横118㎝、縦81㎝の木版画。長い髪の分け目から白いうなじがみえる。読書している女性の後ろ姿が、力強い刀の音がきこえてくるように彫られています。白黒で刷った上に、もう一版重ねて、微妙に重なる黒が奥行きになった、木版画としてはかなり大きな作品が、本屋の壁の中央に掲げられました。熱心に読んでいる人の背中をしっかり捉えたい、という熱量を感じました。なんかとっても瑞々しい!

奥の壁面には「柿」が一個ずつ描かれた木版画が8枚。固い柿から熟した柿の順で並べてあります。見ていると、8個の柿は、確かに触った感じがちがうだろうとわかります。同じ「柿」という素材の、しかしそれぞれ少しずつ違う質感を、木版画という手法で追求することは容易いことではないと思います。けれど、見てるとなんだかちょっとユーモラスでカワイイ。淡々としている作風なのに、あきらめない強さ、良い意味で頑固なところが素敵です

海外の個人美術館の螺旋階段と、古いアパートの階段を、上から見た作品は、形の面白さに魅かれて手掛けられたのですが、階段とは違うデザインにも見えたりします。今までの作品ファイルを見ると、毛糸で編んだ物、セーター、ソックス、てぶくろ、他にワンピースやTシャツなどの布ものなどが多く描かれていました。あたたかな手触りのあるものが好きなんですね。そこから、また階段などの建物の空間へ、新しい展開はこれからもまだまだ続いていきそうです。

山田真実さんは、今年京都芸大美術学部、版画専攻を卒業。初めての個展をレティシア書房で開いてくれました。現在、同大学では卒業展覧会の真っ最中です。実は、2016年2月、「とうかんかくでむがいなもの」という二人展をしていただいたことがありました。そこはかとない、透明感のある、不確しかで虚ろな、けれどよく見たら在るもの、という感じの作品がならんでいました。

もしかしたら、モノを囲む空気のようなもの、それが「物語のとなり」なのかもしれません。

伸び盛りの面白い木版画をどうぞお楽しみください。(女房)

山田真実木版画展『物語のとなり』は、2月18日(日)まで 月曜定休日

 12時〜20時(最終日は18時まで)   

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  レティシア書房 第5回「女子の古本市」2/21(水)〜3/4(日)

京都・大阪・兵庫・滋賀・岐阜・東京などから、出展者が女性という古本市です。お買い得の面白い本を見つけにお越しくださいませ。


 

アフリカのポップスって、お聴ききになったことありますか?

余程、ワールドミュージックに興味のある方以外、ご存知ないかもしれません。しかし、家事のお供に、寒い日の外出などにも最適な音楽です。ヒョイ、ヒョイとカラダが動きだすサウンドは、やはりアフリカ大陸ならではのもの。もちろん、深く歌詞を読み込んでいけば、大陸に充満する貧困、差別、社会不安のリアルさを読み取ることもできるのですが、それは少し置いておいて、今日は怠いなぁ〜、とか腰が重いなぁ〜という気分の時に、ちょっくら踊りながらでかけませんか、という音楽をご紹介します。

先ずはセネガルのトップスター、ユッスー・ンドゥール。アルバム「ガイド」(700円)はのジャケは、踊っているンドゥールの後ろ姿。「踊るアホウに見るアホウ」の阿波踊りみたいなもんですね。一曲目から快調です。ほら、腕が上がり、足も上がってきますヨ。料理の最中なら、フライパン叩きながら、フンフンと夕食準備です。しかし、踊れそうな曲ばかりではありません。「7セコンズ」、これ、哀愁の演歌です。ネネ・チエリーという女性シンガーとデュエットしてますが、五木ひろしと石川さゆりにタップリと歌っていただきたいみたいな曲です。

もう一人、ザイールから世界へ、そのサウンドを広げたパパ・ウェンバ「エモーション」(700円)。哀愁を帯びたパパ・ウェンバの声とダンスビートが相まって、独特の世界を作り出していきます。アメリカのダンス音楽とは一線を画す音楽は、誰もが気楽に聴けます。アフリカの大地が叩き出すビートって、こういう音楽ですね。ご近所迷惑にならないボリュームで、寒い朝、洗濯物を干す時に鳴らしてください。洗濯物の彼方に、キリンやアフリカゾウが見えるかもしれません。どちらのCDも、日本語訳歌詞カードが付いています。

音楽に興味を持たれたら、雑誌Coyoteの「アフリカの南」(Switch/古書700円)、或は写真集”SAHARA”(洋書/中古1500円)を。CDは試聴できますので、聴きながらこれらの本を眺めれば、さらにアフリカが近づくかもしれません。(店内でのダンスはご遠慮くださいませ)全く知らない国の音楽を聴く楽しみをぜひ味わって下さい。

 

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西村ツチカの「北極百貨店のコンシェルジュさん ①」(小学館/古書500円)は、来場するお客様がすべて動物という奇妙な百貨店で、個性的なお客の相手にする、新人コンシェルジュ秋乃さんの毎日を描いたコミックです。

問題を抱えたお客たちと秋乃さんの交流の物語で、優しいタッチで多くの動物たちが登場します。少女マンガらしい世界なのですが、オチが見事なのです。全5話収録されていますが、その主人公たちはすべて絶滅してしまった動物達です。

第一話「笑うお客様」に登場するフライフクロウは、こう書かれています。「フライフクロウ ニュージーランドに生息。体長40cm。高笑いのような鳴き声が特徴。1914年、サウスカンタベリーでの目撃記録を最後に絶滅。」

この百貨店にはVIPならぬVIAというランクのお客様がいます。VIA=Very Important Animal,即ち絶滅種の動物達なのです。

第二話は、1880年代に棲息地だった北米から姿を消したウミベミンク。第三話には日本オオカミが登場します。これ、オスのオオカミが慕うメスオオカミとの恋物語になっています。

「ニホンオオカミは古代から社に祀られる信仰の対象であり、多くの民話が残されている。くわしい生態は不明のまま1905年に絶滅。」

百貨店スタッフの協力で、VIA待遇の二匹、いやお二人はゴールインとなります。しかし、そんな情景をここに勤務する外商マンが吐き捨てるように、「ふん、よってたかって絶滅種の恋路に介入して、人工繁殖もかくやとばかりの造物主きどりですか。」と言い放ちます。

可愛らしいキャラが登場するコミックでありながら、人間が滅ぼしてしまった動物たちへのレクイエムを随所に散りばめた作品です。なお、このマンガは現在「ビッグコミック」に連載中です。

西村ツチカは、短篇集「西村ツチカ作品集 なかよし団の冒険」で文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞後、着実にファンを獲得している作家で、この本の帯には、松本大洋、恩田陸の人気作家が賛辞を書いています。

ニホンオオカミといえば、古代から社に祀られる信仰の対象であったニホンオオカミの、護符をめぐるノンフィクション「オオカミの護符」(小倉美恵子著 新潮社/古書900円)は、映画「オオカミの護符ー里びとと山びととのあわいに」のプロデューサーである本人が書いた、オオカミ信仰にまつわる傑作です。こちらもぜひどうぞ。

 

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穂村弘の書評と文庫解説を集めた「これから泳ぎにいきませんか」は、取り上げている作家が多岐に渡っています。

山岸凉子、倉橋由美子、内田百間、ひさうちみきお、酒井駒子、平松洋子、杉浦日向子、フジモトマサル、ヒグチユウコ、谷川俊太郎など、小説、エッセイ、漫画と多くのジャンルの作家が登場します。

書評集というと、選ばれた本のテーマの解説であったり、技巧の賞賛であったり、作風の変遷の解説であったりと、案外退屈な本が多いのですが、歌人として、作家として人気のある穂村の書評集は、読んで楽しい一冊です。

「海は、いつも予想以上に大きい。予想以上に大きいぞ、とあらかじめ心の準備をしていても、実際に目の当たりにすると。おお、大きい、と思わされてしまう」

さて、これはなんの本のことでしょう?山岸凉子「日出処の天子」です。なんで海の大きさハナシが出るんだ??と思って読み進めると、成る程なぁと納得させられます。

歌人だけあって、多くの歌集が紹介されています。めったに、歌集なんぞ読まない私には、どれも興味津々でした。

「シーラカンスの標本がある物理室いつも小さく耳鳴りがする」

小島なおの歌集「乱反射」の中の作品です。シーラカンスの標本が、何やら太古の香りを運んできて、それが耳鳴りになって聞こえる、とファンタジー風の妄想ができそうなんですが、穂村はこう解説しています。

「劇的なことはまったく描かれていない。<私>はただ学校の物理室にいるだけだ。しかし、ここには濃厚な『今』の味わいがある。ポイントは『いつも小さく耳鳴りがする』だ。埃っぽい物理室に入った時、確かにそんな感じがした。『この感覚わかる』と思う時、私もまた解凍された『今』を味わっているのだ」

そうか、そんな見方もあるんだと思いながら、パラパラと他の短歌評価をめくっていきました。

「これから泳ぎにいきませんか」というタイトルは、編集者の二階堂奥歯さんとの打合せの席上で、彼女から飛び出した言葉でした。でも私は、これは広い広い言葉の海に、一緒に泳ぎ出しませんかという穂村の気持ちなのではないか、と本を読み終えた時に、ふと感じました。様々な言葉にであってときめいてほしい、そんな著者の思いがあったのかな、と感じたのです。そしてそれは、素敵な本を提供しようと、がんばる本屋さんの思いに通じるのではないか、と。

絵本作家、長谷川集平の絵本「夏のおわり」が復刊ドットコム(古書1400円)から、再発売されました。傑作「トリゴロス」の次に続く、長谷川23歳の時の作品です。

戦争中、ゼロ戦に乗って、日本に飛来するB29爆撃機を何機も撃ち落としたと、自慢げに話すつよし君の父親。ゼロ戦とB29に分かれて、戦争ごっこに夢中になる子供たち。飛行機の翼よろしく両手を広げて、ブーン、ブーンと走り回り、機関銃のようにダッ、ダッ、ダッ、ダッ、ダッと相手を撃ち落とそうと遊びます。長谷川は、少年たちの無邪気な表情とすばしこい動きを描いていきます。それだけを見ていれば、子どもたちの夏の遊びの一場面にしか過ぎません。

しかし、遊びの終った子どもの一人が、B29になったつもりで走り回っていた少年に、こんなセリフを口にします。

「さとる きょう、ちょっとおかしいで。ひょっとして、つよしのおとうちゃんに 戦争の話 聞かされたんちがうか。あのおっさん いっつも あれやからな。あそこは 親子そろって 戦争きちがいやなあ、ほんま。 あんなやつ ほっとけ ほっとけ。へへへ。」

絵本の中で、戦争きちがいと呼ばれているつよしの父親が、お酒を飲むと陸軍の軍歌「戦友」を歌い出すとこころがあります。でも、ゼロ戦は海軍。これについて、作者長谷川の父親は旧陸軍少尉だったので、海軍の人間が陸軍の歌を歌うはずがないという指摘をしたそうです。それに対して、「この人は嘘ついているか、妄想にとらわてるんや。子どもたちはそれを見抜いて、戦争きちがい言うねん。」と、父親に答えたと、長谷川はあとがきで書いています。大体、ゼロ戦が、巨大なB29をバッタバッタと撃墜なんて出来ません。

さとるが、田んぼのあぜ道を「ダダッ ダダッ ダダッ」と、見えない敵に向かって銃撃するように走り抜けていきます。知らないうちに忍び込んでくる、美化された戦争そのものを撃破するような少年の姿。危ない輩が、巧みな嘘で耳元で囁くご時世ですが、私たちも「ダダッ ダダッ ダダッ」と追い払わなければなりません。

 

★町田尚子ファンの皆様。彼女が2007年に発表した「小さな犬」(白水社/古書・絶版1600円)の美本が入荷しました。もう、健気すぎる内容です。「ネコヅメの夜」の猫とはまた違った魅力で、泣けます!

★レティシア書房第5回「女子の古本市」2/21(水)〜3/4(日)

森まゆみは、昔、BSTVで放映していた読書番組でコメンテーターを務めていて、セレクトされる本が面白いものばかりでした。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の発行を続けながら、数多くの本を出しています。今回、ご紹介する「寺暮らし」(みすず書房/古書900円)は、ふと立ち寄った不動産屋で紹介された、お寺の境内にある賃貸物件に魅せられて、引越し、そこで暮す様を綴ったエッセイ集です。(このハードカバーは絶版)

寺の境内に住んでいるからこそ発見出来る事や、驚きを体験しながら、この”寺暮らし”の楽しさに引込まれていき、都会暮らしで忘れていたことに再び出会います。

例えば、雨の音です。

「たしかに雨の音にも霧雨小ぬか雨、篠つく雨からどしゃぶりまで、さまざまに変化があるのに気づいた。今まで何を聞いていたんだろう。子どものころ、世田谷の祖父の軒の深い家で、庭に面した縁側で大雨の日に昼寝した爽快さを思い出した。土に当たった雨が霧となって庭先からあおるように、私の体にふりかかっていたあの快楽を……..。」

お洒落な店も、高級食材も、隅々まで清潔、無菌状態に保たれた家も登場しません。ありあまるモノと情報から、少し距離を置いたところで、少々の不便もまぁいいか、といなしながら、本当に大事な暮らしの原点を見つめていきます。だから、日常生活の様々なシーンを描く向こうに、大量消費に踊らされる社会への不安とモノ至上主義の風潮が見えてきます。

映画「失楽園」を観て、こう批評しています。「荒唐無稽なのは不倫の末心中する男女が、ほんの束の間の逢瀬のためマンションを借り、大きなダブルベッドを入れてしまうことである」恋の暴走は致し方ないにしても、シティ風マンションに素敵なベッドはないだろう。これもモノ先行の世界への批判です。

蛇足ながら、この後に続く文章にひざを打ちました。

「身勝手に心中した彼らの後始末は誰がするのだろうか、不思議だった。『結合した遺体』も部屋もベッドも、裏切られた夫と妻がするしかないではないか。じつにハタ迷惑」

おっしゃる通り。こんな、そう、そうと笑えるところを探すのも本書の楽しみですね。

フィンランドの名監督アキ・カウリスマキの新作映画「希望のかなた」を観てきました。

いい映画です。初めてカウリスマキ作品をご覧になる方は、上映開始後、ゆっくりと呼吸してください。小津安二郎映画をリスペクトする彼の映画は、派手なカメラワークもなければ、起承転結がはっきりとする作品でもありません。実は扱っているテーマは極めて現代的なのに、淡々と、ゆっくりと進行します。先ずは、観る側も呼吸を整え、ふわりふわりと進む映画のリズムに同調させてください。

舞台は現代のフィンランド。多くの難民が戦火を逃れて不法入国し、難民申請をします。映画の主人公の青年もその一人。空爆で一家皆殺しに合い、たった一人の妹とも生き別れの状態で、この国に逃れてきます。難民として受けいれてもらおうと当局に申請するのですが却下され、強制撤去されそうになります。それを救ったのは、とあるレストランのオーナーと従業員。このレストラン自体は、やる気があるのか、ないのか、わからない状況なのですが、彼らは、この青年を救おうとするのです。

と、書くと感動のストーリーみたいですが、そうではありません。彼らも自分たちができることを、淡々と煙草ふかせながら、やっていくだけ。そうして、映画の中程で、ふと、ほんまにこいつらええ奴やなぁ〜、ええなぁ〜とほっこりしている自分に気づきます。レストランの連中だけでなく、知り合いの長距離トラックの運ちゃんなんかも、とんでもない事をして、青年を助けます。へへ、朝飯前よ、と煙草を一服する辺りで、正義漢ぶらないし、全く大げさでないし、いいなぁ〜こんな連中、と拍手したくなってきます。

増加する一方の難民問題をテーマにすると、どう取り組んでも暗く、辛い内容になりがちです。それを、こんなコメディーセンス溢れるやり方で撮るなんて、やはりカウリスマキは才人ですね。困っている人を助ける、その大切なことだけをゴチャゴチャ言わずに作り上げた映画です。

そして、もう一つ。出て来るフィンランドのミュージシャンがカッコいい。トム・ウエイツばりの酔いどれ詩人風のTuomari Nurmioの「音楽か死か」という曲は、最高にいかしたブルースロックでした。

 

和田誠は1959年から68年までの9年間、デザイン会社ライト・パブリシティに勤務していました。タウン誌の老舗「銀座百点」編集長から「和田さんがライト・パブリシティに務めていた60年代は、銀座がとても面白かった時期です。そこで、銀座の思い出を書いてくれませんか」と依頼を受け、執筆を開始。二年に渡った連載を一冊にまとめたのが「銀座界隈ドキドキの日々」(文藝春秋/古書1050円)です。

1959年、和田は23歳。広告デザイン会社の草分け的存在だったライト・パブリシティに入社します。ここで様々なデザインの仕事を通して、現在の和田誠ワールドを形成してゆくのですが、おどろくべきは、この会社在籍時代に作った交友関係です。業界内のお付き合いもさることながら、それ以外のところで、どんどんと広がっていきます。

例えば、ジャズが好きだった和田は、京都でのジャズコンサートの企画をやります。その時、司会を落語家にという案が持ち上がり、この企画にからんでいた作家の都筑道夫が一人の若手落語家を紹介します。それが柳家小えん。京都でのコンサートで、彼はソツのない司会をこなし、和田と大いに飲み語り、それから一年。和田のもとに彼から真打披露の案内状がきます。立川談志です。

61年、篠山紀信がライト・パブリシティに入社してきます。優れた写真テクニックを持っていたものの、超生意気な青年で、フツーはカメラマン助手からスタートするのに、オレはいやだ、最初から一本立ちすると主張して、社内でも軋轢を生んでいました。和田は、そんな彼と飲み、彼のユーモア抜群のセンスを気に入り、親交を深めて生涯の友となります。

ところで、方々で衝突する篠山のようなオトコを入社させたのは「お主、やるな」という篠山の気合いに惚れた会社の判断だったとか。今ならあり得ない採用ですね。

こんな風に、和田は多くの、才能溢れる人物たちとの知遇を得て、社内、社外で様々な仕事を引き受けていきます。彼がぐんぐん伸びてゆく様、青春時代を読むことができます。

こんなこともあったそうです。

ジャズピアニストであり作曲家、アレンジャーとしても活躍していた友人の八木 正生の家に行った時のこと。そこに高倉健がいました。しかも八木のピアノを伴奏にして歌をうたっていました。曲は「網走番外地」。八木はこの映画の音楽担当であり、主題歌のレコーディングのために、八木の家で練習していたところに、和田は遭遇したのです。

日本を代表するイラストレーターの、輝かしい若き日の軌跡をたどりながら、60年代の様々なカルチャーシーンの断片を浮き上がらせる本でもあります。

頭木弘樹編の「絶望図書館」(ちくま文庫/古書650円)は、実にユニークな短編小説の編集ものです。先ず、ページを開けると「絶望図書館ご利用案内」」があります。曰く、

「この図書館は『絶望的な物語』を集めてあるわけではありません。『絶望から立ち直るための物語』を集めているわけでもありません。絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、その長い「絶望の期間』をいかにして過ごすか?」

そういう状況の時に訪れて欲しい図書館という事なのだとか。三つの閲覧室が設置されていて、それぞれの絶望の状況にお薦めの作品が並んでいます。

第一閲覧室「人がこわい」の中で「人に受け入れてもらえない絶望に」という場合、三田村信行作、佐々木マキ絵の「おとうさんがいっぱい」が挙げられています。第二閲覧室「運命が受け入れられない」の「人生の選択肢が限られているという絶望」には、安部公房の「鞄」が、第三閲覧室「家族に耐えられない」の中の「居場所がどこにもないという絶望」には、手塚治虫「ブラックジャック」が、それぞれ用意されています。

これ、人生にいき詰まった時にどうするか、というよくあるノウハウ本でありませんし、従って解決にはなりません。様々な絶望的状況に陥った時、この物語はよく理解できるよね、というものを集めたものです。例えば、「起きてほしくないことが起きるのを止められない絶望に」という状況には、ウィリアム・アイリッシュの「瞳の奥の殺人」が用意されています。

身体の不自由な老婦人の目前で行われる、息子の嫁による殺人事件を扱ったサスペンスです。確かに、身体も動かせない、しゃべることもできないというハンディがあるのに、殺人を止めるのはほぼ不可能でしょう。でも、ここでこれだけは起こって欲しくない時に、それが起こるってことあります。

李清俊(イ・チョンジュン)の「虫の話」は、「恨みが晴らしようのない絶望に」陥った時にどうぞ、という一冊ですが、いやこれは、宗教と人間を扱った小説としてとても良くできています。息子を殺された母親を描いた本作品を、選んだ編者のセンスに拍手です。

さすがと唸ったのが、「離れても離れられない家族の絶望に」で推挙された、川端康成のわずか数ページの短編「心中」です。ぞっとする美しさに満ちあふれた作品で、ショートショートの才人、星新一が「これだけは書けない」と絶賛したという小品です。

と、まぁ様々な絶望が想定されていますが、おぉ〜こういう時にこれか、上手いなぁ〜、とムフフと頷きながらお読みいただくのがベストです。

因みに第一閲覧室の前に、こんな言葉が掲げてありました。

「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」

太宰治の言葉です。

 

文月悠光という詩人をご存知ですか。高校3年の時に出した第1詩集「適切な世界の適切ならざる私」で、中原中也賞を18受賞した若き詩人です。彼女が書いた初のエッセイが「洗礼ダイアリー」(ポプラ社/古書1200円)です。

「2014年の春、大学を卒業したものの、就職はせず、詩人という名の無職になった。」

しかし、生活はしていかねばならない。生まれて初めてのアルバイト。上手くいかないことだらけで、周囲との違和感に悩みます。

「筆一本で食べていくのは無謀だと誰もがいう。書くことなんて労働じゃない、と言う人もいる。でも、何が現実的な選択なのか、それは私自身にしかわからないのでは?」

アルバイトを辞め、自らの道を歩き出します。詩人としてライブイベントに参加した時、初対面の男性から、「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。セックスしてる?」と、言われ、呆気にとられます。セクハラ発言を軽くあしらうことができず、あたふたしつつも、世のセクハラに真っ向から立ち向かい、臆病な女子を演じることなく、こう言いきります。

「堂々と言おう。恋人がいなくても、セックスしなくても、詩は書ける。どんなときでも、飛びきり良い詩を提供できる。今の私には、それが一番まっとうな現実なのだ」

生きづらいこの世界で、抗いながらも、自分のあるべき姿を見つけていきます。

本の最後に、祖母との別れが語られます。彼女が小さい時、急に同居することになった祖母が、老いて、痴呆が進行し、家の中が崩れてゆくのを間近で見ます。そして天国へと旅立ったあと、彼女はこう思います。

「肉親と間近に向き合えば、必ず『ゆるせない』という憎しみの念と、『大事にしなければ』という相反する思いのあいだで引き裂かれる。私は自分の詩の中で、祖母との再会を夢見た。『悪い孫』だった自分、祖母が背負った『老い』の問題、空気のような家族のこと……..。人が生きて死ぬということは、こんなにも大変で途方もないことか。」

詩作で、そんな思いが解放されるわけではないけれど、祖母との重く、深い記憶をたぐりよせながら、

「人は一人で生きられない。一人で生きさせてもらえない。周りの手を煩わせ、周りに絶えず煩わされる。そのことを苦痛にも歓びにも感じながら、人々は悠々と生きるのだ」と、書いて本は終ります。

等身大で現実を見つめ、生きることを詩に託した若い女性のドキュメントです。