夏葉社の新刊「庄野潤三の本 山の上の家」(2376円)は、1961年に完成した、東京生田の山の上に建つ、庄野家の写真から始まります。当時はまだまだ、人家の少なかった場所にあり、庄野は約50年間、ここで小説を書き続けました。

2009年に逝去した後は、庄野の妻が一人で暮らしました。家族たちは、作家の部屋も、机の上も書架もそのままのかたちで保存していました。2017年、作家を支え続けた妻が亡くなりました。誰もいなくなった家にカメラが入り、端正な佇まいと清潔感あふれる家の中の表情を、写真家の白石和弘が撮影しました。

子供たちが過ごした部屋、風通しの良さそうな作家の仕事部屋、そして本棚。井伏鱒二、佐藤春夫らの本が並んでいます。須賀敦子が庄野の「夕べの雲」のイタリア語に翻訳した版もあります。決して贅沢にお金をつぎこんだという風ではなく、慎ましい、でも住み心地の良い住居、気持ちのよい家の香りのする写真です。

これらの素敵な写真に続いて、佐伯一麦の特別寄稿文、庄野の随筆、家族が語る父親の姿、単行本未収録作品「青葉の笛」、庄野全著作案内と、この作家を丸ごと紹介してゆく魅力的な内容です。

書評家の岡崎武志はこの本の中で、庄野と親交のあった作家藤沢 桓夫が、「自分の家の畳の上にやっと横になれたような、ふるさとの草っ原に仰向けにねて空の青さと再び対面したような、不思議な心の安らぎがよみがえって来る」と、彼の文学の特徴を書いた文章を紹介しています。慎ましく、静かで平和な暮らしの描写は、小津映画の世界に相通じるものがあります。そういった暮らしぶりが、伝わってきそうな昭和30年代の家族写真が色々並んでいます。自宅の庭で、息子達と梅の土用干しをする姿を撮った写真には、家族の幸せが伝わってきます。

もうすぐ夏の甲子園が始まりますが、終戦直後、大阪旧制今宮中学で教鞭をとっていた庄野は、野球部部長として選抜中等学校野球大会(のちの選抜高校野球)に大阪代表として出場しました。「日本文学史上、いわゆる『甲子園の土』を指導者として踏んだ文学者は、庄野潤三だけではないか」と岡崎は書いています。

丸ごと庄野潤三を詰め込んだこの本をパラパラめくって、拾い読みしているだけで、心持ちが豊かになり、ゴロンと昼寝をしたくなってきます。相変わらず、いい本を出しますね、夏葉社の島田さんは!

同社からは「親子の時間 庄野潤三小説撰集」(2592円)も出ています。こちらもどうぞ。

★レティシア書房恒例「夏の古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催です。なお、準備のため6日(月)7日(火)は連休いたします。

 

 

今週は映画館で、二本の映画を観ました。一本目が、昨日このブログに書いた「万引き家族」、そして今日ご紹介するのは「焼肉ドラゴン」です。どちらも、家族の姿を通して時代を描いた素晴らしい映画でした。

「焼肉ドラゴン」の舞台は、昭和40年代の大阪。伊丹飛行場の傍に在日朝鮮の人々が住んでいます。そこにある焼肉店「焼肉ドラゴン」の家族が主役です。高度経済成長に浮かれている時代の片隅へと映画は誘います。

この店は亭主・龍吉と妻・英順がやりくりしています。二人には静花、梨花、美花の三姉妹と一人息子・時生がいます。場末の焼肉店には、騒がしい客が出入りしていて、次女の梨花が、飲んべえの哲男と婚約するところから物語は始まります。

TV「寺内貫太郎一家」なみに、騒がしく、喧嘩も、笑いも絶えない店ですが、戦争に無理矢理徴兵され、故郷を追われ、その上に左腕をなくした龍吉、小さい時にある事件で足に傷を負った静花、学校で虐められている時生、梨花と静花の葛藤、美花の恋愛などそれぞれに抱えている問題が明らかになって来ます。さらに、この地域は不法占拠だと国から立ち退きが迫られます。在日朝鮮人の置かれた辛い現実がしっかり描かれています。

そんな中でも、龍吉は“たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる”と、いつもの口癖で空を見上げます。本音をとことんぶつけ合う家族。我が儘で、情けなくて、哀しくて、優しい、マァうるさい毎日です。でも、みんな一生懸命です。飛び交う言葉のひとつ、ひとつに生きる力が漲っています。

昭和45年。大阪万博が開かれました。夢と希望の未来を祝福するかのように開催された万博。月の石みたさに何時間もアメリカ館に並んだことを思い出しますが、この家族達も出掛けていきます。しかし、その一方で、一家離散の始まりの時でもありました。彼らは悩みながら自分に正直に、それぞれの道を探し出して別れていきます。もう、永遠に会えないかもわからない。でも、龍吉はいつもの口癖を言いながら、妻を大八車に乗せて、長年親しんできたこの地を去ってゆきます。龍吉を演じたキム・サンホ、妻を演じたイ・ジュウンの大きさ、優しさを見ているだけで、この映画は価値があります。もう、人生、どんとこいですよ。

作家の小川洋子は「互いの痛みを互いの痛みで癒し合うしかない家族。彼らがいとおしい。ひたすらに生きている、というただそれだけの理由で。」とこの映画について書いています。「ひたすら生きている」という言葉が胸にせまる傑作です。

関西人でもないのに、大阪弁で罵り合っていた大泉洋、真木よう子、井上真央、桜庭ななみ等、役者が揃い、泣きながらとても楽しませてもらいました。

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)

店内にて開催(月曜定休日)

Tagged with:
 

TVの情報番組で、有料のお台場花火大会の事を報道していました。なななんと、数万円の席もあり、ディナーを楽しみながら花火を見るというイベントです。ほぼ満席のように見えた会場には、それなりにリッチな若者や家族が一杯でした。日本の今の富裕層の一端がこれだとすると、是枝監督最新作「万引き家族」の主人公たちは、その真逆の貧困層の人達です。格差社会を象徴する物語です。

高層マンションに囲まれたような狭い土地に住む一家。祖母の年金と細々とアルバイトしながら生活する長女とその夫、性風俗店で働く次女、そして長女の子ども。長女の夫とその息子は、見事なコンビネーションで万引きを日々やっています。映画はそのシーンから始まります。「仕事」の帰り道、二人はDVを受けてアパートの廊下に放っておかれている女の子を、家に連れて帰ってきます。

清潔とは言いがたい、散らかし放題の狭い家に、さらに一人増えたことで、最初は不協和音が生じるのですが、やがて家族の一員として受け入れられます。身代金とか要求してないから、これは誘拐ではないという理屈で、表面上は、それなりに楽しい一家の生活はつづいていくのですが、この家族には、全員に秘密がありました。夏の海辺の一日、端から見ていると平和な一家団欒にしか見えない。ところが、祖母が急死したことから、影が覆い被さってきます。皆を支えて来た祖母にもあった秘密。それぞれに抱えて来た秘密が、家族を壊していきます。私たちが思い描く家族という概念が根底から崩れていきます。

居心地のいい映画ではありません。しかし、圧倒的なリアリティーで迫ってくる役者と、細部までリアリズムを追求した監督の演出、そして、ゴミ屋敷一歩手前の彼らの住まいを、見事に作り上げた美術スタッフの実力が、家族の有り様を問いかけてきます。

詩人の谷川俊太郎は映画のHPでこう表現しています。

「ヒトは身を寄せ合う、世間から外れても、法に触れても、いのちの自然に逆らわず、GDPなどどこ吹く風で。」

世間一般の家族という言葉から遠く離れていても、だからどうなんだと、太々しささえ漂ってきます。もちろん、彼らが幸せになるような結末ではありません。簡単には答えが出せない、と言っていると思いました。突っ放したような、それでいて愛しさの余韻の残るエンディングです。

カンヌ映画祭で大賞を受賞しただけの力のある映画です。

 

★レティシア書房「夏の一箱古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)店内にて開催(月曜定休日)

Tagged with:
 

マウゴシュカ・シュモフスカ監督によるポーランドの映画「君はひとりじゃない」は、第65回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門で上映され、銀熊賞を獲得。グディニャ映画祭で金獅子賞、第29回ヨーロッパ映画祭で観客賞を獲得しています。

妻に先立たれた中年男。残されたのは、意思疎通のできていない一人娘。母の亡き後、精神のバランスを崩し、父とはほぼ断絶状態になっています。そんな彼女に寄り添う、セラピストの女性には、実は霊を呼び寄せる力が備わっています。

と、ここまで書けば、そのセラピストが母の霊を呼び、それを機に、父と娘との歪な関係に終わりがくるという結末を予想されますよね。いや、私も半分そう思っていました。映画はそんな風に進んでゆくのですから……

メタボ体型である検察官の父(古谷一行に似てる)は、仕事や食事を機械的にこなすだけの味気ない日々を繰り返しています。ウォッカしかない冷蔵庫がその象徴です。一方、娘は摂食障害を患って痩せこけています。生きる喜びも実感も欠落した日常描写の一方で、心霊描写を随所に絡ませていきます。家族の絆が切れて、ひとりぼっちで生きてゆく二人の姿を見ているのは辛いものです。

にしても、亡くなった母の霊を呼ぶことだけで、この二人の絆が戻るなんてことあるの?と思いながらドラマを見守りました。ラスト、このセラピストが自宅にやって来て、三人が手をつないで母の霊を呼び寄せる儀式が始まります。やっぱ、そういう映画なのだ、と思った瞬間、こ、こんなラストありか?!こんなに滑稽で人間臭い結末ありか!!と仰天しました。

そうだよな、人間には体温があるんだ、だから暖かいんだ、という当たり前の事がこれ程感動するなんて!!古谷一行、じゃない、この中年男のくしゃくしゃ顔に、父ちゃん良かったな、あんまりウォッカばっかり飲んだらあかんで、と声をかけたくなりました。

この女性監督、やるなぁ〜。暖かい涙で一杯でした。

前日に引き続き、中島京子の家族小説をご紹介します。中央公論文芸賞を受賞した「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)は、チャンドラーのハードボイルド小説と同じタイトルですが、こちらは認知症になった父親の物語です。

東昇平には妻と三人の娘がいます。娘達はそれぞれ独立していて、長女は夫の仕事の関係でアメリカに滞在、次女も結婚し、三女はフードコーディネーターとして頑張っています。昇平は教師として職責を全うし、今は妻と二人で暮らしています。

と、こう登場人物を書いてしまうと、やはりどこにでもある家族です。物語は、昇平が徐々に認知症を患い、その介護に巻き込まれる女性たちの10年間の姿を描いていきます。

後半、認知症の進行に伴って、疲弊してゆく妻と娘たちとの葛藤が表面化していきます。作家自身の体験なのか、それとも詳細な取材の結果なのかはわかりませんが、介護の状況はリアルに描かれています。きっと、実際の現場はもっと修羅場なのでしょうが、あくまで小説でノンフィクションではありませんので、その辺りを物足りないと取るか、物語としてスルスルと読めていいと取るかは、読者次第です。

昇平が元気になるという事態はありえませんし、当然、家族との永遠の別れは待つのみなのですが、「お父さん、お別れね」などという陳腐なシーンは全くありません。それどころか、妻や娘たちとの死別のシーンがありません。もう、最後というシーンで一気に舞台はアメリカに変わります。

アメリカにいる長女の息子が登校拒否になり、校長との面談に臨む場面になります。そこで、初めて孫の口から「祖父が死にました」というセリフが出ます。認知症の始まりを、孫が「十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初」と校長に伝えると、その言葉を受けて、校長はこう言います。

「十年か。長いね。長いお別れだね」。その意味を分かりかねた孫に向かって、「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」ざっくばらんな校長との会話に、本のタイトルが登場するのです。

この二人の会話で小説は幕を閉じます。静かなエンディングです。亡くなった人への切ない思いを、ふっと浮き上がらせる巧みな終り方だと思いました。

●レティシア書房のお知らせ●

 年始年末 12月29日(金)〜1月4日(木)休業いたします。


Tagged with:
 

中島京子が、どこにでもある家族を描いた長編小説、「彼女に関する十二章」(中央公論社/古書1200円)、「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)を連続で読みました。

家族って、めんどうだなぁ、でも、しかしなぁ〜という実感は誰でもお持ちでしょう。そこを見事に突いて、読んだ後、まぁ仕方ないね、自分の人生だからね。とちょっと前向きになれるお話です。決して「泣ける」とか「涙が止まらなかった」的な陳腐な小説ではありませんので、ご安心を。

今日ご紹介する「彼女に関する十二章」は、初老にさしかからんとする夫婦の物語です。

「どうやらあがったようだわ。こんなにきれいに、まるでお役所仕事のようにきっぱりと容赦なくあがるとは思わなかった。五十歳の誕生日を過ぎてからこっち、きっぱりと月のものが無くなった。」

という主人公の主婦、宇藤聖子のひとりごとで始まります。ライターの夫と、遠くの大学に通っている一人息子、そして自分は、パートをしながら家計を支えるという、典型的な家族の日常が描かれます。現状への不満はないものの、忍び寄る将来への不安。

そんな時、彼女の小学校時代の初恋の男性の息子が現れます。「父親が亡くなりました」という報告と共に。彼の息子の表情に過去の淡い思い出が甦りますが、この二人が恋に陥るわけではありません。これまでの日常になかった感情に揺さぶられる主人公。さらに、パートの仕事で舞い込んだ新しい職場と、その職場で出会った風変わりな老人片瀬。根無し草みたいな生活を続ける彼はこんなことを言います。

「便利ということに興味が持てなくなったんです。」「便利である必要があるのか、何にとって便利か、ということを突き詰めるとめんどくさくなってきて、興味がなくなってしまったんです。」

この老人との付き合いやら、突然女の子をつれて帰ってきた息子の登場やら、それなりに人生は動いていきます。もちろん「寒い日に身体の節々が痛くなったり、シャンプーをいくつ変えても髪型が決まらなくなったり」というこれまでとは明らかに違う兆候を意識せざるをえなくなり、確実に老いは近づいてきます。でも納得して生きるしかないね、ふふふ……、と笑って小説の幕は降ります。

「そう言えばここ二三ヶ月、月のものがないけど、こんどこそ、あがったのかなと考え、どことなく月経前症候群めいた下腹の張りがあるのに気づき、きっぱりとあがらないのよ、予断は許さないのよ、と、一人、カフェオレとトーストの朝食を摂りながら、聖子はいつものように脳内独白を続けた。」と。

「生きるって予断は許さない」というのは真理です。

明日は、老人介護真っ最中の家族を描く「長いお別れ」を紹介します。

 

夏葉社の島田さんと、書評家の岡崎武志さん、そして装丁家和田誠さんが組んで、庄野潤三のアンソロジー小説集を作りました。「親子の時間 庄野潤三小説撰集」(夏葉社2592円)です。

今どき、函入りの本を、しかも庄野潤三のような地味な作家のアンソロジーなんて、大胆ですね。

庄野潤三は1921年大阪生まれ、朝日新聞社に勤務する傍ら、小説を発表してきました。自分の家族とその周囲のことのみを、ひたすら描いてきた作家です。そういう意味では、家族の冠婚葬祭を描き続けた小津安二郎と並んで、極めて珍しい作家です。

編者の岡崎さんは、「夕べの雲」(講談社文芸文庫)に収録されている「山茶花」だけを例外として、現在入手可能な文庫には収録されていない作品を選んでいると、後書きで述べておられます。その理由が、彼が高校二年の時に、あっけなく亡くなった父親の死を認められない自分にあり、その時に読んだ「山茶花」で救われたことによると前置きした上で、

「親子の一方が退場すれば、それは二度と取り戻せない時間であることを『山茶花』は教えてくれた。私はあの時の体験で、ようやく父の死を直視できたし、その日から、庄野潤三がかけがいのない大切な作家となった。」と書かれています。

自分の家族の日々だけを見つめたという意味では私小説の極みになるのですが、このジャンルの小説に色濃く覆われている陰鬱な、破滅的なイメージからは遥か彼方にいる作家です。庭に差し込む柔らかな太陽の光、窓辺のカーテンを揺らす風、畳の香りが安らぎを与えてくれます。私もそんなに沢山読んではいませんが、手放したくない作家の一人です。和田誠さんの表紙の、暖かな家の門構えの絵が、すべてを語っています。

Tagged with:
 

是枝裕和監督作品「歩いても、歩いても」は、劇場公開された時に観ていましたが、先日BSの放映を再度観て、その作品の持つ深さに改めて感心しました。

亡き長男の墓参りに、お盆に帰ってきた次男と嫁と連れ子、姉とその夫、そして父と母の二日間を淡々と描きます。そこには家族の死が介在していて、一見しただけでは解らない、ちょっとしたズレ、孤独、嫉妬、そして垣間見せる狂気等を織り交ぜながら、それでも何事もなかったように、人生は続いて行くのです。数年後、亡くなった父と母の墓参りに訪れた次男夫婦の背後に広がる夏の青空は、人の世の切なさと、変わらぬ故郷の風景を対比させてみごとです。

食べることを丁寧に追いかけた作風は、小津映画を観ているような気分になります。お盆に作る母の手料理、思い出深いトウモロコシの天ぷら、スイカ割り、近所の寿司屋の出前、長男のお参りにきた青年が食べた水ようかんなど。小津の世界とはまた違う家族の話ですが、底に流れる、近いようで遠い家族の抱える思いは同じ様な気がします。

是枝監督はこの映画の原作(玄冬舎500円)も自ら書いています。その最後に書かれているのは、

「あぁ、あの時こうしていれば・・・・・と気づくのは、いつもその機会をすっかり逃して、取り返しがきかなくなってからだ。人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。それが父とそして母を失ったあとの僕の正直な実感だった。」

この二行程の文章を、是枝監督は映像で語っています。ぜひ、DVDでご覧下さい。

こういう家族の話になると、庄野潤三が描いてきた小説群を思いだします。

「ザボンの花」(みすず書房1400円)を読むと、やはり飯の炊き方をめぐっての会話が出てきます。彼の小説は、特に事件が起こるわけでもなく、東京郊外に住む家族の日々を描くことで、独特の詩情を生み出します。(だから、若い時にはとてもつまならない小説だと思いました)

「夏は、一年のお祭りのように思われる。万物がみな燃えたら、夏ばんざいと叫んでいる。ところが、夏はある日、突然、終わりに来てしまう。まるで、卓上のガラスの器が、何もないのに音を立てて割れてしまったように、夏はこわれてしまうのだ」

なんて文章に出会うと、今は涙ぐんでしまいそうです。

 

Tagged with: