カメラを網にして昆虫採集をする「虫撮り」。グラフィックデザイナー菊池千賀子さんの写真展のタイトルです。菊池さんが、仕事とは別に写真を撮り始めて最初に「ハマった」のは水滴だそうです。

「雨上がりに植物や花についた丸い水玉を面白い!可愛い!と見つめていると色々なものに出会います。水滴を狙ってシャッターを切った写真に、想像もしていなかったものが写っていることがあって、そのなかに虫たちがいました。」(個展挨拶文より)

川崎市にお住いの菊池さんは、都会のごく身近にいる虫たちをカメラに収め、虫や花に興味を持ち、名前を調べていくうち彼らと友だちになっていきます。虫カゴならぬ写真に採集された虫たちは、今生きてる瞬間を全身で楽しんでいるように見えます。

黄色の花(ルドベキア・タカオ)を撮っていたとき気配を感じて見たら、同じ色の「アズチグモ」を捉えたという奇跡の一枚のタイトルは「あ・・・」です(写真・上)。菊池さんの嬉しい驚きが、そのまま伝わってきます。もちろん、この難しい花の名前は調べたのだそうです。名前がわかると、人でも街でも急に親しみが持てますよね。そして、下の写真のタイトルは「俺の背中」。ラミーカミキリの美しい背中の模様を見てやってください!自慢気なラミーさんのポーズが愛らしい。

これらの虫たちのサイズ感がわかる小さな額も並んでいます(各1000円)。実に小さいのですが、そんな彼らを見つけて、じっとファインダーを覗く菊池さんの幸せそうな様子を想像すると、こちらも嬉しくなってきます。蒸し暑い夏に、小さな虫と可愛い花の素晴らしい世界をご覧ください。(女房)

「わたしの昆虫採集 虫撮り」菊池千賀子写真展8月17日(水)〜28日(日)13:00〜19:00 月火定休日

 

 

 

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機能性、修理可能性、耐久性に優れたアウトドアウェアやグッズの販売や地球環境に配慮した食品を販売する「patagonia/パタゴニア」から、初めての絵本「しんぴんよりもずっといい」(1650円)が発売されました。(作・ロバート・ブローダー/絵・レイク・バックリー)

「チリの あるちいさな ぎょそんのあさ、イシドラとフリアンは たのしいけいかくを たてています」というところからお話は始まります。二人は海に遊びに行くのです。

海で潜り始めたところで悲鳴を聞きつけ、捨てられた魚網に絡まっているアシカを発見します。二人はアシカを解放して、網を引き上げます。海の底には、網やゴミが数多く捨てられていました。

「ふたりは うみのそこに こんなにたくさん ごみがあることをしって、かなしくなりました。なんだかくやしくて とてもがっかりしました」

捨てられた網が何か新しく役に立たないかと考え、リサイクルセンターに持ち込みます。そこで、網は粉々に分解され、衣服となって蘇ります。

絵本に登場する網は、水中で見えにくいことから「ゴーストネット」呼ばれるものです。データによると、他のプラスチック汚染の4倍も有害だそうです。海洋汚染の現状と、それを解決していこうとする子供達の姿を描くことで、地球のことを親子で考えるような絵本に仕上がっています。

「ふたりは、じぶんたちのちからで、うみのいきものたちを あみやプラスチックのごみから すくえることを しったのです」

実際、廃棄された網からリサイクルして製造されたブレオ社の「ネットプラス素材」は「patagonia/パタゴニア」の衣料品の生地に取り入れています。もちろん、この絵本も100%再生紙で印刷されています。

 

 

「他人を差別してはいけません」と、教えられてきていますが本当に私たちは差別主義者ではないか?と根源的な問いに向き合う一冊です。著者はグラフィックデザイナーです。

以前ブログで「独裁者のデザイン」を取り上げたことがありましたが、これは、ヒトラー、ムッソリーニ、毛沢東ら独裁者が、デザインをいかに政治に利用したかを多くの作品を駆使して論じた力作でした。

今回ご紹介する「HATE」(新刊/左右社2750円)は、黒人差別、黄色人(特に日本人)、そしてユダヤ人への差別を、政治的ポスターの図版を多用しながら論じていきます。

「弱者による強者への憎悪はフランス語で『ルサンチマン』という。本書では、その逆、強者による弱者への憎悪を扱っている。 白人至上主義者による有色人種への差別・迫害と、アーリア人至上主義者であるナチスによるユダヤ人差別・迫害の様子を当時のポスターやカリカチュアなどを添えて、三章構成で検証している」

と書かれている通り、数多くの差別・迫害が列挙されていきます。何気なく使っている言葉にも差別的表現が隠れています。例えば、ホテルやレストランで「ボーイさん」と呼ぶことがあります。この言葉は、元々「白人が黒人一般(成人も含む)を呼ぶときに使っていた言葉。黒人は、まだ精神的に子どもだと白人がみなしたからだ。そして、アジア人も、黒人と同等とみなし、そうしたサービス業に就いたときに『ボーイ』と呼んだという」のだそうです。

ところで、アジア人を黄色人種とはじめて規定したのは18世紀に活躍したスェーデンの博物学者リンネでした。リンネは人種を肌の色で、白人、黒人、黄色人、インディアン等の赤色人の四つに分類しました。しかも各人種の、例えば黄色人種は「欲深で高慢ちき」と、根拠不明の印象に基づいて性格づけを行いました。これが後の白人至上主義者の考えに影響を与えます。

映画の都ハリウッドでは、アメリカ人にとって都合のいいアジア人像を作り上げ、大衆のイメージを「下劣で卑しいアジア人」へと引っ張っていきます。因みに、戦前にはハリウッドで活躍する日本人は稀で、白人が演じました。その時、まっ黄色のドーランを「オリエンタル・イエロー」と名付けて作ったのが、映画の化粧品部門で活躍したマックス・ファクターでした。(同じように「エジプシャン」という茶色のドーランも作った。)

本書後半では、ユダヤ人迫害について、ヒトラーはもちろんのことですが、それまでのキリスト教の長い歴史の中で何が行われたかが詳細に述べられています。なぜユダヤ教徒が弾圧されるのか、よくわかります。

人はなぜ、自分と違う人種を差別するのか。あいつらより俺は上だ!と優位を主張し、憎み、軽蔑するのか。著者の答えは「おそらく、それは、残念ながら人の性だと思う」というペシミスティックなものです。

しかし何と言っても本書の凄いところは、「デザインの歴史探偵」を名乗る著者が、差別意識を助長するポスターなどのグラフィックを大量に紹介しているところ。それらを見るだけでも価値があります。

 

 

早助よう子「恋する少年十字軍」(河出書房/古書1200円)は、幻想と諧謔と悲惨とユーモアがシェイクされたような、ぶっ飛んだ世界を見せてくれます。著者は1982年生まれ。2011年、文芸雑誌「モンキービジネス」(winter vol.12)誌上で、短篇「ジョン」でデビューした小説家です。

本書は、タイトル作品と六つの短編、中編小説が並んでいて、現代アメリカ文学の優れた作品の翻訳者である、柴田元幸と岸本佐知子の推薦の言葉が帯に入っています。

「恋する少年十字軍」は、「夜道を歩きながら、明日からの旅行のことを考えた。あなたは親友の周子に会いに行く計画を立てていた。親友と言っても、最後に京都で会ってから二十年以上経つ。」と、「あなた」と二人称で呼ばれている主人公が、昔の親友のところに出かけるとことろから始まります。

しかし、ここからとんでもない展開が始まります。周子が彼氏と旅行する間だけ、息子と赤ん坊を世話して欲しいと押し付けられて、その依頼を引き受けます。この息子は、部屋の中で夜な夜な爆弾を作って、公園などで爆発させるような子供で、さらに赤ん坊の方はすでに4歳になっているという奇妙な状況。

彼女の文章は、突然に飛躍します。サスペンス小説を読んでいて、次何が起こるの?とドキドキすることがありますが、早助よう子は、次の一行がどうなるのか、何が来るのか全く予想できないのです。いや、何も来ないことすらあります。難しい単語や言い回しがあるわけではなく、普通の言葉で物語は構成されているのですが、徐々に読者の感覚が奇妙に捻れ、ズレて噛み合わない。しかし、それが気持ち悪いのではなく、心地よく、肌馴染みは良いという不思議な世界なのです。

独身女性の貧困、子どもへの育児放棄など、現代社会の深刻な問題が扱われていますが、深刻度ゼロの世界。白昼夢のように、生々しくはあっても必ずどこかしら普通ではなく、作者は意に介さずに登場人物を動かしてゆきます。

周子からいきなり子ども二人を預けられても、さほど抵抗もなく受け入れる。子どもを捨てる親への非難はここでは描かれません。そして、子どもたちも、妙に冷静で動じない。親が子を捨てるのが当たり前という世界を私たちは見ることになるのです。

で、ラストはどうなるの?最後の文書は「世界を変えるあなたの旅は、まだ始まったばかり。」ここだけ読めば、感動的な小説の終わりですが…….。オイオイ、どこまで飛んでゆくんだと、私は思わず笑ってしまいました。とても刺激的です。

 

 

長い間アメリカ映画を観てきましたが、マリオン・ドハティ(1923ー2011)のことは初めて知りました。映画のサブタイトルに「ハリウッドの顔を変えた女性」とありますが、プロデューサー達が俳優リストを見て、はいこの役は彼ね、この役は彼女ね、と決めていたキャステイングの在り方をガラリと変えてしまった、プロフェッショナルな女性です。

白人男性至上主義のハリウッドの、強固なスターシステム下で、役者の個性を直感的に見つけだす才能と絶妙のセンスで、ユニークで多種多様なキャスティングを行い、アメリカンニューシネマ時代の傑作に多くの人材を送り込んだマリオン。映画は、トップクラスの俳優たちや、彼女が育てたキャステイングディレクターたちへのインタビューを中心に構成されています。

アメリカ映画は、「卒業」「俺たちに明日はない」以降新しい時代へと入りました。まさに彼女が、オフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイなどで、多くの役者を見つけ出し、現在アメリカ映画を代表するスターの代表作が生まれた時代です。

彼女の仕事の大きさと偉大さを知る一方で、私自身が最も多くのアメリカ映画を観てきた時代の作品が、監督が、役者が、ドンドンと登場するので懐かしく、そしてあの頃の映画が自分にとってどれほど大きな存在だったを再確認して、とても楽しい時間を過ごしました。

ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ロバート・レッドフォード等々がデビュー当時のことを語り、マーティン・スコセッシ、ウディ・アレン、クリント・イーストウッドら今も現役の監督たちが、マリオンの存在がいかに大きかったを語り尽くすのです。「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」「真夜中のカーボーイ」「スティング」「ダーティハリー」「バットマン」など、あの映画のあの役者はドンピシャだったよな!と思ったキャスティングには、マリオンが関わっていたのです。

アル・パチーノはマリオンについてこんな風に語っています。

「俳優を続ける中で、好きになった言葉の一つが『励まし』だが、マリオン・ドハティは『励まし』そのもののような人だった。そんな人を私は彼女以外に知らない。」

マリオンのドキュメンタリーを観ながら、面白そうなアメリカ映画を探して、劇場を走り回った充実した青春時代を思い出した90分でした。(京都みなみ会館で上映中)

 

先日ブログでご紹介した花田菜々子の「出会い系サイトで70人と実際に会って、その人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」が、単なる推薦本の羅列ではなく、本を武器にして、新しい生き方に挑んだ女性のリアルな記録でした。

今回の石山蓮華「犬もどき読書日記」(晶文社/古書1200円)もまた、「読書日記」というタイトルになっていますが、若い女性が、日々感じ取る生きる上でのイラつきや、不安を、その時々に読んだ本の紹介とともに描いたエッセイです。

著者は1992年生まれ。10歳の頃より芸能活動を開始し、TV・ラジオ、舞台、映画などで活躍しています。電線愛好家として知られていて、日本電線工業会「電線の日」のスペシャルコンテンツの監修も行なっています。

こんな感性してるんだと驚いたのは「逃げられない算数の話」の章で、「私は筋金入りの算数ぎらいだ。」そして、「『4−3』の式を見るだけでもう、悲しかった。『ひく』が悲しい」と言うのです。

「唐突にいなくなってしまった3という数字。4の後ろに横棒一本置かれただけで、急にどこへ行ってしまったんだろう。4だったときには、4は4という自分が好きだったかもしれない。けれど3もひかれてしまったらずいぶん色んなことが変わってしまうと思う。」単純な数式を、こんな風に解釈するなんて面白くありません?

その一方で、テレビに出演していた彼女が脇毛を剃らなかっただけで、ネットでその部分がアップで流されていることに怒り、「そもそも、女が体毛に手を入れなかっただけのことで他者から言及される社会は狂っている」と書いています。全く正しい。

「言うまでもなく恥ずかしいのは女性の脇汗や脇毛ではなく、他者の身体や生理現象を上から目線で勝手にジャッジし、鑑賞し、収集し、(そこまでは個人の趣味の範疇だったとしても)許可もなくインターネットにアップロードして『恥ずかしい』とレッテルを貼る人間だ」その通り。

さらに、映画でのキスシーンやあるいは性愛表現について、「女性が『見られる側・ジャッジを受ける側』に固定されるようなものにつながりやすいのがめちゃくちゃ嫌いだ」と嫌悪感をあらわにします。

「実際、女性に生まれるだけで『女子力』的なものさしでジャッジされたり、嫌だと言う言葉をそのままの意味で受け取ってもらえないことなど、やわらかく書いたとしても『普通に』憂き目に遭っている。まじでむかつく。」と、女性につきまとう苛立ちを、時にひりひりとした調子で、時にだからどうなの、とあっけんからんとした調子で描いてゆく筆さばきが本書最大の魅力です。

そして、「人間生活に馴染み切れず、犬のような気分で暮らしているが、人として生まれているのでけして犬にもなり切れず、今のところ犬もどきとして暮らすのがしっくりきている。犬もどきとして、今日も黙々と本を読むのだ。」と、あとがきに書いています。

犬もどきとして暮らす、彼女は今何を考えているんだろう?次のステップが楽しみです。

 

 

 

新しくできた出版社kanoaからミロコマチコの新作「あっちの耳、こっちの耳」(3520円)が発売されました。

「あっちの耳」は、東北の人たちから聞いた野生動物にまつわる物語、「こっちの耳」は、その同じ物語を動物に立って作家が創作したお話。じゃばら式で、表に人間目線、裏に動物目線のお話が表裏一体になっています。「カモシカのおはなし」「クマのおはなし」「ウサギのおはなし」「とりのおはなし」「ヘビのおはなし」「コウモリのおはなし」の六つの話が、それぞれ一枚の紙に収まり、16㎝×13cmほどのサイズですが、じゃばら式なのでずずっ〜と広げると1メートル以上にもなり、6話が一箱に入っているユニークなスタイルの絵本になっています。

 

さて、「とりのおはなし」は、こんな風に始まります。

「あれは、何年まえかの夏だったかな。実家の庭にちっちゃい池があるんだけど、うちのじいちゃんとばあちゃんがそこでペリカンを見たっていうんだよね。わたしと母は、いや、それはないでしょうって言ったんだけど、」という、「むかしむかし、ある所で」みたいな感じで進みます。この話はオチが面白くて、ペリカンと思しき鳥は、実は池にいた金魚を丸呑みしてしまって、喉が膨らんだシロサギで、じいちゃんたちはそれをペリカンと間違えたみたいなのです。ミロコマチコは、おそろしく喉が膨らんだシロサギを描きこんでいて、思わず笑ってしまいました。

その裏側で展開するのは「赤いくちばし」という、著者の創作したシロサギ側から見た絵物語です。シロサギのおばあちゃんが、孫の鳥たちに同じ出来事の顛末を話しています。両面ともミロコマチコの鮮烈な色彩感覚の絵をふんだんに見ることができます。

6話全て楽しめるのですが、私は、「クマのおはなし」が最高でした。森林調査をしていた人が、森の中でばったりとクマの子に出くわします。「子グマは1メートルくらいの大きさで、木の根っこにまえ足をかけてこちらをじっ…..と見ている。」

近くにきっと母グマがいるはずだと思ってあたりを見回しますが、発見できません。ミロコマチコの描く、深い草むらの奥でこちらを見つめている母グマの顔がなんとも魅力的。全体をグリーン系で整えた世界に対して、裏のクマ目線の「ふしぎないきもの」では、クマから見た不思議な人間といういきものが、赤を基調にして描かれています。

紙芝居が始まるようなワクワク感に包まれます。動物を見た人たちの語り口は素朴で心地良く、画面から飛び出しそうなミロコマチコの躍動感あふれる絵が素晴らしい。オススメです。

 

何とも勇ましい台詞ですが、ハードボイルド小説ではありません。ひょんなことから、出会い系サイトに書き込んだ花田菜々子の「出会い系サイトで70人と実際に会って、その人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(河出書房新社/古書700円)に登場します。

著者は1979年生まれ。本と雑貨の「ヴイレッジヴァンガード」に勤務していました。私生活でトラブルを抱えていた彼女は、「X」という奇妙な出会い系サイトに出会います。それは、まったく知らない人と出会って30分だけ会って、話をするというサイトでした。そこに、

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を一冊選んでおすすめさせていただきます」と書き込み、彼女の活動がスタートします。

やはりというべきか、セックス目的で連絡してくる輩もいましたが、それより新しい人間関係を作る場になってきます。「X 全体がひとつの村のように共同体でもあって、参加している人がどんどん知り合い同士になっていって、関係性や信頼が深まっていくという仕組みが隠れているということが面白かった。」

彼女は、未知の人に本を勧める難しさと、そこにのめり込んゆく熱狂に取り憑かれていきます。と、同時に性別を問わず素敵な人に出会い、変わっていきました。

「憑かれたように人に会って会いまくった。そして知らない人と会うことはもはや生活の一部になった」この本の魅力は、魑魅魍魎の世界かもしれない出会い系サイトに突入して、人の存在を信じ抜く一人の女性の姿にあります。

「それぞれの人生のダイジェストを30分で聞いて、こちらの人生のダイジェストを30分で伝える。限られた時間の中でどこまで深く潜れるかにチャレンジするのは楽しかった。ロープをたぐってするすると降りていって、湖の底に素潜りして一瞬握手して、また浮上してくるような時間には、特別な輝きがあった。」

未知の女性に会う=セックスができる可能性に直結する、みたいな社会の常識をものの見事に蹴飛ばしてゆく姿に拍手を送りたくなります。

やがて、彼女はリアルな場で、本を語るイベントをプロデュースすることになります。そのイベントの前日、大好きだった祖父が亡くなります。真面目な両親とは違い、酒飲みで、彼女が大学生時代には終電でよくばったり出会い一緒に帰ってきた。家族の中で祖父だけが同じ不真面目派だった。イベントをするか、中止してお通夜に参列するか悩みに悩みます。が、不良仲間の祖父なら、「二択で悩んだときは自由な生き方を選択しろ」と背中を押してくれるだろうと、イベントを決行します。

「認知症だった祖父はもう記憶にないかもしれないけど、私たちは自由同盟を結んだ仲じゃないか。ジジイ、悪いが屍越えさせてもらうぞ。」

最後をこんな文章で飾っています。「また今日から何かが始まるのだ。これからもどんどん流されてどこかへ行き続けるのだろうか。ならばどこまでも流れていって見てやろう。行けるいちばん遠くまで。」

未知の世界に飛び込こんで、やがて、日比谷にオープンした女性に向けた新しいスタイルの書店「 HIBIYA COTTAGE」の店長を務めました。残念ながら店は本年2月に閉店しましたが。

 

「素晴らしい人生を送ることができるのに、なぜここに留まって、惨めでへとへとに疲れる生活を続けているのか?別の場所の上でも同じ星が瞬いているというのに」

〜ヘンリー・ディヴィッド・ソロー「ウォーデン森に生活」より

ブリス・ポルトラーノの文章と写真による「NO SIGNAL」(日経ナショナルジオグラフィック/新刊2420円)は、それまでの生活を捨て去って、大自然の中で生きるということに舵を切った10人の人生に迫ったものです。著者はフランス生まれの写真家で、自然と共に生きる人たちを世界各地に訪ねました。さすが、ナショナルジオグラフィックが出版するだけの素晴らしい写真がふんだんに使われている一冊。

登場するのは、ノルウェーの無人島で灯台守として暮らすエレナ、ギリシャの廃村で暮らすシルヴィア一家、フィンランドのツンドラで犬と共に生きるティニヤ、イランで古より伝わるペルシャ騎士の生活を固持する元大学教授アリ、モンゴルの少数民族と共にトナカイの遊牧をするアメリカ帰りのモンゴルの女性ザヤ、アメリカのユタ州で完全自給自足の生活を営むベンとキャサリン、等々です。

先ずは、写真を見てみましょう!よくもまぁこんな所で生きてるなぁ〜と驚いたり、共に暮らす動物たちの姿に見入ったりと、私は何度もページを繰りました。電気もガスも水道もない場所で、自分の力で生きてゆくなんてことは都会の人間には無理、と思ってしまいます。

でも、パタゴニアで夫と息子と共に牧畜を営むスカイは、こんなことを言います。

「都会に行くたびに、とてつもなく虚しさを覚えます。そして、自分がいかに自然やこの人生とつながっているかにも気づきます。鶏の鳴き声や鳥の歌声が聞こえない場所で暮らすなんて、私には理解できません」

また、ユタ州で自給自足生活を送るベンは「森の中を25キロ歩いても空腹を感じないのに、一日じゅうパソコンの前にいると腹が減るってどういうこと? まったくナンセンスな話ですよね!僕たちの体はどうしていいかわからず、怒っています。本来、一日じゅうパソコンの前に座って過ごすようにはできていないんです」と。

だからといって、彼らが現代文明を拒否しているのではありません。「むしろ現代社会が提供するテクノロジーを思慮深く活用するものだと証明している」と著者は、その印象を書いています。

何かを捨て何かを得る、というシンプルな考え方に対して、何もかも得る、という方向へ私たちは向かっています。だから息苦しいし、疲れるのかもしれません。随所にアメリカの思想家ヘンリー・ディヴィッド・ソローの言葉を散りばめた本書を読みながら、一歩留まって、自分の暮らしを支えるものを見直すのもいいと思います。

 

 

ジャネット・スケスリン・チャールズ著「あの図書館の彼女たち」(東京創元社/新刊2420円)は、400ページ余の長編小説でとても読み応えがあります。

ヨーロッパでナチの脅威が大きくなり、フランスが占領される未来が迫ってきている1939年。主人公オディールは、本と図書館が大好きなパリジェンヌです。幼い時から、図書館は宝の山だ!と思っていた彼女が、パリにあるアメリカ図書館で働くことになるところから物語はスタートします。当時は、女性は仕事などせずに、家庭にいるというのが常識でした。警察官だった彼女の父親ももちろんそう考えていて、オディールが図書館で働くことに猛反対。しかし彼女は、それを振り切って働き始めます。

 

「『ひとは読むものよ』女性館長は言った。『戦争であろうとなかろうとね』」

ドイツ軍将校とも互角に渡り合う館長ドロシー・リーダーと、個性あふれるスタッフたちに囲まれてオディールは、様々な仕事をこなしていきます。仕事を始めた頃は、まだ戦争の影はどこにもありませんが、物語は、ゆっくりゆっくり恐怖の時代へと近づいていきます。

この図書館は実在していて、現在もパリにあります。パリにありながら、英語の書籍や雑誌を提供する、いわばアメリカ文化の情報発信の拠点なのです。1940年から44年まで、フランスはナチスに占領されました。多くの図書館は閉鎖されますが、かろうじてこの図書館は活動を続けることができました。しかし、多くの制約を課されオディールたちにも危険が迫ってきます。

ナチスはユダヤ人の図書館の利用を禁止しましたが、ドロシーたちは、図書館に登録していたユダヤ人の家に本を届けるというサービスを始めます。オディールも、検問を掻い潜って本を届けます。サスペンス映画のような描写も交えながら、本を守る彼女たちの日々を細密に描いていきます。

戦地に行った兵士たちに本を送るサービスを開始した図書館の、広報を担ったオディールは、取材に来た新聞記者からなぜ戦地に本を送るのだと質問されます。そのやりとりが素敵です。

「『誰にでも、決定的に自分を変えた本というのがあります。』わたしは言った。『自分がひとりぼっちじゃないと教えてくれる本です。あなたの場合はなんですか?』」

逆に記者の対して問うたオディールに、彼は「西部戦線異常なし」と答えます。レマルクの有名な反戦小説です。そこでオディールは「それを広めてください。あなたがいいと思った本を兵士に届けるのに、力を貸してください」と言うのでした。

本書の面白いところは、戦後、アメリカのモンタナに移住したオディールの姿が挟み込まれていることです。それは1984年1月からスタートします。近所との交際を避け、一人ひっそりと暮らすオディール。彼女の隣に住むティーンエイジャーのリリーとの長い付き合いが描かれていきます。なぜ彼女はパリを捨てて、アメリカの片田舎にいるのか?その謎も少しづつ、明かされていきます。

先日ご紹介した落合恵子の「わたしたち」同様、時代の荒波に翻弄されながらも、自分の人生を見つけていった女性たちの物語です。アメリカで一人生きるオディールと、家庭から浮いて孤独に苛まれるリリーの間に生まれる友情と絆もズシンと迫ってきます。

今、長編小説を読みたいと思っている方へ、迷わず本書を推薦します。