星新一のショートショートを紹介しながら、彼が予測した未来をエッセイ風にまとめた最相葉月著「あのころの未来」(新潮社/古書800円)は、科学と私たちの関係を考えるには、最適の一冊です。

星新一の本って、そんなに熱心に読んではいませんでした。彼の作品の装画を担当していた真鍋博に魅かれて、本を買った記憶があります。

でも、最相葉月が選び出した星の作品を読み、彼が数十年前に、肝臓移植、クローン、ロボット、ネット社会、キャッシュレスのカード社会を描いていたと驚きました。脳死という状態を受け入れた私たちにとって、ぞっとするのが、星の「これからの出来事」を取上げた「脳のなかの私」という章です。

大事故で、両足切断を余儀なくされた男が病室で目覚めます。「それにしても足の裏がかゆいな。女性にかいてほしいと頼むと、少し間があって、その事故で『おれ』は両足を切断されたと知らされた。錯覚が起こるのは医学的によく知られていることだという。」

これ、幻肢と呼ばれる現象で、大脳皮質に記憶された身体感覚によるもので、失う前の記憶、脳の仕業による現象です。小説では、実は男が切り取られたのは足だけだはありませんでした。腸も、心臓も、痛くなってきたはずのこめかみも全てないことを知ります。おれは生きているのか、そう錯覚しているだけなのか、薄らいでゆく意識の中で男は、いや、生きていると思い続けます。その横でこんな会話が描かれます。

「病室では電線につながれたまま溶液に浮いた脳を囲み、女医と担当医が話をしている。『生きる意欲があります。私たちも、やりがいがありますね』 別な部門では、男のからだの残された細胞をもとに臓器や筋肉や皮膚が再生中だったー」

生死の境界が限りなくぼやけていく時代だけでなく、高度な再生医療の果てに行き着く人間の姿まで見つめていたのです。最相は、「ブタ臓器を拒絶反応が起こらないよう遺伝子操作し、人間に移植する異種移植の研究も行われている」と指摘しています。

「どこまでもすげかえ可能になる人間の欲望の果てはなんだろうか。脳だけは死守するのか。」という疑問をもとに、2050年版の「これからの出来事」を、最後に書いています。シュールでおぞましいけれども、現実になりそうな結末です。

私たちのこれからの未来を、そして生きるということを、星新一の作品を読みながら見つめる一冊です。

星と名コンビと称され、『悪魔のいる天国』のように、版が変わるごとに新たなイラストを提供する程の親密な関係だったイラストレータ真鍋博が星の小説のために描いた挿絵をセレクトした「真鍋博のプラネタリウム」(新潮文庫/古書800円)もこの機会にぜひどうぞ。昭和58年発行の文庫。もちろん、絶版です。

中学生、高校生が主人公の小説は、森絵都が2006年に発表した「永遠の出口」以来、久しく読んでいませんでした。今回、手に取ったのは町屋良平の「しき」(河出書房新社/古書1250円)です。

特技ナシ、反抗期ナシ、フツーの高校生、星崎が主人公です。友達の坂田も、草野も同じ様なもんです。同級生の女子高校生も三人登場しますが、セックスもなければ、恋愛もほんの少しだけ。親に反発して家を飛び出すとか、悲しい恋に苦しむ、或いは悲惨な目にあうとか、ドラマチックなことは全くありません。夜の公園で、動画を流して、ひたすら踊りを練習をする星野と、彼に誘われた草野。夢ナシ、クラスのことも興味ナシ、の日々を描いていきます。

「ホームレスがもっとも濃く春の訪れをかんじている。しめった土からはじけるような音がきかれ、風の温度というより色合いのほうが、季節のうつろいをうったえている」という春の公園から物語は始まります。

キラキラした物語じゃなくても青春はあるんです。自分たちを取り巻く世界との距離の取れなさ、居心地の悪さを巧みに描いています。

「自分が生きている証拠なんて、欲しくないんだよ、他人に心配されても、ふあんになるばっか…….」

高校生活も、明日のこともなんとなく進んでゆく星野の前に、河原で暮らすつくもという友人が登場します。全くリアリティーのない人物なのですが、異物のようなこの人物が、彼の人生に大きく影響を与えることになります。

「彼はこのごろ、『成長』を逃したじぶんは自我が『成熟』することなく、『社会に適応できない』かもしれないと、根拠なきふあんに苛まれていた。」

読みにくいのか、読みやすいのか判断できかねるような文体なのですが、たどたどしいながらも、自分の道をボツボツと歩き出す彼らには、マッチしているような気がします。三人称の視点や、わざと漢字を使わない文体に乗り切れないもどかしさもありますが、これがこの作家の味だとわかると、後半一気に読みきりました。

頭では理解しているつもりでも、言葉で表す事が出来ない自分への怒りや、不安。一瞬一瞬に戸惑いながら、何故か惹かれたダンスを通じて少しずつ、成長する姿が描かれていきます。

それでも、時間は過ぎ、季節は巡っていきます。

「目の前の人間は裏切っても、すごした時間は裏切らない」

新しい春を迎えた星野が、未来が少し広がったことを知ったところで物語は幕を閉じます。反抗期もなく、フツーの青春時代を送った私には、彼らがとても身近に思えました。

タイトルの「しき」は「四季」のことです。因みに、本作は159回芥川賞候補作品になりました。そして「1R1分34秒」で160回芥川賞を受賞しました。

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第31回小説すばる新人賞受賞した増島拓哉の「暗闇の底で踊れ」(集英社/古書1200円)には驚きました。著者は1999年大阪生まれで、関西学院大学在学中の大学生。北方謙三が「達者な筆で十九歳という年齢には唖然とさせられた」と帯に書いています。

お話は大阪のヤクザで若頭の山本と、元舎弟でパチンコ通いのプー太郎の伊達が、闇社会を生きる日々を綴ったノワール物です。大阪弁丸出しの小説といえば、黒川博行が傑作を連発しており、その流れやね、と軽い気持ちで読み始めたのですが、これ、ほんまもんですわ、と思わず大阪弁になってしまうほど酔いしれました。まずテンポが良い。そしてセリフのひとつひとつが面白いのです。

「ブタ箱がなんぼのモンじゃい!人間はみんなブタや!人生は所詮、泡沫の夢、幻なり!夢こそ真の世界なんじゃ」とか、「誤解を恐れずに言うと、なんちゅう言葉は、今から暴言吐くけど怒らんとってや、って宣言してるようなもんや。目上の人間に対して使う言葉と違うで。のう?」といった言葉の応酬。

宮部みゆきが「これだけの暴力と笑いを紡ぎ出した増島さんの筆力はあっぱれ」と書いていますが、笑いとシニカルな味わいが、とても新人とは思えません。

私が笑ったのは、山本のこんな台詞です。「夜景は労働者たちの命の灯火や。恋人たちの前戯の道具やない。」

プー太郎で金欠の伊達が、入れ込んでいるヘルス嬢に貢ぐために、山本の使い走りをやらされて、詐欺やら、美人局をさせられていくのですが、やがて陰惨な暴力へと向かいます。それでも、著者は笑いを忘れません。

「病気の治療を頑張ってる奴に『死んだらええ』は暴言やけど、クソみたいな理由つけて選挙に行かんやつは、ゆっくり自殺してるのと同じや。自殺進行中の奴に『死んだらええ』言うのは、ポストが赤いですねえ、って言うてんのと同じや」と、悪事の限りを尽くす極道が、選挙に行かない連中を批判して笑わせてくれます。

こういう物語って、割と予定通りの終わり方をするものが多いのですが、この作品は違いました。著者が恐ろしいほどきっちりと登場人物たちを突き放すのです。格好良さもなければ、哀感もない。これにいちばん、驚かされました。

「まだ死んでへんから生きてるだけや、あほんだら」

小説の最後のセリフがこれです。いや、お見事な一冊でした。我が母校からは、原田マハや団鬼六という小説家を輩出していますが、新しい才能が出てきました。今後に期待です。

 

 

森見が2003年「太陽の塔」で第15回日本ファンタジーノーベル大賞を受賞した時、面白い作家が登場した!と喜び、その後の作品を読んでいきましたが、ちょっとご無沙汰していました。久々に読んだ「夜行」(小学館/古書900円)は、森見世界の集大成と言える傑作です。ファンタジー、オカルト、そして文学性が巧みにブレンドされていて、居心地の良い読書時間を持ちました。

主人公の大橋君が「叡山電車は市街地を抜けて北へ向かう。学生の頃、叡山電車は私にとって浪漫だった。夕陽に沈む町を走り抜けていくその姿は、まるで『不思議の国』へ向かう列車のように見えた。たまに乗ったときは、ひどく遠くへ旅をしたように感じられたものである。」と懐古するように、舞台は京都です。

話は、「鞍馬の火祭り」から始まります。10年前、京都の英会話スクールに通っていた年齢の違う男女5名が登場人物で、大橋君も含めて彼らが「鞍馬の火祭り」を見に行くために10年ぶりに集まります。以前、彼らが「鞍馬の火祭り」に行った時、英会話スクールのメンバーの長谷川さんという女性が突然失踪してしまいます。彼女の失踪以降、それぞれのメンバーの、不思議で恐ろしい体験をポツリポツリと語りあいます。彼らの体験に共通しているのは、岸田道生という画家が描いた「夜行」という銅版画に出会うということでした。結論は語られぬまま、読者はクライマックスへと導かれていきます。タイトル通り、私たちを夜行列車に乗せて、未知の世界へと連れて行ってくれます。

「黒々とした山かげや淋しい町の灯が流れ、通りすぎる見知らぬ駅舎の灯りが妻の横顔を青白く照らした。車輪がレールの継ぎ目を超えていく音に耳を澄ましていると、まるで夜の底を走っていくように感じられた。」

登場人物たちが集まって、過去を振り返る古典的な手法で、お話は進んで行きます。

彼らが語る物語に現れる謎はほとんどそのままで、読んでる時にふとゾワゾワとした気分になったり、得体の知れない怖さに取り憑かれたりすることもあります。その宙ぶらりんの状態のまま最終章で、旅先でぽっかりと開いた穴に吸い込まれた長谷川さんと大橋君が再会するのですが、そこで飛び出してくるのは、あり得ないような世界です。疑問に対する明確な答えがない不安感、そして不気味さに包まれて物語は幕を閉じます。

「世界はつねに夜なのよ」と長谷川さんのセリフの通り、夜の世界が支配しています。けれど、ラスト、出町柳の賀茂川べりで大橋君はこんな朝を迎えます。

「土手の石段を上がって賀茂川の方へ歩いていった。犬の散歩をさせる人や、ジョキングをする人たちが、白い息を吐いて川べりを行き交っていた。朝露に濡れた土手に腰をおろして、私はしばらく茫然としていた。冷たい朝の空気を吸い、洗い清められた美しい星を見上げた。」

夜の世界から、朝の世界へとぐるっと転換するエンディングに、深く感動しました。

 

 

 

 

 

 

 

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高山羽根子の新作「居た場所」(河出書房新社/古書900円)を読みました。この作家のものでは、パチンコ店の屋上で拾った奇妙な犬のような動物を飼育する三姉妹の人生をシュールに、時折ユーモラスに描いた「うどんキツネつきの」を読んだ記憶があります。「居た場所」は、第160回の芥川賞候補作品ということなので、ヘェ〜SF小説から純文学に進出してきたんだとページを開けました。

物語自体はあまり面白くありません。が、ここに登場する迷路のような街角に連れ出され、白昼夢のような世界を見せてくれる描写が面白い!

酒蔵を営む主人公の「私」と、妻となった「小翠(シャオツイ)」は、彼女のうまれ育った街(恐らく中国)、そして初めて一人暮らしをした街(恐らく香港あたり)を訪ねます。旅の準備をしている時、なぜか小翠の暮らしていた地域はPC上の地図に表示されません。その表示されない街を、二人は彷徨い歩きていきます。そして、彼女がかつて寝起きしていた廃墟で起こる不思議な出来事。この廃墟の描き方と出来事は、さすがSF小説から出てきた作家だと思います。

小翠は真っさらな地図に、歩いた場所見た場所を書き込んでいきます。執拗に自分がいた場所に拘る小翠。戸惑いながらも付いてゆく私。この街の描写がいいのです。シャープな映像表現ができる監督に、映像化してほしい。

ところで、私たちがかつていた場所にふと立ち戻ったとき、最初に感じるのは”懐かしさ “です。ここに小学校があった、よく遊んだ友達がいた、駄菓子屋があった等々。もし跡形も無くなっていたら、頭の中で私たちは居た場所を再生しようとします。長い時間の経過でズレてしまった、誰にもある居た場所。小翠は、その再生を空白の地図に書き込むことで確かめようとしているのかもしれません。或いは、そうでないかもしれません。最後まで消化することなく小説は終わるのですが、この不思議な街に戻りたくなってくるのは何故でしょう。

「さっきまで私の目の前にあった小翠の肩は、だんだん遠くになってゆく。私はその小さくて簡単な景色に混ざってしまいそうな肩先を、はらはらした気持ちで追いかける。人混みの体温が近くてべたべたした空気の中で、たくさんの派手な色の肩たちに埋まって見えなくなりかけている彼女を、眼で追いかけた。」

この街で、小翠を追いかけたい気持ちになる力を持った小説です。

 

 

 

 

 

 

 

 

小野正嗣が芥川賞を受賞した「九年前の祈り」(講談社/古書750円)を読みました。蓮實重彦が傑作だと太鼓判をおしていたので、レトリックな文体を駆使した小説かなぁと思っていましたが、いや、面白かったです。何と言っても、登場する大分弁バリバリのおばちゃんたちの会話がイキイキしています。

東京で同棲していたカナダ人と別れ、生まれた息子を連れて郷里に帰ってきた安藤さなえが主人公です。さなえの混血の息子、希敏は外見こそ美しいのですが、しばしば癇癪(かんしゃく)の発作を起こして、「引きちぎられたミミズ」のように手の付けられない状態になリます。

「引きちぎられてのたうつミミズに人の言葉が通じるのか。投げかけられる言葉は切実なものであればあるほど、尖った石のつぶてとなって、すでに傷ついた体をさらに切り込んだ。いっそう痙攣させ、のたうたせた。」

帰郷した彼女は、昔なじみの「みっちゃん姉(ねえ)」の息子が入院中で、かなり悪いことを知り、見舞いに行こうとします。みっちゃん姉は、9年前に地元のおばちゃんたち8人で行ったカナダ旅行で一緒だった一人でした。

さなえは見舞いの品に、故郷の島で取れる厄除の貝殻を採りに行きますが、その道中で9年前の旅の記憶がフラッシュバックします。そこでの彼女たちの大分弁が爆発するところは、微笑ましくも哀しくもあります。おばちゃんの二人が、モントリオールの電車ではぐれてしまった時に、みっちゃん姉は近くに教会でお祈りをしようと提案し、見よう見まねでお祈りをします。

「モントリオールの教会で、さなえと他の三人が祈りを終えて立ち上がったあとも、みっちゃん姉は依然としてひざまずいた。真剣な様子に声をかけられなかった。」

その真摯な「祈り」の姿がこの物語の大きなモチーフになってきます。さなえは、みっちゃん姉の息子も障害に苦しんでいることを、道中一緒だったおばちゃんちゃんから聞きます。

「あげえ明るい人じゃけどな、さなえちゃん、どこの世界に明るいだけの人がおるんか……..。そげな人がおったら、そら、ただの馬鹿じゃ…….。」

過去の回想が現在と交錯する文章が、発達障害を抱えた息子、シングルマザーを取り巻く環境、未来への展望が全く見えない人生など、さなえの抱える苦しみをあぶり出していきます。

「その腐敗から生じた毒がさなえの体を通して息子に伝わってしまったのだろうか。だとしたら、すべてはさなえのせいだ。膝の上に置かれている希敏の頭が寝苦しそうだ。汗で少し濡れた希敏の髪をそっと撫でた。」

 旅行の機内で泣き止まない赤ん坊を守らんとしたオバちゃんたち、そしてひたすら祈っていたみっちゃん姉、登場する彼女たちこそ救いの象徴なのです。残念ながら、本作では男性はほとんど無意味な存在です。

そう簡単ではないだろう、これからの人生。でも、

「いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている。悲しみが身じろぎするのを感じた。」と、さなえが感じるラスト。救ったのは、あのおばちゃんたちだったのです。

ちなみに、作者の小野正嗣は、現在「日曜美術館」(NHK・Eテレ日曜朝10時)で司会をしています。

 

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。出店者は女子ですが、もちろんどなたでもご来店くださいませ!今回も27店程にご参加いただきます。お楽しみに!

「女子の古本市」準備のため、4日(月)5日(火)はお休みいたします。


 

エマニエル・ゴンザレスの短編を集めた藤井光訳「ミニチュアの妻」(白水社/古書1300円)の奇妙な味わいは、なかなかです。

まずは、「操縦士、副操縦士、作家」という物語でど肝を抜かれました。

「高度二千メートルから三千メートルの間で、僕たちは街の上空を旋回し続けてきた。僕たちの計算では、もう二十年ほどになるはずだ。」

作家が乗っていた飛行機がハイジャックされたのです。普通なら、ここから緊迫したストーリーが読者を巻き込んでいくはずなのでが、なんとこの機体は上空をぐるぐる回っているだけなのです。燃料が尽きたらどうなるのって?なぜか、飛び続けているのです。じゃあ食料は?ハイジャック犯が出してきた飲み物で、栄養が取れるようなのです。犯行の目的は? それもわかりません。そして、二十年以上、乗客たちは空にいるのです。物語は乗り合わせた作家の独白で進みます。

「何週間も、いや何ヶ月も、僕は化粧室の鏡で自分の鏡を見ずに過ごすことがある。もう化粧室の中を知り尽くしているから、目を閉じたままでも生理的なことはすべて済ませられるようになっている。」

不条理な事件が混乱に陥らず、物語は幕を閉じます。いや〜、なんと表現したらいいのでしょうか。何が面白いと問われれば、この不思議な状況です。

次に登場する話がタイトルになった「ミニチュアの妻」です。

主人公は、何でも小型にしてしまう業界(?)で働く技術者です。「何があったのかズバリ言ってしまおう。どうやってか、僕は妻を本当に、本当に小さくしてしまった。」そして、気がつくと、妻はコーヒーマグの高さぐらいに縮んでいたのです。小型化業界って何よ?とクラクラしますが、夫は、妻の肉体的魅力が失われてはいないなどと、ニヤニヤしながら妻のためにドールハウスを作り始めます。しかし、やがて妻との間に争いが発生します。妻は古代の戦士よろしく戦闘開始。

「彼女は小さな槍をいくつもカーペットに突き立て、自分の野営地の周りに防御線を張っている。小さな槍の先には、一匹か二匹のクモと数匹のゴキブリの頭部が刺さっていて、夜になると小さなかがり火が見えるので、ぼくの目は釘付けになる。」

あり得ない展開に、もう笑いながら読んでしまいました。そんな感じでズラリ短編が並んでいます。小説でなければ人に伝えにくい面白さと奇想に満ちたアメリカ文学です。

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。出店者は女子ですが、もちろんどなたでもご来店くださいませ!今回も27店程にご参加いただきます。お楽しみに!

「女子の古本市」準備のため、4日(月)5日(火)はお休みいたします。


 

ミニプレスに目を通していて楽しいのは、この地方には、こんな作家がいたのかという事実を知る時です。

三重県津市から発行されている「Kalas」最新36号を読んでいると、今井貞吉という作家のことが書かれていました。この雑誌の発行責任者西屋真司さんが、伊勢市にある「古本屋ぽらん」の店主から「津を舞台にした小説みたいだから、あなたにと思って取っておいたんです。」と手渡された今井貞吉の「鄙歌」という小説を読み著者のことを調べ始めたのだそうです。

「それは一組の男女の逢瀬を主軸にした物語だった。昭和初期という舞台設定に即した穏当な内容で、この後も派手な事件など起こりそうにない。三分の一程度まで読み進んだ印象はそんなところだ。それで退屈な話かと言えばそんなことはなく、丁寧に記述された戦前の津の風景にいつしかひきこまれている。」

どんな人物なのか、調べてみたものの手がかりが無かったみたいです。しかし、この地方の文化に詳しい市職員の中村光司さんを紹介され、早速会うことになります。中村さんは、伊勢出身の詩人竹内浩三の研究者であり、三重文学協会会長という肩書きの人物です。

氏との会談で今井貞吉のことが明らかになってきました。今井は、明治37年津市で砂糖商を営む家に生まれます。兄の俊三も、昭和12年「饗宴」という長編小説を発表していました。その兄の影響もあって、貞吉は文学に傾倒していきます。兄と共に上京し、小林秀雄、中原中也、中島健蔵らの文人たちと交流していきます。しかし、昭和20年津市への空襲で家財全てを失い、戦後は兄弟の面倒を見ながら、困窮の生活を送ります。こつこつと作品を発表しますが、話題にもならず、昭和60年八十一歳でこの世を去ります。

こうして詳しいことが判明するなんて、地方の文化研究者や、郷土史家の人たちの知識は半端じゃないですね。好きなことをコツコツと、地道にやるって本当に大事なことです。

西尾さんは、最後にこう書いています。

「三十幾つか過ぎた定職もない男の心理描写には、借り物とは思えない追憶と寂蓼がある。津に暮らす読み手としては、全編を通して流れる街への心情に共感するところも多く、確かにこれは同じ土地で生きた人の手による物語だとの印象を強くする。」

一地方都市で、ひっそりと人生を終わらした作家の本。機会があったら読んでみたいものです。

 

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。出店者は女子ですが、もちろんどなたでもご来店くださいませ!今回も27店程にご参加いただきます。お楽しみに!

梨木香歩の本は、ほぼ読んでいたと思っていたのですが、「ピスタチオ」(700円/古書)は未読でした。何かわからないけれども、それに導かれてアフリカに向かった女性ライター(ペンネームは棚という)の物語です。アフリカの伝統的医術を体得した呪術医に会うのが目的の旅、と書くと何だかおどろどろしそうな話みたいですが、そんなことはありません。

「ピスタチオ」は約300ページ程の小説なのですが、前半100ページほどが、主人公が飼っている老犬マースが病気になり、手術を受ける話です。私事ですが、今年老犬を見送ったばかりで、ちょっとこれにはまいりました。(でも、死にませんので愛犬家の方はご安心ください)

「小さい頃から気象の変化には興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。」

その記憶が、再び彼女をアフリカへと向かわせます。ケニアの奥地にあるウガンダに、呪術医のことを調査した人物がいると知った彼女は、病状の落ち着いたマースを日本に残して旅立ちます。しかし、片山というその男と、ガイドまでもが原因不明の死に方をしているのです……..。

ここから舞台はアフリカに移動します。緑、水、精霊…こうしたキーワードが物語の中心になり、それらが緩やかに回転を始めます。その輪は大きくなったり小さくなったりしながら、主人公を、見えない大きな何かに導いていきます。この作家の上手いのは、ファンタジックな世界どっぷりに描くことなく、リアルに主人公の旅を見つめているところです。 思わぬ出来事に遭遇するのですが、なぜ彼女だったのか、ということに明確な回答を用意していません。霊的なるものの存在だけでは語りきっていない、しかし100%の不思議さが残る物語でした。最後に主人公が書き上げた「ピスタチー死者の眠りのために」は、物語全体を総括すると同時に、見事に梨木の世界でした。さて、タイトルになった「ピスタチオ」の意味は? 最後で、あぁ〜そうだったのかと思って、ページを閉じることになります。
棚は「ピスタチオ ピスタチオ いい一生を生きた 安心してお休み」という言葉を最後に書いて、
「書き上げて、気づけば夜が明けようとしていた。棚は、いつものように散歩に出かけようとマースに声をかけた。月は白く高く上がっていた。風は優しく、木々の梢から、棚の耳元までやってきて、何か囁いて消えた。」
余韻溢れる幕切れです。

★年内は12月30日(日)まで営業いたします。年始は1月8日(火)より通常営業いたします。

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。予約受付中(1500円)レティシア書房075−212−1772

 

お昼の休憩とか、次の授業まであと少し時間が…なんて時に、長野まゆみ「ささみみささめ」(筑摩書房/古書1100円)はオススメです。不気味な話、苦笑いする話、不思議な話、呆然とする話、しみじみする話、ぞっとずる話など25編の物語が詰まった一冊です。一話十数ページ、そしてその殆どの運びが上手い!巧み!最後は座布団一枚!の幕切れなのです。

実は、長野まゆみという作家とは個人的に相性が悪かったのです。彼女は、小学校時代に竹宮恵子「空がすき」の漫画で衝撃を受け、少年愛ものの世界に入りこみ、萩尾望都などを読んでいました。耽美的な作風で、鉱石、幻想世界の美少年、といったモチーフを多用して少年同士、あるいは少年と青年の関係を描いた作品を書いています。宮沢賢治への言及も多いので、何冊か手に取りましたが、最後まで読んだ記憶がありません。しかしこの本で、日常の何気ない瞬間を描きながら、予想外の展開へ読者を誘う手法に、上手いなぁ〜と感心してしまいました。

例えば、娘と介護施設にいる父親の葛藤と許しを描いた「ドシラソファミレド」。物語に登場する「もろびとこぞりて」の歌に託された父のメッセージに気づいた娘の目が潤んでくる所に、こちらも涙します。また、小学校の時、なんでも出来る友だちミッチに羨望の念を持っていた主人公Qチャンが、数十年ぶりに出会い、お互いの人生の分かれ道を振り返る「すべって転んで」のラスト、

「運命の別れ道には太い橋がかかっているわけじゃない。うっかり見逃してしまうような細い細い道なのよ。娘にはそれを云いそびれたけど、このあいだ生まれた孫には耳にタコができるぐらい云ってやるつもり」

こんな会話どこかで聞こえてきそうですね。

この作家らしいな、と思ったのが「スモモモモ」でした。語り手である男には、双子の姉がいます。小さい時から雛人形が大好きで、小学校に入る時もピンクのランドセルに憧れ、しっかり者の姉に寄り添っていました。やがて、姉は結婚し、姉の夫とも仲良くなり、一緒の時間を過ごしますが、突然の事故で姉がこの世を去ります。でも、その後も姉夫妻の家で、義兄の好きな料理を用意して時間を過ごします。

「義兄もぼくを姉だと思っている。姉の死を受け入れることができず。事故で死んだのは、車酔いをする姉と席をかわって助手席に乗っていた弟のぼくだと思い込んでいる。周囲にもそう話す。」

世間的には奇妙な風景かもしれないが、誰も不幸じゃない、という幕切れが素敵でした。

 

★年内は12月30日(日)まで営業いたします。年始は1月8日(火)より通常営業いたします。

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2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。ご予約受付中(1500円)