昨年は一年間、三谷幸喜脚本の群像劇「鎌倉殿の13人」を楽しみました。こんな面白さを持った長編小説ないかなぁ〜と思っていたら、奥田英朗の長編小説「リバー」(古書1400円)に出会いました。
初期の「最悪」「邪魔」などから、最近の「罪の轍」まで骨太のサスペンス小説を発表し、そのつど興奮しながら読んできました。本作は、2008年に発表した「オリンピックの身代金」と同じように、様々な人間が関わってくる犯罪小説です。
群馬県桐生市と栃木県足利市で、若い女性の遺体が相次いで発見されたところから始まります。二人とも同じような手口で殺害され、両手を縛られた上に全裸で放置されていました。発見場所はいずれも、群馬県と栃木県の県境を流れる渡良瀬川の河川敷でした。
それぞれを管轄する警察の捜査刑事たちは皆、嫌な気分がせり上がってきます。両県で十年前にも同じ渡良瀬川河川敷で若い女性の全裸遺体が発見されていて、結局犯人を逮捕できなかった苦い経験があったのです。犯人は十年前と同一犯か、あるいは、模倣犯なのか。
連続殺人事件をめぐり、両県警の刑事やかつての容疑者、その男を取り調べた元刑事、地元の新聞記者、娘を殺された父親、地元の政治家の息子、利権に絡むヤクザ、新たな容疑者などが登場し、それぞれの視点から物語が描かれていきます。まるで、上空にあるカメラがさっと降りてきてそれぞれの登場人物の行動を追いかけているような感じです。
登場する人物たちの行動と心理を細かく描きながら、物語は進んでいきます。しかし新たに浮上した容疑者の内面などは、これだけ精緻に構築した世界の中で、わざと残した空洞のように全くつかめず、その行動からしか想像することしかできません。こういう犯罪小説は、ラストに罪を犯した者の動機や心理も全てはっきり示されるのものですが、本作では最後まで読者はもどかしさに付きまとわされます。
腑に落ちる答えが用意されていてこそ、小説は完了するのですが、それがありません。作者はあえてそうしなかったのだろうと思います。行き当たりばったりの殺人事件が起きる世界に生きているいまの私たちにとっては、リアルな世界に見えてきます。ゾッとする世界に生きているのだ、ということを再認識させてくれる小説です。
ネットだっか紙媒体だった忘れましたが、書評で「主人公スズキタゴサクにキレそうになる、自分の正義感が崩壊する!」と物騒な文言が並んでいました。呉勝浩「爆弾」(講談社/古書1300円)がその物騒な本です。
この爆弾犯スズキタゴサクの、ニヤついた、人を小馬鹿にしたような顔が、脳裏にへばりついています。キャラクターも凄いのですが、物語の進行に、えっ?これエンタメ小説じゃなかったの?と混乱してしまいました。
話は、都内に爆弾を仕掛けたスズキタゴサクと警察の対決です。しかし、犯人はすぐに出頭し取調室にどっかと腰を落ち着けてしまいます。一方、警察もドタバタ騒ぎばかりで、ドラマでよく見る緊張感溢れる追跡やらアクションは全くありません。名刑事の天才的直感で犯人の動きを見極めてゆく、なんていうカタルシスとも無縁です。
物語がほとんど取調室の中で進行して行きます。スズキタゴサクの動機も、目的も不明。この男が投げかけるクイズらしきものを警察が解明し、爆弾のありかを探そうとするのですが、下品で野卑なスズキタゴサクの話術が、徐々に取り調べをする警察も、読者の気持ちも揺さぶっていき、イライラ感がつのります。そして、犯人への無限大に拡大する「敵意」という名の「正義」は、本物の正義なのだろうかという迷いが、登場人物の心を蝕んでいきます。スズキタゴサクは容赦無く、正義の番人だと自覚している警察官の誇りを打ち砕いていきます。誰か、こいつを何とかしてくれ!
スズキタゴサクが取調べ室で、ポツンと口に出す石川啄木の言葉、「人といふ人のこころに 一人づつ囚人がいて うめくかなしさ」に悪寒が走ります。
と、そんなしんどい読書の果てはどうなるの? 心配しないでください。さすがエンタメ作家。最後の数十ページで、ものの見事に観客に安心感を与えてくれます。拍手!!
ところで、本作品。映像化してほしいのですが、スズキタゴサク役ができる役者の顔が出てきません。それほど、作家の文章で完璧に造形されています。案外、あまり有名でない芸人さんなどにドンピシャの人がいるかも。
呉勝浩は「ライオン・ブルー」という作品も当ブログで紹介していますので、お読みください。
芥川賞・直木賞以上に私が密かに楽しみにしているのが、江戸川乱歩賞です。1954年、江戸川乱歩の寄付金を基金として探偵小説の推励のために制定されました。仁木悦子「猫は知っていた」(昭和32年)、戸川昌子「大いなる幻影」(昭和37年)、森村誠一「高層の死角(昭和44年)などの巨匠クラスの作品から、真保裕一、桐野夏生、池井戸潤など、現代の第一線の作家も受賞しています。
64回受賞作、斎藤詠一「到達不能極」(講談社文庫/古書500円)は出た時から読みたかったのですが、文庫化されました。いやぁ〜、いやぁ〜、とても面白い小説です。
著者の斎藤詠一は、商店街にある小さな本屋に生まれ、育ちました。サラリーマン稼業のかたわら小説を書き続け、本賞を受賞しました。処女作での受賞です。
スケールの大きい物語。201X年、海外ツアー添乗員の望月拓海を乗せたチャーター機にトラブルが発生、南極へ不時着してしまいます。拓海は、一人でツアーに参加していた日本人でワケありの老人や、アメリカ人のベイカーらとともに、生存のための物資を探しに、旧ソ連が建て、今は破棄された「到達不能極」という名の基地を目指します。
ここで、時代が一気に過去へと向かいます。1945年、ペナン島の日本海軍基地。訓練生の星野信之は、ドイツから来た博士とその娘ロッテを、南極の奥地に密かにナチスが作った実験基地へ送り届ける任務を言い渡されます。ロッテはナチスが秘密裏に行う研究の実験台にされる運命にありました。
現代の南極と、1945年の南極で展開するサスペンスを主軸に、この基地で行われていた実験の実態があぶり出されていきます。
選考委員の池井戸潤は、この作品についてこう語っています。
「『到達不能極』の作者は、職業作家としてやっていける十分な筆力がある。本作は、不時着した南極ツアー、第二次世界大戦、南極観測隊という、ともすれば盛り込み過ぎになりがちな素材、複数の視点を混乱なく読ませる構成力が群を抜いていた。ヒトラーのオカルト趣味を隠し味に使い、半世紀もの時を経て成就するストーリーのスケール感も魅力的だ。」
同じく選考委員の湊かなえは、文章の上手さに高い評価をしています。南極の荒涼たる自然、辺境の地にあった日本軍の飛行機クルーの描き方など、まるで映画を観ているようです。
ナチスの秘密基地で行われていた「擬似意識」という設定は、ハードコアSF的世界なのですが、そこも一般読者に理解できるように描かれています。
ラストに火葬場で望月が流す涙の印象もさりげなくて、気持ちよく本を閉じることができました。
蛇足ながら、乱歩賞受賞作品はフジテレビが優先的映像化権を持っているようですが、センチで、空疎なアクションドラマにだけはして欲しくないですね。
ここしばらく、コロナウイルス感染拡大のニュースを受けて映画館に行かず、録画したものをもっぱら見ています。先日見たのは、デンマーク映画「ギルティー」。監督は、長編映画デビューのグスタフ・モーラー。全編に渡って、警察の緊急コールセンターに勤務する主人公の警官しか出てきません。あとはコールセンター内の同僚や上司がいるだけ。ほぼ一人という設定は、前にご紹介した「サーチ」に近いですが、こういうやり方もあるか、と驚きました。
警察官のアスガーは、ある事件をきっかけに現場の第一線から退き(その理由は後半明らかになってきます)、緊急通報司令室でオペレーターとして勤務しています。ある日、一本の通報を受けます。今まさに誘拐されているという女性自身からの緊迫した通報でした。事件解決の手段は電話だけ。さあ、どうする。車の発車音、女性の怯える声、犯人の息遣い、現場に到着した警官の靴音などヘッドフォンを通して聞こえてくる音。アスガーは、多分優秀な警官だったこともあり、数少ない手がかりを通して犯人を突き止めます。ところが、直後にそれが全く間違いだったことが判明するという展開になっていきます。
90分間、緊張を強いられる映画ですが面白い。観客にはアスガーの顔しか見えません。さらわれた女も、その夫も、子供達の顔や表情も、もちろん現場の様子もすべて、聞こえてくる声だけで想像するしかないのです。シンプルな設定ながら、全く予測できない展開の本作は、各地の映画祭で高い評価を受けました、
監督のグスタフ・モーラーは「音声というのは、誰一人として同じイメージを思い浮かべることがない、ということにヒントを得た。観客一人ひとりの頭の中で、それぞれが全く異なる人物像を想像するのだ」と語っています。観客の想像力を操るという、全く新しい映像表現で一本の作品を作りあげました。
映画館で見た人たちは、同時にスクリーンに対峙しながら、それぞれの頭の中で、違った顔の女性や、夫、子供たちのイメージを持って帰るということになります。これ、想像した登場人物の姿をみんなで語り合ったら、面白いかもしれません。
★連休のお知らせ 勝手ながら4月13日(月・定休日)14日(火)臨時休業いたします
公開時、映画館で観ていて、開いた口が塞がらなかった映画があります。ちょうどレティシア書房の古本市真っ最中で、ブログでご紹介していませんでした。
今回家で見直して、やはり凄い映画だなと感心しました。弱冠28歳のアニース・チャガンティ監督「サーチ」です。
妻を亡くしたデビットは、一人娘マーゴットと二人暮らし。ある日、マーゴットと連絡が取れなくなります。いつもやりとりしているメールにも、電話にも応答がありません。事件に巻き込まれたか、失踪したのか?なんとか娘を探そうとする父の姿を追いかける映画です。なんだ普通のサスペンス映画?とお思いの方、それが全く違うのです。
物語がすべてパソコンのモニター画面上で進行していくのです。娘の無事を信じたいデビッドは、マーゴットのPCにログインして、インスタグラム、フェイスブック等の彼女が活用しているSNSにアクセスを試みていきます。
映画には、パソコンの操作画面と、PCのカメラが捉えた父親の姿、そして誘拐事件を捜査する刑事とのチャット画面などのPC世界だけが延々映し出されます。
PCの画面には、父親が知らなかった娘の姿がありました。観ていると、そこに登場する娘や、娘の友人はリアルな存在なのか、もしかしたら架空の人物なのではないか、と不思議な気分に陥ります。沢山の情報が詰まっているのにそこに居る人の本心に届かないもどかしさ。娘はネットの向こうで何をしていたのか?私たちも錯綜しながら、刻々と変化するモニター画面に釘付けにされて、最後のどんでん返しに遭遇する羽目になります。
スティーブン・スピルバーグが、従来の映画文法を全く無視して作り上げた25歳のデビュー作「激突」(71年)と同じような、革命的な新しさに満ちた映画です。そして、私たちが、繰り広げられる事象がリアルなのか、ヴァーチャルなのか判断できないネット社会で生きていることを突きつける作品でもありました。もし、この作品が10年前に公開されていたら、SF映画と言われてしまうかもしれませんが、今なら誰もが、いかにもありそうだと納得します。SNSが日常のコミュニケーションツールになっている方には、これが当たり前でしょう。スピルバーグ同様チャガンティ監督は天才ですね。
エンタメ作品として、破格の面白さを持っている一方で、ネット社会に生きる私たちの姿を見事に捉え、戦慄します。
誰にも頼まれてないのに毎日このブログを書くために、何冊か同時進行で本を読んでいます。楽しいけれど、たま〜にツラい読書だったりします。スムーズに読了すれば順次アップするのですが、何かで止まったりするとあせります。ある日、立ち寄った新刊書店の文庫平台の堂場俊一の「Killers」(講談社文庫/古書800円)の上下巻の分厚い文庫が並んでいるではありませんか! いかん、こんな本読み出したら、ブログアップの計画がめちゃくちゃになると思いつつ、結局購入。もうそれからは、一気に読み上げました。
個人的に、日本作家によるハードボイルド、警察もの、新聞記者もの小説は大好きで、けっこう多くを読んできました。大沢在昌「新宿鮫」、逢坂剛「カディスの赤い星」、原尞「私が殺した少女」などは読み返すこともあります。最近、堂場瞬一が面白い作品を連発していて、上下巻で約1000ページある「Killers」も、読み応え十分のサスペンスものであり、しかも戦後から今日に至る渋谷という街を描ききっているところが注目点です。
「明治通りと直角に交わる細い橋の上に立って、渋谷駅方面を凝視する。渋谷川自体は、両岸をコンクリートで固められてしまい、川というより細い水路のようにしか見えず、川底には申訳程度に水が流れているだけだ。両岸には古びたビルが立ち並び、そこだけが昭和のままになっている。」
そんな今の渋谷に残された古いアパートで、老人の他殺死体が発見されたところから話は始まります。老人の顔には十字の傷が付けられていたので、捜査に当たった刑事たちは、1961年に起こった連続殺人件事件を思い出します。それらの事件の被害者の顔にも同じ傷があったからです。
小説は、現代から東京オリンピックで都市開発の進む渋谷に、時代が戻っていきます。警察の捜査と、犯人の異常なまでの殺人への執着を描きながら、繁栄の影で増幅されてゆく憎悪を炙り出していきます。
「ぞっとする、猥褻な指で背中を撫でられたような不快感が全身を駆け抜けた」
悪寒と恐怖の深い闇。都市開発の名のもとの街殺しは、2020年に迫った東京オリンピックに続いています。もちろん、これはフィクションですが、こんな人物が出てきてもおかしくありません。ラストはぞっとする幕切れです。
だから、東京オリンピックなんて止めましょうよ。