ブラチスラバ世界絵本原画展で、グランプリを受賞したハサン・ムーサヴィー作「ボクサー」(トップスタジオHR/新刊1980円)。心にズシリと食い込んでくる素敵な絵本です。

5000年の歴史を持つイランは、詩の文化が根付いた国です。世界的な詩人も数多く存在します。そんな文化状況にあって、子供向けの絵本も、詩が付いているもの、詩人が手がけた絵本もあるという絵本国家なのです。色彩豊かで、自由なイメージ、そして爆発するような色彩感覚に満ちた絵本。

そんな一冊が「ボクサー」で、一人のボクサーが主人公です。「ボクサーは、打って、打って、打った。昼も、夜も、何年も。」その姿を、かなりデフォルメされたタッチで描いていきます。町の人気者になっても、彼はひたすら打ち続けます。

「やがて何ヶ月も何年もすぎて、グローブの、ふたつのハートは、だんだん色あせていった。それでもボクサーはうちつづけた。」

お父さんがかたみに残したグローブには、お母さんが付けてくれたハートの刺繍があります。

雪がしんしんと降る情景の中でも、彼はひとり拳を振りつづけています。やがて、その拳は岩をうちくだき、大波を引き起こし、あるとあらゆるものを破壊していきます。そしてある日、パタリと打つのを停止します。俺は何のために拳を振り上げているのだろうか?

父さんはなんのためにボクサーになり、自分にボクシングを教えてくれたのだろうか。やがて、「父さんはそのこぶしで、ただ みんなのえがおのために、打ちつづけたんだ。」ということに気づきます。破壊のためではなく、周囲の人のために。ボクサーの再生の道がダイナミックな構図と色彩で迫ってきます。

そして最後のページ。

「ある日、ボクサーが海べで鳥をながめていると、少年の声が聞こえた。『ぼくにもボクシング、教えてくれない』?」

ボクサーは答えます。

「いいよ。さいしょのレッスンはね、拳を上げる前に、そのこぶしが、なにを打つのか、考えることだ…….」

大きなボクサーの足元で、小さな子供がストレートパンチを打ち出すスタイルが健気です。

小池昌代は、詩人として出発した作家です。2001年に初エッセイ集「屋上への誘惑」で講談社エッセイ賞を受賞。07年発表の短編集「タタド」で川端康成賞を受賞し、小説家としても着実な歩みを見せています。

今回ご紹介する「ことば汁」(中央公論社/古書1200円)は、六つの短編で構成されています。ちなみにタイトルになっている「ことば汁」という名前の作品はありません。物語全体を支配するのは、奇妙な幻想です。

それぞれに単調な日常生活を送る女性たちが、ふとしたことから、官能的で、甘い、しかし妖しい世界へと陥ってしまう。その姿を、シンプルな文章で描いていきます。ある姉妹が主人公になっている連作短編、「つの」と「すずめ」。前者は、老いた詩人を、秘書のように執事のように支え続けた姉。若い時にその詩人の詩にのめり込み、そのまま彼の側に使えて数十年。今日も詩人が郊外のホールで詩の朗読をするので、車を運転して向かうのだが、その道中で起こる奇妙なこと…..。

もう一編の「すずめ」の主人公は、その妹。「わたしはこの町の商店街で、ちいさなカーテンの専門店をしている。売っているのは、カーテンだけだが、なんとか商売は成り立っている。従業員もおらず、わたしひとりがなにもかもをこなす、文字通りの個人商店だが、三十のとき店を始めて以来、いつしか二十年近くがたった」。ひとりカーテンに向き合う彼女に、町のはずれにある屋敷の主人から注文が入ります。そして出かけていった屋敷で、不思議な甘い誘惑に満ちた体験をします。その後、彼女はここに入り浸りになり、家もどうなったかわからなくなります。

二話とも、最後はまるで安部公房の「砂の女」みたいに、この世から消滅してしまいます。怪奇と幻想の間で揺れる生理感覚、欲望、嫉妬を巧みに表現していきます。

個人的に好きなのは「花火」。小さな文房具店を細々とやっている年老いた両親と娘。店にはほとんど客が来ず、開店休業状態。人生に何の楽しみがあるのかわからないように、ひたすら黙って暮らす親に少しでも楽しいことをと計画した娘は、花火大会に連れ出します。そこで、娘はかつて愛した男性に再会します。が、これとて幻想。風のように消え去ります。

最後はこんな文章で締めくくられます。

「あれから三人は、隅田川の花火に行っていない。相変わらず、何一つイベントのない地味な暮らしだが、みんな静かに暮らしている」

人生を楽しむのとは真逆の言葉です。映画なら、茶の間で黙々とご飯を口にする三人をとらえながらカメラが後退し、ジ・エンドですね。何故だか、とても心に残る作品だと思います。

「野うさぎ」という短編に、こんな文章がありました。

「日常は、死へと続くゆるやかな灰色の道。ゆっくり下りながら、たんたんと暮らしていく。」

収録された六つの物語すべてに当てはまる言葉です。

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ネットだっか紙媒体だった忘れましたが、書評で「主人公スズキタゴサクにキレそうになる、自分の正義感が崩壊する!」と物騒な文言が並んでいました。呉勝浩「爆弾」(講談社/古書1300円)がその物騒な本です。

この爆弾犯スズキタゴサクの、ニヤついた、人を小馬鹿にしたような顔が、脳裏にへばりついています。キャラクターも凄いのですが、物語の進行に、えっ?これエンタメ小説じゃなかったの?と混乱してしまいました。

話は、都内に爆弾を仕掛けたスズキタゴサクと警察の対決です。しかし、犯人はすぐに出頭し取調室にどっかと腰を落ち着けてしまいます。一方、警察もドタバタ騒ぎばかりで、ドラマでよく見る緊張感溢れる追跡やらアクションは全くありません。名刑事の天才的直感で犯人の動きを見極めてゆく、なんていうカタルシスとも無縁です。

物語がほとんど取調室の中で進行して行きます。スズキタゴサクの動機も、目的も不明。この男が投げかけるクイズらしきものを警察が解明し、爆弾のありかを探そうとするのですが、下品で野卑なスズキタゴサクの話術が、徐々に取り調べをする警察も、読者の気持ちも揺さぶっていき、イライラ感がつのります。そして、犯人への無限大に拡大する「敵意」という名の「正義」は、本物の正義なのだろうかという迷いが、登場人物の心を蝕んでいきます。スズキタゴサクは容赦無く、正義の番人だと自覚している警察官の誇りを打ち砕いていきます。誰か、こいつを何とかしてくれ!

スズキタゴサクが取調べ室で、ポツンと口に出す石川啄木の言葉、「人といふ人のこころに 一人づつ囚人がいて うめくかなしさ」に悪寒が走ります。

と、そんなしんどい読書の果てはどうなるの? 心配しないでください。さすがエンタメ作家。最後の数十ページで、ものの見事に観客に安心感を与えてくれます。拍手!!

ところで、本作品。映像化してほしいのですが、スズキタゴサク役ができる役者の顔が出てきません。それほど、作家の文章で完璧に造形されています。案外、あまり有名でない芸人さんなどにドンピシャの人がいるかも。

呉勝浩は「ライオン・ブルー」という作品も当ブログで紹介していますので、お読みください。

 

奈良県の山奥、東吉野村にある人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」を夫婦で営む青木真平さんと海青子さん。以前、真平さんの本を紹介しましたが、今回、海青子さんの本が出版されました。

「本が語ること、語らせること」(夕書房/新刊1870円)は、書物に助けられてきたと、本と図書館と自分の人生について書かれています。

「東吉野村という山村の片隅にいる私たち夫婦にできることは、本当に限られています。自分にとっても他者にとってもよいことといえば、自宅と蔵書を開放していることぐらい。それでも、ここに来てくれる方たちは、自分なりのよいものを返してくれる。まるで貨幣経済以前の世界を追体験するようでもあり、J.R.R.トルーキン『指輪物語』のホビット庄に来たような心地さえします。」

映画版に登場するホビット庄は、本当に平和で心地よさそうな場所でした。

本書の「司書席での対話」では、様々な悩みを持つ人たちからの相談に対して「こんな時にはこの本を読んでみては」とお二人がそれぞれ応える応えるコーナーがあります。

「自分を語る言葉が見つからない」という悩みに対して、真兵さんは「自分とはそもそも何だろう」と改めて考え、「最近思っているのは『自分』とは純粋でかけがえのない存在ではなく、生きてきた時代や周りの環境のこと」ではないかと答えています。そして、最近なにかと人気の鴨長明「方丈記」を推薦しています。「『これが自分の言葉だ』と意識するのではなく、まずは目に映るものをそのまま書く。その中に、自然と自分自身が投影されている」ことがよくわかる作品であり、自分とは何かに答えてくれるのではないか、というのです。

海青子さんによれば、「ルチャ・リブロ」に来られた方が、本を眺めたり読んだりしているときに、ポツリポツリと自分のことを話し出されることがあるそうです。ゆったりと自然に囲まれた空間にいることもあるかもしれませんが、何よりも本が並んでいることが大きいと書かれています。

「書架をじっくり眺めたり、本を手にとったりする中で、それらの書物が発する声を、無意識であれ意識的であれ受け止めた。そして、その声がどこかで腑に落ちたと感じられたとき、ご自身の置かれている状況を自然と語り始める……そんなことが起きているいるように感じます。」

「書物が発する声」は、確実にあります。私自身、店を閉めて電気を消した時、声を聞いたような気がして、暫くそこに佇んでいたくなることがあります。書店と図書館を一緒にしてはいけませんが、大きな書店にいた時は効率化ばかりに足を取られ、その声を聞かなかったのだと思います。そんな小さな声に耳を傾けて、ぼちぼちやってる書店が全国に増えてきたのも当然の流れでしょう。海青子さんの言葉に感謝でした。

 

独特の色づかい、どこかユーモラスなフォルム、中村ちとせさんの銅版画はこの人ならではの世界を確立しながら、今年も新しい。中村さんは、西宮市在住。2021年から「ちとせ工房」を主宰して、銅版画教室も開かれています。

昨年3月、初めてレティシア書房で開いた個展は、本屋の空間とマッチして静かな心地よい時間が流れていました。毎年のように(それどころか、今年は3回以上)各地で個展をしているパワフルな作家が、京都の小さな本屋でまた新作を飾ってくれました。今回は、作品に登場する生き物(ネコやロバや不思議な人たち)が、さらに可愛くて可笑しい。

蓮の上に座って鼻歌を歌っているようなネコや、ポリポリ人参をかじりながら歩くウサギ、のんびり佇む驢馬、太鼓に乗ってご機嫌なネコなど、暖かな感じのする画面の中で、それぞれなんだか幸せそうに暮らしています。ちょっと浮世を離れて、中村さんの作品に出会ってみてください。ほっこり一息つけるかもしれません。

さらに、銅版画の板を額装した作品が新しく加わりました。6〜7センチの板は、プリントした紙の作品とは違った面白い味わいがあります。(写真左)

そして今年も素敵なペンダントが並んでいます。実は私は中村さんのアクセサリーのファンで、別のギャラリーで個展をされていた時にゲットしています。(ペンダントは税込3000円)

*「中村ちとせ銅版画展」は5月18日(水)〜29日(日) 13:00〜19:00   月・火定休

 

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サリンジャーファン、アメリカ文学好きなら観て頂きたい映画です。(MOVIX京都にて上映中)

1990年代のニューヨーク。作家志望のジョアンナは、西海岸からNYに出て、老舗の出版エージェントに職を見つけます。彼女に与えられた仕事は、このエージェントが契約しているJ.Dサリンジャー宛に届いたファンレターを読み、予め用意された、当たり障りのない文章を返事として出すというものでした。来る日も来る日も単純な仕事に終始するうちに、サリンジャーファンの気持ちにほだされて、つい自分の文章で返事を書いてしまいます。そこから、ドラマは予期しない方へと向かい始めます。

同じく作家志望の恋人と出会ってすぐに同棲を始めますが、徐々にすれ違っていきます。そして、ジョアンナは、厳しい上司と面白い仲間に支えられながら、少しづつ自分をみつめ、将来を考えていきます。コンピュータが社会に浸透し始めた時代、まだまだアナログな感じのオフィスのクラシカルな雰囲気や、ニューヨークの街並みなどが楽しませてくれます。

若い頃に観たポール・マザスキー監督「結婚しない女」や「グリニッジ・ビレッジの青春」などの青春映画をふと思い出しました。ヒロインが少しづつ一人で歩き始めようとしている様子が似ていたのかも知れません。原作はジョアンナ・ラコフの「サリンジャーと過ごした日々」。映画では、後ろ姿と声だけですが、謎に満ちたサリンジャーの晩年の姿が描かれています。なお、サリンジャーは2010年に死亡しています。

大作ばかり目立つアメリカ映画ですが、地味ながらこんなに後味の良い映画にホッと一息つきました。

2016年兵庫県西宮市で活動を始めた出版社「書肆汽水域」から、「芝木好子小説集 新しい日々」(新刊2200円)が出ました。芝木は1914年東京生まれ、41年に出した「青果の市」で芥川賞を取った小説家です。本書は、梅、牡丹、白百合、白萩などの花々に人生の移ろいを重ねた短編集です。

なぜこの本を仕入れて、読んだのか。それは「新しい日々と八人の本屋」という付録に惹かれて。ここで取り上げられている八つの短編を、それぞれ一人の書店員がその感想を文章にしているのです。よく知っている書店員もいらっしゃるし、あるいはその方の本を読んでブログで取り上げた方などが参加されていました。彼らがちょっと古い世代の地味な作家を、どう評価しているのかに興味があって、私も早速読んでみました。

八つの短編、どれも素敵でした。特に新しい表現や、これまでに描かれてこなかった世界が広がるものではありませんが、人生のちょっとした瞬間の思いが、滋味豊かに描かれています。小津映画の如き静謐で、端正な空間が広がります。「花」がテーマになってはいますが、そこには登場人物たちの孤独が潜んでいます。昭和という時代をそれぞれに生きてきた人々の情景や哀感が丹念に描きこまれています。

「男女の微妙な感情の揺れや描写は絶妙で、芝木作品が現代の読者に対して新鮮さを失わないことを改めて気づかされる。」

とは、「十九歳」を読んだ「古本屋弐拾db 」の藤井店主の言葉です。彼は、この短編が高校の現代国語にも採用されていることに驚き、「十代の読者が読むとどのような反応があるか気になるところ」と結んでいます。

そうですね、私が十代で読んだら辛気臭いと思ったかもしれません。が、年を経て読むと、戦争を経験した人の人生の重みが、ゆっくりと確実に伝わってきます。

豊中の「blackbird books」店主吉川さんは「白萩」を読んで、こんな文章を残しています。

「1981年の作品だから物語も舞台設定も少し古風に映るかも知れないが作者にとっては晩年の作品で、細かい心理描写は見事に完成されていて特に主人公秋子が少しづつ『傷ついていく』様は白い花が散る様と重ねられ、痛々しいほどに美しい。物語の暗い影の向こうに白萩の花が松明のようにチラチラと光っていて作家は巧みに出口へ誘う」

いい文章だなぁ。一編読み終わったら、その作品の解説を読んでゆく。きっといい読書体験ができるはずです。装幀もとても素敵ですよ。

 

著者である吉田篤弘と彼が作り出した人物が対話をしながら、物語とは何かを問うユニークな新書が出ました。「物語のあるところ 月舟町ダイアローグ」(ちくまプリマー新書/新刊836円)です。

本作は「ちくまプリマー新書400巻記念」として発行されました。吉田はこの新書創刊当時から、ブックデザインを手がけており、そんなこともあって記念号に風変わりな小説論を発行しました。「月舟町」というのは、吉田の小説に登場する町。その架空の町にふらりと吉田が訪ねて、そこに生きる人々と会話を交わすという体裁です。

例えばこんな具合です。著者の作品への描写力について、「もし、作者がお粗末であったら、登場人物たちが積極的に補えばいいんです。逆に言うと、作者があまりに手を尽くしてしまうと、私たちはがんじがらめになって息苦しくなります。いきいきと演じられなくなります。」

著者の創作した人物が、著者に向かっていかに演じるべきかを論じるなんて、なかなかユニークな展開です。

「ようするにアンタは自分の意図やらテーマやらを、読者の皆さんに伝えたいのかい?」

「ええ、それこそが悩ましい問題で、伝えたいことがないわけではないんです。でも、あれ?意図を伝えるために小説を書いているんだっけ?と立ちどまってしまうんです。そうではないような気がして」

などと、なぜ小説を書くのかという原点を二人で語りあっていきます。これを普通に書いてゆくと、小難しい文学論になってしまって、誰も読まないかもしれません。元々、プリマー新書は、高校生から大学生向けに読んでもらおうと企画された新書なので、読みやすさが至上命題です。でも、若い世代向けだからイージーとかそういうことは全くなく、どなたが読まれても納得できる内容です。

「アンタは何も分かっていないってことだ。分かってなくても当たり前だし、分かってないアンタが、分かんないけどすごくいいものを ー すごくいいってことだけは分かってるものを、どうにかして、つかみ取ろうとしている。その悪戦苦闘ぶりを書けばいい。アンタが懸命に苦闘すれば、かならず読者が読んでくれる。読んでくれるっていうのは、アンタの苦闘をたすけてくれるってことだ。そう信じていい。それが今夜の結論で、明日は明日で、明日の結論がある。だから、明日も生きよう。アンタは書け。俺は読む。書く奴がいれば、きっと読む奴がいる。そう信じていい」」なんて台詞は、ズバリ書き手の核心をついています。

「書く奴がいれば、きっと読む奴がいる」シンプルですが、だからこそ、本屋が存在するのです。

誠光社店主である堀部篤史さんの新作「火星の生活」(誠光社/新刊1760円)は、そう、そう!と読みながら何度も頷いたエッセイ集です。

のっけから、リドリー・スコット監督の「オデッセイ」の映画評から始まります。火星に置き去りにされた生物学者のサバイバルストーリーですが、この主人公は絶望的な状況で、とにかく悲壮感などまるでなく嬉々としています。堀部さんは「危機に直面してすら知的探究心を損なわない科学オタクのタフネスと楽天性だ。とにかくこの映画には徹頭徹尾悲壮感がない。そのことにぼくは胸を打たれた。」と書かれています。いや、その通り、全く同感!

おそらく本のタイトル「火星の生活」はこの映画からきているのでしょう。私自身大好きな映画だということもあって、もう、嬉しくなってどんどん読み始めました。本書に登場するエッセイは、かつて様々な媒体に掲載されたもの。これらの原稿を、「いまさら読みふけり、これらに手入れし、新たに問わず語りの原稿を書き足して形にすることをふと思い立った。」のだそうです。

彼が書いてきた書物のこと、音楽のこと、そして映画のことが、新たな形で再生されていきました。とりわけ面白かったのが、最後の「通勤する侵略者」で展開される「サバービア」論です。サバービアとは、「郊外生活者とか郊外でのライフスタイル、生活様式のこと」をいいます。ここでは、アメリカにおけるサバービア生活者のことを、紹介しています。

「アメリカ映画なんかでよく目にする、同じ形の家がズラーっと並んでいて、前庭には芝生が刈り揃えられていて、空が開けているような光景。ちょっと外に出ると森や丘のある自然環境のなかに新しく作られた新興住宅地、それがサバービアです。」

堀部さんは、音楽、文学、映画などから様々な事例をあげながら、その光と陰を明らかにしていきます。当ブログで「泳ぐ人」を紹介しました。これは、まさにサバービアの幻想、アメリカ的ハッピネスの崩壊を描いていました。堀部さんも紹介しています。そして、この論の最後をこう結んでいます。

「郊外型のライフスタイルというのは、それ以前の都市生活を忘れさせるほど浸透している。でも、システムキッチンで主婦がひとりで料理することも、無印良品やユニクロが与えてくれる選択肢の中から生活用品を揃えることも、夫は通勤し夜遅くに帰宅して、家事や子育ては妻におまかせという生き方も、決して当たり前ではありません。本を読み、映画を観ることで相対化することによって、いまの世界とは違ったありかたをイメージできるはずなんです。別の可能性があるということにまず気づくこと、読書はその助けになってくれるはずです。」

サバービアから始まって、本を読むことの意味合いをズバリ指摘して、本書は終わります。お見事でした!

1932年コロンビアに生まれたフェルナンド・ボテロ。この画家の絵を観たら幸せな気持ちに浸れること間違いなしです。

映画「フェルナンド・ボテロ豊満な人生」(アップリンク京都で上映中)は、現在に至る画家の人生を辿った記録映画です。彼の手に掛かると、人間も静物も全てふっくらした形状になるのです。素朴でユーモアのある画風は、世界中に多くのファンを作ってきました。

この映画では、幼い頃に父を失い、闘牛士になるために学校に通いながらスケッチ画を描いていた幼少期から、画家を目指してひたすらキャンバスに向かう日々、そして対象物をぼってりと誇張して描く独特のタッチを見つけ出すまでを追いかけています。蛇足ながら、若き日のボテロはロバート・デ・ニーロばりのイイ男。現在の彼も枯れた魅力をたたえた男前です。

ポップアートや表現主義的な抽象絵画がシーンのトレンドの時代に、彼はひたすら具象画を描き続けました。ぽってりふっくらな人々、動物たちを。そして、ついに「12歳のモナ・リサ」が MOMAで展示され俄然注目を浴びます。

雑誌で見かけたことはありますが、これほど沢山のボテロ作品に出会ったのは初めて。芸術って人を楽しませるものなのだ、というボテロの言葉通り、映画を観ている間ずっといい気分でいました。

彼の人生は波乱万丈で、コロンビア出身ということで差別されたり、愛する息子を失ったり、何度もドン底を経験します。やがて、彼は彫刻に挑戦。もちろん、ぽってりした人物や動物たちを制作していきます。各国で開催された展覧会場に、ズラリと彫刻が並んでいるシーンが登場します。子供が不思議そうな顔をしながらその彫刻に見入っているシーンが、微笑ましい。

その一方、2005年アブグレイブ収容所で起こった米兵による囚人への虐待事件を怒りを込めて描き、50枚の絵画を発表します。この作品群はイタリア、ドイツ、ギリシャで公開され、翌年にはニューヨークでも展示されました。

現在90歳になったボテロは、子供たちや孫たちに囲まれながら創作活動に勤しんでいます。

ちなみに今年4月「ボテロ展 ふくよかな魔法」が開催されました。10月8日からは「京都市京セラ美術館」に巡回してきます。これはぜひ観なくては!幸せな気分になりましょう!