写真家・冒険家の石川直樹は、1977年東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学や民俗学にも関心をもち、世界各地を旅しながら作品を発表しています。蛇足ながら、作家石川淳の孫にあたります。

石川の「知床半島」(北海道新聞社/古書1900円)は、とても力強い、そして優しい写真集です。

知床連山縦走路から撮影された山々の荒涼たる岩肌、斜里川河口に打ち上げられたザトウクジラの子の死体、「知床ブルー」と呼ばれる流れ着いた流氷と海、幻想的な美しさを醸し出すオホーツク海、ウトロ幌別海岸に放置されたバス、雪に覆われた斜里の町等々、厳しく過酷な自然に晒された知床が、見事に捉えらています。その一方、この町で生きる人々の姿を、優しい眼差しで見つめています。北見柏陽高校、斜里高校の生徒たちの健やかな表情や、夜に斜里中学校スケートリングで練習するスケーターたちのシャープな写真など、知床に暮らしている人たちが登場します。

その中に、絵本作家のあかしのぶこさんが、アイヌ犬の愛犬ゴンと登場。彼女の屈託のない笑顔がとても素敵です。あかしさんには、2016年に当店で絵本原画展をしていただき、その際、知床の自然を語るトークショーも開催しました。今年2019年12月11日から、2回目の個展を開催しますが、知床で生活している人ならではの可愛い絵本を、たくさん作っておられるので今から楽しみです。写真集の最後を飾るのは、羅臼岳中腹の雪渓で遊ぶ、アイヌ犬チャイ。雪の中は楽しいぜ!と言ってる顔ですね。

 

今回この写真集以外にも、「最後の冒険家」(集英社/古書850円)、中高生向けに書かれた「いま生きているという冒険」(理論社/古書1550円)、そして「世界を見に行く」(リトルモア/古書1550円)を入荷しました。「世界を見に行く」は、石川が世界を旅して、シャッターを切ったものを作品集にしたものですが、全て切り離してハガキとして使用できます。全52枚。51枚目を飾るのは、彼の愛犬レオ。長期の取材から帰って来たご主人を迎える顔が素敵です。

因みに、「最後の冒険家」は、冒険家神田道夫に動行して、2004年熱気球による太平洋横断にチャレンジ。日本から1600キロ離れた地点で飛行を断念、着水しました。その遠征の詳細を描いたのが本作です。神田は2004年以降三度挑戦しますが、失敗。三度目のトライで行方不明になり、死亡したものと推測されています。

 

先月、当店でトークショーをしていただいた「宮沢賢治愛のうた」(夕書房/新刊1944円)の著者、澤口たまみさんの絵本「わたしのこねこ」(福音館書店/新刊1296円)を入荷しました。

小さな女の子の家に、友達の家で生まれた子猫がやって来て、クロと名付けられます。女の子や、お母さん、この家の先住猫レオと仲良くなって、段々と家族の一員となるまでを、ほのぼのと描いています。絵を担当しているのはイラストレータのあずみ虫。安西水丸に師事し、アルミ板をカッティングする技法で作品を制作しています。カットして貼り込んだ絵がスッキリして、生き生きとした猫の表情がとても可愛いです。

本の最後に「猫を飼ってみたいと考えている方へ」と題して、こんな文章が書かれています。

「飼う人のいない猫を保護したり、飼い主をさがしたりしている団体が全国にあります。そこには、子猫や大人の猫、年をとった猫、そしておなかの大きなお母さん猫など、たくさんの猫がいます。お近くの保護団体と連絡をとり、大切な家族となる猫と出会ってもらえたらと、願ってやみません。」

もう一点、不思議な絵本を。ニール・カーティス絵、ジョーン・グラント文による「ネコとサカナ」(アールアイシー出版/古書900円)です。ある夜、公園で出会ったネコとサカナ。全く違う世界に生きているのに、妙に気が合い、二匹で冒険の旅へと出かけます。寒い夜、ストーブにあたって暖をとっているシーンとか、ボートに乗った二匹が海を進むシーンとか、不思議な雰囲気に、なんだかこちらもリラックスして来ます。ニールの絵は、版画の伝統を意識しながらも、大胆な構図で楽しく、冒険を終えた後、海辺で昼寝を貪るラストがなんとも微笑ましい。翻訳をしているのは、文化人類学者の辻信一。「ナマケモノ倶楽部」代表として、数々のスロー運動でお馴染みの方です。

さて、昨日当店にも猫さんがご来店。みいこちゃんと言います。飼い主の方は、羊毛で作ったウサギさんが超人気の「棚からうさもち」さん(レティシア書房ギャラリーで開催中。31日まで)のお知り合いです。と、そこへ俳優の栗塚旭さんがご来店!栗塚さんは猫好きで、猫の絵が飾ってあるのを見て、前に立ち寄ってくださいました。80歳をすぎておられるとは思えないほど大きな素敵な声です。と、いうわけでめでたく(?)ツーショットとなりました。因みに、栗塚さんは、中島貞夫監督新作「多十郎殉愛記」(高良健吾主演)に出演されています。

星新一のショートショートを紹介しながら、彼が予測した未来をエッセイ風にまとめた最相葉月著「あのころの未来」(新潮社/古書800円)は、科学と私たちの関係を考えるには、最適の一冊です。

星新一の本って、そんなに熱心に読んではいませんでした。彼の作品の装画を担当していた真鍋博に魅かれて、本を買った記憶があります。

でも、最相葉月が選び出した星の作品を読み、彼が数十年前に、肝臓移植、クローン、ロボット、ネット社会、キャッシュレスのカード社会を描いていたと驚きました。脳死という状態を受け入れた私たちにとって、ぞっとするのが、星の「これからの出来事」を取上げた「脳のなかの私」という章です。

大事故で、両足切断を余儀なくされた男が病室で目覚めます。「それにしても足の裏がかゆいな。女性にかいてほしいと頼むと、少し間があって、その事故で『おれ』は両足を切断されたと知らされた。錯覚が起こるのは医学的によく知られていることだという。」

これ、幻肢と呼ばれる現象で、大脳皮質に記憶された身体感覚によるもので、失う前の記憶、脳の仕業による現象です。小説では、実は男が切り取られたのは足だけだはありませんでした。腸も、心臓も、痛くなってきたはずのこめかみも全てないことを知ります。おれは生きているのか、そう錯覚しているだけなのか、薄らいでゆく意識の中で男は、いや、生きていると思い続けます。その横でこんな会話が描かれます。

「病室では電線につながれたまま溶液に浮いた脳を囲み、女医と担当医が話をしている。『生きる意欲があります。私たちも、やりがいがありますね』 別な部門では、男のからだの残された細胞をもとに臓器や筋肉や皮膚が再生中だったー」

生死の境界が限りなくぼやけていく時代だけでなく、高度な再生医療の果てに行き着く人間の姿まで見つめていたのです。最相は、「ブタ臓器を拒絶反応が起こらないよう遺伝子操作し、人間に移植する異種移植の研究も行われている」と指摘しています。

「どこまでもすげかえ可能になる人間の欲望の果てはなんだろうか。脳だけは死守するのか。」という疑問をもとに、2050年版の「これからの出来事」を、最後に書いています。シュールでおぞましいけれども、現実になりそうな結末です。

私たちのこれからの未来を、そして生きるということを、星新一の作品を読みながら見つめる一冊です。

星と名コンビと称され、『悪魔のいる天国』のように、版が変わるごとに新たなイラストを提供する程の親密な関係だったイラストレータ真鍋博が星の小説のために描いた挿絵をセレクトした「真鍋博のプラネタリウム」(新潮文庫/古書800円)もこの機会にぜひどうぞ。昭和58年発行の文庫。もちろん、絶版です。

中学生、高校生が主人公の小説は、森絵都が2006年に発表した「永遠の出口」以来、久しく読んでいませんでした。今回、手に取ったのは町屋良平の「しき」(河出書房新社/古書1250円)です。

特技ナシ、反抗期ナシ、フツーの高校生、星崎が主人公です。友達の坂田も、草野も同じ様なもんです。同級生の女子高校生も三人登場しますが、セックスもなければ、恋愛もほんの少しだけ。親に反発して家を飛び出すとか、悲しい恋に苦しむ、或いは悲惨な目にあうとか、ドラマチックなことは全くありません。夜の公園で、動画を流して、ひたすら踊りを練習をする星野と、彼に誘われた草野。夢ナシ、クラスのことも興味ナシ、の日々を描いていきます。

「ホームレスがもっとも濃く春の訪れをかんじている。しめった土からはじけるような音がきかれ、風の温度というより色合いのほうが、季節のうつろいをうったえている」という春の公園から物語は始まります。

キラキラした物語じゃなくても青春はあるんです。自分たちを取り巻く世界との距離の取れなさ、居心地の悪さを巧みに描いています。

「自分が生きている証拠なんて、欲しくないんだよ、他人に心配されても、ふあんになるばっか…….」

高校生活も、明日のこともなんとなく進んでゆく星野の前に、河原で暮らすつくもという友人が登場します。全くリアリティーのない人物なのですが、異物のようなこの人物が、彼の人生に大きく影響を与えることになります。

「彼はこのごろ、『成長』を逃したじぶんは自我が『成熟』することなく、『社会に適応できない』かもしれないと、根拠なきふあんに苛まれていた。」

読みにくいのか、読みやすいのか判断できかねるような文体なのですが、たどたどしいながらも、自分の道をボツボツと歩き出す彼らには、マッチしているような気がします。三人称の視点や、わざと漢字を使わない文体に乗り切れないもどかしさもありますが、これがこの作家の味だとわかると、後半一気に読みきりました。

頭では理解しているつもりでも、言葉で表す事が出来ない自分への怒りや、不安。一瞬一瞬に戸惑いながら、何故か惹かれたダンスを通じて少しずつ、成長する姿が描かれていきます。

それでも、時間は過ぎ、季節は巡っていきます。

「目の前の人間は裏切っても、すごした時間は裏切らない」

新しい春を迎えた星野が、未来が少し広がったことを知ったところで物語は幕を閉じます。反抗期もなく、フツーの青春時代を送った私には、彼らがとても身近に思えました。

タイトルの「しき」は「四季」のことです。因みに、本作は159回芥川賞候補作品になりました。そして「1R1分34秒」で160回芥川賞を受賞しました。

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臨床哲学者、鷲田清一の「濃霧の中の方向感覚」(晶文社/中古1400円)を、やっと読み上げました。最近では、最も時間を要した一冊でした。何度も読み返して、自分の頭に入れるのに時間がかかったのです。

現在、京都市立芸術大学学長の著者が、大阪大学に在籍していた1998年に「臨床哲学」という全国唯一の講座を始めました。「哲学を、孤独な思考としてではなく人々の対話として実行すること。哲学の作業をなにかある理論(あるいは解釈)としてではなく、さまざなな現場の人たちの智慧やふるまいから学びとる。そう、人びとのなかに『哲学』を発見する、そんなプロジェクトとしてやりなおすこと。」を主眼にしています。

著者にとって「哲学とは本来、じぶんたちが日常使っている言葉を一つひとつ丹念に吟味するなかで、論理的な推理を可能にする基礎的な概念として練りなおそうとするものだ。その意味では哲学的思考は人びとが使う日常言語という海を泳ぎ渉る。が、近代日本の哲学はそのもっとも重要な過程を省略し、輸入した概念をだれも口のしたことのない造語で翻訳したり、仏教用語をあてたりしながら、語りだされてきた。抽象する作業を省いた抽象語で組み立てられてきた。その結果、哲学が一階の生活の場ではついに始まらず、二階の書斎でのいとなみに終わるという無残である。」という認識です。

哲学を、もっと身近な存在にする。危機の時代、あるいは先の読めない時代に生きる私たちが進めべき方向を知り、ますます複雑化する社会の圧力に耐えうる知的体力を保つための言葉を探し出すのが、この本です。社会、政治、文化、教育、震災等の項目で、それぞれに論じられています。

「戦争や原発事故は、いまある社会の秩序がいつでも崩れうることを教える。ひとがいつ難民となるやもしれないと教える。そんな時にあってもしかと生き延びてゆくために、わたしたちが身につけておかねばならない能力とは何か。そこから学びとることを考えなおす時期に、いまわたしたちはいる」。だからこそ、道に迷わないような、方向感覚を見つけておこうという考えに異議はありません。

TVやマスコミの欺瞞に満ちた論調に惑わされることなく、地に足がついた生き方を模索するのは絶好の一冊です。

 

ケネス・ロナーガン監督「「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観ました。深い余韻が残り、近年のアメリカ映画で最も秀逸な一本だと思います。wowwowで放映していたものを友人に撮ってもらって見たのですが、解説の小山薫堂も「最近、これ程、後味のいい映画はない」と評価していました。映画館で観なかったことを悔やみます。

ボストン郊外で、アパートの便利屋として働くリー・チャンドラーのもとに、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーにいる兄のジョーが倒れたという知らせが届きます。駆けつけたものの、すでに兄は息を引き取っていました。
兄の息子でハイスクールに通う、パトリックにも父の死を知らせるため、故郷の町を走り抜けていくとき、カメラは海沿いの美しい街を捉えます。兄の遺言で、パトリックの後見人にされていたリーは驚きます。弁護士から、故郷に戻って欲しいと告げられたのです。しかし、リーにはこの街で犯した悲劇があり、その苦しみを乗り越えられていないのです。

映画は、ジョーの埋葬までの一週間を描いていきます。ジョーには酒浸りの妻がいて、離婚していました。リーにも三人の子どもと妻がいたのですが、ある冬の日、彼の不注意から三人の子どもを亡くしていました。それが原因で離婚し、リー自身も故郷を離れて、他の街でうだつの上がらない便利屋をやりながら、細々と生きていたのです。彼の妻もまた、後悔と悲しみから抜けきることができていません。
乗り越えられない傷を負ったまま、リーは自分と向き合わざるをえなくなります。そして、パトリックもこれからの人生に向き合うことになります。

 

決して明るい映画でもないし、笑って終わることはできません。背負った傷なんて、そう簡単に乗り越えられるものではないし、その傷と共に生きていくしかないという事実が、深く心に染みます。風景画のような美しい街並みを背景に、静かに進んでゆく物語は、日本的な、あえて具体的に言えば「東京物語」の無常観が漂っています。ラスト、海辺の墓地で、波の音とチャンドラー家の墓石がさり気なくインサートされる埋葬の場面にも、そんな無常観が漂っていました。

多分繰り返し、この映画を観ることになると思います。

江戸時代の浄瑠璃、歌舞伎作家の近松門左衛門の名前は、舞台を見たことなくてもご存知だと思います。「曽根崎心中」「心中天網島」「冥土の飛脚」「女殺油地獄」など、大阪を舞台にしたドロドロした男と女の関係を描いた、当時の人気作家でした。

最近近松に関して、興味深いものを観たり、読んだりしました。観たものは、映画「難波の恋の物語」(昭和34年公開)。監督は「飢餓海峡」の内田吐夢、主演は中村錦之助と有馬稲子。人形浄瑠璃「冥土の飛脚」と、それをもとにした歌舞伎『恋飛脚大和往来』を下敷きにした悲恋物語。作者の近松が狂言回しとして登場し、両替商の番頭清八が遊女の身請けのため、勤めている両替商の金品を盗み、逃亡した事件を、浄瑠璃に仕立て上げるという形をとっています。ラストで二人が人形振りで長唄をバックに舞うという、斬新なスタイルが印象的な作品でした。昭和34年で、こんな美しいカラー映画を作っていたのに驚きです。

読んだものは角田光代の「曽根崎心中」(リトルモア/古書1050円)です。これは近松の原作を角田が現代語にしたものです。

「冬だというのに、薄い襦袢だけ着た女が庭の松にくくりつけられている。手ぬぐいで猿轡をされた女は、両手両足を麻縄で木に縛り付けられ、ぐったりと動かない。振り乱した髪から、襦袢から、水が滴っている。男たちがぶっかけた水だ。襦袢はところどころ破れ片乳があらわになっている。」

という陰惨な場面からスタートし ます。享保5年、網島の長大寺で、大阪天満の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を近松が脚色したのが「心中天網島」です。角田は最近では「源氏物語」を翻訳していますが、2012年に本作が出た時も話題になりました。歌舞伎などに馴れていないと原文を読むのは大変ですが、角田の現代文だと一気にラストまでいきます。

「さあ、徳さん、早よう、早よう、早よういかせて」

剃刀を受けとる徳兵衛の手は、震えている。「さあ、徳さま、早ようお頼み申します」

これ、最後の心中シーンの山場です。近松の時代にTVがあったら、きっとお昼のドラマ枠でヒットしたでしょう。角田版で興味をもたれたら、ぜひ劇場でご覧ください。ベン、ベン、べんと三味線が鳴り始めたら、タイムスリップ、もう、そこは江戸時代の大阪です。

以前、ブログで紹介したことのある「よるのかえりみち」(偕成社/新刊1404円)の著者みやこしあきこの、新刊「ぼくのたび」(ブロンズ新社/新刊1620円)を入荷しました。

小さなホテルを経営している主人公の日々が綴られていきます。毎日のホテルの仕事は楽しいのですが、ふと遠くへ、誰も知らない世界へ旅に出たくなるときがあります。彼の空想の世界が、優しく描かれていて、いつか旅に、という気持ちを漂わせるラストに余韻があります。

最近、絵本を中心にした活動も盛んな松本大洋が、夢枕獏と組んだのが「こんとん」(偕成社/新刊1728円)です。犬のような、熊のような大きな動物で、耳があるけど聞こえない、目があるけど見えない、しっぽを加えてぐるぐる回っているだけの生き物「こんとん」の数奇な運命を描いた物語です。もの哀しい結末が待っているのですが、心に残る一冊です。いつも空をみあげて、笑っている、謎めいた、でも愛おしい動物こんとんに会いたくなります。

東京の雑貨屋さんURESICから発行されていたミニプレス「てんとまると家族絵日記」でご存知の方も多いと思いますが、独特のタッチで猫絵本で出している石黒亜矢子の「いもうとかいぎ」(ビリケン出版/新刊1620円)は、超個性的な世界を描き出しています。猫たちの、はちゃめちゃな物語が展開します。グロテスクさと可愛らしさが混ざったヒグチユウコの擬人化された猫とは、一味違う世界を楽しむことが出来ます。

イングリ&エドガー・パーリン・ドーレアが、北ヨーロッパに住むサーミの人たちを描いた「オーロラの国の子どもたち」(福音館書店/新刊1620円)は、かれらの生命感あふれる日々が描かれています。オーロラきらめく広大な空の下、雪と氷の大地を、トナカイと共に移動してゆく兄弟と家族の一年を見つめています。この本が出たのは1930年代の初め頃。今から見ると古めかしい画風かもしれませんが、暖かな味わい深いタッチです。トナカイが、これほど登場する絵本も珍しいかもしれません。

 

「おじさんの哲学」(原書房/古書1200円)の著者永江朗さんは、「みんな『叔父さん』を必要としている。『父』ほど権威主義的で抑圧的ではなく、かといって『兄』よりも少し頼りになる大人のアドバイスを必要としている」と書いています。

権威をふりかざす父でも、距離が近すぎの「兄」でもない「叔父さん」という存在が、どんな時代にも警鐘を鳴らしてきたという事実を、20人以上の作家の文章で明らかにしていきます。

永江さんは、1958年生まれの60歳。私とはほぼ同世代。だから、今の言論界で「叔父さん」的存在として内田樹、高橋源一郎、橋本治を並べたのを見て「同感、同感」と思いました。

「おじさんはときどき非常識なことをいいます。おじさんは常識にとらわれない。そこがお父さんとの大きな違いです。お父さんは常識的なことしかいわない。常識を押しつけるのがお父さんであり、お父さんは常識を体現している。」

著者は、内田樹の「先生はえらい」をベースにして、おじさんの非常識さを解説していきます。この3人の作家に縁のない方には、ちょっと読みづらいかもしれません。

最近の高橋源一郎の小説は、読み切るのがしんどいのですが、論評や、政治的発言には、説得力があるので、できる限り目を通しています。世の中を見つめる「目の確かさ」を信用しています。そして、橋本治。著者は「いまの世の中の見かた、さらに人生についてもひとことふたこと。でも、いっていることがよくわかんないこともある」とも書いています。

そういえば「いっていることがよくわかんないこともある」っていう橋本の文章にぶつかることがあります。「ああでもなく、こうでもなく」という感じで、こちらが困惑することもあるのですが、やはり世界を見る目はしっかりしています。

この三人に始まって、山口昌男、鷲田清一、植草甚一、伊丹十三、山口瞳、田中小実昌、片岡義男、天野祐吉、谷川俊太郎、小田実、鶴見俊輔などが登場してきます。彼らの本に接した方ならどんな具合に論評しているのか、気になるはず。知的刺激に満ちた一冊です。逆に、こんな人たち知らんわ〜という方には、みんな変な叔父さんだから、面白そう、読んでみようと思っていただければいいですね。

 

 

神戸元町に「トンカ書店」という名物古書店がありました。当店の古本市にも、いつも参加していただいていました。店主トンカさんのおおらかさに包まれて居心地がよく、皆に愛された「トンカ書店」が引越しをしました。「花森書林」と屋号を変えてスタートされたので、先日遊びに行ってきました。

児童書、絵本、雑誌、文学書、人文書、写真集、画集、図録などが、所狭しと置かれて、どの書架も面白くて、これも買いたい、あれも買いたいという気分になってきます。下に積まれていた本をゴソゴソしていると、八木重吉の詩集「普及版定本 八木重吉詩集」(彌生書房)が出てきました。

この詩人の詩集を探していたのです。八木は1898年生まれで、生前に刊行した詩集は1冊のみ。1927年には29歳で結核で亡くなりました。この人の詩は、とにかく短い作品が多いのです。

「日はあかるいなかへ沈んではゆくが みている私の胸をうってしずんでゆく」

「日が沈む」という詩です。

私が、はじめて出会ったのは、何かの本か或いは映画で誰かが語っていたのか、もうさっぱり覚えていませんが「できることなら くだものさえ殺さずにいきたい」という僅か、二行の「断章」という詩でした。これが、この詩人の作品だということをどういう経過で知ったのかも、まったく記憶にないというのが困りものです。

詩集をゲットして、パラパラめくっていたら、「雨」という詩を見つけました。

「雨は土をうるおしてゆく 雨というもののそばにしゃがんで 雨のすることをみていたい」

もし、雨のすることを眺めていたら、きっと幸せな時間が流れることでしょう。

偶然ですが、昨日ご紹介した田尻久子さんの「みぎわに立って」の中でも、八木のこんな詩が紹介されていました。

「雨のおとがきこえる 雨がふっていたのだ あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう 雨があがるようにしずかに死んでゆこう」

やはり雨なのです。因みにこの詩集、昭和34年発行で、私が今回入手したのは昭和51年版。なんと20回も重版を重ねています。

「花森書林」は、当然ながらかつての「トンカ書店」の匂いの漂う居心地の良いお店でした。店内壁面で、ご近所の店の店主の写真展も開催されていて、私たちも帰りに、昔懐かしい雰囲気の純喫茶ポエムに立ち寄りました。

もし、元町に行かれることあれば、ぜひ「花森書林」へお出かけください。

 

 

 

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