石牟礼道子を、今年に入って読んでいます。彼女は「苦海浄土 わが水俣病」があまりにも大きな存在であるために、門前で後ずさりしてきた作家でした。しかし、以前にブログで紹介した「椿の海の記」以来、その豊かな世界に魅了されてきました。

今回、読んだのは彼女のファンタジー「水はみどろの宮」(平凡社/初版/絶版1500円)。阿蘇山に近い村で祖父と暮らすお葉。彼女が、山犬らんと深い山奥に入ったり、霊位の高い白狐のごんの守や、霊力のある片耳の猫おノンと交流を深め、人の入ってこない山々を疾走し、大空へと飛翔するお話です。

「山ちゅうもんは、どこまで続いとるか。人間の足では、歩き尽くさんぞ。山があるからこそ川も生まれる。お山は川の、いや人間の祖さまじゃ。そう思わんか、お葉」と爺様に言われたお葉は、彼女にだけ寄り添うらんを伴って山の奥に入っていきます。石牟礼の不思議な世界は、お葉と共に岩を上り、川を渡ってゆく感じです。これ、どこかで見たかもなぁ〜と記憶を辿ると、宮崎の長編アニメ「もののけ姫」の世界でした。あの映画に登場する山犬の姿は、そのまま、らんにスライドします。

物語は途中で、主人公が、お葉と山犬らんから、猫のおノンに変わります。この猫が実に魅力的で、読者を引っ張っていきます。

「いちばんよごれているのは、このあたいじゃ」と拗ねた目で、世間から身を引いた感じが魅力的な猫です。ラスト、盲目になって、お葉と爺様の所に白い仔猫と帰ってくるのですが、その姿が目に浮かんできます。作者はあとがきで、この二匹の猫をこう書いています。

「黒猫おノンと白い子猫は、わたしの仕事場での、大切な家族だった。死なれてしまってたいそう悲しくて、ついにこういう姿で甦らせたのである。死んだ姿をみて、つくづく『変わり果てるとはこういう姿をいうのか』と思ったが、甦らせてみたら、生き生きと霊力をそなえ、もう死なない姿になったと思う」

「苦海浄土 わが水俣病」完成後、長きにわたる水俣病との付き合いで命を擦り切らした彼女は、「水はみどろの宮」に登場する異界に居座ることで、己を癒し、命を再び燃やそうとしていたのかもしれません。それ程に魅力的な世界です

 

「ぼんやりと森に目をやった次の瞬間、視界にすっと灰色の影が踊り出ました。そしてその影は、近くに生えている一本の木の脇で立ち止まり、こちらを振り返ったのです。そこに立っていたのは、一頭の立派なオオカミでした。僕はオオカミを見たことはありません。でも、そのとき確かに、目の前に立っている巨大なイヌ科の動物を見て、なんの疑いもなく『オオカミ』だと思ったのです。オオカミは鋭い視線をこちらに投げかけるやいなや、すばやく森の茂みの奥へと走りさってしまいました。」

これは、「そして、ぼくは旅に出た」(あすなろ書房1400円)の著者、大竹英洋が大学時代のある日、見た夢です。そして、その夢に誘われるように、傑作「ブラザーウルフ」という写真集を出していた写真家、ジム・ブランデンバーグに会いたいと思い立ち、彼が住むミネソタ州北部の森、ノース・ウッズへと旅立ちます。

無茶な旅です。アポも取らず、森のどこかに住んでいる写真家に会いに、できれば弟子入りを頼みたいなどというのは。しかし、彼は憑かれたように、森の奥へと向かいます。カヤックなんて乗ったことのない青年が、悪戦苦闘しながら湖から湖を経て目的の地に着くまでが、本の前半です。

後半は奇跡的にジム・ブランデンバーグに出会った著者が、彼や彼の友人で、探検家ウィル・ステイーガートとの交流を深めてゆく様が描かれています。大自然と共に生きている偉大な男たちに、心揺さぶられる描写がとても魅力的です。

ステイーガートは探検家になるのは簡単だと”Put your boots  and start walking” と、言い放ちます。この言葉を受けて著者は、ソローの名著「森の生活」の一節「最も早い旅人は、足で歩く人である」を思いだします。鉄道や飛行機で旅するには旅費を稼がねばならない。そんな事するぐらいなら、すぐに歩き出せというのです。

著者が、自分の写真をブランデンバーグに見てもらった時、彼はこう言います。「大切なことは、なにを見ようとしているか、その心なんだよ。テクニカルなことは、撮りながら学ぶしかない。」

そして、良い写真が撮れたときの気分を問われると、「ハードワークするんだ…….。努力する。その先にふっと、その瞬間がやってくる。」「それは…….降りてくるんだよ」と言います。「降りて来る」というのは、何事かをやろうと努力し、切磋琢磨する人たち共通の経験ですね。

多くのことを学んだ著者が、写真家として自立すべく日本に戻るところで本は終わります。若さだけが持つ特権の素晴らしさ。機会があれば、ぜひ話を聞いてみたい方です。

ところで、彼が自然の姿を伝えていこうと決心したのは、星野道夫の本との出会いでした。やっぱりね。星野の本を読んでいるような錯覚になった時もありました。

(写真はブランデンバーグの作品です)

 

 

レティシア書房のお客様、作家中村理聖さんの「小説すばる」新人賞受賞後第一作「若葉の宿」(集英社1728円)が発売されたので、平積み(!)中です。

「一年ぶりにハレの舞台に現れた橋弁慶山を見上げると、夏目若葉の心は重たくなった。会所の向いにある町家旅館・山吹屋は、若葉の実家である。町名の由来となった山を眺めていると、汗が噴き出し、不快感が増してゆく。祭りのざわめきが遠く感じられ、違う世界の出来事のように思った。」

という書出しのように、舞台は京都、祗園祭りの鉾町にある小さな旅館山吹屋。祖母とき子に幼い頃より厳しく育てられ、今は老舗の旅館で新米仲居として働く若葉が、小説の主人公です。京都を舞台にしたサスペンスものや、ラブストーリーものは、多数出版されていますが、それらの小説で展開されるようなドラマチックなお話はありません。静謐な筆運びで、旅館の日々と移り変わってゆく京の四季を追いかけていきます。

「祇園祭が終わって八月を迎えると、京都の夏は一段と重苦しくなった。」なんて、文章に出会うと、京都で暮らしている人は、そうそう、と納得してしまいます。こんな時期に京都観光によう来るわ、というのが偽らざる気持ちですが、この小説を読みながら、京都の季節感、その時々の感情を味わって下さい。

事情があって祖父母に育てられた若葉は、自分がこの旅館を継いでゆくことに疑問を持っています。私の人生、これでいいの?一方、古い旅館や、呉服屋さん等が集まる界隈にも、時代の波が押し寄せてきます。「若葉が暮らす中京区でも、小綺麗なホテルやお洒落なマンションが増えていた。近隣にあるマンションで、無断で民泊を始めた住人がいて、そこに泊った外国人たちが、騒音やごみ出しで問題を起こしたこともある。」

変わりゆく京都の街と、自分の生き方に確たるものが見出せない若葉の心の迷いが、巧みに描写されていきます。小説は後半、一気に進みます。その渦に巻き込まれてゆく若葉。自分の居場所を求めて若葉が辿り着いた結論は?

女優で、書評家の中江有里さんは、この小説を「『心あらわれる』とはこういう読後感をいうのだ。」と高く評価されてますが、ページを閉じた時、祇園祭から始まって葵祭の五月で終わるこの小説の、爽やかな初夏の空を見上げた気分になりました。

NHKさん、朝の連続ドラマにいかがですか。

 

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ソール・ライターという写真家をご存知だろうか。

1923年ペンシルバニア生まれ。少年時代にカメラを手にした彼は、23才の時にNYに移り、写真を撮り始めます。その後、英国版ヴォーグ、ELLE等のファッションカメラマンとして活動します。「ソール・ライターのすべて」(青幻舎2700円)は、写真家ライターの魅力をぎゅっと濃縮した一冊です。

60年代から80年代のアメリカ映画、とりわけ舞台がNYなら、作品の内容に関わらず観に行っていた時期がありました。スクリーンに映し出される街並みの魅力的だったことを、今でも記憶しています。映画監督シドニー・ポラックは「雨に濡れた」街並みを撮らせれば、誰にも負けないショットを演出した人ですが、ソール・ライターの雨のNYにも、そんな雰囲気が充満しています。哀愁と孤独が適度にミックスされた作品を見ていると、そこに写っている人物の人生を想像させてくれます。

作品集の後半に、自分の部屋で寛いだり、或は着替えをする女性のヌードが数多く収められています。部屋に射し込む光線を巧みに捉えながら、女性の柔らかな肌を浮かび上がらせ、この街で生き抜く女たちの悲しみ、人生への迷いや覚悟までも、感じさせる作家の力量は凄いとおもいました。

ライターが多感な時代を過ごした1950年代のNYロウアー・イーストサイド地区は、カウンターカルチャーが花開いて、NYアートシーンの中心でした。ライターは、この地で多くの作家、アーティストと交流しました。

しかし、「それが彼の写真にはほとんど影響を与えていないように思える。」と柴田元幸は語っています。そして、21世紀に入ってから街を撮った写真を見ても、被写体の選び方、その奥行き、大胆な構図などに全く変化がないにも関わらず、「時代遅れという印象はまったくない。保守でも、前衛でもない、『ライター流』と言うしかない姿勢が一貫しているのである。」と柴田は言います。(この本の中に「うしろからあなたの左耳をくすぐる写真」というタイトルで収録)

2012年、トーマス・リーチはライターをテーマとした長編ドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』を製作・監督しました。残念ながら京都での上映は終了してしまいました。この写真集でその魅力を味わっていただければと思います。

 

2013年11月26日、ニューヨークで死去。

ある日、世界各地に楕円形の謎の宇宙船がやって来ます。主人公の言語学者は、政府からの依頼で、異星人とコミュニケーションを取るべくその円盤に乗り込みます。その彼女の姿を追いかけたドゥニ・ビルヌーブ監督の映画「メッセージ」は、深い、深い余韻を残す映画でした。只今のところ、今年のベスト1です。

この映画、極めて複雑な手法と脚本で構成されています。それは、ヒロインがこの異星人との交流を通じて、過去、現在、未来が同一次元で体験できるようになった事です。私たちは、過去があって、現在があって、そして未来があるという時間の流れに中で生きています。辛い過去があっても、未来への希望をもって今を生きていけるのは、過去から未来へと流れる時間の流れがあるからです。

 

ところが、彼女は、今を生きるその瞬間に、ひょいと未来が顔を出すのです。そうかと思えば、彼女が経験した過去が、ひょいと通過していきます。観ている者は、そうか、彼女にはこんな辛い過去があって、今があるのかと思ってしまうのですが、違うんです。このあたりのことは、私の拙い文章力では、表現しきれません。映画館の暗闇で、ヒロインと一緒に”体験”してください。決して難しいことではなく、心に深く響いてきます。ラストで、彼女は未来がわかっていても、その人生を選び取る覚悟を決めます。顔を上げ、きゅっと唇を結んだその表情がたまらなくステキです。

 

ところで、極めて東洋的だと思いました。異星人たちが使う言語は、墨で水中に書いているかのような形です。そして、すべて、禅宗の絵みたいな、完結しない円を様々なパターンで使ってコミュニケイトしてきます。そして、異星人たちの姿は、一見すると八本足の大きな生き物なのですが、巨木にも見えてきます。例えば屋久島や、白神山地にある古木、触れれば木の中を流れる水の音が聴こえてきそうな古い巨木。そこに神が宿るように思えます。だから、わりと馴染んで、心に響いてくるのかもしれません。

「シン・ゴジラ」を世に送り出した樋口真嗣監督が、「こんな映画を作りたいという人がいて、いいよ作れば、と資金を出した人がいて、それを観たいという人がいることが凄い。」と話しているのを見ました。なんというか、幸せな映画なんです。

 

今年も、ARK(アニマルレフュージ関西)の写真展を開催することができました。ARKは、イギリス人エリザベス・オリバーさんを中心に1990年に大阪で設立されました。捨てられたり、虐待されたりしていた犬や猫たちを保護する活動を続けています。我が家のマロン(雑種犬)も11年前にARKからやってきて、16才になりました。

レティシア書房では5回目となる今回、ARKの写真を2006年からボランティアで取り続けている原田京子さんから、「新しい写真が間に合わないのだけれど、いままで撮った中から、レティシアセレクトお願い出来ませんか?」と連絡を頂き、店長と二人で選んだ作品が並びました。原田さん曰く「シブい選択」だそうで、これまでの作品展で取り上げられることが少なかった子達も登場。

 

私は、白猫アリエル(写真左)の表情に魅かれました。ARKの前に捨てられていた11匹の猫のうちの1匹ですが、ARKで働いていた平田さん(マロンを引き取る時にお世話になりました!)のもとで、昨年天国に旅立ったということです。 大きな猫(8kg)と小さな犬(1kg)フーちゃんとニックの日常風景は、思わずふっと笑ってしまいます。そして、湖のほとりに捨てられていた犬、結(写真右)と名付けられたこの子は聴導犬協会に見初められて訓練中というエピソードなど、キャプションを読んでいると彼らに親しみがわいてきます。

この写真展のタイトル「犬生、猫生、人生。」が示すように、犬でも人間でも命の大切さは一緒。どの生にも未来はあります。人と動物が一緒にいい明日を迎えられたらどれほど幸せでしょう。縁あって我が家に住みついた犬と猫も、暢気に寝たり食べたり(時々いたずらもしたり、振り回されもしますが)しているだけで、毎日小さな喜びを運んでくれます。

写真展では、Tシャツ、ポストカード、クリアファイル、キーホルダー、お散歩バッグ等々、ARKのグッズも販売しています。売上金はすべてARKの活動資金に役立てるために寄付いたします。(女房)

 

ARK写真展2017「犬生、猫生、人生。」は6月18日(日)まで。月曜定休日。最終日18時まで。

 

 

 

 

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なんの変哲もない門と時計台、そして奥に見える平屋建ての建物。門の前をドッジボールで遊ぶ少女。どこにでもありそうな風景を描いた「時計のある門」(1935年)から伝わってくる透明な静寂感は、観るものに様々な物語を投げかけてくるようです。

画家長谷川潾二郎が、パリに旅立つ直前のこと、麻布にあるこの赤煉瓦の堀のある建物(正確には東京麻布天文台ですが)を見た瞬間に、その素敵な雰囲気に魅了された彼は描こうと思いたちますが、諸事情で断念。しかし、パリから帰国して三年、この風景が心に浮かんできます。

「塀は私が描きに来るのを待っていたようだった。そして私はこの塀を描くために巴里から帰ってきた。そんな気がした。……」

画家が、やぁ、待たせたねと挨拶して塀の向こうへ消えてゆく姿を想像しました。

或は、夕暮の荻窪を描いた「荻窪風景」(1953)。初夏らしいある日の夕暮れ。道の向こうに女の子が誰かを待っています。画面のこちらから、仕事を終えたお父さんが帰って来る。手を降る女の子。並んで家路に就くのだろうか、と思いをめぐらせる小さな幸せが満ちた作品です。

長谷川の静物も魅力的です。この画文集の中からなら、私は「洋燈のある静物」が好きです。赤い縞のテーブルクロスの上に乗ったランプと洋書、そしてパイプと植物を入れた小瓶。まるで「暮らしの手帳」の表紙絵みたいな雰囲気です。日曜日の静かな午後のゆったりした幸せが漂ってくるようです。

猫好きの長谷川だから描けた「猫」(1966)。午睡に耽る猫の細やかな表情。赤い絨毯のぬくもりが伝わってくる作品です。この愛猫タローを描くのに、5年の歳月をかけたみたいです。画文集には長谷川自身の「タローの思い出」という文が載っています。ある時、彼はタローの履歴書を作ろうと決心します。これが傑作。姓名に始まり、現住所、本籍(エジプト)、職業(万国なまけもの協会日本支部名誉顧問)と続きます。体重は「ずっしり重し」には笑えます。

タローが死んで、庭に埋葬した後、どこからともなく現れた白い猫の話は、ペットを飼われている方、あるいは見送った方には涙ものです。

「長谷川潾二郎画文集−静かな奇譚」(求龍堂)は2400円で販売しています。

 

 

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素人の夫婦がマンションを設計し、建築し、運営した。しかも5階建て!

JR高知駅から10分、500坪の敷地に建つ、白亜の「沢田マンション」。建設着工が1971年。今も夫婦とその子供たち、そしてその連れ合いの手によって増築、改築が続行中です。再度言いますが、ど素人の夫婦が建てたのです。小説でも、映画でもありません。今もこのマンションで暮らしている方が大勢おられます。

オーナー夫婦に密着したノンフィクション古庄弘枝「沢田マンション物語」(情報センター出版局/絶版1900円)は、とても面白い本でした。とにかくすべてが想定外の物語です。例えば、今でも家賃を払わず夜逃げする人が何人もいる。しかし、オーナーの沢田嘉農さんは「逃げる方が、考えたらずっと気兼ねして、ずっと骨がおれよる」と「夜逃げ黙認」です。

「お金というものに全くこだわらん。カネ、カネじゃったら心が汚くなるじゃろ。お金を思わん方が一番、幸せじゃ」

しかし、その一方遊び人風情はお断りで、例えば全く家賃を払わなかった男に、「部屋を壊すぞ」と何度も警告するも居座り続けたので、ついにハンマーで部屋を壊し始めるという武勇伝もあります。

沢田嘉農さんは1927年高知県の生まれです。いかにして、こんな人物が出来上がったのかは、第二章「奇才誕生」秘話をお読みください。ここだけでも、大河ドラマ一本分の面白さです。

最近、このマンションには、全国から建築の専門家や、環境デザインの専門家が頻繁に訪れています。このマンションには「楽しく暮す空間」、「自然との共生」といった現代的テーマの答えがあるからです。効率至上主義で建てられたマンションには、何ら心ときめくものはありません。

本の著者の古庄はこう書いています。

「経済効率優先の思想のもとで捨象されてきた『無駄』、それが何だったのかを見せてくれるのが、沢田マンションなのである。実はこの『無駄』にこそ、豊かな暮しのヒントが隠されていることを、ようやく専門家たちが気づきはじめたということだろう。」

あっけにとられて読み進んでいくうちに、この夫妻から、ダウンサイジングした環境でいかに、面白く生きてゆくかのヒントを教えられます。

こんな事もおっしゃってます

「困ったとき、いい争いになったとき、人の心は直せなくとも、自分の心は直せる」

大勢に影響がないなら、自分の気持ちの持ちようを変えた方がいい。他人の言動に振り回されずに、「自分は自分」と構えていられるという事です。さすが、多くの修羅場をくぐり抜けた人の言葉です。

 

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翻って、私の芥川龍之介体験は、碌でもないものでした。高校の現代国語の授業、真面目なだけの京大文学部卒の先生が嫌いで、クーラーのない教室で真夏に、龍之介を読まされる苦痛。しかも、教室は、男、男、男!!(つまり男子校)。こんな環境だったので、「龍之介はつまらない」という思い出だけがあって、遠ざかっていました。

しかし、短篇集「舞踏会 蜜柑」(角川文庫300円)に収録されていた「蜜柑」を読んだ時、大正時代にこんな斬新な小説を書いていたのか!!と驚きました。僅か、数ページの小説ですが、もうそのまま映画になりそうな程に映像として迫ってきます。

「ある曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待っていた。」で、小説は始まります。主人公の前に「いかにも田舎者らしい娘」が坐っています。「私はこの小娘の下品な顔立ちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。」

主人公は上流階級の人間なのでしょうね、こんな娘の何もかもがうっとおしいんです。その内、列車はトンネルに差し掛かります。その時、小娘は、無理矢理窓を開けようとします。蒸気機関車の時代ですから、窓を開けたままトンネルに突入すればどうなるかは、蒸気機関車が先導する列車の乗った方なら、その悲惨な状況はご存知ですね。

しかし、小娘はおかまいなく、窓から身を乗り出して前方を凝視しています。今にも怒り出そうとしている主人公は、その時、前方の踏切の前に、三人の男の子を見つけます。

その瞬間、身を乗り出していた小娘が持っていた蜜柑を男の子達に投げつけます。

「私は思わず息をのんだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、おそらくこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾かの蜜柑を投げて、わざわざ踏切まで見送りにきた弟たちの労に報いたのである」

空を舞う蜜柑の橙色と、列車の音、声を上げる男の子たち、そして小娘とそれを見つめる主人公の姿が映画のように流れていきます。芥川の小説が技巧に走り過ぎていると言われるのは、この辺りの描写かもしれません。

小説は、最後この小娘を見上げた主人公にこんな台詞を言わせて終わります。

「私はこの時初めて、言いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可思議な、下品な、退屈な人生をわずかに忘れることができたのである」

作家、梨木香歩は中学二年生の時に、芥川にハマったと書いていました。私の場合、遅すぎたかもしれませんが、彼の短編を読んでいこうと思いました。この短篇集には、三島由紀夫が高く評価した「舞踏会」(これも素敵でした)など大正8年に描かれた作品が十数作収録されています。時代小説「鼠小僧次郎吉」なんて、音読したいような、キリリとした江戸言葉一杯です。

スペインの映画監督ペドロ・アルモドパルの最新作「ジュリエッタ」の原作、アリス・マンロー著「ジュリエット」(新潮社クレストブックス1900円)が入荷しました。マンローは短編小説の名手として知られています。この本も8本の短編が収録されていて、「ジュリエット」「チャンス」「すぐに」は、ジュリエットという一人の女性の人生を描いた連作短編で、マンローの愛読家だったアルモドバルが映画化しました。

大学院生だったジュリエットが、列車で乗り合わせた漁師と恋に落ち、結婚し、娘を出産します。人生が順調に進んでいたと思っていた矢先、夫は嵐の中、漁に出て遭難。娘はある日、家を飛び出し失踪。田舎に残した両親ともわだかまりが溜まってゆく。そして、娘の失踪先が判明し…….というのが三つの短編で描かれています。

角田光代は、マンロー的世界を見事に表現しています。

「アリス・マンローの短編小説は、読むというより「触れる」に近い。異なる時代、異なる場所で生きるだれかの人生に、否応もなく触れてしまう。その人生ががらりと変わってしまう一瞬に立ち会い、目撃してしまう。そんなちっぽけなことで人生はこうも変わるのかと、打ちのめされたように思う。それでも人生は続き、私はわからなくなってくる。あのときこうしていたら今より幸福だったのか? 不幸だったのか? だれかの、ではなく、自分のことのように。そして思う。生きることは、もしかしたら、幸福とも不幸ともまったく関係ない、それらを凌駕するようなものなのではないか、と。」

映画版「ジュリエット」ラストも、これから先に幸せがあるのか、そうでないのかわからない終わり方をします。角田の言う「生きることは、もしかしたら、幸福とも不幸ともまったく関係ない」、ひたすら続くのだ、という事でしょう。ジュリエットが乗る車の前に蛇行しながら続くハイウェイが、そのシンボルだとすれば、監督は見事に小説の世界を映画化しています。女性を、母を、そして、親子を様々なスタイルで描いてきたアルモドパルが、やはり女性の一生を描いてきたマンローに傾倒していたのは当然だったかもしれません。

書店経営を経て作家になったマンロー、73歳(2004年)の時に刊行された本短編集には、ハッピーエンドは用意されていません。けれども、だからといってそれは悲劇でもないのです。そこが面白いところです。

ヒラリーさんが、マンローの愛読者らしいのですが、政治的手腕はともかく、こんな”めんどくさそうな”小説に目を向けないだろうトランプさんよりは、マシだろうという気はします。

「ジュリエット」以外にも、優れた海外文学を翻訳している「クレストブックス」が何点か入荷しています。ブックデザインも素敵です。