地元新聞社の記者で、当店の取材でも開店以来お世話になっている行司千絵さんの新作「服のはなし」(岩波書店/新刊1980円)はとても素敵な一冊です。

「便利すぎた暮らしにいったんブレーキがかかった今だからこそ、服を作ること、着ることをあらためて考えたいと思った。野菜も、服も、人も、土に還っていくものなのだ。」

ファストファッションを見直し、アパレル業界のトレンド第一主義に疑問を感じながら自分で服を縫い続ける行司さんが、様々な人との出会いとともに、服を縫うこと、大切に思うことなどが自伝的に書かれています。

2000年代のはじめのころ、彼女は仕事で行き詰まっていたそうです。状況を打開するために、自分に正直になろうと、見た目も変えてみました。伸ばしていた髪を切り、いかにも「30代丸の内キャリアスタイル」のファッションを捨てた時、「ふと、自分で服をつくろう、と思った。」そして、「手づくり服は自分をリセットするのにちょうどいいはずだ。」と決心し、服を縫い始めます。

そんな折、「畑に綿を植えて、綿花を収穫し、手で紡いだ糸を庭の草木で染め、機で布を織り、ミシンを踏んで、自分のシャツを完成させた」先輩記者の男性が、こんなことを言います。

「服って畑からできるんだよ。すごいと思わない? それを体験したかった」

読んでいて目から鱗が落ちました。そうか、服は畑からか!みんな、そんなこと忘れていますよね。世の中に溢れる大量の服の大洪水の中で、大事なことを見失っているのかもしれません。

「もともと服をつくり過ぎているのです。ひとりひとりに十分な服だけあれば、リサイクルなんてしなくてもいい。根本を変えないと、いつまでたっても服はあふれています」と語る大阪のリサイクル業者の社長の指摘にも、大きく頷きました。

本書には、自分用だけでなく、お母さんのために仕立てた服が何点も登場します。明るい色合いが、とても似合っていて、個性的。いいなぁ、こんな服……。ある日、ホホホ座の山下店長が、素敵なダッフルコートを着ていました。これ、いいなぁと聞いてみると彼女の作品でした。無理かもしれないと思いながら、お願いしたところ縫っていただけました。宝物です。

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最近立ち上がった一人出版社「月とコンパス」の処女出版作品近藤康平の「ここは知らないけれど、知っている場所」(5170円)を入荷しました。

B4変形(240×250mm)60ページ。オリジナル額装版(ドイツ装・表紙型抜き)/4色刷 という装丁の作品集です。著者は、ライブペインティングパフォーマーとして活動を開始、音楽フェスやライブでミュージシャンと共演し、音楽に合わせて作品を作り上げています。

「ただただ、広い場所を描きたい時がある。そこに吹く風。静けさの中に かすかに響く音、空の色 僕は何もしない場所にいつも憧れている。広くて広くて、悲しいくらい美しい世界へ。」眩い青空と氷の白さの中、大氷原に佇む一頭のヘラジカが描かれています。遠くにはオーロラがかすかに見えて、大氷原を旅する姿が描かれています。星野道夫ファンならずとも、この風景、空気感には心動かされます。

「こんな青色の世界は現実にはないのだろうけれど、不思議なことになぜか僕は この場所を知っているような気がする。その懐かしさを確かめるために 僕はなんども青い絵を描く。」

ここから美しいプルシアンブルーを使った絵「Blue World」の章が始まります。最初の章からのヘラジカが旅を続け、青空を舞う鳥たち、青い海を泳ぐペンギンたちへと場面が進んでいきます。

歌手の福原みほさんはこの本の印象を、「近藤さんが描く青やオーロラの世界は、ふっと力が抜けた無重力の瞬間を思い出させる。私たちが持っているはずの、いつしか忘れていた広い想像力を、無限大のその可能性を見せてくれる。」と紹介しています。

部屋に置いて、想像の翼を思い切り広げて、著者の描くオーロラの世界の彼方へと飛び出してみませんか。

なお、本書に付属しているリーフレットを使うと、4つの表紙絵を楽しむことができる仕掛けになっています。

コイケ龍一「アフリカノオト」(河出書房/古書1000円)は、引っ込み思案で、将来何を目的に生きていけばいいか皆目見当がつかず悶々としていた青年が、ある日、太鼓の音に惹かれ、単身アフリカに太鼓を学びにゆく自伝的ノンフィクションです。

太鼓の音に魅力を感じていた時、著者はテレビで東アフリカの音楽家フクウェ・ザウォセさんの番組に出会います。

「世界には、あんなにのびのび音楽をやっている人もいるんだ。その生活のすべてが、のんきで、楽しそうで、自由だった。」

そして、無謀にも一人でアフリカへと旅立つのです。しかし、アフリカへの幻影は儚くも崩れ去ります。アフリカ =マサイ族の勇者というイメージがありますが、彼らとて生活があります。世界中の人々がマサイの生活を見ようと会いにきます。そこに、貨幣経済が忍び込み、マサイの中にお金が入ってきます。著者曰く「自国に帰って、『マサイに会った』と自慢する為だけに会いに来るのだ」というのが現状です。

しかし、少しづつアフリカの風土に人々に順応し、そして自分のことを深く掘り下げていきます。

スワヒリ語で、「カマ・ムング・アキペンダ」という言葉があります。これ、別れ際に発する言葉なのですが、その意味は「もし神様が望んだらまた会おう」ということです。「この、のうてんきな考え方が、彼らをのんびり守っているような気がする」と著者は書いています。日本とは真逆のその生き方の中で、太鼓を習い、貧しい暮らしをする家族と共にご飯を食べ、アフリカとは何かということを考えていきます。

これは自分探し、あるいは、自分磨きの旅とは違い、全く知らない文化と風土の中で、世界を知ってゆく旅なのです。マラリアにかかって死ぬ一歩手前になったり、金を巻き上げられたりと散々な目に会いながらも、太鼓を学び、叩き、旅を続けていきます。これこそ旅だなと思いました。

現在は、帰国して岡山で暮らし、「薪でご飯を炊いたり、お米を作ったり、カリンバを作ったり、畑仕事をしたりしながら演奏活動を続けている」のだそうです。そして、このほんのラストにはこう書かれています

「 ザウォセさんが大事にしてきた『暮らしが音楽を生み出す』という生活を軸に、僕も暮しの中から音楽を奏でていたいと思う。」

 

 

 

 

2年前、「新聞記者」という気骨のある映画を作った藤井直人の新作「ヤクザと家族」を観てきました。

最初に書いておきますと、ヤクザと人権というテーマについては、数年前に東海TVが制作して劇場公開されたドキュメンタリー映画「ヤクザと憲法」に、そして長い間ムショに居て出所してきたら時代が変わっていた男の悲しみという設定なら深作欣二「解散式」には、及ばない甘さを感じました。

しかし、ラスト、身内同然だった男にドスで腹を抉られながら痛みと苦しみに耐える主人公のヤクザを演じた綾野剛のアップには、涙が止まりませんでした。

主人公は、荒れた少年時代を送り、チンピラヤンキーの賢治。ひょんなことから、地元のヤクザの親分が手を差し伸べて、ヤクザ社会における父子の契りを結びます。ここから、彼は親分を父と思い、尊敬し、小さな組織ではありますが、頑張って仕事をこなしていきます。そして恋人もでき、それなりに充実した日々を送ります。しかし、抗争が起こり、先輩格の若頭の身代わりで殺人罪を被り、長い間刑務所暮らしを送ることになります。

十数年後に出所。その長かった時間を、持っていたガラ携帯から、スマホに持ち変えるワンカットで表現するところは見事です。街はすっかり変わり、元の仲間たちは足を洗い、カタギになるように努力しています。そして親分は、末期ガンで明日の命もわからない有様です。さらに暴対法で、ヤクザへの締め付けは厳しくなっています。そんな時代に適応できずに、どちらを向いていいのかわからない賢治。

物語は後半、なんとか自分の人生を取り戻そうと、昔の恋人とよりを戻そうとしたり、正業につこうとしたりしますが、結局、彼が戻ってきたことで彼の周りにいた人間は次々と不幸になっていきます。

「なんで戻ってきたんや」という罵声。そして食い込むドスの痛みの中で、自分の人生で失ったものの大きさに耐えきれず、涙が溢れてきます。

1999年、2005年、2019年。その三つの時代に渡り賢治の生と死を見つめます。

好々爺の親分が時々見せる凄みが光る館ひろし、賢治の恋人役の尾野真知子、必死になって一般人になろうとしていたヤクザの市原隼人、賢治のいきつけの居酒屋の女将の寺島しのぶと、役者たちの演技はどれもシブいです。

 

 

大阪に来た人、岸政彦。大阪から出た人、柴崎友香。この二人が書いたそのものズバリの「大阪」(河出書房新社/古書1300円)は、二人が交互に地元について綴ったエッセイです。ノスタルジックな思い出ではなく、暗く澱んだ思いや、シニカルな記憶を巧みに織り交ぜているところが、このお二人らしい、と思いました。

柴崎友香は「わたしにとっては、大阪を書くことは、自分の生きてきた時間と場所と、関係ある人を書くことに、どうしてもなってしまう。三十二歳になる直前まで大阪に住んでいたが、身近な人以外とは、そんなに話したこともないし、たとえば飲み屋で隣りあわせただけの人と話すなどということも、もしかしたら一度もなかったかもしれない。」

彼女にとって大阪を舞台にした私小説のような趣で、自分が育ったこの街と人を見つめていきます。

岸も同じようなことを書いています。「宇宙でいちばん好きな場所はどこか、と聞かれたら、間違いなく、この淀川の河川敷だと答えるだろう。いままで聞かれたことはないし、これからも聞かれることはないだろうけれども。」と。

面白いことに、二人とも若い時、ひたすら自転車に乗って、大阪の街中や、淀川べりを無意味に走った経験を持っていました。その風景が、いつの間にか自分の心の中に定着し、自分なりの大阪の風景になっているのです。

「大阪環状線は名前の通りに環状でいつまでも乗っていられるから助けてくれた」と柴崎は、今はもう走っていないオレンジ一色の四角い車両を思い出します。彼女は中学時代、学校との折り合いが悪くなり早退を繰り返しました。そして逃げ込んだ先が環状線だったのです。最低賃金の切符を買い、何時間も乗っていたそうです。唯一「誰かに会わず、お金がなくても過ごせる場所だった」のです。

こんな風に大阪で暮らしてきた二人、片や小説家の、片や社会学者の視点で、この大都市の断面を語ってくれます。「大阪が好きだ、というとき、多分私たちは、大阪で暮らした人生が、その時間が好きだと言っているのだろう。それは別に、大坂での私の人生が楽しく幸せだった、という意味ではない。ほんとうは、ここにもどこにも書いてないような辛い事ばかりがあったとしても、私たちはその人生を愛することができる。そして、その人生を過ごした街を。そういうことが、大阪が好き、街が好きということなんだろうと思う。」

鶴橋近くで、自転車に乗ったおっちゃん二人がでかい声で「あっちむいても、こっちむいても、コロナだらけになってしまう。」と言っているのを聞いた柴崎は、

「ああ大阪やなあと思う。このリズム感。あっちむいても、こっちむいても、コロナだらけになってしまう。 ならへんわ、と思わずツッコみたくなる。このリズム感すごい。

あっちむいても、こっちむいても、コロナだらけになってしまう。口に出して言ってみてほしい。」と、その後も次々聞こえてくる大阪弁の会話を楽しむのです。

 

 

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“Lucha Libro”と聞いて、あぁ、あそこか、という本好きの方は沢山おられると思いますが、改めてご紹介いたします。

Lucha Libroは、奈良県の東吉野村にひっそりとオープンした人文系私設図書館です。電車、バスだけでは行けない奥深い自然の地に建つ自宅兼施設は、図書館、パブリックスペース、研究センターを内包しています。青木真兵さんと海青子さんが運営しています。

私がここを知ったのは、朝日新聞にも紹介されていた著書「彼岸の図書館ーぼくたちの『移住』のかたち」(夕書房新刊/2200円)を読んだのがきっかけでした。この本については2019年10月30日のブログで紹介しています。

都会で働いていた二人が、この村に移住するきっかけになったのは東日本大震災でした。日々、メディアから流れる震災と原発報道。

「ぼくたちの周りにあったいびつな状況を露わにする出来事だったと感じています。街での生活がどんどんバーチャルに思えてくるのと並行して、ぼくら夫婦の体調も悪化していきました。」

その状況から脱するために地方移住を考え、そこで海青子さんが司書として働いていた図書館を自宅に作りました。多くの人との親交の中からこれからの時代を生き抜く思想を模索する日々を、この本で読みました。

今回の展示では、図書館の味わい深い本棚や自然の中のイベントの様子、同居するかぼす(猫)やおくら(犬)の写真が飾られ、Lucha Libroがより身近に感じられます。窓から灯りが見えるLucha Libroは、山奥の静けさの中のとっても暖かな人の営みを感じます。

「当館にはクーラーが無いため、夏はこんな風に川に入ってトークイベントを行ったりしています」とは、右の写真の説明です。楽しそう!

大量消費、効率だの生産性、使い捨て、2011年以降もまだそんな言葉が大手を振って歩いている今、一度立ち止まって、体のことや心のことを考えてみませんかという場所がここなのです。

「『ルチャ・リブロ』は『生命が高まる場所』です。『どうすれば、自分の内にある最高で最良の部分が十分に活動でき、その成長と開花が可能になるだろうか』と自分に問いかける場こそが、ルチャ・リブロです。花や草木、犬や猫、虫や鳥。生命力を持った存在である人間も、彼らと本質的には同じです。この自覚が日々の生活の中で高まっているからこそ、ぼくは心身ともに健康になったのかもしれません。」

そういう青木さんたちのことを、少しでも知ってもらいたいと思い、この展示を企画しました。写真と一緒に、海青子さんのステキなイラストも展示しています。

「SUNNY BOY BOOKS」の高橋和也さんは「経済成長を選ぶのか、共存の社会へと向かうのか。はざまの時代にあって身体感覚を取り戻すこの実験の意味は大きいです」と本の帯に書かれています。「彼岸の図書館」(夕書房2200円)「山学ノオト」(1980円)「りぶろ・れびゅう」(825円)も並べてお待ちしています。

 

なお、20日(土)、21日(日)、28日(日)には青木さんが在廊されます。この図書館のことをぜひ聞きにお越しください。

⭐️「Lucha Libro展 人文系私設図書館Lucha Libroの生産性のない日々」

2月17日(水)〜28日(日) 月火定休 13:00〜19:00

 

店長日誌でよく取り上げる(つまり私のご贔屓の)作家川本三郎が平成8年に出した本を紹介します。思い返せば、本職の映画評論の本はほとんど取り上げていませんでした。

この「君美わしく」(文藝春秋/古書1500円)は、昭和世代の方には、ああ懐かしい、あんな時代あったね、とノスタルジックな気分になれます。

「女優が母であり、姉であり、恋人だった時代の美神17人が著者に語った黄金時代の日本映画と香り高い人生」と帯の宣伝文句にありますが、確かに映画が娯楽の王道だった時代に銀幕でその魅力を振りまいてい女優の姿が再現されています。

高峰秀子、八千草薫、杉村春子、山本富士子、山田五十鈴、司葉子、若尾文子、香川京子、淡島千景など、17名の女優に著者が出会い、映画撮影時の話を聞き出しています。

各女優の聞き取りの後には「追記」があって、漏れた話題やら、エピソードが載せられています。例えば、八千草薫の章では、北杜夫が以前雑誌で八千草と対談した後、書かれたものが載っています。

「八千草さんの映画でいちばん懐かしいのは、日伊合作映画『蝶々夫人』であった。いったいに外人の蝶々夫人は声量はあるがデブで、ピンカートンも愛想をつかすのではないか。八千草さんの蝶々さんは、日本娘の良さを世界に示したもので、特筆に価する」

昭和52年の「女性セブン」の対談なので、仕方ないですが、今なら「デブで」なんて文章は出せないでしょう。

山本富士子へのインタビューでは、彼女の辛い体験、すなわち”五社協定事件”から話が始まります。昭和38年、彼女はそれまでの専属だった大映映画を離れ、フリーを宣言します。しかし、専属女優制度を守りたい映画会社は、協定を結び、彼女の映画出演の道を閉ざしたのです。結果、女優生命が絶たれる危機に直面したのです。役者が作品を選ぶのが当然の現代からは、想像もつきません。しかし、このころの黄金時代の女優たちは、大なり小なり映画会社との戦いを余儀なくされていました。

因みに山本富士子は大阪船場の綿花問屋のお嬢さんで、戦後、京都府立第一高等女学校(現、鴨折高校)で学んだ関西人です。小津安二郎の「彼岸花」では、浪花千栄子扮する母親と老舗の京都の旅館を切り盛りする役で、ネイティヴな京都弁でのやりとりが、とても印象的でした。

決して難しい役者論ではなく、著者が憧れた女優さんたちに会って、ドキドキしながら会話を楽しむ風な本なので、登場する彼女たちの映画が見たくなってきます。

一つ残念だったのは、京マチ子がなかったことです。著者のご贔屓ではなかったのかな……

 

 

本日はCDのご紹介。滋賀県在住のカウンターテナーの中嶋俊晴さんの「私の好きな日々」(2750円)です。

カウンターテナーとは、クラシック音楽で男性がファルセットボイスで、女声パートに相当する音域を歌う人のことです。中嶋さんは、カウンターテナーとして活躍されている現役のシンガーです。今回のアルバムはクラシックを離れて、作詞・谷川俊太郎、作曲・武満徹のコンビを中心に、谷川賢作の曲など。清少納言作詞?上田知華作曲のナンバーもあります。「枕草子」の現代語訳に曲をつけたものです。

「心のままに歌いたいと選んだ作品たちは、結果的に僕自身の心を癒し、励ましてくれました。これまで当たり前のようにあった日常がどれだけ有り難く、尊いものであったか…….。そのことを僕に教えてくれた心温まる作品たちを、多くの方と共有できたら嬉しく思います。」

と中嶋さんは、CDの宣伝ポップに書かれています。どこまで澄み切った歌声と、その声にそっと寄り添うようなピアノとギターの美しい音色が見事にマッチして、リスナーを優しい眠りに誘ってくれます。春の宵、彼の音楽を聴きながら、いつか戻って来てくれる平凡な日々を夢見たいものです。

そして、本アルバムのラストを飾るのは、私の大好きな「満月の夕」です。日本のロックバンド、ソウルフラワーユニオンが神戸の震災の時に歌っていた曲で、多くのミュージシャンがカバーしています。後半、沖縄音楽のメロディが入ってくるのですが、そこを中嶋さんは無理に沖縄風にすることなく、鎮魂の歌として歌っています。何度聴いても、心に染みる名曲です。

 

こんなおじさんとは、ナザレ生まれのパレスチナ人監督エリア・スレイマンの新作「天国にちがいない」の主人公です。

不思議な味わいのある映画でした。監督自身が主演して、このおじさんを演じるのですが、ほとんど口を開きません。会話に障害がある訳ではないのですが、他の登場人物は普通に喋るのに、なぜか彼だけが喋りません。ちょっとはにかんだような、困ったような、微笑んでいるような視線でこちらを見ているのです。

おじさんがどんな人物なのか全くわかりません。え?そんな映画退屈じゃないの?と思いきや、彼が見つめるパレスチナの街角や、旅するパリ、NYの街並みに立っている姿を見ていると、不思議に心地よい感じになってきます。穏やかな春風を受けて、鶯の鳴き声なんかを聞いている時の穏やかさと似ているような。

で、このおじさんは何をしているかというと、実は映画監督なのです。だから、監督自身が新作の資金集めにパリ、NYの映画会社に赴くというのがストーリーなのです。でも、そんなことよりも、彼が見る風景を私たちが楽しめることが、この映画の面白さです。

スレイマン監督は現代のチャップリンと評価されているようですが、こんなシーンがありました。監督がPCで作業をしている時、窓から小鳥が入ってきて、彼の邪魔をします。それを何度か、遠ざけようとするのですが、何度やっても鳥はPC に乗ってきます。その繰り返しが、チャップリンのコメディーを思い出させました。なんともユーモアがあっていいのです。

資金が得られなくて故郷に戻ってきた彼が、クラブで踊り狂う若者たちを見つめるところで映画は終わります。まぁ、いいか、なんとかなるか〜、でもちょっとどこか寂しげな顔つきが、心に残る映画でした。

 

 

 

 

 

シンガー&ソングライターの矢野顕子って、こんなに宇宙好きだったのか。「宇宙に行くことは地球を知ること」(光文社新書/古書650円)を読んで分かりました。

対談の相手は、スペースX社の新型宇宙船クールドラゴンで宇宙へ飛びだす予定の野口聡一です。宇宙滞在日数177日を誇る宇宙飛行士。NASAの宇宙に関する情報を、細かくチェックしてツイッターで発信しているほどの矢野にとっては、待ってました!の対談です。「わたしはうんと歳をとってから宇宙に強い興味を持った。大人だって、特に大人の女性だって宇宙が知りたい」という彼女は、質問やら意見をどんどん言って、野口との対話を深めていきます。

野口は船外活動に出る瞬間をこう表現しています。

「エアロックで空気を抜いていくにつれて、最初はシューシューと聞こえていた音が徐々に小さくなってきます。ゼロ気圧になるとほとんど音は聞こえません。危険な領域に入ったことが本能的に分かります。不気味なほどの寒さと静けさ、増してゆく緊張感。エアロックの中は、もはや宇宙です。」

そして、船外へ。400キロメートル下の地球がみえます。その時彼が感じたのは、「地球に落っこちそう!」という恐怖でした。

そんな空間で対峙する地球が放つ眩しさに圧倒されながら、彼は死の世界にいることを感じていました。「宇宙空間に出た途端、『ここは生き物の存在を許さない世界である』『何かあったら死しかない』ことが、理屈抜きにわかります。」

宇宙服の指の先に死の世界がある。それに対して、矢野は「絶対的な孤独こそ、宇宙へ出たものものだけが味わう特権なのかもしれません。」と答えています。

この対談には難しい言葉や、宇宙物理学の理論などは全く登場しません。でも、ミーハーちっくにもならず、SF映画的展開にもならずに進んでゆくのは、この二人のパーソナリティーに拠るところが大きいと思います。きちんとした哲学を備えた二人だからこそできた対談です。

「宇宙空間の黒は『何もない黒』なんです。それは光の反射ではありません。行った光が永遠に戻ってこない。吸い込まれてしまうような黒。『漆黒』というと色のようですが、色ではない。『絶対的な闇」といったらいいでしょうか」

という野口の表現がとても印象に残りました。