石牟礼道子は、大学の人文ゼミで、「苦海浄土」が取り上げられたときに知りました。当時、女子大学のお嬢様と遊ぶことにのみ、血道を上げていたアホンダラ学生だった私には、水俣って?公害?はぁ〜??というぐらいの意識しかなく、ノンフィクションか小説か判断できないこの作品を、めんどくさいなぁ〜と、適当にコピペ(そんなもん当時はないのですが)してレポート提出した記憶があります。

それから数十年。再び彼女の作品と巡り会いました。「椿の海の気」がそれです。小説なのか、エッセイなのか、自伝なのか分けることができない250ページ程の作品です。解説で、池澤夏樹がゆっくり読むことを提唱し、「一行ずつを賞味するように丁寧の読まなければたくさんのものを取りこぼしてしまう」と書いています。

それで、一日数ページぐらいの速度で読んでいきました。読み終わった時、自分の部屋から遠く離れて、もの凄い深い場所から戻ってきた感覚が襲ってきました。

池澤が「これは、どういう種類の本なのだ?随筆とかエッセーと呼ぶにはあまりにも濃密、自伝といったって四歳までの自伝なんてあるだろうか?」と疑問符を付けていますが、著者が育った、昭和初期の水俣のゆたかな自然環境、濃密な家族関係、集落の人間関係が語られています。一つ一つの言葉を踏みしめながら、深い森にわけいっていくという作品です。

少女は、「この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になると」感じていました。それは、大人になれば、神とか創造主とかの言葉で置き換えられるのですが、幼い彼女はこう思っていました

「そのころ感じていた気配は、非常に年をとってはいるが、生々しい楽天的なおじいさんの妖精のようなもので、自分といのちの切れていないなにものかだった。おかっぱの首すじのうしろから風が和んできて、ふっと衿足に吹き入れられることがある。するとうしろの方に抜き足さし足近寄っていたものが、振り返ってみた木蓮のかげにかくれている気配がある。」

水俣の豊かな原風景が彼女を育てたことが、「苦海浄土」を生む原動力になったのでしょう。どんな作家もそうだと思いますが、程度の差こそあれ、自分が紡ぎだしてきた言葉には魂をこめていると思います。石牟礼道子の場合、それが深く、深く響いてきます。だからこそ、ゆっくりと読まければ、そして再読しなければならない作家なのだと思います。

「椿の海の気」が収録されている「日本文学全集24石牟礼道子」(河出書房新社)は、1800円です。