「二歳になるころ、ぼくの耳が聞こえないことがわかった。先天性の感音性難聴という診断だった。」で始まる齊藤陽道著「声めぐり」(晶文社/新刊1998円)は、障害者プロレスラーから、写真家へと転身した男が、聞こえない声とどう向き合い、自分の世界を取り戻していったかを綴った本です。

彼の病気は、内耳や聴神経などの音を感じる『感音器』の障害によっておこる難聴で、音がひずんで聞こえる、音の聞こえる範囲が狭いといった特徴があります。病気を認知した頃から、彼は補聴器を付け、正確な発音練習に明け暮れます。自分はきちんと声を出しているのか、変な声じゃないだろうかとビクビクした日々を送ることになります。相手の言う事が理解できなくても、分かったような返事と表情をするのが小学校時代だったと振り返っています。それは中学時代も同じで、「深まってゆく孤独をまた頑張って抑えていったら、きっと近いうちに、自死するか、残酷な形で人を傷つける未来しか思い描けなかった」という日々でした。

しかし、都立石神井ろう学校に入学し、手話に出会ったころから人生が変わり始めます。手話が自分の気持ちに結びついた道具として話せることを知でり、自分の声を取り戻していきます。

「朝起きてまず思うことは、『今日も話ができる!』だった。ごはんもそこそこに、制服に着替えてすぐ家を出て、自転車で学校へと向かう。」

けれど、人生はそんなに簡単にいかない。アルバイト先で「つんぼ」という差別用語をぶつけられたり、様々な場面で自分の存在を否定されたりする場に出くわします。罵声を浴びても、自分のことを見てくれていたという錯綜した思いをこう書いています。

「悪意のことばすら、まず自分を見てくれているという、いびつにねじくれた喜びとして感じてしまった。出てゆく先のない怒りは、鬱積し、よりどす黒く醜い色に染まりながら腐ってゆく」

そんな齊藤の前に、「無敵のハンディキャップ」という本が現れます。著者の北島行徳が代表を務める障害者プロレス団体「ドッグレッグス」の誕生から、試合、参加するレスラーの事を書いたノンフィクションです。齊藤は、この本にのめり込み、何度も、何度も読み返します。

「障害に負けず、健気に生きているという健常者にとっての都合のよいステレオタイプな『障害者」はどこにもいなかった。どの人物も血肉ある者として描かれていて、みんなが不器用に生きる『人間』だった。」

試合をみたあげく、「ドッグレッグス」に入門し、プロレスラーとしてリングに上がります。その後、リングでの体験を元に、写真家として生きていくのですが、波瀾と思いの深さに満ちた彼の物語を、このブログでは語りきれません。

本書は、障害者なのにここまでやっています、というような感動ものでもなく、自伝でもありません。齊藤は「声めぐりの旅へ踏み出す一歩を支えてくれた現象」を語ったものだと書いています。聴こえないからこそ、コミュニケーションをより深く真剣に考え、模索していった人生の記録です。

 

最愛の夫が交通事故で死んでします。安置所で、白い布をかけて置かれた彼の死体。ところが死体は、急に起き上がり、白い布を被ったまま歩いて安置所から抜け出し、野原を越えて、懐かしい我が家へと戻っていく。どうやら妻にも、他の人には彼の存在は見えていないらしい。え?死んだら魂は神の国に行くはずなのになんで…….?

映画「ア・ゴーストストーリー」は、そういう風に始まります。セリフを極端に減らし、ひたすら長回しの撮影スタイルと透明感のある色彩で、この男、いや幽霊を見つめていきます。誰もいない空間に、ぽつんと立っている幽霊は、絵画にような美しさともの悲しさに満ちあふれています。

家に戻ってきた妻は、心配した友人が作って置いてくれていたケーキを、ひたすら食べ続けます。あまりの悲しみに、ただただ食べ続ける姿は極めてリアルで、カメラはその姿をずーっと長回しで追い続けます。そんな彼女の側に幽霊はじっと居続けます。シーツの目のあたりにふたつ穴が開いているだけなのですが、愛しそうに哀しそうに、見ています。

37歳の監督デヴィッド・ロウリーは、幻想的なカットとリアルなカットを巧みに織り交ぜながら、この世のものでも、あの世のものでもない物語を見せてくれます。

季節は巡り、やがて妻には新しいボーイフレンドが出来て、思い出深い家を静かに出ていきます。間もなく、スペイン系の家族が引っ越してきます。思い出が消えるのがつらいのか、楽しそうな家族に嫉妬したのか、幽霊は家の中のものを滅茶苦茶に壊してしまします。幽霊が見えない人にしてみれば、もう恐怖の家ですね。その後若者たちが出入りしたりしますが、そのうち定住者がなくなり古びて荒れていく家。それでも、幽霊は留まりつづけていました。が、ある日クレーン車によって、壊され更地になり、大きなビルが出来てしまいます。無骨な鉄骨で組まれたビルに立つ幽霊の姿。もう、ここまでくると、誰か成仏させてあげて!と祈りたくなりますが、これがアメリカの映画であるところが何とも不思議です。

仏教的なようでいながらも、宗教臭さが全くないのも面白いところです。幽霊には幽霊なりの”人生”があるみたいなのです。こんなにも美しく、哀しい映画は久々です。何だかわからんことが平然と起こる映画なので、真っ新な心でご覧下さい。

★話は違いますが、店の前のツワブキの花(左)が咲きました。これは、3年前に亡くなった母の家から少し株分けして持ってきたものですが、きれいな蝶々が止まったのでシャッターを押しました。もしかしたら母も店の行く末を心配しているのか。

 

 

 

 

屋久島に住み、島の森と海と共に生きた詩人山尾三省は、2000年秋、手術不可能な末期ガンの宣告を受けます。余命数ヶ月と言われましたが、自宅に戻り、自然療法をベースにして生き続けます。詳しいことは、彼の著書「南の光のなかで」(野草社/古書1400円)の「善い日」をお読みください。

2001年、彼はこの世を去ります。

「自分で建てた寝室の布団の上で迎えた静かな死でした。この本(注:「南の光のなかで」)に書いてある通り、この世での生死を見つめ続け、権力や冨におもねず、ただ素朴に生きて、この世界へ還っていくという願いを貫いて、逝きました。」

あとがきにある妻の春美さんの言葉です。この本の版元、野草社から三省の詩を集めた「火を焚きなさい」(古書/1400円)が出ています。

「この世でいちばん大切なものは 静かさ である 山に囲まれた小さな畑で 腰がきりきり痛くなるほど鍬を打ち ときどきその腰を 緑濃い山に向けてぐうんと伸ばす 山の上には 小さな雲が三つ ゆっくりと流れている この世でいちばん大切なものは 静かさ である」

これは「静かさについて」とう作品の最初の部分です。屋久島の恵みと共に生きた三省らしい詩です。「静かさ」という言葉は、「一日暮らし」という作品にも顔を出します。

「海に言って 海の久遠を眺め お弁当を 食べる 少しの貝と 少しのノリを採り 薪にする流木を拾い集めて 一日を暮らす 山に行って 山の静かさにひたり お弁当を 食べる ツワブキの新芽と 少しのヨモギ 薪にする枯木を拾い集めて一日を暮らす 一生を暮らす のではない ただ一日一日 一日一日と 暮らしてゆくのだ」

かつて宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で語った質素に生きる思想を思い出します。野に生き、家族とともに生きた詩人の言葉は、私たちが、本来あるべき自分の姿を見つめ直すきっかけになるのではないでしょうか。

息子が島を出て、東京に行く時に送った「食パンの歌」。大都会では、食パンなどありふれた食べ物で、粗末に扱ったり、或はカビを生やしたりしてしまうことがあるだろう。でもその時は、「父親である私の思想が死に面している時であり、ひとつの真理が 死に面している時である」という言葉を詩の中に残しています。たかが食パンひとつで、と思うかもしれませんが、食パンからさらに美味しいパンへ、そしてさらに高級なものへとお金さえあれば買えることを戒め、こう言い切ります。

「私の考えは 人間は お金を稼ぐために生きてはいけないという理想を 命からがらで考えもし 実行することだった」

私はそんなに熱心なファンではありませんが、折に触れ彼の言葉を目にしてきました。「火を焚きなさい」は、良い作品ばかり集められているので、三省を知るには、絶好の入門書です。

 

ペーパークイリングは、英国発祥と言われる紙工芸。中世の昔、聖書を製本した際にできた細長い紙の切れ端を、鳥の羽(クイール)で巻いてパーツを作り、修道院で宗教画や宗教道具に装飾したのが始まりと言われています。今では、欧米を中心に世界中でアート、ホビーとして楽しまれています。 

2012年から毎年、レティシア書房で個展をしていただいているkotohana(山中さおり)さんのペーパークイリング展が始まりました。

ギャラリーコーナーで開催する作品展のブログ紹介記事は、だいたい私が担当しているのですが、山中さんに関しては、毎回「さらに技術力がアップしている」と書いた記憶があります。毎日続けることで身に付く手仕事の力は、この目の前の作品を見ただけではなかなか分からないものです。美しくできていて当たり前。ですが、1〜3㎜幅の紙をクルクル巻いていく作業にはため息がでます。彼女の努力の結晶を、今年も皆様に見て頂けることをとても嬉しく思っています。

 

色とりどりの紙で作られた花々が美しい彼女の作品が多い中、数年前から真白で作った額に魅かれていたので、モノクロで作っていってはどうかと提案した所、今回B2パネルの葡萄の作品が出来上がりました。(写真一番上)葉っぱの重なりにリズムがあり、厚みがでて、白一色にも関わらず存在感があります。山中さんは、さらにもっと大きなパネルを作りたいと、早くも来年の作品展に向けて構想を練っておられるようです。

アートフリーマーケットなどに精力的に出店して、商品アイテムも増えました。グリーティングカードなどの定番に加え、最近はのし袋(写真右)も好評だそうです。お祝いやお見舞いなどに、こんな美しい袋は嬉しいですね。紙に防水加工をほどこして、イヤリングやブローチなどのアクセサリーもできました。さらに新しくフォトフレーム(写真左上・4000円)も加わりました。11月、秋も深まりました。毎年少しずつ進化している「ペーパークイリング展」に、ぜひお運び下さい。クリスマスシーズンに合わせた小物、額も並べてお待ちしております。(女房)

 

紙工芸kotohana「ペーパークイリング作品展2018」は、11月20日(火)〜12月2日(日)12時〜20時(最終日は18時)月曜日定休

 

写真家、エッセイストとして活躍中の植本一子が、世界に現存するフェルメール35作品すべてを観る旅に出ました。それを一冊にまとめたのが、「フェルメール」(ナナロク社/新刊2160円)です。オランダのマウリッツハウス美術館に始まり、アメリカボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館まで、七カ国に点在するフェルメールを追いかけていきます。

本の半分は植本が撮影した写真で占められています。美術館のある街の風景、そして館内、フェルメールの作品前で撮ったものが収録されています。作品を観ている人の後ろ越しに撮影している写真などもあり、こんな所に、こんな風に飾られているんだと興味津々です。アムステルダム国立美術館をはじめ、多くの美術館では写真撮影が出来るので、来館した人が自分のiphoneで撮影しています。羨ましい……。

例えば、有名な「真珠の首飾りの少女」を持っているマウリッツハウス美術館では、「この美術館は流れている空気がゆるく、懐が広い。たくさんの名画が所狭しと飾られているのに、仰々しい雰囲気はなく、本当に人の家にお邪魔しているような感覚。人が多くないこともあり、皆リラックスしながら熱心に絵を見ている。かと思えば大きなシャッター音をさせてiphoneで写真も撮るし、絵をムービーで撮る人、絵画とセルフィーをする人まで。」ということです。

「イギリスは多くの美術館が無料だと聞いてはいたが、チケット売り場がないことに驚いてしまう。」と著者は書いています。日本では信じられない状況です。イギリスでは四つの美術館を回るのですが、「音楽の稽古」という作品を所蔵しているバッキンガム宮殿英国王室コレクションは、普段は入れません。バッキンガム宮殿は、エリザベス女王の公邸です。ここには、フェルメールだけでなく、ルーベンスなどのヨーロッパ絵画が壁を飾っています。で、この家の主である女王が夏の避暑のためここを離れる時だけ、一般に解放されています。

この本を読んで初めて知ったのですが、フェルメール作品ってアメリカの美術館が多く所蔵しているんですね。メトロポリタン美術館が5作品、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが4作品、NYフリッツ・コレクションが3作品という具合です。因みにルーブルは2作品です。

著者は全点踏破を終えた時、「女と召使い」を前にしてこんな感想を述べています。

「大きな絵の前に3人がけのソファがあり、そこだけ座れるようになっている。『女と召使い』までは少し遠いが、座って眺めてみる。窓が描かれていないのに、いつものように左側からの光を感じ、青いテーブルクロスには光の粒がちりばめられている。ドラマのワンシーンを切り取ったかのような一瞬。肖像画にも物語にも見え、そういえばフェルメールの絵はどれもそんな感じがあった。 深呼吸をしてソファから立ち上がる。とうとう全てのフェルメール作品を見終えたのだ。」

フェルメールにはそれほど興味のない私ですが、7カ国14都市、17の美術館を巡り、絵画に集まる人達とその街を捉えて、記録した「全点踏破」の長い旅に同行していると、来年2月大阪で開催される「フェルメール展」に行きたくなりました。図録より、断然こちらが面白い一冊だとおもいます。しかし、美術館は混むだろうなぁ………。

 

盛岡在住の木村紅美の短篇集「イギリス海岸」(メディア・ファクトリー/古書700円)はサブタイトルに「イーハトーブ短篇集」とサブタイトルが付いています。

「イーハトーブ」は宮沢賢治ファンならご存知の彼の造語です。賢治の心象世界中にある理想の国を指す言葉です。モチーフとなっているのは岩手県。タイトルの「イギリス海岸」も賢治の造語で、花巻市の東部、猿ヶ石川合流点の西岸がイギリスのドーヴァー海峡に似ていることから、こう命名した場所です。

つまり、この短篇集のバックグラウンドには宮沢賢治がいて、作家が住む盛岡の自然、街並みが顔を出します。五つの短編が集まっていますが、主人公は盛岡生まれの双子姉妹、梢と翠です。実家から遠く離れた東京で、別々に暮らす二人。妹の梢は、恋多き日々を送っていますが、姉の翠の方は、窮屈な大都会暮らしに耐えきれず盛岡に戻ってきます。

「川の、山のある景色から、私はもう、はなれて生きていたくないかもしれない。という気持ちは、日に日に、強くなっていき、生きていきたいのだ、という願いに変わっていった。」

翠の人生をささえているのは、変わらぬ盛岡の風景。それは、イギリス海岸であったり、小岩井農場であったり、或は有名な民芸品店の光原社の中庭であったりします。様々に変化する様子を見せる故郷の風景と共に生きている翠の姿が、時に美しく、はかなく、哀愁をもって描かれていきます。

最後に収録されている「クリスマスの音楽会」は、この単行本のための書き下ろしです。最初から、二人を見てきたからというのもありますが、これが一番心に響きました。舞台はアイルランド。世界を旅しているギタリストの男が、この地でヨーコさんという女性に出会い、一緒に本場のギネスビールを飲み、ゲール語で歌われる地元の音楽を楽しみます。ヨーコさんは、さびしげな光景が好きで、こんなことを言います

「昨年はね、ダブリンからゴールウェイまで来る途中の景色が、岩手そっくりなのにびっくりした」

その時、男はかつてイギリス海岸のことを話していた恋人を思い出します。おそらく梢でしょう。「岩手のね、宮古にある浄土ヶ浜っていう風景も、そういう感じなのよ。断崖絶壁じゃないけど、世界の果てっぽいの」という言葉を残してヨーコさんは旅立ちます。

それから数年後、男は宮古でのライブ出演のため、この地を訪れます。そして誰もいない浄土ヶ浜を歩いていて、あるカップルとすれ違ったときに、かつての彼女が、双子の姉が岩手にいるとの言葉を思い出します。似ている、ひょっとしたら….。でも、違うかもしれない。なかなか恋愛が上手く行かなかった翠だとするなら、彼女の愛する盛岡で、いい人と巡り会ったのかもと考えると、ジーンときます。幕切れが素敵な小説です。

 

 

 

トーク&ライブのお知らせ

「新版 宮沢賢治 愛のうた」を出版された作家、澤口たまみさんのトークとベーシスト石澤由男さんのライブを当店にて行います。

19年1月18日(金)19時スタート 1500円です。

 

 

写真家の平野太呂が、憧れの先輩36人に会いにゆき、自然光で撮影されたご本人と仕事現場の写真を元に、人となりを紹介するフォト・エッセイ「ボクと先輩」(晶文社/古書1150円)は、ほのぼのとした本です。

登場する先輩が凄い!安西水丸、高橋悠治、大林宣彦、ピーター・バラカン、なぎら健壱、水木しげる、立花ハジメ、平野甲賀、小西康陽等々、様々なジャンルで活躍する達人ばかりです。

先輩たちの素敵な表情を捉えた写真が美しい。安西水丸の微笑み、ざっくばらんなおっちゃんという雰囲気の建築家阿部勤、自転車ビルダー渡辺捷治の頑固そうな職人顔と、彼が作り上げた自転車、昔の映写機を持って楽しそうな映画監督大林宣彦、FMラジオのDJブース内のクールなピーター・バラカン、バット片手にグラウンドの彼方を見つめる野球解説者篠塚和典など、この人達の顔を見ているだけで、こちらの気持ちも明るくなります。

最初に登場する「テーラー大塚」の店主、大塚忠雄氏など、全く知らない方もいます。1945年生まれ。祖父母の代から続く、浅草橋のカスタムオーダーの洋服店のオーナーです。白髪とベレー帽姿が、カッコいい!おしゃれな紳士です。「タンゲくん」等でお馴染みの絵本作家、片山健のアトリエも撮影されています。こんなアトリエで絵本を作っていたのか・・・。絵本作家は「笑ってくださいとか、絵を描いてくださいとか絶対言わないでくれって取材のときはお願いするんだけど、なんか今日はそんな感じじゃなさそうだからよかった!」と発言しています。平野太呂という写真家の人間性は、他人をホッとさせる何かを持っているみたいですね。ここに登場する人達の表情を見ていると、そう思います。

おぉ〜、やはり只者ではなかったのが桑原茂一です。1975年、小林克也と組んで「スネークマンショー」を結成して、音楽シーンに旋風を巻き起こした人物です。その後もラジオ等で活躍しています。彼はこんなラジオ番組のデモを聞かせます。

「国民のみなさん、わが国は先ほど正式な手続きをもって、戦争を行うことになりました。しかし、ご安心ください。相手がどこの国か、いかなる戦争か、すべての国民のみなさんに分からぬように進めていく次第でございます。勝敗に関しても分からぬように処理させていただきます。戦争に怯えることなく、ふだんと変わらぬよう処理させていただきます。戦争に怯えることなく、ふだんと変わらぬ日常をお過ごしいただければと考える所存です。」

凄いラジオ番組!と驚いていたら、オクラ入りとか……..。このギャグ、笑いながら、ほんまにありうる話で冷や汗が出ます。

さて、最後を飾るのは、装丁家として有名な平野甲賀。彼の作り出す独特の文字は、本好きな方よくご存知のはずです。一時、カウンターカルチャーの書籍発行に力を注いだ晶文社の本の装幀を一手に引き受けたブックデザイナーです。76歳になって、東京から生活の場を小豆島に移しました。和室に置かれた大きな古い机、障子の向こうからさして込んでくる日光、木箱を組み合わせたような本棚。落ちついたいい仕事場です。

「そろそろ春がやってきそうな3月の上旬、4歳の娘と『帰省』した。」帰省……?つまり、平野太呂は平野甲賀の息子なのです。単行本になることが決まったら、題字を頼むとの息子の要望通り、本の題字は大先輩である父親でした。

 

 

第154回芥川賞を受賞した滝口悠生「死んでいない者」(文藝春秋/古書700円)を読みました。1982年、埼玉生まれの著者は、2011年「楽器」で新潮新人賞、14年「寝相」で野間文芸新人賞候補、15年「愛と人生」で野間文芸新人賞を受賞。そして同年、「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」で153回芥川賞候補となり、翌年、今回紹介する作品で受賞と、文壇を駆け上がっている作家です。

物語は、通夜の一晩だけを描いています。ある男が大往生を遂げ、その通夜に、子ども、孫、ひ孫たち総勢30数名という親類たちが集まってきます。そこで、それぞれの故人への思い、自分の生きてきた道を振り返ります。複数の親族の視点で描いていくので、家族関係が交錯し、家系図を書いて読まないと関係がわからなくなりそうです。シリアスな場に違いなのですが、全体に肩の力が抜けた感じで進行してゆきます。独特の文体です。

「人は誰でも死ぬのだから自分もいつか死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているように思えるのだ。」

不幸な最期を迎えた人の場合はこうはいきませんが、大往生した人の通夜の席ってこんな感じかもしれません。適当にお酒を飲んだり、グタグタと話したりしながら時間が過ぎてゆく非日常的な世界を、まるでカメラが通夜の席にお邪魔して撮影しているような感じです。

 この本に出てくる光景や人達の心情は、年令を重ねると誰でも経験したことがあると思います。読んでいると、あった、あったというシーンが登場します。通夜の一晩を切り取った小説なんて珍しいのですが、おそらく共感しやすいテーマです。「死んでいない者」たちが、「死んだ者」を前にして、生をみつめる様を描いた作品とも呼べます。
「大人だって、死ぬとはどういうことかなのかなどわからない。単に、わからないでいることに慣れたか、諦めたか、混乱しないでいられるだけだ。実際、父がもう長くはない、と知った時から、吉美たちはその死に慣れはじめていたように思う。自分の死についてだって、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいていっている、あるいは近づかれている。まぁ、諦めるしかない話ではあるが、そんな達観はあまり意味のない言わば人生の休日の思考であり、生きるとは結局その渦中にあることの連続なのだ」
表紙の絵は、洋画家猪熊弦一郎の「顔」という作品を使っています。小説に登場する親戚たちの顔のようにも思えてきます。上手い装幀です。

柳楽 優弥、菅田 将暉という魅力的な二人の主演映画「ディストラクション・ベイビーズ」を観ました。上映開始後、5分でもう血みどろ、最後まで続きますので、その手の映画が苦手な方にはお薦めできませんが、人間の暴力衝動、飢えというものを見据えた映画でもあります。

舞台は四国松山。両親を早くに亡くし、港町で喧嘩に明け暮れる若者(柳楽 優弥)は、同居していた弟の元を去り、松山の繁華街に現れたと思いきや、全く知らない人物に殴り掛かります。血みどろになるまで殴りつけます。最初はフツーの人々や、やんちゃな高校生がターゲットでしたが、この辺りを仕切るヤクザにも平気で殴り掛かっていきます。喧嘩に慣れているヤクザ相手にも、突撃です。目的なんて皆無。その様子を見ていた高校生(菅田 将暉)が彼に興味を持ち、最初は喧嘩の現場を撮影してネットに流していたのが、徐々に暴力衝動が湧き上り、殴り始めます。しかし、彼が襲うのは、女子高生や繁華街で買い物中の女性ばかりです。嬉々として暴力に酔いしれる姿を、菅田 将暉が凄味一杯で演じていきます。

やがて、二人はキャバクラ嬢の乗った車を強奪し、三人で四国を走り回り始めます。彼らの暴力は留まる事なく、農夫を殴り倒し、車で轢いたあげくに首を締めて殺してしまいます。こんな凶暴な目をした人物が、今までの映画にいたでしょうか?東映実録映画では、若き日の渡哲也や、北大路欣也が尽きる事のない暴力衝動に身を任すヤクザを演じていました。しかし、彼らの暴力にはヤクザの名誉のため、親分のため、欲望達成のためなど目的がありました。この映画の二人には、そんなものは全くありません。

それどころか、柳楽扮する若者の視線は冷ややかで、全く何を考えているのか見えてきません。一方の菅田の視線は、人を殴り、いたぶるのが楽しくて、楽しくて仕方ないという表情です。得体の知れない若者二人の狂気を、二人は見事に演じています。NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で、かっこいい海賊を演じていた柳楽、ハツラツとした若き城主を演じていた菅田とは大違いです。

監督の真利子 哲也は、本作が商業映画デビュー作です。この若者は、理由があって悪の道に入りました、なんてドラマにせず、ひたすらに生の暴力を見つめていきます。こんなスタイルのアクション映画など過去には全くなかったはず。だから各種映画祭で高い評価を得ているのでしょうね。ラスト、こちらを振り返った柳楽の顔の怖いこと、怖いこと。悪寒が走りました。痛くて、怖いけど、暴力機械と化した二人はみものでした。絶品です!

松本大洋がルーヴル美術館に暮らす猫を描いた「ルーヴルの猫」(上下巻/古書2200円)は、切ない物語です。ルーヴル美術館の奥、誰にも知られていない屋根裏部屋に、昔から猫たちが住みついています。それを世話しているのが、ルーヴルで生まれ育ったような老人マルセルです。物語はマルセルと、ここで働くセシルという女性と、猫たちが絡み合いながら進行していきます。

猫同士が話している時は、擬人化された姿で描かれて、人間の視線で彼らを見ている時は、猫の姿で描かれています。さてあるとき、セシルは、マルセルから不思議な話を聞きます。彼にはアリエッタという姉がいたのですが、他の子どもとなじめず、絵を見ている時だけが幸せでした。そして「絵の声が聞こえる」と言い残して、マルセルの前から姿を消しました。

「この館に大量にある絵の中のどこかで……姉は暮らしている…..ずっとな。」と、マルセルは信じています。絵の中で生きているなんていう話を信用しなかったセシルも、やがて一緒に探そう とします。それまで、下向きに生きてきた彼女のうつろな視線が、徐々に光を持つようになってきます。そして、アリエッタが子どものままで生きているのは、 アントワーヌ・カロンの「アモルの葬列」の絵の中であるらしいことが分かってきます。後半では、この絵をめぐって様々な物語が展開していきます。(この不思議な絵は、上巻の最初に掲載されています)実は、猫たちの中にいる白猫”ゆきのこ”も、ふっと姿を消して絵の中に入ったりできるのです。どこか孤独な影を引きずるゆきのこもまた、絵の中に自分の幸せを求めているのかもしれません。マルセルは果たしてアリエッタと再会できるのか…….。この結末は、切なく迫ってきます。映画だったら、きっと泣けてくるシーンです。

ラスト、立派なオス猫になったゆきのこは、危険があるのは承知の上で、外の世界を見ようと旅立ちます。その彼の背後で囁くアリエッタの声。「ゆきのこさん、今はもう….わたしの声はあなたに届かない。(中略)天高く尾を上げてたたかっていらっしゃい。わたしはいつでもここにいるわ。」別れと旅立ち、そして希望。見事にブレンダされた秀逸なエンディングです。何度も読み返したくなりました。