「鍵泥棒のメソッド」を観に行きました。騙されがいのある、こんなハイクォリティーの日本映画はめったにない!

まずタイトルからして、仕掛けてきます。多くの一流の俳優を輩出したニューヨーク「アクターズ・スタジオ」の演技理論が「メソッド」と呼ばれていて、その意味をひっかけてあります。実は、主人公の自殺志願の男が、売れない役者なのです。そして、この男と、もう一人の主人公の裏家業の男が、映画の流れ的には全く違う意味を持っているんですが、どう考えても感情の動きを重視する「メソッド」を具体的に教えてくれるシーンがあるからです。

裏家業の男を演じる香川照之が、もう見事、見事という他ありません。最初の風呂場での××××のギャグに始まり、あのナイフが××××で、実は×××××だったこと(見事に観客を騙してくれます)また、自殺志願の役者役の堺雅人も、これまた微妙な表情の変化が見事、見事です。特に、後半やくざ相手に×××××な演技をするあたり、可笑しくて可笑しくて大変でした。そして、もう一人。ヒロイン役の広末涼子の、どっか現実離れしている編集者役も見逃せません。胸キュンの時の×××××サウンドもウィットがきいています。

ストーリーをお話しだすと、×××××××××××××××××××××××××な部分ばっかで、お読みの方に「ええかげんにせぇー!」とお叱りのメールが来そうなんで止めます。ハイクァオリティーの映画というのは、細かい部分まで脚本に書き込まれ、それをきちんとした役者が、そのすべてをくみ取り、カメラの前で演じているのだということを教えてくれる作品です。演技という虚構性をくすぐったりもして、ハイブローな映画でした。1800円は全く惜しくありません。

監督は内田けんじ。前作「アフタースクール」でも、お見事観客を騙かした才人。このブログ読んで、劇場に足を向ける気に成った方にアドヴァイスです。エンドロールの途中で立ち上がらないこと。ちょっとしたエピソードあり。あの女性も××××××××でした。と×××××だらけのブログになってしまいました。

 

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先日、店のお客様から、とある神社境内の骨董市に別冊太陽の古いのが出る!という情報を頂きました。それで、6時に起きて出陣しました。

神社へ行くのに、祇園小路を突っ切りました。早朝の祇園って、宴の後の寂しさと、徹夜明けの夜のお商売の人達の倦怠感がミックスされていて、いい感じ?でした。そして、程なく神社に到着。人だかりが見えてきました。

早速、チエックを開始。お〜、古い「週刊朝日」が一杯。欲しいけど店では売れそうにないと判断して、「太陽」の箱に移動します。先ず、ゲットしたのが、昭和61年発行の「別冊太陽 本の美」。向日庵私本の造形美に始まり、明治〜昭和を代表する装飾家30人の代表作を紹介した「美書探訪」。そして、現代造本の第一人者栃折久美子さんの代表作の紹介と、盛りだくさんの内容です。さすが、別冊太陽です。お値段は1300円(他の古本屋で値段みたら、最高3000円でした。まぁ、そんな値段つけられる格式のあるような店ではないんで)。

もう一冊は月刊の「太陽」70年5月号。特集は「世界の飛行機」表紙はジャンボの主翼下からエンジンの迫力を撮った写真。「大空の主役たち」という当時、最先端の機種の機能美溢れる写真が、心揺さぶります。なんと文章は石原慎太郎。また。ジャンボ機を取材した文章を書いているのは、寺山修司と、文芸誌なみの布陣です。そして、飛行機オタクの私が、そそられたのが「もうひとつの日本の空」で、航空自衛隊を取材した記事。ロッキード社の機体で、最も素晴らしい!F-104Jがスクランブル発進する白黒写真を見つけた時は、震えましたね。一度でいいから、この機体に触ってみたかったです。

 

 

ところで、飛行機オタクの私が好きなLPジャケットがあります。それが、これ。タイトルといい、写真といいカッコいいでしょう

 

ミニプレス「日々」最新号が到着。

特集は「cimaiのパン」そしてパンの「お気に入りの食べ方」と丸ごとパンの特集です。cimaiは埼玉県で姉妹が手がけるパン屋さん。姉が天然酵母のパンを作り、妹はイーストのパンを作るユニットです。お店の写真を見ているだけで、お腹が減ってきます。ページをめくっていくと、「カレ・プランの作り方」、「カンパニューの作り方」へと続き、そして、七名の方が写真入りで紹介している「お気に入りの食べ方」は、さらにお腹が減って、パン屋さんに走りたくなります。最後に載っている「パンをおいしく食べる」で見つけた「パンとにんにくのスープ」は美味しそう!香りが漂います。

 

ところで、前回大好評で、熾烈な競争(でもないですが)になった京都西陣の「はちはち」のパン出張販売が決まりました。

  10月19日(金)、10月30日 (火)午後4時からです。限定販売ですので、お早めに。

 

さて、京都発の文藝ミニプレス「APIED」の20号も入荷いたしました。特集は「海外短編小説」。私はあまり、海外の小説を読まないので、この中で紹介されているものも、初めて知るものが多かったのですが、山田稔がらみで読んだ「フィリップ短編集」やら、村上春樹訳のレイモンド・カーブァー「僕が電話をかけている場所」などもあり、興味深く読みました。この中で、三浦沙良さんの「美味しくてやがて恐ろしき」で、こんな文章を見つけました。

「私としては、この『島』でモンタギュー夫人が夢見る食事のように、美味しいものを少しづつ、目次をひらいた好きなところから楽しめる、というのが短編小説を味わうことの贅沢であると思う。(中略)たとえ灰色の日々であろうとも、こうした心の食事がとれる日常が、一日でも長く続いてほしいと、己の足下を見るたび、祈らずにはいられないのだ。」

本読みの至福の瞬間とは、こういうものでしょう。

APIEDには連載で「善行堂」の山本さんの「善行堂通信」が載っています。古本屋のつくりかたが懇切丁寧に書かれています。是非、この連載をお読み、読者の方々、レティシア書房近辺にどんどん、古書店を開店させてください。

 

 

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数年前、女房と北海道で蝦夷フクロウのつがいを目の前で見た。古い巨木の天辺付近にでじっとしている二匹。回りにいる人間なんぞ歯牙にもかけない堂々たる存在。こんな素敵な場所に案内してくれたのは、ブログでもご紹介したヒッコリーウィンドのオーナー、安藤誠さん。一時間程、その木の下から見上げていましたが、飽きませんでした。その安藤さんが、10月26日(金)来店されて北国の自然やカナダのオーロラのお話とスライド上映会(午後8時スタート)は、ほぼ満員ですが、まだ間に合います。

さて、火曜日より始まった「北岡照子木版画遺作展+北岡広子銅版画展」で、印象深いフクロウの版画が三点並んでいますが、お気に入りは、下の作品です。獲物の兎を、まさに獲得する一瞬を捉えた緊張感溢れる一枚です。

星野道夫「未来への地図」(2005年朝日新聞社)には、口に獲物のネズミを加えて、子どもが待つ巣へ降り立つ、畏怖すべき存在としてのフクロウの写真が載っています。堂々として、ちょっと恐怖感さえ感じさせるフクロウ。照子さんの版画にも、それは地表すれすれを飛ぶフクロウの影に表現されています。追われる立場に立てば、これほど恐怖をイメージさせるものはないでしょう。逆に俯瞰ショットで、この影を見ると大地の生態系の頂点に君臨するものの大きさが感じれます。作者の思惑と別にして、ここには追われるものと追うものの緊張感を立ち位置を変化させることで、感じるこができる作品です。

鳥の写真の第一人者、嶋田忠「鳥のいる風景」(1986年平凡社)を開くと、森の哲学者風情の知的なフクロウの写真や、鋭い視線で、こちらの心の中を見抜いているようなコノハズクの写真があります。ギャラリー見学の後にでも、開いてみてください。

 

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勢いがありながら柔らかな彫刻刀のリズミカルな線。

北岡照子さんの木版画が、古本屋の壁にピッタリ合っていい雰囲気です。

 

北岡照子さんは60才から始めた木版画を、とても楽しんで作っておられました。彫刻刀が木を削る音は、とても心を落ち着かせてくれると、娘の広子さんに語っておられたそうです。

81才で亡くなるまで毎年手作りのカレンダーを頂いておりました。今、こうして改めて作品を前にして、ゆっくり話されていた京都弁を思い出しています。

 

昨年、広子さんにはレティシア書房のロゴデザインをお願いしました。選んでくれたのは、黒猫が本の上にちょこんと乗っている絵で、それは、彼女のデザインでお母さんが彫られた蔵書票のデザインから頂いたものでした。

蔵書票は色々作っておられましたので、5枚1組500円で販売しております。

 

お母さんと共に作られた、看板猫の絵を大切にしていきたいと、しみじみ思っています。(女房)

 

 

 

●「北岡照子木版画遺作展+北岡広子銅版画展」は10月7日(日)まで。

●10月1日月曜日は休み。

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「ぼくらはみんな生きている/生きているから歌うんだ/ぼくらはみんな生きている/生きているからかなしいんだ/手のひらを太陽に/すかし てみれば/まっかに流れるぼくの血潮(ちしお)/ミミズだってオケラだってアメンボだって/みんなみんな生きているんだ/友だちなんだ」

やなせたかし作詞、いずみたく作曲のNHK「みんなの歌」で歌われた、誰でも知っている(歌える)曲です。この曲をロボット達が歌うのです。TV長編アニメ 「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX 2nd Gig 」のラストのお話。

このアニメ、何やら今の政治状況を匂わすようなストーリー展開です。近未来。国内に難民が数多く生活し、彼らがその生活圏を守るため、独立を求める。その一方、その動きを逆手に取り、世論を操作し、情報の独裁的管理で、何とか自衛軍の出動を正当化しようとする政治的勢力。背後に蠢く米国、中国の覇権主義。そして、その狭間で、国家に殺される、憂国の青年。という複雑な話です。

AI搭載の多目的自走式ロボット、通称「タチコマ」(写真見てね)がこの歌を歌うのは、内戦化一歩手前の日本を救うべく、情報管理を行う地球周回衛星と共に、自爆するシーンです。衛生と共に地球に落下するシーンは、「サイボーグ009」の「ヨミ帝国編」ラスト、真っ逆さまに地球に落下する009と004の名シーンを彷彿とさせてくれます。

コンピュータとチタンの固まりのロボットが、「手のひらを太陽に/すかしてみれば/まっかに流れるぼくの血潮(ちしお)」と歌う矛盾。彼らは生命体なのでしょうか。こちらが擬人化されたロボットに、勝手に感情移入しているだけなのかもしれません。しかし、近い将来、ロボット達が、自分達は生きていると考え、自由獲得のため政治的亡命を企てたり、生命体として死ぬ権利を求めたりという可能性は大いにあると思います。機械は心を持つか、という事を布施英明は著書「鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか」(晶文社)で、ダ・ヴィンチの人間機械論等を示しながら、解説しています。スリリングな刺激に満ちた、とても面白い科学読み物です。

 

南方熊楠、稲垣足穂、岡倉天心、茂田井武、熊谷守一、春日部たすく、津高和一、はてはリンカーンにシュバイツァー博士と、彼らの一生に大きな影響を与えた猫のことが書かれた本。

南方は、東大入学から74才で亡くなるまで、50年間ひたすら日記を書き続けた。どんな場所でも、街の猫の動静を細かく観察していた。例えば、

1898年4月29日 近頃家に宿無し猫来る、6月9日 此日猫三疋見る、8月15日 町中の猫みな眠り居る、翌年1月7日 帰途てんぷら屋、例の猫洗ひ居る。

とこんな具合で、延々と続きます。

終戦直後、子どものための絵本雑誌「キンダーブック」や「銀河」を中心にして活躍していた童話作家、茂田井武の傍には、飼い猫のチョンちゃんがいました。残された日記にも登場します。

1947年9月4日 三段目のたなの本の上に眠り、本といっしょにずり落ち、小生の頭の上にぶつかり机の上に鼻をぶつける。

ほとんど、うるさいだけの存在の猫なんですが、なくてなならない一匹でした。

茂田井武の章の最後を、本の著者はこう締めくくっています。

「公募展には出品せず、グループにも所属せず、体制に背を向け、既成概念を嫌い、反骨を貫き、妻と愛する三人の子どもを遺し、茂田井武は48才で夭折した。」

とても、猫的ではありませんか、すべてに、あっかんべぇ〜するという態度は。次の章で紹介されている熊谷守一は、85才の時、文化勲章受賞の打診を受けます。その時の回答が、これ。

「わたしは別にお国のためにしたことはないから」ときっぱり断りました。

安易になびかない、嫌なものは嫌、という態度もまた、極めて猫的です。

一方、現代美術作家の津高和一は、こう書いている。

猫たちは私の少年期以降の人生の折々を 凝視しているようでもあった。悲喜こもごもが交錯する哀歓の渦中で 猫は黙々と不介入ではあったが 点景となっていた。

付かず離れず、クールに見つめる猫の本性を見事に描いています。

ベタベタ、キャピキャピの猫本の反乱するなか、感傷に流されない猫的文章で出来上がったこの本は、猫が特に好きではないという人にも、面白い伝記ものとしてお読みいただけます。

で、タイトルは「我輩のご主人ー天才は猫につくられる」。著者は月刊「ねこ新聞」編集長の原口緑郎さんです。表紙の絵は、和田誠。

 

予告 

10月19日(金)、30(火)の午後4時過ぎから大好評の「はちはち」のパンの販売を行います。

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TVの音が聴こえない部屋は、なんて豊穣なんだろう。

井上靖の原作を映画化した「わが母の記」は、監督原田眞人の小津映画のオマージュとも言える作品です。人気文豪の自宅、別宅は調度品は趣味が良く、庭も丁寧に手が入っています。もちろん、財力が豊であるから可能なことなのですが、素敵な誂えです。特質すべきは、どの部屋にもTVがない。静寂の中で聞こえて来るのは時計の音だけ。畳の臭い、優しい光を放つ電灯、木の臭いが漂う机、そして書架。その静寂がゆっくりと流れる時間を形成し、人を包み込み、幸せな時を演出する。もう、これだけで小津映画です。

「ちいさな門が人待ちをしているように少し開いていた。細い路地を入ってゆくと、玄関の右手に侘助椿が咲いている。改築した隣家の加減で、そこだけ晩冬の日が指して射している。」

という文章で始まる梨木香歩の小説「からくりからくさ」(新潮社400円)も、そんな豊かさに満ちた本です。祖母が住んでいた古い家に住まいする四人の女性の生活の日々を淡々と描写した長編は、これといった事件も起こらずに進行します。そして、ラストでその古い家にあった「りかちゃん」という人形が、この作品を一気にファンタジーの高みへと一気に読者を誘います。このラストは彼女の小説でベストでしょう。

「伯母が死んで私と妻の二人が世田谷のこの家に住むようになったのが去年の春のことで、その秋に友達が三人でやっている会社をここに移し、今年の四月からは妻の姪のゆかりも住むようになったので、勤めに出ている妻をぬかして昼間は五人がこの家にいることになったのだけれど、私の知っているこの家の住人の数と比べたらまだずっと少ない。」

で始まる保坂和志「カンバーセション・ピース」(新潮社600円)は、ひたすら家の中を人と、新たにやって来た猫達が家の中を行き来する400ページの大作です。家の中でなければ、主人公が横浜球場で、白球を追いかけながら、ビールをただ飲んでいるという印象的?な小説です。帯には、関川夏央がこう書いています。

「どこがおもしろいのか、と問われてもうまくいえない。しかしおもしろいのである。日常は平和なままにスリリングにえがかれ得る。小津安二郎の映画のように。」

私は、何もTVの騒々しい音や、携帯の発信音に満ちた家を嫌悪しているのではありません。音楽も聴けないしね。ただ、無駄な音が鳴り止んだ時、家がそこに住まいする者を優しく見つめているような、言わば家の呼吸音が聴けそうな気がしています。

 

 

 

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先日、東京で行われている新作ゲーム展示会の事を報道していました。そこでヘッドギアを装着して、その人だけが見ることができるゲームを紹介しているのを見て、ついに、追いついたか、あの世界に、と思いました。押井守の映画作品「アバロン」です。

「アバロン」は、ヘッドギアを装着して行われる戦闘ゲームに大半の国民がはまり込んで、高得点を狙うあまり、多くの人間が廃人と化す状況の国(ロケはチェコで行われています)に生きる、孤高の女戦士を描く映画です。一旦リアルに撮影された映像をすべて、デジタル処理し直すという手法で再構成された映像は、そのバーチャルな世界と、彼らが生きている世界を独特の質感で描き出します。戦闘シーンで市街を移動する戦車を見ると、かつて自由を求めて蜂起したチェコの人々の前に侵攻してきた「プラハの春」事変のロシア軍を彷彿とさせます。

さて、ヒロインの女戦士は、そのバーチャルな戦闘世界で、さらに高得点を(このゲームは国の管理下に置かれ、ポイントに応じてお金が支払われます)得ようと前人未到の世界へと突入していきます。そして、以前から噂されていたプログラミングされていない究極の世界(バグと言い換えることもできます)へのキップをゲットします。その到達した世界で、彼女が最初に目にするのは「ようこそ、リアルワールド」というサインです。ギアを外し、外に出ると、なんと彼女が毎日生活している町、しかもいつもは曇天の町が、眩しい太陽の光に包まれた穏やかな町に変貌しています。そこで、彼女はかつての仲間に出会い、対決するはめになります。彼女の発射した銃弾は、彼の身体を貫通。死の間際彼は、「現象面に騙されるな」という謎めいた言葉を残して、息を引き取ります。ここは、リアルワールド。本来なら死体が残るはずなのに、その男を構成していた個々の情報に分解され消滅してしまい映画は終わります。不親切な映画ですが、色々と考えさせられるます。「ヴァーチャル」の究極が「リアル」というアイロニー。

ヴァーチャルな世界とリアルワールドを区別しているのは何なのか?

最初のヘッドギアの話ですが、このギアで一時ヴァーチャルな世界で遊んだプレイヤーが、こちらに戻ってきた時、もしその脳の奥深くに残像が残っていて、勝手に増殖しだしたらと思うとぞっとしますね。ヴァーチャルは、所詮ヴァーチャルなどと言えない程、リアルに近づいて来たこの時代。人はますますあやふやな境界線を歩くことになります。リアルな世界では「経験」という情報の蓄積で自己を形成し、ヴァーチャルな世界では、「疑似体験」というモードの蓄積で己を形成してゆくのでしょうか。

ひょっとして、いつもの犬との散歩は誰かにプロムラグされた疑似体験モードなのかも?

 

 

 

 

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ロードショー公開時、館内ガラガラ。再映時、満員。映画「グラン・ブルー」です。その主人公のモデルになったのが、素潜りのダイバー、ジャック・マイヨール。

作家、池澤夏樹が94年の春彼と過ごした時のことを一冊の本にしている。タイトルは「クジラが見る夢」。海と長年暮したジャックの思想を理解するために、彼と共に海に行くしかないと考え、行動を共にし、そして、その日々をまとめたのがこの本です。簡潔で、凛とした文章と、水中、水上の写真の写真が巧みに編集されています。もう、どの文章どの写真をとっても、胸にジンとくるものばかりです。

池澤はジャックをこう評価する、

「自然の中で一人でいきてゆける男。逆境は逆境として受け止め、その上で不自由な時間を楽しいものにできる男。質素の中に贅沢を見出せる能力。楽観的でありながら、最悪の事態への準備もさりげなくやっておく。そういう姿勢。」

ジャックを通して、池澤はイルカを、海を語る。しかし、最終的に見つめているのは自然という哲学。自然の中で、人は世界をどう考えるかということを、ジャックの生き方を通して語りかけているように思います。

ある時、彼はジャックに、何故、潜る時にスキューバを使わないのかと問いかけます。その答えはこうです。

「あれはエレガントではない」

その一言でした。プリミティブな思想。海中に入るために、文明の利器を背負うのではなく、自らの肉体に備わった機能だけで近づいてゆく。

池澤はこう考える。

「身体の能力を軽視して、甘やかして、その分だけ外部のシステムに依存するようになった。身体なくして生きるということはないのに、生きる実感はすべて身体経由で感じられるのに、精神だけが身体から独立できるような錯覚に陥っている。」

もう一度、身体とは何なのか、ということを深く考えさせてくれる本です。文庫は300円。大判のハードカバーは1500円。どちらをお買い求めいただいても、深い海の底まで連れてってくれます。

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