熊本にある小さな書店、橙書店。店主の田尻久子さんは、文芸誌「アルテリ」(第5号1080円)を編集されています。この雑誌については、ブログで紹介しました。

つい最近、田尻さんのほぼ書き下ろしのエッセイ集「猫はしっぽでしゃべる」(ナナロク社/新刊1512円)が出ました。一度はお邪魔したい書店の店主の本なので、早速読みました。

田尻さんのお客様への、そして本への深い愛情に満ちあふれた文章を読んでしまうと、私のブログなんて、実にお粗末なものだということを痛感しました。

「涙腺は、ゆるくなるのではない。よく、年を取って涙もろくなったと老化現象のように言われるが、泣く筋力がついたのだと思いたい。本を読み映画を観る。誰かに会う。言葉を交わす。たとえひどい出来事を経験したとしても、人は必ず何かを得ている。経験は想像力を与えてくれ、泣くツボを日に日に増やしていくのだろう」

読み始めてすぐに、こんな文章にぶつかってしまいました。彼女が日々、真摯に生きてきた中から生まれてきたものです。

ポール・オースターの「冬の日誌」について、「本を読んでいても、行間で心が浮遊している。マンハッタンを彷徨いつつ、過去の自分の部屋に行く。これを旅と言ってもおかしくはないだろう。本と身ひとつ、他には何もいらない。私たちには、想像力という乗り物がある。身体移動しないで、旅をする。」と書かれています。単なる本の解説、紹介だけでなく読書の深い楽しみが伝わって来ます。

そして、書物への深い愛に溢れた作品を出版し続ける夏葉社の「さよならのあとで」(1404円)を、たった一つの詩が悲しみにくれる人の心を支えてくれる本だと書かれていました。彼女の店に、この本を二冊買いにきたお客様を見て、夏葉社の島田代表にこう伝えています。

「一冊は贈り物で。この人と、この人の大切な誰かに、かなしみが訪れたのだろうか。そんなことを考えながら、お包みした。そのとき、この本は突然に必要になるから、切らしてはいけない、と思った。」

「この本は突然に必要になるから、切らしてはいけない」これは、私も日々思っていることです。人生の様々な場面で、本が、映画が、あるいは音楽が、その人を支える時がある。だからこそ、その人のために本を揃えておく。本屋の心構えを再確認しました。

本の最後で、アンソニー・ドーアの傑作「すべて見えない光」(新潮社/古書2400円)が取り上げられています。ナチドイツの将校になった少年と、パリに住む盲目の少女の、一瞬の邂逅を描いた長編です。この中で、少女マリーがパリから避難する時に、大事な点字の本を置いていかざるを得ない状況になります。読んでいる最中の「海底二万里」を置き去りにするシーンを田尻さんはこう書いています。

「本はいつも、目の見えないマリーの世界を解放し、抱きしめ、勇気づけてきた。持っていけないことが、私も悲しかった。」

読書をすることが、血となり肉となった人にしか書けない文章ですね。

私ごときが、もうこれ以上グタグタ言うのはやめます。読書を愛する人なら、ぜひぜひ読んで下さい。

 

文月悠光という詩人をご存知ですか。高校3年の時に出した第1詩集「適切な世界の適切ならざる私」で、中原中也賞を18受賞した若き詩人です。彼女が書いた初のエッセイが「洗礼ダイアリー」(ポプラ社/古書1200円)です。

「2014年の春、大学を卒業したものの、就職はせず、詩人という名の無職になった。」

しかし、生活はしていかねばならない。生まれて初めてのアルバイト。上手くいかないことだらけで、周囲との違和感に悩みます。

「筆一本で食べていくのは無謀だと誰もがいう。書くことなんて労働じゃない、と言う人もいる。でも、何が現実的な選択なのか、それは私自身にしかわからないのでは?」

アルバイトを辞め、自らの道を歩き出します。詩人としてライブイベントに参加した時、初対面の男性から、「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。セックスしてる?」と、言われ、呆気にとられます。セクハラ発言を軽くあしらうことができず、あたふたしつつも、世のセクハラに真っ向から立ち向かい、臆病な女子を演じることなく、こう言いきります。

「堂々と言おう。恋人がいなくても、セックスしなくても、詩は書ける。どんなときでも、飛びきり良い詩を提供できる。今の私には、それが一番まっとうな現実なのだ」

生きづらいこの世界で、抗いながらも、自分のあるべき姿を見つけていきます。

本の最後に、祖母との別れが語られます。彼女が小さい時、急に同居することになった祖母が、老いて、痴呆が進行し、家の中が崩れてゆくのを間近で見ます。そして天国へと旅立ったあと、彼女はこう思います。

「肉親と間近に向き合えば、必ず『ゆるせない』という憎しみの念と、『大事にしなければ』という相反する思いのあいだで引き裂かれる。私は自分の詩の中で、祖母との再会を夢見た。『悪い孫』だった自分、祖母が背負った『老い』の問題、空気のような家族のこと……..。人が生きて死ぬということは、こんなにも大変で途方もないことか。」

詩作で、そんな思いが解放されるわけではないけれど、祖母との重く、深い記憶をたぐりよせながら、

「人は一人で生きられない。一人で生きさせてもらえない。周りの手を煩わせ、周りに絶えず煩わされる。そのことを苦痛にも歓びにも感じながら、人々は悠々と生きるのだ」と、書いて本は終ります。

等身大で現実を見つめ、生きることを詩に託した若い女性のドキュメントです。

小川洋子編集による短篇アンソロジー集「小川洋子の陶酔短篇箱」(河出書房新社950円)が入荷しました。すでに出ている「小川洋子の偏愛短篇箱」に続いて出版されたもので、彼女のセンスの良さと、嗜好を垣間みるアンソロジーです。収録されている作家は16人。

葛西善蔵、泉鏡花、梶井基次郎、木山捷平、井伏鱒二、庄野潤三、武者小路実篤、中井英夫等の文学史を飾る作家があると思えば、川上弘美、魚住陽子、小池真理子、岸本佐和子等の現役作家も収録されています。そして、各々の短篇について小川洋子のエッセイが付いています。

私は、葛西の作品を最初に読みました。困窮生活で心身を壊されながら作品を発表した、典型的私小説家の「遊動円木」という数ページの作品です。遊園地にあるお馴染みの遊戯器具が登場します。このエッセイが面白い。

「遊動円木を自在に操れる女の人とは、良い友だちになれそうな気がする。ブランコを数倍凶暴にしたようなあの遊動円木を乗りこなすには、さまざまな能力が必要とされるだろう。」

えっ?そうなん?と訝しく思いつつも読んでゆくと、身体能力の優れた女性への憧れが分かってきます。

あるいは、むわぁ〜とエロチックな香りの立ち上りそうな木山捷平の「逢びき」についてのエッセイでは

「ここで一番大切なのは、ズロースとは何か、という問題である。」で始まり、「言葉の響きからすると、パンツ、が無邪気に勢いよく弾けているのに比べ、ズロースの方が引っ込み思案でややもっさりした印象を受ける。これがノー・ズロース、になると途端に世間ずれした、あるいは生活にちょっと疲れた雰囲気が出てくるから不思議だ。その点、ノー・パンはもっと単純にいやらしい。」そして、こう締めくくります。

「屈折した陰翳の深みを隠しているのは、圧倒的にノー・ズロースである。」

いやぁ、すべてのエッセイが面白く、取り上げた短篇をもとに、見事に小川洋子的世界が作り上げられています。気づくと、小説の中身のことよりも、エッセイの方に夢中になっているという、著者の術中にはまり込んでしまいました。

因みに私のお気に入りは、中井英夫の「牧神の春」とそのエッセイ「動物園の檻」でした。