるほど心動かされた。その高みの前には、今、話題になっている鯨の保護か捕鯨とかいうような時事的な問題はむしろ些少に思えた。全ての生き物は生きるために他者の命を奪う。それは殺戮ではなく、命の循環であり、尊い生の営みなのだ。」

映画のラストは、穏やかな海に、ソプラノ歌手森麻季の「アベ・マリア」が流れます。まるで、大海を泳ぐ鯨が歌っているようでした。

 

⭐️本の紹介をZOOMにてさせたいただく「フライデーブックナイト」。次回は9月17日(金)です。

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