まぁ、ほぼ手を出さない作家というのがいます。例えば染織家、志村ふくみがそうです。しかし、彼女の「ちよう、はたり」(ちくま文庫800円)は、読みました。

何故かというと、女優で文筆家の山口智子が書いていた解説を読んだからです。「色っぽい人間でありたいなと思う」で始まる解説は「人生において忘れたくないもの、それは私にとっては『色気』だ。」と続き、志村ふくみが持つ色気をこう解説します。

「まるで生まれたての生糸のような、春爛漫の菜の花畑の羽色のような、初々しくも神々しい光の束のような色彩。私がいつも心奪われるふくみさんが纏う色気は、きよらかで眩しい。」

「色は、世界に降り注がれる光の化身。魂を震わせる宇宙からの寄せ来る波。」と。

これは読まねば、と思い本文へと入りました。本のタイトルにもなっている「ちよう、はたり」の意味を解説する最初から研ぎ澄まされた美しい言葉に数多く出会うことができました。

文庫の後に付いている解説って、通り一遍の事しか書いていないセンスのないものもありますが、店頭でパラパラと眺めて、その解説が気に入って買ったものも多数ありました。

映画、文芸評論家川本三郎が桜木紫乃の「誰もいない夜に咲く」(角川文庫400円)もそんな一冊でした。北海道出身の桜木の描く世界を「文章のなかから北海道の風景が立ち上がってくる。観光絵葉書にあるような美しい北海道ではない。人びとの暮らしがしみこんだ風景、人間を小さな存在に見せてしまう荒涼とした風景、桜木紫乃は風景のなかに人間を置こうとする。」

その言葉通り、桜木の小説にはそんな北海道が登場します。川本は最後に、地方に留まり普遍を描くという意味で、諫早に踏みとどまった野呂邦暢を引き合いに出し、彼女も同じ思いだろうと結論づけています。

解説がしっかりしているという点では、講談社文芸文庫が優れているということは、皆さんご存知かと思います。

小林信彦の「決壊」(700円)の解説を書いた坪内祐三の文章は、「『家』の問題こそ、小林文学の、小説やノンフィクションを問わず、一貫したテーマでもある。」

と言い切っていますが、小林の小説を読み続けて来た者として、的を得ていると思いました。

 

★8月9日(水)〜20日(日)「レティシア書房 夏の古本市」を店内で開催します。

個性的な28店のよりすぐりの古本が大集合です!(14日は休み)

 

京都文化博物館で開催中の「パリ・マグナム写真展」(9月18日まで)に、朝一番、行ってきました。

1947年、「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって、写真家集団・マグナムは結成されました。以後、現在に至るまで、マグナムは多くの写真家を輩出し、地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。

マグナム・フォト設立70周年にあたり、パリをテーマにした約130点が選ばれています。占領下のパリで、レジスタンス達の戦闘シーンを捉えたものから、戦後の荒廃期を経て、華やいだ都市へと復興してゆく姿。或は全世界に波及した学生運動の原点ともなった「五月革命」の激しい戦いの一瞬を捉えたものなど、この都市に魅了された写真家たちの作品が並んでいます。

とりわけ、キャパが捉えた戦中戦後の、市民や労働者たちの姿を写した作品は、まるで映画のワンカットみたいにドラマ性に富んだ作品でした。キャパではありませんが、40年代ルノー自動車工場の労働者のストライキを捉えた作品も、ネオリアリズム系イタリア映画を彷彿とさせます。

この時のストライキの目的は、40時間労働と有給休暇の獲得でした。すでに、ここで、未だに我が国では達成されていない目標に向かっていたのは驚きでした。

展示は、マグナム発足前の1932年から始まり、デジタルカメラの登場で新しい写真表現が可能となった今日まで、そして痛ましいテロ事件の痕跡を網羅しています。

エリオット・アーウイットが1949年に撮った「パリ」、52年にキャパが撮った「凱旋門」などを見ていると市民が平和な時代に生きている姿が伝わってきます。

ところで、今回の写真展で一番気に入ったのは、実はパリの街を写したものではなく、「第三の性」で著名な作家ボーボワールの横顔を捉えたエリオット・アーウイットの作品でした。お薦めの写真展です。

なお店には、今も勢力的に活動するマグナムに所属する写真家たちの優れた作品を収録した「MAGUNUM MAGUNUM」(青幻舎3500円)をおいています。写真が持つ芸術表現の豊かな広がりを堪能できる一冊です。

「日本野鳥の会」創設者、中西悟堂(1895〜1984)は、鳥の研究者であり、歌人であり、詩人であり、そして僧侶でした。寺田寅彦や、野尻抱影、岡潔らの自然科学者の優れたエッセイと同様、やはり彼も沢山書いています。

昭和32年に発行された「野鳥と生きて」(ダビッド社/重版・箱付2800円)もそんな一冊です。

「目もはるかにうちひらけた刈田の近くにも遠くにも、日を受けて黄いろく光る稲城の列が、一個小隊ずつの兵隊のように並び立つかなたに、東の空を極めて大きく孤状に塞いで 立つ滝山が」で始まる「鷲のプロフィル」は、蔵王山頂で見つけた鷲の姿を捉えた記録です。

「晴れた空間に唯一羽、光を浴びて舞いすましているその両翼の張りの立派さは、双眼鏡で検めるまでもなく、イヌワシであった。このあたりのどの山塊に棲むものであろうか?山稜のうしろへ次第に消えようとするその姿は、目に見えぬ糸でひっぱるように、私の足を頂上へと早めさした」

鳥の研究者が、一人ひた向きに、夏の蔵王山を、イヌワシの姿を求めて登ってゆきます。

あるいは、奥日光の秘境、西ノ湖で、思いがけずコチドリがいることを見つけ、「コチドリやイタチの足痕に交じって、夏だというのに、日本には冬しかいない筈のコガモの足痕が点々とあるのである。よく知っている足痕だから、まちがいはない。」とウキウキしながら鳥探しをしている男の姿が見えてきます。

とにかく、学者はよく歩く。若き日、寺で百八日間の座行、二十一日間の滝行、同じく断食を行ったのだから、どんな場所も平気。さらに、ある時期、野原の一軒家に住まいして、ソバ粉と大根と松の実を常食として、日々自然を見つめて暮すという、まるでソローの「森の生活」を実践するような生活を送っていました。

中西は、鳥の研究者であり、森の人でもありました。「敗れた国にも山河はあって、そこに咲くくさぐさや花や、鳴禽の囀りは昔のままだ。その花や鳥、せっかく残された国の宝、われわれの共有財産を、諸嬢よ、むやみにおびやかしたり、むしったりしてはならない。」と「若葉の旅」で述べています。昭和9年、「日本野鳥の会」を設立して、その時代から環境破壊への警告をしていました。

なお、平凡社STANDARD BOOKS シリーズとして「中西悟堂 フクロウと雷」(新刊 1512円)というコンパクトサイズのエッセイアンソロジーもあります。夏休み、高原や山に行かれるなら一緒に持っていくのに最適ですね。

ところで中西は60代手前で、冬でもパンツ一枚で過ごしだして、「心の修行などは、あてにならぬ 躰の修行からはじめよ」とこのスタイルで体操をし、長距離を歩いたらしい。赤塚不二夫の「おそ松くん」に登場するデカパンだったのか、彼は……..。

1980年、たざわ書房から発行された「アタゴオル・ゴロナオ通信」(初版/帯無し2400円)と1996年、朝日ソノラマから発行された「円棺惑星」(重版/帯付き1900円)が入荷しました。

前者は、いつもの大食い猫ヒデヨシが登場する物語を集めたもので、雑誌「宝島」や「猫の手帳」に掲載されたものです。友達には絶対したくないヒデヨシと仲間たちが巻き起こす騒動を描いた、奇妙で、不思議で、奇想天外なファンタジー世界。実際にヒデヨシと飲んだ日には、お前の顔なんか二度と見たくない!と大げんか必定のはずですが、なんだか憎めない奴だなぁ〜と思ってしまうのです。ますむらは、ヒデヨシの物語と同時進行で、宮沢賢治の童話を次々と、猫を主役にコミック化しています。特に、「虔十公園林」という、今でいうナショナルトラスト運動の原点を描いたような賢治作品は、原作を超えていると思います

ところで「アタゴオル・ゴロナオ通信」に「青猫島雨床通り」という作品が載っています。これは「自由時間」1976年1月号に発表された作品ですが、他のアタゴオル作品のタッチとは全く違います。

「青猫島にある鯖岸森には、200年間休みなく雨の降り続いている『雨床通り』という床屋街がある。」という文章で始まる短い作品です。銅版画のようなタッチで描かれた三枚の絵に文章がくっ付いた小品です。ちょっと不思議な街に彷徨い込んで、ふらりふらりして、はっと現実に戻ったような気分にさせてくれます。登場するのは、もちろん猫たちですが、どの猫も全く感情が読み取れない顔つきが、印象的です。

さて、もう一点の「円棺惑星」は、猫の登場しない作品です。ある奇妙な惑星で展開するファンタジーなのですが、暴力的で、グロテスクで、残酷な描写も登場します。アタゴオルに馴染んだファンの方は、もしかしたら戸惑うかもしれませんが面白いです。第一話「マネキン森は月の耳」で、マネキンと呼ばれる植物性人間が三日月の頃になると、人間の耳を齧るという事件が描かれます。で、このラスト。事件を解決した主人公の受羅という若者は、ふとこんな台詞を口にします

「マネキンが耳食うくらいたいした事じゃないかもしれない。オレたちの先祖は地球を食いつくしたんだ」

ここで、読者はこの世界は、人間が滅茶滅茶にした地球の未来の世界だったことを知ります。映画「猿の惑星」ラストで、自由の女神の一部が海岸から出ているのを発見した宇宙飛行士が、自分たちの星は核戦争で滅んだことを知って愕然とする、あの衝撃を目論んだのかもしれません。

今回入荷したものは帯も付いていて、中身も綺麗です。お買い得です。

ところで、8月20日まで著者の生まれ故郷の山形県米沢市立図書館で「ますむらひろし展」が開催中です。著者サイン入りの読書通帳もプレゼントされているとか。ファンなら見逃せませんぞ。

池澤夏樹編集の日本文学全集の「近現代作家集2」(河出書房1800円)が入荷しました。戦争、そして敗戦の混乱期から出てきた文人達のモダンな作品が網羅されています。

斎藤美奈子が、付録の小冊子で「『近現代作家特集2』は『作品本位主義』ともいうべきこの全集の思想をとりわけ強く反映した一冊」と書いていますが、文学史的流れでまとめらていません。

山本五十六海軍大臣と芸者の、温泉での逢瀬を描いた里見弴の「いろおとこ」は、花柳小説の小品です。へぇ〜こんな小説があったんだと驚きです。小説の中で、五十六であるとは明言されていませんが、誰でも気づく展開です。

きっと、戦時中は発表できなかった武田泰淳の「汝の母を」、色川武大「空襲のあと」など、戦争を様々な角度から捉えた作品がならびますが、井上ひさしの「父と暮らせば」が一番面白かった。宮沢りえ主演の映画は観ていましたが、原作の舞台劇は初めて読みました。原爆投下後の広島で生きる娘と、亡くなった父親の亡霊の、たった二人の会話劇で、緊張感が溢れながらも、ユーモアのある会話を通じて、原爆のいい知れぬ恐ろしさを浮かび上がらせます。

戦争を描いた作品の後に続く、現代的な感覚溢れる文学作品にも面白いものが一杯です。取り外し自由な女の片腕を借りてきた男が、その腕を愛撫する姿を描く、フェチ小説の巨匠川端康成の「片腕」、たった一夜の駅の待合室を舞台に、スリリングに展開する安部公房の「誘惑者」など、どちらも才気溢れる映画監督が映像化したら、極めてユニークな作品になること間違い無しの傑作。おそろしく新しい感覚の作品です。

収録されている作家は、ほぼ名前を知っていましたが、一人だけ初めて見る作家がいました。上野英信です。池澤によれば、「上野は筑豊に暮らしたルポルタージュ文学の作家である。ノンフィクションはジャーナリズムの延長上にあるが、ルポルタージュ文学はもう一歩だけ文学に近づく」と言及しています。

収録されているのは「八木山超えの話」。作家自身が働いた筑豊の過去への思いを書いた作品です。親の許しを得られない男女が、八木山の峠道を超えて、愛を全うする昔の風習を描いています。文学なのか、ノンフィクションなのか明確な線引きが出来ないのですが、様々な理由で八木山を超えてゆく男女の物語を垣間みることができます。

「よそのこつは知らん。ばってん、とにかく、あたや、みたこつもなか、きいたこもなか。反対はあるくさ。いまんごつ。やおうはなか。ばってん、どげな反対のあろうと、屁のカッパみたい。ぼーんと八木山超えばやる。それでいっぺんに勝負はきまる。文句はなか」

登場するばっちゃんのタンカが、気持ちいいですね。

 

6月28日のブログで、マイケル・D・ヴィットの絵本「レッドタートル」の事を書きましたが、スタジオジブリで映画化されたDVDを購入してやっと見ることができました。全編、台詞、音楽なしの実験的なつくり方で、心に残る良い作品でした。

海で遭難した男が、南海の孤島に辿り着きます。孤独な生活から逃れようと何度も脱出を試みるのですが失敗。そうしているうちに、彼に恋したウミガメの化身の女性と暮らしはじめ、男は幸せを得て、子どもを育てます。やがて成長した子どもは、島を出て、大きな世界へ旅だってゆき、男は年をとります。男の最期を看取った女性はウミガメに戻る、というストーリー。

スタジオジブリ初の、海外共同制作映画として公開され、フランスのカンヌ国際映画祭では、作家性の高い作品に与えられる「ある視点」部門特別賞を受賞しました。でも、決して小難しい映画ではありません。余計な欲望をはぎ取った究極の状況で生きること、死ぬことの意味を描いています。秀逸なのはラストシーンです。年老いて亡くなってゆく男を見つめる女性。満点の星の下で、彼は一生を終えますが、翌朝、ウミガメに戻った女性はゆっくりと島を去っていきます。聞こえるのは波の音だけ。静かな、静かな幕切れです。

私たちの人生は、この惑星の大きな何かに見守られているのかもしれないという想いに涙せずにはいられません。

マイケルが、「レッドタートル」以前に作った傑作短編アニメ「岸辺のふたり」の絵本(くもん出版/絶版950円)が入荷しました。幼い娘を置いてボートに乗り込み、戻ってくることの無かった父。その面影を求めて岸辺に通い続ける娘。やがて、娘は大きくなり、伴侶を得て、子どもを育て、老いてゆく。そして、ある日、彼女は、あの日戻ってこなかった父と再会する。ここでも、死ぬ事と生きることは一体であることが描かれています。

娘をおいて、水平線の彼方に向かう父をシルエットで描いたカットや、眩しい青春時代を送りながらも、父のことがふと頭をかすめる彼女の背後に、影を落とす林を描いたカットに、マイケルの人間の生と死への思いが込められています。ラスト、再会した二人の横に広がる影の長さに、読む者はそれぞれ、いろんな想いを重ねるかもしれません。

「レッドタートル」のDVDは、おそらくレンタルショップで見つかると思いますが、気に入ったら買われることをお薦めします。この先、多くの死に立ち会わざるを得ない時、きっと支えてくれることでしょう。

 

永井荷風の「断腸亭日乗」を引き合いに出すまでもなく、日記文学はとにかく面白いものです。私が日記文学に目覚めたのは高橋源一郎「追憶の1989年』だということは、以前ブログで書いた事があります。

ミニプレス「仕事文脈」を出しているタバブックスから、丹野未雪著「あたらしい無職」(1512円)が入荷しました。これ、非正規雇用で出版業界を渡り歩く一人の女性の日記なのですが、面白いのです。

「会社ってなんだろう。未婚、女性、東京ひとり暮らし。不安もあるけど、好きな仕事をして形を決めずに生きる。非正規雇用、正社員、アルバイト、無職、30歳から41歳の切実な日々の記録」

という宣伝文句通りの内容です。「八月初日 今日から無職」で始まる第一章「39歳無職日記」。ハローワーク通いの日々が始まりますが、悲壮感はありません。「十月初日 さあ、今日も無職だ。」では、世間には案外39歳無職が多い事を知って、「たまに視聴者参加型クイズなんかに元気に出ている三十九歳無職がいると、『無職でも陽当たりよく生きていいのだ』と励まされたりする」なんていう描写に出会います。

やがて、出版社に職を得るのですが、ここがもうブラック企業なんじゃないの、と思える程に離職者の多い会社でした。しかし、一年後、「会社とは何だろう。この共同体でなければならない理由がわたしにはない。ここであらたに身につけた技術や人脈はほとんどなかった。」と退職を決意する。

そして第三章41歳無職日記は、こう始まる。

「三月初日 このまま何事もなく毎日が過ぎたら無職なんだなと思っていたのだが、何事もなく過ぎたので今日から無職だ。」

仕事への態度に誠意がない、などという方もおられるかもしれませんね。でも、書店のビジネス書コーナーにあるような会社での自己変革とか、社会人の自分探し等々の本なんかよりも、よっぽど内容のある本です。効率的に仕事をする本が、何のために役に立つのか理解できなった私にとって、自分に正直に生きている女性の行動の記録として、多くの共感を得るのではないかと思いました。

蛇足ながら、この本を読もうと思った切っ掛けは、8月15日を「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」と表記していたことです。戦争に負けたことを敗戦と呼ばずに終戦と呼ぶメディアのごまかしに迎合せずに、きちんと「敗戦記念日」と本の中に書いていた作者の正しさを見つけた時、あ、信じられると思ったことです。

 

 

古いフランス映画(1956年)に「赤い風船」という作品があります。少年と風船の友情を詩情豊かに描いた短編映画です。後年、いわさきちひろが絵本化を熱望し、68年に「あかいふうせん」として出版されました。

同じタイトルの絵本、イエラ・マリ作「あかいふうせん」(ホルプ出版850円)が入荷しました。この絵本には、全く言葉がありません。少年が膨らましていたチューインガムが、大きくなり赤いふうせんになり、フワリと大空へ旅立ちます。やがて、その赤いふうせんは、リンゴに形を変えて、地上に落ち、今度は赤い蝶々になり、可愛らしい赤い花へと変身していきます。赤い花は、にわかに曇ってきた空から落ちて来た雨粒に対して、赤い傘へ。その傘をさして雨の中を行く、最初に登場した少年の姿を真上から捉えたシーンで絵本は幕を閉じます。

極めてシンプルな絵本ですが、デザインのセンスが冴えています。「きょうのおやつは」や「かがみのサーカス」等の絵本で注目の作家、わたなべちなつは、この本への思いをこう書いています。

「グラフィックデザインを学んでいた学生時代に、書店で初めてこの絵本を手に取りました。文字がなく、絵のみで表現された潔い画面に、目が釘付けになりました。ページをめくりながら、心臓がどきどきしたのを覚えています。絵本は大人をも魅了する造形であると確信した一冊です」

風船がどんどんとフォルムを変えてゆくという場面転換には、確かにドキドキする楽しさがあります。それに、流れるように展開する一つ一つの絵が、とても素晴らしく、赤い傘を持った少年を上から捉えた絵は、そのまま”FIN”という文字が出る洒落たフランス映画のラストシーンみたいです。

イエラ・マリは、この本以外にも、文字のない絵本として「りんごとちょう」など多くの作品を残しています。当店には「にわとりとたまご」がありましたが、現在は売切です。

 

先日、東京のSUNNY BOYBOOKS さんから連絡がありました。

イラストレーター、タダジュンさんの作品集「Dear,THUMB BOOK PRESS 親愛なる親指へ」(2376円)を出版したので、挨拶に伺いたいという嬉しいお話。タダジュンさんと言えば、ヘミングウェイの「こころ朗らなれ、誰もみな」、クッツェー「鉄の時代」等の海外文学や、中川ワニ「ジャズブック」のカバーデザインでお馴染みの作家です。そして、映画ミニプレス「Kinebus」にも、毎回素敵な作品を書かれています。(もちろん当店にも置いてます!)

恵文社一乗寺店での個展と誠光社のイベントのために京都に来られたので、うちにも寄ってくれました。新しい作品集「Dear,THUMB BOOK PRESS」は、本好きならニンマリするに違いありません。

巻頭に柴田元幸の「サムが愛した本について」という序文にこうあります。「サムが独自の装幀本を作成した20冊のリストは大変興味深い。」そして、次のページからサムが装幀した本がズラリと並んでいます。ナバコフ、カフカ、ブコウスキー、ヘミイグウェイ、ウォールデン、そして谷崎の本まで、独特の世界観に満ちた作品が並びます。

えっ?この本ってタダジュンの作品集じゃなくて、サムとかいう人の作品集なの?

実はサムなんて人物は実在せず、タダジュンさんがサムという架空の装丁家に扮して、装幀した本が載っているという趣向なのです。

ご丁寧に SUNNY BOY BOOKSオーナーの高橋和也さんが、「THUMB BOOK PRESS」と印字された「星の王子様」のフランス語版を持っていた思い出まで書かれています。さらに、タダジュンさんがサムに扮して公園に佇む写真まで載っているという凝りようです。

でも、どの本もずっと見つめていたい、という気持ちになります。こんな本があれば、一日中触っていたいと言う程に、愛情が溢れた装幀です。

紹介されている文学作品について、それぞれコメントが付いています。私が気に入ったのはバージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」の紹介文です。装幀に合わせて、それぞれの方が、架空のサムおじさんへの思いを語ってくれます。空想の書物に触れ、書物を読む楽しみを味わってください。(素敵なサインを本に書いていただきました!)

タダジュンさんの参加されている「Kinebus」最新号(100円)もお持ちいただきました。たった一枚の新聞紙の大きさのペーパーですが、映画への愛に溢れています。

猛暑の京都にお越し頂き、ありがとうございました。

元ハーバート大学日本文学教授で、村上春樹の小説の英語翻訳者としても有名なジェイ・ルービンが、編集した「芥川龍之介短篇集」(新潮社1400円)というアンソロジー。この本には村上春樹が、「芥川龍之介ーある知的エリートの滅び」という序文を寄せています。この芥川論が、とても面白いのです。

「初期の芥川の作品の、当たるをかまわずずばずばと切りまくるような文体には、間違いなく、息をのむようなすさまじさがある。」

こんな文章に出会うと、芥川を読みたくなりますよね。私自身、へぇ〜、彼ってこんな技巧的でスマートな短篇小説が書ける人だったんだ、と気づいたのは最近です。

村上は言います。「まず何よりも流れがいい。文章が淀むことなく、するすると生き物のように流れていく。言葉の選び方が直感的に自然で、しかも美しい。」

以前ブログで紹介した「日本文学全集26巻 近代作家1」に収録されている芥川の「お冨の貞操」(河出書房新社1800円)などは、その好例だと思います。また、たった数ページで、中世の説話を現代語でリライト&リミックスして甦らせた「羅生門」を読めばわかります。

芥川の文学的センスと淀みなく進む文体は、しかしその一方で「文学者としての彼にとってのアキレス腱ともなった。その武器があまりにも鋭利で有効的であるが故に、彼の長期的な文学的視野、方向性の設定は、いささかの妨げを受けることになったのである。」と村上は指摘します。

有り余る才能だけで、新しい時代の動きをねじ伏せることが出来るとは思えません。文学史的に見れば、台頭しつつあったプロレタリア文学運動と、その真逆のような世界を描く私小説を芥川が受容できるはずがありません。

「人工的なストーリーテリングと、洗練された文章技術の中に、人間的含蓄を忍ばせること、それが芥川の生き方であり、書き方であった。そして私小説やプロレタリア文学の拠って立つ文学的方法は、そのような生き方とは根本的に対立するものであった。」

結局、芥川は、私小説的世界の方へと無理矢理自らを放り込むのですが、私は後期の芥川作品の熱心な読者ではないので、この時期の評価はできません。村上は15歳の時に読んだ「歯車」の、情景がいまだに鮮やかに残っていることを告白して、

「自らの人生をぎりぎりに危ういところまで削りに削って、もうこれ以上削れない地点まで達したことを見届けてから、それをフィクション化したという印象がある。すさまじい作業である。」と、書いています。

村上の20数ページの芥川論を精読して、収録された18点の小説を読むと、芥川が身近な存在になるかもしれません。