前日に引き続き、中島京子の家族小説をご紹介します。中央公論文芸賞を受賞した「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)は、チャンドラーのハードボイルド小説と同じタイトルですが、こちらは認知症になった父親の物語です。

東昇平には妻と三人の娘がいます。娘達はそれぞれ独立していて、長女は夫の仕事の関係でアメリカに滞在、次女も結婚し、三女はフードコーディネーターとして頑張っています。昇平は教師として職責を全うし、今は妻と二人で暮らしています。

と、こう登場人物を書いてしまうと、やはりどこにでもある家族です。物語は、昇平が徐々に認知症を患い、その介護に巻き込まれる女性たちの10年間の姿を描いていきます。

後半、認知症の進行に伴って、疲弊してゆく妻と娘たちとの葛藤が表面化していきます。作家自身の体験なのか、それとも詳細な取材の結果なのかはわかりませんが、介護の状況はリアルに描かれています。きっと、実際の現場はもっと修羅場なのでしょうが、あくまで小説でノンフィクションではありませんので、その辺りを物足りないと取るか、物語としてスルスルと読めていいと取るかは、読者次第です。

昇平が元気になるという事態はありえませんし、当然、家族との永遠の別れは待つのみなのですが、「お父さん、お別れね」などという陳腐なシーンは全くありません。それどころか、妻や娘たちとの死別のシーンがありません。もう、最後というシーンで一気に舞台はアメリカに変わります。

アメリカにいる長女の息子が登校拒否になり、校長との面談に臨む場面になります。そこで、初めて孫の口から「祖父が死にました」というセリフが出ます。認知症の始まりを、孫が「十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初」と校長に伝えると、その言葉を受けて、校長はこう言います。

「十年か。長いね。長いお別れだね」。その意味を分かりかねた孫に向かって、「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」ざっくばらんな校長との会話に、本のタイトルが登場するのです。

この二人の会話で小説は幕を閉じます。静かなエンディングです。亡くなった人への切ない思いを、ふっと浮き上がらせる巧みな終り方だと思いました。

●レティシア書房のお知らせ●

 年始年末 12月29日(金)〜1月4日(木)休業いたします。


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中島京子が、どこにでもある家族を描いた長編小説、「彼女に関する十二章」(中央公論社/古書1200円)、「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)を連続で読みました。

家族って、めんどうだなぁ、でも、しかしなぁ〜という実感は誰でもお持ちでしょう。そこを見事に突いて、読んだ後、まぁ仕方ないね、自分の人生だからね。とちょっと前向きになれるお話です。決して「泣ける」とか「涙が止まらなかった」的な陳腐な小説ではありませんので、ご安心を。

今日ご紹介する「彼女に関する十二章」は、初老にさしかからんとする夫婦の物語です。

「どうやらあがったようだわ。こんなにきれいに、まるでお役所仕事のようにきっぱりと容赦なくあがるとは思わなかった。五十歳の誕生日を過ぎてからこっち、きっぱりと月のものが無くなった。」

という主人公の主婦、宇藤聖子のひとりごとで始まります。ライターの夫と、遠くの大学に通っている一人息子、そして自分は、パートをしながら家計を支えるという、典型的な家族の日常が描かれます。現状への不満はないものの、忍び寄る将来への不安。

そんな時、彼女の小学校時代の初恋の男性の息子が現れます。「父親が亡くなりました」という報告と共に。彼の息子の表情に過去の淡い思い出が甦りますが、この二人が恋に陥るわけではありません。これまでの日常になかった感情に揺さぶられる主人公。さらに、パートの仕事で舞い込んだ新しい職場と、その職場で出会った風変わりな老人片瀬。根無し草みたいな生活を続ける彼はこんなことを言います。

「便利ということに興味が持てなくなったんです。」「便利である必要があるのか、何にとって便利か、ということを突き詰めるとめんどくさくなってきて、興味がなくなってしまったんです。」

この老人との付き合いやら、突然女の子をつれて帰ってきた息子の登場やら、それなりに人生は動いていきます。もちろん「寒い日に身体の節々が痛くなったり、シャンプーをいくつ変えても髪型が決まらなくなったり」というこれまでとは明らかに違う兆候を意識せざるをえなくなり、確実に老いは近づいてきます。でも納得して生きるしかないね、ふふふ……、と笑って小説の幕は降ります。

「そう言えばここ二三ヶ月、月のものがないけど、こんどこそ、あがったのかなと考え、どことなく月経前症候群めいた下腹の張りがあるのに気づき、きっぱりとあがらないのよ、予断は許さないのよ、と、一人、カフェオレとトーストの朝食を摂りながら、聖子はいつものように脳内独白を続けた。」と。

「生きるって予断は許さない」というのは真理です。

明日は、老人介護真っ最中の家族を描く「長いお別れ」を紹介します。

 

夏葉社の島田さんと、書評家の岡崎武志さん、そして装丁家和田誠さんが組んで、庄野潤三のアンソロジー小説集を作りました。「親子の時間 庄野潤三小説撰集」(夏葉社2592円)です。

今どき、函入りの本を、しかも庄野潤三のような地味な作家のアンソロジーなんて、大胆ですね。

庄野潤三は1921年大阪生まれ、朝日新聞社に勤務する傍ら、小説を発表してきました。自分の家族とその周囲のことのみを、ひたすら描いてきた作家です。そういう意味では、家族の冠婚葬祭を描き続けた小津安二郎と並んで、極めて珍しい作家です。

編者の岡崎さんは、「夕べの雲」(講談社文芸文庫)に収録されている「山茶花」だけを例外として、現在入手可能な文庫には収録されていない作品を選んでいると、後書きで述べておられます。その理由が、彼が高校二年の時に、あっけなく亡くなった父親の死を認められない自分にあり、その時に読んだ「山茶花」で救われたことによると前置きした上で、

「親子の一方が退場すれば、それは二度と取り戻せない時間であることを『山茶花』は教えてくれた。私はあの時の体験で、ようやく父の死を直視できたし、その日から、庄野潤三がかけがいのない大切な作家となった。」と書かれています。

自分の家族の日々だけを見つめたという意味では私小説の極みになるのですが、このジャンルの小説に色濃く覆われている陰鬱な、破滅的なイメージからは遥か彼方にいる作家です。庭に差し込む柔らかな太陽の光、窓辺のカーテンを揺らす風、畳の香りが安らぎを与えてくれます。私もそんなに沢山読んではいませんが、手放したくない作家の一人です。和田誠さんの表紙の、暖かな家の門構えの絵が、すべてを語っています。

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是枝裕和監督作品「歩いても、歩いても」は、劇場公開された時に観ていましたが、先日BSの放映を再度観て、その作品の持つ深さに改めて感心しました。

亡き長男の墓参りに、お盆に帰ってきた次男と嫁と連れ子、姉とその夫、そして父と母の二日間を淡々と描きます。そこには家族の死が介在していて、一見しただけでは解らない、ちょっとしたズレ、孤独、嫉妬、そして垣間見せる狂気等を織り交ぜながら、それでも何事もなかったように、人生は続いて行くのです。数年後、亡くなった父と母の墓参りに訪れた次男夫婦の背後に広がる夏の青空は、人の世の切なさと、変わらぬ故郷の風景を対比させてみごとです。

食べることを丁寧に追いかけた作風は、小津映画を観ているような気分になります。お盆に作る母の手料理、思い出深いトウモロコシの天ぷら、スイカ割り、近所の寿司屋の出前、長男のお参りにきた青年が食べた水ようかんなど。小津の世界とはまた違う家族の話ですが、底に流れる、近いようで遠い家族の抱える思いは同じ様な気がします。

是枝監督はこの映画の原作(玄冬舎500円)も自ら書いています。その最後に書かれているのは、

「あぁ、あの時こうしていれば・・・・・と気づくのは、いつもその機会をすっかり逃して、取り返しがきかなくなってからだ。人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。それが父とそして母を失ったあとの僕の正直な実感だった。」

この二行程の文章を、是枝監督は映像で語っています。ぜひ、DVDでご覧下さい。

こういう家族の話になると、庄野潤三が描いてきた小説群を思いだします。

「ザボンの花」(みすず書房1400円)を読むと、やはり飯の炊き方をめぐっての会話が出てきます。彼の小説は、特に事件が起こるわけでもなく、東京郊外に住む家族の日々を描くことで、独特の詩情を生み出します。(だから、若い時にはとてもつまならない小説だと思いました)

「夏は、一年のお祭りのように思われる。万物がみな燃えたら、夏ばんざいと叫んでいる。ところが、夏はある日、突然、終わりに来てしまう。まるで、卓上のガラスの器が、何もないのに音を立てて割れてしまったように、夏はこわれてしまうのだ」

なんて文章に出会うと、今は涙ぐんでしまいそうです。

 

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