絵本作家、堀川理万子の新作「海のアトリエ」(偕成社/新刊1540円)は、うだるような暑い今、涼しい部屋で読んでほしいと思う一冊です。

「わたしは、おばあちゃんの部屋が好き、なんだか、いごこちがいいんだ。」と、いつもおばあちゃんの部屋に入り浸っている「わたし」。部屋の壁に「ぱっちりひらいた目が、まっすぐこっちを向いている女の子」の絵が飾ってありました。

だれこの子?

実は、「わたし」と同じくらいの時のおばあちゃんでした。

「その絵を描いてくれた人のこと、話してあげようか」

おばあちゃんの、ちょっぴり辛く、そして楽しく、懐かしい時代の物語が始まります。おばあちゃんは、かつては登校拒否の子供だったのです。そんな彼女を見かねた、海のそばに住んでいる絵描きさんが、一人で遊びにおいでと誘ってくれました。絵描きさんはお母さんの友達でした。

海の見えるアトリエで、ゆっくりした時間が流れていきます。手作りの晩御飯を食べた後は、読書タイム。このワンカットが素敵です。あぁ、こんな場所で本を読んでみたいと思いました。

それから、絵描きさんと二人だけの暮らしが始まります。「朝の浜辺は、とても静かだった」というダイアローグ通り、静かで美しい浜辺が広がり、パチャパチャと泳ぐ音だけが聞こえて来そうです。

それから彼女は、絵描きさんと一緒に絵を描き始めます。自由に心のままに絵を描いたり、近くの美術館に連れて行ってもらったり、お料理を作ったりと楽しい日は流れていきます。最後の日、二人は浜辺で沖を眺めました。このシーン、本当に海の風を感じる素敵な場面です。

おばあちゃんのお話は終わりました。そんな絵描きさんに会ってみたかったな、という「わたし」におばあちゃんはこう言います。

「そうね、でも、あなたはこれから、あなたのだいじな人にであうのよ。このことをずっとおぼえていたいって。そんな日が、きっとあなたをまっているわ」

著者は、子供の頃、近所の女性画家から絵を習っていました。画家は一人アトリエで暮らしていたそうです。

「わたしにとってはじめての、子どもを子どもあつかいしない『おとな』でした」とあとがきで書かれています。

浜辺の香り、涼しい風、そして静かに過ぎ行く時間が、程よくブレンドされた傑作絵本です。

蛇足ながら、6月に東京の書店「title」で原画展やってたみたいです。行きたかったなあ…..。

京都の一人出版社「灯光舎」が寺田寅彦、中谷宇吉郎の「どんぐり」に続いて「本のともしび」シリーズ第二弾として発売したのが、田畑修一郎「石ころ路」(1870円)です。

田畑修一郎ってどういう人ですか? 私も注文する時に尋ねたのですが、あんまりというか、ほとんど知られていない作家です。1903年島根県に生まれ、早稲田大学文学部に入学するも、中退します。1933年「鳥羽家の子供」を発表し、芥川賞の候補になりその後の活躍が期待されましたが、43年盛岡市で取材中に体調を壊し、心臓麻痺で亡くなります。享年41歳でした。

私小説系の作家になるのであんまり好きになれないジャンルの人だなぁ〜と思いつつ読み始めましたが、最初に収録されている「木椅子の上で」の出だしが良いのです。

「私は今日もその場所へやって来た。夏になってから、暑い日盛りを私はここで半日か時にはまる一日過ごすのが日課のようになっていた。

そこは公園のはずれにある廣い雑木林で、その中を舗装道路が走っているのだが、たったそれだけのことで路のこちら側へは一日中殆ど誰もやって来ないのであった。所々に赤松だの杉だのがずば抜けて高く立っている、その下方はいたる所地面から溢れ出たような灌木や雑草の茂みで、その上には絶えず葉洩れ陽が斑らにきらきらしていた。私が勝手に自分の場所にきめたのは大きな杉の木の根元で、そこには地面に足を打ちこんだ造りつけの長い木椅子があった。私は時には子供を連れて、時には一人で、公園のプールで泳いだ後をこの木椅子に寝ころんで、午睡をしたりぽかんと枝の間から透いて見える夏至の輝きを眺めたりするのである。」

情景が映画を見ているように立ち上がってくる、こんな文章で始まります。この公園のベンチで寝ころぶことが仕事?となっている私のお話です。つげ義春の漫画の主人公のように無為な人物です。物語らしいことは、何も起きません。しかし、人生の虚しさ、孤独が文章の奥から漂って来て、そのあたりが昔のフランス映画っぽい感じです。

本書には三作品収録されています。最後の作品「あの路この路」は、人生の幸せ度0、悲惨度100の作品です。そんな小説、何が面白いの?と思われるかもしれません。

「葬式を出すと、お牧はがっくりとなった。借銭続きでもはや店も仕舞うと、身體の調子が悪いので、一時しのぎの裏町の、これもお牧に劣らず無一物の子供だけはうようよしている家の一間を借りたが、そこに入るなり寝ついてしまった。誰も介抱するものはいなかった。」

希望なんてどこにもない世界ですが、読んでいるとなぜか”心地よくなってくる”のです。それは作家の力、文章の力に依るのではないでしょうか。悲惨であればあるほど、その世界に絡め止められてしまう。文学の魅力かもしれません。

 

 

 

先週、爺さん主演のスパイ映画「83歳のやさしいスパイ」をご紹介しましたが、今回は過激な婆さん4人が暴れまくる?映画をご紹介します。

シルヴァン・ショメ監督の長編アニメ映画「ベルヴイル・ランデブー」です。2003年のカンヌ映画祭に出品され、高い評価を得て、その後、世界各国の映画祭で数々の賞を受賞しました。

おばあちゃんと暮らす孤独な少年シャンピオンは、買ってもらった自転車に大喜び。そこで一念発起したしたおばあちゃんは、世界最高の自転車レース、ツール・ド・フランスに向けて孫の特訓を開始します。デフォルメされた練習シーンが楽しい!

その甲斐あって、なんと彼は出場を果たします。しかし、レース途中でマフィアに誘拐されてしまうのです。孫を奪還するため、愛犬ブルーノと共に追跡の途中、知り合った三つ子のミュージシャンの老婆が、助っ人となって参加。巨大都市ベルヴイルで、マフィアと立ち向かい、とんでもないカーチェイスを展開するという物語です。

今や、CGが主流となったアニメ映画ですが、監督は3D技術を駆使しつつも手描きにこだわり、不思議な雰囲気を持つベルヴイルの都市空間を生み出します。その中でアンバランスな体形で奇妙な動作をする人物が、観る者を驚かせ、存分に楽しませてくれます。

この映画、ほとんどサイレント映画のようで登場人物はほとんど喋りません。目の動き、動作ですべてを表現していきます。チャップリンなどのサイレント映画へのオマージュに満ちています。ラストの大追跡も、まさにサイレント時代の活劇の雰囲気です。

で、何が凄いって言って、おばあちゃんと3人のミュージシャンたち婆さんの行動力です。ミュージシャンたちが料理をつくるシーンでは、手榴弾を川に投げ込み、そこにいるカエルを殺して、シチューにしてしまいます。

また、彼女たちがステージで演奏するシーンが実に楽しいのです。ステージに楽器はなく、冷蔵庫をピアノ代わりに、新聞紙をクシャクシャにする音をドラム代わりに、掃除機をベース代わりにするのです。そこに加わるおばあちゃんは、自転車の車輪をヴィブラホン代わりに。こんなライブがあれば、見てみたい!

そしてラスト、ポスターにあるように、おばあちゃんとマフィアの対決です。もちろん、彼女は武器なんて持ってません。え?どうなるの?? 大丈夫!拍手喝采(実際劇場内で拍手が起きました)の結末が待っています。

「極めて個性的な長編アニメーションの傑作。そのあまりに突き放した人間の描き方に驚き呆れ、笑いながら超一流の表現を楽しんでいるうちに、黙々と行動するおばあちゃんのけなげさが、ワン公のトラウマが、シャンピオンの哀れさが、要するに人生のほろニガさが、側々と伝わってくる」とは高畑勲のコメントです。さすがにうまいこと言いますね。

元気の出る映画ですよ!

 

 

現在店内で展開中の「ミシマ社フェア」の本命商品、安田登「三流のすすめ」(1760円)を会期中に読むことができました。

「本書がめざす人物像は『三流の人』です。三流の人になりましょう!というのが本書の主張です。」ただし、「一流」はもちろん素晴らしいし、目指すことは価値があり、それを否定してはいるわけではありません。

では、著者のいう「三流の人」とは何か?

三流人の理論と実践を、古今東西の古典などから解説していきますが、のっけから、こんな文章にぶつかります。

「いいですか。ここのところをよく覚えておいてください。三流をめざすと、なにもものになりませんせんし、ほとんどのことは役に立ちません。」

おいおい、そんな本を読むのか、と思われるかもしれませんが、コロナでこれまでの社会のあり方や生き方、働き方を木っ端微塵にされた今、これからのあるべき姿は、一流を目指すのではなく、「三流の人」なのです。

三流の人をめざすためには、「ほめられようとしない」「そしられても気にしない」というのは大事だと書かれています。会社にいる間は、昇進を重ね仕事ぶりを認められていた男性が、退職後、地域の活動やデイケアで浮いてしまうことが多々あります。

「会社の中でほめられたり、おだてられたりする機会が多かったのでしょう。会社をやめた後でもそれを期待してしまう。そうするとこういう人になってしまいます。ですから、ある年齢になったら『もう自分はほめられることはのぞまないようにしよう』と決める。かりにほめる人がいても『本心は違うんだ』と思うようにする。」

さて、本書の肝は、第四章以降にあります。四章は「三流の聖典『論語』」です。

「『論語』が三流だなんて言うと怒る人もいると思うのですが、じつは孔子こそ三流人の代表です」と著者は断言しています。ここから、「論語」やその他の中国の古典がどんどん登場してきます。

なんか、難しそう? いえいえ、そんなことは全くありません。漢字大嫌いの私が納得できたのですから、著者の教え方が巧いと言うことですね。

読み終わるのに時間がかかったのは、四章以降をゆっくりと、着実に読んだからかもしれません。

無理やり盛り上げようとキャンキャン騒ぐキャスターのTVオリンピック報道なんぞ消して(しつこく言ってますが)、中国古典の世界に入り込んでください。ミシマ社三島邦弘社長の本展挨拶文に書かれた「あら、三流って楽しいかもね」という言葉に実感が持てますよ。

 

サイエンスライターの渡辺政隆著「科学で大切なことは本と映画で学んだ」(みすず書房/古書1800円)は、新しい科学理論を生み出した科学者、その理論についての基本的な解説書なのですが、ほうぼうに話が脱線してゆくので、全く肩の凝らない読み物です。

先生は、なんせ「映画と本」ですから、ハメット、ブォネガット、ショーン・コネリー、「アナ雪」に「時をかける少女」「ガケの上のポニョ」、そして「ひょっこりひょうたん島」が登場します。もちろん、本筋のダーウィン、グールド、ドーキンス、寺田寅彦、中谷宇吉郎は、バッチリです。

「私の名前はボンド。ジェームズ・ボンド。職業は鳥類学者。1900年、フィラデルフィア生まれだが、イギリスに移住してケンブリッジ大学を卒業した。その後再びアメリカに戻り、いったんは銀行勤めをしたのだが、子どもの頃からの鳥好き、蝶好きの情熱抑えがたく、フィラデルフィア自然科学アカデミーの研究員に転じた。」

これは007映画の宣伝文句ではありません。このジェームズ・ボンドは、バードウォッチャーの間では有名な「フィールドガイド西インド諸島の鳥」(1936年)の著者です。

「007」生みの親、イアン・フレミングが勝手に主人公にジェームズ・ボンドという名前を使ってしまったのです。しかも1958年に出版された第6作「007ドクター・ノオ」ではボンドは鳥類学者となって、ジャマイカに潜入するという設定なのですからややこしい。

こういう小ネタからお話が始まるので、へぇ、そうだったんだと親しみを感じながら読み進めることができます。蛇足ながら、映画版「007ドクター・ノオ」のショーン・コネリーは鳥類学者という設定ではなかった気がします。鳥の羽より、女性ばかり追っていたはず。

数学者の岡潔(当店でもロングセラー)についても、著者は面白い話をしてくれます。1961年松竹映画「好人好日」は、偏屈だが人のいい数学者の物語で、演じるは笠智衆。この映画のモデルになったのがどうも岡潔らしい。彼は多くの奇行のある人物で、在野の研究者として長い間数学の研究に打ち込み、国外で高い評価を受け文化勲章をもらいます。

「一躍時の人になった岡をいっそう有名にしたのが、犬の散歩中の途中、長靴を履いて空中に飛び上がった写真だった。

あるいは、数学は情緒の表現であり、情操教育を怠ると国が亡びるなどの発言で注目を浴び、毎日新聞に連載して1963年に出版した随筆集『春宵十話』により、教育や文化に一言家をもつ文化人としても知られるようになった。」

門外漢には彼の数学上の業績についてさっぱりわからないが、そんな岡の奇行伝説と映画が、数学者像を定着させたのではないか、と著者は言います。

後半の「進化の話」で、「進化論」のダーウィンや、「利己的な遺伝子」でお馴染みのドーキンスが登場しますが、ここは熟読したいところ。

本書で紹介された本については、各章ごとに出版社、発行年が記載されていますので検索がしやすくなっています。

 

 

徐嘉澤(ジョカタク)の本邦初訳長編小説「次の夜明けに」(書肆侃々房/新刊2090円)を読みました。1977年生まれの若手作家ですが、いやぁ、上手い!

物語は、1947年、政治的混乱と騒乱で揺れ動く台湾から始まります。急進的民主化運動に走る新聞記者の夫とその妻春蘭(チュンラン)。しかしある日、夫は勤務先から戻ってから、一言も口をきかず、仕事もしなくなります。一体何があったのか?

この夫婦には二人の息子がいます。平和(ピンホー)と起儀(チーイー)です。弁護士と新聞記者になり、母国の民主化、差別のない社会を目指して奮闘しています。起儀の子供で、現代を生きる晢浩(ジョーハオ)は、父親のように過去の母国の歴史にも、政治にも関心はありません。彼はゲイでした。そこで家族との軋轢が起こります。物語は三代にわたる家族の確執と、再生を描いていくのです。

1945年の日本の敗戦後、台湾は中国本土からやってきた中国国民党の政治家と軍人たちによって管理維持されていきます。しかし、彼らの凄まじい汚職や犯罪行為で国内は混乱を深めていきます。その渦中で春蘭の夫は、ある日を境にまるで自分の人生を放り投げたような、死に体みたいな暮らしをなぜ始めたのか?それは、物語後半で判明するのですが、一家に暗い影を落として行きます。(これは辛い)

台湾を舞台に、蒋介石による民国創成期、戒厳令下での民主活動期、そしてセクシャリティーの問題で縛られる現代、それぞれの時代に生きる人物に託して描いていきます。バラバラになった家族が、確執を乗り越えて、再生してゆくその向こうに、著者は今の台湾の姿を見つめていると思います。こういう大河小説は、多くの人物や事件が交錯するので、状況を見失うことが多々ありますが、徐嘉澤は、短編小説のように短い章で構成して、それぞれの登場人物の人生をテンポよく描いていくので読みやすい。テーマは「愛」。直球ど真ん中。これ、TVドラマにしたら凄く面白いと思います。

「もし僕らが台湾の過去の歴史を理解しようとしないなら、どうやって今の平穏な暮らしの大切さを自分の子どもの世代に伝えればいいんだ。過去を理解しようとしないのは、根元がぐらぐらした植物のようじゃないか。どんなに背が高く立派に育っても、やっぱり浮ついたままで足元もおぼつかない。みんなこの土地に生きているんだ。その歴史は今の僕らとは直接は関係ないかもしれない。でも、原因と結果を理解すれば、いまの政治的状況がどうしてこんなふうに変わっていったのかがわかるんだよ。」今の日本に(私自身も含めて)最も欠如していることだなぁ、と思いました。

オリンピック一色のTVを消して、気骨のある、そして物語を読む醍醐味を教えてくれるこういう小説を読む時間を持とう!

最近の台湾の本は、刺激的でスリリング!今後も読んでいきたいと思っています。

 

 

とある老人ホームで行われている虐待、窃盗の証拠を探すために、一人のスパイがその老人ホームに送り込まれました。スパイの御年83歳。多分、映画に登場した最高齢のスパイでしょう。「京都シネマ」にて上映中のチリ映画「83歳のやさしいスパイ」は、探偵事務所の募集に応募して合格したセルヒオが、ホームに潜入し、携帯電話の使い方も不慣れなのに、眼鏡型の隠しカメラなんかも使ったりして、大真面目に仕事をしていきます。

驚いたことに、これ、ドラマではなくドキュメンタリーなんです。つまり、探偵事務所に雇われた素人のおじいさんが潜入する、その様子をカメラに収めているのです。ホーム側には、もちろんあらかじめ記録映画を撮りますという了解を取っているとは思いますが、果たして入居者のご老人たちは、どこまで理解していたのでしょうね。

とにかくセルヒオは、このホームの入居者たちと暮らし始めるのですが、映画は、彼が老婦人たちと仲良くなってゆく様子を、様々な角度から撮影してゆきます。妻を亡くして間もないセルヒオは、とても優しい人で、ユーモアがあり、知性も兼ね備えているので、女性たちにモテます。

まるでハートウォーミングなドラマを観ているようで、上手い作り方です。監督はマイテ・アルベルディという若い女性。長編ドキュメンタリー作品で評価の高い監督みたいです。

入居者の笑顔、寂しげな表情、遠くを見つめる虚ろな横顔などを収めながら、一方でセルヒオという老人の人間性に迫っていきます。黒柳徹子が「老人ホームの映画の多い中で、ユニークさは、特別!」というコメントを寄せています。

映画館では、後部の座席に女房と並んで座ったのですが、前方を見ると、髪の毛の白い方ばかりがズラリ。そちらの景色もなかなか壮観でした。

 

東京の本屋さんTitleの店主、辻山良雄さんのとても素敵な本、それが「小さな声、光る棚」(幻冬舎/新刊1760円)です。本書は幻冬舎のwebsite「幻冬舎plus」に連載された「本屋の時間」からセレクトされたエッセイ集です。

「まともに思えることだけやれば良い。

それは個人経営のよいところであり、その店が長く続いていくための秘訣でもある。

仕事量は増え、肉体的には勤めていたときよりもきつくなったが、それでも続けていられるのは、その小さな自由がわたしには合っていたのだろう。」

これは、名言ですね。私が大型書店に勤めていた頃は、会社の利益のためにまともじゃないこと、例えば置きたくもないヘイト本を販売せざるを得なかった経験もありました。でも、「小さな自由」を獲得した今は、書店員として、人として「まともに思えることだけやる」権利を持つことができました。

本屋として、あぁ、この気持ち一緒だな、と思った文章にも出会いました。店主のお知り合いで、いつも忙しくしている方が、店で買った本を撫ぜながら、本はいいなぁと日頃の忙しさを忘れたように呟きました。併設されているカフェでコーヒーを飲んだ後に出てきたその人の表情には少し正気が戻っていたように店主は感じました。そして、店主はこう思います。

「本屋が自分を取り戻すために役に立つのであれば、その人には気の済むまでゆっくりと過ごしてほしい。」

帰り際に「いい時間を過ごしました」と言われたことが、何度か当店でもありました。それを聞いた瞬間、店をやっていて一番幸せを感じる時なのです。

本書では、コロナで休業を余儀なくされ、その後、幾度かの緊急事態宣言下での営業についても語られています。

「社会はまた走り出そうとしている。そのことにわたしは違和感がある。いまはすこし仕事をスローにしても、もっと深く本のことを知りたい。何をのんきにやってるんだといわれようとも、自分の速さで歩きながら考える。

そうした根っこがないと、それはわたしの仕事であるとはいえない」

「自分の速さで歩きながら考える。」とても大事なことだと思います。

一昨年辻山さんにお会いした折、オリンピック期間中は閉店して、喧騒の東京から逃げるとおっしゃていた辻山さん。結局一年延びて、その計画は実行されませんでしたが、ひょっとして明日からそうされるのかな…….。

当店はせめて、オリンピッ最終日までしつこくミシマ社の本を勧めるフェアを展開して、テレビ観戦より読書!と、いい続けてみます。

辻山さんの本は「ことばの生まれる景色」(ナナロク社/古書1850円)も置いています。こちらも本当にいい本です。

 

本日より、安田登著「三流のすすめ」発売記念「ミシマ社フェア」が始まりました。2018年に、ミシマ社のフェアを初めて開催した時同様、今回もギャラリーの壁一面、平台も全部を使い、スタッフ五人が数時間かかって製作してくれました。ご苦労様でした。

安田登氏は能楽師ですが、能楽以外にも多くのジャンルに足を突っ込みながら、面白い著作を連発しています。今回のテーマは「三流」。ご丁寧にミシマ社三島社長が、自らも三流出版社と名乗りをあげる挨拶文を掲げてくださいました。

「三流」とは何か?は、ぜひこの本を読んでいただきたいのですが、店内に「三流人の特徴」が貼ってあります。項目は以下の通りです。

「・飽きっぽい ・ものにならない ・役に立たない ・評価をされない ・求めない ・短絡的 ・究めない」

私などは、見事に合格です。あ、私もそうかもと思われたら、ぜひ一度遊びに来てください。

「ミシマ社のここが三流」と題して具体的事例が写真と共に説明されています。曰く、「オンライン配信をすぐに事業化しちゃう」し、「いろんなジャンルに手を出しちゃう」し、「場所関係なくどこでも本を売っちゃう」し、「シリーズ物が動かず……」だし、「本作り以外のことにも手を出しちゃう」し、「本じゃないものも作っちゃう」など。でも、だからこそ、近年、とても内容のある素敵な本を世に送ることが可能だったということですね。常に楽しく、自由に本を作っている出版社の雰囲気が展示からも伝わってきます。そんな同社が誇る傑作が、所狭しと並んでいます。

そして、「京都書店MAP」の最新バージョンがお目見えです。全て手作りの京都市内地図に、点在する書店を描きこまれた地図は、もう「作品」と言ってしまいましょう。まだ、見たことのない方は、この機会に是非にも見てきてください!

このMAPには、ミシマ社とおつきあいのある京都の書店が「ミシマ社とは?」という問いに対するコメントを寄せています。

「新しい考え方、生き方を提供する柔軟思考の出版社」これは、私のコメントです。本当に、硬直した頭や心を解きほぐすのに最適の本が揃っています。

メッキのハゲたオリンピックなんか観ないで、この夏はミシマ社の本を読みましょう。本企画は、オリンピック終了の8月8日(日)まで、しつこくやってます。

 

私は積極的に詩を読む方ではありませんが、天野忠だけは読んできました。京都出身で、職を転々としながら詩を書き、1935年に同人誌「リアル」を創刊。戦後は出版社勤務、古書店経営などを経て、大学図書館に勤めながら、詩人として活躍しました。93年、京都の自宅において多臓器不全のため84歳で亡くなりました。

彼の詩集は、なかなか見つけるのが難しいのが現状です。傑作の「私有地」(81年)、「夫婦の肖像」(83年)など、めったにお目にかかりません。(当店でも入荷したのは一度きりです)

そんな中、「夫婦の肖像」と同年に出版された「古い動物」(れんが書房/古書3800円)を入荷しました。この詩人が使う言葉は平易です。「買物」という作品をご紹介します。

「スーパーへ 夫婦で行く。 お一人さま一本限りの 特価売出しの醤油二本 じいさんが持たされる、男だから。帰り道の 煙草自動販売機の前で チャリン、チャリンと硬貨二枚 ばあさんに入れてもらう、駄賃代わりに。 煙草のとなりの 小さな自動販売機にも 洒落た小箱が一つだけ ポツンと大事そうにおさまっている。

ーこれも煙草?ばあさんがきく

ーうん、いや、眠たい声でじいさんが云う。

ー煙草みたいなもんだが………

だんだん壜が重たくなってくる。

一本ずつにして だまって歩く」

情景が目に浮かんできますね。ペーソスとユーモアが程よくブレンドされた作品だと思います。この詩集には、じいさん、ばあさんが主人公として登場するものが沢山あります。

「出てきて 戸を締めながら ふうーっと 溜息をついてるんだ 厠の前で。 つれ添うて 四十年…….

この夏は めっぽう 長いねえ ばあさんや。」

これは「夏」という作品ですが、なんか、じいさん、ばあさんのたわいの無い会話が詩として成立しているんです。詩というと、難しい言葉の羅列で、なんだかイメージが湧かないままに、もういいやと本を閉じてしまうケースが多いのですが、天野作品は、初めて読んだ時からすっと入ってきました。

2018年の当ブログでも、彼の本を紹介しています。そこで、「京都言葉の巧みな扱いで、人生の機微をヒョイと描くところに良さがあるのだと思います。」と書きました。この年、当店で開催した古本市に出品されていた本でしたが、この時には、天野の詩集が2冊も出ていたんです! 今なら、あり得ない。

 

 

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