物語の面白さに目覚めた最初は、小学校低学年のとき、親が買ってくれた「少年少女ベルヌ全集、第1巻海底二万マイル」(学研)でした。作者のジュール・ガブリエル・ヴェルヌ(1828〜1905年)は、フランスの小説家でSFの父とも呼ばれる存在。「海底二万マイル」は、誰も見たことのないような潜水艦ノーチラス号に乗って、世界を駆け巡るネモ船長の物語で、読まれた方も多いも思います。

深海で起こる様々なドラマや大ダコとの格闘など、子供にとっては血湧き肉踊るワクワクする世界でした。何度も読み返して、自分自身もノーチラス号に乗っているような錯覚に陥ったものでした。

今回、副音館書店から再発されている「海底二万海里」(古書950円)を読み返しましたが、その面白さは他のベルヌの作品の中で群を抜いていました。時代設定は1866年。「いくつかの船が海上で<何かばかでかい物>に出会っていたのだ。それは、長い紡錘形の物体を発し、クジラよりもはるかに大きく、またずっと速かったのである。」という、なにやら不気味なオープニングで始まります。もちろん当時は、潜水艦なんてものは存在しません。現代の潜水艦に通じるイメージを創り出したベルヌの筆の力には恐れ入ります。

ネモ船長率いるノーチラス号に乗船することになった、アナロックス教授たちとの深海への旅が物語の中心です。未知の生物たちとに遭遇したり、海底を特殊な服を着用して歩いたり、地図上にも書かれていない島々の美しさに驚かされたり、とレイチェル・カーソンが言った「センス・オブ・ワンダー」の世界が広がっていきます。

その一方で、ネモ船長の複雑な心の内へと物語は入っていきます。この男は何者なのか、どこの国の人間なのか、船を建造した目的は何なのか………。深海に佇むノーチラス号の中で一人パイプオルガンを弾く船長には人を寄せ付けない孤独があります。そして、軍艦への激しい憎悪はどこから来るのか。

当時のヨーロッパは、大国による植民地争奪の時代でした。征服され、略奪されてゆく未開の国々。圧政を行う文明国への激しい怒りは、実は、著者ベルヌ自身の被圧迫民族解放の擁護者としての思いだったのです。小説のなかで、ネモ船長は未開人よりも野蛮な文明国家への怒りを表し、「地球に必要なのはあたらしい人間だ」と断言します。

そう、この小説には力のない者の侵略に対する抗議が底辺に流れているのです。日本による東南アジアへの侵略、アメリカのベトナム侵攻、ソビエトの東ヨーロッパへの武力介入などなど、野蛮な行いは続いています。だから、ネモ船長の怒りと悲しみが、切実に迫ってくるのかもしれません。

本作は、1954年ディズニー製作で劇映画として上映されました。それ以降、一度も映像化されていません。ネモ船長の深い人間性を中心にした映画が作られることを期待します。

 

奥田英郎という作家は、以前にも東京オリンピック開催前の東京を描いた「オリンピックの身代金」を発表しました。「罪の轍」(新潮社/古書1200円)も、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の浅草と、北海道礼文島が舞台です。

奥田は、ジャンルで言えば推理もの作家の範疇に入るのかもしれませんが、本作は、純文学とか推理小説とかのジャンルを飛び越えた約600ページの大作。大きな物語の波に飲み込まれます。

主人公の一人宇野寛治は、礼文島で暮らす漁師見習いですが、一方で空き巣の常習犯でした。

「黒い海を眺めていたら、体が冷えてきて、寛治は両腕をこすった。夏とはいえ、日本の北端の夜は半袖ではいられない。ひとつくしゃみをして、寛治は見張り台を降りた。再び布団に潜り込み、ラジオをつけた。北朝鮮の放送が混線する中、弘田三枝子の`『ブァケ〜ション』が流れてきた。」

豊かさと明るさ一杯のこの曲に導かれるように、彼は東京へと向かいます。もちろん非合法な手段でですが….。

繁栄の象徴、首都東京。しかし、「山谷の夏は町全体にゴミと汗と酒の臭いが充満し、町井ミキ子は子供の頃から大嫌いだった。今日も朝から気温が三十度を超え、路地裏の隅から隅まで不快な臭気が漂っている。」という町でもありました。三谷の旅館を経営する母を手伝う町井ミキ子は、ふとした事から寛治を知り、深い悲しみに満ちた事件に巻き込まれていきます。彼女は高校卒業後、憧れのOLになろうと受けた就職面接を全部落ちたのは、自分が在日朝鮮人だからだと思っていました。

オリンピックに浮かれている一方で、過酷な日雇い労働につかざるを得ない労働者が溢れかえり、貧富の差が表面化したこの年、浅草で男子誘拐事件が発生します。物語は、誘拐事件を担当する刑事たちの地道な活動を中心にして進んでゆきます。読むうちに犯人が誰かはすぐにわかります。そう、あの男です。しかし作者は、綿密な心理描写と、まるで黒澤明の白黒映画を見ているようなリアリティー溢れる描写で、繁栄から取り残された男の魂の暗部を描いていきます。出生から父親のDVにさらされ、挙句に当たり屋に使われ、脳に障害を持った人生。だから、犯罪小説を読み終わった時のカタルシスはありません。

ところで、昭和38年という昔のことなのに、DV、人種差別、格差、マスコミの世論誘導、一般大衆による偽情報の大量放出等々、今と一緒です。お上が無理にでも盛り上げようとしている来年のオリンピックでも、こんな事件が起こる可能性は大です。そう考えると、ぞっとするエンディングなのかもしれません。未来を予測した骨太の傑作小説でした。

 

 

正方形のスタイルがユニークな「歩きながら考える」最新9号を入荷しました。(1080円)

柴田元幸ファンは絶対買いです!彼の結構長めのインタビューが掲載されています。翻訳業の傍ら、柴田さんは全国各地で積極的に朗読会を行なっています。その仕掛け人のignition galleryの熊谷さんとの共同インタビューで、なぜ、今、朗読会なのかを語っています。

「都道府県はどこでもいいんだけれど、会場がインディーズだということがとても重要ですね。」と柴田さんのおっしゃる通り、個人経営の書店やギャラリーや店舗を中心とした活動です。

熊谷さんは、朗読会の良さを「その時を一緒に生きているというのが一番大きいんじゃないですか。一緒に物語を共有しているということは、その時間だけ、人々の想像力が一緒になって過去も未来もひっくるめた現在を生きていることだと思います。それはひとりで本を黙読しているのと違う。」と話されています。当店で宮沢賢治の朗読会をしていただいた澤口たまみさんの朗読を聴いた時、そんな風に感じました。

後半で、柴田さんが、アメリカには車に乗らない作家がいる、例えばリチャード・ブローディガン、ジョセフ・コーネル、写真家のソール・ライターなのですが、彼らについてこう指摘しています。

「車に乗らないということは、移動を含め、何でも自分の力でする、Self-Reliance(自立)というか、『自分で自分の世界を動かしていく』というアメリカ的な姿勢に背を向けているということ。」

アメリカでは圧倒的に少数派ですが、面白い見方です。

さて、もう一冊。横浜の酒飲み文化をひたすら紹介する「はま太郎」(1728円)の16号が出ました。凄いなぁ〜、自分たちの町と飲み食いのことをメインに16号まで出すなんて!!今回の特集は「横浜下町文化は南区にある」というディープな研究です。ここらあたりは、ヨコハマのヘソで、豆腐屋、うどん、そば、餃子などを販売する小さな食料品店、米屋さん等々、横浜を代表する商店街が集まっており、独特の文化が育っているのだそうです。南区に点在する和菓子屋の最中図鑑などという甘党好みの企画にも会えます。

横浜には市民酒場というお店があるらしい。これ、「横濱市民酒場組合」に所属する飲食店のことです。結成は古く、1938年。戦争末期、食料調達が難しくなってきた時に、「まっとうな料理と酒を、まっとうな価格」で提供することをモットーにしてきた組合です。組合結成の地が南区だっだことから、市民酒場が数多く存在しています。酒飲みにはこたえられない特集ですね。

その一方で、南区は美味しいナポリタンが味わえる店も多くあるようです。日本ナポリタン学会会長田中健介が「京急沿線は必ずといっていいほどに駅前によい喫茶店がある。つまりよいナポリタンにありつけることを意味する」と前置きして、紹介していきます。

トレンドなイメージの横浜とはまた違うイメージの地域紹介誌ですが、これはとても面白く、お腹も空いてくるし、ビールを飲みたくなってる一冊です。(バックナンバーも扱っています)味のあるイラストも健在です。

 

哲学者、野矢茂樹の「そっとページをめくる」(岩波書店/古書1200円)は、個性的な書評本です。サブタイトルに「読むことと考えること」と書かれている通り、単に紹介する本の羅列には終わってはいません。前半は本の紹介、後半はよりディープな「読む」という体験を掘り下げていきます。

私がこの本に興味を持ったのは、最初に三谷尚澄の「哲学してもいいですか?」(ナカニシヤ出版/古書1900円)が取り上げられていたからでした。これは、文部省あたりが推し進める、すぐに社会に貢献できる技術研究重視と、文学部系学部不要論の現状へ異議申し立ての一冊です。高度な職業的技能が身につく学部は、いい学部というのがお役人の見解です。

「文部省は学生を鋳型にはめようとしている。そしてあなたの学部ではどんな鋳型を提供しているのか、と問うてくる。」と、野矢は書きます。しかし「哲学は鋳型そのものを考え直し、論じようとする。なじんだ考え方に新たな光を当て、他の考え方の可能性を探ろうとする。だから、哲学は学生を鋳型にはめる教育にはなりえないし、まさにそこにこそ、哲学教育の生命線がある。」と結んでいます。

そして、この本を「あなたの代わりに考えて、上から目線で決めつけたりはしない。一歩ずつ、読者とともに、次考えようとする」と評価しています。こういう本がきちんと取り上げられています。そして、何よりも注目すべきは、著者の「そっとページをめくる」の書評を自ら書いているのです。自分の本の書評なんて前代未聞ですが、面白い。

後半では、宮沢賢治の「土神ときつね」を取り上げ、「相貌分析」という読み方を提案してくれます。まず、賢治の作品の原文が載っています。「女の樺の木」と仲の良い「きつね」に嫉妬した「土神」が、「きつね」を何度も打ち付けて殺してしまうお話です。

「その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりしてうすら笑ったやうになって死んでいたのです。」

という不可思議な文章で幕を閉じるファンタジーです。この物語を、野矢は「相貌分析」という手法で読み解いていきます。私も賢治のこの物語を読んだ時、本当に「土神」は嫉妬に狂っただけの愚かな人物だったのか、「きつね」はウソのない、気のいい人物なのか、様々な疑問を持ったのですが、この手法で分析されると、成る程なぁ〜と納得しました、

帯に「本を味わう指南書」と書かれています。時には、こんな本で、頭の中のギアチェンジされてはどうでしょうか。

「フリー稼業の数少ない特権のひとつは、世の多くの人が働いている平日に一人旅が出来ること。その自由を失いたくないから、経済的には不安定であっても、フリー稼業を続けているのだとも言える。」

「旅先でビール」(潮出版/900円)の中の、著者川本三郎の言葉です。人付き合いが得意ではなく、パーティーやらゴルフも敬遠して、その代わりに「ひとりで街を歩く。日本の田舎町を歩く。ローカル線に乗る。魚師町の居酒屋で飲む。温泉につかる。」と文章を続けています。

著者は、映画評論・文芸評論・海外文学の翻訳等の一方で、旅歩き・鉄道の駅探索・居酒屋回り等のエッセイを送り出しています。この本もそんな一冊です。おっさんがぶらりと旅に出て、見知らぬ駅で降りて、ぶらぶら散歩して、駅前の居酒屋でビールを飲んで、ご満悦になるという中身です。「九月のはじめ、海が見たくなって房総に出かけた。」と言った具合で旅が始まりますが、大抵は日帰り、あるいは一泊の旅です。そして、大衆食堂に入ってビールです。

「駅前に一軒、昔ながらの大衆食堂があった。ラーメンからカツ丼までなんでもある。近年、こういう店が少なくなった。貴重。隣で女学生たちがラーメンを食べているのを見ながらカツ丼のカツを肴にビールを飲む。しみじみしてくる。 旅をしていていいなあと思うのは、名所旧跡を訪れるより、こんな駅前食堂でビールを飲む時だ。」

300数十ページの本の大半がこんな風なのですが、読んでいるうちにとても幸せな気分になってくるのです。何気ない風景を見て、フツーの店でフツーの食事をするという特別な何かを求めない旅。ハイグレードなホテルや豪華絢爛なディナーなどどこにも登場しません。ひとり静かに、そこにあるものを食べ、そこに生きる人たちの暮らしを見つめることこそ、旅の本質なのかもしれません。

青函トンネルをくぐって、函館に夜遅く着いた時、「日曜日のこの時間だから閉まっている店が多い。横丁に一軒、居酒屋が開いていた。客は私ひとりだったが、おかみさんが愛想よく迎えてくれる。ビールの肴にもらったホッケがおいしかった」

あたたかな情景が目に浮かんできます。旅情報や、グルメ情報が溢れているこの時代に、あえてこんな旅をする。幸せって、こんな些細なことだよねと伝えてくれる旅のエッセイ集です。

 

 

フランス映画「北の果ての小さい村で」(京都シネマにて上映中)は、物語のようでもありドキュメンタリーのようでもあり、不思議な、でも豊かな気分にしてくれる映画でした。舞台はグリーンランド。と聞いて、グリーンランドの場所が頭に浮かぶ人は少ないかもしれません。北極海に面した北の国で、1721年から1953年までデンマークの植民地でした。現在は、デンマークの一地方と同格の地位となり、学校教育や医療など様々な面で近代化が推し進められ、1979年内政自治権を獲得。デンマークからの独立をめざし自立性を高めている地域です。

この地域の中でも北に位置するチニツキラークという人口80人気足らずの村に、母国のデンマークで家業を継ぐことから逃げて新しいことをしたいと思っている、新任教師アンダースが赴任してきます。意気込んで赴任したものの、グリーンランド語を喋る子供達と意思疎通ができず、よそ者として村人たちから疎んじられます。ヨーロッパの文化を持ち込もうとして、土着の文化とぶつかり、そこからアンダースが彼らを受け入れ、共に生きる様子を描いてゆくのですが、大きな特徴があります。

それは、ほぼ出演者が、ホンモノ。役者ではありません。アンダースはじめ、イヌイットたちも現地の人たちです。狩りの仕方を孫に教える老人も、漁師になることを夢見る少年も、ホンモノです。リアルとノンフィクションを組み合わせて映画を作るのは至難の技術です。ドラマ部分とドキュメント部分に温度差が出ると、映画のリズムも狂ってきます。監督のサミュエル・コラルデの長期に渡る撮影が生きています。

この映画は、青年教師が淡々とイヌイットの狩猟文化へと心を寄せて、受け入れる様を描いていきます。起承転結のはっきりしたドラマではないので、ぐぐっーと感動することはありません。しかし、アザラシを解体するシーン、美味しいそうに食べる人たちの様子、青年が犬ぞりをなんとか乗りこなそうとするシーン、そして、狩人たちが子連れのシロクマに遭遇するシーン、ラストに青年がイヌイットの子供をカヤックに乗せて海原に漕ぎした時、嬉しそうに「鯨だ」というシーンなど、作り物ではないが故に深く心に残ります。

電気は送られているが、水道はなく、買物ができる町までも遠く、医療設備もままならないチニツキラーク。「豊かな自然」なんていうような言葉では簡単には括れません。けれども、人も、犬も、クマも、アザラシも、地球と共に生き、そして大地へ戻ってゆくことを実感する場所であることは間違いありません。

星野道夫をリスペクトする貴方なら、観ておいて損はしません。

手塚治虫、白土三平、横山光輝など漫画家界の大御所の中で、個人的に最も好きな作家は石ノ森章太郎です。

 

代表作「サイボーグ009/ヨミ編」ラスト、宇宙空間から一気に地球に突入する二人のサイボーグの姿に涙した方も大勢おられると思います。

石ノ森を熱心に読んだのは、コマ割り、登場人物たちの動き、効果音の使い方など極めて映画的だったからです。「サイボーグ009」でも、彗星のように地球に落下してくる二人と、それを見つめる女性が描かれていますが、そのまま映画的興奮に満ちたラストシーンが出来上がるはずです、

さて、最近ちくま文庫から「佐武と市捕物控」シリーズが文庫化されて登場しました。江戸を舞台にした下っぴきの佐武と、あんまを営む盲目の市が、コンビを組んで殺人事件の解決に挑む、ミステリー短編集です。普通のミステリーなら、岡っ引き(今なら刑事)が主人公になるのですが、その配下にいる下っぴきが主人公になっているのが特徴的です。1966年「週刊少年サンデー」で連載開始、同年毎日放送をメインにしてTVアニメ化されました。

 

かっこいい音楽で始まるアニメで、斬新な実験映像も駆使した大人向けコミックに先ず虜になり、その勢いで原作コミックを読み出しました。宝島出版が出している「佐武と市捕物控」シリーズから、「闇の片脚」、「野ざらし」、「隅田川物語」の3冊(各950円絶版)を入荷しました。

何十年ぶりかの再読でしたが、卓越したセンスの良さにやはり魅了されました。俯瞰が多用されているのですが、中でも「入梅穴」の冒頭、雨が降っている俯瞰のコマが、映画のファーストシーンの如く、悲劇の始まりを予感させます。市の剣術さばきを見せるシーンでの、流れるようなアクション、江戸情緒いっぱいの町民たちの暮らしの点描等々、数え出したらキリがありません。

石ノ森には、前衛的作品「ジュン」(全4巻/各2100円絶版)があります。

実験的コミック作品を数多く掲載していた雑誌「COM」連載時から話題沸騰だった、まるで映像詩みたいな作品ですが、「佐武と市捕物控」シリーズにも、彼の新しい漫画表現を見ることができます。情感、哀愁、エロティシズム、様式美、迫力ある殺陣など、石ノ森コミックの代表作の一つですね。

蛇足ながら、三浦友和が佐武を、梅宮辰夫が市を演じたTVドラマもありましたが、もうトホホという出来具合だったことぐらいしか思い出せません。

 

 

中山陽「断層」(創思社出版/古書2000円)は、筑豊の炭鉱を生きた人たちを捉えた(発行は昭和五十三年)写真集です。写真家の筑豊への深い愛情、過酷な炭鉱労働に生きる男たちへの実直なリスペクト、そして彼らを支える女たち、子供達への暖かい眼差しが、ぎっしりと詰まっています。軽い気持ちでふ〜ん筑豊の写真集かぁ〜とヘラヘラしながら、函から出して本を開けた瞬間、脳天に蹴りを入れられました。

この写真家は、実はプロカメラマンではありません。昭和二年生まれ、本職は福岡の開業医さん。昭和三十年ぐらいから、写真を撮り始め、様々な作品展で入賞されました。

「黒なのか。白なのか、それとも灰色なのか、それはわからない。私の網膜には、ただそれらが混沌として入りまじり筑豊独特のずしりとした、そしてすこし澱んだ褐色のような乾いた色となって私の心にやきついている。 しかし、それは、決して、暗いものではなく、陰惨なものでもない。よく考えると、やはり懐かしいふるさとの匂いと、色なのだ。」

という、写真家の筑豊への思いの言葉通りの作品が並んでいます。最初に、炭鉱内で褌一丁でツルハシを打ちおろす男たちを捉えた作品がありました。不謹慎を承知で言わせてもらえば、「かっこいい」のです。まるで前衛的なダンスの舞台のワンカットみたいなのです。悲惨で危険な職場なのに、湧き上がるエネルギッシュで、ストイックなかっこよさは何だ!気合を入れなけらばならない時に、ご覧ください。

地底深い炭鉱を捉えたカメラは、地上に出てこの町に暮らす人々の日常の表情を優しく見つめていきます。楽な暮らしではないはずですが、子供たちは元気です。面白い作品がありました。町の一角にある映画ポスター。そこには、勝新太郎のアクション映画と西部劇、コメディー映画、そして何と「イージーライダー」の4作品を見つめる、上半身裸のおっちゃんと、遠巻きに見ている子供達が捉えられています。ハリウッドに反旗を翻した「イージーライダー」のポスターを何じゃこれは?という感じで見つめています。

石炭から石油へとエネルギー政策が大きく変わっていった頃から、炭鉱はその役目を終えていきます。後半は、廃坑となった炭鉱が撮影されています。人の暮らしの匂いのなくなった炭鉱の荒廃した雰囲気が切り取られています。

この写真に賛辞の文章を寄せている五木寛之は、「筑豊は日本の悲劇のシンボルではなく、近代日本の歴史の出発点なのである。中国やアジアの革命から東大安田講堂まで、全てにかかわり合いのある中心点なのだ。日本の百年史は、東京からでなく筑豊から書き出されなくてはならない。」と書いています。

今日の豊かな生活を可能にしたのは、暗い坑道で、劣悪な環境にもめげずに、石炭を掘り出してきた男たち、女たちの労働にあったことを忘れてはいけない、と再確認させてくれる写真集でした。

「11の書店に聞く、お店のはじめ方・つづけ方」とサブタイトルの付いた田中佳祐著、武田信弥構成による「街灯りとしての本屋」(雷鳥社/古書1200円)は、書店紹介の本に載っている有名店はあまりなく、どの店も新鮮でした。

「『「街灯りとしての本屋」』は、本屋の歴史を語るものでもなく、未来の姿を描くものでもありません。小さな個人書店が増えているいまの時代に生成しつつある、本屋に魅せられた人々の物語を紹介するものです。」

という趣旨に沿って、様々な形態の書店と店主が紹介されています。仲良しの近所の家にお邪魔するような感じの絵本屋さん、南阿蘇鉄道の駅の待合室にある週末のみ開店する書店、子育てをしながら、シェアアトリエで絵本を専門に販売する書店等々、個性的なお店ばかり。店主の写真も魅力的です。

保護猫が店内を闊歩するCat’sMelow Bookstoreも登場します。店主の安村さんが書かれた「夢の猫本屋ができるまで」はこのブログでも紹介しました。

書店を経営しながら、本の制作から流通、販売まで一人でこなしているH.A.Bookstoreを営む松井佑輔さんは、日頃から素敵なミニプレスを出されています。出版だけでなく、面白そうなものを見つけては、取引先に紹介して流通させる業務もこなしています。ブログで紹介した「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1」もここが卸元です。

「自分の住む街に本屋がなかったら、その人は一生本を買わないかもしれない。様々な本が並ぶ棚から、たった一冊の本と出会い、自分のお金で買うという体験を知らないままかもしれない。本屋に限らず、本棚があって本を売っている店が通学路にあれば、小学校六年間で一回くらい入るじゃないかな。そういう出会い、色々な本が一覧で見れて、それを買えるという状況がなくなったら、この世の本は死ぬと思っているんです。」松井さんの考える本屋の存在の意義です。ここに登場する店主たちの本への想いは様々です。しかし、本を死なせないために、それぞれ工夫しながら本屋を営んでいるのは間違いありません。

TAWARAMACHI BOOK STOREという新刊書店を経営する落合博店長は、小さくてもいいから、街の駄菓子屋みたいに個人のやっている本屋が街のあちこちにあったほうが街として面白いと語られていますが、その意見には賛成です。幸せなことに、レティシア書房の近辺には個性的な書店が数件あります。そんな書店を回遊したり、疲れたらカフェで一休みできるこの界隈は、素敵な街だと思います。

 

梨木香歩の初エッセイ集「やがて満ちてくる光の」(新潮社/800円)を、読み終わりました。職業作家としてデビューした頃から25年間、様々な雑誌に掲載されたものを中心に集められています。社会のこと、人間のこと、自然界のことなど作家のアンテナに引っ掛かったものが、彼女らしいきっちりした文章で書かれています。

2014年、オーストラリアで起こった人質事件について書かれた「英雄にならなくても」は、昨今の物騒な言動ばかり目立つ我が国の現状に切り込んだ内容なので、紹介いたします。この事件、犯人がイスラーム教に関係していた時期があった事から、ムスリム社会へのバッシングが危惧されていました。とある女性がツイッターにこんな書き込みをしました。

「私の横に座っていたムスリムと思われる女性が、(ムスリムとわかって敵意や攻撃を受けるのを避けるため)そっと彼女のヒジャーブを外した。駅に着いて、私は彼女を追いかけて言った『それ、着けたら?私、いっしょにに歩くから』彼女は泣き出し、私を抱きしめた 一分間ほど。」

その後多くのリツィートがあり、ささやかな善意の存在が知れ渡りました。

「この『いっしょにいるよ』運動は、何も過激派に対する過激な反対運動でも、ムスリムの人たちをずっとガードして回る、というような自分を徹底的に犠牲にして誰かのために尽くす、というヒロイックなものでもない。ただ、いっしょにいる『その場』で、彼女たち、彼たちに、私はあなたの敵ではないよ、そばにいるよ、といっているだけなのだ。」

反韓を助長する愚かなメディア、政治家どもが跋扈する今、英雄にならずともほんの少しの勇気で、出自や宗教の違いで辛い環境にいる人たちを救うことができる。梨木はこの文章をこんな風に締めくくっています。

「針の筵にいるような思いをしているひとが、目の前にいたら、そっと微笑みかけてあげる、そっと傍に立ってあげる、彼女たち、彼たちを疎外しない、孤立させない、それだけのこと。」

もう一つ紹介します。「きょうの仕事に向かう」というエッセイで、仕事に向かう姿勢を語っています。有機無農薬で畑をしている伊藤さんが、延々と夏の草刈りをやっていて、ふと始めた場所を見ると、すでに草が伸び始めている。「でも、黙々とやっていたら、いつかは終わる。仕事ってそんなものだと思うんですよ。」という言葉に感銘した彼女は、「自分のできることを、ただ黙々とやっていく。そうすれば、どんなつらい仕事も、いつかは終わる。呪文のようにこのことばを唱えて、今日も今日の仕事に向かう。」

確かな言葉が、響いてくるエッセイ集です。なお、この本、出たばかり新刊の古本ですが、表紙にシミがあります。だから、定価の半額ですが、中身は美本です!お早めに。