様々なジャンルで活躍する安田登は、下掛宝生流能楽師です。「見えないものを探す旅」(亜紀書房/新刊書/1650円)は、古典文学、能楽などを、今を生きる私たちの目の前に表出させて、生きることを考えるヒントを提示してくれます。

「姥捨」という能は、主役(能楽ではシテと呼ばれる)は姥捨山に捨てられた老女です。孤独を受け入れ、夜空に光る月を友として暮らしています。そんな老婆のところに立ち寄った旅人の前で、「胡蝶の舞を戯れ舞い、ついに月と一体化して山気の中に昇華する」のです。

「かつて日本人は、孤独の中で一体化するすべを知っていた。それは、姥捨山に捨てられた老女という、絶対の孤独者であってすらだ。そして、それは芸能として長きに亘って人々に、老いとは何か、孤独とは何かという問いかけを投げかけていた。それは孤独の芸能、能だからできたことではなかっただろうか。

現代人である私たちは、そこから何を学び、未来に向けて何を提示することができるだろうか。」

 

本書は、「旅」「夢と鬼神 夏目漱石と三島由紀夫」「神々と非在 古事記と松尾芭蕉」「能の中の中国」そして「日常の向こう側」に分かれています。タイトルだけ見れば、文学評論、古典芸能評論っぽい感じを持たれるかもしれませんが、能の演目なんて知らなくても、著者がその世界へと連れて行ってくれます。

ところで、著者は能でいうワキ(シテに対して)役者です。能の舞台では、ワキだけが亡霊に出会えるのです。その理由を「ワキは、『分く』を語源とする『境界にいる人物』だからだ。この世とあの世、生者と死者との境界にいる。」と解説しています。

「ワキには、本来出会うことができないあの世とこの世とを『ここ』で出会わせてしまう力もある。だからこそ、能の観客も、ワキの目を通じてあの世を見ることができるのだ。」

不思議な芸能ですね。

この世とあの世の境界にいる「ワキ」は、安田がよく使う「あはい」という言葉とも重なっています。「あはい」は、例えばお盆という時のようにあの世とこの世の接点で、それは、「間」とは違い、少し重なった「糊代」のようなもの。建築でいえば縁側みたいに外と内を緩やかに繋ぐような。生活の中でいえば、「門掃き」のように、自分の家の前だけでなく隣家の前も少しだけ掃除するような。または「掛詞」のように意味を重ねて使うような。

日本にはそういう「あはい」の文化がもともとあることを、能楽や古典から引っ張ってきて、その面白さを平易に伝えてくれます。