平松洋子の自伝的エッセイ集「父のビスコ」(小学館/古書1600円)には、昭和を生きてきた人には、懐かしいような、もの寂しいような記憶が蘇る傑作エッセイです。それにしても、文章が上手い!今まで、この人の本をいろいろ読んできましたが、改めて感心してしまいました。幸田文に近いような気がします。

1958年倉敷に生まれ。幼い時の街の様子、父母のこと、美味しいものを食べた記憶などが、静かに語られていきます。

「金平糖が海を渡り、四人きょうだいが赤い金平糖の取り合いっ子をする日がきていなければ、今の自分は存在していない。もし、祖父が戦地から帰還できなかったら。もし、岡山大空襲の朝、祖母ときょうだいたちがはぐれたままだったら。もし、父の目前に落ちた射撃弾の位置がずれていたら。『もし』の連打が、私という一個の人間の存在を激しく揺さぶっている。」

「金平糖が海を渡り」とは、兵役で外地にいた祖父が戻ってきた時、帰還する船の中で支給された金平糖に手をつけず、甘いものが食べられない娘たち(つまり平松の母たち)のために、持って帰ってきたことです。「金平糖と虱が、お父さんのおみやげだった。」と。

そして、平松自身の幼い頃。「外食をしない家だった。 ー(中略)ー 食べ物が、家を動かしていた。ちらし寿司や鰻丼やちり鍋やマカロニグラタンやすき焼きが現れては去り、また現れては去る。家自体が、食べ物の舞台でもあった」

母親が精魂込めて作った夕食を、みんなで囲んで食べる。次々と新しいメニューが登場しても、お父さん、お母さん、そして娘たちはいつも一緒だった。そんな光景を、昭和に生まれ、万国旗がはためく運動会で走り、駄菓子屋に通った経験のある方なら、思い出す人も多いかもしれません。夕食は楽しい時間だった、と。

本の中ほどに、「『旅館くらしき』のこと」というエッセイがあります。「私の手元に、私家版の和装本がある。」で始まります。「題字と自然の風物を図案化した型染は、ひと目でそれとわかる柚木沙弥郎の作品だ。刊行は昭和六十三年。題名を『倉敷川 流れるままに』という。」

著者は畠山繁子。大正5年倉敷生まれで、生家は精進料理の仕出屋。後年「旅館くらしき」の女将として多くの人をもてなした女性の一代記です。今みたいに観光都市になる前の倉敷の街や、そこに暮らす人々のことが生き生きと描かれています。その一部が抜粋されていて、誰が来て、どんな食事を出したかが詳細に書き込まれていて、興味をそそります。

「柔らかい宝石を食べている心地がする」というのは、年老いた父親が好物の鰻弁当を口にした時の言葉です。この本全体が「柔らかい宝石」みたいだと思いました。

 

九州博多の出版社書肆侃々房の「東西名品昭和モダン建築」(新刊/1870円)発売を記念して、建築の写真展がスタートしました。

本書は1920年代(大正末期から昭和初期)に建設され、現存する建築物を中心にまとめられています。この時代は、工業化社会の発展とともに、ガラス、鉄、コンクリートなどの部材の大量生産が可能になり、「建築デザインの百花繚乱の時代になった」のです。さらに思想から芸術、生活まであらゆる文化が新しさを求めた時代でした。窓の意匠、天井と壁の美しい曲線、贅沢なステンドグラスなど、どれも温かなで落ち着いた感じがして、贅沢な室内にゆっくり座って過ごしたい。きっと時間の流れ方も違うだろうと思います。

「建築を見る」のに『建築様式で見る』『建築家で見る』『用途で見る』『外観リノベーションで見る』の4項目に大きく分けられています。建築様式の中からは「アール・デコ」の旧大丸心斎橋店のクジャクの美しいレリーフと、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)の扉上の装飾の写真を展示しています。美しい!

建築家の項では、W.M.ヴォーリズ設計で、京都四条にある中華料理店の東華菜館(旧矢尾政)という、我々には馴染みのある建物の写真もあります。近代建築の三大巨匠の一人、F.L.ライトの作品では、東西のものが揃って展示されています。東は「自由学園」、西は芦屋の「旧山邑家住宅」です。本書では、タイトルにあるように日本の二大都市圏である東京圏と京阪神圏を対比して並べて、建物が作られた背景などが楽しく読める構成になっています。京都に関してはもう一つ、鴨川右岸にある五層の楼閣「鮒鶴」の夜景が綺麗です。「千と千尋の神隠し」のような料理旅館でしたが、今もレストランとして営業しています。

今回、ギャラリーに掛けた建築物の写真は本の中から選ばれた19点で、出版社から送っていただきました。やがて洗練された無駄のない建築が主流になり、装飾がないことこそ新しいとされる時代になって現在に続いていますが、このところ徐々に装飾の良さが再評価されてきているようです。本書に収められているようなワクワクする建築物を探して、街歩きをしてみたいと思いました。

書肆侃々房は、短歌の本をコンスタントに出版しています。年頭の京都新聞で、数学者森田真生さんと対談していた大森静佳さんの作品集「カミーユ」も同社が発行しています。(お二人とも京都在住です)

因みに、この対談すごく深い内容だったので、新聞記事を店頭に置いていますので合わせてご覧ください。(女房)

 

 

 

 

絵本作家いせひでこの本では、飼い犬との生活を綴った「気分はおすわりの日」(1996年)が初めてでした。絵本作家としての活動の傍ら、チェロを嗜み、「1000の風1000のチェロ」という作品も発表しています。

昨年発表された「たぬき」(平凡社/新刊1760円)には、先ずこう書かれています。

「これは、2011年3月から、1年余り庭にくりひろげられた幻燈の記録です」

作家の家の庭には多くの木や植物が生えていて、2011年春にそこへ、たぬきの一家が現れました。

「ある朝、デッキのスリッパが動いていた。わたしはこんなぬぎ方はしない・・・。

その夜、デッキの明かりの中に浮かび上がった毛むくじゃらのかたまり。」

それはたぬきだったのです。最初母と子たぬき2匹だったのが、どんどんと増えてゆきます。その様子を詳細にスケッチして、たぬき一家が産み、育ててゆく姿を絵にしていきます。3月11日以来つけていた「地震日記」が、庭の観察記「たぬ記」になってしまったと書かれています。たぬきの日々の暮らしが、素敵なデッサンとともに読むことができます。

そして「観察されているのは、わたしだった」

親近感を感じたたぬき達がデッキで昼寝を始め、じっと作家を見つめているのです。

しかし、やがて子別れの日のがやって来ます。子たぬき達も、自分たちの未来のために、この庭から去っていきます。スピード感のある美しい見事な筆さばきで、作家は、この生き物の生きる力を描き出します。

最後のページ。「2012年6月24日 小さな毛衣が2ひき、デッキでねていた……..。あの子たちか! たぬ帰!!!」

作家の家にたぬきが来ていたのは、東北大震災の時です。

「動物の本能で、放射線とたえまなく大地の揺れから逃れ、出産場所にわが庭を選び、そこで展開された『産む・育てる・家族の絆』の物語は、『喪うこと、遺されたもの、生きるための引越し』という物語に、変化していった。」

何度でも読んでください。心に染み入ること間違いなしです。

 

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以前、田畑書店編集部編「小川洋子のつくり方」を紹介しましたが、その「田畑書店」の本が揃いました。この出版社、新しい会社かと思っていたのですが、HPにはこう書かれています。

「はじめまして。田畑書店です。

……といいながら、実はまもなく創立半世紀にならんとする老舗出版社でもあります。

創業社長は田畑弘で、1945年に京都で三一書房を興した三人のメンバーのひとりでしたが、68年に袂を分かち、田畑書店を立ち上げました。ただし「三・一」に寄せる思いは強かったらしく、当時、赤坂に構えた事務所も「301」の部屋番号にこだわった、という逸話が残っています。

その後、二代目社長・石田明、三代目社長・石川次郎と代を重ねて、主に社会科学系の良書を刊行してまいりました。先代の体調の不具合もあって、ここ数年は休眠に近い状態にありましたが、5月に代替わりをし、心機一転、この秋より活動を再開いたします。
旧来の田畑書店の良質な部分を継承しつつ、新たな分野にも果敢に挑戦していく所存です。
ご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。」

「新たな分野」とは地味ながら、小説好き、日本文学愛好者には気になるこのような本のことでしょうか?

関東大震災直前の東京に生きる靴職人を描いた野口富士男の「巷の空」(2350円)、六度も芥川賞候補になった作品を書いてきた増田みず子の短編集「小説」(2200円)、水上勉の社会派短編を集めた「無縁の花」(2200円)、同じく「不知火海沿岸」(2420円)、そして丸山健二の散文集「夏の流れ/河」(1870円)、「ラウンドミッドナイト風の言葉」(2860円)と渋いラインナップ。「不知火海沿岸」には石牟礼道子から、著者水上勉へ宛てたメッセージが収録されています。また「無縁の花」には角田光代が序文を寄せています。

本の装丁では夏葉社のものがいちばん好きですが、こちらも負けてはいません。やや小ぶりな判型の水上作品や丸山作品などは、持つと、すっと手に馴染む感覚があります。

う〜ん。どれから読もうかなと迷ってしまいます。読んだことのない増田みず子か、野口富士男にするか………。

ところで、こんな地味な文学作品を出す一方で、デヴィッド・フォスター・ウォレス著「これは水です」(1320円)という作品も出版しています。これは、若くして亡くなったウォレスの、2005年オハイオ州の大学の卒業式でのスピーチを書籍化したもので、2010年どタイムズ誌が選ぶスピーチ全米第一位に選ばれました。

 

宮沢賢治を特集した雑誌は、ほとんど買いません。賢治は大好きな作家で、何度も読み返していますが、雑誌で特集したものは何故か魅力的なものが少ない。ところが、「Coyote」のWinter2022号「山行 宮沢賢治の旅」(switchPublishing/古書950円)は、極めて面白い一冊でした。

おっ!と思ったのは、特集の巻頭のインタビュー記事が五十嵐大介だったことです。ご承知のように、「海獣の子供」「魔女」等の長編漫画で、圧倒的な支持を集めました。私も好きな漫画家の一人で、「海獣の子供」を初めて読んだ時に、底辺にアニミズム的な思考があることに気づきました。この雑誌の最初に彼のインタビューを載せた編集者も、そう思っていたのかもしれません。

「五十嵐の初期の短編『はなしっぱなし』や『そらトびタマシイ』に収録されているマンガは、まるで宮沢賢治の童話や柳田国男の『遠野物語』のような、人間がふとした時に得体の知れないモノに出会ってしまうというような世界観がある。」

実際に、五十嵐はこの二人から影響を受けたと語っています。

傑作「海獣の子供」の着想を得たのは、賢治の生まれた岩手県にある衣河村に住んでいた時らしいです。

「日々山や森の中を歩いている感覚を海の中に置き換えて描きました。森の中もすごく立体的な世界で、例えば木の上や足元の茂みの中に熊が隠れているかもしれないので、けっこうびくびくしながらいつも歩いていたんです。その時の感覚と海の中ってひょっとしたら似たような感じなんかじゃないかなとか、足元の小さな草むらの中にだって生態系があるように、海の中も同じなんじゃないかなと、森での感覚を海の中の世界に置き換えて描き始めたんです。」

「海獣の子供」の豊穣な世界が、そのまま賢治の世界につながるとは思いませんが、この世界のほとんどの部分は人間ではないもので構成されているという世界観は賢治と同じでしょう。私の読書体験としては、賢治が先で五十嵐が後でしたが、「海獣の子供」に圧倒されたのは賢治体験があったからかもしれません。

賢治は散歩が大好きな作家でしたが、五十嵐も、一人ぶらぶら散歩しながら観察して妄想するのが好きみたいです。「人間って脳じゃなくて足で考えていると思うんです」とインタビューの中で言っていますが、脳は身体全体の統制役であって、思考は他の部位が受け持っている。だから、「自分の身体にちゃんと向き合うことで何か見えてくる気がするんです。」その時の感覚を表現したいという欲望が創作に向かうと語っています。

本書は他に、串田孫一が1956年に編集した「宮沢賢治名作集」のあとがきや、池澤夏樹による「『銀河鉄道の夜』の夜」、イッセー尾形の「再訪としての『小岩井農場』」など、刺激的な記事が山盛りです。もちろん、この雑誌らしい素敵な写真も多く掲載されています。

 

 

 

京都大丸で開催中の「堀内誠一 絵の世界」展にいきました。

私たち世代には、マガジンハウス社の雑誌「an・an」「POPEYE」「 BRUTUS」「Olive」等のロゴデザインで馴染みのグラフィックデザイナーですが、絵本作家として素晴らしい作品がたくさんあります。今回の展覧会では、それら多くの絵本の原画を見ることができます。

堀内は1932年東京生まれ。小学一年生の時に私家版の雑誌を作り始めた早熟の子供でした。家計を助けるために14歳で伊勢丹百貨店に入社、デザインの仕事を始めます。その一方で68年には澁澤龍彦と季刊誌「血と薔薇」の編集を手がけました。

1958年に結婚し、その年に初の絵本「くろうまブランキー」(福音館/古書650円)を発行しました。その後、同社の「こどものとも」シリーズを中心に作品を数多く残しました。「ぐるんぱのようちえん」「どうぶつしんぶん」など、読まれた方も多いと思います。洗練された色と形、考え抜かれた構成、同じ人が作ったとは思えないような多様な手法。どれを見ても、原画は印刷物とは違い、こんなにダイナミックだったの!こんなに美しい色だったんだ!と、感動しました。

会場で、釘付けになったのは「こすずめのぼうけん」の原画でした。細部まで描きこまれた鳥の姿、空を飛ぶこすずめや風景や植物など、いくら見ていても飽きてきませんでした。完成した絵本とは違う絵画の魅力に圧倒されます!

私が行ったのは、平日でしかも雨降りだったので、割と閑散としていました。おかげでゆっくり時間をかけて鑑賞することが出来ました。とても幸せな気分になった展覧会でした。(24日まで開催)

なお、堀内は1987年、54歳の若さでこの世を去りました。

 

個人的に最も信頼しているノンフィクション作家の一人、川内有緒の「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」(集英社/古書1700円)は、「目から鱗が落ちる」本でした。

白鳥健二さんは、51歳、全盲です。そして、年に何十回も美術館に通う人です。この人と美術館に行くととても楽しい、と言う友人の言葉に刺激されて、著者は、白鳥さんとアートを巡る旅を始めます。現代美術、絵画、仏像と、どんどんと広がっていきます。

白鳥さんは生まれつき極度の弱視で、色を見た記憶はほとんどありません。でも、彼曰く「色は概念的に理解している」。彼を中心に何人か(二人の場合もある)で美術館に入り、今、前にしているのはどんな作品なのかを説明していきます。その説明を聞き、白鳥さんはふむふむと頷きながら、一緒に会場を回るのです。

会場を誰かにアテンドしてもらう時、彼は「いやあ、正しい作品解説とかよりも、見ている人が受けた印象とか、思い出とかを知りたいんですよ」というスタンスです。

そして著者はこんなことに気づきます。

「目が見えないひとが傍にいることで、わたしたちの目の解像度が上がり、たくさんの話をしていた。しかも、ごく自然にそうなる感じがあった。」

「本当の意味で絵を見せてもらっているのは、実はわたしたちのほうなのかもしれない」と。(写真は美術館を楽しむ白石さん一行です)

確かに、本書を読んでいると、様々な会場で白鳥さんと同行したメンバーのとんでもない発想や解釈がポンポン飛び出してくるシーンに何度も出くわします。

また、目の見えるものが錯覚しやすいことは、見えない人は、他の感覚器官が極めて鋭敏なのだと信じていることです。現代美術のクリスチャン・ボルダンスキーの展示会で聴覚に訴える作品の前で、

「見えないからこそ感じるものがあるだろうってよく言われるんだよねー。そりゃあ、見えないから感じるものはありますよ。でも、見えないから感じることは、見えるから感じることと並列だと思ってるんだよ。そこにどういう差があるんだってツッコミたくなる。見えないからこそ見えることがあるって言う人は、たぶん盲人を美化しているんじゃないかな」と自らの思いを伝えます。

盲目のすごい運動選手や、辻井伸行さんなどの音楽家を見るうちに、きっと他に素晴らしい感覚を持っているんだと思い込んでしまっているのです。

著者は、白鳥さんとのアートの旅を通じて、今まで分かっていたつもりのことが、その一面しか理解していなかったことに覚醒していきます。だから、この本は、アートの紹介本であり、全盲の美術愛好家を紹介する本であり、そして著者の内面がどう変遷していっったかを記録した一冊なのです。

著者の前作「空をゆく巨人」でも目からうろこでしたが、本作もやはりそうでした。私にとって著者は、世界の見方が変わるような存在です。

 

 

小林エリカ著「最後の挨拶」(講談社/古書1400円)は、自伝的な家族の作品です。

著者の父親は、作家で医者で、熱烈なシャーロックホームズのマニアでした。そして一時盛り上がりを見せた世界共通言語エスペラントを習得した人です。母親もやはりホームズのマニアでした。

「ねえ、ワトスン、やはり昔のままだね!変化してやまない現代にあって、いつでも、どっしりとして変わらないのは君だけさ。でも、やはり東風は吹いているのだ。」

という「シャーロック・ホームズ最後の挨拶」の引用から始まります。おそらく本のタイトルもここから取られています。

「リブロが生まれたのは、南西の風が吹く、寒い朝だった」

四人姉妹の末っ子として生まれたリブロが主人公です。そして、これは著者自身だと思います。

祖父の人生、父の人生、そして母の人生が巧みなカットバックの技法で、語られていきます。戦前、戦後、現代が、登場しては引っ込んでゆく。100年前のロンドン、日中戦争、満州、東日本大震災、その折々の家族の記憶が鮮やかに浮かび上がってきます。

なんども生死の境を彷徨った父が亡くなります。

「父が死んだのは。2010年。コナン・ドイルが死んでからちょうど八十年の年のことであった。」

父親の持っていた膨大な資料や写真、書類を引き取ったリブロ。しかし、震災によって自室にぶちまけられて、整理の仕様もないほどのカオスになってしまいます。

「父が写った写真。父が書き記したノート。父がその手を触れた鉛筆、キーホルダー。ここに残された、ひとつひとつの痕跡を、必死に搔き集める。

けれど、足りない。絶対的に足りない。それはただの断片でしかない。

どれだけ集めようとしても、たったひとりが生きた、その人生にすら、満たないのだから。

失われてしまったものたちの、あまりの膨大さに、リブロは圧倒されていた。」

私は著者の本では、放射能をテーマに据えたコミック「光の子ども」を初めて読みました。だから、てっきり漫画家だと思っていたのですが、小説「マダム・キュリーと朝食を」を読んで小説も書く人だということを知りました。

そういえば「最後の挨拶」の最後に収録されている短編「交霊」にもキュリー夫人が登場します。放射線を研究したキュリー夫人と同時代を生き、生前も死後も、誰からも顧みられなかった女性の声が、はるか未来にすくい上げられるという不思議な物語です。

 

 

書評家の岡崎さんの本は、ほぼ読んでいます。書評の内容もさることながら、文体のリズムが私には心地よくて、ついつい読んでしまいます。散歩したくなるような文体で、飄々とした持ち味の植草甚一を思い出します。

岡崎さんは、作家の生誕の地や、ゆかりのある町を訪ね歩くような評伝が向いているんじゃないかとかねがね思っていました。2019年に出た「上京する文学」を読んだ時、これだと納得したものです。「ここが私の東京」(扶桑社/古書500円)は、それより3年前に出ました。

この本では、庄野潤三、佐藤泰志、司修、開高健、藤子不二雄などの作家に混じって、友部正人や松任谷由実(たしか「上京する文学」でも登場)の歌う東京も語っています。

庄野潤三の「夕べの雲」をこよなく愛する著者は、こんな風に書き綴ります。

「この『夕べの雲』の舞台となったのが神奈川県川崎市多摩区の生田だ。最寄り駅は小田急小田原線『生田駅』。新宿からだと、急行と各停を乗り継ぎ約三十分の距離になる。庄野家は、南側から始まる斜面のはるか彼方、丘のてっぺんにある。二十年前、同じ川崎市多摩区の宿河原に在住していた私は、よく生田丘陵を見上げ、『この丘の向こうに庄野さんが住んでいるんだ』と心強く思ったものである。それだけで心が温かくなった。」

尊敬する作家の家が同じ所にあると思うだけで落ち着けるって、わかるような気がします。

作家の作品を語りながら、彼らが暮らした町に出向き痕跡を探し求める本で、著者と一緒に街角を曲がって歩いているような気分になります。

ところで、すでに絶版になった本書が500円と安いのは、これが痕跡本だからです。赤のボールペンで、いろんな所に線が引かれています。個人的に、痕跡本ってわりと好きです。前に読んだ人が注目した所がわかるし、同じところで同じように感じていたんだと、見知らぬ人と共通の体験をしているみたいです。

例えば、司修の「赤羽モンマントル」の章では、「日本の文章は、弱点や貧しさを訴えるとき、生き生きと輝き、あぶれ者、はみ出し者を語るとき、力を得るような気がしてならない」という箇所に赤線が入っていました。前の持ち主と岡崎さんの文章を楽しむという、おまけ付きの一冊です。

年頭からこんな傑作を読めるなんて、今年の読書体験も期待大!

第11回アガサ・クリスティー賞を、圧倒的支持で獲得した逢坂冬馬のデビュー作「同志少女よ、敵を撃て」(早川書房/古書1400円)は、第二次世界大戦下、最前線に狙撃兵として送り込まれた少女セラフィマの苦闘を描いた長編小説です。

従軍した女性たちの人生に焦点をあてた作品といえば、ベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ「戦争は女の顔をしていない」が有名で、小梅けいによって全2巻で漫画化されました。これは多くの女性兵士たちへのインタビューが基本になったノンフィクションですが、「同志少女よ、敵を撃て」は、ナチスに故郷の村を焼かれ、皆殺しにされたセラフィマが、狙撃部隊に入り、燃え上がる憎しみで危険な最前線に向かう物語です。

しかし、桐野夏生がいうように「これは武勇伝ではない。狙撃兵となった少女が何かを喪い、何かを得る物語である」のです。デビュー作とは思えない描写力で、緊迫感と狙撃兵になった少女たちの友情などを巧みに交差させながら、血なまぐさい戦線を経験していきます。

戦場とは何か。それは「人間を悪魔にする性質」を持った場所です。そこでセラフィマは、憎きドイツ兵を倒すことが正義であり、敵兵に蹂躙されてきた同胞の女性たちを救うことになるという思いで、スコープを覗き、敵兵を倒してゆくのですが、本当の敵は実は他にいたのです。

全480ページの物語後半、本のタイトルになった「同志少女よ、敵を撃て」という言葉が登場します。その時、セラフィマが引き金を引いた相手は?憎むべき戦争犯罪、虐げられ辱められる女性の本当の敵とは?

物語の最後がとても感動的です。最初に書いた「戦争は女の顔をしていない」のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが、戦争を生き延びた彼女の元に、話を聞きたいと訪問してきます。

「セラフィマが戦争から学び取ったことは、八百メートル向こうの敵を撃つ技術でも、戦場であらわになる究極の心理でも、拷問の耐え方でも、敵との駆け引きでもない。命の意味だった。失った命は元に戻ることはなく、代わりになる命もまた存在しない。

学んだことがあるならば、ただこの率直な事実、それだけを学んだ。もしそれ以外を得たと言いたがる者がいるならば、その者を信頼できないとも思えた。」

戦争を、戦場を、暗闇に葬るされてきた戦争犯罪をあぶり出しながら、エンタメ小説としての面白さも別格の小説でした。次回作も期待します!