イギリスの作家、パトリック・ネスの原作「怪物はささやく」は、所謂ヤングアダルト向けの小説ですが、大人が読んでも感動します。

その小説を映画化した「怪物はささやく」は、一言で言って、人を幸せにしてくれる映画でした。観た後、ゆっくりと満ち足りた気分にさせてくれる映画でした。今年は「メッセージ」、「シーモア先生の人生相談」そして「怪物はささやく」など、幸運なことにそんな映画にたくさん出会えました。

少年が大人への一歩を踏み出し、様々なことを知るという、文章にしてしまうと実にシンプルなお話ですが、美しい映像と、主人公の少年を演じたルイス・マクドゥーガルの見事な演技力と、適切なCG技術が重なり合って、上質のファンタジー映画となりました。

両親が離婚し、死期の迫っている病気の母親と暮らし、母の看病をするためにやってくるのは少年にとって苦手な祖母。学校へ行けば虐められ、殴られる毎日。そんなコナー少年は毎夜おなじ時刻にうなされます。そこへ、大木に手足のついた怪物が現われて、今から三つの話をする、その後で、お前は自分の話を語るのだと迫るのです。

怪物はおとぎ話の形をとりながら、人は単純な存在ではないこと、人生は複雑だということを語ります。その物語を聞きながら、コナーは、様々なことを体験していきます。母との別れ、虐めた少年への激しい暴力、祖母の部屋を滅茶苦茶に破壊してしまうなど、辛くて痛い世界の終わりのような悪夢のようなことばかり。

そして最後にコナーは、自分の胸に深くしまい込んだ真実の気持ちを怪物に語り始めます。人間は誰でも、複雑に絡んだ様々の感情を持っている、単純じゃない。善とか悪とか白黒はっきりつくものではないのです。母の回復を願いながら、母の死を予想している過酷な状況にピリオドを打ちたい自分を認め、愛している母にすがりつく。つまづきながら、傷つきながら、一歩前へ進むことができた少年の姿に、熱いものがこみ上げてきます。

ラストが素敵です。自分を見失い、彷徨っていたかにみえて、実は多くの人の愛情に守られていたんだという事に気づいたコナーが微笑むのです。

ベタな話かもしれませんが、ベタなところにこそ人生の真実は宿るのです。

 

絵本作家の村上浩子さんは、2015年1月にレティシア書房で、「新作絵本の原画と雑貨デザイン展」をして頂きました。独自のキャラクター「メルシーにゃん」はパリの二人展をはじめ、イタリア、イギリス、フロリダのディズニーランドなどで発表されています。自作の絵本を精力的に作り続けている一方、絵本作りの教室を主宰されて20年以上になります。

前回の個展の際には、いくつもの教室を抱えて大忙しの最中だったようですが、ここ2年の間にお仕事を整理されて「えほん作家養成教室」に力を注がれています。今回、その教室の修了生5人のデビュー展になりました。

教室は6ヶ月で1冊作り上げます。絵本を作るって、スゴく楽しそうですが、何も描かれていない真白の紙に、お話を立ち上げていくのは、口で言うほど簡単なことではないでしょう。生徒さんの中には、デザインの仕事をしていても、筆を使って絵を描くのは何十年ぶり、と言う方もおられました。絵は苦手だけれど何か表現してみたいという方や、描くのはやめて造形物を手づくりの万華鏡で、写真を撮って一冊に仕上げられた方など、個性的な原画と、手づくり絵本が並んでいます。本という形になった自分の絵を手にする喜びは、もの凄く大きいと思います。教室では、次期受講生を募集されています。

マリリン・モンローが好きで、そこからイメージした卵が主人公というユニークな『みみみちゃん』(写真右上・たにゆかりさん)、上手い絵と美しいレイアウトの『すてきなブラウス』(写真左上・かなたにななさん)、達者な筆使いで躍動的な絵と本音のお話が面白い『ロボかいじゅう』(写真左中・かわいみゆきさん)、可愛いアリの生活を丹念に描く『ありさん』(写真左下・ふじむらまりこさん)、万華鏡の面白い世界『まんげきょうえほん なにかな』(写真右中・かわばたひでとさん)など、どれも世界でたった一冊の宝物のような絵本です。村上浩子さんの絵本原画(写真右下)、手づくりグッズも生徒さんの作品とともに展示しております。(女房)

 

村上浩子のえほん作家養成教室京都2期修了生の『えほん展』は7月2日(日)まで

 最終日は17時半まで。月曜日定休

 

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なんか、東映の任侠映画にでも登場しそうな雰囲気ですが、全く違います。

白山連峰の大日岳に源を有する長良川は、南北に160数キロ流れる大河です。天然の鮎、鱒が遡ってくる自然資源豊かな川辺に、吉田萬吉は明治の終わりに生まれ、漁師としてこの川と向き合ってきた男の人生を追いかけたのが、天野礼子著「萬サと長良川」(筑摩書房/絶版1800円)です。

天野礼子は、京友禅職人の1人娘として生まれ、京都に育ち、開高健に師事し文筆活動を開始、アウトドアエッセイ、釣紀行等を発表。同じ京都生まれの俳優、近藤正臣と河川の乱開発防止運動に取り組んでいる作家です。

天野は長良川に通い詰め、年老いても、漁に出てゆく萬サに出会います。竿一本でアマゴとアユを釣る漁師、萬サを育んだこの川の魅力にのめり込み、彼の伝記を書き始めます。しかし、彼の漁師としての人生を描くだけでは終わらない悲しい事が起こります。それは長良川河口堰建設です。河口堰建設話が持ち上がるまで、長良川は本州で、唯一ダムを持たなかった川でした。

天野は「日本で唯一鵜飼の正しい伝統を継承する川、老人が川にきてニコニコしている川、アマゴやアユが百二十キロもの上流の街中で泳ぐ川、サツキマスが唯一天然産卵をくりかえせる川、そして何よりも吉田萬吉を竿一本で暮らさせた川が、この川である。」

だからこそ、「長良川の正しい姿を守れなければ、三万本も川があるというこの川の国ニッポンは、まもなく滅びることだろう」と、文学の師匠である開高健のバックアップを得て反対運動を始めます。

この本が出版されたのが1990年。全国的に盛り上がった反対運動にも関わらず、役人どもが、その五年後に河口堰を完成させてしまいます。 長良川の大いなる豊かさに生きた一人の漁師を追いかけながら、その豊かさが踏みにじられてゆく愚かさを浮き彫りにしていきます。

本が出版される前年、「長良川の一日」(山と渓谷社700円)というフォトエッセイ集に、開高健も「小説家は怒っているのである」という河口堰反対の刺激的な文章を寄せています。もちろん、天野礼子も書いています。「私たちがこの”最後の川”について考える刻を持つことは、自分たちの命を生かしてくれる自然を考える、一つのキッカケ、そして最後のチャンス」と書いています。

さて、萬サは、80歳を過ぎた時、肺の病気で病院に担ぎ込まれますが、奇跡的に復活します。その姿を見て、仲間の漁師達は囁きます。

「やはり、あんたはこの川の神様やな。あん人の船があそこに浮かんどるんが、長良川の風景やで」

魅力的なシルエットが目に浮かぶ台詞で、本は幕を閉じます。

 

 

 

 

この台詞を残したのは、日本でも人気の小説「地下鉄のザジ」のレーモン・クノーです。彼は、この台詞の前にこんな言葉を置いています。

「詩を書くためには 言葉を愛するだけで十分」なんて素敵な言葉でしょう。

クノーのこの言葉は窪田般彌「ミラボー橋の下をセーヌが流れ」(白水社700円)で読むことができます。

堀内大學も同様の事を感じていたのではないでしょうか。大正14年に発行された彼の訳詩集「月下の一群」は、発売当初から多くの読者を得ました。その後何度も改訳され、著者60歳の昭和27年全面改訳されています。ひたすら美しく、豊かなイメージを追い求めてきた結果です。

その「月下の一群」(講談社文芸文庫1400円)が新品同様の綺麗な版で入荷しました。(帯無し)フランス近代詩人66人の作品三百数十点を収録した分厚い文庫ですが、最初のページはから読む必要はありません。ぱっとめくって、良い言葉を発見したらその近辺を読む。文庫なんで、バッグの中に入れておけば、いつ、どんな場所でも取り出せます。

実は、この読書法で、この文庫本をボロボロにしたお客様がいました。そのボロボロさが、また風格がありました。旅先でよく読まれたのが、フォルの「やさしい歌」のこんな一節。

「わたしに一番似合ふのは、木の葉の囁きよりもなほやさしい歌、川柳をそそる小川の流よりも繊細な、青空を渡る鴎や雲雀よりも、もっとほのかな、又はかのあるやなきやの、響を立てる朝の吊鐘草、又は忍び音に吹くわたしの草笛よりも、軽い調子をもった歌」

出張の多い女性で、旅のお供はこの本のみだったそうです。

堀内大學は、昭和27年白水社から出版した改訂版あとがきで、翻訳した詩について「求められて訳したもの、目的があって訳したものは、只の一編もないのである。何のあてもなく、たた訳してこれを国語に移しかえる快楽の故のみになされたものだった。」と書いています。

ひたすら、自分の愛したフランス語を、母国語に変換することへの喜びに没入していたのかもしれません。日々の人生の横にそっとある、「ささやかなもの」として考えていたとすれば、クノーの言葉は、また堀内の言葉だっだのかもしれません。

マックス・ジャコブのたった二行の詩「地平線」。「かの女の白い腕が 私の地平線でした。」 なんか読むと、山下達郎の音楽が聞えて来そうな程カッコイイなぁ〜と思ったり、フランシス・ジャムの「雲が一直線に」の最後、「ごつい哀れな百姓も 野鳩と同じくやさしいよ、それなのに彼等は野鳩を打ち殺す、すると鉛の弾丸がおとなしい鳥の翼を血に染める」の鮮血のイメージにドキっとしたりと、私も時々パラパラやってます。

 

”Spitfire”の意味ご存知ですか?第二次世界大戦時のイギリスの名戦闘機という発想をされた方は通ですね。

「口からつばを吐く」みたいな下品な意味のSpitと、Fire「火」という単語の組み合わせで、直訳すると「口から火を吹く」。大道芸人ではなく、実は激怒して相手をののしってる様を表しています。これ、女性に対して使われると、いい意味で言うと「炎のような女」みたいなニュアンスになります。
喧嘩になって、一言発すれば百言速射砲の如く返ってくる。リングで殴りあいすれば、一発パンチが入った瞬間、百発殴り返されるみたいな、強面で、堂々としていて、そしてカッコイイ女性シンガーのCDには、つい手が出ます。

社会人なりたての頃に聴いたボニー・レイト(68才ー今も現役)が、その最初です。R&B、ブルースの影響濃いギターサウンドとしゃがれた声は、いつ聴いても力をくれました。演奏姿を観たのは、反原発コンサート”No Nukes”のDVDで、名曲”Runaway”を歌ったシーン。いやぁ、貫禄十分。後で出て来るブルース・スプリングスティーンの強烈な個性も吹っ飛んでいました。余裕のある雰囲気で、「坊や、聴いてな」みたいな姐御肌がたまりません。お薦めは“Takin My Time”(LP1600円)

そして、ここ数年全米でも人気のテデスキ&トラックスバンドを引っ張るスーザン・テデスキ(47歳)。この人は、歌がかっこいい。ボニー・レイト同様にブルースフィーリング一杯の歌い方で、ある時は渋く、ある時はストロングに響いてきます。ライブ映像も文句なし。ただ、ギターの力量から言うと、夫君でバンドリーダーのデレク・トラックスが格段に上手い。でも出しゃばらずに、迫力ある彼女の後で、黙々とギターを弾き続ける姿がなんともいい感じ。姉さん女房のうしろに控える旦那風情がよろしい。(写真右はそのダンナ)お薦めはソロアルバム“Hope and Desire”(CD1500円)

最近ハマっているのは、英国出身のアデル(29歳)。Youtubeで見ることができる“Rolling in the Deep“で、その魅力に取り憑かれました。ダイエットなんてどこ吹く風みたいな腕太、足太からの歌声は”Spitfire”という言葉にピッタリかもしれません。ロイヤルアルバートホールでの2枚組ライブには、そのライブ映像が付いています。まぁ、喋る事、喋る事。大阪のねえちゃんの、あんな男捨てたわ、今、もっとええのんおるわ、みたいな関西弁(?)山盛りのトークですが、迫力あります。最後なんか素足で登場、楽しかったわ又来てなぁ〜!とカーテンコールに答えます。若いので、最初の二人に比べれば表現力という点では、まだまだですが、若いからこそ有無を言わさない、一気に突き抜ける姿は実に爽快です。(CD&DVD2200円)

これからのジメジメした季節、なかなか日々の生活にエンジンがかからない時、彼女たちのパワフルな歌声に力が湧いて来ます。

それにしても、皆さん腕っぷし強そうです………..。

昨今、古典文学の漫画化で注目されている近藤ようこの旧作が、久々に何点か入荷しました。

中世末に成立した口伝文芸の説経に長編「小栗判官」を漫画化した「説経 小栗判官」(エンターブレイン600円)。時代ものの短編を集めた「猫の草子」(白水社/絶版900円)、そして今回ご紹介する現代もので、短篇集「春来る鬼」(青林工藝舎/絶版1050円)と長編「アカシアの道」(青林工藝舎/600円)です。

この短篇集に収録されているのは、著者26歳から30歳の時代の作品群です。80年代を生きる女性たちの空しさと孤独、失望を淡々と描いた作品が並んでいます。自立して、前向きに歩んでゆこうとする女性は、ここには登場しません。男との関係にぐたぐだする女性たちが登場してきます。ふっと忍び寄る男の温もりにざわついたり、あり得ない恋の錯覚に幻滅したりと、それは時として自分の体を傷つけることも起こります。この中に、一つだけうだつの上がらないお父さんを描いた「鈴木さんの日曜日」が収録されています。家でも、会社でも居場所のない鈴木さんの大転換を描いた作品ですが、こればかりはペーソスとユーモアたっぷりです。

そして、もう一冊「アカシアの道」は、極めて現代的なテーマを描いています。しっかり者の母親に育てられて、母親にとっては、思うような水準に至らなかった娘が、アルツハイマーを発祥した母の介護のために戻ってくる、というのがお話です。母と娘の葛藤がテーマの長編で、娘であった者には、多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか。

「母がしかたなくわたしを育てたように わたしもしかたなく母の世話をするのだろうか いつまで」という帯の言葉は、厳しい。

解説で赤木かん子は「親とつきあうのがきつい人にとっては、こんな物語はまぎれもなくホラーである。」と断言しています。そして「この話を読んで、いや〜っ!ではなく、ふ〜んとしか思わないですむ人たちの比率って………どのくらいなんだろう」と書いていました。

「誰かを嫌だ、という感情は本人をむしばむものだ」

このコミックのラストは、一応ハッピーエンドです。作家のそうあって欲しい切ない希望なんでしょうね。

 

 

岡本太郎には二冊の自伝的エッセイ集があります。先の大戦で初年兵として中国戦線で軍務についていた時代から、収容所生活を経て帰国し、敗戦国日本の焼け跡から、モダンアートの復興目指して活動し始める日々を綴った「疾走する自画像」(みすず書房/初版/帯/絶版2000円)が入荷しました。10年に渡るパリ時代を記録した「リリカルな自画像」よりも生々しい描写が多く見られます。

例えば「白い馬」。最前線の部隊にいたある夜のこと。大量の水が流れるような音が聞えてくる。音のする方に向かうと、軍馬の死骸がある。

「全身から真白にウジがふき出し、月光のもとに、彫像のように冷たく光っているのだ。ウジのうごめく音が、ザァッと、低いすさまじい威圧感でひびいてくる。鬼気せまるイメージだ。」

生物が生物を食うその瞬間を、岡本は凝視している。きっと、目ん玉ぐっと出して、睨みつけるように見ていたでしょう。

5年にも渡る軍隊生活は、この本の中で「わが二等兵物語」、「落雀の暑」に詳しく描かれています。彼は軍隊内で「自由主義者」のレッテルを貼られます。全く個人の自由を認めない軍隊内でこんなレッテルを付けられる程不名誉はありません。案の定、最前線に送られ「空襲とゲリラの攻撃にさらされ、それからの生活は血と泥にまみれたいちばん辛かった数年感だった。」と振り返っています。

こんな体験を背負って帰国した人間は強い。敗戦後の何もない時代をしたたかに生き抜き、芸術家としての己の表現能力を限界まで引っぱりあげていきます。でも、何故か文体は力んでいません。ホイ、ホイ、ホイと生きてゆく辺り、妙に軽妙な感じさえあります。

巻末で岡本敏子が、彼は自画像は描かなかったが、文章にはいい自画像が沢山あると書いています。

「過酷な軍隊生活を綴った回想も、的確な、容赦ない描写なのだが、醜くない、徒に悲惨で暗黒なのでなく、何かほのぼのとしたユーモアがある。」

独自のユーモアとセンスの良さがあればこそ、戦後のアートの世界で方々に引っ張り出されても、世俗にまみれず、岡本太郎は岡本太郎という独自の地位を保ち続けたのかもしれません。面白いエッセイです。

石牟礼道子を、今年に入って読んでいます。彼女は「苦海浄土 わが水俣病」があまりにも大きな存在であるために、門前で後ずさりしてきた作家でした。しかし、以前にブログで紹介した「椿の海の記」以来、その豊かな世界に魅了されてきました。

今回、読んだのは彼女のファンタジー「水はみどろの宮」(平凡社/初版/絶版1500円)。阿蘇山に近い村で祖父と暮らすお葉。彼女が、山犬らんと深い山奥に入ったり、霊位の高い白狐のごんの守や、霊力のある片耳の猫おノンと交流を深め、人の入ってこない山々を疾走し、大空へと飛翔するお話です。

「山ちゅうもんは、どこまで続いとるか。人間の足では、歩き尽くさんぞ。山があるからこそ川も生まれる。お山は川の、いや人間の祖さまじゃ。そう思わんか、お葉」と爺様に言われたお葉は、彼女にだけ寄り添うらんを伴って山の奥に入っていきます。石牟礼の不思議な世界は、お葉と共に岩を上り、川を渡ってゆく感じです。これ、どこかで見たかもなぁ〜と記憶を辿ると、宮崎の長編アニメ「もののけ姫」の世界でした。あの映画に登場する山犬の姿は、そのまま、らんにスライドします。

物語は途中で、主人公が、お葉と山犬らんから、猫のおノンに変わります。この猫が実に魅力的で、読者を引っ張っていきます。

「いちばんよごれているのは、このあたいじゃ」と拗ねた目で、世間から身を引いた感じが魅力的な猫です。ラスト、盲目になって、お葉と爺様の所に白い仔猫と帰ってくるのですが、その姿が目に浮かんできます。作者はあとがきで、この二匹の猫をこう書いています。

「黒猫おノンと白い子猫は、わたしの仕事場での、大切な家族だった。死なれてしまってたいそう悲しくて、ついにこういう姿で甦らせたのである。死んだ姿をみて、つくづく『変わり果てるとはこういう姿をいうのか』と思ったが、甦らせてみたら、生き生きと霊力をそなえ、もう死なない姿になったと思う」

「苦海浄土 わが水俣病」完成後、長きにわたる水俣病との付き合いで命を擦り切らした彼女は、「水はみどろの宮」に登場する異界に居座ることで、己を癒し、命を再び燃やそうとしていたのかもしれません。それ程に魅力的な世界です

 

「ぼんやりと森に目をやった次の瞬間、視界にすっと灰色の影が踊り出ました。そしてその影は、近くに生えている一本の木の脇で立ち止まり、こちらを振り返ったのです。そこに立っていたのは、一頭の立派なオオカミでした。僕はオオカミを見たことはありません。でも、そのとき確かに、目の前に立っている巨大なイヌ科の動物を見て、なんの疑いもなく『オオカミ』だと思ったのです。オオカミは鋭い視線をこちらに投げかけるやいなや、すばやく森の茂みの奥へと走りさってしまいました。」

これは、「そして、ぼくは旅に出た」(あすなろ書房1400円)の著者、大竹英洋が大学時代のある日、見た夢です。そして、その夢に誘われるように、傑作「ブラザーウルフ」という写真集を出していた写真家、ジム・ブランデンバーグに会いたいと思い立ち、彼が住むミネソタ州北部の森、ノース・ウッズへと旅立ちます。

無茶な旅です。アポも取らず、森のどこかに住んでいる写真家に会いに、できれば弟子入りを頼みたいなどというのは。しかし、彼は憑かれたように、森の奥へと向かいます。カヤックなんて乗ったことのない青年が、悪戦苦闘しながら湖から湖を経て目的の地に着くまでが、本の前半です。

後半は奇跡的にジム・ブランデンバーグに出会った著者が、彼や彼の友人で、探検家ウィル・ステイーガートとの交流を深めてゆく様が描かれています。大自然と共に生きている偉大な男たちに、心揺さぶられる描写がとても魅力的です。

ステイーガートは探検家になるのは簡単だと”Put your boots  and start walking” と、言い放ちます。この言葉を受けて著者は、ソローの名著「森の生活」の一節「最も早い旅人は、足で歩く人である」を思いだします。鉄道や飛行機で旅するには旅費を稼がねばならない。そんな事するぐらいなら、すぐに歩き出せというのです。

著者が、自分の写真をブランデンバーグに見てもらった時、彼はこう言います。「大切なことは、なにを見ようとしているか、その心なんだよ。テクニカルなことは、撮りながら学ぶしかない。」

そして、良い写真が撮れたときの気分を問われると、「ハードワークするんだ…….。努力する。その先にふっと、その瞬間がやってくる。」「それは…….降りてくるんだよ」と言います。「降りて来る」というのは、何事かをやろうと努力し、切磋琢磨する人たち共通の経験ですね。

多くのことを学んだ著者が、写真家として自立すべく日本に戻るところで本は終わります。若さだけが持つ特権の素晴らしさ。機会があれば、ぜひ話を聞いてみたい方です。

ところで、彼が自然の姿を伝えていこうと決心したのは、星野道夫の本との出会いでした。やっぱりね。星野の本を読んでいるような錯覚になった時もありました。

(写真はブランデンバーグの作品です)

 

 

レティシア書房のお客様、作家中村理聖さんの「小説すばる」新人賞受賞後第一作「若葉の宿」(集英社1728円)が発売されたので、平積み(!)中です。

「一年ぶりにハレの舞台に現れた橋弁慶山を見上げると、夏目若葉の心は重たくなった。会所の向いにある町家旅館・山吹屋は、若葉の実家である。町名の由来となった山を眺めていると、汗が噴き出し、不快感が増してゆく。祭りのざわめきが遠く感じられ、違う世界の出来事のように思った。」

という書出しのように、舞台は京都、祗園祭りの鉾町にある小さな旅館山吹屋。祖母とき子に幼い頃より厳しく育てられ、今は老舗の旅館で新米仲居として働く若葉が、小説の主人公です。京都を舞台にしたサスペンスものや、ラブストーリーものは、多数出版されていますが、それらの小説で展開されるようなドラマチックなお話はありません。静謐な筆運びで、旅館の日々と移り変わってゆく京の四季を追いかけていきます。

「祇園祭が終わって八月を迎えると、京都の夏は一段と重苦しくなった。」なんて、文章に出会うと、京都で暮らしている人は、そうそう、と納得してしまいます。こんな時期に京都観光によう来るわ、というのが偽らざる気持ちですが、この小説を読みながら、京都の季節感、その時々の感情を味わって下さい。

事情があって祖父母に育てられた若葉は、自分がこの旅館を継いでゆくことに疑問を持っています。私の人生、これでいいの?一方、古い旅館や、呉服屋さん等が集まる界隈にも、時代の波が押し寄せてきます。「若葉が暮らす中京区でも、小綺麗なホテルやお洒落なマンションが増えていた。近隣にあるマンションで、無断で民泊を始めた住人がいて、そこに泊った外国人たちが、騒音やごみ出しで問題を起こしたこともある。」

変わりゆく京都の街と、自分の生き方に確たるものが見出せない若葉の心の迷いが、巧みに描写されていきます。小説は後半、一気に進みます。その渦に巻き込まれてゆく若葉。自分の居場所を求めて若葉が辿り着いた結論は?

女優で、書評家の中江有里さんは、この小説を「『心あらわれる』とはこういう読後感をいうのだ。」と高く評価されてますが、ページを閉じた時、祇園祭から始まって葵祭の五月で終わるこの小説の、爽やかな初夏の空を見上げた気分になりました。

NHKさん、朝の連続ドラマにいかがですか。

 

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