6月28日のブログで、マイケル・D・ヴィットの絵本「レッドタートル」の事を書きましたが、スタジオジブリで映画化されたDVDを購入してやっと見ることができました。全編、台詞、音楽なしの実験的なつくり方で、心に残る良い作品でした。

海で遭難した男が、南海の孤島に辿り着きます。孤独な生活から逃れようと何度も脱出を試みるのですが失敗。そうしているうちに、彼に恋したウミガメの化身の女性と暮らしはじめ、男は幸せを得て、子どもを育てます。やがて成長した子どもは、島を出て、大きな世界へ旅だってゆき、男は年をとります。男の最期を看取った女性はウミガメに戻る、というストーリー。

スタジオジブリ初の、海外共同制作映画として公開され、フランスのカンヌ国際映画祭では、作家性の高い作品に与えられる「ある視点」部門特別賞を受賞しました。でも、決して小難しい映画ではありません。余計な欲望をはぎ取った究極の状況で生きること、死ぬことの意味を描いています。秀逸なのはラストシーンです。年老いて亡くなってゆく男を見つめる女性。満点の星の下で、彼は一生を終えますが、翌朝、ウミガメに戻った女性はゆっくりと島を去っていきます。聞こえるのは波の音だけ。静かな、静かな幕切れです。

私たちの人生は、この惑星の大きな何かに見守られているのかもしれないという想いに涙せずにはいられません。

マイケルが、「レッドタートル」以前に作った傑作短編アニメ「岸辺のふたり」の絵本(くもん出版/絶版950円)が入荷しました。幼い娘を置いてボートに乗り込み、戻ってくることの無かった父。その面影を求めて岸辺に通い続ける娘。やがて、娘は大きくなり、伴侶を得て、子どもを育て、老いてゆく。そして、ある日、彼女は、あの日戻ってこなかった父と再会する。ここでも、死ぬ事と生きることは一体であることが描かれています。

娘をおいて、水平線の彼方に向かう父をシルエットで描いたカットや、眩しい青春時代を送りながらも、父のことがふと頭をかすめる彼女の背後に、影を落とす林を描いたカットに、マイケルの人間の生と死への思いが込められています。ラスト、再会した二人の横に広がる影の長さに、読む者はそれぞれ、いろんな想いを重ねるかもしれません。

「レッドタートル」のDVDは、おそらくレンタルショップで見つかると思いますが、気に入ったら買われることをお薦めします。この先、多くの死に立ち会わざるを得ない時、きっと支えてくれることでしょう。

 

永井荷風の「断腸亭日乗」を引き合いに出すまでもなく、日記文学はとにかく面白いものです。私が日記文学に目覚めたのは高橋源一郎「追憶の1989年』だということは、以前ブログで書いた事があります。

ミニプレス「仕事文脈」を出しているタバブックスから、丹野未雪著「あたらしい無職」(1512円)が入荷しました。これ、非正規雇用で出版業界を渡り歩く一人の女性の日記なのですが、面白いのです。

「会社ってなんだろう。未婚、女性、東京ひとり暮らし。不安もあるけど、好きな仕事をして形を決めずに生きる。非正規雇用、正社員、アルバイト、無職、30歳から41歳の切実な日々の記録」

という宣伝文句通りの内容です。「八月初日 今日から無職」で始まる第一章「39歳無職日記」。ハローワーク通いの日々が始まりますが、悲壮感はありません。「十月初日 さあ、今日も無職だ。」では、世間には案外39歳無職が多い事を知って、「たまに視聴者参加型クイズなんかに元気に出ている三十九歳無職がいると、『無職でも陽当たりよく生きていいのだ』と励まされたりする」なんていう描写に出会います。

やがて、出版社に職を得るのですが、ここがもうブラック企業なんじゃないの、と思える程に離職者の多い会社でした。しかし、一年後、「会社とは何だろう。この共同体でなければならない理由がわたしにはない。ここであらたに身につけた技術や人脈はほとんどなかった。」と退職を決意する。

そして第三章41歳無職日記は、こう始まる。

「三月初日 このまま何事もなく毎日が過ぎたら無職なんだなと思っていたのだが、何事もなく過ぎたので今日から無職だ。」

仕事への態度に誠意がない、などという方もおられるかもしれませんね。でも、書店のビジネス書コーナーにあるような会社での自己変革とか、社会人の自分探し等々の本なんかよりも、よっぽど内容のある本です。効率的に仕事をする本が、何のために役に立つのか理解できなった私にとって、自分に正直に生きている女性の行動の記録として、多くの共感を得るのではないかと思いました。

蛇足ながら、この本を読もうと思った切っ掛けは、8月15日を「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」と表記していたことです。戦争に負けたことを敗戦と呼ばずに終戦と呼ぶメディアのごまかしに迎合せずに、きちんと「敗戦記念日」と本の中に書いていた作者の正しさを見つけた時、あ、信じられると思ったことです。

 

 

古いフランス映画(1956年)に「赤い風船」という作品があります。少年と風船の友情を詩情豊かに描いた短編映画です。後年、いわさきちひろが絵本化を熱望し、68年に「あかいふうせん」として出版されました。

同じタイトルの絵本、イエラ・マリ作「あかいふうせん」(ホルプ出版850円)が入荷しました。この絵本には、全く言葉がありません。少年が膨らましていたチューインガムが、大きくなり赤いふうせんになり、フワリと大空へ旅立ちます。やがて、その赤いふうせんは、リンゴに形を変えて、地上に落ち、今度は赤い蝶々になり、可愛らしい赤い花へと変身していきます。赤い花は、にわかに曇ってきた空から落ちて来た雨粒に対して、赤い傘へ。その傘をさして雨の中を行く、最初に登場した少年の姿を真上から捉えたシーンで絵本は幕を閉じます。

極めてシンプルな絵本ですが、デザインのセンスが冴えています。「きょうのおやつは」や「かがみのサーカス」等の絵本で注目の作家、わたなべちなつは、この本への思いをこう書いています。

「グラフィックデザインを学んでいた学生時代に、書店で初めてこの絵本を手に取りました。文字がなく、絵のみで表現された潔い画面に、目が釘付けになりました。ページをめくりながら、心臓がどきどきしたのを覚えています。絵本は大人をも魅了する造形であると確信した一冊です」

風船がどんどんとフォルムを変えてゆくという場面転換には、確かにドキドキする楽しさがあります。それに、流れるように展開する一つ一つの絵が、とても素晴らしく、赤い傘を持った少年を上から捉えた絵は、そのまま”FIN”という文字が出る洒落たフランス映画のラストシーンみたいです。

イエラ・マリは、この本以外にも、文字のない絵本として「りんごとちょう」など多くの作品を残しています。当店には「にわとりとたまご」がありましたが、現在は売切です。

 

先日、東京のSUNNY BOYBOOKS さんから連絡がありました。

イラストレーター、タダジュンさんの作品集「Dear,THUMB BOOK PRESS 親愛なる親指へ」(2376円)を出版したので、挨拶に伺いたいという嬉しいお話。タダジュンさんと言えば、ヘミングウェイの「こころ朗らなれ、誰もみな」、クッツェー「鉄の時代」等の海外文学や、中川ワニ「ジャズブック」のカバーデザインでお馴染みの作家です。そして、映画ミニプレス「Kinebus」にも、毎回素敵な作品を書かれています。(もちろん当店にも置いてます!)

恵文社一乗寺店での個展と誠光社のイベントのために京都に来られたので、うちにも寄ってくれました。新しい作品集「Dear,THUMB BOOK PRESS」は、本好きならニンマリするに違いありません。

巻頭に柴田元幸の「サムが愛した本について」という序文にこうあります。「サムが独自の装幀本を作成した20冊のリストは大変興味深い。」そして、次のページからサムが装幀した本がズラリと並んでいます。ナバコフ、カフカ、ブコウスキー、ヘミイグウェイ、ウォールデン、そして谷崎の本まで、独特の世界観に満ちた作品が並びます。

えっ?この本ってタダジュンの作品集じゃなくて、サムとかいう人の作品集なの?

実はサムなんて人物は実在せず、タダジュンさんがサムという架空の装丁家に扮して、装幀した本が載っているという趣向なのです。

ご丁寧に SUNNY BOY BOOKSオーナーの高橋和也さんが、「THUMB BOOK PRESS」と印字された「星の王子様」のフランス語版を持っていた思い出まで書かれています。さらに、タダジュンさんがサムに扮して公園に佇む写真まで載っているという凝りようです。

でも、どの本もずっと見つめていたい、という気持ちになります。こんな本があれば、一日中触っていたいと言う程に、愛情が溢れた装幀です。

紹介されている文学作品について、それぞれコメントが付いています。私が気に入ったのはバージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」の紹介文です。装幀に合わせて、それぞれの方が、架空のサムおじさんへの思いを語ってくれます。空想の書物に触れ、書物を読む楽しみを味わってください。(素敵なサインを本に書いていただきました!)

タダジュンさんの参加されている「Kinebus」最新号(100円)もお持ちいただきました。たった一枚の新聞紙の大きさのペーパーですが、映画への愛に溢れています。

猛暑の京都にお越し頂き、ありがとうございました。

元ハーバート大学日本文学教授で、村上春樹の小説の英語翻訳者としても有名なジェイ・ルービンが、編集した「芥川龍之介短篇集」(新潮社1400円)というアンソロジー。この本には村上春樹が、「芥川龍之介ーある知的エリートの滅び」という序文を寄せています。この芥川論が、とても面白いのです。

「初期の芥川の作品の、当たるをかまわずずばずばと切りまくるような文体には、間違いなく、息をのむようなすさまじさがある。」

こんな文章に出会うと、芥川を読みたくなりますよね。私自身、へぇ〜、彼ってこんな技巧的でスマートな短篇小説が書ける人だったんだ、と気づいたのは最近です。

村上は言います。「まず何よりも流れがいい。文章が淀むことなく、するすると生き物のように流れていく。言葉の選び方が直感的に自然で、しかも美しい。」

以前ブログで紹介した「日本文学全集26巻 近代作家1」に収録されている芥川の「お冨の貞操」(河出書房新社1800円)などは、その好例だと思います。また、たった数ページで、中世の説話を現代語でリライト&リミックスして甦らせた「羅生門」を読めばわかります。

芥川の文学的センスと淀みなく進む文体は、しかしその一方で「文学者としての彼にとってのアキレス腱ともなった。その武器があまりにも鋭利で有効的であるが故に、彼の長期的な文学的視野、方向性の設定は、いささかの妨げを受けることになったのである。」と村上は指摘します。

有り余る才能だけで、新しい時代の動きをねじ伏せることが出来るとは思えません。文学史的に見れば、台頭しつつあったプロレタリア文学運動と、その真逆のような世界を描く私小説を芥川が受容できるはずがありません。

「人工的なストーリーテリングと、洗練された文章技術の中に、人間的含蓄を忍ばせること、それが芥川の生き方であり、書き方であった。そして私小説やプロレタリア文学の拠って立つ文学的方法は、そのような生き方とは根本的に対立するものであった。」

結局、芥川は、私小説的世界の方へと無理矢理自らを放り込むのですが、私は後期の芥川作品の熱心な読者ではないので、この時期の評価はできません。村上は15歳の時に読んだ「歯車」の、情景がいまだに鮮やかに残っていることを告白して、

「自らの人生をぎりぎりに危ういところまで削りに削って、もうこれ以上削れない地点まで達したことを見届けてから、それをフィクション化したという印象がある。すさまじい作業である。」と、書いています。

村上の20数ページの芥川論を精読して、収録された18点の小説を読むと、芥川が身近な存在になるかもしれません。

「『ピアノで食べていこうなんて思ってない。』 和音は言った。『ピアノを食べて生きていくんだよ』部屋にいる全員が息を飲んで和音を見た。」

読んでいる私も息を飲みそうになりました。

宮下奈都「羊と鋼の森」(文藝春秋1100円)の一部です。この本は、2015年のブランチブックアワード大賞を受賞し、翌年の本屋大賞にもノミネートされた、言わば”売れ線”の小説でした。ピアノの調律師を目指す青年の青春小説ね、あっ、そう、とゴーマンかまして見向きもしませんでしたが、いや、どうしてどうして素敵な物語でした。(先入観だけで判断するって最悪ですね…..)

読み出して暫くして、敬愛する作家、原民喜が登場しました。え?ピアノの調律師の話に、なんで原爆の悲惨を作品にしていた原が登場するの?と思っていたら、主役の青年が憧れるベテラン調律師が、原のこんな言葉を紹介するのです。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

ベテラン調律師は、原が理想とする文体こそが、自分が理想とするピアノの音だと青年に伝えます。

青年は、多くの人びととの係わり合いを通じて、自分が進むべき道を模索するのですが、物語の進行があざとくなく、大げさな事件も起こらず、静かに進んでいきます。まるで、美しいピアノソロを聴いているかのようです。物語の中で、ピアノを弾く双子の女の子が登場しますが、その一人が、冒頭に引用した台詞を言う「和音」という少女です。何故、双子の一人がこんな意味不明な発言をしたのかは、小説を読んで下さい。成る程、これはいい台詞だと納得されるはずです。

「ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気づかずにいたのだ」

青年の成長を見守りながら、読者も美しい物を知るという喜びを見出します。小説を読む楽しさを味わえる一冊。出会えて良かった、と思います。

 

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祇園祭の鉾立てが始まりました。京都の夏はこれからが本番…..とはいうものの30年前とは真夏日の多さが違い老体にはこたえます。

今年は、17日(月)が鉾の巡行日に当たりますが、レティシア書房は定休日です。京都のこの辺り、つまり中京区の烏丸通り近辺で、御池通より御所までの北の方は、巡行日は、車の交通規制があり、お商売をしているところは、昔はよくお休みになったものでした。

さて、そんな夏本番の時期に、藍染めの涼しげなのれんが、ギャラリーを飾りました。土本照代藍染め作品展『あいぞめのゆめ』が、今日から始まりました。レティシア書房での土本さんの個展は、2015年7月に続き2回目。一昨年もちょうど祇園祭の時期でした。

彼女の染め方は、「おりがみ絞り」と呼ばれているもので、生地を折り紙を折るようにたたんで縛り、藍液に浸けて染めます。布のたたみ方、防染する箇所によって様々な模様ができます。と言っても、染織などの経験がなければ、ピンとこないかもしれませんが(我が店長もその一人)、幾何学の模様が広がるステキな作品です。ぜひ実物をご覧下さい。

夏、京都の街中にまだまだ残っている町家で、軒先のかすかな風に揺らぐのれんは涼感を呼びます。玄関に水など打ってあるとなおさらほっこりしますが、一方マンションの白い壁に、藍染めのれんもまた合うようです。幾何学模様のこの染め物は、どこか懐かしく、そして柔らかく、丁寧に作られたやさしさを感じます。

木綿の手ぬぐい(2500円)もたくさん揃いました。藍染めは使いこむうちに、いい感じに色が落ち着いて来ますが、最近はインテリアとして、専用の額などに入れて飾っているのもよく見ます(写真・左上)。藍色は、お部屋に落ち着きと涼しさをもたらすかもしれません。

オススメは、絹のストール(12000円〜20000円)。冷房で身体が冷える時など、幅広で、軽くて、上品な藍色のストールは重宝します。他に、日傘・ブローチ・髪ゴム・手帳・ポチ袋など販売しています。

京都の夏、ここ最近は特に過酷な暑さです。外出も控える方が多いところでしょうが、祇園祭の鉾町から、もう少し北へ上がるおついでがあれば、ぜひお運び下さい。目にも涼しい藍染めをお楽しみ頂けたらと思っています。(女房)

 

土本照代藍染め作品展「あいぞめのゆめ 5」は7月11日(火)〜23日(日)

 12時〜20時(最終日は18時まで)  17日(月)は定休日

 

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先日、「虹色の小舟」(2700円)という自主制作のCDを出された日高由貴さんが来店されました。ほぼ全曲、自作の詞で歌われた、あるジャンルにカテゴライズされない、素敵な作品です。

ジャズのようでそうではない、語りかけるようなシンガー&ソングライターでもない、ましてやクラシックでもなければ、ソウルフルなものでもない。こういう音楽って、上手く出来上がればオリジナリティーの高い作品になるのですが、どっちつかずで、失敗することにもなりかねません。

日高さんは、ジャズをベースにしながら、その世界に捉われることなく、良質のポップスを目指したことが良かったと思います。編成は、彼女のボーカルにサックス、ギター、ピアノ、ドラムス、ベースという典型的なジャズ五重奏団。

昨今、CDショップに並ぶべっぴんさん女性ジャズボーカルアルバムの、大げさな感情表現と無理にスイングしようとするアルバムとは逆の仕上がりになっています。大事なことは小さくつぶやくと言った詩人がいましたが、そういう世界です。

日本語で歌われている「マングローブの森へ」はこんな歌詞です。

「月夜のかなたで だれかが泣いている ただひとり いまこの想いを あなたのところへ ほらそっと ひとしずく 虹色の小舟にのせて ひとひらの花びらに 涙をのせて 流れゆく水のおく いまあなたからだれかへと 虹色のかなしみの向こう側 みどりの森へ」

サックスとピアノが静かに月夜に照らされたマングローブの森へと誘います。

私の最も好きなナンバーは、7曲目の「Shenandoah」です。19世紀から歌われているアメリカ合衆国の古い民謡で、歌詞から「オー・シェナンドー」(Oh, Shenandoah)とも、「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Misouri)とも呼ばれています。バージニア州を流れる大きな河で、西部劇「シェナンドー河」他でも使用されていて、何度か耳にした曲です。故郷への哀愁を思い起こさせるのですが、彼女は饒舌にならず静かに歌っています。この曲ではクラリネットも演奏されています。(出だしのクラリネットの音には涙が出そうです)

ゆっくりと、何度も味わってもらいたい音楽が、ここにはあります。

★試聴大歓迎です。本選びにも良い効果があるかも…….。

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大学卒業後、なぜか幻想文学やファンタジーばかり読んでいた時期がありました。月刊ペン社という小さな出版社が「妖精文庫」というタイトルで十数点出版していて、その内、何点かを買った記憶があります。本には「妖精画廊」という小冊子が付いており、それが楽しみでした。

今回、シリーズの中の一冊、ウィリアム・モリス/中桐雅夫訳「サンダリング・フラッド」(月報付き1200円)が入荷しました。あぁ〜懐かしいな、この細かい字体を読んでたなぁ〜と思いだしました。

ウィリアム・モリスは、アーツ&クラフツ運動を牽引した人物として有名です。モダンデザインの創始者として、そのデザインは、あっ、モリス柄とすぐに分かります。一方で、モリスは文学活動も比較的早くから行っており、ファンタジー文学中興の祖と評価される「世界のかなたの森」は有名です。若者の幻想の中に存在していた美しい娘が生きる森の中で、繰り広げられる死闘を描いた作品で、世界観の美しさに唸りました。一時、晶文社が「ウィリアム・モリス・コレクション」全9巻を刊行しており、全部揃えたいと思った事もありました。(最近は古書市でも見かけません)

さて、「サンダリング・フラッド」は、悲恋ものだった….と記憶しています。(なんせかなり昔の読書体験だったのでね)

街を流れる大河サンダリング・フラッドを巡る、幻想的なユートピア小説とでも表現すればいいのでしょうか。やや時代がかった表現がありますが、ファンタジー好きなら外せない一冊でしょう。(ただし、上下二段でびっしりと印刷されているので、もう年寄りの私には再読不能です)

本を開けると、画家エドワード・バーンジョーンズデザインでモリスが織ったタピストリ、同じくバーンジョーンズのイラストとモリスのデザインによる「チョーサー物語集」、モリスデザインによるキルトの模様などの図版が収録されています。中世をユートピアとして捉えようとしたモリスらしい世界です。

ところで、この本を翻訳した中桐雅夫は詩人として有名で、私は「会社の人事」(晶文社)という、およそ詩集らしくないタイトルが面白そうだったので買ったことがあります。

「老い先が短くなると気も短くなる このごろはすぐ腹が立つようになってきた 腕時計のバンドもゆるくなってしまった おれの心がやせた証拠かもしれぬ」

という「やせた心」は、「おのれだけが正しいと思っている若者が多い学生に色目をつかう芸者のような教授が多い 美しいイメジを作っているだけの詩人でも 二流の批評家がせっせとほめてくれる」という嘆きを経て

「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は おれは絶対風雅の道をゆかぬ」という詩人の強い決意で終わります。心に残る詩集でした。

モリスの全集も、中桐雅夫も発行元は晶文社。若い日の読書体験に、この出版社の影響を受けたのは間違いありません。私が新刊書店の店長だった時、最初にやった企画が「晶文社ベストセレクション」でした。

 

アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」は63歳のセールスマン、ウィリィ・ローマンとその家族の物語です。自立出来ない息子や、過去の幻影にさいなまれつつ慨嘆するローマンは、誇りを持っていた仕事まで失い、最後には自ら死を選ぶ、という悲惨なお話です。 

その舞台を演じる役者夫婦の身の上に起こった出来事を、舞台進行に絡ませて描くという、斬新な構成のアスガー・ファルハディ監督のイラン映画「セールスマン」は、じっくりと見せてくれるサスペンス風映画でした。

夫の留守中に、引っ越して間もない新居で、妻が侵入者に襲われてしまいます。外傷はそんなに深くはなかったのですが、執拗に犯人を探し出そうとする夫と、表沙汰にしたくない妻の感情が少しづつずれていきます。心通わず、すれ違う夫婦。しかし一方で、舞台の稽古は、どんどん進行していきます。やがて犯人を見つけた夫がとった行動は…..。

ゆっくりと理性をかき乱されていく夫婦を中心にして、映画は破局へと向かいます。まるで舞台劇のように、廃墟と化した、かつて夫婦が住んでいたアパートで、この夫婦と、犯人とその家族が一同に会します。様々な感情、怒りや不安、悔恨が渦巻まく圧巻の場面。

人間の複雑な感情のせめぎ合いを、2時間でじっくりと描いたこの作品は、ヨーロッパでは高い評価を得ました。そして、米アカデミー賞外国語映画作品賞を受賞したのですが、トランプ大統領のイスラム系人間への入国拒否令に反撥して、スタッフは授賞式をボイコットしました。トランプ大統領は、多種多様な人種が集まる映画界を、敵に回してしまったのです。

見終わって、元気になる映画でもなければ、清々しい気持ちになる映画でもありません。しかし、ラスト、舞台のメーキャップを黙々と続ける二人の虚ろな表情を見ていると、人に寄り添うべき時にそうできなかった、人間の複雑な感情の重さを思い知らされました。

「サラリーマン」は京都シネマにて上映中です。