吉田篤弘の新刊「京都で考えた」が、ご当地京都先行販売(ミシマ社/初回サイン&ポストカード付き1620円)で入荷しました。

「京都は百万遍にあるほの暗い喫茶店で、角砂糖付きの珈琲を飲みながら、買ったばかりの本のページをめくっている。」なんて出だしを読むと、これは著者好みの本とカフェをめぐる本かいな、と思ってしまって読み続けると痛い目に合います。難しい言葉を駆使した読みにくい文章では全くありませんが、著者が「京都で考えた本」という存在について引っぱり回されます。

先ず、著者の文体と思考法に、同調してください。そうしないとこの本の奥深い楽しみがわかりません。私は、

「本というのは、われわれが身を置いている日常の空間をところどころ押しのけるようにしている方がいい。疎ましくて結構。厚みや重みがあってこそである。いわば、その重さを買っているのである。」

という本の定義めいたことを述べているあたりでシンクロナイズに成功。後は著者の脳内思考の流れにのって、あっという間に読み終わりました。本を読むとはどういうことなのか、とぶつぶつ言いながら、碁盤の目のように続く京都の町中を一緒に彷徨い歩くような本とでも言えばいいのでしょうか。

「生活空間を圧する物理的な重さや大きさが、手の甲に書くべき『忘れてはいけない』ことをアラームのように教えてくれるのだ。人の記憶などというものは、自分の容量に加えて、友人、知人の脳まで駆使しても、結局『忘却』の力には抗えない。しかし、本は忘れない。」

本棚の奥から出て来た時、その昔の記憶がふぁっと甦ることってありますよね。私たちが忘れてしまったことも、本は覚えているのかもしれません。

著者は本屋をこんなステキな文章で表現しています。

「『木の葉を隠すなら森の中に隠せ』と云うが、言葉が隠されている森が書店であり、それも物語の入り口になるような言葉が至るところに隠されているのだ。」

そうすると、さしずめ書架は森の木になるのか。木で出来た書架に置かれた本が、居心地良くしているのはそういうことだったのかと、思わず店の節のある木で作ってもらった書架を振り返ってしまいました。