と、このシャツの名前を出しただけで、あそこのシャツか、とぱっと浮かんだら、お洒落な方かも。「モリカゲシャツ」で販売されているシャツは決して安くはありません。でも、楽しくなるのです。

何年も前、女房がこのお店を見つけて一着買ってくれました。前はボタンダウンの白のワイシャツ。しかし、背中の上半分にストライプが走っていて遊び心に溢れたシャツです。前から見るとフツウ、背後から見ると遊びに行こう感満杯の一着を今も大切に着ています。

北海道発の京都案内新聞「その界隈」最新号(540円)をめくると、大きくモリカゲシャツが特集されています。店主の森陰さんは、京都生まれの生粋の京都人。東京の文化服装学院からファッション関係の仕事の中で、大量生産、大量消費のバブル感に違和感を感じ、「作ってる人とそれを買って着る人の関係性が、もうちょっと近いところでできないか」と考えたあげく、オーダーメイドのシャツを作るお店を始めました。

大型書店にいた頃、大量に入ってくる本を、中身も見ずに販売し、大量に返本するシステムに違和感を持ち、本を書く人、売る人、そして読者の関係がこんなに離れていていいの?と思い、レティシア書房を始めたのと似ていると感じました。まだ、モリカゲシャツでオーダーメイドシャツをお願いしたことはないのですが、そろそろ作ってもらいに行きたいな。

「その界隈」で連載中の「その界隈的[博物誌]」の特集は落語「はてなの茶碗」です。上方落語の十八番であり、桂米朝、枝雀の名演があります。落語の舞台となった清水寺の音羽の滝やら、登場する茶道具屋がある衣棚通などが紹介されています。衣棚通は時々途切れたりする南北の通りですが、めったに紹介されません。

面白かったのは、「京都の自転車」という写真特集です。景観写真評論家の田中三光さんが、無造作に撮った市内各所に止めてある自転車と建物。どれも風情があります。あ、これ、あそこだ!とわかる所が何カ所かありました。皆さんもチェックしてみてはいかがですか。

 

ギャラリー開催中 町田尚子原画展「ネコヅメのよる」

ご当地サイン入の絵本「ネコヅメのよる」と、カレンダー「Charity Calendar2018」は完売いたしました。ありがとうございました。

オリジナルシール・ポストカード・手ぬぐいは、残り僅かになりました。

原画展は、21日(日曜日)まで。なお21日は18時で終了いたします。


 

苦い珈琲をすすりながら、煙草片手に薄暗い空間に一人籠って、大音量で鳴るジャズをひたすら聴き続ける..もう殆ど修行に近い場所であったジャズ喫茶。私の大学時代、映画館の暗闇とジャズ喫茶の暗闇がお友達でした。この暗闇で何百時間と過ごしたことで、映画とジャズの国アメリカへの憧憬をがふくらみ、大学をほっぽり出してかの国へ向かわせることになりました。

大音量の音楽が鳴り続け、おしゃべり御法度のジャズ喫茶は、その後衰退していきます。私がよく行っていた店もなくなりました。おしゃれなジャズバーが主流になっています。そこは、より多くの人にジャスが響く場所で、良いことだと思っています。で、そんな伝統的なジャズ喫茶を研究対象としている学者の本に出会いました。

2005年、マイク・モラスキーというアメリカ人の日本文学研究者が書いた「戦後日本のジャズ文化」(青土社/古書/絶版1950円)。第1章「自由・平等・スウィング」で終戦前後のダンスホールに流れるジャズ、第2章「大衆文化としてのジャズ」で、戦後日本映画におけるジャズの台頭について、第3章「占領文学としてのジャズ小説」第4章「挑発するジャズ・観念としてのジャズ」で60〜70年代の日本でジャズが熱かった時代を論じ、そして第5章で「ジャズ喫茶解剖学」でジャズ喫茶を論じます。アベックで来るな、しゃべるな、リクエストは一人一枚、新聞は読むな等々の規律と厳粛に満ちた空間を解剖していきます。

続いて、モラスキーは2010年「ジャズ喫茶論」(筑摩書房/中古2100円)を出しました。著者は、2007年、京都の国際日本文化研究センターに研究員として招聘されます。期間は1年間。その間、日本全国のジャズ喫茶を歩き回り、関係者にインタビューしています。著者は「各店のレコードコレクションの趣向や設置されているオーディオシステムの詳細」といった「ジャズ喫茶オタク」的記述を全面的に排除しているので、何方が読まれても、面白い日本文化論に仕上がっています。

例えば、ジャズ喫茶の定義の一つとして、こう書いています。

「昼間も営業しており、客がコーヒー一杯だけを注文し、約二時間坐っていてもヒンシュクを買うことのないような店であること」

因みにジャズの本場アメリカには、日本的なジャズ喫茶がありません。私が滞米していた時、なんとか探して、サンフランシスコの下町にあったお店に入ってビックリ。金髪のおねえちゃんが、半裸で店の柱に絡み付いて歌っているお店でした。(ぼったくりではありませんでしたが)

日本独自の音楽空間として発展してきたジャズ喫茶。中上健次、村上春樹、五木寛之、筒井康隆、倉橋由美子、大江健三郎、寺山修司等の蒼々たる作家達は、一時ジャズ喫茶に入り浸り、北野たけしはバイトまでしていたという事実から、一時期、この音楽空間は新しい文化創出の起爆剤になっていたのですね。

因みに私がジャズ喫茶で聴いて、最も脳天に響いたアルバムは、ピアニストマッコイ・タイナーが、ボストン交響楽団と共演した「フライ・ウィズ・ザ・ウィンド」です。クラシックなのか、現代音楽なのか、ジャズなのか、民族音楽なのかわからない怒濤のサウンドには、あれから多くの音楽を聴きましたが巡り会っていません。

 

ギャラリー開催中 町田尚子原画展「ネコヅメのよる」

ご当地サイン入の絵本「ネコヅメのよる」と、カレンダー「Charity Calendar2018」は完売いたしました。ありがとうございました。

オリジナルシール・ポストカード・手ぬぐいは、残り僅かになりました。

原画展は、21日(日曜日)まで。なお21日は18時で終了いたします。

 

 

 

 

 

昨年末から、時代に関係なく、様々な作家の短編小説集の中から、適当にピックアップして読んでいます。一つ、二つ読んで、これは私に合わないと思ったら次にいく、という気楽な読書です。芥川龍之介の「地獄変」なんて何十年かぶりに再読して、あまりの面白さに他の龍之介作品を読んだりと、思わぬ効用もあります。

しかし、う〜ん、わからん???が脳内に点滅しながらも、最後まで読んだ短編がありました。古井由吉の自撰短編集「木犀の日」(講談社文芸文庫/古書800円)に収録されている「背中ばかりが暮れ残る」です。

「終日ほとんど動かず、物を読んでいる。くたびれた上着に、冬場なので綿入れをはおり、膝には毛布をまわしている」老いた男は、一日中同じ姿勢で本を読み、食事の準備にくる女に養ってもらい、「疲れのにおう身体を畳の上にゆっくり押し倒す」というスケベな老人。これが主人公だと思っていると、「男の背中に向かって私は呼びかけ」と私が登場します。ではこの老人は何?と思いつつ、先を読むと、こんな文章に出会う。

「夜の夢ではない。昼の妄想とも言いきれない。私の念頭のうちにくっきりと存在している」

えっ?老人は「私」の精神の中に存在する幻影?? と考えていると、今度は「私」が若い時の登山の帰りに、見知らぬ男に誘われて酒を飲んだ話が登場する。こんな具合に、物語はふわりふわりと漂泊していき、「多忙は頭脳の隅に、かえって徒らな夢想の閑をあたえる」という今の「私」の仕事部屋に戻り、そこで彼は、すでに死んだ知り合いの、生前のハガキを見つける。そこには病が回復したので、年内に家に戻りますと近境報告があり、最後は「よい年をお迎への程御祈り申し上げます」と結ばれていて、小説は幕を閉じます。

なんだ、なんだ、これは!と、私の読み方が不十分があったのだと思い、再読するも作品を掴みきれないのです。けれど、不思議なことにこの作品を読むのが苦痛ではなく、引き寄せられていくのです。

古井の作品では、神経を病んだ女性と登山で出会った男を幻想的なイメージを交えて描いた芥川賞受賞「杳子」しか読んだことがなかったので、再度トライしてみたのでした。しかし、う〜ん、わからんかった…….。

表題作「木犀の日」に

「曇天としの夜明けに寝床からむっくり起きあがり、親しい家の祝いによばれていたことを思い出し、閑散とした早朝の路をたどる、という夢は幾度か見たことはある。なにやら苦痛のなごりと、そして恍惚とに堪えるために、ひっそりと足を運んでいる。親しい家はどこの家なのか、何の祝いなのか、なぜ朝早くにか、知るまでには至らない。」

という独白が登場する。老いた精神に宿る幻想と迷走が潜んでいそうです。

こんなもやもやした気分も読書の楽しみとしたいものです。

 

長谷川濬(1906〜1973)という人物をご存知の方は、動物文学に、或はロシア文学に詳しい方か、先の大戦で日本が満州に作った映画会社、満州映画協会に詳しい方ではないでしょうか。

函館新聞の主筆だった長谷川の父には、四人の息子がいました。長男海太郎はアメリカ放浪後、帰国して小説家としてデビューして、多くの作品を発表しています。次男の長谷川 潾二郎は、パリ遊学後、風景画や静物画で独自の画風を作り上げた洋画家です(写真右・猫の絵が有名な画家)。三番目が長谷川濬で、その下の弟が長谷川四郎、「シベリヤ物語」等の作品で戦後の日本文学の一翼を担い、また黒澤明がロシアで監督した「デルスウザーラ」の原作の翻訳でも知られた作家です。

それぞれ文学、美術のジャンルで名をなした兄弟の中に長谷川濬はいました。彼の戦前から戦時中の満州での活動、そして結核に苦しんだ戦後を追いかけたノンフィクションが、大島幹雄の「満州浪漫」(藤原書店1200円)です。ズバリ、面白いの一言につきる一冊です。

若い日の初恋や人妻との恋愛事件を経て、右翼の大物大川周明のバックアップで、満州に渡り満州映画協会に入社しました。この頃に動物文学の最高峰、誇り高い一頭のシベリア虎の物語を描いたバイコフの「偉大なる王」を翻訳し、戦前のベストセラーになりましたが、敗戦後、満州国の崩壊で、帰国まで地獄の日々を味わいます。戦後は、ロシア語通訳などをしながら、大物のプロモーター神彰(有吉佐和子の元夫)と共に、ドン・コサック楽団を招聘し大成功を収めるも、結核の再発で入退院を繰り返し、73年67歳の生涯を閉じます。

文学者として詩人として、満州、そしてロシア国境で彼が見続けていた夢とは一体何だったのだろうか。バイコフに出会って「偉大なる王」の翻訳に情熱を傾ける日々は、文学者の一途な姿でした。しかし、敗戦直後、満州映画協会のドン天粕正彦の最後を看取り、敗走の最中、幼い娘が自分の腕の中で高熱のため死亡するという経験ののち、帰ったきた日本での戦後の暮らしに幸せはあったのか。娘、道代の死をこう書いています。

「道代は満州の街路でー遠方の広場に苦力が一杯群がって何か朝飯をたべていた。熱いかゆか………。白い湯気が昇っていた。道代は私の腕の中で安堵したものの如く、熱いままに自ら気が抜けて行くように息絶えて行った。そして私の腕にぐったりと横たわった。」

詩人としてロシア文学者として、大陸を彷徨い苦闘した長谷川濬の、130冊にのぼる自筆ノートが存在します。著者の大島はそのノートを丹念に読み込み、彼の生涯を見事に浮き上がらせていきます。並々ならぬ力量ですが、著者の本職はなんとサーカスのプロモーターだとか。これもまた面白い。

先日TVをみていたら、バブル全盛時代のディスコが大いに盛り上がり、またもやバブルが来るかもなどと、頓珍漢な希望を持っている人達がいることを知りました。まぁ、ブームを作ろうとした一部メディアや業界の仕込みだとは思いますが…..。

そんな折、名古屋発の雑誌「棲(すみか)」をバックナンバーを含めて入荷しました。雑誌「ソトコト」が特集していたミニプレスの中にみつけたので、連絡して送っていただきました。

「等身大の暮らし提案誌」と書かれている通り、地に足を付けてしっかりと生きている人達が続々と登場します。

例えば10号の特集は「生きなおす棲」。京都市内にある築百年の町家を、住み手自らが、掃除から始めて、解体、撤去、補修等々を、幼なじみの建築家の指導を受けながら、作り上げてゆく話からスタートします。いわゆる”Do it yourself”。でも、一人でやったことが、結局他者とつながり、町とつながってゆきます。ここに登場する人達の棲は、埃ひとつないクリーンなマンションではありません。しかし、自分たちの生きている町や、様々な価値観を持った人達と結び、開放的な空間に生きています。

幸せに生きる空間を特集したかと思えば、11号では「いのちの終わりに」で、死に直面した時のことを特集しています。この中に、『上野千鶴子が聞く小笠原先生、ひとりで家で死ねますか』に登場する小笠原医師へのインタビューが載っています。病院で亡くなった時、その棺が玄関から出ることはありません。先生は「人ひとりの人生が終るとき、裏口から隠れるように病院の外へと出されるような、そんな終り方でいいの?」という疑問を口にされます。

「家の玄関から笑顔で出棺。いいでしょう。」先生が看取った患者の家族は、親戚や友人とともに、笑顔でその時を迎えることが多いとか。みんなでがんばったからと、親族一同ピースサインをした写真もあるそうです。親しい人の笑顔に見守られて、好きな場所から旅立つなんて最高のフィニッシュだと思いました。

最新13号は『「装う」の向こうに』で、装うことへの考察です。

ここに登場する前田幸三さんは、60本ものオーバーオールを取っ替え引っ替え着てきた60年の人生。絵を書きながらシンプルに生きてきた男の人生。ズラリと並んだオーバーオールに、生きてきた時間が染み込んでいるようです。「本当は、外見はどうでもいい。人に幸せを与えられる人間だったらいいと思うけど。」なんてセリフは、そう簡単には出てきません。

各号972円で販売中です。この雑誌に登場する人達の生き方を、そのままあてはめることはできませんが、自分にとって、等身大の暮らしを考えるきっかけになりそうです。バブルが来る!なんてはしゃいでいる人には関係ない雑誌かもしれませんが…….。

雑誌の後ろに連載されている本屋さん紹介、センスのいい音楽を紹介する「こんな時、こんな音楽」」もお見逃し無く。

 

西アフリカ・セネガルで1000年もの間、人々の暮らしを見つめ、聖霊が宿る木として敬われ続けているバオバブの木を、写真に収めた本橋成一の写真絵本「バオバブのことば」(ふげん社2484円)の販売を始めました。

本橋は60年代から現在に至るまで、炭鉱や、サーカス、屠殺場などを取り上げ、そこに生きる人びとの姿を写してきました。写真家としての活動の一方で、98年には、チェルノブイリ原発事故の被災地で暮す人々の日々を追いかけた「ナージャの村」で、映画監督をしました。その後、数本の作品を監督しています。その中には「バオバブの記憶」というバオバブをテーマにした作品もあります。映画と同タイトルの写真集もあり、こちらは店に置いています。(平凡社1900円)

今回ご紹介する「バオバブのことば」はすべてBWで撮影されています。何百年もの間、アフリカの乾燥した大地に、ぐっと枝を広げて立つバオバブを見ていると、その強い生命力と深い精神性を感じてしまいます。

写真集は「トゥーパ・トゥール村で たくさんのバオバブに出会った。」という本橋の言葉で始まります。様々な枝の曲がり方、幹のくねり方は、まるで舞台で踊るダンサーの姿みたいです。やがて、バオバブの周りに集まってくる人々、家畜を捉えた作品が登場します。

「バオバブは大地の許しを得て芽を出す だから村人は決してその居場所を侵すことはない。ずっと守られてきたバオバブとの約束」

守り、守られている村人たちの姿が伝わってきます。木の下で草を食べる山羊、それを見つめながら休息する村人たちの写真は、バオバブと共に平和に暮す、この村が表現されています。特に素敵なのは、子どもたちです。ズラリと根本に並んだ子どもたちは、まるでバオバブから昔話を聴いているみたいです。

「4000年を生きたバオバブが突然枯れて、消えた『役目を終えたからさ』と村人」

消えたバオバブに代わって新しい世代のバオバブが、村を守ってゆく。そんな光景が永遠に続けばいいのですが……。

 

年に何度か、冒険小説、或はサスペンス小説を一気に読むことがあります。この正月にも一冊読破しました。中山可穂「ゼロ・アワー」(朝日新聞出版/古書700円)です。

中山は女性同士の恋愛をテーマにした作品を多く書いています。個人的に印象的だったのは、能の演目を小説にした作品集「悲歌」の中にある一編「蝉丸」です。以前ブログにも書きましたが、幸せな家庭を持っている男が、かつて溺愛した青年のことが忘れられず、「彼は僕のすべてだ」と言い放ち、妻を置き去りにして、アンコールワットの遺跡をさまよう話です。

その作家が、初のサスペンス小説を書いたことを、年末の新聞の読書欄で知りました。殺し屋に一家全員惨殺された少女が、その殺し屋への復讐を誓い、裏社会へ入り、コードネーム<ロミオ>と呼ばれる殺人者になり、伝説の殺し屋<ハムレット>をターゲットにするまでを描くノワールものです。東京とブエノスアイレスを舞台に、アルゼンチンの軍事政権時代の闇に歴史を絡ませながらターゲットに接近してゆく様を、ノンストップで描いていきます。ややケレン味が濃すぎる部分がありますが、ヒロインの疾走感に、エキサイトしました。狂ったように突っ走るヒロイン<ロミオ>には、破滅的な恋愛にすべてを投げ打つ、中山の小説に登場する女性たちとダブってみえてきます。

短篇集「氷平線」(文春文庫300円)を読み終えて、ノワール小説を書いてほしいなと思ったのは、桜木紫乃です。

釧路在住で、北海道を舞台にした作品を発表。ラブホテルを舞台にした直木賞受賞の「ホテルローヤル」で、いわゆる”性愛文学”の一人になっていますが、北の大地で、空虚な人生を彷徨いながらも、明日につなげようとする男女の哀感を描き出していました。

突然、牧場に嫁として連れて来られたフィリピン娘と、昔の女が忘れられない牧場の跡継ぎ息子の葛藤を描く「雪虫」や、無意味な夫婦関係にピリオドをうち、娘と共に閉鎖的空間を脱出する女性を描いた「夏の稜線」など、牧場を舞台にした作品が並びます。

「凍り付いたコンクリートの階段を、道路沿いの街灯と月明かりを頼りに下りる。根雪がほんのりと、人幅に踏み固められた道を照らしていた。その家はオホーツク海に面した幅一キロほどある入江に建っていた。黒や灰色のトタンを継ぎ接ぎしながら、ようやく雨風をしのいでいる。」

なんていう情景描写の文章は、そのまま犯罪小説にも使えそうです。ノワールもの書いてくれないかなぁ〜と思っていたら「ブルース」という”釧路ノワール”ものを出していました。これも読もう!

コミックの世界は面白い!と思わせる新旧の作品を入荷しました。

前作「うとそうそう」(光文社/古書800円)では、極端に少ない線でアーティスティックな世界を作り上げた森泉岳士は、「報いは報い、罰は罰」(角川/古書/サイン入り上下巻1700円)で、圧巻のゴシックホラーが展開させています。塗り潰した様な真っ黒の画面の彼方に広がるおぞましい世界を堪能して下さい。古い館で起こる惨劇好き、なら必読ですぞ。

暗黒漫画から、ガラリと変わって「団地マンガ」の新星?、石山さやかの「サザンウインドウ サザンドア」(祥伝社/.古書700円)をご紹介します。昨年、団地小説の傑作、柴崎友香の「千の扉」(中古公論新社/古書1000円)を読んだり、坂本順治監督の映画「団地」や、サミュエル・ベンシェトリ監督の「アスファルト」といった、内外の団地映画に出会いましたが、コミックの世界にもあるんですね。

このコミックは、団地に住む様々な人々の、人生のある瞬間を切り取ってゆくという手法で、映画や小説ではお馴染みのスタイルです。団地を舞台にしているところがミソです。リアルに描いてしまうと、現代の悲惨なドラマの集大成になってしまうところを、懐かしさという感情を巧みに織り込みながら、団地の住人の人生を肯定していきます。妻に先立たれ、一人暮らしをする夫と、一人娘の交流を描いた「わたしの団地」は、いい短篇小説を読んだ気分です。

もうひとつ、ほっとリラックスできるコミック。益田ミリ「結婚しなくていいですか」(玄冬舎/古書650円)は、40才が見えてきたOL、すーちゃんと仲間の日々の暮らしのスケッチ集です。老後のことを心配したり、このまま1人で生きてゆくのかなぁ〜と不安になったりしながら、それなりに元気に毎日を送る彼女と、同世代の女性たちへの応援歌みたいな作品です。一日一日、歳をとってゆくという現実を、淡々と描いた作品です。

最後にご紹介するのは、小林エリカの「親愛なるキティーたちへ」(リトルモア/古書1400円)です。彼女には放射能をテーマにした「光の子ども」という傑作がありますが、「親愛なるキティーたちへ」はアンネ・フランクがテーマです。しかも、これはコミックではなく、エッセイです。

幼少の頃、彼女は家の本棚の奥で、「アンネの日記」を読み、いかなる不条理にも困難な状況にも立ち向かってゆくアンネの姿に感動します。そして、それから21年が過ぎ、30才を越した彼女は再び実家の古びた本棚の奥でもう一つの日記を見つけます、それは、アンネと同じ年に生まれた自分の父親が敗戦の日々を綴ったものでした。

「ユダヤ人たちを虐殺したナチス。ドイツと日本は同盟関係にあった。歴史的な事実を考えると、戦争の中で、彼女は死に追いやられ、彼は間接的に彼女を死に追いやったということになる。それと同時に、彼女は私が心から尊敬し夢中になったアンネ・フランクであり、彼は愛する私の父小林司だった。」

二つの日記に誘われるように、著者はアンネが収容されていた強制収容所を巡る旅に出掛けます。それは2009年3月のことでした。アンネがタライ回しにされた強制収容所のあった場所に立ち、著者の心の中に浮かび上がってきたものが描かれていきます。

アンネが死ぬ、ほぼ一年前の1944年4月16日の日記と、同じ頃の昭和21年4月15日の小林司の日記、そして、著者が旅から戻ってきた2009年4月15日の思いが並ぶラストまで一気に読んでしまいます。

今、最も行ってみたい本屋の一つ、東京の「title」店主の辻山良雄さんの二冊目の本「365日のほん」(河出書房新社新刊1512円)を入荷しました。

「本屋は本を紹介することが仕事です。Title では開店依頼、『毎日のほん』と題してウェブサイドで一日一冊、本を紹介していますが、この『365日のほん』は『毎日のほん』とは別に本を365冊選びなおし、紹介文を書きました。日本には四季がありますが、性格が異なる四つの本棚を思い浮かべて、その季節の本棚に合った本を並べています。そうしてでき上がった小さな本が、この『365日のほん』。暮らしの近くでいつでも手に取っていただけるよう、ポケットサイズの大きさにしています。」

考える本、社会の本、くらし・生活、子どものための本、ことば、本の本、文学・随筆、旅する本、自然の本、アート、漫画の各ジャンルに分けて、春夏秋冬それぞれに相応しい本が紹介されています。「春ははじまりの季節」と書かれた「春の本」の巻頭を飾るのは荒井良二「あさになったらまどをあけますよ」。

「いまこの瞬間に世界のどこかで、今日も窓を開けている人がいる。開け放った窓からは風が吹き抜け、透き通った朝の光は、山ぎわ、海辺の町、川面を同じように照らす。それだけのことがいかに奇跡的で、人の心をどれだけなぐさめてきたことか」

と、震災後の祈りとも言える絵本を、簡潔な文章で紹介されています。とてもいい文章です。

今日マチ子の傑作反戦漫画「cocoon」を「男がはじめた戦争は、いつも本当にくだらない」とズバリ言い切っています。このコミックの真実をズバリです。私もこのブログで今日マチ子を紹介したことがありあますが、そうなんだ!!これが書きたかったんです。

「人間が住み着く以前から、変わることのなくそこにある地球。その本質に触れるのは、素朴で硬質な文章」と星野道夫「旅をする木」を紹介。何度か星野の本はブログで紹介しましたが、こんな文章、私には書けません。

紹介された本を実際に読み、その感想を本に一杯書き込むのは如何でしょうか。それを著者に見せてあげたら、喜ばれるかもしれません。

「本は誰かに読まれることで、はじめてその本になります。そして、その本を自分の本棚に並べておくことは、そのなかに書かれている世界が、いつでも自分の手の届くところにあるということです。普段からそうした一つ一つの世界と通じ合っていれば、その人はいくつもの世界を視ることができるようになるでしょう。」

著者は、そんな思いで日々、レジに立たれているのでしょう。新刊ばかりなので、どこでも入手できます。是非、今年の読書計画に役立てて下さい。

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大阪発の雑誌”PERSPECTIVE”の販売を開始しました。

この雑誌は「老い」を総合的にテーマにしているのですが、いわゆる健康雑誌の類いではありませんし、科学的アプローチから老いを考える専門誌でもありません。手に取った瞬間、え?こっれってどういう雑誌なん??と思ってしまう程に、スマートな編集で、アート系ですが、ブックデザインだけの、中身のない雑誌ではありません。

1号で特集されているのは「姨捨」という文化です。

「姨捨。日本における”老い”の歴史の中でこれほど象徴的で、かつ語り継がれている言葉は見当たらない。”棄老伝説”とも呼ばれ、現在においては『お年寄りを大切に』という敬老訓話として語り継がれている。果たして、この”姨捨”が事実であったかどうか諸説あり、未だにはっきりとされていないとされている。」

はるか昔の古今和歌集から昨今の様々な書籍に登場する姨捨を主題にした作品を拾いあげています。

西行法師との「隙もなき月の光をながむれば まず姥捨の山ぞ恋しき」から始まり、荻原朔太郎「老年と人生」、深澤七郎の「楢山節考」、さらには有吉佐和子「恍惚の人」へと文学史を辿っていきます。

2号はまるごと「認知症」の特集です。認知症を中心とした「記憶」が主要なテーマになっています。物忘れと認知症の違いに始まり、その治療とケア、その原因、認知症と社会の在り方まで、ズバリ切り込んでくる内容ですが、斬新なブックデザインのおかげで、ページをめくることができます。”about reflection of human aliving in now”という、とあるギャラリーオーナーのドキュメントに使われている写真だけ眺めていると、アート系写真雑誌と勘違いしそうです。

認知症のことを考えるのは、あまり楽しくありません。いや、私にとっては憂鬱でしかありません。しかし、この雑誌は避けては通れないジャンルに飛び込み、今までにないアプローチで挑戦しています。

“PERSPECTIVE”のタイトルの下に”from an oblique”というサブタイトルが目につきます。” oblique”は日本語に直すと「斜め」です。斜めの観点、即ち今までにない視線で、ともすれば見たくなかった老いの側面を捉えようとする編集方針が見えてきます。こんなミニプレスも、ついに登場してきたのですね。(1号は1400円 2号が1500円)