西洋絵画によくある裸婦像。私は、これのどこが面白いのかさっぱりわからず、ベッドサイドに素っ裸で寝そべっている裸婦なんて、ん?誘ってるの、としか思えませんでした。

しかし「素描集裸婦」(上巻・毎日新聞社/古書900円)を見て、見直しました、というかノックアウトされてしまいました。15名の名だたる画家が描いたデッサンの中の鴨居玲の作品に。

鴨居玲は、ひたすら人物を描き続けた画家ですが、以前伊丹市立美術館の展覧会で、緻密でありながら、大胆で、今にも動き出しそうな人物描写に感動しました。この作品集を、何の気なしに開けたところ、目に飛び込んできた彼の描いた裸婦は、肉厚的で重量感のあり、後ろ向きに寝ている女性の腰から足首にかけての描写が圧巻でした。ご存知のように、姉の鴨居羊子は、下着デザイナー・画家で、多くのエッセイも残しています。

この「素描集裸婦」には、梅原龍三郎、小磯良平、佐藤忠良などの作品も見ることができます。日本の現代絵画における画家に疎い私には、初めて知る人も多いのですが、小松崎邦雄の溢れ出る優しさ。加藤東一の膝をついている女性の静寂感。部屋の椅子に腰掛ける女性をさっさっと手早く描き、生き生きとした線が魅力的な梅原龍三郎など、どの裸婦にも見惚れてしまいました。

そして、印象に残ったのが斎藤真一でした。1922年、岡山生まれの斎藤は、瞽女を描いて注目された画家です。現代の青年漫画に出てきそうな不思議な雰囲気の裸婦が描かれています。一軒家の前にポツンと立った電柱。その前にいる裸婦の後姿。彼女には雨が激しく当たっています。つげ義春的世界。肩から垂れ下がる長い髪。斎藤は文筆にも才能があり、随筆集「瞽女」では日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。ネットで調べてみると多くの作品を残していることがわかりました。その中に、「瞽女物語』(講談社文庫)を発見。これ、店にありましたが、売れてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

大阪の動物保護施設「ARK/アニマル・レフユージュ関西」が発行する2020年のカレンダー販売中です。

壁掛けタイプ(1000円)。机上タイプ(800円)があります。売上は、全てARKにお渡しいたします。当施設に保護されている動物たちのために使われます。

 

北海道発の雑誌「スロウ」の最新号は特集「パンは語る」です。北海道のパン屋さんの記事読んでも、買えない…..。その通りですが、登場するパン屋さんの話がとても面白いのです。

「自家製酵母」でパンを焼いているパン屋さんが、数件登場します。道東の清里町、Luna Liena/ルナ・ジェナの藤原世利子さんは岡山県出身。彼女が北海道でパン屋をやるまでのプロセスは、映画みたいに波乱万丈なので本誌をお読みいただきたいと思うのですが、彼女がパン作りに目覚めたのは、2008年。偶然手にした「秘伝 自然発酵のパン作り」という本との出会いでした。ここから発酵の魅力に取り憑かれた彼女は、2007年地元岡山でパン屋を開業。そして2015年、「広いところに行きたかったから」という理由で北海道に移住し、開業しました。

酒蔵のように、その家ごとに異なる菌がいて、作る側にもそれぞれ異なる菌がいます。だからこそ自然発酵のパン種で仕込むパンは、その家の味へとなっていきます。

「目には見えないけれど、菌はあちこちに存在しています。彼らと助け合いながら、共に生きているんです。それを忘れないでいたいと思います」と彼女は言います。周囲の環境、そこに生きる動植物、そして菌たちと繋がっている。そんな中から、ほっこりとさせてくれるパンが出来上がっているのです。

北海道西南の伊達市にある「てんねんや」の林れいかさんは、埼玉県出身。自家培養の天然酵母を幾度か代替わりさせながら、天然酵母でパンを焼き続けて15年。使用される小麦はほぼ100%北海道産、全粒粉やライ麦は、無農薬無化学肥料で育った地場産ものをメインにして、ナチュラルでシンプルな味わいのパンを作り続けています。

「この先、どんな時代になったとしても、子どもたちには何があっても生き抜いていける強い身心を持って欲しいから、生命力に満ちた『本物の食べ物』を残してあげたいと思うんです」と、二人の子供を育てるお母さんらしいメッセージです。

特集は、こんな風にそれぞれの人生の中でパンに出会い、パン屋を営む人々の姿を紹介しています。パンの消費量日本一を誇る京都人なら、この特集を見逃すことはできません。写真もとても素敵で、あれも、これも買いたくなってきますよ。ちょっと遠いけど…..。

九州の出版社、書肆侃侃房が始めた「韓国女性文学シリーズ」の中の一冊、クォン・ヨソンの短編集「春の宵」(新刊書1980円)は、本の帯に書いてあるように「苦悩や悲しみが癒されるわけでもないのに酒を飲まずにいられない人々」の姿を描き切っています。

1965年生まれのクォン・ヨソンの小説が日本で紹介されるのは、これが初めてですが、現在韓国を代表する小説家で、本作は作家の力量が最高潮に達したと本国では絶賛を浴びました。自身愛酒家であり、この本の原題が「あんにょん、酔っ払い」にしたというぐらい、収録された七つの短編全てに酒を飲む人が登場します。けれども、それが楽しい酒ではなく人生の絶望から逃げるように、あるいは忌まわしい過去を忘れるために飲む輩ばかりで、何らかの事情で酒に依存しています。

その悲惨な姿が特に際立ったのが、日本版のタイトルになった「春の宵」です。生まれたばかりの子どもを離婚した夫の家族に取られて、生きる希望を失ったヨンギョンが、アルコールに依存していき、自ら破滅への道を選んでしまう物語です。よくあるストーリーなのですが、リアリズムに徹した文体で、主人公が追い込まれていく描写が力技です。

ヨンギョンがコンビニで酒を買って飲み始めるシーンです。

「きつく締まっていたネジがゆるゆると解け、愉快で気だるい生命感で満ち溢れた。これらは中毒になった体が起こす偽りの反応なのだが、そんなことはどうでもよかった。腹を空かせた赤ん坊が乳に吸いつくように、彼女の体はさらに多くのアルコールを吸収したがった。」

別れた恋人の姉と酒を飲みながら、かつての恋人のその後の数奇な人生を知る「カメラ」、離婚寸前の夫婦が友人と旅行にゆく道中で浮かび上がる、アンバランスな環境と出口の見えないその先を描く「三人旅行」、アルコール依存症の作家が視力を失ってゆく翻訳家との出会いを描く「逆光」など、一度に読んだら滅入ってしまうような作品が並んでいますが、読ませます。

「逆光」の中にこんなセリフがあります。翻訳家が作家に向かって「私といっしょに昼酒でもいかがですか、先生」そして始まる酒宴。アルコール依存症の作家は、こんな独白をします。

「他人の目から見ると、ひまさえあれば酒を飲んでいる自分の人生こそ驚愕に値するのではないか」と。

これまで全7シリーズが出版されています。全て在庫しています。才能溢れる韓国女性作家の世界を楽しんでください。★書肆侃侃房の韓国文学パンフレットを置いています。(無料)

10月26日の土曜日、カメラマンでネイチャーガイド、釧路湿原のペンション「ヒッコリーウインド」のオーナー安藤誠さんのネイチャートークを開催しました。レティシア書房では毎年秋の恒例のイベントになりましたが、徐々に参加者が増えて、店内ではゆっくりしていただくことができずに、昨年と同じく南隣のM商店様の店先をお借りしました。この時期にしては暖かく、開けっぱなしでまるで野外の上映会のようで、和やかな雰囲気でした。

例年なら安藤さんのワンマンショーなのですが、今回は、ヒッコリーのスタッフでガイドの山田佳奈さんと、映像スタッフの小川浩司さんが参加され、今回のツアーへの思いなどを話されました。そして安藤さんが、自身の最新の写真や映像を中心にして北海道の自然について講演しました。その中に、一匹のキタキツネが登場します。精悍な面構えで、撮影者にふと向けた視線に感動しました。北の大地の厳しい自然にたくましく静かに生きる姿が捉えられていました。また、スローモーションで映し出された雪の中の丹頂鶴のダンスシーンは、息を飲むような美しさでした。

彼の撮影した動物たちの表情、特にその視線は「あなたたちは何ができるのか」と訴えているように感じることがあります。動物たちは愛嬌があり、可愛らしさ、美しさに満ち溢れています。しかし、彼らの住む環境は破壊され、住処を追われ、クマなどは害獣として駆除されてしまうのが現状です。そんな世界であなたたちはどう生きるのか?と問いかけられているように思うのです。

野生動物のことを考えることは、環境問題だけでなく、社会のあり方、一人一人の生き方などを、今一度考えることになってきます。当店でも、本をお渡しする際のビニール袋の使用を少しでも減らすために、お客様には、袋が必要かどうかお聞きしています。また個人的には、ペットボトルの飲料をなるべく買わないように心がけています。たったそれぐらいですが、彼らの視線にほんの少しは答えられているかと、気休めですが思っています。

安藤さんは、面と向かって自然保護や環境問題のことを口に出しませんが、撮影した写真の背後にはそんな思いもあるのではないかと思います。夢は、ネイチャーガイドのことをきちんと(そして格好良く)紹介できるドキュメンタリー映画の製作とか。今回の映像から、その夢の実現は近いと思いました。ぜひ見せてください!

奈良県の山奥、東吉野村の私設図書館「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開設した青木真兵・海青子(みあこ)さん夫婦が、ここに関わった人々と対談した「彼岸の図書館」(夕書房/新刊2200円)を読んでいると、もう付箋だらけになりました。それだけ、いろんな意味で面白い本でした。

都会で働いていた二人が、この村に移住するきっかけになったのは東日本大震災でした。この震災と原発報道を「ぼくたちの周りにあったいびつな状況を露わにする出来事だったと感じています。街での生活がどんどんバーチャルに思えてくるのと並行して、ぼくら夫婦の体調も悪化していきました。」

そんな状況から脱出するために地方移住を考えます。そして、地方に移住するなら、海青子さんが司書として働いていた「図書館」を自宅に作りたいという思うようになった時、東吉野村の一軒の家と出会いました。

「この本は、兵庫県の街での生活で体調を崩し、ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだぼくらが、家を開いて図書館を作ったことで元気になっていった『リカバリーの物語』です。」と真兵さんは書いています。

本書では、様々な形で図書館に関わった人やご夫婦と親交を結んだ人たちが登場して、住むこと、働くこと、食べること、知ることなどについて語り合います。付箋をつけたところ全部書いたら、恐ろしく長いブログになってしまいそうです。そんな彼らの対話を読んでいて浮かび上がってくるのは、この国のいびつでねじれた姿です。でも、社会批判の本でありませんし、移住して自然豊かな環境で、オーガニックな暮らしをする夢を叶えました、みたいなメディア好みの内容でもありません。

こんな時代だからこそ、もういっぺん生きることの原点を見直しませんかということを語りあった記録をまとめたものなのです。

「ぼくが窮屈と感じる社会は『一つのものさしで測る』ことをベースに設計されています。人間を『人材』と呼んだりする社会です。そんなもん社会じゃねえ。ぼくの考える『本当の社会』は、生命力が単位です。生命力とは、ミルの言う『自分のうちにある最高で最良の部分』のこと。だから人それぞれみな違う。

『ルチャ・リブロ』は『生命が高まる場所』です。『どうすれば、自分の内にある最高で最良の部分が十分に活動でき、その成長と開花が可能になるだろうか』と自分に問いかける場こそが、ルチャ・リブロです。花や草木、犬や猫、虫や鳥。生命力を持った存在である人間も、彼らと本質的には同じです。この自覚が日々の生活の中で高まっているからこそ、ぼくは心身ともに健康になったのかもしれません。」

少し長い文章を引用してしまいましたが、青木さん夫婦や、ここに登場する人たちの言葉に一度耳を傾けてみてください。きっと、あなたの本も付箋だらけになること間違いなしです。

本を出版したのは女性一人でやっている「夕書房」です。当店でも二度朗読会をした澤口たまみさんの著書「宮沢賢治愛のうた」の版元でもあります。納得できる本を読者に届けくれるこの版元を、当店は応援しています。

 

 

 

 

並んでいるのは女性の顔。何を思うのか、表情からは心を察することはできません。むしろこちらの中身を覗かれているような、不気味な美しさを湛えています。

本日より「中西敦浩作品展」が始まりました。中西さんは、2015年、2017年と石粉粘土で製作した人形で、モノクロの妖しい世界を見せてくださいました。今回は、初めて絵に取り組まれたのですが、パステルを筆でぼかして描かれてた繊細な女性たちが並んでいます。輪郭線を残すのが嫌で、下絵もなしでいきなり描かれたとか。そのせいか心の赴くまま一気に描いた女性たちは、ふわりと異世界から出てきて、白い画面に音もなくいつの間にか存在していたようです。

2017年に作られた石粉粘土の人形たちは、うめき、嘆き、身をよじる表情を見せながら、体は虚ろでこの世のものではありませんでした。2015年の作品も生と死の間で想いを秘めているかのようで、いずれもとても魅力的でした。パステル画は色を使われているのですが、手を伸ばしても触れることのできない妖しさを感じます。いくつかの作品にある緑色の植物の葉が、彼女の鼓動を静かに刻んでいるかのようです。

膨大な読書量で本に対する造詣が深い作家の奥に、もしかしたら作家自身も気づかないうちに作家の中にずっと棲んでいて、いつの日かこうして姿を現す日を待っていたのかもしれません。そんな彼女たちをぜひご覧くださいませ。(女房)

中西敦浩作品展は、10月29日(火)〜11月10日(日) 12:00〜20:00なお、11月4日(月)は定休日です。

 

1988年、一本のフランス映画が公開されました。リュック・ベンソン監督の「グレートブルー」です。社会と相容れない青年が、素潜りで海中深く潜っていき、そこでイルカに出会うという物語。ところが、全く鳴かず飛ばずで打切りとなりました。

まず、1988年『Le Grand Bleu』が フランス国内で最初に上映されます。フランス公開版132分。その後、海外向け編集版で仏公開版より12分短い『THE BIG BLUE』が公開。これが日本初上陸です。

その後、監督自ら編集したLe Grand Bleu/VERSION LONGUE』長尺版(168分) が出来上がります。フランスでは数十分短いバージョンで公開されますが、日本では『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』の邦題で劇場公開されます。このあたりから、若い世代に支持されていき圧倒的人気を作り出します。そして、さらにその10年後の1998年、10ans Le Grand Bleu/VERSION ORIGINALE』(132分) が作品生誕10周年を記念してフランスでリバイバル上映、それが日本に入り、『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』として劇場公開されます。

愛する妻ジョアンナの制止を振り切って嵐の海に飛び込み、深海でイルカに出会うラストには納得できないものもありましたが、青年の生き方や心情が支持されました。

10周年を記念したパンフレット”10ans  LE GRAND BLEU”(古書1000円)は、なんと100ページにもわたるボリュームで、一冊の本みたいな仕上がりになっています。色彩学の大学教授による「青」の考察あり、主人公のモデルになった素潜りダイバー、ジャック・マイヨールを取り上げ、潜水生理学の教授による「閉息潜水の生理学」に関する考察あり、果ては水産庁研究員による「イルカ語辞書のつくりかた」と続いていきます。

作家の谷村志穂が、「そもそも人はなぜ潜るのか。彼らはなぜ潜るのか。海の中にどんどん沈んでいきたい生理はどこに宿るものなのか」と、憧れを持って書いています。

映画ラストでジョアンナは、海に向かうジャックに”Go and see my love”というセリフを言います。海底のどこに、愛があるのか?

谷村は「そう言うしかないものな、とも思うのだが、切なくてタフな、この映画を象徴する女からの台詞だと思う。そう言われたジャックはきっと、あの冷たい暗い海になかで、はじめての安らぎと出会うのだろう。ベッソンはそんな強い女が好きだ。まるで君たちが強くいてくれなくては愛は育めないのだと訴えているかのように」と、このセリフへの思いを書いています。

初公開から10年、バージョンを変えながら公開され続けたこの映画は、多くの若い世代を引きつけました。彼らが、社会の中にあって安らぎを見つけられなくなったという象徴かもわかりません。

 

本好きの方なら「本の雑誌」という月刊誌を読まれたことがあると思います。1976年、この雑誌を立ち上げたのが椎名誠、目黒考二、沢野ひとし、木村晋助です。その内の一人目黒考二が、書評家として四十年を迎えたことをきっかけに、過去を振り返ったのが「書評稼業四十年」(本の雑誌社/古書1300円)です。

目黒は、書評する本のジャンルによって複数のペンネームを使っていました。私小説の時は目黒考二、ミステリーなら北上次郎、競馬評論の時は藤代三郎を使用していました。本書は、推理小説や娯楽小説が熱かった時代に、その洗礼を受け読書遍歴を重ねたので、「北上次郎」で発表しています。

TVの書評番組で何度かお見かけしましたが、そのおとぼけぶりとマイペース感が気に入っていました。こんなことを言っています。

「若いころに『日本読書株式会社』というのを考えたことがある。本を読むだけで生活していけないものか、という夢想である。社員五十人が毎日せっせと新刊を読んで、データを蓄積していく。顧客の入会金は一万。会費は毎月千円。それだけで毎日電話できる。何度電話してもいい。で、ただいまこういう気分なのだが、そういうときに読む本は何かあるかと質問すると、たちどころに答えてくれるのである。」

で、北上社長はというと社長室で好きな本を読み、飽きたらコーヒーショップに出かけ無駄話に興じる、という人を食った会社です。まぁこういう人なので、記憶力もイマイチ、過去の仕事のデータもないということを断って、話は方々に飛んでいきます。「なんであの時、あの作家と話していたのかわからないのですが……..」みたいなことがあるかと思えば、「あぁ、思い出した」と、違う場面へ飛んでゆく。しかし、そこが面白いのです。一緒に出版業界を駆け抜けた編集者や同業の書評家、そして時代の最先端を走り出そうとしている作家たちと、まるで居酒屋で飲みながら北上の話を聞きながら、ヘェ〜そうだったのかと相槌を打っている気分になります。

彼は、書評と評論の違いをこう語っています。

彼が他の書評家が書いた文章に触発されて、本を買いに走りました。「すぐれた書評は、こういうふうに読者に行動を起こさせる。面白そうだという感慨で終わらせず、直接的な行動を起こさせるものだ。その点で評論と異なる。書評にはそういう熱が必要なのである。」

新聞などの書評でも、面白いものと退屈なものがありますが、北上のサスペンスやミステリー小説の書評は、そういう熱を持っていると思います。

日本の大衆小説を飛躍的に変えたのは、五木寛之、野坂昭如、井上ひさしの登場からだと述べていますが、確かに五木の登場は画期的でした。私も若い頃、貪り読んだ記憶があります。成る程!と納得できるところの多い一冊でした。

 

どの写真集も高値のデヴィッド・ハミルトンの図録「デヴィッド・ハミルトンの世界〜アーティスト25年の軌跡」(古書3500円ーこれでも安い)が入りました。

ハミルトンは、1933年ロンドン生まれ。戦後パリの百貨店プランタンの美術ディレクターに就任し、商業写真を撮り始めます。幻想的で、ロマンチックなソフトフォーカススタイルで、16歳までの少女を中心にした作品が話題になりました。少女のヌード写真が一時、物議をかもし出したり、ハミルトンのモデルを未成年時に務めた女性数人が「性的暴行を受けた」と公表したこともありました。それにしても彼の作品は美しい。大人と少女との境目にいる女性を捉えた作品群はもちろん見事ですが、白黒で撮影された風景写真が驚くべき美しさを持っています。これを見るだけでも、この図録は価値ありです。

 

次にご紹介するのは、エドワード・スタイケンの個展の図録(古書/1500円)。1879年生まれのアメリカの写真家で、美術家でもありました。1911年、Art et Decoration に掲載された作品がファッション写真の草分けとして認められています。その後VOGUE等で、ファッション写真の黎明期を代表する写真家へとなっていきます。一方でドキュメンタリー映画も制作し、「The Fighting Lady」では1945年度アカデミー賞を受賞しています。ポートレイト写真の名手でもあり、この図録にも多くのハリウッドスターが掲載されています。中でも、マレーネ・デイトリッヒの醸し出す妖艶さが素晴らしい。

 

 

 

さて、もう一点、Kurt Caviezel”Red Light”(洋書/1500円)という作品集です。カート・カビーゼルはスイス生まれの写真家で、こちらは図録ではありませんが、これが初の作品集です。

1997年の夏、彼は自宅のアパートの窓から、チューリッヒの交差点で赤信号(Red Light)のために停車する車の車中を望遠レンズで撮影しました。クローズアップされた何枚もの写真は、車に乗っている人それぞれの事情や感情の起伏まで捉えています。覗き見のようなこの写真を眺めていると、車中もまた自宅と同じくプライベートな空間の一部であることが理解できます。裸で運転する人、あくびをする人、ハンドルを握って叫んでいる人等、撮られていることを意識していない人々の手の動きや様々な表情。これ、映画好きの人には魅力的な一冊かもしれません。どの写真もまるで映画のワンカットみたいに、物語の一部を語っているようです。

 

 

10/6のブログでご紹介した「Ank:a mirroring ape」(講談社文庫500円)の佐藤究が、第62回江戸川乱歩賞を受賞した「QJKJQ」(講談社文庫/古書350円)を読みました。いやぁ〜また驚かされました。悪寒、恐怖、不安といった感情がさざ波のように打ち寄せる小説ですが、読み終わって、誠に感動いたしました。物語の真髄に当たる部分や構成には、それはちょっとなぁ〜というところもあるのですが、読者を引っ張る力たるや、エンタメ小説や純文学といったジャンル関係なく、ダントツでした。

物語は、猟奇殺人一家に生まれた女子高生の亜李亜のお話です。父は血を抜いて殺し、母は撲殺、兄は噛みついて失血させ、亜李亜はナイフで刺し殺すという、皆それぞれの殺人手法を持った一家です。と書くと、スプラッタ映画みたいに血みどろ残虐シーンの連続!と思い、もうそれだけでパスの方もおられるかもしれません。しかし、そんな場面は案外少ないのです、これが。

「犯罪者で、猟奇趣味で、死刑宣告を受けるのにふさわしい。それが現実だ。けれどもこうして家があって、理解ある恐ろしい家族がいて、絶望せずに生きていける。」と亜李亜は平和な(?)毎日に馴染んでいます。

ある日、亜李亜は部屋で兄の惨殺死体を発見します。翌日には、今度は母がいなくなります。亜李亜は疑いの眼を父親に向けます。対立してゆく父娘。ナイフの刃を父親に向けるという方向に、物語が進んでゆくのかと思うと、ここから亜李亜自身が、自分って何?、とアイデンティティーを探して、自分の過去を知るために街に飛び出していきます。そして彼女の成長物語へと転じていきます。

「人殺しとは何ですか。そう訊かかれば、わたしはこう答える。それは現実です。」

私は人殺しだ、それがわたしの現実だ。しかし、彼女がそれが自分だと思っていたものが、残酷なまでに打ち砕かれて、人格崩壊の一歩前までいってしまいます。

「わたしは自分の考えに震えている。それを打ち消そうとする。心の底の凄まじい痛みは、声にならない悲鳴に変わる。頭の中で絶叫する。ふと、スタッグナイフで手首を切ろうかなと思う。自分を保つために、狂気を証明する理性を保つために。」

生半可な自分探しのお話など吹っ飛ぶ、凄まじい現実に読者は付き合わされます。後半になると、フロイトやラカンの書物、脳科学の理論などが登場して、人は何故他者を殺すのかという哲学的命題へと突入していきます。果てしない迷走の末に、亜李亜が知った過去とグロテスクな国家の倫理。

「殺人者の脳というブラックボックスをこじ開ける。その成果は、まさに人類学的な資産だ。つまり、殺人を犯した直後の人間を捕まえて、脳を調べるんだよ。弁護士もなく、人権もない。」

そんな事を国がやるわけないと思っている方、日本陸軍が中国で行なった人体実験のことを思い出していただきたい。国家は平気でやるんですよ。

そして、「それは地獄の足音だ。永遠に沈んだはずの、地獄そのものだ。」で始まる血の修羅場…….。物語は、私の予想を完璧に打ち壊して幕を降ろします。

救いはあるのか?

エピローグで亜李亜の取った行動を知って、私たちは胸をなでおろします。地獄から戻ってきた少女の生還に拍手を。

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