純粋京都人の鷲田清一と、半京都人の永江朗の二人による「てつがくこじんじゅぎょう(哲学個人授業)」(basillico/古書650円・絶版)は、ワハハ、と笑いながら読める「てつがく」入門書です。こんなに楽しい哲学入門書は、内田樹「寝ながら学べる構造主義」以来です。

カント、マルクス、サルトル、デカルトまで、ズラリ哲学界の大御所が20数名並びます。彼らの、何故かグッと来る<殺し文句>的文章を取り上げて、臨床哲学者とフリーライターの二人が、意見をぶつけます。鷲田のちょうど良い加減の京都弁が、お堅い話をホンワカさせてくます。

各章の初めに、取り上げた哲学者の言葉が登場します。例えば、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなら「私の命題は、私を理解する人がそれを通り、それの上に立ち、それをのり超えていく時に、最後にそれが無意識であると認識することによって……..」と、素人にはさっぱりわからん文章で始まり、「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」という彼の殺し文句を巡って、二人がその解釈を展開するのですが、鷲田の結論はこうです

「この本(注:論理哲学論考)は、事実は語れるといっているかのように見えて、実は自縛していて、自分は語れないというこになる。これって、コム・デ・ギャルソンと同じでしょ。今日も永江さんはギャルソンを着てはるけど」

そう、振られて永江は「え、コム・デ・ギャルソンが『論理哲学論考』ですか」と問い直すと。鷲田はすかさず、こう答えます。

「これ以上やったら、服という概念を超えてしまう。服でなくなってしまう」と。めんどくさいことをとことん追い詰めた、ウィトゲンシュタインの仕事をこんな風に伝えてくれます。

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの所で、鷲田は「哲学者って、一見、倒錯的なところがあって、わからないことが出てくると喜ぶんですよ。」と言います。すると永江は「疑問好きの変態ですか」とまるで上方漫才みたいな掛け合いになりながらも、深淵な世界へと読者を誘いこみます。

哲学は、自分を疑い自分を試し続けることであると、オルテガの哲学を、鷲田はこう表現します。

「自分が知っていると思っていることが、じつはいちばん妖しげなもので、『本当のことは何も知らない』と知っている、ということが知っていることだ」

こんな感じで、頭の柔らかい二人の哲学論議がどんどん続いていきます。ものの見方、考え方へのカンフル剤として、ぜひお読み下さい。

 

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店内にて開催(月曜定休日)