文月悠光という詩人をご存知ですか。高校3年の時に出した第1詩集「適切な世界の適切ならざる私」で、中原中也賞を18受賞した若き詩人です。彼女が書いた初のエッセイが「洗礼ダイアリー」(ポプラ社/古書1200円)です。

「2014年の春、大学を卒業したものの、就職はせず、詩人という名の無職になった。」

しかし、生活はしていかねばならない。生まれて初めてのアルバイト。上手くいかないことだらけで、周囲との違和感に悩みます。

「筆一本で食べていくのは無謀だと誰もがいう。書くことなんて労働じゃない、と言う人もいる。でも、何が現実的な選択なのか、それは私自身にしかわからないのでは?」

アルバイトを辞め、自らの道を歩き出します。詩人としてライブイベントに参加した時、初対面の男性から、「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。セックスしてる?」と、言われ、呆気にとられます。セクハラ発言を軽くあしらうことができず、あたふたしつつも、世のセクハラに真っ向から立ち向かい、臆病な女子を演じることなく、こう言いきります。

「堂々と言おう。恋人がいなくても、セックスしなくても、詩は書ける。どんなときでも、飛びきり良い詩を提供できる。今の私には、それが一番まっとうな現実なのだ」

生きづらいこの世界で、抗いながらも、自分のあるべき姿を見つけていきます。

本の最後に、祖母との別れが語られます。彼女が小さい時、急に同居することになった祖母が、老いて、痴呆が進行し、家の中が崩れてゆくのを間近で見ます。そして天国へと旅立ったあと、彼女はこう思います。

「肉親と間近に向き合えば、必ず『ゆるせない』という憎しみの念と、『大事にしなければ』という相反する思いのあいだで引き裂かれる。私は自分の詩の中で、祖母との再会を夢見た。『悪い孫』だった自分、祖母が背負った『老い』の問題、空気のような家族のこと……..。人が生きて死ぬということは、こんなにも大変で途方もないことか。」

詩作で、そんな思いが解放されるわけではないけれど、祖母との重く、深い記憶をたぐりよせながら、

「人は一人で生きられない。一人で生きさせてもらえない。周りの手を煩わせ、周りに絶えず煩わされる。そのことを苦痛にも歓びにも感じながら、人々は悠々と生きるのだ」と、書いて本は終ります。

等身大で現実を見つめ、生きることを詩に託した若い女性のドキュメントです。

小川洋子編集による短篇アンソロジー集「小川洋子の陶酔短篇箱」(河出書房新社950円)が入荷しました。すでに出ている「小川洋子の偏愛短篇箱」に続いて出版されたもので、彼女のセンスの良さと、嗜好を垣間みるアンソロジーです。収録されている作家は16人。

葛西善蔵、泉鏡花、梶井基次郎、木山捷平、井伏鱒二、庄野潤三、武者小路実篤、中井英夫等の文学史を飾る作家があると思えば、川上弘美、魚住陽子、小池真理子、岸本佐和子等の現役作家も収録されています。そして、各々の短篇について小川洋子のエッセイが付いています。

私は、葛西の作品を最初に読みました。困窮生活で心身を壊されながら作品を発表した、典型的私小説家の「遊動円木」という数ページの作品です。遊園地にあるお馴染みの遊戯器具が登場します。このエッセイが面白い。

「遊動円木を自在に操れる女の人とは、良い友だちになれそうな気がする。ブランコを数倍凶暴にしたようなあの遊動円木を乗りこなすには、さまざまな能力が必要とされるだろう。」

えっ?そうなん?と訝しく思いつつも読んでゆくと、身体能力の優れた女性への憧れが分かってきます。

あるいは、むわぁ〜とエロチックな香りの立ち上りそうな木山捷平の「逢びき」についてのエッセイでは

「ここで一番大切なのは、ズロースとは何か、という問題である。」で始まり、「言葉の響きからすると、パンツ、が無邪気に勢いよく弾けているのに比べ、ズロースの方が引っ込み思案でややもっさりした印象を受ける。これがノー・ズロース、になると途端に世間ずれした、あるいは生活にちょっと疲れた雰囲気が出てくるから不思議だ。その点、ノー・パンはもっと単純にいやらしい。」そして、こう締めくくります。

「屈折した陰翳の深みを隠しているのは、圧倒的にノー・ズロースである。」

いやぁ、すべてのエッセイが面白く、取り上げた短篇をもとに、見事に小川洋子的世界が作り上げられています。気づくと、小説の中身のことよりも、エッセイの方に夢中になっているという、著者の術中にはまり込んでしまいました。

因みに私のお気に入りは、中井英夫の「牧神の春」とそのエッセイ「動物園の檻」でした。