作家、画家、建築家、そしてミュージシャンと様々な顔を持つ坂口恭平の「土になる」(文藝春秋/新刊1870円)は、とても、とても素敵な本だ。読んだ後、深呼吸して、空を見上げたくなります。

ふとしたキッカケで始めた畑の生活、90日余の記録です。初心者の著者が、農園主のヒダカサンの助言を得て、どんどん畑にのめり込んでゆく様子が、細かく書かれています。

「畑の土作り、そして苗を植える。そこからしばらくは待たなくてはいけない。待ち遠しい、待ち焦がれる、嫌な時間だけと言うわけではない、期待も大きく膨らんでいる。待ち、待たせ、待たされる。時計で測った時間ではない時間が生まれる。落ち着かなさが少しずつ楽しみに移っていく。そうやって自分を待たせることができるようになっていく。」

著者は長い間躁鬱病に苦しんできました。2009年から毎月通院し、10年が過ぎました。それが畑を始めてから通院も服薬もやめます。土と触れることで体が楽になってきたのです。出来た野菜を収穫し自宅で料理して食べること、そして畑で仲良くなった野良猫ノラジョーンズとの交流を通して、立ち直ってゆくのです。田園風景をみて描き始めたパステル画も大きく作用しているはずです。

「土を触りながら、僕は自分の中の言葉にならないもの、聞こえにくい声にも耳を傾けることができているんじゃないかと思う。それが安心につながっているんだと思う。」

「野菜と話せるとは思わない。でも野菜や土にもまたそれぞれの言語があり、僕は知らず知らずのうちのその言語を体得してきているような気がする。土の中の状態、水の状態、葉っぱの状態、実の状態、種の状態、草たちの状態、そんなことたちが、わかる、というのとも違うのだけど、感じる、確かに僕は感じているので、次に何をすればいいのかってことが、無意識で見えているような気がする。」

畑にくる様々な生き物たち、雨、土、そしてその先に続く地球の大きさ。豊かな時間と空間を著者は体感していきます。そして、畑やノラジョーンズが、病を治すという概念から解き放ち、自分の気持ちを穏やかにさせてくれたのです。

著者が描いたパステル画集「Water」(左右社/新刊3300円)、「Pastel」(左右社/新刊3300円)を開くと、とても幸せな気持ちになってきます。著者の目に飛び込んできた風景を、あざやかなタッチで描いています。

「この山の麓で暮らしてきた、多くの人間たちと同じように、僕もここで生きている。彼らは屍となって、土に帰った。僕も土にかえるんだなあと思った。いずれ土にかえる僕が目にした風景を、明日パステル画としてあらわにすることが不思議で、それは花みたいなものか、花のような気持ちになったのは初めてだった。

人間が絵を描く。描かれた絵は僕という茎の先に咲いた花のようだと思った。」

本書を読みながらパステル画の作品集を見ると、その素晴らしさがよくわかります。