数年前に出来た新刊&古書のお店「待賢ブックセンター」の「処暑の古書市」を、本日よりレティシア書房で開催します。期間は9月5日まで。

で、どんな本が出ているか、ちょっとご紹介いたします。

先ずは、全13巻セットの大作「ファブル科学知識全集」(15000円)です。これは、大正11年に出された「ファブル科学知識叢書」の改訂版として、昭和4年に刊行されたもの。版元はアルス。ここはアナキスト系の出版社で、「大杉栄全集」とか出していました。ファブルなら昆虫記がメインですが、この全集は、それ以外も全て網羅しています。第1巻「天体の驚異」からスタートです。「月より見たる地球」などという口絵が載っているところとかが面白い。

夏目伸六、夏目という苗字からわかるように、漱石の次男です。明治41年生まれ、昭和15年に文藝春秋に入社し、ジャーナリストとして活躍するも、随筆家に転身しました。彼が昭和35年に発表した「猫の墓」(文藝春秋1000円)を見つけました。

「この日は、しんしんと寒気の身にこたえる、いてつく様な寒い日であったが、葬儀をおえた父の棺は、青山斎場から、すぐさま、落合の火葬場に運ばれた。そうして、父の死体は、くしくも、数年前、父自身が、始めて拭い難い肉親としての哀愁を以て、幼い末娘を荼毘に付した、その同じかまどで焼かれたのである。」

これは「父・臨終の前後」に登場する文章です。間近に父、漱石を見てきた人にしか書けません。

 

当店でも人気の絵本作家nakabanさんの珍しい本を見つけました。2002年に発行された「バースデイブック」(アムズ・アーツ・プレス1200円)です。誕生日がやってくる楽しさをカラフルに描いた小さな本です。ファンなら持っておいていいと思います。

その他、珍しい本が沢山出ていますので、暑い最中ですが一度遊びに来てください。

待賢ブックセンター「処暑の古書市」は8/25(水)〜9/5(日) 

8/29・30・31は休み 13:00〜19:00

 

●勝手ながら8/29日(日)は臨時休業させていただきます。

●北海道のネイチャーガイド安藤誠さんのトークショーを今年も開催します。10月24日(日)19時スタート(2000円)要予約

日本文学界の長老、黒井千次(1932年〜)の小説を久々に読みました。「たまらん坂」(福武書店/古書1200円)。サブタイトルに「武蔵野短編集」とあるように、実在の武蔵野にある場所が登場します。ベタベタの武蔵野愛みたいな小品ばかりだったらやめようと思ったのですが、う〜ん、上手い!ベテランの短編を堪能しました。

サラリーマンの内面を描写する著作が多い作家だけに、本作品集に登場するのも定年を迎えたり定年間近のサラリーマンが主役になっているものが多くあります。初老の男たちが、武蔵野にある地名や場所に、かつての青春時代の淡い恋と輝きを思い出して、足腰が弱っているにも関わらず、フラフラ歩き回る物語です。そして、変わりゆく街の姿、老いてゆく自分を見つめるのです。

何よりもデティールが素晴らしい。細部にこそ神が宿ると言いますが、武蔵野の自然がどの作品でも深く描きこまれていて、武蔵野に行ったことのない人も、この界隈を歩いているような錯覚を覚えます。

本書を読もうと思ったきっかけは、タイトルになっている「たまらん坂」に、忌野清志郎の曲が絡んでくることが面白いと思ったからなのです。それが清志郎の「多摩蘭坂」です。国分寺駅付近にある坂で、この辺りに住んでいた清志郎が作った歌です。

主人公はある日、妻と息子が一緒にRCサクセションのレコードを聴いている場面に遭遇します。最初はうるさい歌だと思っていたのが、徐々に、のめり込んでいきます。そして「たまらん坂」の来歴を調べ始めるのが物語のスタートになっているのです。清志郎の歌をこんな風にイントロに使うなんて、参りました。

「青春の輝きと愛」などという気恥ずかしい言葉が帯に書かれていますが、それはさておき、武蔵野に吹く風、降りしきる雨、虫の声、暮れてゆく情景を、ゆっくりと味わう短編小説集です。

 

●8/25(水)〜9/5(日)待賢ブックセンター主催「処暑の古本市」開催します。

なお、勝手ながら29日(日)は臨時休業させていただきます。


●北海道のネイチャーガイド安藤誠さんのトークショーを今年も開催します。10月24日(日)19時スタート(2000円)要予約

 

 

 

”けんちん”という人をご存知の方の方が少ないかもしれませんが、彼の名刺にはこんな単語が並んでいます。「銭湯電気保養協会」、「電気風呂鑑定士」、「#電気風呂パワー」。

はい、この人は電気風呂の研究家です。もともとは団地研究家でした。

彼は団地愛好仲間と共に2014年、「団地ブックス」という本を発行します。0号を開くと全国各地の団地と共に、京都市内の「UR壬生坊城団地」の写真が載っています。団地愛好者たちが集まって作ったマニアっぽい雑誌だけあって内容は濃いです。

2&3号合併号には、当店の近所で、最近無くなってしまった「公団御池通市街地住宅」に再会しました。日本の住宅文化を支えた団地の存在が様々な角度から検証されていて、装丁、中身ともにしっかりした本になっています。

その後、けんちん氏の興味は「電気風呂」へと向かいます。2017年ごろから各地の銭湯を訪ね歩き、資料を集めて出来上がったのが「旅する電浴」(1100円)、「電気風呂ご案内200」(1100円)、さらには「銭湯下足札コレクション」(880円)、「下足札」(880円)なども作りました。

色々な銭湯の下足札ナンバー「42」番が撮影されています。この数字は「死に」という言葉を連想するためで、誰も使いたがらないので容易に撮ることができたのだそうです。

ところで、電気風呂って何?と、生まれた時から自宅にお風呂のある人は疑問に思われるはず。著者が作ってきたポップによれば、「電気風呂とは、浴槽の湯に微弱な電流を流す装置を指す。関西において盛んに普及している。低周波電流により、身体に刺激を与え、肩こりや腰痛に効果があるとされている。」ということです。

この電気風呂、政府に認可されたのは昭和8年の船岡温泉(京都市北区)が第一号で、戦前から京都には電気風呂が存在していて今も多くの銭湯にはあるそうです。因みに京都市上京区の銭湯は全て電気風呂を完備しているそうです。

「旅する電浴」は、電気風呂を求めて北から南へと旅した記録で、全て写真入りで紹介し、それぞれの電気風呂の効能が書き添えられています。電気風呂愛200%の読み物ですね。

松山市の「新開温泉」には「電気風呂2席あり。石彫りで電気湯表記。サウナ→水風呂→電気風呂の無限極楽ループ完成!さっぱりぽかぽか」だとか。

けんちん氏は普通のサラリーマンで、純粋に趣味、いや研究対象として電気風呂を追いかけています。ひたすら好きなものを追求している人の面白さが滲み出たミニプレスです。

●8/25(水)〜9/5(日)待賢ブックセンター主催「処暑の古本市」開催します。

なお、勝手ながら29日(日)は臨時休業させていただきます。


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映画「返校」(京都シネマ にて上映中)は、軍事政権支配下の60年代台湾が舞台です。台湾では1947年以降戒厳令が敷かれ、蒋介石率いる国民党が反体制派に対して政治的弾圧を実行し、国民に相互監視と密告が強要され、多くの人々が投獄、処刑されました。そんな時代を、この映画は極めて象徴的に描いています。

政治的な映画?と思われるかもしれませんが、スプラッタ映画とオカルト映画、さらに韓流純愛映画のような映像で迫ってくるという、かなり変化球的作品であるところが驚きです。

放課後の教室。眠り込んでいた女子学生ファンは、学校の様子が一変していることに気づきます。他の生徒は誰も見当たりません。構内は静まり返り、荒れ果てて、異様な雰囲気です。彷徨い歩く途中、後輩の男子学生ウェイと出会い、学校から脱出しようと試みますが抜けられません。それどころか恐ろしい化物が襲ってくるのです。なんとか襲撃を掻い潜って、友人や先生を探そうとする二人は、国家のために密告者になった生徒がいたという事実を知ります。

もともと原作がゲームのせいか、校内を必死で逃げ回る二人のシーンはいかにもゲーム的です。おぞましい恐怖に満ちたシーンの連続。

しかし、この映画はただ血飛沫や化け物の恐さが目的ではなく、国民がお互いを監視し合い、ちょっとでも不審なことがあれば密告をすると言う社会の恐怖を描いています。

前の大戦下の日本もそうでしたよね。町内会やら、国防婦人会やら、お互いを監視し合い、少しでも反戦的なことを言った途端、憲兵に密告する社会でした。今は、憲兵も国防婦人会もありませんが、前総理あたりからきな臭い感じが大きくなってきたことを考えると、あながちこの映画の世界が過去のこととは言えません。

静謐で穏やかなラストシーンには、製作者の深いメッセージが描きこまれています。「自由」と言う単語の重みが伝わってきました。

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2019年、長年活動の場としていたアフガニスタンのジャララバードで武装集団に襲撃されて、亡くなった中村哲の「希望の一滴」(西日本新聞社/古書1300円)は、日本が先の大戦で敗北した日に読みたい一冊です。

医者としてアフガニスタンの僻地医療に携わっていた中村は、2000年の凄まじい干ばつで、自給自足の農業に従事していた人々が飢饉で難民になる危険性が極めて高くなり、地元民と協力して灌漑事業に着手しました。

この本は、1600本にも及ぶ井戸を掘り、用水路を建設し、砂漠化した大地に緑が戻るまでの記録です。どれほどの困難と苦闘を乗り越えてきたか、想像を絶するものがあります。何よりも良いのは、数多く収録されている写真です。著者と共に、灌漑工事に携わる住民たちの表情が、とても心に染み込んできます。彼らが田植えをしている写真を見ていると、平和であること、自分たちの土地が豊かなものになったことが、これほど人々の顔を明るくするのだということがよく分かります。

「自然は決して過剰な要求をしない。『過酷な自然』とは、人間側が欲望の分だけ言うのであって、自然を意のままに操作しようとする昨今の風潮は思いあがりである。インダス川の支流、クナール川は簡単に制御できるものではない。殊に取水口の建設は、人為と自然の危うい接点であり、『少しばかりお恵みください』という姿勢がなければとても成功するものではなかった。」

今年の大雨で発生した各地の災害の様子を見て、この文章が浮かんできました。

中村哲がやろうとしてきたこと、やってきたことが一杯詰まっているのですが、読んでいて、全く難しくないのは、彼の人間性と知性によると思います。多くのアフガニスタン民衆に愛されたのも、当然だと思いました。彼が亡くなった時、前総理の全く気持ちのこもっていない記者会見を見て、あの政治家には優しさのかけらもないのだと落胆しました。

「国益だ、正義の戦争だ軍隊の増派だのと、騒がしい世界とは無縁なところに平和に生きる道が備わってあるのだ。私たちもまた必死だ。世界で何が起きようと、ひたすらシャベルを振るい、水を送って耕し、その日を無事に過ごせたことに感謝する。」

こんな言葉こそ、敗戦の日には相応しいと思います。困難な地での、過酷な仕事の物語ながら、なぜか心休まる不思議な本でもあります。

アフガニスタン政権交代で、著者の残した仕事がこれからどうなってゆくのか心配です。

 

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●私が出演するZOOMミーティング「フライデーブックナイト」の第1回が、今月20日に決定しました。ご興味のある方は下記アドレスまで

https://ccacademy.stores.jp/items/60fd4e1bbc1e6422b5501a4b

 

 

 

本日より、週末22日(日)まで、「児童文学&絵本フェア」を開催しています。

児童文学の目玉はこれ。リチャード・チャーチ著「地下の洞穴の冒険」(1971年岩波書店/古書2000円)です。映画「スタンド・バイ・ミー」のように、いつの時代も少年たちは冒険に出かけます。そんな夏の終わりの少年たちを描いた傑作児童文学。地下に空いた洞穴を探検する物語です。71年に発行された初版本。函も付いていて綺麗です。

もう一点、メアリー・ノートン著「床下の小人たち」(昭和43年岩波少年文庫112/重版/函入り/口絵カラー挿絵1葉/古書1000円)。アニメ化もされて、よくご存知の物語です。今、販売されている判型とは違い新書サイズで、しかも函入り。今の版に付いているかどうかは分かりませんが、表紙を開けるとカラーの挿絵が一枚付いていてクラシカルな雰囲気です。

他にも1975年版の「クローディアの秘密」(岩波少年文庫2077/古書100円)、「トムは真夜中の庭で」(岩波少年文庫2079/古書100円)など。また、岩波少年文庫の歴史をまとめた若菜晃子著「岩波少年文庫の歩み1950〜2020」(岩波書店/新刊1100円)は、必読の案内書です。

そして、和田誠、みやこしあきこ、町田尚子、荒井良二などの傑作絵本を並べました。最近入荷した、きくちちき「いろいろかえる」(偕成社/新刊1500円)もあります。「もみじのてがみ」でプラチスラバ世界絵本原画展で「金のりんご賞」を獲得した作家です。かえるたちを、カラフルな色合いと伸びやかなタッチで描いた絵本は、見ているだけで楽しくなります。

おススメは、林木林(文)&岡田千晶(絵)コンビによる「ひだまり」(光村教育図書/古書1200円)。トラビスは、乱暴者で自由奔放な猫でした。しかし、優しいミケーレという猫に出会い、今までに感じたことのない幸福を感じます。ところが、ミケーレを失い、元のすさんだ生活に戻ってしまいます。そんなトラビスが絶望の底から、再び希望の光を見出すまでを描いた作品です。淡く優しいタッチで描かれ、涙を誘います。

100円絵本コーナーや、格安児童文学コーナーもあります。掘り出し物を見つけてください。

 

 

私が出演するZOOMミーティング「フライデーブックナイト」の第1回が、今月20日に決定しました。ご興味のある方は下記アドレスまで

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ギャラリーの壁面の老朽化が目立つので、その入れ替え工事も含めて、本日より、8月17日(火)まで夏季休暇を取らせていただきます。

明日から工事に入るので、絵本コーナーの引越し作業で疲れました。もう、年を取ると、こんな仕事は疲れます。コロナ収束の気配が見えないので、ひたすら本を読み、映画を見て、音楽を聴く生活に浸ります。

日々のブログはアップしませんが、早く紹介したい本が出たら、アップする予定です。休業後の8月25日(水)から9月4日(日)まで店内にてミニ古本市を開催します。ご来店お待ちしております。

 

 

私が出演するZOOMミーティング「フライデーブックナイト」の第1回が、今月20日に決定しました。ご興味のある方は下記アドレスまで

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信頼している評論家の川本三郎著「東京は遠かった 改めて読む松本清張」(毎日新聞社/古書1350円)で、松本清張の存在の大きさを改めて確認しました。

松本清張ってTVの2時間推理ドラマの原作者ね、ぐらいの感覚の人もいるかもしれません。私にとっては、「砂の器」「張り込み」「ゼロの焦点」「黒い画集」などの日本映画の傑作群の原作者という認識でした。だから、今更古びた社会派推理の本なんてなぁ〜という気分でした。おそらく川本三郎が著者でなかったら読まなかったと思います。

「格差社会と言われてすでに久しい。一億総中産階級と言われた1980年代のバブル経済期に誰が、その先に格差社会が来ると想像しただろう。しかし、いま、松本清張の初期の作品を読むと、日本の社会は、いまもむかしもそれほど変わっていないのではないかと思ってしまう。」

著者は、松本の長編・短編を一作品づつ取り上げ、小説に描かれる中央と地方の格差、閉鎖的な社会の中で転落してゆく男と女の悲劇を解説しています。

長編推理作家だと思っていましたが、短編に優れた作品が多く存在し、松本の鋭敏な時代感覚が反映されていると著者は言います。

そして、「霧の旗」で、九州から一人東京に出てきた女主人公についてこう書いています。

「東京の真ん中の銀座にあって、地方都市から出てきた若い女性は孤独である。金もないから心細い。東京は憧れの地であると同時に力のない、いまふうに言えば『負け組』の彼女にとっては、威圧的な冷たい街でしかない。

松本清張は、このように、東京をいつも、地方という弱者の目でとらえる。東京を地方によって相対化する。東京人には見えない、東京の負の部分が見えてくる。」

第二章『昭和の光と影」では犯人のトリックや犯罪の動機だけがメインモチーフになる作家ではないことが、数々の作品のディテールを通じて示されていきます。事細かに描かれた都市の情景と、そんな文章を膨大な作品からチョイスした川本の眼力に感心しました。

さらに、松本が古書店をよく利用していたことを上げて、「『古本』をはじめ、作品のなかによく古本屋を登場させている。一般にミステリ好きと古本好きは重なることが多いが、清張の作品に古本屋が出てくると、それだけで心に残る。」と書き、古本屋が登場する作品を列挙しています。

松本清張という作家のことを再認識させてくれる一冊です。

●夏季休業のお知らせ  勝手ながら8月9日(月)〜17日(火)お休みいたします

私が出演するZOOMミーティング「フライデーブックナイト」の第1回が、今月20日に決定しました。ご興味のある方は下記アドレスまで

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桝谷優著「北大阪線」(編集工房ノア/古書900円)は、大阪の質屋で働く少年と質屋の家族、そこに来る人々の姿を描いた小説です。タイトルになっている「北大阪線」を始め、「聖天通りの界隈」「愛国少年」の三つの小説が収録されていますが、登場人物や物語の背景は一緒です。三作品を通して、質屋に働く少年が、徴兵されて戦地へ送られるまでが丹念に描きこまれています。

作家の杉浦明平は帯で「いたく感動しました。戦前昭和十年代の戦争に入る大阪の『いわゆる庶民』生活が、こんなにピッタリ描かれた小説はありません」と絶賛しています。

確かに、大阪の庶民の暮らしが生き生きと描写されていて、飛び交う関西弁も気持ちよう響いてきます。とんでもないものを質屋に持ち込む客と主人との対応は、上方落語を聞いているような楽しさです。

しかしその一方で、小説は戦争が近づいてくることを暗示します。「贅沢品の製造販売を制限する禁止令が出た。七・七の奢侈禁止令」が発布されて、毎日の生活が暗くなっていきます。「北大阪線」の最後は、日本海軍によるハワイ奇襲を伝えるラジオ放送を聞いた少年の心の描写で終わります。

「勝てるか。ぼくは昨夜布団の中で大きな粗相をしたように焦る。煤煙のかたまりを呑み込んだように、腹の中で黒々した不安が渦巻く。それが暗い海を漂う軍艦の形になってくる。」

「聖天通りの界隈」では、戦争が拡大し、様々な軍事教練が庶民にも課されていきます。でも、どこか悲壮感のないおとぼけ風味があるのは、関西弁で語られているからでしょうか。この物語は、山本五十六連合艦隊司令官の戦死の知らせが駆け巡るところで終わります。

最後の「愛国少年」は、主人公が徴用されて軍需工場で働くところから始まります。戦争は全く終結の兆しが見えず生活は苦しくなってくるのですが、工場で働く人や、町内会長に任命された質屋の言動が、平気で反政府的言動を繰り返しているのが面白い。実際はきっとこんな感じだったのだと思います。

「やめとけ。わるいことは言わん。九十九パーセントまで死ぬんや。お国のためでも死に急ぐことはない。人生には良いこと仰山あるぞ。この戦争終わってみよ外国の女選りどり見どり。死んだら一巻の終わり」予科練に行こうとする少年に、海外から引き上げてきた人が言う言葉です。

しかし、「新聞は日々華々しい活字をつらねて、重苦しい断面を曝している。負け相撲の痩せ四股のような。鉄環がギリギリ緊ってきて、ぼくの意識はかえって高揚してきた。」と言うハイな状態で少年は戦地へと向かいます。二度と、この地に戻ってくることはないことを覚悟しながら。

物語のいちばん最後は「北大阪線さようなら」です……..。

●夏季休業のお知らせ  勝手ながら8月9日(月)〜17日(火)お休みいたします

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田畑書店という出版社をご存知だろうか?創業社長は田畑弘で、1945年に京都で三一書房を興した三人のメンバーの一人でした。その後68年に袂を分かち、出版社田畑書店を立ち上げました。変遷を経て今日に至り、文芸書を中心にして出版活動を続けています。

この出版社から出たのが「小川洋子のつくり方」(田畑書店編集部編/新刊2200円)です。

巻頭に「死者の声を運ぶ小舟」という2020年8月にニューヨークタイムズに掲載された彼女の署名記事が日本語と英語で載っています。

「広島の原爆の日は八月六日。長崎は八月九日。そして終戦の日が八月十五日。日本にとって八月は、死者を思う季節である。」で、始まります。

オリンピックをやる季節ではないのです。ここで彼女は原爆で死んだ人々のことを描きながら、文学の持つ意味合いについて語っています。

本書は、外国のジャーナリズムや文学界が小川洋子をどう捉えているのかを説明し、海外で発売された著作の書影を紹介しています。「密やかな結晶」のイギリス特装版など、とても豪華な仕上がりです。

そして、「琥珀のまたたき」のフランス語版刊行記念に、ヨーロッパ各地で行われたトークショーを再録しています。かなり突っ込んだ質疑応答から彼女の持っている文学の性質が浮かび上がってきます。

「私の小説を読んでくださっている方なら分かると思うんですけれども、なんだかちょっと社会の片隅に追いやられた人、真ん中にずかずか出てこられない人ばかり描いているんですけれど、そういう小さい声しか出せない人に私は非常に魅力を感じるんです。そういう小さい声でしか喋らない人の側に行って、聞く。小説を書きながら同時に、一方では耳をすましている」

と発言していますが、ここが彼女の小説の魅力です。

後半は「小川洋子のつくり方」です。これは2016年から21年にかけて、関西の大学3校にて開催された特別講座を収録したものです。小川作品を愛読している私は、この章を熟読しました。作家の原点、文学への取り組みなどが詳細に語られています。見事な採録だと思います。

ちなみに大ヒットした「博士の愛した数式」に名投手江川豊が登場します。その理由が面白い。

「なぜあそこで江川を登場させたかというと、彼の投げる姿が格好よかったとか、大記録を打ち立てたとか、様々な球団を渡り歩いた野球人生に味わいがあるとかそういうことではないんです。ただ、江夏豊の背番号が28という完全数だったからという、たったそれだけのことなんです。なので、あれは江夏豊の内面を描くというよりも、ほとんど背番号だけを描いただけみたいなものですね。しかし結果的として、それがかえって江夏豊という存在を、彼が28という完全数を阪神在籍中だけ背負っていたという事実を、彼の存在のなにがしかを表してしまっている。これこそが、私が人物にアプローチしていくときの方法なんです。」

小川洋子ファンは必読の一冊です。