第46回すばる文学賞受賞作品です。(集英社/新刊1590円)
ある日「ルームシェアっていうの、やらない?」と、聞かれた38歳のOL平井。誘ったのは、3Dプリンターで亡くなった愛犬のフィギュアを作って飼い主に届ける41歳の菅沼。元々、あるアイドルの追いかけで知り合った二人は、コロナが猛威を振るう中、一緒に暮らし始めます。それは心地よい暮らしの始まりでしたが……。
著者はその心地よさを、ほんのちょとしたなんでもない日常の細部の描写から描いていきます。「トイレットペーパーが残機1です」などという会話にもユーモアがにじみ出ています。
しかし、平井の心の中には、「これまでの人生で、わたしは男性に一度も恋愛感情を抱いたことがない。 大学生と社会人三年目の頃に、交際を経験したことはある。どちらも、相手のことが全然嫌いではなかったのに、『嫌いではない』を超えられなかった」という気持ちが同居しています。
一方の菅沼は両親の泥沼離婚を経験していて、結婚を「負ける可能性の極めて高いギャンブル」と決めていて、自分の結婚は眼中にありません。そんな二人が同居を開始する。平井は、それを結婚、出産や未来のことを諦めることになると感じていました。
物語は二人の生活を中心にして、卵子を凍結している平井の心情の変化を描いていきます。「本当に一人の人間を産んで育てたいのか、それがどれぐらいの重さなのかわかっているとも思えない。でも、その考えはわたしの頭にこびりついた。わたしの、産みたさは、一体どこから来るのだろう。」
平井は、時々死んだふりをします。
「わたしは死んでいる。だから、この世で起こっているすべてのことから無関係だ。死んだ犬たちのことを考えた。飼い主に溺愛されて、死んだ犬たち。まやかしの身体をフィギュアとして現世に残し、あの世では魂の尻尾を振りながら駆け回る。わたしの魂も、犬たちと一緒になってはしゃぎまわる。」
現世でわたしの魂は空っぽなのだという平井に、著者は、いやあなたの実人生は充実しているんだなどと強引な転換を持ち込むのではなく、空っぽそのものを肯定してゆくように仕向けていきます。
「がらんどう」という言葉は、平井の言う「空っぽの人生」を象徴しているようです。しかし、世間の価値観やら、常識にとらわれることなく、だから何のさ、と自らを受け入れてゆく。結婚、出産、家族等々、どの形にもはまらないけれど、それが私だと彼女が認めること。そこにこの小説最大の魅力があります。
「荒地の家族」(新潮社/新刊1870円)は、震災から10年余りたった今も、この地でささやかな造園業を営む中年男、祐治の物語です。最新の第168回芥川賞を受賞しました。著者は、仙台在住の現役の書店員で、2017年「蛇沼」で第49回の新潮新人賞を受賞し、その後も執筆活動を続けてこられました。
2021年4月発売の文芸雑誌「新潮」に著者の「象の皮膚」という作品が掲載されました。たまたま書店でこの雑誌を手に取った時に、著者の文章を目にしました。その硬質な文体が私好みだったので、店頭でしばらく読んでいましたが、買うこともなく店を後にした記憶があります。その硬質な文体は今も健在で、何の未来も見出せない男の魂の、彷徨を描き出しています。
「災厄に見舞われたのは、祐治が造園業のひとり親方として船出した途端だった。そしてその災厄から二年後、妻の晴海をインフルエンザによる高熱で亡くした。晴海は心労で弱っていて、最期はひとり息子の啓太を残して脆く逝った。祐治は生活の立て直しに必死だった時期で、事態に心が追いつかず、晴海が肉体を残して魂だけ海に攫われたような思いだった。」
その後彼は再婚するのですが、妻が流産をして、二人の関係は修復できる限界を超えてしまいます。彼女は家を飛び出し、離婚。先妻との間にできたひとり息子と、祐治の実家で母との3人暮らしを続けています。肉体労働の辛さに、中年男の体は悲鳴をあげ始めるのですが、これ以外にできることはなく、生活に追われていきます。震災に端を発する喪失を抱えながらも、肉体を酷使して生きていくしかない男の姿を冷徹に見つめていきます。この地に生きていかねばならないリアルな心情が迫ってきます。
「道路ができる。橋ができる。建物が建つ。人が生活する。それらが一度ひっくり返されたら元通りになどなりようがなかった。やがてまた必ず足下が揺れて傾く時がくる。海が膨張して押し寄せてくる。この土地に組み込まれるようにしてある天災がたとえ起こらなかったとしても、時間は一方向にのみ流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡を繰り返し、めまぐるしく動き続けている。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく」
では、どうすればいいのか。どんな風に明日を見つめて生きていけばよいのか。祐治の痛みは癒されてゆくのか…….。
「海と陸の間で生き残った俺は幸運か。祐治は死んだ者らに取り囲まれる瞬間があった。責めるでもない。追い立てるわけでもない。死者が手に手を取り合って自分を見ているようで、呼吸もままならない。」
もう、彼らの元に行くしかないのか。しかし、物語はそんな簡単に幕を降ろしません。ほんの、ほんのわずかの希望をラスト一行に託すというウルトラC級の技で終わります。母親の最後の言葉に、読むものも救われたような気がします。
先日の京都新聞朝刊で著者は「受賞者は後の生き方や作品を問われる」と述べていました。受賞の重みを背負った著者の次回作に期待します。
10年ぐらい前に出た高野和明著「ジェノサイド」には衝撃を受けました。イラクで戦うアメリカ人傭兵と、日本で薬学を専攻する大学院生が主人公で、人類滅亡の危機に立ち向かうという冒険活劇でした。この作家の久しぶりの長編小説が「踏切の幽霊」(文藝春秋/古書900円)です。
「1994年の晩秋、箱根湯本駅の長いホームを、運転士の沢木秀男が歩いていた。」から物語は始まります。沢木は箱根と新宿を結ぶ私鉄に勤務しています。都会の片隅にある踏切で撮影された一枚の心霊写真。この踏切では、列車の非常停止が相次いでいました。物語冒頭に登場する沢木の運転する電車も、踏切に人影を見つけて急停車します。
一方、雑誌記者の松田は、読者からの投稿写真を手掛かりに心霊ネタの取材に乗り出します。当初は乗り気全くなしの状態で取材に入るのですが、調査を進めるうちに暴力団、大物政治家、翻弄される女たちの姿が浮かび上がってきます。ゴーストストーリーで出発したのに、途中からリアルな物語へと変わっていきます。
幽霊となって踏切を渡ろうとする女性の身元を調べようと奔走する松田。しかし、その女性については全く情報が得られないのです。かろうじて「いつも陰気な作り笑いを浮かべ、金のために体を売っていた性悪女」という、彼女を知っていた人たちの証言だけ。
「誰も彼女の素性を知らない。出身地はおろか、本名すら知る者はいない。身元不明のまま死んでいった女は、肉体を持ってこの世に存在していた時でさえ、実態のない幽霊のような生き方をしていたのだ。」
やがて、女性の生い立ちがわかってきます。そこには父親の性的虐待が大きく関与していました。もうこのあたりから物語は、2時間サスペンスドラマ的世界から離れて、彼女の悲しい一生へと向かっていきます。松田は、ようやく見つけた女性の母親の悲惨極まりない話を聞いたあと、母親の人生に思いを馳せます。
「あの人は、これからどうやって生きてゆくのだろう。孤愁と懐旧の狭間で老いてゆく他に、何ができるというのだろう?」
著者は性的虐待という重いテーマを選びました。その重さは読者にも伝わり、残ったまま幕を閉じます。なぜ彼女が幽霊になってでも踏切を渡ろうとしたのを知るラストは、その切なさに涙がこぼれそうでした。
昨年は一年間、三谷幸喜脚本の群像劇「鎌倉殿の13人」を楽しみました。こんな面白さを持った長編小説ないかなぁ〜と思っていたら、奥田英朗の長編小説「リバー」(古書1400円)に出会いました。
初期の「最悪」「邪魔」などから、最近の「罪の轍」まで骨太のサスペンス小説を発表し、そのつど興奮しながら読んできました。本作は、2008年に発表した「オリンピックの身代金」と同じように、様々な人間が関わってくる犯罪小説です。
群馬県桐生市と栃木県足利市で、若い女性の遺体が相次いで発見されたところから始まります。二人とも同じような手口で殺害され、両手を縛られた上に全裸で放置されていました。発見場所はいずれも、群馬県と栃木県の県境を流れる渡良瀬川の河川敷でした。
それぞれを管轄する警察の捜査刑事たちは皆、嫌な気分がせり上がってきます。両県で十年前にも同じ渡良瀬川河川敷で若い女性の全裸遺体が発見されていて、結局犯人を逮捕できなかった苦い経験があったのです。犯人は十年前と同一犯か、あるいは、模倣犯なのか。
連続殺人事件をめぐり、両県警の刑事やかつての容疑者、その男を取り調べた元刑事、地元の新聞記者、娘を殺された父親、地元の政治家の息子、利権に絡むヤクザ、新たな容疑者などが登場し、それぞれの視点から物語が描かれていきます。まるで、上空にあるカメラがさっと降りてきてそれぞれの登場人物の行動を追いかけているような感じです。
登場する人物たちの行動と心理を細かく描きながら、物語は進んでいきます。しかし新たに浮上した容疑者の内面などは、これだけ精緻に構築した世界の中で、わざと残した空洞のように全くつかめず、その行動からしか想像することしかできません。こういう犯罪小説は、ラストに罪を犯した者の動機や心理も全てはっきり示されるのものですが、本作では最後まで読者はもどかしさに付きまとわされます。
腑に落ちる答えが用意されていてこそ、小説は完了するのですが、それがありません。作者はあえてそうしなかったのだろうと思います。行き当たりばったりの殺人事件が起きる世界に生きているいまの私たちにとっては、リアルな世界に見えてきます。ゾッとする世界に生きているのだ、ということを再認識させてくれる小説です。
1990年北海道生まれ、帯広出身の小説家片瀬チヲルは、2012年「泡をたたき割る人魚は」で群像新人文学賞の優秀作に選ばれた作家です。その長編第二作「カプチーノ・コースト」(新刊/講談社1650円)を入荷しました。
タイトルになっている「カプチーノ・コースト」の意味をご存知の方は、少ないかもしれません。本文の中に登場するカメ姉さんが、主人公の早柚にこう説明します。
「波の花って見たことある?海外だと、カプチーノ・コーストって呼ばれるんだって」潮風が吹くと、ふわりと舞い上がり波打ち際に集まる泡。
「初めてみた時、水面に生クリームをたくさんトッッピングしたみたいだなと思ったから、カプチーノ・コーストという呼び名の方が好きなんだ、とカメ姉さんは教えてくれた。」
舞台は日本のどこにでもある海岸です。その海岸付近に住んでいる早柚は、現在休職中。彼女が海岸に行って、偶然にゴミ拾いを始めたことから物語が始まります。そして、同じようにゴミ拾いをしていたのが、広告代理店に勤務する通称カメ姉さんでした。
そうか、海岸のゴミ拾いをしながら、自分を見つめ直して社会復帰する癒し系物語か、というと違います。じゃ、社会復帰できずに、ズルズルと時間を消費する主人公の内面に入り込むお話かと思えば、それも違う。
「会社には行けない、けれど家にもいられない。右にも左にも行けないまま、暗い場所に留まって目を回しているばかりで、行動も決断もできない自分はずるいと思う。」と、自分を分析しつつ、早柚は「漂着物を拾っている間は無心になれる。自分の体が空っぽのガラス容器になるような感じが心地よくて、早柚はビーチクリーンをしていた。」のです。
同じように海岸のゴミを拾っている人たちと少しづつ交流を持ちながら、彼女は自分の心を整理していく、そのプロセスを静かに描いていきます。やがて休職期間が終わり、以前の職場であるインターネット系の会社に戻っていきます。しかし、そこで彼女は、全く新しい行動に出ます。あっけない終わり方で、昨今のヨーロッパ映画のエンディングみたいでした。
浜辺のゴミをひたすら拾う、ただそれだけの行為を丁寧に描き、その過程で起きた小さな出来事にある時は心を揺さぶられたり、ある時は傷つけたりしながら、彼女は解き放たれていきます。ラスト、網に絡め取られたカメを解放するシーンは、象徴的です。
☆年始年末の営業ご案内 12月30日(金)〜1月10(火)休業。
12/27(火)は営業いたします。
第162回芥川賞受賞作品「背高泡立草」(古書700円)を読みました。舞台は、九州にある小さな島です。
大村美穂は、娘の奈美や兄と姉たちと共に、実家のある島に向かいます。目的は実家の納屋の回りに生えている草を刈ることでした。実家には母がひとりいるだけで、納屋は誰も使っていません。なぜそんなところの草刈りをするの?と奈美は疑問を持つのですが、家族行事として付き合います。
物語は、どこの家庭でも見受けられるようなやりとりを描いていきます。この小説のユニークなところは、昔この島で起こった出来事を、美穂たちの現在進行中の仕事の合間にひょいと差し込むのです。それも誰かの回想とかではなく、何の前触れもなしに話が始まります。最初は違和感を感じましたが、慣れてくると、文章のリズムの心地よさにどんどんと読んでいくことができました。
主人公たちには直接関係がないのだけれど、島の歴史を緩やかにつなげてゆくことで、もう誰もいなくなった家の記憶を描き出します。まるでフランスとか北欧の静かな映画を見ているみたいでした。たった一日だけの草刈りの背景に流れる積み重ねられた長い時間が浮き彫りにされるのです。
ところで、著者の母親が長崎県平戸市の的山大島(あづちおおしま)出身ということで、この地方で話される大島弁を小説の中でも多用しています。
「綺麗かろが?あそこんにきは日の当たるもんね、それけん、ちゃんと咲くとよ」あるいは
「最初に餃子から焼きよると?お肉からの方が良いっちゃない?」といった感じです。温かな方言が、作品に一味付け加えています。
今年も、様々な優れた長編小説に出会うことができました。先月読み終えた滝口悠生「水平線」もそんな一冊でした(10/7のブログに書きました)。本日ご紹介するのは、遅子建(チー・ズジュン)の「アルグン川の右岸」(白水社/古書2250円)。著者は1964年中国生まれの作家です。
中国東北部の厳しい自然の中で、トナカイの遊牧と狩猟で生きてきたエヴェンキ族の物語です。「私」と書かれている主人公はエヴェンキ族最後の族長の妻。文明の波と共に、部族の長い遊牧生活から定住生活へと向かわざるを得なくなるまでを語っていきます。
多くの家族の誕生と死を見つめてきた「私」は90歳になっても、森の中でトナカイと暮らす道を選びます。元来、彼らはバイカル湖周辺に住んでいましたが、ロシア軍の侵攻に伴ってアルグン川右岸に移動してきます。当時、中国は清国でしたが、やがて中華民国へと変わっていきます。その後、満州国を設立した日本軍が彼らの地域に入り、部族の男たちを軍事訓練に連れ出します。やがて、中華人民共和国の時代となり、国は社会主義体制のもと医療や教育の充実のため定住生活を推進していきます。
全体は4章から成っていて、「朝」「正午」「黄昏」「半月」というタイトルが付いています。トナカイとともに広大な大地を渡っていった時代から、モンゴル自治区の一住民になるまでの「私」の人生と部族の運命を、描き切った350ページ余の力作です。
「わしらのトナカイはな、夏は、露を踏みながら道を進み、食べるときは花や蝶がそばで見守り、水を飲むときは泳ぐ魚を眺めるのさ。冬はな、積もった雪を払って苔を食べるときに、雪の下に埋もれている赤いコケモモを目にすることができるし、小鳥の声を耳にすることができるんだ。」
と、彼らにとって、トナカイがいかに高貴で大切な存在であるかを語ります。彼らの生活はとても過酷です。大人も子供も関係なく、多くの人たちが死んでいきます。それでも、この上なく優しく美しい表情を見せるのも大自然なのです。
最初は、あまり聞きなれない登場人物の名前に戸惑いましたが、部族の家系図が最初に載っているので、それを見つつ戻りつ読みましたが、飽きさせない小説です。読み終わった後も、トナカイを放牧させているエヴェンキ族の人々の姿が心に蘇ってきます。
やっと読破した!エライ!と自分を褒めたくなってきます。滝口悠生の長編小説「水平線」(新潮社/新刊2750円)は、全500ページの大長編で、改行も少なく、びっしりと字が詰まっている。読もうか、やめようか迷ったのですが、これは読んでよかった!と心底思える小説でした。
横多平と妹の横多来未は、それぞれ2020年自分たちのスマホにかかってきた不思議な電話を受け取ります。フリーライターでなんとか食っている平は、全く会ったことのない祖母の妹、八木皆子という名前で送られてくる「お〜い、横多くん」で始まるメールに誘われるように、小笠原諸島の父島へと向かいます。太平洋戦争末期、彼らの祖父母は、疎開で故郷の硫黄島を離れていました。もう亡くなっているはずの皆子のメールが偽物である可能性は高いのに、なぜか彼は父島を彷徨うのです。
一方、妹の来未はパン職人として独立を考えています。そんな彼女の元にかかってきたのは祖父の弟と名乗る三森忍からでした。しかし、彼は日本軍に現地徴用されて戦死しています。
「相手は七十五年前に死んだ十五歳の少年であり、まずもってそんなひとからちょこちょこ電話がかかってくることじたいが怖いのだが、かかってきてしまうものはかかってきてしまうし、応えて話せば話せてしまうもので、三森忍さんの言う通り、電話というのは本当に便利だと思う。」などというダラダラした状態で、世間話を続けていきます。
一歩間違うと怪談になってしまう設定ですが、そこから祖母イクや祖父の弟の同級生の重ルが登場し、交互に自分たちの生きた歴史を語ってゆきます。それはそのままこの国の現代史の姿へと繋がっていきます。
今ここにいない者たちが、電話で、あるいはメールという実態のないものを介して、現代に繋がる存在として登場し、語らせるという手法で小説は続いていきます。細密な描写は、まるでドキュメンタリー映画の優れたカメラワークを見ているようでありリアルなのですが、魔術のように立ち上がる、戦争を生きて死んでいった者たちのモノローグに幻惑させられていきます。
こういう書き方をすると、多重的な意味を持たせた言葉や複雑な構成を持つ幻想文学の洪水に遭遇するのではないかと、躊躇されるかもしれませんが、そんな心配は全くありません。極めてリアルにリアルに描かれた世界に、ふらりと現れる死んだ者たち。この一家の人生が交差していきます。図書館で借りてでも読むべし!
安倍元総理の政策の失敗は色々あったと思いますが、言葉でできた本という商品を扱っている者にすれば、この人ほど日本語の品位を傷つけた人はいません。ペラペラの薄っぺらい真実味のない言葉だけが流れ落ちていたように思います。国葬の日、うっとおしい気分をどこかにやってくれ、という思いで吉田篤弘の「遠くの街に犬の吠える」(筑摩書房/古書1050円)を手に取りました。
正解でした。
「ほとんど1日も休むことなく言葉を集めてきました。集めて、整えて、分類して、解説する。言葉の奥に隠されたその意味をより正しく解明するために研究をつづけてきました。」
とは、本書に登場する言葉の研究する白井先生の言葉です。先生が元総理の言葉を聞いたら、どんな批判をしていたものか。この長編小説は吉田ワールド満開の、不思議で、ユーモアがあって、所々に哀愁が顔を出し、最後は読者はいい表情になって終わるという世界です。
主人公は、小説を書いている吉田君。自作の朗読の録音で、「遠吠えをひろっているんです」という音響技術者の冴島君と出会い、物語は始まります。どうして録音の仕事をするようになったのかという質問に、
「世界は音で出来ているからです。吉田さんは小説を書く人だから、世界は言葉でつくられていると思われるでしょうが、そもそも、言葉は音からつくられます。というか、言葉の正体は音なんです。音がなかったら言葉は生まれなかったし、音がなかったら文字も生まれませんでした。」
と答えます。小説の後半、音が大きなモチーフになってきます。
吉田君と冴島君、編集者の茜さん、白井先生、そして代書屋をやっている夏子さんの、事件のようなそうでないような、どこまでがリアルでどこまでがファンタジーなのか判別出来ないまま、物語は進行していきます。さらに、そこへ天狗の物語まで絡んできます。でも心配ご無用。著者は、読者をまごつかせません。とても良い塩梅でラストまで連れて行ってくれます。
「新刊書店、古書店、図書館と私がめぐり歩いてきたところは、どこも無数の本棚が並び、気が遠くなるくらい大量の本が溢れ返っていた。 そのすべてが声を持っていた。 書かれているのは森羅万象さまざまだが、そこにはもれなく著者の声が付いてくる。 どれほど事務的に機械的に綴られていても、それを書いた人間がいる以上、書きながら胸中に詠じた声がきっとある。その声が文字に置き換えられて、すべてのページに閉じ込められていた。 世界は本という名の声で埋めつくされ、それらの声を発した人たちは、すでにあらかたこの世に存在していない。ただ声だけがのこされた」
本屋冥利に尽きるこんな文章に出会えば、うっとおしい気分なんてどこかに飛んでしまいました。
東京の深窓のご令嬢と、地方から東京へ出てきた女子大生の人生が不思議な縁で交差してゆく物語「あのこは貴族」(古書900円)は、一つ間違えば浮ついたトレンディドラマになってしまいそうな題材です。しかし著者は、その危険を回避しながら、東京という都市の息苦しさと、狭い世界に溺れかけていきそうな女性の人生を見事に描き切りました。
名家のお嬢様の華子は「もし三十を過ぎても結婚できなかったらと思うと、華子は身がすくんでしまう。できるだけ早く結婚しなくては、いい人と巡り合わなくてはと焦りを募らせる。」
着付け学校に通い、そこで仲良くなった女性たちは「なにより妻という自分の立場に対する自負はことのほか強固であり、絶対的だった。アイデンティティのほとんどが、妻であり母であることで占められていて、それは揺るぎない。」華子は婚活へと走り出します。
「東京の街には、しきたりと常識がないまぜになったような共通認識が張り巡らされていて、それは代々ここに住み続けている人たちに脈々と共有されていた」
彼女はそんな認識を身につけた、名家のお坊ちゃん青木に出会います。「東京の真ん中にある、狭い狭い世界。とてつもなく小さなサークル。当人たち以外にはさして知られることもなく、知られる必要もなく、ひっそりしていたが、そこに属していることで生まれる信頼と安心感は、絶大だった。」
そんな安心感に乗せられて彼女は一気に結婚へ向かいます。ここまでが第一部。第二部は「外部 (ある地方都市と女子の運命)」というタイトルで始まります。とある、地方都市から慶應大学に入学した時岡美紀は、大学のゴージャスな雰囲気と、おしゃれな学生たちに目を丸くしながら、学生生活をスタートします。しかし、故郷にいる父親の仕事がうまく行かず、学費を送ってもらえなくなり、彼女はアルバイトで始めた夜の仕事にのめり込み、大学にも行かなくなります。夜の世界で出会った青木とは肉体関係があるものの、距離のある関係を保っています。
ここから、第三部「邂逅(女同士の義理、結婚、連鎖)」の始まりです。美紀は、華子の友人逸子と偶然出会い、やがて華子のことを知ります。一方華子は、豪華な結婚式を挙げたものの、無味乾燥で、ハイソサエティーな者同士の狭い世界にいなければならない状態に、アップアップしています。もともと、自分もその世界の住人だったのですが、美紀と出会い、逸子との友情を通して、見つめ直していきます。この章も下手をすれば、癒しと再生みたいなテーマになりそうですが、著者の筆さばきが見事でした。近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」がベースラインになっているのです。
山内マリコは、性をテーマにした「女による女のためのR-18文学賞」で2008年読者賞を受賞し、現代女性のリアリティーを描ける作家の一人です。昨年、門脇麦(華子)、水原希子(美紀)石橋静河(逸子)、岨手 由貴子監督&脚本で映画化されました。劇場に行けなかったのですが、TV放映を録画してもらうことができました。観るのが楽しみです!