「コペルニクス的展開」略して「コペ転」。とんでもない考えや発想、或は物に出会った時に口から出る言葉ですが、本日発売の「コトノネvol.22」(780円)に掲載された岡田美智男さんへのインタビュー『弱いロボット』だから、できること」は、まさに私には「コペ転」でした。

私たちのロボットへのイメージの底辺にあるのは「鉄腕アトム」でしょう。人間のために働き、人びとの幸福のためにその能力を駆使する、というものです。生産ラインで働くアームロボットも、介護現場に投入されつつある介護ロボット、最近で銀行等でも見受ける人体型営業サポートロボット等々。みんなアトムの延長上にいます。

しかし、豊橋技術科学大学教授、岡田美智男の提唱するロボットは、ゴミが落ちていても、拾ってくれない、仕事を与えてもオロオロ、ドジなロボットです。ゴミが落ちているあたりでモジモジしていると、傍にいた人がつい手をだして、ゴミを拾ってゴミ箱に入れてしまう。結果、その部屋は片付くということです。

不完全なロボットという、世の常識をひっくり返す発想について、こう語ります。

「ぼくらのコミュニケーションは、そもそも不完全なんです。それでも、ぼくらが何も不自由さを感じないのはなぜかっていうと、その不完全な部分を補ってもらって完結させている。なら、ロボットも必ずしも自己完結する必要がないんじゃないかな、とつくりはじめました」

そうか、僕たちが不完全なら、ロボットも不完全でいいや、なんてフツー考えます?

「もともと、わたしは役に立つっていうのが好きじゃない。むしろ、気持ち悪い。完成したロボットに周りを囲まれる生活って嫌だなと、それではぼくらは完全に受け身になる。俺は何すればいいんだって、とまどいだけあった。」

役立たずのロボットは、人を能動的にしてゆくのか!不完全な存在である人と、同じく不完全なロボットが手助けをして、目的を達成する共存の関係へと話は続いていきます。

これは、SFアニメの世界ではありません。現実に、弱さの共有から、新しいコミュケーションを模索している科学者たちのプロジェクトです。ロボットに興味なんかなくっても、「コペ転」的驚きで、ご自分の脳内をシャッフルしてみては如何でしょうか。新しい見方、発想が生まれるかもしれません。

池澤夏樹編集の「日本文学全集」の「近現代作家集1」(河出書房新社1800円)はユニークな編集方針で作られています。

池澤は「はじめに」でこう述べています。

「工夫したのは並べる順番で、これは作者の生年の順とか、作品の発表の順ではなく、その作品が扱っている時代の順にしてみた。作者にとっての現代ないしは同時代を書いたものは発表年を基準にする。」

この「近現代作家集」は第三集まで刊行される予定で、順を追って読むことで、明治時代から3・11までの日本人の歴史を追いかけることになります。

収録されている作家は、久生十蘭、神西清、芥川龍之介、泉鏡花、永井荷風、宮本百合子、金子光晴、佐藤春夫、横光利一、高村薫、堀田善衛、岡本かの子です。その中で、神西清、宮本百合子、横光利一は読んだことがなかったので興味深く読みました。

芥川の「お冨の貞操」は、芥川の短編の巧みさを再認識させてくれるし、横光利一の「機械」は、極めて奇怪な小説で、町工場に働く三人の心理が、ねじれにねじれてゆく様に読者が巻き込まれていきます。読みにくいと言えなくもないのですが、一端巻き込まれると、眩暈に似た感じで酔わせてくれます。

宮本百合子「風に乗って来るコロボックル」は、彼女が19歳の時の作品で、死後に発見されました。北海道のアイヌの人を主人公にした物語は、ファンタジーの様な不思議さに満ちています。コロボックルは、アイヌの伝承に登場する小人のことで、その躍動感は、19歳の若さが書かせたものかもしれません。

「田園の憂鬱」で有名な佐藤春夫の「女誠扇綺譚」は、ゴシックロマン風小説で、かなり面白い作品です。舞台は台湾。廃墟と化した大きな屋敷で、そこから聞こえる女の声を巡る話です。むっ〜とする熱帯の空気と、廃墟の死の匂いがブレンドされているのですが、単なるオカルト小説ではなく、文学として成り立っています。

今回収録された作家で、唯一現役なのが、高村薫。彼女の長編「晴子情歌」の一部が抜粋されています。昭和初期の北海道の鰊の漁場が舞台です。事細かにこの現場が描かれているのですが、池澤は「現代文学には珍しく人間が働く現場を精密に書いた小説だということだ。行間から臭いと匂いが沸き立つあたり、小林多喜二の『蟹工船』などを継承するプロレタリア文学の到達点と言うことができる。」と評価しています。ネオリアリズム映画を観ているような濃い描写です。

どの作品も読み応え十分で、こういうアンソロジーから、自分好みの作家が見つかるかもしれません。

「京都文芸洛草」、「おかもちろう」等ユニークな雑誌、書籍を発行する「しろうべえ書房」さんが、関西TVの朝の番組「よ〜いドン」の中の人気コーナー、「となりの人間国宝」に昨日出演されたそうです。

関西人なら、このコーナーは誰でもご存知ですよね。タレント&歌手の円 広志 が、ぶらっとお店を訪問して、そこのオーナーとしゃべるというものです。そして、認定書「となりの人間国宝さん」シールを貼ってもらえます。

でも、出版社って初めて?しかも、インディ−ズ系なんて凄いですね。この出版社とは「京都文芸洛草」創刊以来からのお付き合いです。雑誌部門では、この本以外に「おかもちろう」、「mochiko」を発行。単行本も「鴨川左岸」「愛と家事」等、コンスタントに、ひとひねりした書籍を刊行しています。会社は奥様と二人で経営されています。

当店では、どの本も9割の売りという抜群の成績です。昨日、社長と奥様と小さなお子さん(二代目?)でTV出演報告と一緒に、新刊をお持ちくださりました。

それは歌集+歌論の二冊セット、三宅勇介著「亀霊」(2700円)です。この歌集は作りが贅沢です。20数種類の紙を使用して、美しい製本をしています。各々紙の質感、デザイン性、微妙な色合い等が楽しめます。触って良し、見て良しという感じです。

さて、肝心の歌集ですが、これが面白い。日常のある瞬間をストップモーションにしたような作品、例えば

「トイレット・ペーパーの芯カラカラと回りたるを止め静寂を統ぶ」、

「見逃しの三振したる打者は皆必ず睨む虚空持ちたり」、

等、その瞬間の映像がすっくと脳裏に立上がってきます。

その一方、ちょっとシニカルに私たちの行動を見つめた作品も目立ちます。

「このカレー普通に旨しと言ふ奴の普通につきて熟考をす」

「自動ドアまだ開く前にぶつかりて春の嵐に押されたふりをす」

など、クスッと笑えそうな作品ですね。歌集なんてとお思いの方、ちょっと高いですが、素晴らしい製本を楽しむつもりで如何でしょうか。

蛇足ですが、この作家は愛犬家?なのでしょうか。犬がらみの作品をチラホラ見かけます。

「耳立てて風の文法解読しヨークシャー・テリア首傾げたり」

 

京都シネマで朝、一回上映の名画リレー(京都シネマ会員は500円!)作品「アイ・イン・ザ・スカイ世界一安全な戦場」を観てきました。ポリティカルサスペンスの傑作で、一秒も画面から目を離せない映画です。現代の戦争の一断面を、サスペンスいっぱいに描いただけの映画かというと、そうではないところが妙味です。

舞台は現代のナイロビ。その上空6000mを飛ぶ無人偵察機ドローンの「空からの目」が、テロリストの動向を探っています。凶悪なテロリストたちが、大規模な自爆テロを実行しようとしていることをつきとめ、その隠れ家をドローン搭載のミサイルを使用して爆撃しようと英国、アメリカの軍人たちは動きます。ところが、そのテロリストのアジト前で、近くに住む少女がパンを売っている。この少女を犠牲にして、爆撃を敢行するのか否かを巡り、軍部と政治家の熾烈な駆け引きが始まります。

即時爆撃を主張するイギリス軍のキャサリン大佐と、少女を巻き込むことに逡巡して、英米政治家が、法的責任を巡ってタライ回しを始めます。この辺りのやり取りを、映画は極めて冷静に描いていきます。大義なき戦争を始めておいて、少女1人の命の重さも今更ないだろうと思うのですが、その矛盾を抱えたまま映画はどんどん進みます。

この軍人も政治家も、戦場から遠く離れた場所で、ドローンから映し出される映像だけを見て判断しています。「世界一安全な戦場」というサブタイトルそのままです。私たち観客も、この映像を凝視しながら、無意味な戦争への参加を余儀なくされます。

椅子に坐って、空調の完備された空間にいる軍人、政治家たちの中で、実際にドローン搭載ミサイルの引き金を引くアメリカの軍人が悲惨です。目の前に広がる惨劇を目にした彼が、おそらく精神に変調をきたし、普通の人生から逸脱してゆくことを予感させる様な表情でスクリーンから消えていきます。もちろん、この少女にも未来はありません。

殺戮の実感を伴わない現代の戦争の、ゾッとする姿を垣間みたような作品でした。

 

少し前の店長日誌で梨木香歩作品集「西の魔女が死んだ」の素晴らしい後書きについて言及しました。大事なことは、「大きな声を持たずとも、小さな声で語り合い、伝えてゆくことができる。」と、彼女は記しています。

同じことを音楽家、細野晴臣はその著書「分福茶釜」(平凡社/ハードカバー絶版800円)でこんな風に語っています。ある言語学者が「本当のことは小さな声でひそひそ語られる」という発言を受けて

「実は人びとにいっぱい聴かせるような音楽は好きじゃないんだ。大きな音で人に聴かせる音楽ね。大きな音で聴かせる音楽はオペラから始まったんじゃないかな。ローマ帝国のパワーだよ。でも少数民族の音楽って自分だけのためにある。旅をしながら親指ピアノを弾いたり、鼻で吹く笛は自分にしか聴こえないし。自分と自然との環境のなかで、くゆらせる音楽っていうものがある。で、大きい音ってどこから出てくるのか、と考えたら帝国主義なんだと思ったわけ。」

そして、こう結びます。「演説も、アジテーションも、とにかく大きな音は空しいんだよ。」

北欧の少数民族サーミに伝わる伝統民謡、通称「ヨイク」を歌うウッラは、今もトナカイと暮らしています。その音楽は細野の言う通り「自分と自然との環境のなかで、くゆらせる音楽」です。(CD「ルッサ・エアナン」1300円)

「うるさい音楽は音を小さくしたってうるさいし、逆に、いい音楽はフルボリュームにしたって静かなんだよ。」とも語りますが、これ、正しいと思います。店内でかける音楽には気を使っていますが、ジャンル、内容に関係なく、良い音楽は静かに染み込みます。あるロックバンドの音楽を流していた時、ロックのロも知らないお客様が、「この音楽、本に寄り添ってるね」と言ってくださいました。書物にとっていい音楽だったのだと、ちょっと嬉しかった。

細野のこの聴き語り本は、音楽のことだけではなく、例えば、老いることはよい、と語っています。

「本来は自然に年をとれば知恵がつく。ところが最近の老人はちゃんと年をとれていないから。本人も自分を老人と思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。」

こんな具合に、音楽のこと、社会のこと、そして生きることを、盟友鈴木惣一郎と共に語り尽くします。

 

のっけから、こんな具合で始まる。

「ハエがいる。ハエと棲んでいる。天井が高く、吹き抜けのようになっている。去年、三年目に、起きてから寝るまで、下で横になっていないのに気がついた。”セイホ”ー生命保険ではなく、生活保護もそう称ばれている。そこから支給される部屋代の枠内で、当町に移住した。妻の代理人の土建屋に恫喝され、離別して一戸建て団地の家に立ち退いた。」

岡田睦の作品を集めた「明日なき身」(講談社文芸文庫1000円)に収録されている「ムスカリ」の冒頭です。昭和7年生まれの岡田睦は、雑誌「三田文学」に小説を発表、「夏休みの配当」で芥川候補になるも、全く注目されず、私生活では離婚を繰り返し、あげくに生活保護を受ける状態にまで至った私小説作家です。

この作品集には5作品が収録されていますが、いや、もう読むほどに、貧困のあまりの描写にぐったりさせられてしまいます。真骨頂?は「ぼくの日常」でトイレの下水溝が詰まる寸前で、それを直すために、下水溝に手を入れる件です。

「糞小便とトイレットペーパーが溶でけ合って、掴みにくくなっている。右手で掬うように掻き出すのだが、躰までが凍てつくような冷たさだった。ここは石堀と家屋のあいだにある細長い所で、掻き出した異物をあたりかまわず放るように捨てた。」

お食事前の方、ご免なさい。延々こんな日常、薬物依存、飢餓、不眠、身体の不調が語られていきます。一行一行の文章がこちらの身体を蝕んでゆく気分にさせてくれます。だったら、読まなければいいのに、と思いそうですが、本から離れられないところが不思議です。この最底辺の生活描写が、逆に倒錯的に生きる情熱を浮かび上がらせる力を持っているから、面白いのかもしれません。

さらに、悲惨を描く小説が続きます。「火」では、大晦日に「老化したアパートの部屋をあたためていた電気ストーブが点かなくなった」極貧の男が主人公です。精神的に不安定で、不眠に苦しむ彼は、鼻をかんだティッシュに火を点けて、暖をとろうとする。しかし、一気に火は部屋に燃え広がり、唯一あったどんぶりに水をいれて、投げつけるも大きな火災になってゆく。

そんな話ばかりなのですが、途中で放り出させない強さと個性をもっています。基本的に私小説作家は極貧のうちに死を迎えることで、その作家生活の終局を作り上げます。しかし、岡田は、2010年発表の「灯」(この作品種にも収録)以後、消息不明になっています。今も、どこかの取り壊し寸前の廃屋の片隅で、震える手で原稿用紙に向かっているのかもしれません。まだ、暗い情念は生き続けているやもしれません。

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毎回、ユニークなテーマで迫るミニプレス「月極本3」(YADOKARI1944円)の最新号は「好きなお金、嫌いなお金」が特集です。実は、この号で「個性派書店が選ぶ『お金』を知るための50冊」という特集を組むにあたって、本をセレクトしてくださいというお申し出がありました。

しかし、このテーマは案外難しいんですね。お金や金融の流れを解説したビジネス本でもなく、儲け方の本でもなく、もっとお金の本質に迫る本というのは。散々、悩んだあげく一冊のみ推挙しました。

本が出来上がり、この特集に参加された書店さんのチョイスした本を見ていると、う〜ん成る程なぁ〜と、その着眼点に感心していしまいました。少し、ご紹介します。

恵文社一乗店の鎌田さんは「エンデの遺言」。エンデが残したテープを元に制作されたドキュメンタリーから出来た本。「金利によって宿命づけられた経済成長本位の限界に異を唱え、そもそもお金とは何かという根源的な疑問」を語った一冊と説明されています。

長野の書店「栞日」オーナー菊地さんは「ゆっくり、いそげ」(大和書房1620円)。

この本は「クルミド出版」(当店でもクルミド出版の本は取り扱っています)を経営する「クルミドコーヒー」オーナー影山知明さんの本です。影山さんは、当店にも来られた時にお話をしましたが、明確なビジョンをお持ちで、「グローバル経済」と「スローな経済」の真ん中を行く、新しい経済について書かれています。実に面白い本です。

豊中の「blackbird books」店主、吉川さんは、サローヤンの「パパ・ユア・クレージー」。やるなぁ〜!、この本選ぶなんて。「幸福はお金とは別の場所でいつも生まれていること」に気づかせるとおっしゃていますが、その通りですね。伊丹十三の翻訳も素晴らしい!

「誠光社」堀部さんは、橋本治の「貧乏は正しい」。これも、なるほど〜!です。私も昔、読みましたが、わかったようで、わからん本でした。堀部さんは「若いことはすなわち貧乏である」という意味を理解するまで時間がかかったと書かかれていますが、自分の中にストンと落ち着くまで、時間のかかる本なのかもしれません。

さて、私が選んだ本は、以前に「店長日誌」でも紹介した渡邊格「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』」です。

信頼できる人から、それ相当の金額で正しく買うことで、お金の呪縛から解き放たれることを書いた、パン屋の青年の主張に納得させられた一冊です。この本は、今回の特集号の中で、もう一店が推薦されています。話題の新刊書店「title」さんです。店主の辻山さんが書かれた「本屋、はじめました」に共感して、ブログでも取り上げました。今、一番、お話したい店主さんです。

他にも、個性的、魅力的な書店さんが並んでいます。こんな本を選ぶんだ!という予想外の楽しさ一杯の特集です。

ゴールデンウィーク明けの二日間、店を連休しました。そして、只者ではない二人の表現者の芸を楽しんできました。

月曜日、久々に大阪松竹座の「五月歌舞伎」へ。お目当ては市川猿之助の「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」。2時間半ぐらいのエンタメ。入場料いただいたら、その分、きっちりと楽んでかえってもらいます!という、気合い十分なお芝居です。男と女の嫉妬が、どす黒い怪物を生み出し、大活劇に至るという歌舞伎ならではの荒唐無稽な物語。能の名作「道成寺」までひっかけるスピンオフ的展開で満員の観客を引っ張ります。ワイヤーつけて3Fまで舞い上がる宙乗り(奈落からワーッと真っ直ぐに天井近くまで引き上げられる迫力!)はあるわ、ひっきりなしに三つの仮面を付け替えて踊る舞踊はあるわ、もうなんでもござれ。長唄、常磐津も怒濤の如く、迫ってきます。

凄い!と思ったのは、隣の席の女性が、役者の見得に合わせて首を振られているのです。いや〜、タテノリのライブ感覚。独自のスピード感で、劇場全体をドライブさせて、観客をノセルなんて、ロックのライブですね。先代猿之助が、この手のケレンたっぷりの舞台を復活させた時、批判も多々あったように聞いていますが、もうそんな言葉は寄せ付けません。照明や炎の演出も、おそらくスーパー歌舞伎などを経て技術力が上がり、ダイナミック。

次の日は、京都国立博物館で開催されている「海北友松(かいほうゆうしょう)」展に出かけました。開場30分前に着いたのですが、100人以上の列。海北友松は安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、雲の間から飛来する竜の絵が有名らしいのですが、私は全く知りませんでした。

先ず、「放馬図屏風」という野生の馬を描いた作品に足が止まりました。野生のくせにちょっと太り過ぎだろうと言いたくなる馬の、真ん中の一頭の前足がかっこいいのです。大地を踏ん張っている感じ、その後ろ姿のポーズの良さにしばし見入りました。

そして、雲の間からこちらを睨みつける二頭の竜。展示室は、照明を落とした空間。きっと当時の人たちはこんな暗い空間で、蝋燭の灯りを頼りに眺めていたのでしょうね。画面から漂う妖気に震え、そして大自然への畏怖の念を感じ取ったことでしょう。

これらの竜は、その異形をもって、お前たちは万物の長にあらず、その一部に過ぎぬわ!何もかもコントロールできるなんて大間違いと、暗闇の向こうから喝!と、現代人の姿を一笑するするような凄味がありました。

 

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2011年の福島原発事故以来、住宅の省エネルギーへの関心は大きくなっています。

でも一体、冷房に頼らない夏の住宅環境を実現する、なんてことが可能なのか?電気に依存しすぎる生活を、どうやって考え直せばいいの?それになんだか、スマートハウスと銘打つ「省エネ」などは、機械設備に頼りすぎてはいないか?

そこで「パッシブデザイン」という定義。「建物のあり方に工夫して、建物の周りにある自然エネルギー(太陽・風・地熱)を最大限に活用・調節できるようにし、高い質の室内環境を実現させながら、省エネルギーに寄与しようとする、建築設計の考え方とその実際的手法。」なんです。

で、これをもうちょっと、目で見てわかるように展示しようじゃないの!というわけで、小嶋雄之さん渾身の模型を展示しました。家を三つに縦割りにしたものが模型になっていて、風の通り具合や、床の蓄熱の工夫など、見ることが出来ます。図面だけで見ると難しそうでも、模型にしてみて、お話を伺ったりすると、環境抜きに家を考えることはできないことに改めて気付かされます。この家なんとなくいい感じだな〜、と思うことができれば、省エネの第一歩かも。

家というのは、住んでいくうちに、住む人によって変化していくものだと思います。完成品に人をはめこむわけではありません。そういうことを、ずっと前から発信していたのが、「もじゃハウス」の干潟裕子さんです。干潟さんの作っているミニプレス「House “n”Landscape」は、第1号からレティシア書房で扱っていますが、彼女が提唱している、植物でモジャモジャした家こそは、住む人が育てるものです。

干潟さんは、造園を学んだ後、ランドスケープ設計士として公園などのデザインを手掛けて来られたのですが、緑でモジャモジャの家に住みたいと、建築士になりました。彼女自身が、緑に癒されて励まされたということで、植物の持つ力を信じ、植物の成長とともに生きる家の設計を目指し、その宣伝のためにミニプレスを作ってきました。第4号発行が、今回の展覧会に間に合ったので、バックナンバーと共に販売しております。(1号のみ完売・在庫なし)

住むこと、生活することを考え直すきっかけになるかもしれない、この展覧会『もじゃハウスプロダクツ&小嶋雄之設計事務所によるフレンドリー建築ショーin京都』にご来場をお待ちしています!(女房)

『もじゃハウスプロダクツ&小嶋雄之設計事務所によるフレンドリー建築ショーin京都』は5月21日(日)まで

 

これ、どう見ても異常なんですが、実はセルフポートレイト写真なんですよ!

おばあさんが、可燃ゴミとして処分される自分のポートレイトを撮るか?!と思いますが、この作者の西本喜美子さんは、取材当事87歳。熊本在住で、感情認識パーソナルロボット「Pepper」(なんと、熊本弁を話すらしい)と暮らしています。写真を撮り始めたのが72歳。その10年後の2011年に初の個展を開催。この写真が老人虐待だ、と非難が出たりとかしたみたいです。彼女曰く、写真撮影に必要なのは、好奇心と行動力だ。並外れた行動力ですね。

さて、このおばあさんより、少し若いのですが、76歳の小林伸一さん。横浜にお住まいです。このおじいさんの自宅が、そのまま強烈なカラーアートで囲まれています。もちろん、描いたのは小林さん。植物、食物、富士山、鉄腕アトム等々、1階から2階に至まで、鮮やかとかいう言葉が吹っ飛ぶ色彩が迫ったきます。岡本太郎じゃないけれど、「芸術は爆発」ですね。

と、まあ、恐らく世間からは、あの人はちょっとねぇ…….と、敬遠されているかもしれないけれど、好きなように生きて何が悪いという表現者を集めたのが櫛野展正著「アウトサイドで生きている」(タバブックス1944円)です。著者は、日本唯一のアウトサイダー・キュレーターです。社会と断絶した、あるいはさせられた人たちが、再び社会との接続する時にバックアップする存在として活動を続ける一方で、こうも語っています。

この本に登場する多くの人たちが、全く孤立無援なわけではなく、それなりの生活を送っていることを踏まえて、「狂人だから制作しているのわけではない。正気を保っておくためにつくり続けているのだ。誰もがアウトサイダー・アーティストになる可能性を秘めている。そう、みんなアウトサイドで生きているのだ。」

NYの暗闇を歌い続けたルー・リードの名曲“Walk on The  Wild Side”も、アウトサイドで生きているほうは面白いよね、と歌っています。この本に登場する11人の刺激的な生き方を読んで、見て、少しだけ横にそれる楽しさを知っていただければいいかもしれません。