2017年7月、山口県のある限界集落で起こった殺人&放火事件。5人が殺され、2軒の家が放火されました。村で生まれて、都会に出てから再び村に戻った若者が逮捕、起訴されました。その事件を追いかけた迫真のルポが、高橋ユキ著「つけびの村」(晶文社/古書900円)です。

7月21日。山口県周南市、須金・金峰地区の小さな山村で、村人が5人撲殺されて家が放火されます。逮捕されたのは、1949年にこの集落で生まれた保見ワタル。地元高校を卒業後、上京して職を転々とした後、生まれ故郷に戻ってきましたが、村人と一切の交流を断ち、一人暮らしを続けていました。

こんな風に書くとホラー推理小説みたいに見えますが、著者は、村の歴史を掘り返し村が衰退してゆく様を追いかけていきます。そこで見えてくるのは、村で生まれた「噂」が怪物へとなってゆく、という事実でした。

「いざ村に足を踏み入れてみれば、そこにはネットやテレビ、雑誌といったメディアに全く流れていないうわさが、ひっそりと流れ続けていた。

そんな村で生まれ育ち、関東に出て仕事をしていたワタルが40歳を過ぎた頃、戻ってくる。私が村を歩けば羽虫がいたるところから飛んできてまとわりついてくるように、このUターンが、また新たなうわさを生んだ。」

うわさ話を生んだ場所は、村落の中にある「コープの寄り合い」でした。「ただ単に食品や生活用品を共同で購入するというだけでなく、その後に何人かが残って、うわさ話をしていた」という事実を著者は突き止めます。

「まるで金峰地区における諜報機関ではないか」と驚きを隠さない。うわさ話の細かさ、過度な情報量。そこには、主観に基づいた悪口のようなものも含まれていました。都会なら、すぐに消滅すような類の話が、いつまでも残りとぐろを巻いてゆく。

「『うわさ話』で濁りきった空気の中、酸欠状態になったワタルは、集落で孤立を深め、妄想に耽ってゆく」

裁判は、ワタルの妄想癖が精神疾患にあたり、責任能力を犯行時に保っていたのかを巡って、最高裁までいきます。そして2019年「被告人は自らの価値観に基づき実行しており、妄想が事件に及ぼした影響は大きくない。主文、本件上告を棄却する」という判決で死刑が確定しました。

閉ざされた村で起こった事件を巡って、著者は多くのことをあぶり出します。悪意、憎しみ、偽善、そしてうわさ話が勝手に大きくなってゆく恐怖。もちろん情報を拡散させたマスコミとネットの存在も視野に入れておかねばなりません。一つの事件を通して、著者と共に村を歩き、古老の話を聞いて、そこにある暗闇を体感しました。

ちなみにこの集落の人口は、2010年10月は8世帯14人、15年は6世帯10人、19年には5世帯8人と廃村一歩手前まで来ています。

 

重量級のパニックサスペンス!と、これが小説ならそんな言葉が並ぶだろう。しかしここに書かれているのは、すべて事実。吉田千亜「弧塁」(岩波書店/古書1400円)です。サブタイトルに「双葉郡消防士たちの3・11」とあるように、東北大震災の時に活躍した地元の消防士たち70名の苦難と葛藤を描いたノンフィクションです。

3月12日。

「突如、一時間に一回程度の『ピッ』だったポケット線量計が、一〜三秒に一回、今までと違うスピードで鳴り始めた。明らかに原発で何かが起き、ここまで放射線が飛んできていることを知らせている。『まだ死にたくない…..』」消防隊員の率直な気持ちです。

原発の暴走が始まり、満足な装備もないまま現場へ駆けつける消防員たちの日々が始まります。避難警報が出されているのを知らずにいる住民を助け搬送していきます。やがて、避難地域の拡大に伴い消防署も避難を余儀なくされ、最後は、いつもは数人しか常駐していない分署に100名を超える消防士が集まり、ここを拠点に救助活動を開始しますが、寝る場所もない、食料もなくなってゆく。そんな過酷な状況の中で、消防士たちは何を考え、どう行動していったかが詳細に書かれています。

著者は、2018年から双葉消防本部に通い、原発事故当時から現在も活動を続けている六十六人から話を聞きました。もちろん、当時の地獄のような日々や、もう生きて帰れないという体験を、言いたくない方も少なくありません。

「伝えなくては」という思いと、「申し訳ない」思いが常に交差し、「事実と証言だからこそ、取捨し、まとめるということに対し、自責の念に苛まれる。」と執筆に当たっての著者の気持ちが書かれています。

危険な現場へ向かう隊員を敬礼で見送る隊員は、これは特攻だ、特攻隊の気持ちが理解できたと言います。ここには、英雄もいなければ、スーパーマンもいません。ヘリコプターに乗った自衛隊が放水していた場面は何度もテレビに流れましたが、死の恐怖に怯え、家族と会えない辛さに苛まれる隊員たちの地道な活動は誰も伝えませんでした。

多くの隊員や、地元の人々の強い思いが複雑に絡み合っている重い真実。本書の最後はこんな文章で終わっています。

「そういった一人一人の歴史にうえに、3・11はある」

真実を知ろうとせずに、「福島はコントロールされている」というバカなことを言った首相がいたことを、我々は忘れてはなりません。

 

1958年生まれのノンフィクションライター黒岩比佐子は、2004年「『食道楽』の人 村井幻斎」でサントリー学芸賞、2008年「編集者 国木田独歩の時代」で角川財団学芸賞を受賞し、また古本をこよなく愛することでも知られていた人でした。しかし2010年、すい臓がんのため52歳でこの世を去りました。その翌年「パンとペン 社会主義者・堺利彦と『売文社』の戦い」で読売文学賞を受賞しました。

私が最初に読んだのは「編集者 国木田独歩の時代」でした。自然主義作家の大御所ね、みたいな印象しかなかった国木田が名編集者だったことを知った一冊でした。評価の高い「パンとペン」はまだ読んでいませんが、いつか必ず読む一冊の予定に入っています。

今回、ご紹介するのは「忘れえぬ声を聴く」(幻戯書房/古書1800円)です。日露戦争、大逆事件、第二次世界大戦、日中戦争と混乱の時代の中で、埋もれていった人々に焦点を当てて、その時代を生きた人々の一瞬を描いた肩のこらない評伝風のエッセイです。この時代の文献やら雑誌を集めに、古書会館で行われていた古本市に頻繁に出かけていた頃のことも書かれていて、古本愛好者にもってこいの読み物になっています。

しかし、なぜ彼女は評伝にこだわるのか。「多くのお金と時間を費やして大量の原稿を書き上げた挙げ句に、本が売れないのでは、苦労して評伝を書こうとは誰も考えなくなる。白状すれば、私自身、最初の評伝を書いたときは、百万円ほど赤字になった。」と、評伝など書かない方が良いと、この本の中で言っています。

それでも彼女は、歴史の闇に埋もれた人物や、気になる人物の不当な評価を覆すために、古本市で古い新聞や雑誌を山ほど買い込んで、資料を作り書いてきたのです。遺稿となった「歴史と人間を描く」というエッセイの最後、五行の空白の後の文章はこうです。

「そして悟った。”平凡な人生”などないのだ、と。」

第二章に、明治の小説家で、今でいう「食育」という言葉を使った村井弦斎が登場します。この作家と黒岩の出会いは、こんな風にして始まります。

「明治三十三年に描かれた『伝書鳩』という本があった。これは小説だが、タイトルに伝書鳩という言葉を使った最も古い本と言えるだろう。その著者が村井幻斎だったのである。」

ここから、黒岩の幻斎への長い旅が始まります。古い資料の山に埋もれながら、こうだった、ああだったと推理を働かせて、幻斎の人間像を作ってゆく作業は、きっと楽しかったことでしょう。だからこそ、彼女は評伝を描き続けたのだと思います。

最初の単行本「音のない記憶ーろうあの天才写真家 井上孝治の障害」からは、そんな楽しさが伝わってきました。まだまだ活躍して欲しかった作家でした。

 

 

 

 

中国の現代美術作家、蔡 國強(さい・こっきょう)。火薬の爆発による絵画制作、パフォーマンスを行う作家です。あの北京オリンピック開会式のド派手な花火アートを覚えておられる方も多いと思います。

その蔡 國強には、強力な日本人パートナーが、それもアートの世界とは地球と月ぐらいかけ離れたおっちゃんがいたことを知っている人は少ないと思います。私も、川内有緒著「空をゆく巨人」(集英社・古書/14

00円)を読むまで知りませんでした。福島県いわき市の志賀忠重さん。カー用品などの販売で成功を収め小さな会社を経営する、正真正銘のおっちゃんです。二人がどうして結びつき、世界のアートシーンに飛び出していったかを描いたノンフィクションです。

とてつもなく面白い。事実は小説より奇なり、とはこの事です。人間って凄いなぁ。信頼しあえることの幸せを、これほど感じさせてくれる本はありません。

スタジオジブリの鈴木敏夫氏が絶賛しているのですが、なるほどと思いました。つまり、蔡 國強も志賀忠重も、鈴木敏夫も困難な状況や苦労の連続の場に直面しても、それを楽しめる人種なのです。

80年代後半、蔡と志賀の二人は出会い、数々の作品を生み出しました。蔡がラフ案を出し、志賀とその仲間がそれを具現化するという、不思議なコンビです。その最大のものが「いわき回廊美術館」です。東日本大震災の後に作られた、入場無料、営業時間は「夜明けから日没まで」という”良い加減”な野外施設。

著者が、この美術館へ取材に行った時、志賀は冒険家のサポートで北極に行った経験を話します。冒険への憧れを抱き「生まれ変わったら冒険家になりたいんですよ。」という著者に対して、志賀はこう言うのです。

『「いんや、川内さん」とじっと私を見つめて、「一歩踏み出したら、それは冒険なんでねえの?川内さんはもう冒険してんだよ』

著者は38歳で国際公務員を辞めて、フリーランスになりました。それまでのキャリアを放棄し、安定した収入を手放し、しかも娘が生まれたばかり。

「そっか、もう冒険をしていたのか。 ふいに涙がこみあげてきて、ポロリとこぼれた。志賀のひと言には、既定のレールから外れた人生をまるごと肯定するような優しさがあった。」

ここから、志賀の魅力に、そして困難なパフォーマンスを次々と繰り広げる蔡という男の人間の大きさに、魅入られていきます。もっと知りたい、もっと側で見ていたい、そんな溢れ出るような感情が350ページにも及ぶこの本の隅々にまで詰め込まれています。

鈴木敏夫みたいに2日間で読み終えることはできませんでしが、とても幸せな時間を、この本に与えてもらいました。人間の度量の深さや優しさを改めて認識した本でした。2018年の「開高健ノンフィクション賞」を受賞したのも当然だと思います。

写真左が志賀忠重、右が蔡 國強です。

 

 

2005年に出た「散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道」以来、ノンフィクション作家として着実な歩みを続けている梯久美子。「狂うひとー『死の棘』の妻・島尾ミホ」「原民喜 生と死と孤独の青春」と傑作を出しています。

そして今回は樺太、サハリンと呼ばれている北方の島。大日本帝国時代は、半分が日本の領土で国境線が引かれていた場所です。この地には北原白秋、林芙美子が訪れました。また宮沢賢治は、最愛の妹トシを亡くした翌年に、故郷花巻からトシの魂を求めてこの地を旅し、多くの詩を残しています。日本人だけに留まらず、チェーホフもやってきていました。この地の何が彼らを惹きつけるのか、その答えを探しに、鉄道大好きの筆者が二度に渡ってサハリンを旅したのが「サガレン 樺太・サハリン境界を旅する」(角川書店/古書1300円)です。

筆者は鉄ちゃんですが、中でも廃線跡を歩くのが好きで、しかもそこに掛かっていた橋を見つける橋梁派であり、今回の旅でも、もう使われることもなく放置された橋に出会っています。「失われた鉄路を歩くことは、時間をさかのぼって旅をすることなのだ」と書いています。第一部は、寝台急行に乗車して、北へ、北へと旅するルポルタージュ。筆者も大好きな大滝詠一の「さらばシベリア鉄道」を聴きながら読みたい紀行エッセイです。

第二部は、この地を旅した宮沢賢治をめぐる文学的ルポルタージュです。1923年、賢治は樺太へと旅立ちます。この鉄道の旅が、後年の「銀河鉄道の夜」のモチーフになったのではないかと言われています。その前年に妹トシを亡くし、死者の魂を追いかけて北に向かったというのが定説になっていますが、

「正直言って、私にはいまひとつピンとこなかった。妹がなくなったのは生まれ育った花巻で、墓もそこにある。樺太には縁もゆかりもないし、死んだ人の魂が北方へ行くという考え方も、一般的なものではないように思う。」

きっと鉄道好きだった賢治が、日本最北の地まで汽車に乗りたかっただけという筆者の考え方に、私も納得しました。賢治の旅した行程を丹念にトレースし、彼が見たもの、聞いたものを探しながら、この地で書かれた賢治の詩を丁寧に解読していきます。この地を舞台にした作品に暗澹たるものが多数あったのですが、喪失から、新たな希望を見つけるのが彼の旅だったのです。この本のおかげでよくわかりました。

「見知らぬ土地で偶然に出会うさまざまなものたちー植物や動物、ふれあった人々、そしてときには空の色や空気の感触までーに、つかのまであれ救われ、力をもらうのが旅というものだ。」

トシの魂を追い求め、自らの死も覚悟した旅という定説を打ち破り、賢治を解放した一冊とも言えます。賢治ファンは必読です!

なお、本書のタイトルを「サハリン」ではなく、「サガレン」としたのは、賢治がそう呼んだからであり、ここを舞台にした「サガレンと八月」という未刊の小説もあるからだ、と筆者は最後に補足しています。

 

 

読み応え十分のノンフィクション。ピュリッツアー賞を受賞しただけの価値のある一冊「その名を暴け」(新潮社/古書1500円)。ニューヨーク・タイムズの新聞記者、ジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーの二人が追いかけたのは、ハリウッドで絶大な権力を誇る映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン。辣腕プロデューサーとして傑作映画を製作する一方で、自らの権力を利用して、女優や、女性従業員に対して性的行為に及び、バレそうになると示談金を提示し、そのことを口外しないように迫りました。

ハリウッドに君臨するワインスタインについて、地道な調査をし、被害者に会い、被害を取材させてくれるまで粘り続け、事実を積み重ね、記事を作り上げるまでの数年間の苦闘をまとめたのが本書です。この記事が、その後アメリカから全世界へと広がった「#MeToo運動」に火をつけたのです。

アメリカの新聞記者による傑作ノンフィクションといえば、ワシントンポストの二人の若い新聞記者がニクソン大統領の民主党盗聴事件を追いかけた「大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日」がありますが、それに負けない力作です。性被害を受けた女性たちの精神的苦痛をいかに和らげられるか、公開を前提に取材してゆく記者たちの苦労と、今こそ自分たちが受けた苦痛を世に公開すべきか、せざるべきかで悩む被害者たちの人生が、かなり細かく描かれています。だから、性犯罪のリアルなシーンも当然出てきます。読むのが辛いと思われる方もおられるかもしれません。

記者のミーガンは、取材のために、それまで何度も「招かれてもしていない家を訪問し、玄関扉を叩いたが、毎回心が重かった。」と書いています。そして、今回も「大きな木の扉を叩きながら、自分が他人の静かな生活へ押し入っていくような気がしてならなかった。」と感じていました。それでも、彼女たちは取材を続けました。

調査が進んでいき、いよいよ記事公開へ。ワインスタインが持てる力を駆使して、記事の公開中止を画策しますが、二人の記者とニューヨーク・タイムズは一歩も引きません。公開寸前のギリギリの攻防の描写はもう映画を見ているようです。

ワインスタインが役をあてがう代償として、肉体関係を要求する「キャスティング・カウチ」の虐待を行ない、それが組織化されていたことが白日の下にさらされます。彼はハリウッドを去り、検察当局から訴追されました。

400ページ余の本書を読み終えた時、あぁ〜この本はきっと野心的な女優、もしくは女性プロデューサーが映画化するだろうなぁ、と思いました。いや、ぜひして欲しいです。二人を管理する上司の編集者コルベット役は、きっと多くの女優がやりたいと手を挙げるでしょう。

最後に、著者の二人は「謝辞」をこんな言葉で締めくくっています。

「わたしたちの娘たち、そしてみなさんのお嬢さんたちへ。あなた方が職場やそのほかの場で、常に敬意と尊厳を受けられますように」

全世界へ向けられたメッセージです。

 

「強くなることが使命・・・・使命までいくか分からないですけれど、自分のすべきことだと思います。どのような景色が見えるのか。強くならなきゃいけないと思っています。将棋は奥が深い。強くなっても、強くなった先にある深遠さを見ていたいです。」

弱冠15歳の藤井聡太の言葉です。ベテランの棋士が言うならいざしらず、15才過ぎの青春真っ盛りの青年から、強くなった先にある深遠さを見ていたい、なんてセリフが出てきますか? なんとも凄味があります。

北野新太著「等身の棋士」(ミシマ社1728円)は、藤井聡太、羽生善治等の棋士へのインタビューと、対戦の日々をドキュメントしたノンフィクションです。私は、将棋のことは全く知らないし、やったこともありません。でも、これは面白かった。100%理解できたとは言えませんが、肉体と精神のギリギリのところで、勝負している人達がいることに驚かされました。

「棋士という二文字は『将棋を指す侍』を示している。プロ棋士という言葉を散見されるが、厳密には誤用である。力士と同じように、棋士という単語はプロフェッショナルであることを示す意味が初めから内包している。アマチュア棋士はいない」

勝つか負けるか、喰うか喰われるか、の世界です。筆者は、藤井や羽生といった人気の棋士だけでなく、非情な世界で生き抜く男達、そして女達を追いかけていきます。

驚いたのは、ワルシャワから日本に来て、女流棋士を目指すカロリーナ・ステチェンカという女性でした。彼女は15年12月、女流名人戦で山口恵梨子初段に敗れ、デビュー戦を飾れませんでした。遥か彼方の異国から、将棋を指しにこさせる原動力は如何なるものなのか興味は尽きません。

「等身の棋士」には、今まで読んだスポーツノンフィクションの傑作、例えば山際淳司の野球もの、沢木耕太郎のボクシングものと同じような匂いがします。簡潔でストイックな文体が、登場する男たち、女たちの心の襞を捉えていく手法です。

「かつて羽生は言ったんだ。将棋には人をおかしくさせる何かがあると。」

そんな奥深い暗闇でもがき続ける勝負師たちにストレートに立ち向かった筆者の愛情が溢れたノンフィクションです。

なお筆者には、ミシマ社からもう一冊「透明の棋士」(1080円)があります。こちらもどうぞ。

 

1925年。ベーリング海峡を挟んでシベリア目前のアラスカの北西端に位置する小さな町ノーム。その町にとんでもない疫病が、襲いかかろうとしていました。ジフテリアです。

この病気に対抗できる唯一の手段は「ジフテリア抗毒素血清」なのですが、運悪く、町の診療所にある血清は期限切れでした。さらに、厳寒の悪天候で、港は氷結し、接岸不可能。視界ゼロで飛行機に輸送も出来ないという八方ふさがりの状況。

たった一つ、残された手段は犬ぞりによる血清搬送だけ。そして、様々な思惑はあるものの、立上がった30人の猛者たちと犬が、氷点下50度の危険極まりない氷原の疾走を開始する。もう、ここまででスペクタクル感動映画のオープニングみたいですね。これ、ゲイ・ソールズベリー&レニー・ソールズベリーによるノンフィクション「ユーコンの疾走」(光文社文庫450円)なのです。真っ白な氷原を疾駆する犬ぞりの写真は表紙に使用されていますが、犬好きには、涙ものです。

血清を運んだ距離はというと、本の中に載っている地図を見ると、気が遠くなります。このコース最大の難所、強風と生き物のように絶えず変化する氷に満ちたノートン灣を突っきって行く「氷の工場」はクライマックスです。

「気がつけば、彼は白い世界に取り囲まれていた。ホワイトアウトだ。前方に見えていたはずの水平線は、嵐の吹き荒れる曇空と、ブルーベリーヒルズの無限に続く白い僚線との間に飲み込まれてしまった。」

という状況下、この地を熟知している犬たちがひたすら走り続けていきます。空輸による血清搬送に期待していた州知事は、こう新聞に語っています。

「航空機は可能なときに飛び立つが、犬たちは可能であれ不可能であれトレイルへ飛び出していく。彼等にはただ敬服するのみである」

しかし、その後のテクノロジーの開発で、いかなる天候下でも飛行機による救出が可能になり、犬たちによる搬送は伝説になりました。この本のラストが素敵です。当時の搬送に加わった犬ぞりドライバーで最後の生き残りエドガー・ノルナーが99年1月この世を去ります。その数年前、通信社のインタビューにこう答えています。

「人助けがしたかった、ただそれだけのことさ」

なんか、渋い役者ばかりで、全編アラスカロケといった形で映像化していただきたいものです。

 

 

 

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