ミシマ社から、「絶対に死ぬ私たちがこれだけは知っておきたい健康の話」(若林理沙著/1728円)という長いタイトルの本が出ました。京都は40度近い猛暑の日々、外へ出るだけで危険な暑さです。こんな時こそお薦めの、ココロとカラダを考える一冊です。

本の中に「ミシマ社通信」という小冊子が付いています。そこに、著者が、夏バテは冬と春から始まっているという東洋医学の考え方を述べています。即ち、「すでにバテ気味だという人、冬の間に夜更かしをたっぷりしたり、冷たいもの・ナマモノをよく食べる生活をしていませんでしたか?これらは夏の暑さに対抗するために必要な体のラジエーションシステム(陰気)を弱める行為とされています」ということです。

著者は、死ぬまでの間それなりに楽しめる、ココロとカラダの「いい塩梅」の状態を目指すことが健康であり、最終目標は、ああ、楽しかったと息を引き取ることだと考えています。そのために、何をどうしてゆくのか。自分の健康法の棚卸しに始まり、「寝る・食う・動く」の時間を決める、「寝る・食う・動く」の質を高める、風邪は引き始めに東洋医学で治す、生活そのものが養生になるという順番でステップアップしていきます。

成る程と思ったのは、「ハレ」をちょこちょこ消費する不健康という見方ですね。たまにしかない「ハレの日」は、豪華で楽しい一時です。それに比べて、ごく普通に続く、そして日常生活の多くを占める「ケの日」は地味な日です。ところが、ネット時代の到来と共に、膨大な量の情報が流れ込み、これも楽しい、あれは美味しい、こっちはお買い得と、本来なら「ハレの日」の情報が、日々の生活を侵します。増加する情報や刺激の量が、ハレの感覚を麻痺させてしまい、現代人は祝祭が毎日ないと我慢できなくなりつつあるようです。結果、ちょこちょこ「ハレの日」を消費してしまい、「ハレの日」へのハードルが上がってしまい、感動が目減りして、徒に多くのものを消費してしまいがちです。

「生きている間の限られた時間を最大限に楽しむためには、ハレとケをある程度分離させた、メリハリが必要なのです」という著者の考えには頷きます。BS放送の民放チャンネルを回していると、健康食品からファッション、美容に至るまで「ハレの日」の情報の垂れ流しに遭遇します。このスィッチをオフにすることから、健康は始まるのかもしれません。

ミシマ社からは、矢野龍彦&長谷川智「ナンバ式元気生活」(1620円)、大塚邦明「病気にならないための時間医学」(2376円)、そしてブログでも紹介した小田島隆「上を向いてアルコール」(1620円)など面白い健康関連の本が出ています。

★レティシア書房恒例「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催です。

 

1973年、全世界で9000万人の目をくぎ付けにしたテニスの試合がありました。(日本でもダイジェスト放送があったみたいです)女子テニスの世界チャンピオンのビリー・ジーン・キングと、元男子チャンピオンのボビー・リッグスが対戦する試合です。なんで女子と男子が試合を?

70年代、あらゆる場面での男女平等を求める運動が全米で起こっていました。プロテニスの世界でも女子の優勝賞金が男子の1/8でした。不平等に抗議して、ビリー・ジーンは、仲間と共に“女子テニス協会”を立ち上げ、自分たちでスポンサーを探し出して、女子テニス界の待遇改善を図ろうとします。

一方、いかにも紳士然した業界の大御所たちは、あくまで男性優位を譲りません。そんな対決の姿勢に金儲けを企んだのが、元世界チャンピオンのボビー・リッグスでした。俗物のボビーの挑戦にビリー・ジーンは、当初は無視するのですが、一方的な男性優位主義を押し付けてくる男たちに、もうそういう時代ではないのだということを知らしめるためにも、彼女はこの挑戦を受けます。

彼女には、優しい夫がいましたが、実はレズビアンでした。当時は、今では考えられないほど同性愛に対するバッシングが凄まじかったのです。この試合は、単に男女の力の差をみせるゲームを超えて、政治や社会、学校や家庭における女と男の関係までも変えてゆく様相を呈していきます。そのプロセスを描いたのが「バトル・オブ・セクシーズ」です。

ビリー・ジーン役には、大ヒット作『ラ・ラ・ランド』で見事オスカーに輝いたエマ・ストーン。実際のビリー・ジーン・キングのように、前をしっかり見据えた優しく強い女性を好演しています。ボビー・リッグスには、『フォックスキャッチャー』でオスカーにノミネートされたスティーブ・カレル。俗物度満点の“全女性の敵”を、いやらしく、時には哀愁を漂わせて可愛く、たっぷり演じきります。

心に残ったのは、ビリーの試合のユニフォームをデザインするテッドという男性です。彼もまた同性愛者で、おそらく仕事の場面などでも、差別や迫害を受けているはずです。そんなことは少しも顔に出さず、彼女を見守り、ラスト、世紀の試合を終えた彼女を祝福し、これからは自分らしく正直に生きることができる時代が、きっとやってくるよと微笑みます。男も女もありのままに生きてゆくことができる未来が来ることを、暗示させるエンディングでした。演じたのはアラン・カミング。ゲイカップルが、育児放棄された少年を育てる「チョコレートドーナッツ」で、ゲイのミュージシャンを演じていました。優しさと深い人間性が、ひとつひとつの表情に滲み出ていて、素敵でした。

 

★レティシア書房恒例「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催です。

 

 

レティシア書房では2回目の、ハセガワアキコさんの銅版画展。前回2015年、本好きの作家の深く緊張感のある版画の世界へ誘われました。今回は、また違った魅力的な展覧会になっています。

今回のテーマは「Blue」です。最近の作品の中から、果てしない宇宙の、海の底の、空の、草木のイメージをはらんだ青い色を使った版画を選んで展示しました。物語が先にあって、形を決め、追求していくというのではなく、なんというか、自由で伸びやかなデザイン。作品を創って行く過程で、素材が語りかけるものを受け入れ、楽しんでやりとりして間口を広げて行く、柔らかな感じがします。

「風」「夏銀河(写真左)」「蒼(写真下)」「海底」「天高く」「月に吠える」など、自然に身を委ねるような、緩やかな動きのある作品が並んでいます。それぞれに使われている青色が涼やかで印象的ですが、その中にも作家の持つ文学性は流れていて、何処かで出会った懐かしい風景のようにも、これから見る夢のようにも見えます。

入り口すぐの所に飾られた、「交差するモノ」(写真上)は、ドライポイントのあたたかなタッチで、おおらかな作品。「狭き窓へ」は、レイチェル・カーソンを読んでいるときにイメージが湧いた作品で、小さな窓から見る湖や林のような景色は、何を意味しているのでしょうか。銅版画の方法は多様だそうですが、どの作品も、長い時間をかけて培った技術に支えられた表現が効果的で、見ていて心地よさを感じました。

 

そして、ハセガワさんの作る小物はいつも素敵なのですが、今回も、栞(500円)、キーケース(600円)、折り紙札入れ(900円、)紙挟み(1000円)、ペンダント(1500円)、蔵書票(2000円)など個性的なものが揃っています。 手に取ってご覧ください。

暑い最中ですが、素敵な版画の世界を覗きにお運び頂ければ幸いです。(女房)

尚、ハセガワさんが所属する「京都銅版画協会ミニアチュール展」が、ギャラリーヒルゲートで開催中です。7月22日まで。

ハセガワアキコ版画展は7月18日(水)〜29日(日) 

 12時〜20時 最終日は18時まで 月曜定休日

 

 

 

 

 

1959年1月から、その年の年末まで、須賀敦子が詩を書いていたそうです。もしかしたら、それ以外にも詩作に没頭していた時期があったのかもわかりませんが、今回、59年に書かれたものが発見されました。それをまとめたのが「須賀敦子詩集 主よ一羽の鳩のために」(河出書房/古書1550円)です。

今まで発表されなかったのは何故か。解説で池澤夏樹が「創作者はみな己の内に批評家を抱えている。時にはその批評家がとても厳格で、これは発表に価しないと言うこともあり、これ以上は書き続けるに及ばないとさえ言うことがある。」だから、これまで発表されなかったのかもしれません。

気取りのないスタイルで綴られた作品は、すっと心に入ってきます。

「あさが 私を たたきおこした 目をこする私を しかりつけて つよく 私に ほほずりした。湧き水に 手足を洗ひ すこし ぬれた わらぞうりを ひたひたとはき さあ したくはできた 六月の 草のあさの中へ 出かけよう。」

59年6月に書かれた「あさが」という詩は、爽やかな朝の匂いに満ちています。ところで、詩集のタイトルに「主よ」という言葉が入っています。須賀はカソリックに入信しています。この作品集の背後にはキリスト教があり、はっきりと主に向かって語りかけているものもあります。

池澤は、やはり解説で「信仰ある人々は常に内心で主に話しかけているのではないかと想像している。祈ることは勝手な欲望を訴えることではなく、まずもって語りかけること、答えを期待しないままに思いをつたえること、それによって結果的に自分を律することではないだろうか。」と書いています。須賀の詩にあるストイックな部分は、信仰の力によるものなのです。イタリア語で「クリスマス・イヴ」を意味する「Vigilia di Nastale」という作品では「主よ もう何日も あなたの大きな手を肩にかんじながらも わたくしは ことばのないままに ただ町をあるきまわったのです。」と主へ語りかけています。

私の様な信仰心のない者でも、須賀の言葉は深く心に染み込んできました。

須賀の詩集と一緒に、彼女の代表作「ミラノ霧の風景」、「コルシア書店の仲間たち」、「ヴェネツィアの宿」、「トリエステの坂道」から、異国で出会った彼女の大切な友人のこと、イタリアで知り合い結婚した夫ペッピーノと家族のこと、そして須賀の父と母への思い出を描いた作品を中心に17作を選んだ「須賀敦子エッセンス1 仲間たち、そして家族」(河出書房/古書1600円)も入荷しました。須賀敦子の本を読むのに、何から手をつけようかとお考えの方は、こちらのアンソロジーはいかがですか。

 

誠に勝手ながら、7月16日(月)17日(火)連休いたします。

 

山田宏一と言えば、フランス映画を中心にしたヨーロッパ映画の批評で著名な評論家です。著書も多く、当店にある「山田宏一のフランス映画誌」(ワイズ出版/古書1800円)は、600ページにも及ぶ、監督別のフランス映画紹介の傑作です。

そんな山田が「NOUVELLE VAGUE/ヌーヴェル・ヴァーグ」(平凡社/古書2100円)という写真集を2013年に出していました。なかなか面白い写真集です。

「私はもちろんプロの写真家ではなく、ましてやアマチュアの写真家ですらありません。1960年代、フランス滞在中にヌーヴェル・ヴァーグの映画人と知り合い、活気にみちた映画的環境に誘われ魅せられて、初めて写真を撮ったのです」と序文で書いていますが、ジャン・ルック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ジャック・ドゥミーら、新しい感覚の映画人たちが製作する、現場の熱い雰囲気が伝わってきます。山田がプロのカメラマンではなく、熱心な映画青年だったために、あ、これ映画的!というセンスでシャッターを押しています。ゴダール映画に出ていたアンナ・カリーナを控え目に撮った写真には、山田の彼女への愛情が感じられます。

おお〜、これは!!と感激したのが、ドゥミーが「ロシュフォールの恋人たち」を製作している現場の写真の数々です。出番のなかった主演のフランソワーズ・ドルレアック&カトリーヌ・ドヌーブ姉妹が、普段着で撮影現場に来ているところ(写真右)なんてレアです。普段着でもやっぱり美人姉妹です。当時24歳だったフランソワーズ・ドルレアックが現場に現れた写真(写真左)は、若いのに大人の風格を漂わせた彼女を見事に掴まえています。残念ながら、その1年後事故で亡くなってしまうのですが……..。

その次に登場するのは、「トリュフォーの思春期」の現場です。子供が大好きだった監督のトリュフォーが素人の子供たちを大勢使って、ほぼ即興で取り上げた映画です。子供たちに囲まれたトリュフォーの幸せそうな表情が素敵です。映画の撮影現場にはとても見えないくらい、生き生きとした表情の子供のキラキラした一瞬を捉えていて、素人カメラマンとは言えない出来映えですね。フランス映画ファンには見逃せない写真集です。

 

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催

★★ネイチャーガイド安藤誠氏の「安藤塾」は10月27日(土)に決まりました。参加ご希望の方は電話、メールにてご連  絡下さい

 

 

『「ユタカ」とは金を持っていることを言うのではない。「考え方がユタカ」なこと」

だと言い切るのは、高知で活躍するデザイナー、梅原真です。生まれた故郷に拠点をおいて、「一次産業×デザイン=風景」という独自の方程式のもとで、様々な作品を世に送り出しています。例えば、かつおを藁で焼く「一本釣り・藁焼きたたき」、荒れ果てた栗の山から「しまんと地栗」等々。「土地の力を引き出すデザイン」で2016年度毎日デザイン賞・特別賞を受賞しました。

ユニークな活動を続ける梅原真の考えている事、やろうとしている事を、彼がデザインした作品と共に紹介したのが、「おいしいデ」(羽鳥出版/新刊3024円)です。

「今までは、『農薬使わずにできるわけない』という固定観念があった。大量生産、大量収穫を教えられ、疑わなかった。」荒れ放題になった四万十流域の栗山。中国産の安い栗が市場を席巻し、誰も栗を作らなくなり、荒れていきました。そこで、原田は、化学肥料と農薬を使わずに栗を作ることに挑戦し、少づつケミカルフリーの栗農家が増えていきます。

2016年、首都圏のデパートから、フードコレクションへの依頼が飛び込みます。ケミカルフリーの価値を「地」という文字に象徴させるために、「しまんと栗」から「しまんと地栗」にデザインをリニューアルし、さらに◯印の中に、「地」の文字を入れこみます。結果、高級感を助長するような浮ついた感じがなく、生産者の誠実さ、商品の安心感が消費者へ伝わっていきます。原田は「その商品が『誠実に見えているか」というのは大きなポイントであり、誠実さというのはおいしさとイコールに近い。」と語っています。大量生産ラインから生み出される商品には、見つけられない誠実さです。

「昔は暮らしのために経済があった時代で、ちゃぶ台が暮らしの中心にあった。ところがいまは先に経済があるから、未来を語るのではなく経済を語っている。日本の姿を誰も語らないじゃないですか」

本当に価値あるものを探し、支援し、デザインの力で世間に広げてゆく。効率最優先のフード業界に挑戦してゆく原田を、糸井重里は「梅原真というおっさんは、なんでもやりよるデ」と帯に書いています。どことなく、関西の馬力あるおっさんの仕事ぶりを読んでいる気分になってきました。お薦めです。

 

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催

★★ネイチャーガイド安藤誠氏の「安藤塾」は10月27日(土)に決まりました。参加ご希望の方は電話、メールにてご連  絡下さい

 

夏休みに子供に読ませたい本とか、よくありますね。というわけで大人にも読んで頂きたい絵本2冊のご紹介です。

みやこしあきこの「たいふうがくる」(BL出版/古書1200円)は、モノクロで描き込まれた、ある夏の日の物語です。

金曜日。明日は家族で海水浴に行くことを楽しみにしていた少年は、学校に行くと、先生から台風が来るからというので、下校の指示を出されます。家に帰ると、お父さんもお母さんも台風の準備に追われています。そしてやってくる台風。激しい雨と風。

絵本作家の杉田豊は「普通の絵本の構成では比較的読者に対する説明要素も含めて、少し高い視線で見た場面を描くことが多い。勿論四方にひろがる景色などパノラマ的に俯瞰した鳥瞰図のアングルなどもよく見られるが、『たいふうがくる』ではアングルが机の高さ位から床に近いローアングル、夢の中の船は逆に仰ぎ見るような、動き回るカメラ目線を駆使した変化を見せている。」と評価しています。

少年が、ベッドに飛び込むシーンのアングルは、床すれすれの地点から見上げています。動きのある画面構成で、台風の通過する不安な夜を過ごす少年の姿が描かれます。そして、台風が去った翌朝、カーテンを開いた少年の目の前に飛び込んでくるのが、眩しい青空です。いかにも、嵐の過ぎ去った日、カーテンを開けた途端に、目に飛び込む眩しさ。この空の色だけ、モノクロ画面の中で、清々しい青色がとても効果的に使われています。

もう一冊は、谷川俊太郎作、長野重一写真による「よるのびょういん」(福音館書店/古書950円)です。これは、深夜、お腹の痛みを訴えた少年が、救急車に乗せられて病院へと向い、緊急手術を受ける様を、谷川の文章と、長野の写真で追いかけた絵本なのですが、映画を見ているような迫力です。

おそらく、写真の少年とその両親は、役者です。執刀する先生や、看護婦、救急隊員、そして夜の病院で働く人々は、本物ではないでしょうか。これらのアンサンブルが見事に決まっていて、この絵本の構成通りにカメラを廻せば映画になります。写真を撮った長野は、市川崑の「東京オリンピック」に参加しています。極めて映画的です。それにかぶさってくる谷川の言葉も、写真を説明するのではなく、緊張感溢れる物語にしています。

「よるの びょういんは しずかだ。けれど そこには ねむらずに はたらくひとたちがいる。びょうしつを みまわる かんごふさん、ちかの ぼいらーしつで よどおし おきている ぼいらーまん」という谷川の文章に添えられた二枚の写真は、特に素晴らしいです。

 

★本日誠に勝手ながら、17時30分にて閉店させていただきます。

 

ただ今ギャラリーで開催中「災害で消えた小さな命」(複製画)展の主宰者うささんが、代表をつとめる劇団Sol.星の花による「Voice in the Wind その声がきこえますか」が、京都府民ホールアルティ(上京区烏丸一条下る)で上演中。お問い合わせは劇団Sol.星の花京都公演実行委員会まで。7月10日(火)〜12日(木)

 

「この広い世界で、音を見つけたのはいつだったのだろう。この広い世界で音を見つけたのは誰だったのだろう。ぴんと張り伸ばされた弦を指で最初に弾いたのは誰?張り詰めた皮を撥で叩いたのは誰?草の茎に息を吹き込んで、空気を笑わせたのは誰?」

という中沢けいの「誰が見つけたの」という文章の前後に、有元利夫の作品が並んでいます。有元利夫は、1946年生まれ、39歳で亡くなった夭折の画家です。リコーダーを吹く女性を描いた「サラバンド」、紙風船のようなものが飛び交う中で、まるで指揮棒を振り上げたようなスタイルの女性を描いた「音楽の愉しみ」、赤い靴を履いて体操をしているような「夜の歌」など、有元の世界観を代表する作品を楽しめるのが「七つの音」(講談社/古書/絶版2400円)です。

中沢の文章が、そのまま有元の作品の説明になっているわけではありません。有元作品の世界に流れる音の存在が、中沢のフィルターを通して文章に仕上げられた本です。

この本のタイトル「七つの音」について、妻、有元容子は「絵のタイトルにもたくさんつけるほど、本人も音にすごくこだわりがあったから。と中沢の対談で語っています。確かに、「室内楽」「楽典」「音楽」「古曲」等、音楽をイメージさせるようなタイトルがありますが、それぞれの絵が、楽曲そのものを表現しているのではなく、一つ一つの音に込められた大切な何かを語っているように思えます。

私は「ささやかな時間」(写真右)という絵が印象に残りました。リコーダを構えた女性が赤いテーブルクロスの机の前に坐って、どこか遠くを見つめています。音が空中に溢れ出す前の、静かな一時。見ていると心が落ち着きます。

中沢は「「誰が見つけたの」の最後をこう結んでいます

「この広い世界で、魂に響く音を最初に発見したのはいつだったのだろう。それから今日まで、どれくらいの時が過ぎたのだろう。時が過ぎる間に、どれくらいたくさんの音が発見されたり、作られたしたのだろう。」

有元の絵の中から、あなたの魂に響く音を探してみてはいかがですか。

 

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催

ただ今ギャラリーで開催中「災害で消えた小さな命」(複製画)展の主宰者うささんが、代表をつとめる劇団Sol.星の花による「Voice in the Wind その声がきこえますか」が、京都府民ホールアルティ(上京区烏丸一条下る)で上演中。お問い合わせは劇団Sol.星の花京都公演実行委員会まで。7月10日(火)〜12日(木)

 


 

 


Tagged with:
 

1925年生まれのアメリカの作家、フラナリー・オコナーの「フラナリー・オコナー全短篇(上)(下)」(筑摩書房4800円/単行本絶版)が入荷しました。その中のいくつかを読みました。アメリカ南部を舞台とした短編の名手です。日常の生活の隙間に、ふっと現れる暴力、あるいは血なまぐさい殺人が頻繁に登場します。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃんが、脱走犯の3人に拉致されてしまう物語です。家族と一緒に車で旅行中に道に迷ってしまい、そこで、つい最近新聞で読んだ脱獄犯たちに遭遇し、拘束されてしまいます。脱獄犯たちは、、家族を一人、一人森に連れ込み、殺害してきます。ところが、このおばあちゃん、貴方達は悪い人なんかじゃないと最後まで言い続けたのですが、胸に三発の銃弾を受けて死にます。なんとも、奇妙な感覚の小説です。

この小説が思わぬ所で注目されました。映画「スリービルボード」で、警察所長が読んでいるのが「善人はなかなかいない」なのです。未来への展望が殆ど無いような、南部の小さな町に渦まく鬱屈した感情と暴力を描いた映画の、重要なキャラである警察所長の愛読書がフラナリー・オコナーだったのです。それでずっと、絶版だったこの短篇集が、文庫版で再発されたのも、映画との関係があったのでしょうね。

「田舎の善人」は、南部の田舎暮らしの日々を描きながら、後半、おぞましい暴力描写が登場します。聖書を売り歩く善人風の青年が、義足を付けた女性ハルガを誘惑してもて遊び、あげくに、その義足を取り上げ、自分のカバンに放り込みます。

「いろんなめずらしいものを集めているんだ。このやりかたで、女の義眼を手に入れたことがある。」とうそぶいて消えていきます。

登場人物たちの心情にじっくり迫りながら、後半、グロテスクな暴力で引っくり返してしまうオコナーの世界。唐突に読者を予測不可能な展開に持ち込み、困惑させてしまうという点では、「スリービルボード」の世界と似通っています。

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催

ただ今ギャラリーで開催中「災害で消えた小さな命」(複製画)展の主宰者うささんが、代表をつとめる劇団Sol.星の花による「Voice in the Wind その声がきこえますか」が、京都府民ホールアルティ(上京区烏丸一条下る)で上演中。お問い合わせは劇団Sol.星の花京都公演実行委員会まで。7月10日(火)〜12日(木)

 

純粋京都人の鷲田清一と、半京都人の永江朗の二人による「てつがくこじんじゅぎょう(哲学個人授業)」(basillico/古書650円・絶版)は、ワハハ、と笑いながら読める「てつがく」入門書です。こんなに楽しい哲学入門書は、内田樹「寝ながら学べる構造主義」以来です。

カント、マルクス、サルトル、デカルトまで、ズラリ哲学界の大御所が20数名並びます。彼らの、何故かグッと来る<殺し文句>的文章を取り上げて、臨床哲学者とフリーライターの二人が、意見をぶつけます。鷲田のちょうど良い加減の京都弁が、お堅い話をホンワカさせてくます。

各章の初めに、取り上げた哲学者の言葉が登場します。例えば、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなら「私の命題は、私を理解する人がそれを通り、それの上に立ち、それをのり超えていく時に、最後にそれが無意識であると認識することによって……..」と、素人にはさっぱりわからん文章で始まり、「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」という彼の殺し文句を巡って、二人がその解釈を展開するのですが、鷲田の結論はこうです

「この本(注:論理哲学論考)は、事実は語れるといっているかのように見えて、実は自縛していて、自分は語れないというこになる。これって、コム・デ・ギャルソンと同じでしょ。今日も永江さんはギャルソンを着てはるけど」

そう、振られて永江は「え、コム・デ・ギャルソンが『論理哲学論考』ですか」と問い直すと。鷲田はすかさず、こう答えます。

「これ以上やったら、服という概念を超えてしまう。服でなくなってしまう」と。めんどくさいことをとことん追い詰めた、ウィトゲンシュタインの仕事をこんな風に伝えてくれます。

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの所で、鷲田は「哲学者って、一見、倒錯的なところがあって、わからないことが出てくると喜ぶんですよ。」と言います。すると永江は「疑問好きの変態ですか」とまるで上方漫才みたいな掛け合いになりながらも、深淵な世界へと読者を誘いこみます。

哲学は、自分を疑い自分を試し続けることであると、オルテガの哲学を、鷲田はこう表現します。

「自分が知っていると思っていることが、じつはいちばん妖しげなもので、『本当のことは何も知らない』と知っている、ということが知っていることだ」

こんな感じで、頭の柔らかい二人の哲学論議がどんどん続いていきます。ものの見方、考え方へのカンフル剤として、ぜひお読み下さい。

 

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)

店内にて開催(月曜定休日)