レティシア書房での、松本紀子さんの写真展は今回で3回目です。

2019年、シンガーソングライターのヤマモトケイジさんの詞から「そのかわり その代わりに」という小さな写真集を作り、それを持って店に来られたのが出会いでした。写真集の販売を兼ねた個展に続き、2021年には「Dream」という写真集を自費出版されました。これは、山崎まさよしさんの楽曲の中の「夢」という言葉が出てくる歌からイメージして作られました。いずれも敬愛するミュージシャンの歌に触発されたものでした。

そして今回、映画のワンシーンのような作品が並びました。彼女の内にあるこの映画のストーリーはわかりませんが、自身の中から紡ぎ出した言葉を写真に焼き付けたのだと思いました。溢れる感情を静かに受け止めて、シャッターを切る音が聞こえてくるようです。

「偽りの自分で君の話を聞く 君が夜が怖いなら いつでもここにいる  本当の自分を隠して君の話を聞く きみが朝が怖いなら いつでもここにいる  赤い秘密が胸を焦がすけど 君が教えてくれた歌だけが 私の心を癒す」個展のフライヤーに書かれた松本さんの詞です。

言葉と写真。これからも、きっと自分の気持ちにまっすぐに向き合って撮り続ける松本さんの新しい旅立ちのような作品展です。どうぞ御高覧下さいませ。(女房)

☆松本紀子写真展

8月31日(水)〜9月10日(土)13:00〜19:00    月火定休(最終日は18:00まで)  

 

☆レティシア書房からのお知らせ

9月11日(日)〜15日(木)休業いたします。よろしくお願いいたします。

 

 

 

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オーストラリア生まれの(1974年)画家、アニメショーン作家のショーン・タンについては、新作が出るたびに、あるいは展覧会の印象など書いてきました。

今回も素敵な絵本を紹介します。タイトルは「いぬ」(河出書房新社/新刊1980円)。

「この先地球にどんな運命が待ち受けていようと、それがどんなに途方もなく過酷で、この世の終わりのように思えても、僕らの隣にはきっと犬がいて、前に進もうと僕らをいざなってくれるにちがいない。そうでない未来なんて、僕には想像できない。」

と作家は、犬好きが聞いたら涙するようなあとがきを寄せています。

広い道路の向こうにいるひとりの人間と、こちらにいる一匹の犬。どちらも背を向けています。同じ構図の人と犬の絵が続きます。人はそれぞれ国も年齢も違い、手前に描かれた犬は大きさも色も違います。どこか物悲しい情景が何ページにも渡って描かれています。

しかし、終わりも近づいたページでこちらを振り向いた女性に、真っ黒な犬が振り向き視線を送ります。そして、ページをめくると横断歩道の真ん中で抱き合う女性と犬。岸本佐知子訳によるこんな文章が飛び込んできます。

「きみがわたしの手を引っぱり、膝の裏に鼻を押し当てる。そしてわたしに叫ぶ、昔と同じように叫ぶ、世界は僕らのものだ! そしてまたもとどおり、わたしたちは並んで歩いていく。」

その言葉通り、最後はリードをつけてもらった犬と女性が歩み去ってゆくところで物語は終わります。犬と人間の愛情あふれるつながり。生と死。モノローグのような数少ない言葉と、シンプルな構成の画面だけで深い感動を与えてくれる絵本です。

裏表紙には、いろんな人たちが、犬種の違う犬を散歩に連れ出している様がシルエットで描かれていて、「平和」という言葉が最も適した絵だと思います。

なお、この著者には、人間に酷使されるセミが、最後に脱皮して人間世界から解放されて、自由な世界へと旅立つ「セミ」(新刊1980円)という素晴らしく、切ない絵本があります。

 

 

 

光瀬龍原作の萩尾望都傑作SF大作「百億の昼と千億の夜」の「完全版」が、単行本サイズの判型500ページのボリュームで復刻されました(河出書房新社/新刊2750円)。今までは、小さい文庫で読むしか仕方なかったのですが、恐ろしくセリフが多く細かく書き込まれている漫画は、老眼鏡が要るようになったおじさん・おばさんには骨の折れる読書だったと思います。でも、このサイズの本なら大丈夫です。

え?この本を知らない?それは一生の損。壮大な物語ですが、簡単に説明します。

舞台は地球。時代は不明。未来を救うと言われている弥勒の存在に疑問を抱き、隠された真実を暴く戦いを続ける阿修羅王が主人公です。そこに救いを求めて出家したシッタータが現れます。

「この世界は完全な熱的死へ向かっている エネルギーの完全な平衡状態 そのあとにはどんな変化も起こらない どんな生命も生きられない いわば終末のための終末へ……..あなたも私の存在も 一切が無に帰してしまうのだぞ。ーこんな事はこの世界の者にはできないー こんな大きな力は私には無い。これはいったいなに者のしわざであろうな!」

阿修羅王がシッタータに問いかけ、この世界を創造し、勝手に破滅への道へと向かわせる謎の存在を究明する戦いに誘います。

プラトン、イエス、ユダ、帝釈天など歴史上の人物がどんどん登場してきます。宇宙物理学、歴史学、宗教学などの理論をブレンドさせながら、とんでもない破天荒なSF小説を、流麗なタッチで漫画化した萩尾のパワーは、何度読んでも惹きつけられます。特に両性具有っぽい阿修羅王の造形は素晴らしく、私など奈良の興福寺にある阿修羅像を初めて見た時、コミックの姿を浮かべたほどでした。

スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙への旅」を何度見ても、完全に理解できないように、「百億の昼と千億の夜」の壮大なスケール感は、完全に理解できなくても面白い。

「この世界の外に さらに大きな世界の変転があり さらにその世界の外に世界が そしてまたその外にも さらに永遠の世界がつづくのなら わたしの戦いはいつ終わるのだ…….?」

絶望的な気分に陥りながらも、次の戦いに向かう阿修羅王の孤独な姿で終わるラストカットまで、今でに読んだ事のない世界を味わっていただきたいものです。

さらに「萩尾望都に聞く『SF100の質問』」、エッセイ、イラストコレクション、阿修羅王イメージスケッチ、関連年表など盛り沢山の内容です。

 

早稲田にある古書店「古書現生」の二代目店主向井透史の2010年8月から21年12月の記録が、「早稲田古本劇場」(新刊/本の雑誌社2200円)という本になりました。

「2010年8月某日。 スカイツリーが高くなることに興味はないが、こちらの高さは気になってしょうがない。」とは、わざわざ遠くから来店したお客さんが、ドンドンと本を積んでいったことを描いているのですが、笑ったのは次の文章です。

「しかし、恐ろしいものだ。その後、気づくと自分は昼過ぎなのに店を閉め始めており、シャッターも半分閉めていた。満足してしまい『今日はもういいや』と思ってしまったらしい……..。どんだけ志低いんだ、自分。」

まず、思ったこと。羨ましい!開店時間無視して、閉店できるなんて。その次に思ったこと。私も、開店してしばらくして、おっ〜という売上があったことが何度かあります。その時、「今日はもういいや」という気分になりました。

著者は1991年に高校を卒業してすぐに、初代店主である父親の元で古本屋家業に就きました。気がつくといつの間にか30年以上のキャリアを持つ古本屋店主。その長い時間の中で、著者が見たり体験した様々なこと、接した多くの人のことが描かれています。でも、大上段に構えて、私はこんな本屋をやってきたみたいな上から目線の本ではありません。ユーモアたっぷりに日々の商いを綴っていきます。

話題の文鮮明も登場です。とても暇なとある日。「いいお話を持ってきたのですけどね。」と妙齢のご婦人がご来店。「一瞬、古本屋にとっての幸せ、たくさんの本の買取の話なのかと思ったが、夫人の手には文鮮明の本が!『けっ、結構でございます」。ガックリである。」

その日はさらに暇な時間が続き、今度は中年の男性が袋を持って帳場にやってくる。これは買い取りか!男性は、本を差し上げに来たのですとおっしゃる。興奮する店主。しかし、袋を開けると、そこにあったのは、またもや文鮮明の本!店主曰く「もう、別々じゃなくて一緒に回ってくれよ!」2012年3月某日の記録です。

大変だね〜おもろい人がいるね〜、と共感したり驚いたりしながら、心地よい空気感がある、いい気分にさせてくれる古本屋だと思いました。そして、店主の本屋がある早稲田という下町の佇まいまで見えてきます。

「2021年3月某日。 コロナ以降、閉店時間を十八時にしているのだが、今日はお客様が途切れず、気づいたら二十一時に。とはいえ、途切れなかったというだけで実は全く売れていない。元の閉店時間からの三時間の売上、なんと六百円!時給二百円。今どき小学生でも動かせないような金額で働く自分。」これもよくわかりますが悲惨な現場レポートながら、悲しい気持ちにさせないのが著者の個性かも。

2015年1月某日。棚を見ていた60歳ぐらいの男性が話しかけてきます。

「『マルクスとさ、ヤクルトって、なんか似てない?』『いや、似てないと思いますけど…..』『そっかなぁ』 どういうことなんだ!」個性的なお客さんが多いお店です。

なお、初版のみ著者サイン入りです。

1991年に発表された宮沢和史の「島唄」は、全国的なヒット曲になりました。この歌を聞いた誰しも沖縄音楽のメロディーの美しさに感動されたと思います。しかし、沖縄ではどうだったのか?

「島唄」の中に、「くり返す悲しみは島わたる波のよう」という歌詞がありますが、宮沢は、そこにアメリカや日本に蹂躙され、大きな悲しみを背負った沖縄の歴史を表現したつもりでした。ところが、「あんたの音楽こそ帝国主義じゃないのか。沖縄ブームに乗って沖縄を搾取して、ひと儲けしようとしているんじゃないか」という意見を投げつけられました。

もちろんこの曲を好意的に受け止める沖縄の人々もいましたが、多くの賞賛と批判を浴びる結果となったのです。では、どうすればこの地に生きる人々の心の声を聞くことができるのか。その試行錯誤を綴ったのが、約500ページにもなる大著「沖縄のことを聞かせてください」(双葉社/古書1800円)です。

ヤマトの人間が、勝手に沖縄のことを分かったような曲を発表することは許されるのかと迷い、悩みながらも沖縄に生きる人々に近づいていきます。宮沢のバンド”The Boom”の音楽には、ワールドミュージックのエッセンスが色濃く流れていたのでよく聴いていたのですが、「島唄」をめぐる軋轢と、本人の苦闘を本書で初めて知りました。

宮沢は沖縄の歴史を知るために、多くの人の話を聴きにいきます。元ボクシング王者・具志堅用高、八重山民謡歌手・大工哲弘、映画監督・中江裕司、元ひめゆり学徒隊・島袋淑子、ひめゆり平和祈念資料館館長・普天間朝佳などが登場します。

戦争中の悲惨極まりない状況、戦後のアメリカによる支配、そして日本政府による搾取と数え上げたらキリのない負の歴史を聴きながら、今を生きる若い世代にとっての故郷沖縄とは何かというテーマにまで迫っていききます。

これは歴史の本でもなく、帝国主義を糾弾する本でもありません。沖縄音楽に魅了された一人のミュージシャンが、好きになった対象の内側へとダイブしてゆく本なのです。真摯に沖縄にぶつかり、ヤマトの人間としてこれからどう考え、行動してゆくのかを書こうとした著者の姿勢には、まっすぐな気持ち良さを感じます。

「海をきれいにするのでも、音楽や映像を作るのでも、社会の陰で困っている人を支援する仕組みを作るのでも、学校に入り直すのでもいい。『今、ここ』でなくても、いつ、どこで始めてもいい。それぞれの必然性のある時間と場所で、それぞれの領分で、現在の自分がこの先の百年、二百年という時間軸とつながっていることを信じて未来に種をまいていく人が一人でも増えるといいと思う。手紙を入れたボトルを海に流すように、いつかどこかで名前も顔も知らない誰かに届くはずだと信じて諦めずに続けていくことは、歴史の一部にいるものとして、この社会への信頼を決して失わないという責任を表明する態度でもある。」

長々と引用してしまいましたが、賞賛と批判にさらされた曲を世に出したミュージシャンの、私たち一人一人が未来への有り様にどう責任を持つのかを考えた言葉が、ぎっしり詰まった素敵な本です。

絵本「ネコヅメのよる」の原画展を当店でも開催したことのある町田尚子さんの、これまでの作品を集めた画集「隙あらば猫」(青幻舎/新刊2750円)を入荷しました。

「物語の中を自由気ままに闊歩する猫。その猫の後を ついていくようにして絵本を描く。   そう、絵本を描くコツがあるとしたら、それは、猫の後をついて行くこと。大事なのは、最後まで猫の姿を見失わないこと。 そうやって描いた私の絵本」

デビュー作から最近作に至る絵本の中から、印象的なシーンが並んでいます。どアップ顔に圧倒される「ネコヅメのよる」(岩崎書店/新刊1650円)や、ひとりぼっちの猫が飼い主を見つけるまでの切なく愛おしい「なまえのないねこ」(小峰書店/新刊1650円)。そして、日本的なそこはかとない恐怖を描き出した「いるのいないの」、京極夏彦原作の「あずきとぎ」(岩崎書店/古書1200円)、柳田國男「遠野物語」から「ざしきわらし」などの独特の世界が楽しめます。

本書のための書き下ろしミニ絵本「白木のピョン」も入っています。著者の家の猫、白木(しらき)のユーモラスな姿は、我が家の愛猫にもちょっと似ていてニンマリしてしまいました。デヴュー作「小さな犬」からも何枚か選ばれています。犬がメインで登場する唯一の作品ではないでしょうか。ボタンを失くしたクリアなタッチで描かれた少女のさみしげな表情が印象的です。

また、珍しくタブロー作品が数多く収録されています。絵本とは違い一枚で表現された作品世界は、澄み切った静けさと孤独の色合いが濃く出て、彼女の別の魅力を知ることができます。表紙になっている、ジャングルジムの上にポツンと座っている猫の絵「レモンドロップ」もその一枚。夜、ひたすらペンを走らせる猫の姿を描いたその名も「猫背」は、古いスタンドを置いた小さな部屋の、深夜のシーンとした雰囲気が伝わってきます。

巻末には、著者へのインタビューや本書に掲載された作品の解説もあります。ファンなら持っておきたい美しい画集になっています。

なお、「隙あらば猫、町田尚子絵本原画展」が尾道市立美術館で、本年9月10日(土)〜11月6日(土)の予定で開催されます。

 

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中村安希は、今、最も面白いノンフィクションを書く作家だと思っています。ブログでも「愛と憎しみの豚」「N女の研究」を書きました。今回ご紹介するのは、「もてなしとごちそう」(古書/1400円)です。

東京オリンピック招致の時、やたら「おもてなし」とか言いながら、笑い顔を振りまいていた人がいて気持ち悪かったのを覚えていますが、本当の「もてなし」は本書に出てくるように世界各地の普通の家の、普通に出る食事のことです。

それにしても著者の胃袋は凄い!チュニジア、ウガンダ、ジャマイカ、シリア、北朝鮮そしてロヒンギャ難民キャンプ(ミャンマー)まで足を伸ばし、全く知らない人からでも招待されれば出向き、たらふく食べるのです。カラー写真で紹介されていて、どれも美味しそうですが、かなり濃厚な感じです。

あとがきで、藤原辰史が著者の横顔を

「『知らないおじさんについて行ってはいけません』『声をかけてくる人には警戒してください』『国交のない行くのは自粛してください』。中村安希はこれらの旅行のイロハを守らない。見知らぬ土地の見知らぬ人からご飯に招いてもらい、それを食べ、大笑いして、深い友情を結び、お腹を壊し、熱を出し、それでも食べる。」と、語っています。

一見、自由奔放な旅をしているようですが、危機を回避する判断力と、状況を深く観察する力に支えられているのです。で、本書はめったにお目にかかれない世界の人々の食文化の紹介だけの本かと言うと、違うのです。その国のその場所に住まいを見つけ、生活し、苦労をしながら生きてきた人々の、日々を支える食事の奥深さを見つめているのです。

例えば、ロヒンギャ難民キャンプを案内してもらった難民でもある医師から、コーヒーでもと誘われます。通訳の人を含めて3人分、こちらがコーヒー代を払おうとすると、こんなところまでわざわざ来てくれたのだからご馳走させてくれ、と言われます。極貧の場所でご馳走になるなんて…..やっぱりお金を払おうと申し出ます。

「『あなたは、難民だし……..』 医師が笑い、それから穏やかに私を諭した。『難民も、人間だ』 あぁ、言うべきじゃなかったと激しい後悔に苛まれながら、おごってもらったコーヒーをすすった。粉末に加工されたコーヒーと、粉末ミルクと粉砂糖。その何でもない三つに湯を加えかき混ぜただけの一杯は、必要以上に込み入った味がした。一杯40円、三人分で120円。ゆっくり最後まで飲み干してから、重たい気持ちでグラスを返した。」

例えば、スロヴェニアで、ある家族のところに泊めてもらって口にした食事。それまでの長い長い旅の間に疲れ切っていた彼女は、毎朝ゆっくり時間をかけてその家の朝ごはんを食べさせてもらいます。

「一見するとシンプルなスロヴェニアでの食事は、しかし日を追うごとにじわりじわりと存在感を増して行った。豪華さによってではなく、こだわりによって。彼女たちの一家の食事には『良いものを食べる』ことへの静かな情熱と、『きちんと作ること』への徹底した姿勢があった。しかもそれを、ごくごく当たり前のこととして、日常のなかでさりげなくやり遂げてしまっていた。」

本の最初には地図があって、彼女が訪れた場所がわかるようになっています。その場所を確認しながら読まれることをお勧めいたします!

 

台湾出身の漫画家、イラストレーターの高妍(ガオ・イェン)の「緑の歌」(コミック・上下巻/新刊1738円)には泣けました!といっても、女子大生の淡い恋物語で泣く感性は残念ながら持ち合わせていません。そうではなく、この物語の持つ優しさと音楽への深い慈しみに涙したのです。

上巻の帯には作詞家、松本隆が推薦のこんな文章を寄せています。

「ねえ『細野』さん、ぼくらの歌が異国の少女の『イヤフォン』を通して、繊細な『孤独』を抱きしめたら。それって『素敵』だよね?」

ここに登場する細野さんとは、もちろん音楽家の細野晴臣。そして物語は、台湾に住む女子高生の緑(リュ)が、松本・細野たちのバンド「はっぴいえんど」の名曲「風をあつめて」を聴いたところから始まるのです。

優等生の緑は、希望通りの台北の大学へ進学します。しかし、段々と学校に行かなくなり、孤独を抱え下宿で読書にふける生活に陥ります。そんなある日、偶然出かけたライブハウスで、村上春樹ファンのバンドマン南峻(ナンジュン)に出会います。そこから、春樹の文学、細野晴臣の音楽といった、今までと違った世界に触れていきます。そして南峻との恋が生まれます。

高妍の描く絵がとても素敵です。写実的でありながら、どこか夢見るようなタッチをブレンドさせています。その雰囲気と、「はっぴいえんど」や細野晴臣の空中をふわりふわりと漂ってゆく音楽が見事にシンクロしているのです。音楽の持つ優しさが、コミックの世界に伝播していき、その世界に包まれる幸福。

下巻の表紙には村上春樹が推薦の言葉を寄せています

「高妍さんの絵には物語を広げていくための、自然な空気の通り道のようなものがあって、それが見る人の心に心地よい、そしてどこか懐かしい共感を呼び起こす。」

実は、春樹は彼女の絵を以前から知っていて、著書「猫を捨てる」の挿絵を依頼しました。店にある本を見てみると、不思議なノスタルジックにあふれた彼女のイラストがそこにありました。

「クジラは歌によって コミュニケーションを取る動物なのだそうだ。たとえ言葉では表せないようなとても抽象的な気持ちであっても『リズム』によって伝えることができるのだ。もし文字が一種の言語ならば 音楽は文字を超越した言語であって、気持ちを通じ合わせる絆と共鳴なのだ」

という恋する緑の独白シーンには、音楽に支えられながら少しづつ成長する彼女の姿が描かれています。

今も「はっぴいえんど」を愛聴している方、「ノルウェイの森」を愛読されている方、一読をお勧めします。

 

 

 

 

かつてナチスに加担した若者だった人々にインタビューした映画「ファイナルアカウント 第三帝国最後の証言」(京都シネマにて上映中)を見て、背筋がゾッとしました。それは、自分がいつでもその立場になり得るということを突きつけられたからです。

ヒトラー率いるドイツ第三帝国で行われたホロコースト。その現場を目撃した武装親衛隊のエリート士官、強制収用所の警備兵、ドイツ国防軍兵士、軍事施設職員、虐殺が実行された場所の近くに住んでいた人など、様々な人々が登場します。ホロコーストの被害者側のインタビューを中心に据えた記録映画はありますが、ドイツ人、あるいはオーストリア人など加害者側の証言だけで構成された作品は極めて珍しいと思います。

監督のルーク・ホランドは、祖父母がホロコーストの犠牲者であることを少年時代に知りました。そして、加害者に立つ人々が、どう戦後を生き延び、今どう思っているのかを、10年以上かけて丁寧にインタビューしてきました。

ヒトラーの時代への弁明、後悔、逡巡、などが彼らの口から語られます。インタビュアーでもある監督は、被害者側から加害者を追い詰めてゆくという方法ではなく、じっくりと彼らに接して、自然な発言を引き出してゆく手法がなかなかでした。

「人が焼ける匂いがしていた」「虐殺のことを口に出したりすると自分も殺される」そんな恐怖の中を生きて、何も言えなかった自分を責める人がいる一方で、今もヒトラーを支持している人もいました。エリート軍人として鍛えられて、カッコいい軍服を着て、戦争を生き抜いた人にとっては、ヒトラーの全てを否定することはそのまま自分の全人生を否定することになるのです。虐殺は認められないが、彼のやろうとした政治は間違いではない、と言わざるを得ないのも理解できます。

若き日の軍服姿の写真を誇らし気に見せる人、授けられた勲章を机の奥に大切に保管している人、エリート部隊は虐殺に関与していないときっぱり言い切る人。彼らの口調が激昂するでもなく、あまりにも自然な雰囲気なので、え?この人たち加害者の側にいたんだよね?ということを忘れてしまいそうになります。

上に立つリーダーが道を踏み外し狂いだしても真実がわからないまま、我々はいとも簡単に何度でも巻き込まれていくという恐怖を感じさせる映画でした。ルーク・ホランド監督は、映画公開直後の2020年6月に71歳で亡くなりました。

 

辛口コラムニスト小田嶋隆が、今年の6月末になくなりました。享年66歳。このブログでは、ミシマ社から出ていた「上を向いてアルコール」を紹介しました。重度のアルコール依存症だった著者の、壮絶だけどなぜだか笑ってしまう闘病記でした。

今回は、もう表紙を見ただけで中身までわかってしまう傑作コラム集「日本語を取り戻す」です。安倍元首相への辛口批判ばかりではありません。コロナが流行し始めた時、お上が発した「自粛」という言葉をめぐってこう斬り込みます。

「『自粛』は、あくまでも本人が自分の意想で自分の行動を差し控えることだ。世間の空気を忖度したり、他者からの圧力に屈して活動範囲を狭める反応は『萎縮』と呼ばれるべきだし、自分以外の人間や集団に自粛を求める態度は『恫喝』ないしは『強要』と名づけられなければならない。」

このコラムニストは言葉の使い方については厳格です。だから、デタラメな日本語を連発していた安倍元総理が槍玉に上がるのは当然です。

「私は、現政権の最も大きな罪は、国会を愚劣な言葉がやりとりされる場所に変貌させてしまった点だと考えている。この点に限って言えば、安倍政権は私が60年の間に見てきたどの政権よりも悪質だ。」

本書の後半にはアメリカの前大統領トランプの英語に関する指摘も出ますが、素人が見ても幼稚な言葉を乱発していました。「トランプの英語がバカだったと考えなければならない」。似た者同士ですね。

「アベノミクス」という意味不明の安倍ワードも取り上げて、「『アベノミクス』が、経済政策として機能する以前に、むしろ、経済政策を隠匿する用語として、見事にその役割を果たしていることだ。」と、それを無批判に使ったメディアの責任についても言及します。

「アベノミクス」は総称で、具体的な中身の精査もなく、一人歩きを始めます。私たちはその内容を正確に把握することなく、「内容が希薄で、なおかつ語呂が好い。だから、どこにでもどうにでも使いやすい」という性格を持つこの言葉に煙幕を張られ、何が起こっているのかも理解できずに政権下で使用されていました。

さらに、「政権の側が用意したスローガンなりキャッチフレーズを、メディアの人間がそのままのカタチで使ってしまうことは、その媒体が政府の御用聞きに成り下がったことを意味している。」

「『アベノミクス=安倍経済論ないしは安倍経済政策』という言い方が許されるためには、『安倍』なる人物が、碩学ないしは経済通でなければならないのであって、ポイントカードとクレジットカードの区別もつかない三代目のど素人が、自分の才覚で一大経済論を吹きまくるなんてことが許される道理は、まったくありゃしないのである。」

言葉で世界を表現する本を売っている本屋の立場からすれば、安倍ワードにはいつもイラつかされてきましたし、頼むから言葉の安売りはやめてくれと思っていました。

小田嶋氏のご冥福を心よりお祈りします。