京都大学文学部卒業、京都在住の谷崎由依の新作「鏡のなかのアジア」(集英社/古書1200円)は手強い作品です。前作「囚われの島」(河出書房/古書1300円)が、書店員から圧倒的支持を受けた長編でした。まだ読んでいませんが。

さて、今作「鏡のなかのアジア」は、チベット、台湾、京都(多分京大)、インド、マレーシアを舞台にした独立短編です。翻訳家の柴田元幸が「物語は自在に時空を移動しつづけ、ホラ話めいたさまざまなイメージはいつしか、圧倒的な美しさを獲得する」と帯に推薦文を寄せています。

「馬のようにしたたかな蹄を持ち、どこまでも駆けてゆくことのできる、墨色をした文字たちは、風の強いときにいっせいに、五色の旗から抜け出していく。」なんて、文章が突然飛び出してきます。文字が抜け出して、空を覆う???

京都編では、主人公の女子大生が「どんなに餅を求めていても、餅の感触に焦がれていても、パンを捨てて餅とともに生きる日々には戻れない。ほんとうに食べたいのはパンではなく餅であるとしても。我々のなかにあるのはただ原風景としての餅、もののイデアのごときものであり、それは疾うに失われている。」うん?「原風景としての餅」って何だ、餅はモチやろ!!などと怒ってはいけません。

ここはいったいどこなのか。時代は現代なのか過去なのか?読み手は狐につままれたような気分になります。その言葉、掴まえた!と思った瞬間、それは、スルリと逃げてしまい、宙ぶらりんの状態に置き去りにされます。日本語の文章の中に、アトランダムにアルファベットに変換された地名や擬音語が耳に残り、文字は音となり、舞台となったアジアの地に溶け込んでいきます。

読者の戸惑いをよそに、物語の空間は捻れ、混沌としていきます。でたらめか、はたまた真実か?読者を幻想空間に陥れる企みが、方々に仕掛けられています。わけのわからん世界に、いつのまにかがんじがらめにされてゆく危ない小説でもあります。

「音が空間をかたちづくる。音が空間をひらいて、その場所は音によってどこまでもひらかれてゆく。私の身体の、私の腕と腋のあいだのほんのわずかな隙間のなかに、無数の音が混在していて耳をすませばすますほどに、それは幾らにも増えていくのだ。私の身体はひろがってゆく。私の身体のあらゆる場所が音に満たされ、ひらいてゆく」

この小説が持っている硬質な幻想力は、読む者をここではないどこかに連れ出す熱量を持っています。ふと気づいて、私は何を読んでいるのか?と自問自答するかもしれません。万人にお薦めは出来ませんが、作家のくり出す言葉に挑戦し、絡み合う文章の謎を解き明かしてみたいと思わる方は、ぜひ。最後まで、なげたらあきまへんで!

 

 

 

岩城保子の「世間知らず」(集英社/古書950円)を読みました。主人公は、画家志望の女性です。自立を目指しながらも、職業を点々としてほぼ無職状態。アルコール依存症に陥り、あげくに同性愛者の男性、夏樹の家に転がり込み、食べさせてもらっている毎日。再婚した父と、新しい母との間にできた双子の姉妹とは顔を合わせれば喧嘩ばかりで、さらに酒にのめり込む日々を、この女性の語りで描いた物語です。

どんどんページを捲っていきました。主人公は友人に誘われて、飢えた子どもたちを支援する慈善事業に参加します。しかし、この時の彼女の思いはこうです。

「飢えた彼らの痩せ衰えた臓器に切なさを感じたからではなく、酒やタバコや不満で擦り切れた自分自身の臓器が、彼らのそれと同じに不憫だと感じたための自己憐憫のせいだったのだろう。彼らへの救済は自分自身の救済。それだけのことだ。」

彼女は、この会への参加を通して、自分をリセットするなんて気持ちは全くありませんでした。そして、ここに参加する女性たちを「掃除や洗濯や育児に追い回される日常の中での、ささやかな気晴らしを求める欲がふんだんに含まれていたに違いなかった。」と決めつけます。

深酒の日々が延々続きます。あるクリスマスの日、彼女は父親に呼び出されます。父は真っ当で安定した生活を娘に望むのですが、彼女は「健康で長生き。それだけが人生の目的であるような男が、かつては妻を見捨て、別の女の腹に双子を身ごもらせるという一端の冒険をしてみせたなんて、咎めるより、むしろ褒めてやるべきなのかもしれない。」と軽蔑の念をあらわにします。

席を立ち、外へ飛び出した彼女を父親が追いかけます。逃げる彼女。父は突っ込んできた車にぶつかり死亡。しかし、彼女は現場を去ります。そして思うのは、「血の喪失。私はもしかしたら、この日が来るのを心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。父親がいる限りは、私は自分がこの世に存在する理由を父親の存在を通してあれやこれやと理屈づける煩わしさに捕われ続ける。」ということです。不道徳なのか、酔っぱらっているのか…….。

酒に痛めつけられた臓器は悲鳴を上げ、腹痛がおき、トイレにかけ込みます。「クリスマスに下痢に苛まれていることを、世間で不幸というのだろう。そう、不幸な人生なのです。」

こんな女性の物語がハッピーエンドで幕が下りるわけがありません。しかし、単純な結末を用意していないところが見事であり、また恐ろしくもあります。本作が第21回のすばる文学賞を受賞した時、選考委員の作家三木卓は「わたしは何よりも語り手であるヒロインの気持ちが身にしみた。それは作者が素直な気持ちでひたすら綴っているからで、素直ということは強いということである」と書いています。

白々しい作為や、過剰な物語性を求めずに書ききった作者の強さに脱帽です。へらへらしたハッピーエンディングのドラマに食傷気味の方には、超お薦めです。

 

★釧路ヒッコリーハウスオーナー安藤誠の「ネイチャートーク」が決定しました。

10月27日(土)19時スタートです。参加費は2000円です(要予約

 

上村亮平が、すばる文学賞を受賞した「みずうみのほうへ」(集英社/古書650円)は、いわゆる純文学純度の高い作品です。帯に江國香織が「完成度が高く、作品世界に手ざわりがある。」と書いています。

「ぼく」の七歳の誕生日、父と一緒に乗った船上で父が忽然と消えます。「ぼく」が、たった一人船に残されるところから物語はスタートします。この小説は、登場人物に名前がありません。唯一名前で登場するのはサイモンですが、彼は、船の甲板で父と遊んだゲームに出てきた男の名前です。伯父に引き取られた「ぼく」は大人になり、ゲームに出てきたサイモンと同じ名前の男に出会います。

ぼくが大きくなるにつれて、同級生の女子やら、憧れの女性が登場してきますが、すべて彼女、もしくは女の子という表現です。だから、どれがどの女性なのか判別できず、さらに時制が、過去と現在を行きつ戻りつするので、迷路の中で立ち往生してしまいそうでした。もちろん、舞台設定に具体的地名がありません。おそらく東ヨーロッパの港町とか、アイスホッケーを見に行くシーンが登場するのでカナダのどこか、或は北海道の漁港……..。とにかく具体的な名称は、消されています。こういう小説って、ちょっとなぁ〜と思われる方もおられるかもしれません。でも、こんな文章を読んでみて下さい。

「空には白い月がでていた。くっきりと夜を切り抜いたような月だ。染み出した冷たい光が空をのみこんでいる。灰色のあばたもよく見える。月が夜気を放射しているのを見ていると喉の奥を寒気が滑り落ちた。空気が薄くなり、時間もすうっと潮のようにひいてゆく。」

静寂に満ちて、冷たさと鋭さが見え隠れする文体で進行します。ダラダラ読んでいると、足下をすくわれてしまいそうです。最後まで登場するサイモンという男の、不気味さと優しさに戸惑いながらも、私はこの本から離れられませんでした。どこへ連れていかれるんだろう、その不安が楽しみな一冊でした。

「月は完全に満ち、ひとつの世界が閉じた音をぼくは聞く。ベンチにうずくまったまま、じっとしている。次から次へと、魚の亡骸が、にぶい地鳴りのような音をたてながら目の前に積もっていく。腕を親指ほどの肉片が芋虫のように這っている」などというおぞましい文章も、そこだけ突出しているわけではなく、この不思議な物語の一部を構成しているのです。月が妖しく光り、ぼくの前に度々現れる湖の静かさが強く残る物語です。

著者は1978年大阪生まれで、関西大学を卒業。神戸在住。是非、関西弁で不可思議な物語を紡いで欲しいものです。

 

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辻原登を読み始めたのは、ちくま文庫から出ている彼の読書体験を綴った「熊野でプルーストを読む」(古書500円)の後書きを読んだからです。ここで、映画好きの著者は、編集者から古いアメリカ映画で「男の旅立ち」という西部劇を知ってますか、ときかれます。知らなかった著者は早速ビデオを求めて鑑賞します。

「胸がひりつくように痛くなると同時に、強烈な浄化のある映画だ。」

私が予備校通いをしていた頃のこと。大学もどうでもいいやと、だれ気味の時にフラリと入った映画館で上映していた映画が「男の旅立ち」でした。カウボーイに憧れる少年が自分のアイデンティティーを探し出す地味な作品でしたが、辻原と同じような感想を持ったことを思い出しました。これは、彼の小説を読まねば…..

「枯葉の中の青い炎」(新潮社/900円)は、いい意味で奇妙な後味を残す短篇集です。一ヶ月だけ愛人と同棲したいという夫の望みを承諾して、淡々と自分の生活を続ける妻の行動を描いた「ちょっと歪んだわたしのブローチ」。昭和54年、大阪市内の銀行で起きた三菱銀行猟銃強盗人質事件を題材にした「日付のある物語」。中学時代、野球王と言われた少年のその後を描く「野球王」。戦前、戦後のプロ野球界で活躍した白系ロシア人、スタルヒンのピンチを救う為に、南洋の呪術を使った男を描く「枯葉の中の青い話」等々、舞台も時代もてんでばらばらな作品が並んでいます。

どの物語も、読む者をどこに連れてゆくのか皆目わからない不思議さがあります。「野球王」などは、主人公はなかなか登場しません。「ナバコフの短編で好きなものをひとつといわれれば『マドモワゼルO』を挙げるだろう。」という文章で始まり、ナバコフ家にあった家庭用エレベーターの話へ飛んでいき、はてはO・ヘンリーが登場してきます。しかし、物語は、野球に天才的能力を持ちながら、不幸な生き方しかできなかった男への哀切を込めて終ります。

「枯葉の中の青い話」はファンタジーと言えばそうなのですが、スタルヒンの実人生をノンフィクション風に追いかけながら彼に深く関わる南洋育ちの相沢という男との交流が描き出されます。野球ものノンフィクションの味わいが濃厚な物語は、ラスト、急転直下ファンタジーに変身します。

これもまた小説の面白さか、作者に引っ張られて遠くへやってきて、そこに一人取り残された気分とでも言えばいいのでしょうか? 次はどこへ連れて行ってくれるのやら、楽しみです。

 

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宮城県出身の小説家、木村紅美の「夜の隅のアトリエ」(文藝春秋/古書1150円)を読みました。2006年「風化する女」で文学界新人賞を受賞し、08年「月食の日」で芥川賞候補になり、本作で野間文芸新人賞候補に選ばれて、順調に小説家としての道を歩んでいます。彼女の小説はこれが初めてですが、ハマりました。

東京で美容師をしていた主人公、田辺真理子が「自分の素性もわからなくしたい。仕事も名前も変えて、つきあいのあるすべての人のまえから、突然、予告なしに消える」ことを実行し、年の暮れに東京から半日かけある町に辿り着きます。そこは、「猛吹雪に支配されていた。薄黒色の空から、意思を持っていそうな雪が、たえまなく、降る、というよりも渦を巻きながら、巨大なバケツをひっくり返されたみたいに襲いかかってくる」ような、まるで世界から孤立したような所です。

この町で、彼女は殆ど客のいない散髪屋の二階に下宿し、誘われるままに場末のラブホテルの受付を始めます。生きる希望とか、人生の展望などまるでなく、惰眠を貪る生活を続ける真理子。作家は、ひたすら雪に閉じ込められる町を精緻な描写で描いていきます。退屈?いや、全然。息をひそめて暮らす彼女の生活に安らぎさえ感じてくるのです。そんな生活でも、それなりに人間関係が生まれます。それを切っ掛けに彼女が生きる希望を見出す、などというやわな展開にはなりませんので、ご安心を…….。

デッサン教室でヌードモデルのバイトをした縁で、ラブホテルの主人のヌードモデルを始めます。ここで、二人に歪んだ性関係が生まれるような展開にしないところが巧みです。病気で臥せているホテルの主人の妻、老朽化する建物の改装資金もない、そんな場末のホテルにも容赦なく雪は降りかかります。小説の主人公は、雪かもしれません。

誰も見向きもしない町で生きる真理子を見つめて終るのかと思いきや、こんな展開になります

「いまいるここで、東京を離れいくつめの町になるやら、いつからか正確に把握していない。短くてひと月ほどから長くて一年半ごとに、北から南まで、観光地でなくこれといった特徴のない町、産業が衰え過疎化の進んだ町ばかりに引き寄せられ、移り住んでいる。候補地はいたるところにある。五、六年を過ぎた。」

彼女には、「いままでもこれからも、知らない町へと流れ去ってゆくことだけがたしかだ。追われているようなこの暮らしは安住より生きている心地を得られる。」のです。

寂寞たる光景の過疎の町にあって、その寂しさ、孤独を友にするように生きてゆく自由。

「朝が訪れるまえに、自然とそのままに目ざめなくなる日がくることを夢見る。上手くいくだろうか。くちびるがほころぶ。帰る場所はどこにもない」

この簡潔なラスト。私たちが、見知らぬ町に立ち寄った時、そこに真理子が人知れず生きていると思うような幕切です。

 

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「野良ビトに缶を与えないでください」

こんな町内会の看板をみたら、あなたはどう感じますか? 野良ビトとは、ビン、缶の回収日にアルミ缶を自転車一杯に回収している人のことです。

木村友祐の小説「野良ビトたちの燃え上がる肖像」(新潮社/950円)は、東京と神奈川の県境の河川敷に暮すホームレスの人々を描いた小説です。日本にもし路上文学というジャンルがあるならば、そのベスト10には確実に入る傑作です。

小説の時代設定は、少し未来になっています。

「巨額の賄賂疑惑をもみ消して予定通り二年後に開催されることになった東京スポーツ祭典に向けた街の再開発と美化運動、さらにテロリストを警戒した厳重な警備体制のあおりで、東京側から神奈川側へどんどん野宿者が移動してきている」

何やらオリンピックにしゃかりきになっている顔ぶれが浮かんできそうな状況です。野良猫ムスビと、ここで長年暮す柳さんと、ひょんな事から路上生活者になってしまった若者木下君が、主人公です。空き缶集めを生業とする柳さんたちは、町の住人ともトラブルを起こさず平和に暮らしていました。しかし、大企業優遇の政策で、中小企業は破綻し、町の雰囲気が殺気立ってきます。

「あんたたちは人間じゃない。野良猫と同じ、野良ビトだ」と、野良猫に餌を与えないように、野良ビトに缶は与えないという決定が町内でされます。さらに、海外からスポーツの祭典目指して来る人の視線から、汚いホームレスを隠すために国は大規模なホームレス駆除を開始します。

貧困、格差、差別が見えにくいニッポンの現状が、さらけ出されていきます。しかし、これはノンフィクションではなく、あくまで小説です。だから、極めて読みやすい。かつて、ジーン・ハックマンとアル・パチーノがホームレスを演じた映画「スケアクロウ」のように、柳さんと木下君の物語が進行します。

ホームレス生活のディテールには、作者の共感が満ちています。しかし権力を、冨を、持つ者たちのあくなき欲望は、彼らを徐々に追い込んでいきます。小説の三分の二ほど読んだ時、あぁ〜辛いラストが待ち構えているんだろうな、とドキドキしたのですが、作者はウルトラCとまでは言いませんが、見事な仕掛けで読者をソフトランディングさせます。

「景気が悪いことを言うと罪になる『不景気煽動罪』ってのをつくろうとしてんですよ。景気を口実にして、政権批判できないように。その陰で戦争しやすいように着々と法律整えてんだから、もうやりたい放題です。この国は”景気”っていう神輿をみんなでかついで、ワッショイワッショイ破滅に向かってんですよ。」とは木下君のセリフですが、ほら、空疎な事しか言えない、どこかの誰かを思い出しますね。

昨日紹介した川本三郎は、「『それでも』なおの文学」の中ではこう書いています。

「作者は、この小説に解決を与えていない。ただ、近い将来に起こり得るかもしれない危機を先取りする。そして追いつめられたホームレスたちを、最後、幻想の彼方へと逃がしてゆく。それしか彼らを救う方法がないというかのように。」

そこが辛く、しかし読者が、かすかな希望を持てる唯一の着地点なのかもしれません。

 

川本三郎の「『それでもなお』の文学」(春秋社/古書1400円)は、著者の世界観や、人生観が色濃く反映されていて、深く心に響いてきます。

「戦争に反対するわけではない。無論、軍国主義の風潮に便乗するわけでもない。『鬼畜米英』『ぜいたくは敵だ』と国を挙げて戦争に熱狂している時に、安吾は『だらしなさ』によってその熱狂の外にいる」

これは、戦後すぐに発表された坂口安吾の「ぐうたら戦記」を通して、作家が戦争とどう向き合ったかを書いたものです。さらに「続堕落論」から「堕落とは死よりも生を選ぶことをよしとする考えであることを明らかにしている。戦前、日本浪漫派が死を賛美したのに対し、安吾はたとえぶざまであっても生のほうこそ肯定する。」これは、そのまま川本の思想を語っています。

また、丸谷才一が戦争末期、徴兵制で無理矢理兵隊にさせられた体験から、「戦前の日本を支配した生真面目な文化を乗り越えようとした。そこで見出したのが、和歌や『源氏物語』に象徴されるたおやかな王朝文化だった。それは、個人の自由などないがしろにする軍国主義の対極にあるものだった。武張った、硬直した、死を賛美する武士道に対し、生を愛し、死を慈しむ雅びの文化だった。」と論じ、戦争を切り捨てます。

この本は、近現代文学史の中の、安吾、林芙美子、永井龍男等、いわば大御所的存在の作家から始まるのですが、もう歴史になった文学者だけを論じるのではなく、今を生きる作家達を大事に扱っているところがポイントです。釧路を舞台にした作品を発表し続ける桜木紫乃、老いてゆく父親と介護を扱った「長いお別れ」を書いた中島京子、そして「光の犬」(私の今年ベスト1)の松家仁之等の、当ブログでも馴染みの小説家が取上げられています。

ちなみに「光の犬」に登場する添島一家を「普通の一家の主として、昭和から平成にかけての暮らしを淡々と描いてゆく。大仰な感情移入はしないし、ここに小市民の暮らしがあると言いたてることもない。ひとは家族のなかで生まれ、家族のなかで死ぬ。生と死のあいだに人生がある。その当り前のことを描いてゆく。」と分析しています。

無名の小市民、つまりどの家族にもある出産、入学、結婚、離婚、病気、そして死といった出来事を通して、家族を丸ごと描いたと著者は言います。

文学が、生きることの原風景を様々な表現方法で描くものであるならば、その見本市みたいな一冊です。

ところで、本書で紹介されている木村友祐の「野良ビトたちの燃え上がる肖像」は、私も読んでいましたが、反東京オリンピックの濃厚な路上文学として見事な出来具合でした。いやぁ〜、この本を選ぶか!ということで、明日はこの小説を紹介します。

 

 

「爪と目」で第149回芥川賞を受賞した、京都生まれの藤野可織の短篇集を幾つか読みました。

「狼が訪ねてきたのは五歳のときで、両親とともに郊外のマンションに引っ越した日のことだ。」で始まる「狼」(古書・「ファイナルガール」角川文庫/300円に収録)は、「赤ずきん」や「三匹の子豚」がベースにある物語です。

マンションに引っ越して来た自分を、狼が食べに来ると思いこんでいる少年の前に、狼がやってきます。ロックされたドア越しに対峙する二人。危機一髪の時、外出から帰ってきた両親が、持っていた瓶やら、何やらで狼を殴り殺します。そして45リットルのゴミ袋にその死骸を入れて共同のゴミ捨て場に持っていきます。そこに狼がいたこと、殺した事などなかったように日常が戻ります。やがて、成人した少年は、恋人と新居に移ります。そこに、再び狼がやってきます。襲われる寸前、彼女は手の持っていたラックのポールで、狼の顎を割り、のけぞったところを、めった打ちにして殺します。そして、やはりゴミ袋に入れて、ゴミ収集ボックスに捨ててくるというお話です。

ゴミ袋に狼を入れてしまうという描写が、極めてリアルです。それに比べて、何の疑いもなく狼を殺してしまう両親や、彼女の存在はかなり非現実的です。

現実と非現実の絶妙のバランスで進行してゆくという点では、藤野の「おはなしして子ちゃん」(古書・講談社/650円)も見逃せません。主人公は小学校に通う女の子です。学校の理科準備室には、ホルマリン漬けの瓶が一杯ありました。その中に猿がいました。

「猿は膝を揺ゆるく曲げ、背を瓶の側面につけ、中腰のような、空気椅子に坐っているような恰好でじっとしていました。」

その猿と女の子の、不思議な物語が展開していきます。瓶の中でひとりぼっちの猿は、さみしくて、さみしくて仕方ありません。だから、女の子に、いろんなお話をしてと求めてきます。彼女が持っているお話すべてを語り終えても、もっと、もっと、と求めてきます。そして、遂に瓶から飛び出し、空腹のあまり、彼女を食べようと襲いかかります。しかし猿は、「ぴょんと跳ぶたびにぺちゃ、と音が響くのです。それは、皮膚組織が子猿から剥がれ落ちる音でした。つまり、体のほうぼうでずる剥けになった皮膚が、ホルムアルデヒト水溶液の水たまりに落下する音でした」という状態です。やがて、死に絶えた猿を少女は長時間抱きしめて、物語は終わりへと向います。

舞台となる小学校の雰囲気や、現実感のある生徒の感情の間に、ホルマリン漬けの猿が動き出すという、非現実が挟み込まれています。可愛らしさ、グロテスク、ファンタジーがごちゃ混ぜになりながら進行する文体や世界観は、生理的に付き合いきれない人もいるかもしれませんが、べったりと付きまとう不気味さを描いていて面白いです。私はこの作家の小説を初めて読みましたが、かなり好みです。

★連休のお知らせ 7月2日(月)、3日(火)

★夏の一箱古本市8月8日(水)〜19日(日)まで店内にて開催

 

小山田浩子の短篇集「庭」(新潮社/古書1400円)は、日々の生活の隙間からふっと顔をだす、ちょっと悪寒の走るような不思議な世界が一杯。読み出したら、この濃厚な文体に絡みとられてしまうやばい小説ですが、小説に限って云えば、もう今年はお腹いっぱい、という気分です。

小山田は2014年「穴」(新潮社/古書600円)で芥川賞を受賞した広島出身の作家です。夫の実家へ引っ越すことになった妻の、田舎での奇妙な体験を描いています。得体の知れない出来事、不思議な人物に獣。実体があるのかないのか…..。明確な答えのないまま物語は終わります。

今回読んだ「庭」も、一歩間違えば、オカルト小説になりかねない瀬戸際で極めて高い文学性を保っています。

「ウシガエルはうちの近所にはいないが、少し離れたところに川にはいて、夜、自転車で通りかかると襲われるという噂を聞いたことがあった。ウシガエルが牛のような鳴き声で鳴いている川のそばを、ライトをつけた自転車で通りかかるとその声がやむ、と、川の方からどたっと濡れた塊が飛んで来て、顔に張りつく。自転車ごと転んで地面に倒れると、同じような塊が川からどたどたぞろぞろ集まってきて、その人の顔をぺろぺろ舐めて食べてしまうのだという。」

「緑菓子」という一編の中の文章は、怪奇小説みたいなグロテスク感一杯ですが、そういう手合いのお話ではありません。写真家で作家の大竹昭子は「目の前の出来事や対象を見つめるうちに、異次元に引き込まれていく。極度の集中力をもって見るゆえに、ごくふつうの日常のなかに異界が出現してしまうのだ。」と書評を書いています。

何の変化もない日常の暮らしの中で、ひそかに生きている草花、植物そして虫たち。その日常の風景が、不条理に変わる瞬間を捉えた世界……..残念ながら、私にはこの短編集をうまく表現する言葉が見つかりません。

しかし、細密画のような描写、言葉の洪水、改行がほとんどなく永々に続きそうな文体にはまり込むと、逃げ出せなくなります。その快感をぜひ味わってください。

★お知らせ 6月4日(月)5日(火)連休いたします

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結城昌治「夜の終る時/熱い死角警察小説傑作選」(ちくま文庫/600円)。純文学系のちくま文庫が、結城昌治の警察小説のアンソロジーを組むとは驚きです。

第17回日本推理作家協会賞を受賞した「夜の終る時」を含めた5作品を収録しています。とりわけ表題作の「夜の終る時」は傑作です。警察官が主役の推理小説ですが、ジャンルを乗り越えた良質な小説です。

結城は、48年東京地検に事務員として就職したものの、肺結核で入院。その時、福永武彦と知り合い、推理小説を読むことを薦められ、50年代後半から作品を発表し始めます。そして63年に発表したのが「夜の終る時」です。実直な刑事が捜査中に行方不明になります。その刑事とやくざとの黒い噂が絶えませんでした。しかし、刑事はホテルで他殺死体として発見され、深まる謎を巡って刑事たちが歩き回ります。

小説の構成は、全体の80%が、犯人探しの本格推理。第二部に当たる残り20%が、犯人の視点から描いた倒叙もの、という独特の構成になっています。そして登場する刑事たちは、総じて地味なのです。昨今の警察小説に登場するようなスーパーヒーローはいません。1961年に始まったTVドラマ「七人の刑事」(と言っても、若い方はご存知ないかも…)みたいなシブいおっさんばかりです。

戦時中、おそらく特高だったような刑事が登場します。「被疑者の扱いは荒っぽいし、捜査も勘に頼って科学性に欠けている。」と描かれています。その一方、戦後育ちの刑事たちは、刑事を仕事と割り切り、「平穏な家庭と老後の安定に小さな望みを託している。どうせ出世の見込みもないのに、仕事のために生活を犠牲にするなどというのは、バカげたことだと考えている」連中が、同じ刑事部屋に詰め込まれています。派手な撃合いも、アクションもない、ひたすら歩き回り、考える刑事たちの日々を追いかけた小説です。

そして、ラストに犯人のこんな心情が綴られています。

「ふいに、海の風景が浮かんだ。おれは、待合室に出入りする人々を眺め、千枝の姿を求めながら、死ぬ場所を考えていた。海は、待合室にこもったタバコの煙のむこうに見えた。ざわめきは潮騒のようだった。」

犯罪にのめり込んでいった、男の悲哀までも描き出しています。こんなアンソロジーを出したちくま文庫はさすがですね。なお、昭和38年に出版された単行本(中央公論社/500円)も在庫しています。