文化人類学者の今福龍太。宮沢賢治の未完の草稿にスポットを当てて、新しい賢治像を模索した「宮沢賢治デクノボーの叡智」(新潮選書/古書1000円)が店にあって、読みたいと思いつつ約400ページの分厚さに尻込みしているところです。

一方、昆虫を追い求めた著者の少年時代を振り返った「ぼくの昆虫学の先生たちへ」(筑摩書房/新刊1870円)は、読みやすい一冊でした。著者が尊敬する昆虫学の先生たちへの架空の書簡を通して描いているところが面白い。

登場する先生は、アンリ・ファーブル、ダーウィン、ヘルマン・ヘッセ、北杜夫、手塚治虫、ウラジミール・ナバコフ、安部公房、などの十四人です。学者だけではなく、文学者や漫画家が入っていますが、皆さん昆虫に深く関係しているのです。

そして著者が注目しているのは、彼らが、近代科学の機械論的な世界観に疑問を抱いているということ。実証的データを基本に、全ての自然科学現象のメカニズムを完全に解明できるという考え方に疑問を持っていた人々だということです。

「科学的理性だけでは説明できない領域が世界には存在することをいちはやく語ろうとしました。だからこそ、そこでは文学と科学との、芸術と自然科学との豊かな交差が必要だったのです。だれよりも、『昆虫記』の執筆に生涯を捧げた博物学者アンリ・ファーブル自身が、南フランスで消えかかるオック語の復興運動に深く関わったオック語詩人でもありました。」

本書は、昆虫少年だった著者の昆虫への深い愛情を告白したものではなく、昆虫を通して、自然を、文学を、そして世界を理解するに至った日々を、架空書簡に託して表現したものだと思います。

なるほど、そういう解釈か!と唸ったのは、安部公房の「砂の女」でした。なぜ、主人公が砂嵐の中に埋もれたような村へ向かったのかというと、作者は、主人公が砂地に棲む珍しい昆虫を求めて砂丘地帯を訪れるという設定にしました。趣味的な昆虫採集のために失踪したことについて著者はこう書いています。

「男の失踪のきっかけが、想像力をたくましくさせる物語を生むであろう、都会からの逃亡とか、心中とか、誘拐とかではなく、たんなる趣味的な昆虫採集のためだったという拍子抜けするような設定をあえて選ぶことで、先生はこの小説に俗っぽい心理学的解釈が入り込む余地をあらかじめ消し去ったのです。そんな通俗心理の空白地帯に広がる、より不条理な精神の荒野に近づくために選ばれたのが、それじたいいかなる心の産物でもない、無機的な砂であり、人間ならざる昆虫でした。」

昆虫好きな人にも、昆虫なんて見るのも触るのも嫌いという人にも、お勧めしたい一冊です。