コラムニスト小田嶋隆の「上を向いてアルコール」(ミシマ社/新刊1620円)は、重度のアルコール依存症だった過去を振り返ったノンフィクションです。坂本九の「上を向いて歩こう」のパロディみたいなタイトルからして、よくある「私はこうして治療した」みたいな真面目なだけの闘病記ではありません。

なんとなく風呂上がりに一杯、就寝前の一杯は一日を終えるための一区切り。しかし、歯止めがきかなくなり飲む量が増え、重症になってくると、連続飲酒発作と呼ばれる、朝から飲み始めて、吐いて、意識朦朧となり、点滴でなんとか立ち直る状態が定期的にやってきます。それもだんだん短い期間で……。

「40で酒乱、50で人格崩壊、60で死にますよ」

そう医者から宣告された小田嶋は、その酒浸りの日々を見つめながら、酒ってなんだ?、アル中って何なんだ??ということを考えます。彼によると「アルコール依存って、考え方の病気です」。実力以上の自己評価だったり、酒なんかでは潰れないという妄想。

「実際アルコールで頭おかしくなって引き返せなくなった人たちの中には、オレは必ず成功する、みんなオレの実力を知らない、そういう自己肥大妄想に浸っている人たちがけっこういます」と彼は書いています。

結構つらい描写があるのですが、何故だか笑えてくるところが、この本の面白いところです。アル中患者のリアルな姿を見て笑うなんて、不謹慎なのかもわかりませんが、悲惨だった自分を冷静に、大げさにならずに、ふんふんと描いているからなのでしょう。

担当医が、こう言っています。

「アルコールをやめるということは、単に我慢し続けるとか、忍耐を一生続けるという話ではない。酒をやめるためには、酒に関わってきた生活を意識的に組み替えること。それは決意とか忍耐の問題ではなく、生活のプランニングを一からすべて組み替えるということで、それは知性のない人間にはできない」

知性というものがいかに大事か、ということへと本書は向かいます。そして、最後に、アルコール依存症に代わる新たな脅威としてスマホの存在を上げています。「スマホを忘れたときの心細さは、アル中時代の焦燥感と同じ」だと。

この本は何かに依存することの怖さを訴えて終わります。酒を飲む人も、飲まない人も、スマホを離せない人も、そうでない人も読んでください。

 

こんな面白い本を出版している『ミシマ社』の特別企画展を、4月11日(水)〜22日(日)当店ギャラリーにて開催します。さて、何が飛び出すやらお楽しみに!

 

 

今年のアカデミー作品賞を受賞した「シェイプ・オブ・ウォーター」は、とても素敵で、なおかつ今のアメリカの状況を象徴するような傑作です。

監督のギレルモ・デル・トロに心より拍手します。彼は、幼い時に観た「アマゾンの大半魚人」のことが忘れられなくて、なんとか自分なりの半魚人ものを監督しようと資金集めに奔走します。が、「半魚人と人間の女性の恋物語?はぁ〜?何それ?」という反応ばかり。なんとか資金調達の目処がつきるかなと思うと、もっと美女を出せとか、実は半魚人がイケメンだった、とかに変更せよという注文がつく。ならば自腹切って、と製作に着手しました。

その結果、監督が夢みた世界が、誰にも邪魔されずに描かれました。舞台は1960年代、捕獲された半魚人が、とある軍事研究所に連れてこられて、研究対象にされます。ここで働く中年の掃除婦が、半魚人に恋をするという物語。若く美しい女性もいないし、男はいつか王子様に変身するわけでもありませんが、泣きたいほど美しいラブストーリーが出来上がりました。

黒人公民権運動が盛り上がってきた、60年代の時代設定が巧みです。当時のアメリカは白人優位で、白人以外は人として認められていません。カフェに来た黒人カップルが、出て行けといわれるシーンがその象徴です。半魚人に恋する女性は、口がきけない障害者です。彼女の友だちは、同じアパートに住むゲイの初老男性と、職場の同僚の黒人女性だけ。黒人と同じように、当時はゲイに対する差別も今とは比べものにならないくらいひどいものでした。

そんな社会のマイノリティー達が、やはり無理矢理自分の国から連れてこられた奴隷同然の半魚人を逃がそうとするのが、後半のサスペンスです。メキシコ生まれの監督の、かつてのハリウッド映画へのオマージュ溢れた演出には、涙してしまいます。

軍事研究所の暴力的な警備責任者は、半魚人を殴るわ、蹴るわ、果てはヒロインに迫り、声が出ないの知っていながら「お前のあえぎ声が聞きたい」などとほざく、パワハラ・セクハラの大バカ者です。そして、彼がいつも読んでいるのが”The Power of Positive Thinking” 。マクドナルド創設者の数奇な生涯を描いた「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」で主人公が愛読していたベストセラーです。「強いことが正しいことだ。勝つ事が正しいのだ」と説くこの本は、ほとんど本を読まないトランプ大統領の唯一の愛読書とか。おわかりですね。そう、映画はトランプ大統領の、マイノリティーへの嫌悪という今のアメリカを、暗に浮き上がらせるのです。しかし、反トランプを前面に押し出すことなく、ファンタジーとして実に美しい結末を用意しました。

美しく切ない恋物語に酔いつつ、やっぱり今のアメリカは危ないことを再認識しながら映画館を後にしました。

町田智浩の「映画と本の意外な関係」(集英社/古書400円)は、最近読んだ映画、書物に関する本の中では、最も刺激的な一冊でした。

この本の最初に、映画に映し出されたいくつかの本棚の紹介があります。昨年「ダンケルク」で話題になったクリストファー・ノーランのSF映画「インターステラー」は、重力論、量子力学果ては五次元論まで飛び出す、わかったような、わからないような、しかし何度観ても飽きない作品でした(10回は観たなぁ〜)。映画の冒頭、主人公の家の本棚の移動ショットがあるのですが、町田は、ここにある本をピックアップしていきます。時間を逆にたどってゆくマーティン・スミスの小説「時の矢」や、マデレイン・レングルの「五次元のぼうけん」をみつけ、これらの本がノーラン監督の映画の原型になったことを見逃しません。

さらに、ボルヘスの短篇集をみつけ、こう書いています。

「クーパー(映画の主人公)が迷い込んだ五次元空間は、マーフ(主人公の娘)の本棚が上下左右に連結されて無限に続く図書館のように見えます。まさにボルヘスが想像した『バベルの図書館』です。」

面白かったのは「007」シリーズの言葉をめぐる章です。2012年に公開された「スカイフォール」のタイトル”Sky Falls” はローマ時代の法格言「天堕つるとも、正義を成就せしめよ」から取られています。物語は、まさに天が堕ちるような事態が勃発して、窮地にたった007の上司Mを助けるべくロンドン市内を疾走するボンドに、Mのこんな言葉が囁かれます。

「我らの英雄的な心はひとつなのだ 時の流れと運命によって疲弊すれど 意志は今も強固だ 努力を惜しまず 探し求め 見つけ出し 決して挫けぬ意志は」

これ、1800年代に活躍した詩人テニスンの「ユリシーズ」という詩からの引用でした。大活劇のスパイ映画なのですが、方々に、こんな知的遊びが隠されていたなんて。

ご存知アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」の原作はパトリシア・ハイスミス。彼女は50年代に「よろこびの代償」というタイトルで女性同士の恋愛小説を発表しています。後年、彼女は自分が同性愛者だとカミングアウトしました。そして、この原作は2015年に「キャロル」というタイトルで映画化されました。ところが、彼女がカミングアウトするまでに、「太陽がいっぱい」における隠された同性愛を指摘していた人物が日本にいました。映画評論家、淀川長治です。

主人公トムが親友フィリップを殺すシーンを、淀川はこう解説したといいます。

「実はトムはフィリップに恋しており、自分のものにならない彼を殺して、同一化する物語だ。フィリップの胸に突き立てられるトムのナイフはペニスの象徴だ」

当時、作家の吉行淳之介など多くの人がそれは深読みすぎると批判しましたが、彼女の死後書かれた伝記から、「太陽がいっぱい」に流れていた同性愛的メタファーが証明されたのです。ここまで読み込む淀川の力量は恐ろしいほどです。

この本を読んで、紹介されている作品をご覧になってはいかがでしょうか。きっとスリリングな映画体験になりますよ。

★連休のお知らせ 勝手ながら19日(月)20日(火)連休いたします。よろしくお願いします。

イラストレーター、庄野ナホコの名前を初めて知ったのは、雑誌「ブルータス」が古本の特集をした号の表紙でした。大きなクマさんが、均一台を物色している姿です。いるよなぁ〜こんな感じの人って、と古本屋に思わせる素敵な絵。シロクマさんがリュック背負って、やはり均一台をゴソゴソしている作品には思わず吹き出しました。

それより前だったか後だったかに、多和田葉子の「雪の練習生」(新潮社/古書800円)を読みました。これ、実に変わったお話です。旧ソビエト連邦のサーカスの花形から作家に転身した「わたし」と、娘の「トスカ」、その息子の「クヌート」へと繋がるホッキョクグマ三代の物語です。「わたし」は、会議に出席したり、アシカが編集長を務める?出版社から自伝小説を出版したり、はては母国ソビエトから西ドイツへと亡命するという、奇想天外で、そして美しく切ないお話でした。この小説が文庫化された際、単行本の表紙がシロクマの写真から、庄野ナホコのイラストに変わっていました。表紙絵が、見事に作品の世界を表現しています。

彼女の創作絵本「北極サーカス」(講談社/新刊1620円)を入荷しました。これは、鯨に引かれた流氷の上でショーを見せる北極サーカス団を描いたものです。見物客は、イヌイットにクマにオオカミと、人間も動物もごちゃまぜです。サーカスでは、白いオオカミが空中ブランコを舞い、シロクマが、華麗なスケートを披露します。けれど楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。

「ふしぎで ゆかいで なぜだか すこし かなしくて」

 

庄野ナホコの作品に「ルッキオとフリフリ」という野良猫を主人公にした連作があります。その一つ「おおきなスイカ」(講談社/古書1200円)の最初に、このネコたちの夢が書かれています。

「おおきな おやしきに 『しゅうしょく』して、だんろの まえに ベッドを もらい ぎんの おさらで まっかな マグロの おさしみを いただく ことでした」

我が家のネコもそんな願いをもっていたかもしれません……。

 

★連休のお知らせ 勝手ながら19日(月)20日(火)連休いたします

磯部涼「ルポ川崎」(CYZO/古書1100円)は、今年最速で読んだノンフィクションです。

2015年、川崎市内の河川で、よってたかって暴行されて全裸にされた中学1年生の死体が発見され、犯人として未成年数名が逮捕された事件を覚えておられますか。この本は、その事件を追いかけたルポではありません。が、”危ない街”として印象づけられた川崎に生きる若者たちの姿を追いかけた作品です。

登場する若者たちは悲惨な現状を生きています。貧困と暴力、酒、クスリ、売春…..。しかし、繁栄から取り残されたディストピア川崎の現状を見よ!だけの本でもありません。

「逃げ道なんてのねぇな 日々汚れてくぜ手が ガキの頃からそうさ血の付いたカネでメシを食う」と、歌う川崎に住む青年たちで結成されたヒップホップバンドBAD HOP が、本作の方々に顔を出します。どん底時代の自分たちを歌いながらも、ヒップホップという音楽に可能性を見つけて、自分たちの未来を模索していきます。

70年代のアメリカニューヨーク州ブロンクスの、人種の坩堝の中から発生したヒップホップは、強烈なビートにのせて、彼らを取り巻く社会状況への怒りが歌われていました。暴力に明け暮れる川崎の若者たちも、最初は、そのファッションや、ノリの良さだけに目を奪われていたのですが、やがて、この音楽を知ったことで、クソだめみたいな毎日から、自分たちを救ってくれることに気づきます。

不良、落ちこぼれ、犯罪人として差別され、クズ扱いされていた彼らは、マイノリティーの自分たちに誇りを持ち、不当に差別されることへの怒りは、やがて街を練り歩くヘイトスピーチへの怒りに向かっていきます。

読者は疑問に思うかもしれません。そんなに嫌な街なら川崎を出ればいいのにと。しかし、ある若者はこう言い切ります。

「川崎はアナーキーなんですよ。地方は、大抵、閉塞感しかなくて排他的なのに対して、川崎の場合はとりあえずどんな奴でも受け入れるし、生きていける」と。

そう、彼らは、この川崎を愛しているのです。「ここの焼肉屋のおっちゃんは、すげぇいい人だったんですけど、この間、店の前で腹を切って自殺しちゃった」と平然と語る若者。人情と非人情が渾然と混じる街なのに、彼らは街を離れない。

ヤクザ、ドラッグ、犯罪が少年たちを蝕む一方、ヒップホップの強烈なリズムだけを武器に、この街を生き抜き、スラム化した街を新しく作り替えようとしている姿が描かれています。

著者は最後をこう結んでいます

「BAD HOPは光源に向かって歩み始め、後ろを無数の子どもたちがついていく。痛みから遠く離れるように」

もちろん、すべての若者が救い上がられているわけではありません。それは川崎だけではなく日本各地で起こっているはず。多くの若者が堕ちてゆき、その先は地獄。やっぱ、オリンピックなんてやってる場合じゃないっすよ…..。

 

音楽には、ジャズ、ロック、ソウル、ニューミュージック、クラシック、歌謡曲そして演歌と様々なジャンルがあります。おそらく人間の体のどこかで、その音を聴くのに相応しいスイッチがオンになって楽しむものなのでしょうね。けれども時には、ジャズのスイング感も、ロックのビート感も、クラシックの美意識も、あぁ〜めんどくさい!と思うことがあります。

そんな時、生活のリズムを邪魔しない、でも遠くで鳴っている美しい音が聴きたい時、ジャンルを逸脱した音楽はいかがでしょう。

大阪生まれのドラマー&作曲家、福盛進也のアルバム”For 2 Akis”(ドイツECM1900円)は、ジャズアルバムなんですが、これほどスイングしないアルバムもありません。編成はサックス、ドラム、ピアノのトリオです。ゴリゴリのジャズファンからは、お高く止まりやがってなんて声も出そうですが、難しくもなく、まるで大きな森の奥深くから聴こえてきそうな音楽です。選曲も全くジャズらしくありません。宮沢賢治「星祭りの歌」、小椋佳「愛燦々」、滝廉太郎「荒城の月」、そして阪神淡路大震災の時に歌われた「満月の夕べ」が並びます。一つ一つの音に込められた音楽家の深い思いが、余計なものを排除した、まるで水墨画みたいな世界へと誘ってくれます。満天の星空の下、一人で聴いてみたい音楽です。

 

もう一枚。伊藤ゴロー・アンサンブル「アーキテクト・ジョビン」(Verve国内製作2400円)。

伊藤ゴローは、作曲、編曲、音楽プロデュース、そしてギタリストとしてマルチに活躍する音楽家です。彼が、ボサノヴァ生みの親アントニオ・カルロス・ジョビン生誕90周年記念プロジェクトでリリースしたアルバムは、ジョビンだからと言って、お洒落なカフェで鳴ってる心地良いブラジル音楽ではありません。

ジョビンは後年、環境問題に深く関与し、アマゾン熱帯雨林保護運動を熱心に行っていました。そういう彼の音符ひとつひとつに彫り込まれた思想を深く読み取り、再構成した作品集で、ショパン、フォーレあたりの室内楽アンサンブルを聴いている感じです。かと言って、クラシック音楽にならず独自の世界を作り上げているところが良いと思います。

これら2枚のCDは、決して高揚感を与えてくれたり、夢見心地にしてくれるものではありません。けれども、心落ち着かせてくれます。

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「月光アパートは、H線、飛田駅の近くにあった。昭和初期に出来たアパートで、壁の色も、今はわからない程古び、玄関からはすえた匂いの漂う。侘しいホテルであった。この辺りの人々は、この月光アパートを、通称、飛田ホテルと呼んでいた。それは売春防止法以来、多くの夜の女たちが、このアパートに住みこんだためであった。」

で始まる「飛田ホテル」は黒岩重吾の短編小説です。

黒岩は1924年大阪に生まれ、同志社大学在学中に、学徒動員で満州へ向います。戦後小説家としてスタート、60年「背徳のメス」で直木賞を受賞した社会派推理作家の一人です。ちくま文庫から出た「飛田ホテル」(古書/500円)は、大阪を舞台に、社会のどん底で生きる男と女の姿を描いた作品集で、酒、煙草、むせ返る様な体臭が漂ってくる男や女が徘徊する街が舞台です。

表題の「飛田ホテル」は、現在の大阪西成のあいりん地区、以前の釜ヶ崎辺りが舞台で、実際の黒岩もこの辺りに住んでいたことがある街です。古びたこのアパートに、刑期を終えた男が戻ってきます。ここには妻が住んでいました。しかし、戻ってみると彼女はいなくて、住人たちもよそよそしい。男は街をさ迷い、妻を探します。そのディテール描写が読みどころです。戦後、盛り上がったイタリアのネオリアリズム映画みたいなザラザラした小説です。

「飛田ホテルは、今夜も薄い夜霧の中に滲んでいた。彼は刑務所から出て、初めてその灯を見た時、それは霧の中に咲いた、オオエビネの花のようだと思った。でも、今彼の眼にうつった灯は、敗残の人間の中に宿る、魂を失った醜い欲望の輝きであった。」

妻を探す男の運命に希望があるのか……あるわけがありません。

作品集には、六つの短編が収録されています。その大半が、大阪、しかも天王寺や、阿倍野界隈が舞台です。

「浪速区馬淵町は中山太陽堂の工場の傍にあった。ごみごみした暗い町である。東は新世界、南は霞町の市電通りを境に西成の釜ヶ崎と向き合っている。終戦以来手を入れられたことのない古びた市営アパートや釜が崎の宿と変わらない旅館、掘建て小屋のような家がならんでいた。」

読者は、薄汚れた街に生きる人達の侘しい生活を凝視してゆくことになります。地の底みたいな場所で蠢く男と女の愛憎劇なんて、TV2時間ドラマのお得意ですが、中身のないドラマと違うのは、登場人物の心の明暗がきっちりと描かれているところでしょう。こういう小説も面白いものです。

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アンドレ・レトリア(絵)&ジョゼ・ジョルジュ・レトリア(文)によるポルトガル発の絵本「もしぼくが本だったら」(アノニマ・スタジオ・新刊1944円)は、すべての本好きに読んでいただきたい美しい絵本です。

「もしぼくが本だったら つれて帰ってくれるよう 出会った人にたのむだろう」

という文章にはベンチに置かれた一冊の本が描かれています。

「もしぼくが本だったら ぼくのことを<友だち>とよぶ人に 夜がふけるまで読まれたい。」

には、まるでキャンプ場に貼られたテントみたいな形で本が置かれています。本のテントの中で、夜更けまで本と一緒にいたくなります。

「もしぼくが本だったら だれかをしあわせにできるなら どこへでもゆこう」

という文章には、まるで凧みたいに空高くフワリと上がった本と、それを操る人物が描かれていて、本とこうしてつながっていられたらきっと幸せになる!と思えてきます。

本の主張も色々あります。

「もしぼくが本だったら ぼくをえらんだ読者を 飼いならすことなく自由にしたい」とは本の矜持ですね。

こんなのもあります。

「もしぼくが本だったら 戦争したがる心をいっぺんでうちくだく 効果的でやさしい武器になる」

読む人によって、本にはそういう力も備わっているのかもしれません。

「もしぼくが本だったら 流行や義務で 読まれるのはごめんだ」

これは、強い意志の表れ。

全編こういうスタイルで、読書の楽しみが淡い色彩で描かれています。その一ページ、一ページを、ゆっくりと開いていくと、もっと本を読みたくなってきます。本好きの方へのプレゼントとしてもぴったりです。

本が、本屋通いが好きで良かった、と思うのはこんな本にふと巡り会った時かもしれません。

★写真はこの本の日本語版デザインをされた岡本デザイン室のツイッターより引用させていただきました。

ウォーターゲート事件を覚えておられますか。1972年、ニクソン政権による民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカの政治スキャンダルです。この事件の二年後ニクソンは辞任に追い込まれました。事件を追いかけて大統領を追い詰めたのが、ワシントンポストの新聞記者たちで、後に、この新聞記者たちの手記を元に「大統領の陰謀」というタイトルで映画化されました。(何度観ても、噛めば噛むほどいいスルメみたいな傑作です)

映画に登場する、新聞記者たちに政府の情報を流していた人物がいました。名付けて「ディープ・スロート」。実は、これが当時のFBI副長官マーク・フェルトだったことが、本人の告白で世に知れました。映画「ザ・シークレット・マン」は、なぜフェルトが本来漏らしてはいけない情報をマスコミにリークしたのかを追いかけた作品です。

彼が、リークした理由は只一つ。独立組織であるFBIに政権が介入し、コントロールしようとしたからです。政府機関である組織のナンバー2の立場にいる人物が、苦渋の決断をしていく過程を丁寧に描いています。マーク・フェルトを演じるは、リーアム・ニーソン。この人のスーツ姿、しかも後ろ姿が、もうかっこいい。中年のおっさんの後ろ姿って、人生を表してこんなにかっこいいのかと思いました。(おっさんにもよるが)

映画は、フェルトが正義の人という色合いに染め上げていきません。彼自身、他の事件で不法な盗聴を指示していたのです。だから、ラストは彼が裁かれる所で終わり、さらにエンドクレジットでは、長年連れ添った妻の悲惨な最期が出てきます。

しかし、組織の独立だけを守ろうとした男の在り方は、どこぞの国のお役所とは大違いで、ため息しか出てきません。さらに、映画の中で、アメリカ合衆国憲法の話がチラリと出てきたりして、この国では憲法が生きていることを実感させられます。そう言えば、「大統領の陰謀」でも「守るべきはアメリカ合衆国憲法修正第一条。表現の自由。」というセリフが登場しました。

まぁ、憲法の修正 第二条には「人民の武装権」が規定されているのは困ったものなのですが……..。

誰にも頼まれてないのに毎日このブログを書くために、何冊か同時進行で本を読んでいます。楽しいけれど、たま〜にツラい読書だったりします。スムーズに読了すれば順次アップするのですが、何かで止まったりするとあせります。ある日、立ち寄った新刊書店の文庫平台の堂場俊一の「Killers」(講談社文庫/古書800円)の上下巻の分厚い文庫が並んでいるではありませんか! いかん、こんな本読み出したら、ブログアップの計画がめちゃくちゃになると思いつつ、結局購入。もうそれからは、一気に読み上げました。

個人的に、日本作家によるハードボイルド、警察もの、新聞記者もの小説は大好きで、けっこう多くを読んできました。大沢在昌「新宿鮫」、逢坂剛「カディスの赤い星」、原尞「私が殺した少女」などは読み返すこともあります。最近、堂場瞬一が面白い作品を連発していて、上下巻で約1000ページある「Killers」も、読み応え十分のサスペンスものであり、しかも戦後から今日に至る渋谷という街を描ききっているところが注目点です。

「明治通りと直角に交わる細い橋の上に立って、渋谷駅方面を凝視する。渋谷川自体は、両岸をコンクリートで固められてしまい、川というより細い水路のようにしか見えず、川底には申訳程度に水が流れているだけだ。両岸には古びたビルが立ち並び、そこだけが昭和のままになっている。」

そんな今の渋谷に残された古いアパートで、老人の他殺死体が発見されたところから話は始まります。老人の顔には十字の傷が付けられていたので、捜査に当たった刑事たちは、1961年に起こった連続殺人件事件を思い出します。それらの事件の被害者の顔にも同じ傷があったからです。

小説は、現代から東京オリンピックで都市開発の進む渋谷に、時代が戻っていきます。警察の捜査と、犯人の異常なまでの殺人への執着を描きながら、繁栄の影で増幅されてゆく憎悪を炙り出していきます。

「ぞっとする、猥褻な指で背中を撫でられたような不快感が全身を駆け抜けた」

悪寒と恐怖の深い闇。都市開発の名のもとの街殺しは、2020年に迫った東京オリンピックに続いています。もちろん、これはフィクションですが、こんな人物が出てきてもおかしくありません。ラストはぞっとする幕切れです。

だから、東京オリンピックなんて止めましょうよ。