ミシマ社の新刊、いとうせいこう著「ど忘れ書道」(1760円)は、50歳以上の皆さま必読の書。「私の崩壊。その過程をみなさんに目撃していただきたいと思う」と著者は書いていますが、これは、あなたの「ど忘れ」の現場を経験する本でもあります。

「忘れてしまった言葉を一枚の紙に、そのたびごとに丁寧に書き記していく。それが『ど忘れ書道』である。」

その書き留めた言葉の数々を、2011年2月から19年10月まで記録しました。「しぼり染め」という言葉が、中々出てこなくて、そこにいた人に著者はこんな風にたずねます。

「あのー、ほら、布とかで点々になってて、染料をそこだけ抜いて」

こんなこと、ご経験ありませんか?「えーと、あの人誰だっけ。あの俺の大好きな人、ほらほら…….」なんて事、もう私などしょっちゅうです。さらにそこに、人間の脳みそのメモリの不具合で、言い間違いも多くなってきます。

ミュージシャンでもある著者は、ハモニカの名手「ピアニカ前田」を「ハモニカ前田」と発言したり、「ボジョレー・ヌーボー」を「「ムーランルージュ」と発言して、その場を繕うのに冷汗をかいたり。我が身のこと思うと笑えません。

さらに、「ど忘れ書道」に「言い間違い書道」に「書き損こない書道」が加わってきます。

「爪と瓜に関しても、どちらかを書く前に『爪にツメなし、瓜にツメあり』と口の中で言う。考と孝も一瞬詰まる。『考える』と書きたいときに、親孝行の孝がよぎる。」という具合です。PCや携帯の変換機能で文章の大半を書いている者にとっては、世代を超えて、これは日々起こっています。

私もほぼ毎日のように、知っているはずの名前が浮かんでこない。著者は、紅白歌合戦に出ていた美輪明宏でした。

「『いやあ、昨日のあれはやっぱりすごかったね。あの人の歌は』と言い出している自分がいて、これは絶対に名前が出てこないと気づいている自分もいた。黒蜥蜴とか三島由紀夫とか類縁語はいくらでも出てくるが、固有名詞というものはおそろしい。」

と、こういう事例が山のように登場してきます。でも、心配ご無用。著者は最後にこう言い切っています。

「もはや何をどう忘れたのか、その真実の層が幾重にもなっていてよくわからない。すべては霧の中だし、それでいいと近頃の私は考えている。いや、感じている。」ありがとう。気が楽になります。