「爪と目」で第149回芥川賞を受賞した、京都生まれの藤野可織の短篇集を幾つか読みました。

「狼が訪ねてきたのは五歳のときで、両親とともに郊外のマンションに引っ越した日のことだ。」で始まる「狼」(古書・「ファイナルガール」角川文庫/300円に収録)は、「赤ずきん」や「三匹の子豚」がベースにある物語です。

マンションに引っ越して来た自分を、狼が食べに来ると思いこんでいる少年の前に、狼がやってきます。ロックされたドア越しに対峙する二人。危機一髪の時、外出から帰ってきた両親が、持っていた瓶やら、何やらで狼を殴り殺します。そして45リットルのゴミ袋にその死骸を入れて共同のゴミ捨て場に持っていきます。そこに狼がいたこと、殺した事などなかったように日常が戻ります。やがて、成人した少年は、恋人と新居に移ります。そこに、再び狼がやってきます。襲われる寸前、彼女は手の持っていたラックのポールで、狼の顎を割り、のけぞったところを、めった打ちにして殺します。そして、やはりゴミ袋に入れて、ゴミ収集ボックスに捨ててくるというお話です。

ゴミ袋に狼を入れてしまうという描写が、極めてリアルです。それに比べて、何の疑いもなく狼を殺してしまう両親や、彼女の存在はかなり非現実的です。

現実と非現実の絶妙のバランスで進行してゆくという点では、藤野の「おはなしして子ちゃん」(古書・講談社/650円)も見逃せません。主人公は小学校に通う女の子です。学校の理科準備室には、ホルマリン漬けの瓶が一杯ありました。その中に猿がいました。

「猿は膝を揺ゆるく曲げ、背を瓶の側面につけ、中腰のような、空気椅子に坐っているような恰好でじっとしていました。」

その猿と女の子の、不思議な物語が展開していきます。瓶の中でひとりぼっちの猿は、さみしくて、さみしくて仕方ありません。だから、女の子に、いろんなお話をしてと求めてきます。彼女が持っているお話すべてを語り終えても、もっと、もっと、と求めてきます。そして、遂に瓶から飛び出し、空腹のあまり、彼女を食べようと襲いかかります。しかし猿は、「ぴょんと跳ぶたびにぺちゃ、と音が響くのです。それは、皮膚組織が子猿から剥がれ落ちる音でした。つまり、体のほうぼうでずる剥けになった皮膚が、ホルムアルデヒト水溶液の水たまりに落下する音でした」という状態です。やがて、死に絶えた猿を少女は長時間抱きしめて、物語は終わりへと向います。

舞台となる小学校の雰囲気や、現実感のある生徒の感情の間に、ホルマリン漬けの猿が動き出すという、非現実が挟み込まれています。可愛らしさ、グロテスク、ファンタジーがごちゃ混ぜになりながら進行する文体や世界観は、生理的に付き合いきれない人もいるかもしれませんが、べったりと付きまとう不気味さを描いていて面白いです。私はこの作家の小説を初めて読みましたが、かなり好みです。

★連休のお知らせ 7月2日(月)、3日(火)

★夏の一箱古本市8月8日(水)〜19日(日)まで店内にて開催

 

小山田浩子の短篇集「庭」(新潮社/古書1400円)は、日々の生活の隙間からふっと顔をだす、ちょっと悪寒の走るような不思議な世界が一杯。読み出したら、この濃厚な文体に絡みとられてしまうやばい小説ですが、小説に限って云えば、もう今年はお腹いっぱい、という気分です。

小山田は2014年「穴」(新潮社/古書600円)で芥川賞を受賞した広島出身の作家です。夫の実家へ引っ越すことになった妻の、田舎での奇妙な体験を描いています。得体の知れない出来事、不思議な人物に獣。実体があるのかないのか…..。明確な答えのないまま物語は終わります。

今回読んだ「庭」も、一歩間違えば、オカルト小説になりかねない瀬戸際で極めて高い文学性を保っています。

「ウシガエルはうちの近所にはいないが、少し離れたところに川にはいて、夜、自転車で通りかかると襲われるという噂を聞いたことがあった。ウシガエルが牛のような鳴き声で鳴いている川のそばを、ライトをつけた自転車で通りかかるとその声がやむ、と、川の方からどたっと濡れた塊が飛んで来て、顔に張りつく。自転車ごと転んで地面に倒れると、同じような塊が川からどたどたぞろぞろ集まってきて、その人の顔をぺろぺろ舐めて食べてしまうのだという。」

「緑菓子」という一編の中の文章は、怪奇小説みたいなグロテスク感一杯ですが、そういう手合いのお話ではありません。写真家で作家の大竹昭子は「目の前の出来事や対象を見つめるうちに、異次元に引き込まれていく。極度の集中力をもって見るゆえに、ごくふつうの日常のなかに異界が出現してしまうのだ。」と書評を書いています。

何の変化もない日常の暮らしの中で、ひそかに生きている草花、植物そして虫たち。その日常の風景が、不条理に変わる瞬間を捉えた世界……..残念ながら、私にはこの短編集をうまく表現する言葉が見つかりません。

しかし、細密画のような描写、言葉の洪水、改行がほとんどなく永々に続きそうな文体にはまり込むと、逃げ出せなくなります。その快感をぜひ味わってください。

★お知らせ 6月4日(月)5日(火)連休いたします

Tagged with:
 

結城昌治「夜の終る時/熱い死角警察小説傑作選」(ちくま文庫/600円)。純文学系のちくま文庫が、結城昌治の警察小説のアンソロジーを組むとは驚きです。

第17回日本推理作家協会賞を受賞した「夜の終る時」を含めた5作品を収録しています。とりわけ表題作の「夜の終る時」は傑作です。警察官が主役の推理小説ですが、ジャンルを乗り越えた良質な小説です。

結城は、48年東京地検に事務員として就職したものの、肺結核で入院。その時、福永武彦と知り合い、推理小説を読むことを薦められ、50年代後半から作品を発表し始めます。そして63年に発表したのが「夜の終る時」です。実直な刑事が捜査中に行方不明になります。その刑事とやくざとの黒い噂が絶えませんでした。しかし、刑事はホテルで他殺死体として発見され、深まる謎を巡って刑事たちが歩き回ります。

小説の構成は、全体の80%が、犯人探しの本格推理。第二部に当たる残り20%が、犯人の視点から描いた倒叙もの、という独特の構成になっています。そして登場する刑事たちは、総じて地味なのです。昨今の警察小説に登場するようなスーパーヒーローはいません。1961年に始まったTVドラマ「七人の刑事」(と言っても、若い方はご存知ないかも…)みたいなシブいおっさんばかりです。

戦時中、おそらく特高だったような刑事が登場します。「被疑者の扱いは荒っぽいし、捜査も勘に頼って科学性に欠けている。」と描かれています。その一方、戦後育ちの刑事たちは、刑事を仕事と割り切り、「平穏な家庭と老後の安定に小さな望みを託している。どうせ出世の見込みもないのに、仕事のために生活を犠牲にするなどというのは、バカげたことだと考えている」連中が、同じ刑事部屋に詰め込まれています。派手な撃合いも、アクションもない、ひたすら歩き回り、考える刑事たちの日々を追いかけた小説です。

そして、ラストに犯人のこんな心情が綴られています。

「ふいに、海の風景が浮かんだ。おれは、待合室に出入りする人々を眺め、千枝の姿を求めながら、死ぬ場所を考えていた。海は、待合室にこもったタバコの煙のむこうに見えた。ざわめきは潮騒のようだった。」

犯罪にのめり込んでいった、男の悲哀までも描き出しています。こんなアンソロジーを出したちくま文庫はさすがですね。なお、昭和38年に出版された単行本(中央公論社/500円)も在庫しています。

「読者はたとえ『つまらなかった』と読み捨てた本からも、何かを受け取る。一冊の本が読者の心を突き動かし、人生を変えることもある。本とはそういうものだ。自分たちが造っているものは、そういう大切なものだ」

「自分たちが造っている」という言葉から、これは編集者の物語?と思われるかもしれません。しかし、安藤佑介著「本のエンドロール」(講談社/古書1300円)の主人公は、印刷会社に務める若者、浦本。物語は、中堅どころの印刷会社営業部に勤務する浦本の、日々の仕事ぶりを描いています。

突然のレイアウト変更、印刷ミス、はたまたトンズラした編集者の後を受けて、迫り来る発売日を前に悪戦苦闘する日々が細かく描かれていきます。私たちは、著者が書いて、出版社で編集され、取次ぎへ回り、そして本屋に届くぐらいは知っています。しかし、その最終行程で、何がどんな風に行われているのか、そして会社内で働いている人達の思いがどんなものなのか、全く知りません。

変更、変更を押し付けてくる作家に対して、印刷会社の技術屋は、

「受けて立とうや。ぐうの音も出ねえ、文句なしのもんを造ってやれば、それで仕舞だ」とプライドをかけます。

日々、輪転機相手に格闘する彼らは、まぎれもなく本の職人です。

「作業を重ねた熱量や想いが、カバーを通して手に取る人の直感や潜在意識に訴えかけるはずだと思っている」

確かに店頭で、これは、と手に取った瞬間に心に飛び込んでくる本ってあります。

作家は、なんとか自分の本を多くの読者に伝えたいと様々な要求を出します。しかし、印刷する立場の人間は、全て要求通りには出来ません。「お言葉を返すようですが………色校にOKを頂いたので、紙は発注済みです」、「キャンセルは不可能です。今日工場に搬入されて、開封検品しましたので」

作家との格闘の日々です。

「本が売れなくなってゆく時代の中で、一冊の本の装幀にこだわるのは何のためか。その答えは分からない」と、自問自答しつつ、浦本は難問にぶつかっていきます。そして、彼は先輩社員のこんな言葉の深い意味を理解していきます。

「夢は、目の前の仕事を毎日、手違いなく終らせることです」

電子書籍の普及で、これから印刷がどう変わってゆくのか、未来への不安は消えません。それは、本を作る立場、売る立場でも同じです。でも、

「多くの人に祝福され、今日もまた新しい本が生まれる」

という最後の文章を、信じていたいのです。

講談社が、戦後すぐの1946年に創刊した文芸誌「群像」には、多くの文学者が作品を発表 しています。

原民喜「鎮魂歌」や安岡章太郎「悪い仲間」、小沼丹「懐中時計」などは、発表された後に書籍化されていて私も読みました。悪に憧れる青年たちの心象風景を描く「悪い仲間」の面白さが印象に残った記憶があります。

家族の何気ない日々を描いた庄野潤三の「プールサイド小景」も、たしか「群像」に発表され、その後1955年の芥川賞を受賞しています。小津安二郎的な小市民の世界を描いてきたと勝手に思い込んでいたのですが、この作品は異質でした。

先日、文庫版「プールサイド小景・静物」(新潮文庫/古書250円)を再読しました。都会の日常生活をスケッチ風に描きながら、壊れてゆく幸福をクールなタッチで書いています。

「プールの向こう側を、ゆるやかに迂回して走って来た電車が通過する。吊革につかまっているのは、みな勤め帰りのサラリーマンたちだ。彼等の眼には、校舎を出外れて不意にひらけた展望の中に、新しく出来たプールいっぱいに張った水の色と、コンクリートの上の女子選手たちの姿態が飛び込む」

「プールサイド小景」は、こんな都会派小説風の描写で始まります。そのプールの傍で、子供たちを泳がせている父。夕闇が迫る頃になると、「大きな、毛のふさふさ垂れた、白い犬を連れた」妻がお迎えにやってきます。誰が見ても幸せそうな家族なのですが、実は夫は会社での不始末を切っ掛けに解雇されているのです。そして、徐々に忍び寄る家族の崩壊…….。今ならTVドラマにも描かれないようなよくあるお話なのですが、ゾッとするのは終盤の描き方にあると思います。

しばらくは家にいたものの、世間体やら、子どもの手前、そういつまでもこのままではいられなくなった夫は、あてもなく仕事場に向かうような姿で出て行きます。その後ろ姿をみた妻は夫は帰ってくるのか、そんな不安と焦燥にかられます。

「プールの向こう側を、ゆるやかに迂回して走って来た電車が通過する」という最初のシーンが再び登場します。しかし、そこに華やかな女子高校生の姿はありません。ポツンと浮かび上がるのは……..。

最初に読んだ時は感じなかったのですが、小説がものの見事に映像化されています。この文庫には、「家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりついている守宮のようなものだ」で始まる「舞踏」も収録されています。こちらは若い夫婦に忍び寄る家庭の危機が描かれています。

★4月9日(月)10日(火)連休いたします。

4月11日(水)から、京都の出版社ミシマ社の展覧会『ミシマ社と京都の本屋さん』を開催します。

 京都の本屋さんマップをレティシア書房の壁に作り、刊行した書籍や制作資料も展示します。お楽しみに!


 

「月光アパートは、H線、飛田駅の近くにあった。昭和初期に出来たアパートで、壁の色も、今はわからない程古び、玄関からはすえた匂いの漂う。侘しいホテルであった。この辺りの人々は、この月光アパートを、通称、飛田ホテルと呼んでいた。それは売春防止法以来、多くの夜の女たちが、このアパートに住みこんだためであった。」

で始まる「飛田ホテル」は黒岩重吾の短編小説です。

黒岩は1924年大阪に生まれ、同志社大学在学中に、学徒動員で満州へ向います。戦後小説家としてスタート、60年「背徳のメス」で直木賞を受賞した社会派推理作家の一人です。ちくま文庫から出た「飛田ホテル」(古書/500円)は、大阪を舞台に、社会のどん底で生きる男と女の姿を描いた作品集で、酒、煙草、むせ返る様な体臭が漂ってくる男や女が徘徊する街が舞台です。

表題の「飛田ホテル」は、現在の大阪西成のあいりん地区、以前の釜ヶ崎辺りが舞台で、実際の黒岩もこの辺りに住んでいたことがある街です。古びたこのアパートに、刑期を終えた男が戻ってきます。ここには妻が住んでいました。しかし、戻ってみると彼女はいなくて、住人たちもよそよそしい。男は街をさ迷い、妻を探します。そのディテール描写が読みどころです。戦後、盛り上がったイタリアのネオリアリズム映画みたいなザラザラした小説です。

「飛田ホテルは、今夜も薄い夜霧の中に滲んでいた。彼は刑務所から出て、初めてその灯を見た時、それは霧の中に咲いた、オオエビネの花のようだと思った。でも、今彼の眼にうつった灯は、敗残の人間の中に宿る、魂を失った醜い欲望の輝きであった。」

妻を探す男の運命に希望があるのか……あるわけがありません。

作品集には、六つの短編が収録されています。その大半が、大阪、しかも天王寺や、阿倍野界隈が舞台です。

「浪速区馬淵町は中山太陽堂の工場の傍にあった。ごみごみした暗い町である。東は新世界、南は霞町の市電通りを境に西成の釜ヶ崎と向き合っている。終戦以来手を入れられたことのない古びた市営アパートや釜が崎の宿と変わらない旅館、掘建て小屋のような家がならんでいた。」

読者は、薄汚れた街に生きる人達の侘しい生活を凝視してゆくことになります。地の底みたいな場所で蠢く男と女の愛憎劇なんて、TV2時間ドラマのお得意ですが、中身のないドラマと違うのは、登場人物の心の明暗がきっちりと描かれているところでしょう。こういう小説も面白いものです。

★連休のお知らせ 19日(月)20日(火)連休いたします

 

 

 

誰にも頼まれてないのに毎日このブログを書くために、何冊か同時進行で本を読んでいます。楽しいけれど、たま〜にツラい読書だったりします。スムーズに読了すれば順次アップするのですが、何かで止まったりするとあせります。ある日、立ち寄った新刊書店の文庫平台の堂場俊一の「Killers」(講談社文庫/古書800円)の上下巻の分厚い文庫が並んでいるではありませんか! いかん、こんな本読み出したら、ブログアップの計画がめちゃくちゃになると思いつつ、結局購入。もうそれからは、一気に読み上げました。

個人的に、日本作家によるハードボイルド、警察もの、新聞記者もの小説は大好きで、けっこう多くを読んできました。大沢在昌「新宿鮫」、逢坂剛「カディスの赤い星」、原尞「私が殺した少女」などは読み返すこともあります。最近、堂場瞬一が面白い作品を連発していて、上下巻で約1000ページある「Killers」も、読み応え十分のサスペンスものであり、しかも戦後から今日に至る渋谷という街を描ききっているところが注目点です。

「明治通りと直角に交わる細い橋の上に立って、渋谷駅方面を凝視する。渋谷川自体は、両岸をコンクリートで固められてしまい、川というより細い水路のようにしか見えず、川底には申訳程度に水が流れているだけだ。両岸には古びたビルが立ち並び、そこだけが昭和のままになっている。」

そんな今の渋谷に残された古いアパートで、老人の他殺死体が発見されたところから話は始まります。老人の顔には十字の傷が付けられていたので、捜査に当たった刑事たちは、1961年に起こった連続殺人件事件を思い出します。それらの事件の被害者の顔にも同じ傷があったからです。

小説は、現代から東京オリンピックで都市開発の進む渋谷に、時代が戻っていきます。警察の捜査と、犯人の異常なまでの殺人への執着を描きながら、繁栄の影で増幅されてゆく憎悪を炙り出していきます。

「ぞっとする、猥褻な指で背中を撫でられたような不快感が全身を駆け抜けた」

悪寒と恐怖の深い闇。都市開発の名のもとの街殺しは、2020年に迫った東京オリンピックに続いています。もちろん、これはフィクションですが、こんな人物が出てきてもおかしくありません。ラストはぞっとする幕切れです。

だから、東京オリンピックなんて止めましょうよ。

 

頭木弘樹編の「絶望図書館」(ちくま文庫/古書650円)は、実にユニークな短編小説の編集ものです。先ず、ページを開けると「絶望図書館ご利用案内」」があります。曰く、

「この図書館は『絶望的な物語』を集めてあるわけではありません。『絶望から立ち直るための物語』を集めているわけでもありません。絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、その長い「絶望の期間』をいかにして過ごすか?」

そういう状況の時に訪れて欲しい図書館という事なのだとか。三つの閲覧室が設置されていて、それぞれの絶望の状況にお薦めの作品が並んでいます。

第一閲覧室「人がこわい」の中で「人に受け入れてもらえない絶望に」という場合、三田村信行作、佐々木マキ絵の「おとうさんがいっぱい」が挙げられています。第二閲覧室「運命が受け入れられない」の「人生の選択肢が限られているという絶望」には、安部公房の「鞄」が、第三閲覧室「家族に耐えられない」の中の「居場所がどこにもないという絶望」には、手塚治虫「ブラックジャック」が、それぞれ用意されています。

これ、人生にいき詰まった時にどうするか、というよくあるノウハウ本でありませんし、従って解決にはなりません。様々な絶望的状況に陥った時、この物語はよく理解できるよね、というものを集めたものです。例えば、「起きてほしくないことが起きるのを止められない絶望に」という状況には、ウィリアム・アイリッシュの「瞳の奥の殺人」が用意されています。

身体の不自由な老婦人の目前で行われる、息子の嫁による殺人事件を扱ったサスペンスです。確かに、身体も動かせない、しゃべることもできないというハンディがあるのに、殺人を止めるのはほぼ不可能でしょう。でも、ここでこれだけは起こって欲しくない時に、それが起こるってことあります。

李清俊(イ・チョンジュン)の「虫の話」は、「恨みが晴らしようのない絶望に」陥った時にどうぞ、という一冊ですが、いやこれは、宗教と人間を扱った小説としてとても良くできています。息子を殺された母親を描いた本作品を、選んだ編者のセンスに拍手です。

さすがと唸ったのが、「離れても離れられない家族の絶望に」で推挙された、川端康成のわずか数ページの短編「心中」です。ぞっとする美しさに満ちあふれた作品で、ショートショートの才人、星新一が「これだけは書けない」と絶賛したという小品です。

と、まぁ様々な絶望が想定されていますが、おぉ〜こういう時にこれか、上手いなぁ〜、とムフフと頷きながらお読みいただくのがベストです。

因みに第一閲覧室の前に、こんな言葉が掲げてありました。

「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」

太宰治の言葉です。

 

昨年末から、時代に関係なく、様々な作家の短編小説集の中から、適当にピックアップして読んでいます。一つ、二つ読んで、これは私に合わないと思ったら次にいく、という気楽な読書です。芥川龍之介の「地獄変」なんて何十年かぶりに再読して、あまりの面白さに他の龍之介作品を読んだりと、思わぬ効用もあります。

しかし、う〜ん、わからん???が脳内に点滅しながらも、最後まで読んだ短編がありました。古井由吉の自撰短編集「木犀の日」(講談社文芸文庫/古書800円)に収録されている「背中ばかりが暮れ残る」です。

「終日ほとんど動かず、物を読んでいる。くたびれた上着に、冬場なので綿入れをはおり、膝には毛布をまわしている」老いた男は、一日中同じ姿勢で本を読み、食事の準備にくる女に養ってもらい、「疲れのにおう身体を畳の上にゆっくり押し倒す」というスケベな老人。これが主人公だと思っていると、「男の背中に向かって私は呼びかけ」と私が登場します。ではこの老人は何?と思いつつ、先を読むと、こんな文章に出会う。

「夜の夢ではない。昼の妄想とも言いきれない。私の念頭のうちにくっきりと存在している」

えっ?老人は「私」の精神の中に存在する幻影?? と考えていると、今度は「私」が若い時の登山の帰りに、見知らぬ男に誘われて酒を飲んだ話が登場する。こんな具合に、物語はふわりふわりと漂泊していき、「多忙は頭脳の隅に、かえって徒らな夢想の閑をあたえる」という今の「私」の仕事部屋に戻り、そこで彼は、すでに死んだ知り合いの、生前のハガキを見つける。そこには病が回復したので、年内に家に戻りますと近境報告があり、最後は「よい年をお迎への程御祈り申し上げます」と結ばれていて、小説は幕を閉じます。

なんだ、なんだ、これは!と、私の読み方が不十分があったのだと思い、再読するも作品を掴みきれないのです。けれど、不思議なことにこの作品を読むのが苦痛ではなく、引き寄せられていくのです。

古井の作品では、神経を病んだ女性と登山で出会った男を幻想的なイメージを交えて描いた芥川賞受賞「杳子」しか読んだことがなかったので、再度トライしてみたのでした。しかし、う〜ん、わからんかった…….。

表題作「木犀の日」に

「曇天としの夜明けに寝床からむっくり起きあがり、親しい家の祝いによばれていたことを思い出し、閑散とした早朝の路をたどる、という夢は幾度か見たことはある。なにやら苦痛のなごりと、そして恍惚とに堪えるために、ひっそりと足を運んでいる。親しい家はどこの家なのか、何の祝いなのか、なぜ朝早くにか、知るまでには至らない。」

という独白が登場する。老いた精神に宿る幻想と迷走が潜んでいそうです。

こんなもやもやした気分も読書の楽しみとしたいものです。

 

前日に引き続き、中島京子の家族小説をご紹介します。中央公論文芸賞を受賞した「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)は、チャンドラーのハードボイルド小説と同じタイトルですが、こちらは認知症になった父親の物語です。

東昇平には妻と三人の娘がいます。娘達はそれぞれ独立していて、長女は夫の仕事の関係でアメリカに滞在、次女も結婚し、三女はフードコーディネーターとして頑張っています。昇平は教師として職責を全うし、今は妻と二人で暮らしています。

と、こう登場人物を書いてしまうと、やはりどこにでもある家族です。物語は、昇平が徐々に認知症を患い、その介護に巻き込まれる女性たちの10年間の姿を描いていきます。

後半、認知症の進行に伴って、疲弊してゆく妻と娘たちとの葛藤が表面化していきます。作家自身の体験なのか、それとも詳細な取材の結果なのかはわかりませんが、介護の状況はリアルに描かれています。きっと、実際の現場はもっと修羅場なのでしょうが、あくまで小説でノンフィクションではありませんので、その辺りを物足りないと取るか、物語としてスルスルと読めていいと取るかは、読者次第です。

昇平が元気になるという事態はありえませんし、当然、家族との永遠の別れは待つのみなのですが、「お父さん、お別れね」などという陳腐なシーンは全くありません。それどころか、妻や娘たちとの死別のシーンがありません。もう、最後というシーンで一気に舞台はアメリカに変わります。

アメリカにいる長女の息子が登校拒否になり、校長との面談に臨む場面になります。そこで、初めて孫の口から「祖父が死にました」というセリフが出ます。認知症の始まりを、孫が「十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初」と校長に伝えると、その言葉を受けて、校長はこう言います。

「十年か。長いね。長いお別れだね」。その意味を分かりかねた孫に向かって、「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」ざっくばらんな校長との会話に、本のタイトルが登場するのです。

この二人の会話で小説は幕を閉じます。静かなエンディングです。亡くなった人への切ない思いを、ふっと浮き上がらせる巧みな終り方だと思いました。

●レティシア書房のお知らせ●

 年始年末 12月29日(金)〜1月4日(木)休業いたします。


Tagged with: