「私はこれまで、他人のためにはもとより、自分自身のためにさえ、奮発したという覚えがいちどもありません。何もそれを自慢にしているわけではないのですが。」

と、下向きな文章を書いているのは、「落穂拾ひ」「小さな町」などの短編小説で多くのファンを持っている小山清です。1911年東京浅草生まれ、太宰治に師事し小説家の道を目指しました。58年に脳血栓で倒れ、65年死去。

先月夏葉社より、小山が1950年代に、様々な雑誌等に掲載したエッセイをまとめた「風のたより」(夏葉社/新刊1760円)が出版されました。「清純な作家が残した、つつましやかな11編の随筆」と、帯に書かれている通りの随筆集です。身の回りのあれこれを文章にしたものばかりで特にどうといった感じではないのですが、読んでいると、何やら穏やかな気分になってくるのです。

「動物園にて」というエッセイで、狐の獣舎に立つ青年をこう描写しています。

「その青年はビスケットを入れた大きな袋を携帯していて、動物たちの小屋を一つ一つ見舞っていた。その青年は狐の小屋の前にも立った。狐は青年の掌からビスケットをもらって食べた。青年には狐の臭さに辟易している様子はさらに見えなかった。

私はなんて優しい人だろうと思った。この青年はきっと素直な、正直な心の持主に違いない。」

他人を見つめる優しい眼差し。

また「私について」の章では、

「私には生活信条のようなものは、なんにもない。ややはっきりしているものは、好き嫌いであるが、これだって必ずしも頑固に主張しようとは思わない。人と気まずくなるよりは、妥協したい方である。私の二、三の小説だって、自分の好き嫌いをはっきりさせるというよりは、ただ『自分の好き』をだらしなく氾濫させたものでしかないだろう。」と書いています。

欲がないというべきか。ほんとうに慎ましいと言うほかないと思います。しかし一方で、「私が勤先の金を盗んで刑務所にはいったのは、いまから二十余年も昔のことになります。」と「その頃のこと」の冒頭にありました。荒れた刑務所生活のことを書いているかと思えば、愛着の湧いた看守さんに呼称番号を呼ばれた思い出を書いているのです。

高橋和枝の装画がとても暖かく、相変わらず素敵な装丁の美しい本です。

おそらく現代では出てこない小説家ですね。なお当店には、昭和28年に発行された「落穂拾ひ」(筑摩書房・初版/古書6000円)があります。

 

 

「人声天語」、これ「天声人語」の間違いではありません。書評、エッセイで多くの著書を残した坪内祐三が、2003年から続いた「文藝春秋」の長寿連載のエッセイで、2015年〜2020年間の中からチョイスしたものが「最後の人声天語」(文春新書/古書500円)です。

著者は、ご存知のように本についての著作を数多く残しています。本書でも、本について書かれたものが多いのですが、それ以外にも愛して止まなかった洋楽、名画座、大相撲、古い佇まいを残す街並みなどについて、コラムとしてまとめたものが入っています。中には、あれ?これ今書いたの?と錯覚してしまう文章もあります。例えば、2016年10月号に載った「この夏ひとつの時代が終わった」です。

2015年が戦後70年の節目で話題になりましたが、2016年、天皇の生前退位が決まり、戦後71年目で平成が終わったのです。さらに平成を駆け抜けたスマップの解散、リオオリンピックでメダルの数が前回より増えたとマスコミが大騒ぎするなか、著者はこう締めくくります。

「そして、次はいよいよ東京だ。だが果たして四年後、新しい時代にオリンピックが開かれるのだろうか。私はリアリティを持ってその姿を想像することが出来ない。」

6年前の文章ですから、もちろんコロナなんて存在していません。コロナがなくてもオリンピックなど時代遅れではなかったのか。偶然とは言え今の状況を予言してるようで驚きます。

また2017年12月号では、「私は殆ど棄権をしたことがない」と必ず選挙には出向くことから始まって、「昔は面白い泡沫候補がいて、主にそういう人に入れた。アントニオ猪木が党首をつとめたスポーツ平和党に一票を投じ、友人たちから選挙を馬鹿にしていると批判されたが、同党は最後の最後で比例区をとり私の一票は超有力票となったこともある。」

そして「私は池田勇人以降の総理大臣を知っているが、その中で安倍晋三は最悪だと思う。いや、もう一人いた。麻生太郎。何しろその二人が今の内閣のツートップなのだから。だが自民党以上に嫌いなのが希望の党だ(安倍晋三よりもずっと小池百合子の方が嫌い)」これには思わず、いいね!と言いたくなりました。

肩の凝らない読み物として、どこから読んでも面白い一冊です。中野翠が各コラムに書いているイラストも楽しい。

夏葉社の新刊「サンライト」(2160円)は、永井宏の初のアンソロジーです。彼の著作はほぼ全て読んでいます。この人の言葉は、人を一歩前に押し出して、さぁ、楽しもうよ!という気持ちにしてくれます。後書きで、、やはり彼に後押しされて出版社「アノニマスタジオ」を立ち上げた丹治史彦が、永井宏のことをこう表現しています。

「一番最初に先ず『励ます人』という言葉が思い浮かぶ。『背中を押す人』『けしかける人』『種をまく人』、言い方はいろいろあるが、永井さんはとにかく人に何かをすることを勧めるのが上手だった。」

私が初めて読んだのは、大きな書店を任されて、にっちもさっちもならない時だったと記憶しています。「がんばれ」とか「諦めるな」とかそんな野暮なことを言わず、気持ちよく仕事をして、毎日を暮らすコツを教えてくれました。

永井宏は1951年東京に生まれました。美術作家として様々なジャンルの作品を発表しながら、80年代には「ブルータス」の編集にも携わります。しかし、99年、都心を離れ神奈川の海辺の町に引っ越し、生活に根ざしたアートを推進する「サンライト・ギャラリー」を運営しつつ、著作を発表していきます。

アノニマスタジオが活動し始めた頃に創刊された「クウネル」、「天然生活」に関係していたライター、編集者にも永井さんと交流があった人がいました。「くらし系」に出版物発行に、影響が少なからずあったみたいです。

「その夏は、トマトの初々しい緑との対話の日々が続いた。そしてそれは、だんだんと自分が望むようになってきた。光と水と土を見つめながら暮らすような、ささやかな生活の始まりでもあったような気がする。」

多くを求めず、日々の暮らしに価値を見つけるライフスタイルは、たくさんの支持者を生んでいきました。トレンドを素早く自分のものにする器用さではなく、今、ここで生きている意味を見つめ続ける愚直さを、軽やかに提唱した人だったと思います。

「気持ちが良いにしても悪いにしても太陽の光はいつもあるのだから、それを毎日どう受け止める生き方をしているかということが基本なのだ。」

そんな思いを持ちながら、ワークショップやらポエトリーディングを開催、多くの若者を背中を押し続け、2011年59歳の若さで天国へと旅立っていきました。惜しい、本当に惜しい人でした…….。今こそ、再評価される人物です。

先ずは、この散文集をお読みになって、いいなぁ〜、この人と思われたらぜひ彼の著作をお読みください。

特典!ただいま「夏葉社」の本をお買い上げの方には、この出版社の歴史がわかる素敵な小冊子「10年34冊」をプレゼント中です。

「フリー稼業の数少ない特権のひとつは、世の多くの人が働いている平日に一人旅が出来ること。その自由を失いたくないから、経済的には不安定であっても、フリー稼業を続けているのだとも言える。」

「旅先でビール」(潮出版/900円)の中の、著者川本三郎の言葉です。人付き合いが得意ではなく、パーティーやらゴルフも敬遠して、その代わりに「ひとりで街を歩く。日本の田舎町を歩く。ローカル線に乗る。魚師町の居酒屋で飲む。温泉につかる。」と文章を続けています。

著者は、映画評論・文芸評論・海外文学の翻訳等の一方で、旅歩き・鉄道の駅探索・居酒屋回り等のエッセイを送り出しています。この本もそんな一冊です。おっさんがぶらりと旅に出て、見知らぬ駅で降りて、ぶらぶら散歩して、駅前の居酒屋でビールを飲んで、ご満悦になるという中身です。「九月のはじめ、海が見たくなって房総に出かけた。」と言った具合で旅が始まりますが、大抵は日帰り、あるいは一泊の旅です。そして、大衆食堂に入ってビールです。

「駅前に一軒、昔ながらの大衆食堂があった。ラーメンからカツ丼までなんでもある。近年、こういう店が少なくなった。貴重。隣で女学生たちがラーメンを食べているのを見ながらカツ丼のカツを肴にビールを飲む。しみじみしてくる。 旅をしていていいなあと思うのは、名所旧跡を訪れるより、こんな駅前食堂でビールを飲む時だ。」

300数十ページの本の大半がこんな風なのですが、読んでいるうちにとても幸せな気分になってくるのです。何気ない風景を見て、フツーの店でフツーの食事をするという特別な何かを求めない旅。ハイグレードなホテルや豪華絢爛なディナーなどどこにも登場しません。ひとり静かに、そこにあるものを食べ、そこに生きる人たちの暮らしを見つめることこそ、旅の本質なのかもしれません。

青函トンネルをくぐって、函館に夜遅く着いた時、「日曜日のこの時間だから閉まっている店が多い。横丁に一軒、居酒屋が開いていた。客は私ひとりだったが、おかみさんが愛想よく迎えてくれる。ビールの肴にもらったホッケがおいしかった」

あたたかな情景が目に浮かんできます。旅情報や、グルメ情報が溢れているこの時代に、あえてこんな旅をする。幸せって、こんな些細なことだよねと伝えてくれる旅のエッセイ集です。

 

 

梨木香歩の初エッセイ集「やがて満ちてくる光の」(新潮社/800円)を、読み終わりました。職業作家としてデビューした頃から25年間、様々な雑誌に掲載されたものを中心に集められています。社会のこと、人間のこと、自然界のことなど作家のアンテナに引っ掛かったものが、彼女らしいきっちりした文章で書かれています。

2014年、オーストラリアで起こった人質事件について書かれた「英雄にならなくても」は、昨今の物騒な言動ばかり目立つ我が国の現状に切り込んだ内容なので、紹介いたします。この事件、犯人がイスラーム教に関係していた時期があった事から、ムスリム社会へのバッシングが危惧されていました。とある女性がツイッターにこんな書き込みをしました。

「私の横に座っていたムスリムと思われる女性が、(ムスリムとわかって敵意や攻撃を受けるのを避けるため)そっと彼女のヒジャーブを外した。駅に着いて、私は彼女を追いかけて言った『それ、着けたら?私、いっしょにに歩くから』彼女は泣き出し、私を抱きしめた 一分間ほど。」

その後多くのリツィートがあり、ささやかな善意の存在が知れ渡りました。

「この『いっしょにいるよ』運動は、何も過激派に対する過激な反対運動でも、ムスリムの人たちをずっとガードして回る、というような自分を徹底的に犠牲にして誰かのために尽くす、というヒロイックなものでもない。ただ、いっしょにいる『その場』で、彼女たち、彼たちに、私はあなたの敵ではないよ、そばにいるよ、といっているだけなのだ。」

反韓を助長する愚かなメディア、政治家どもが跋扈する今、英雄にならずともほんの少しの勇気で、出自や宗教の違いで辛い環境にいる人たちを救うことができる。梨木はこの文章をこんな風に締めくくっています。

「針の筵にいるような思いをしているひとが、目の前にいたら、そっと微笑みかけてあげる、そっと傍に立ってあげる、彼女たち、彼たちを疎外しない、孤立させない、それだけのこと。」

もう一つ紹介します。「きょうの仕事に向かう」というエッセイで、仕事に向かう姿勢を語っています。有機無農薬で畑をしている伊藤さんが、延々と夏の草刈りをやっていて、ふと始めた場所を見ると、すでに草が伸び始めている。「でも、黙々とやっていたら、いつかは終わる。仕事ってそんなものだと思うんですよ。」という言葉に感銘した彼女は、「自分のできることを、ただ黙々とやっていく。そうすれば、どんなつらい仕事も、いつかは終わる。呪文のようにこのことばを唱えて、今日も今日の仕事に向かう。」

確かな言葉が、響いてくるエッセイ集です。なお、この本、出たばかり新刊の古本ですが、表紙にシミがあります。だから、定価の半額ですが、中身は美本です!お早めに。

山下達郎が結成したバンド「シュガーベイブ」は、アルバム「SONGS」(2500円/LP)だけリリースして解散しました。が、シティーポップの先駆けとして、いまだに人気の高いアルバムです。このバンドで、ベースを担当していたのが寺尾次郎。彼はバンド解散後、音楽界を去り映画界に転身。翻訳家として、多くのフランス映画の翻訳に関わり、二度とベースを弾くことなく昨年6月、63才で亡くなりました。

その娘の寺尾紗穂のエッセイ「翠星の孤独」(スタンドブックス/1400円)を読みました。父と同じく音楽と文筆の道に進みましたが、この本は、音楽家として一流だった父へのオマージュではありません。彼女が幼少の時、家を出て別の仕事場で暮らし始めた父は、年に数回しか家には戻ってきませんでした。

「私にとって父親は思い入れを持つには遠い人になり過ぎていた。時折CDや映画のビデオテーテープなんかを送ってきてくれたが、それはちょうど親切な親戚のおじさんから送られてくるような感じだった。」と回想しています。

そんな彼女も恋をし、子供を産み、そして辛い別れを経験してきました。一人の自立した女性が見つめた日常が、社会が、世界が書かれています。最後の章は、「二つの翠星ー父・寺尾次郎の死に寄せて」というタイトルで遠すぎた父の背中を描いています。

「つくづく私の人生はイレギュラーだ。未婚の母として長女を産み、そのまま次女三女が生まれた。三女が生まれて翌年、一度結婚することになったが、結局離婚に大きな労力を使った末、今は無事シングルに戻った。」

それでも、立ち止まることなく彼女は音楽を作り続けます。

「人と人との関係も音楽のように目には見えなくても、ある日突然途切れたり、転調しうるはかなさを持っている。私たちはたよりなさを生きる。たよりない日々を生き、憤ったり悲しんだりしながら、自らを抱えている。それでも人が生きていくのは、いがみ合ったり争ったりするためではなく、調和の音を鳴らすためだと信じている。音も狂い、加えて不況和音が鳴り始めているように思われるこの世界の中で。せめて一時、あなたと美しい音楽を奏でたいと思う。」

自分の立ち位置をしっかりと定め、「不況和音が鳴り始めている」世界をみつめます。原発労働者の悲惨な実態を書いた「原発と私」を読むと、「シュガーベイブ」に在籍していて、彼女の敬愛する大貫妙子が、六ケ所村について語る雑誌インタビューにも、「一通り目を通しはしたものの、これといって自分の中で原発が大きな問題となるということもなく、そのまま日常を送っていた。」程度とあります。しかし、ある労働者との出会いをきっかけに、その実態を知るために多くの本を読破して、その過程で彼女が感じたことが克明に書かれています。日常の些細な事柄から、社会の歪みに至るまで、時には怒りに満ちた文章で綴られたエッセイです。

蛇足ながら、現在彼女は、昨日紹介した斎藤美奈子と共に朝日新聞書評委員として活躍しています。

 

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。今回も25店舗程が参加します。お楽しみに!

⭐️2019年1月18日(金)の「新叛宮沢賢治 愛のうた」のトーク&ライブは受付を終了しました。空席の確認などはレティシア書房075−212−1772までよろしくお願いします。


 

熊本にある小さな書店、橙書店。店主の田尻久子さんは、文芸誌「アルテリ」(第5号1080円)を編集されています。この雑誌については、ブログで紹介しました。

つい最近、田尻さんのほぼ書き下ろしのエッセイ集「猫はしっぽでしゃべる」(ナナロク社/新刊1512円)が出ました。一度はお邪魔したい書店の店主の本なので、早速読みました。

田尻さんのお客様への、そして本への深い愛情に満ちあふれた文章を読んでしまうと、私のブログなんて、実にお粗末なものだということを痛感しました。

「涙腺は、ゆるくなるのではない。よく、年を取って涙もろくなったと老化現象のように言われるが、泣く筋力がついたのだと思いたい。本を読み映画を観る。誰かに会う。言葉を交わす。たとえひどい出来事を経験したとしても、人は必ず何かを得ている。経験は想像力を与えてくれ、泣くツボを日に日に増やしていくのだろう」

読み始めてすぐに、こんな文章にぶつかってしまいました。彼女が日々、真摯に生きてきた中から生まれてきたものです。

ポール・オースターの「冬の日誌」について、「本を読んでいても、行間で心が浮遊している。マンハッタンを彷徨いつつ、過去の自分の部屋に行く。これを旅と言ってもおかしくはないだろう。本と身ひとつ、他には何もいらない。私たちには、想像力という乗り物がある。身体移動しないで、旅をする。」と書かれています。単なる本の解説、紹介だけでなく読書の深い楽しみが伝わって来ます。

そして、書物への深い愛に溢れた作品を出版し続ける夏葉社の「さよならのあとで」(1404円)を、たった一つの詩が悲しみにくれる人の心を支えてくれる本だと書かれていました。彼女の店に、この本を二冊買いにきたお客様を見て、夏葉社の島田代表にこう伝えています。

「一冊は贈り物で。この人と、この人の大切な誰かに、かなしみが訪れたのだろうか。そんなことを考えながら、お包みした。そのとき、この本は突然に必要になるから、切らしてはいけない、と思った。」

「この本は突然に必要になるから、切らしてはいけない」これは、私も日々思っていることです。人生の様々な場面で、本が、映画が、あるいは音楽が、その人を支える時がある。だからこそ、その人のために本を揃えておく。本屋の心構えを再確認しました。

本の最後で、アンソニー・ドーアの傑作「すべて見えない光」(新潮社/古書2400円)が取り上げられています。ナチドイツの将校になった少年と、パリに住む盲目の少女の、一瞬の邂逅を描いた長編です。この中で、少女マリーがパリから避難する時に、大事な点字の本を置いていかざるを得ない状況になります。読んでいる最中の「海底二万里」を置き去りにするシーンを田尻さんはこう書いています。

「本はいつも、目の見えないマリーの世界を解放し、抱きしめ、勇気づけてきた。持っていけないことが、私も悲しかった。」

読書をすることが、血となり肉となった人にしか書けない文章ですね。

私ごときが、もうこれ以上グタグタ言うのはやめます。読書を愛する人なら、ぜひぜひ読んで下さい。

 

文月悠光という詩人をご存知ですか。高校3年の時に出した第1詩集「適切な世界の適切ならざる私」で、中原中也賞を18受賞した若き詩人です。彼女が書いた初のエッセイが「洗礼ダイアリー」(ポプラ社/古書1200円)です。

「2014年の春、大学を卒業したものの、就職はせず、詩人という名の無職になった。」

しかし、生活はしていかねばならない。生まれて初めてのアルバイト。上手くいかないことだらけで、周囲との違和感に悩みます。

「筆一本で食べていくのは無謀だと誰もがいう。書くことなんて労働じゃない、と言う人もいる。でも、何が現実的な選択なのか、それは私自身にしかわからないのでは?」

アルバイトを辞め、自らの道を歩き出します。詩人としてライブイベントに参加した時、初対面の男性から、「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。セックスしてる?」と、言われ、呆気にとられます。セクハラ発言を軽くあしらうことができず、あたふたしつつも、世のセクハラに真っ向から立ち向かい、臆病な女子を演じることなく、こう言いきります。

「堂々と言おう。恋人がいなくても、セックスしなくても、詩は書ける。どんなときでも、飛びきり良い詩を提供できる。今の私には、それが一番まっとうな現実なのだ」

生きづらいこの世界で、抗いながらも、自分のあるべき姿を見つけていきます。

本の最後に、祖母との別れが語られます。彼女が小さい時、急に同居することになった祖母が、老いて、痴呆が進行し、家の中が崩れてゆくのを間近で見ます。そして天国へと旅立ったあと、彼女はこう思います。

「肉親と間近に向き合えば、必ず『ゆるせない』という憎しみの念と、『大事にしなければ』という相反する思いのあいだで引き裂かれる。私は自分の詩の中で、祖母との再会を夢見た。『悪い孫』だった自分、祖母が背負った『老い』の問題、空気のような家族のこと……..。人が生きて死ぬということは、こんなにも大変で途方もないことか。」

詩作で、そんな思いが解放されるわけではないけれど、祖母との重く、深い記憶をたぐりよせながら、

「人は一人で生きられない。一人で生きさせてもらえない。周りの手を煩わせ、周りに絶えず煩わされる。そのことを苦痛にも歓びにも感じながら、人々は悠々と生きるのだ」と、書いて本は終ります。

等身大で現実を見つめ、生きることを詩に託した若い女性のドキュメントです。

小川洋子編集による短篇アンソロジー集「小川洋子の陶酔短篇箱」(河出書房新社950円)が入荷しました。すでに出ている「小川洋子の偏愛短篇箱」に続いて出版されたもので、彼女のセンスの良さと、嗜好を垣間みるアンソロジーです。収録されている作家は16人。

葛西善蔵、泉鏡花、梶井基次郎、木山捷平、井伏鱒二、庄野潤三、武者小路実篤、中井英夫等の文学史を飾る作家があると思えば、川上弘美、魚住陽子、小池真理子、岸本佐和子等の現役作家も収録されています。そして、各々の短篇について小川洋子のエッセイが付いています。

私は、葛西の作品を最初に読みました。困窮生活で心身を壊されながら作品を発表した、典型的私小説家の「遊動円木」という数ページの作品です。遊園地にあるお馴染みの遊戯器具が登場します。このエッセイが面白い。

「遊動円木を自在に操れる女の人とは、良い友だちになれそうな気がする。ブランコを数倍凶暴にしたようなあの遊動円木を乗りこなすには、さまざまな能力が必要とされるだろう。」

えっ?そうなん?と訝しく思いつつも読んでゆくと、身体能力の優れた女性への憧れが分かってきます。

あるいは、むわぁ〜とエロチックな香りの立ち上りそうな木山捷平の「逢びき」についてのエッセイでは

「ここで一番大切なのは、ズロースとは何か、という問題である。」で始まり、「言葉の響きからすると、パンツ、が無邪気に勢いよく弾けているのに比べ、ズロースの方が引っ込み思案でややもっさりした印象を受ける。これがノー・ズロース、になると途端に世間ずれした、あるいは生活にちょっと疲れた雰囲気が出てくるから不思議だ。その点、ノー・パンはもっと単純にいやらしい。」そして、こう締めくくります。

「屈折した陰翳の深みを隠しているのは、圧倒的にノー・ズロースである。」

いやぁ、すべてのエッセイが面白く、取り上げた短篇をもとに、見事に小川洋子的世界が作り上げられています。気づくと、小説の中身のことよりも、エッセイの方に夢中になっているという、著者の術中にはまり込んでしまいました。

因みに私のお気に入りは、中井英夫の「牧神の春」とそのエッセイ「動物園の檻」でした。