臨床哲学者、鷲田清一の「濃霧の中の方向感覚」(晶文社/中古1400円)を、やっと読み上げました。最近では、最も時間を要した一冊でした。何度も読み返して、自分の頭に入れるのに時間がかかったのです。

現在、京都市立芸術大学学長の著者が、大阪大学に在籍していた1998年に「臨床哲学」という全国唯一の講座を始めました。「哲学を、孤独な思考としてではなく人々の対話として実行すること。哲学の作業をなにかある理論(あるいは解釈)としてではなく、さまざなな現場の人たちの智慧やふるまいから学びとる。そう、人びとのなかに『哲学』を発見する、そんなプロジェクトとしてやりなおすこと。」を主眼にしています。

著者にとって「哲学とは本来、じぶんたちが日常使っている言葉を一つひとつ丹念に吟味するなかで、論理的な推理を可能にする基礎的な概念として練りなおそうとするものだ。その意味では哲学的思考は人びとが使う日常言語という海を泳ぎ渉る。が、近代日本の哲学はそのもっとも重要な過程を省略し、輸入した概念をだれも口のしたことのない造語で翻訳したり、仏教用語をあてたりしながら、語りだされてきた。抽象する作業を省いた抽象語で組み立てられてきた。その結果、哲学が一階の生活の場ではついに始まらず、二階の書斎でのいとなみに終わるという無残である。」という認識です。

哲学を、もっと身近な存在にする。危機の時代、あるいは先の読めない時代に生きる私たちが進めべき方向を知り、ますます複雑化する社会の圧力に耐えうる知的体力を保つための言葉を探し出すのが、この本です。社会、政治、文化、教育、震災等の項目で、それぞれに論じられています。

「戦争や原発事故は、いまある社会の秩序がいつでも崩れうることを教える。ひとがいつ難民となるやもしれないと教える。そんな時にあってもしかと生き延びてゆくために、わたしたちが身につけておかねばならない能力とは何か。そこから学びとることを考えなおす時期に、いまわたしたちはいる」。だからこそ、道に迷わないような、方向感覚を見つけておこうという考えに異議はありません。

TVやマスコミの欺瞞に満ちた論調に惑わされることなく、地に足がついた生き方を模索するのは絶好の一冊です。

 

ケネス・ロナーガン監督「「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観ました。深い余韻が残り、近年のアメリカ映画で最も秀逸な一本だと思います。wowwowで放映していたものを友人に撮ってもらって見たのですが、解説の小山薫堂も「最近、これ程、後味のいい映画はない」と評価していました。映画館で観なかったことを悔やみます。

ボストン郊外で、アパートの便利屋として働くリー・チャンドラーのもとに、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーにいる兄のジョーが倒れたという知らせが届きます。駆けつけたものの、すでに兄は息を引き取っていました。
兄の息子でハイスクールに通う、パトリックにも父の死を知らせるため、故郷の町を走り抜けていくとき、カメラは海沿いの美しい街を捉えます。兄の遺言で、パトリックの後見人にされていたリーは驚きます。弁護士から、故郷に戻って欲しいと告げられたのです。しかし、リーにはこの街で犯した悲劇があり、その苦しみを乗り越えられていないのです。

映画は、ジョーの埋葬までの一週間を描いていきます。ジョーには酒浸りの妻がいて、離婚していました。リーにも三人の子どもと妻がいたのですが、ある冬の日、彼の不注意から三人の子どもを亡くしていました。それが原因で離婚し、リー自身も故郷を離れて、他の街でうだつの上がらない便利屋をやりながら、細々と生きていたのです。彼の妻もまた、後悔と悲しみから抜けきることができていません。
乗り越えられない傷を負ったまま、リーは自分と向き合わざるをえなくなります。そして、パトリックもこれからの人生に向き合うことになります。

 

決して明るい映画でもないし、笑って終わることはできません。背負った傷なんて、そう簡単に乗り越えられるものではないし、その傷と共に生きていくしかないという事実が、深く心に染みます。風景画のような美しい街並みを背景に、静かに進んでゆく物語は、日本的な、あえて具体的に言えば「東京物語」の無常観が漂っています。ラスト、海辺の墓地で、波の音とチャンドラー家の墓石がさり気なくインサートされる埋葬の場面にも、そんな無常観が漂っていました。

多分繰り返し、この映画を観ることになると思います。

江戸時代の浄瑠璃、歌舞伎作家の近松門左衛門の名前は、舞台を見たことなくてもご存知だと思います。「曽根崎心中」「心中天網島」「冥土の飛脚」「女殺油地獄」など、大阪を舞台にしたドロドロした男と女の関係を描いた、当時の人気作家でした。

最近近松に関して、興味深いものを観たり、読んだりしました。観たものは、映画「難波の恋の物語」(昭和34年公開)。監督は「飢餓海峡」の内田吐夢、主演は中村錦之助と有馬稲子。人形浄瑠璃「冥土の飛脚」と、それをもとにした歌舞伎『恋飛脚大和往来』を下敷きにした悲恋物語。作者の近松が狂言回しとして登場し、両替商の番頭清八が遊女の身請けのため、勤めている両替商の金品を盗み、逃亡した事件を、浄瑠璃に仕立て上げるという形をとっています。ラストで二人が人形振りで長唄をバックに舞うという、斬新なスタイルが印象的な作品でした。昭和34年で、こんな美しいカラー映画を作っていたのに驚きです。

読んだものは角田光代の「曽根崎心中」(リトルモア/古書1050円)です。これは近松の原作を角田が現代語にしたものです。

「冬だというのに、薄い襦袢だけ着た女が庭の松にくくりつけられている。手ぬぐいで猿轡をされた女は、両手両足を麻縄で木に縛り付けられ、ぐったりと動かない。振り乱した髪から、襦袢から、水が滴っている。男たちがぶっかけた水だ。襦袢はところどころ破れ片乳があらわになっている。」

という陰惨な場面からスタートし ます。享保5年、網島の長大寺で、大阪天満の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を近松が脚色したのが「心中天網島」です。角田は最近では「源氏物語」を翻訳していますが、2012年に本作が出た時も話題になりました。歌舞伎などに馴れていないと原文を読むのは大変ですが、角田の現代文だと一気にラストまでいきます。

「さあ、徳さん、早よう、早よう、早よういかせて」

剃刀を受けとる徳兵衛の手は、震えている。「さあ、徳さま、早ようお頼み申します」

これ、最後の心中シーンの山場です。近松の時代にTVがあったら、きっとお昼のドラマ枠でヒットしたでしょう。角田版で興味をもたれたら、ぜひ劇場でご覧ください。ベン、ベン、べんと三味線が鳴り始めたら、タイムスリップ、もう、そこは江戸時代の大阪です。

以前、ブログで紹介したことのある「よるのかえりみち」(偕成社/新刊1404円)の著者みやこしあきこの、新刊「ぼくのたび」(ブロンズ新社/新刊1620円)を入荷しました。

小さなホテルを経営している主人公の日々が綴られていきます。毎日のホテルの仕事は楽しいのですが、ふと遠くへ、誰も知らない世界へ旅に出たくなるときがあります。彼の空想の世界が、優しく描かれていて、いつか旅に、という気持ちを漂わせるラストに余韻があります。

最近、絵本を中心にした活動も盛んな松本大洋が、夢枕獏と組んだのが「こんとん」(偕成社/新刊1728円)です。犬のような、熊のような大きな動物で、耳があるけど聞こえない、目があるけど見えない、しっぽを加えてぐるぐる回っているだけの生き物「こんとん」の数奇な運命を描いた物語です。もの哀しい結末が待っているのですが、心に残る一冊です。いつも空をみあげて、笑っている、謎めいた、でも愛おしい動物こんとんに会いたくなります。

東京の雑貨屋さんURESICから発行されていたミニプレス「てんとまると家族絵日記」でご存知の方も多いと思いますが、独特のタッチで猫絵本で出している石黒亜矢子の「いもうとかいぎ」(ビリケン出版/新刊1620円)は、超個性的な世界を描き出しています。猫たちの、はちゃめちゃな物語が展開します。グロテスクさと可愛らしさが混ざったヒグチユウコの擬人化された猫とは、一味違う世界を楽しむことが出来ます。

イングリ&エドガー・パーリン・ドーレアが、北ヨーロッパに住むサーミの人たちを描いた「オーロラの国の子どもたち」(福音館書店/新刊1620円)は、かれらの生命感あふれる日々が描かれています。オーロラきらめく広大な空の下、雪と氷の大地を、トナカイと共に移動してゆく兄弟と家族の一年を見つめています。この本が出たのは1930年代の初め頃。今から見ると古めかしい画風かもしれませんが、暖かな味わい深いタッチです。トナカイが、これほど登場する絵本も珍しいかもしれません。

 

「おじさんの哲学」(原書房/古書1200円)の著者永江朗さんは、「みんな『叔父さん』を必要としている。『父』ほど権威主義的で抑圧的ではなく、かといって『兄』よりも少し頼りになる大人のアドバイスを必要としている」と書いています。

権威をふりかざす父でも、距離が近すぎの「兄」でもない「叔父さん」という存在が、どんな時代にも警鐘を鳴らしてきたという事実を、20人以上の作家の文章で明らかにしていきます。

永江さんは、1958年生まれの60歳。私とはほぼ同世代。だから、今の言論界で「叔父さん」的存在として内田樹、高橋源一郎、橋本治を並べたのを見て「同感、同感」と思いました。

「おじさんはときどき非常識なことをいいます。おじさんは常識にとらわれない。そこがお父さんとの大きな違いです。お父さんは常識的なことしかいわない。常識を押しつけるのがお父さんであり、お父さんは常識を体現している。」

著者は、内田樹の「先生はえらい」をベースにして、おじさんの非常識さを解説していきます。この3人の作家に縁のない方には、ちょっと読みづらいかもしれません。

最近の高橋源一郎の小説は、読み切るのがしんどいのですが、論評や、政治的発言には、説得力があるので、できる限り目を通しています。世の中を見つめる「目の確かさ」を信用しています。そして、橋本治。著者は「いまの世の中の見かた、さらに人生についてもひとことふたこと。でも、いっていることがよくわかんないこともある」とも書いています。

そういえば「いっていることがよくわかんないこともある」っていう橋本の文章にぶつかることがあります。「ああでもなく、こうでもなく」という感じで、こちらが困惑することもあるのですが、やはり世界を見る目はしっかりしています。

この三人に始まって、山口昌男、鷲田清一、植草甚一、伊丹十三、山口瞳、田中小実昌、片岡義男、天野祐吉、谷川俊太郎、小田実、鶴見俊輔などが登場してきます。彼らの本に接した方ならどんな具合に論評しているのか、気になるはず。知的刺激に満ちた一冊です。逆に、こんな人たち知らんわ〜という方には、みんな変な叔父さんだから、面白そう、読んでみようと思っていただければいいですね。

 

 

神戸元町に「トンカ書店」という名物古書店がありました。当店の古本市にも、いつも参加していただいていました。店主トンカさんのおおらかさに包まれて居心地がよく、皆に愛された「トンカ書店」が引越しをしました。「花森書林」と屋号を変えてスタートされたので、先日遊びに行ってきました。

児童書、絵本、雑誌、文学書、人文書、写真集、画集、図録などが、所狭しと置かれて、どの書架も面白くて、これも買いたい、あれも買いたいという気分になってきます。下に積まれていた本をゴソゴソしていると、八木重吉の詩集「普及版定本 八木重吉詩集」(彌生書房)が出てきました。

この詩人の詩集を探していたのです。八木は1898年生まれで、生前に刊行した詩集は1冊のみ。1927年には29歳で結核で亡くなりました。この人の詩は、とにかく短い作品が多いのです。

「日はあかるいなかへ沈んではゆくが みている私の胸をうってしずんでゆく」

「日が沈む」という詩です。

私が、はじめて出会ったのは、何かの本か或いは映画で誰かが語っていたのか、もうさっぱり覚えていませんが「できることなら くだものさえ殺さずにいきたい」という僅か、二行の「断章」という詩でした。これが、この詩人の作品だということをどういう経過で知ったのかも、まったく記憶にないというのが困りものです。

詩集をゲットして、パラパラめくっていたら、「雨」という詩を見つけました。

「雨は土をうるおしてゆく 雨というもののそばにしゃがんで 雨のすることをみていたい」

もし、雨のすることを眺めていたら、きっと幸せな時間が流れることでしょう。

偶然ですが、昨日ご紹介した田尻久子さんの「みぎわに立って」の中でも、八木のこんな詩が紹介されていました。

「雨のおとがきこえる 雨がふっていたのだ あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう 雨があがるようにしずかに死んでゆこう」

やはり雨なのです。因みにこの詩集、昭和34年発行で、私が今回入手したのは昭和51年版。なんと20回も重版を重ねています。

「花森書林」は、当然ながらかつての「トンカ書店」の匂いの漂う居心地の良いお店でした。店内壁面で、ご近所の店の店主の写真展も開催されていて、私たちも帰りに、昔懐かしい雰囲気の純喫茶ポエムに立ち寄りました。

もし、元町に行かれることあれば、ぜひ「花森書林」へお出かけください。

 

 

 

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熊本にある橙書店店主、田尻久子さんの新刊「みぎわに立って」(里山社/新刊2052円)は、優しさに満ちた一冊です。書店を営みながら、日々の景色の移ろい、自然が見せる様々な表情、ご近所さんや、お客さんとの何気ない会話など、西日本新聞に連載されたコラムをまとめたものです。

ジャズのスタンダードナンバーに「ジェントルレイン」という曲があります。歌詞の内容はさておき、田尻さんの文章は、「ジェントルレイン」「優しい雨」というイメージなのです。憂鬱な雨が優しく見える瞬間、彼女はそれを見つけます。

「雨の本屋は気持ちがいい。本が雑音を吸収して雨音だけが響き、いつもより言葉と親しくなれた気がする。今日は、終日雨だった。みな気持ち良さそうに本をさわっていた。」

少し憂鬱な気分の日とか、なんとなく下を向いてしまう時に、この本を開けることをおすめします。幸せって、ちょっとした事で簡単になれる、豊かな時間を過ごすことができるんだ、という真理がここにはあります。地震を経験して、店を新しくして、町の人たちとゆっくりと生きて行く著者の姿が見えるようです。

この書店、店に糠床があります。「ある日、糠を混ぜていたらお客さんが入ってきた。糠床って魔法の箱見たいよねえ、入れたら何でもおいしくなって。カウンターの中を覗いて、心の底から感心するようにおっしゃる。理屈を説明するよりも、魔法ということにしておいたほうが、なんだか美しい気がした。」

お客さんと店主が、店の中で糠床を覗いている光景って、不思議だけど楽しそうです。或いは、店内に蜂が入ってきて、殺虫剤などという無粋なものを使わずに、なんとか店の外へ出そうと努力していると、常連さんが、すっと帽子で外へと誘導されたのを見て、「ほんのつかの間のことで、手際のよさにうっとりとしてしまった。」などと書いてあると、いいなぁ〜、この店と思ってしまいます。

お日様と心地よい風が通り抜け、青空に浮かぶお月様が微笑む店なんて言ってしまうと、なんかメルヘンチックですが、この店に立ち寄った人たちが、ちょっと幸せな気分を持って帰る場所なのです。人を幸せにする場所が、本屋の原点なのかもしれません。

橙書店は、熊本地震の後、それまでの長屋からビルの二階に移転しました。「外観の面影はまったくない。でも、見知らぬ場所にはしたくなかった。大切なものはすべて持っていくつもりで作った。モノも、言葉も、気持ちも。常連さんは、何年も前からここにあるみたいと言ってくださる。 どうやら、変わらず馴染みの場所であるようだ。」

店主とお客様が一緒に作っていくそんな店を、私もめざしたいと思っています。

この本を出した里山社は、女性一人で頑張っている出版社です。いい本を出してくれました。今後も応援します!

 

 

春の暖かさにつられて出てきたウサギさん。フェルトで作られたウサギの愛らしい仕草に見惚れます。ギャラリーの壁の向こうの不思議の世界から出てきたみたいです!

今回で4回目となる「棚からうさもち」さんの個展が始まりました。初日から多くのうさもちさんのファンで、賑わっています。

ウサギさんたちは進化を遂げて、一昨年個展の時より心なしかピシッと立っているようです。うさもちさんは多くの展覧会を開かれて、作り方もどんどん研究を重ねておられるに違いありません。写真上の「穴があったら入りたい」の毎回人気のシリーズも、リアルでありながら可愛さがさらに輝いているように感じました。

うさもちさんは、愛してやまないウサギさんを作ることを心の底から楽しんでいらっしゃるのでしょう。そして、製作することに真摯に向き合う姿勢が、きっとファンの方々にもしっかり届いているのです。好きなものがあって、まっすぐにそれに向かえる幸せが、こちらに伝わってきます。ウサギさんファンの熱いおしゃべりが、いつまでも続いていました。

 

また、前回から挑戦されている「球体関節人形」が、そこだけシンとした静かな空気を漂わせています。人形とウサギさんの新たなコラボが楽しみです。それと、これも一昨年の個展で、兎の口と眼だけ額から見えている新しいバージョンの「穴があったら入りたい」シリーズは、可愛いいだけではないシュールな魅力があり、うさもちさんの新たな物語が、どう続いていくのかますます期待大の展覧会になりました。もちろんお馴染みのスクーターで爆走中のウサギさんもいっぱい並びました。

作品は一部を除いて販売しております。ポストカード(150円)は、10種類揃いました。レティシア書房に春の訪れを告げるウサギさんたちに、会いにきてくだされば嬉しいです。(女房)

 

⭐️棚からうさもち「小さなうさぎたち」展  

3月19日(火)〜31日(日))12時〜20時(最終日は18時まで)月曜定休日

 

 

 

 

 

 

 

 

3月中旬ですが、まだまだ肌寒い日が続きます、そんな時に、もうすぐ春かなぁ〜と思えるような音楽をご紹介します。

先ずは、”Acoustic Brazil”(輸入盤900円)です。ブラジル音楽といえば、ボサノバ=おしゃれで、素敵なカフェで鳴っている音楽というイメージが定着してしまいました。このオムニバスアルバムは、そんな”誤解”を解くのに最適の一枚です。路上で、海辺で、ギター一本で人生の哀愁を大袈裟にではなく歌ってきたサンバやボサノバ。プリミティブでシンプルな楽器構成で歌われる土着の歌。ハートウォーミングな心地よさが溢れています。オムニバスって、二流シンガーの歌うお馴染みの曲満載のものが流通していましたが、これは違います。カエターノベローゾ、ガル・コスタ、チコ・バルキなどトップクラスのシンガーの曲が収録されています。一曲目のギターイントロから、もう春です。

春といえば桜。その桜の散りぎわにドンピシャな一枚が、ジミー・スコット「ムード・インディゴ」(中古900円)です。初めて聴かれる方は、えっ〜!えっ〜!このシンガー、これって男性の声なん?ほんとかよ?と驚かれるはずです。ジャケに写っているのは、フツーのじぃちゃんです。しかし、チャップリンの映画「モダンタイムス」に使われた名曲「スマイル」が鳴り出した途端、顔と声の違いにびっくりします。スローな歌い方が、徐々に忍びこんでくるところが曲者です。このアルバムを吹き込んだ時、ジミーは75歳。穏やかで、どこか日本的なあわれ感が出ているところが、桜の散りぎわに合うのではないかと。

3人目は、カボ・ヴェルテ出身のセザリア・エブォラの「ヴォス・ド・アモール」(中古900円)。どこそれ?と思われる方も多いかもしれません。カボ・ヴェルテは、アフリカセネガルから大西洋を西に450キロ行った先にある大小様々な島からなる国です。長い間ポルトガルの支配下にあり、かつてはブラジルや北米に奴隷を送り出す拠点でした。故に、アフリカ系音楽、ブラジル系音楽、そしてポルトガル系やら、地中海のサウンドが融合されて、独自の音楽を形成しています。はっきり言って、これはこの国の演歌です。でも、失った恋をうじうじ歌う日本のそれとは違い、カラリとした出来上がりです。私に任せなさい、みたいなドッシリとした声で、まぁ春だし一杯、という気分にしてくれます。彼女の音楽は、かなり前から聴いてきましたが、いつも安心して身を任せられます。春の宵にどうぞ。

最後のオススメは、アンカーソングの「コヒージョン」(中古1800円)。アンカーソングという人物は、イギリスを中心に活躍する日本人プロデューサーです。インドの伝統的パーカッションと、70〜80年代のインド映画音楽をベースにして作り出された音楽です。カラフルなリズムと、ダンサブルなメロディーが、春の陽気さを通り越して、初夏の風を伝えてくれます。その向こうに酷暑の夏がチラつくのがなんとも………..。

 

第31回小説すばる新人賞受賞した増島拓哉の「暗闇の底で踊れ」(集英社/古書1200円)には驚きました。著者は1999年大阪生まれで、関西学院大学在学中の大学生。北方謙三が「達者な筆で十九歳という年齢には唖然とさせられた」と帯に書いています。

お話は大阪のヤクザで若頭の山本と、元舎弟でパチンコ通いのプー太郎の伊達が、闇社会を生きる日々を綴ったノワール物です。大阪弁丸出しの小説といえば、黒川博行が傑作を連発しており、その流れやね、と軽い気持ちで読み始めたのですが、これ、ほんまもんですわ、と思わず大阪弁になってしまうほど酔いしれました。まずテンポが良い。そしてセリフのひとつひとつが面白いのです。

「ブタ箱がなんぼのモンじゃい!人間はみんなブタや!人生は所詮、泡沫の夢、幻なり!夢こそ真の世界なんじゃ」とか、「誤解を恐れずに言うと、なんちゅう言葉は、今から暴言吐くけど怒らんとってや、って宣言してるようなもんや。目上の人間に対して使う言葉と違うで。のう?」といった言葉の応酬。

宮部みゆきが「これだけの暴力と笑いを紡ぎ出した増島さんの筆力はあっぱれ」と書いていますが、笑いとシニカルな味わいが、とても新人とは思えません。

私が笑ったのは、山本のこんな台詞です。「夜景は労働者たちの命の灯火や。恋人たちの前戯の道具やない。」

プー太郎で金欠の伊達が、入れ込んでいるヘルス嬢に貢ぐために、山本の使い走りをやらされて、詐欺やら、美人局をさせられていくのですが、やがて陰惨な暴力へと向かいます。それでも、著者は笑いを忘れません。

「病気の治療を頑張ってる奴に『死んだらええ』は暴言やけど、クソみたいな理由つけて選挙に行かんやつは、ゆっくり自殺してるのと同じや。自殺進行中の奴に『死んだらええ』言うのは、ポストが赤いですねえ、って言うてんのと同じや」と、悪事の限りを尽くす極道が、選挙に行かない連中を批判して笑わせてくれます。

こういう物語って、割と予定通りの終わり方をするものが多いのですが、この作品は違いました。著者が恐ろしいほどきっちりと登場人物たちを突き放すのです。格好良さもなければ、哀感もない。これにいちばん、驚かされました。

「まだ死んでへんから生きてるだけや、あほんだら」

小説の最後のセリフがこれです。いや、お見事な一冊でした。我が母校からは、原田マハや団鬼六という小説家を輩出していますが、新しい才能が出てきました。今後に期待です。