明治42年生まれの作家中島 敦は、東京帝国大学卒業後、横浜高等女学校の教師をしながら執筆活動をしていました。ヴェルサイユ条約によって日本の統治領となった南洋諸島に設置された施政機関パラオ南洋庁に教科書編修書記として赴任し、帰国後専業作家になりますが、持病の喘息悪化のため33歳で病没します。文学者として残した作品は20作足らずでした。代表作は「山月記」でしょう。漢文調に基づいた硬質な文章が美しく響く叙情詩的な世界は、この人ならではでした。

中島がパラオに赴任していた時に書いた「南島譚」「環礁ーミクロネシア巡島記抄」に、赴任先から妻子に毎日にように綴られた書簡を加えた「南洋通信」(増補新版・中公文庫/古書500円)が出ました。中島の南洋エッセイは、彼の美しく研ぎ澄まされた文体がたっぷり味わえる傑作だと思っています。

「蒸風呂にはいり過ぎたけだるさに、一歩一歩重い足を引きずるようにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寝付いたデング熱がまだ治り切らないせいでもある。疲れる。呼吸が詰まるようだ。」と、病に苦しみながらも、熱帯の自然に魅入られていきます。ギラつく太陽、鮮やかな色合いで泳ぐ魚たちに引き込まれた様子が、描かれていきます。一緒に、暑い大地を踏みしめて行く気分になります。

今回文庫に収録された書簡は、昭和16年6月から17年3月まで妻子へ送られたものですが、その量たるや膨大で、よくもここまで書いたなぁ〜とため息が出ます。もう立派な作品です。

「台所の地図を探してご覧、テニアンという島がある筈。まだパラオ迄は大分ある。暑い。暑い。やはりお前たちを連れてこなくて良かった。暑さだけで頭が変になりそうだ。」と、妻に愚痴っています。でも愚痴りながらも、方々の島々を回り、その印象を日本に送っています。

その一方で、戦争の足音が近づいてくる現状で、この島で教科書の編纂をする仕事に懐疑的になっていきます。「土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことがある。教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるということは、今の時勢では、出来ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物とを十分与えることが、段々出来なくなって行くんだ。」と、書いて送っています。その一ヶ月後、真珠湾攻撃が始まり、日本は泥沼の戦争に突入していきます。

解説で、池澤夏樹は中島の文学的立場を明確に説明しています。

「漱石や鴎外が書いたのは結局は途上国であった明治・大正期の日本のインテリの悩みであった。その先で日本の文学は自然主義私小説という隘路に迷い込んだ。それを大股に踏み越えて広い世界への道を開いたのが宮沢賢治と中島敦だった。そして二人ともその作品の価値を知られる前にこの世を去った。」

世界観は違えども、二人とも世界を見ていた文学者だったことは間違いありません。

 

池澤夏樹編集の日本文学全集の一冊で「宮沢賢治 中島敦」(河出書房新社1800円)を一冊にした本の紹介です。何故この二人?という疑問に編者はこう答えています。

「中島敦は宮沢賢治の十三年後に生まれ、その死の九年後に亡くなった。賢治は享年三十七歳、敦は享年三十三歳。若くして他界したことだけだなく、二人には共に遠くを見ていたという共通点があるように思う。自分というものの扱いに苦労したところも似ている。」

「共に遠くを見ていた」、「自分というものの扱いに苦労」した作家……..。

宮沢はまさにそんな作家だと思います。自分という存在に苦しみ、銀河の果てまで飛んでいってしまった。

死ぬ直前には、「そしてわたしはまもなく死ぬのだろう わたくしというのはいったい何だ 何べん考えなほし読みあさり さうともきかうも教えられても 結局まだはっきりしていない わたくしといふのは」

という「そしてわたしはまもなく死ぬだろう」(未完)の詩を残しています。「これで二時間 咽喉からの血はとまらない おもてはもう人もあるかず 樹などしづかに息してめぐむ春の夜」という詩を書きながら、己がいるべき遥か彼方に地へと向かっていたのでしょう。

中島は1941年、ミクロネシアに渡り、数ヶ月滞在しています。その時、彼が見た南洋の自然、風物、そこに暮らす人々を描いたのが、この全集に収録されている「環礁ーミクロネシア巡島記妙ー」です。

「寂しい島だ」という文章で始まるこの旅行記は、「薄く空一面を覆うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでいる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。」とその気候に辟易しながらも、歩き回る。デング熱が治りきらない状態で、眩暈と、息苦しさでガタガタになってくる。しかし、それでも作家は幻覚に近い美の中で陶酔してゆく。今なら飛行機でヒョイと飛んでいけるのだが、中島が渡航した時代は、当然船の旅。時間をかけて地に果てに行き着いたという感覚ではなかったでしょうか。自分を持て余していた男の放浪記として、私は読みました。

因みに店には昭和11年発行の「南島譚」(今日の問題社/初版2500円)もあります。全集収録の「悟淨出世」「梧淨歎異」も入っていて、古色蒼然とした一冊ですが、手に取ってみてください。

Tagged with: