10/6のブログでご紹介した「Ank:a mirroring ape」(講談社文庫500円)の佐藤究が、第62回江戸川乱歩賞を受賞した「QJKJQ」(講談社文庫/古書350円)を読みました。いやぁ〜また驚かされました。悪寒、恐怖、不安といった感情がさざ波のように打ち寄せる小説ですが、読み終わって、誠に感動いたしました。物語の真髄に当たる部分や構成には、それはちょっとなぁ〜というところもあるのですが、読者を引っ張る力たるや、エンタメ小説や純文学といったジャンル関係なく、ダントツでした。

物語は、猟奇殺人一家に生まれた女子高生の亜李亜のお話です。父は血を抜いて殺し、母は撲殺、兄は噛みついて失血させ、亜李亜はナイフで刺し殺すという、皆それぞれの殺人手法を持った一家です。と書くと、スプラッタ映画みたいに血みどろ残虐シーンの連続!と思い、もうそれだけでパスの方もおられるかもしれません。しかし、そんな場面は案外少ないのです、これが。

「犯罪者で、猟奇趣味で、死刑宣告を受けるのにふさわしい。それが現実だ。けれどもこうして家があって、理解ある恐ろしい家族がいて、絶望せずに生きていける。」と亜李亜は平和な(?)毎日に馴染んでいます。

ある日、亜李亜は部屋で兄の惨殺死体を発見します。翌日には、今度は母がいなくなります。亜李亜は疑いの眼を父親に向けます。対立してゆく父娘。ナイフの刃を父親に向けるという方向に、物語が進んでゆくのかと思うと、ここから亜李亜自身が、自分って何?、とアイデンティティーを探して、自分の過去を知るために街に飛び出していきます。そして彼女の成長物語へと転じていきます。

「人殺しとは何ですか。そう訊かかれば、わたしはこう答える。それは現実です。」

私は人殺しだ、それがわたしの現実だ。しかし、彼女がそれが自分だと思っていたものが、残酷なまでに打ち砕かれて、人格崩壊の一歩前までいってしまいます。

「わたしは自分の考えに震えている。それを打ち消そうとする。心の底の凄まじい痛みは、声にならない悲鳴に変わる。頭の中で絶叫する。ふと、スタッグナイフで手首を切ろうかなと思う。自分を保つために、狂気を証明する理性を保つために。」

生半可な自分探しのお話など吹っ飛ぶ、凄まじい現実に読者は付き合わされます。後半になると、フロイトやラカンの書物、脳科学の理論などが登場して、人は何故他者を殺すのかという哲学的命題へと突入していきます。果てしない迷走の末に、亜李亜が知った過去とグロテスクな国家の倫理。

「殺人者の脳というブラックボックスをこじ開ける。その成果は、まさに人類学的な資産だ。つまり、殺人を犯した直後の人間を捕まえて、脳を調べるんだよ。弁護士もなく、人権もない。」

そんな事を国がやるわけないと思っている方、日本陸軍が中国で行なった人体実験のことを思い出していただきたい。国家は平気でやるんですよ。

そして、「それは地獄の足音だ。永遠に沈んだはずの、地獄そのものだ。」で始まる血の修羅場…….。物語は、私の予想を完璧に打ち壊して幕を降ろします。

救いはあるのか?

エピローグで亜李亜の取った行動を知って、私たちは胸をなでおろします。地獄から戻ってきた少女の生還に拍手を。

Tagged with:
 

1972年ソウル生まれのピョン・ヘヨンの短編集「モンスーン」(白水社/古書1600円)は、どの短編も極めて面白いのですが、深い孤独感、緊張と不安を強いられるので、そういうの苦手だな〜と思われる方は、スルーしてください。

タイトルになっている「モンスーン」は、郊外の団地に住み、関係が冷え切り、会話が全く意味をなさない夫婦のお話です。なぜ、冷え切っているのか。それは二人が別々に外出した時に、亡くなった子供のせいです。夫婦のこれからに幸せは見当たらず、暗澹たる日常が繰り返されてゆく姿を描いた作品です

個人的には、この作品よりも他の作品群にひかれました。

上司から中身のわからない袋を渡されて、辺境の町まで運ぶ二人の会社員の、意味を見出せない移動を描いた「観光バスに乗られますか」。地方に派遣され、担当する業務の内容、意味もわからずに同じ作業をする社員の姿を通して、自分の存在が無のループに陥る「ウサギの墓」。

身重の妻を伴って、都市から地方支社へと移動してきた夫が味わう日常の不条理な争い、理不尽な行動に飛び出す夫を、遠くから見つめるように淡々と描いた「散策」。大学の複写・製本室に務めて、判で押したような、コピーのごとき日々を描いた「同一の食卓」。都心への引越しを決め、先に荷物を送った夫婦と子供の遭遇する過酷な一夜と、いつまでもたどり着けない新居への苛立ちを描く「クリーム色のソファの部屋」。

突然失踪したカンヅメ工場の工場長の、全く人間味のないような人間模様を描く「カンヅメ工場」。花屋を営む男の元へ恩師が死にそうだという電話が入り、花束を持って向かった先で、恩師が死ぬのを延々待ち続ける理不尽な状況に陥る男を枝いた「夜の求愛」。そして、大きな屋敷に住む一家の息子とその友達の関係を、冷たく描いた「少年易老」。得体のしれない世界が、突き刺さってきます。

翻訳を担当した姜信子は「ピョン・ヘヨンの作品はひそかにじんわり恐ろしい。」と書いています。この怖さは、恐怖小説やオカルト映画の恐怖とは全く違います。私たち自身が知っていて、どこにでもある、しかしそこを踏み越えたらもう戻れないという、日常に潜む不条理、延々と続く闇を見せつけられます。

脱出不能なループの罠に取り込まれる小説の面白さが堪能できる作品です。この罠の魅力には抗えない。

 

 

佐藤究の「Ank a mirroring ape」(講談社文庫/古書500円)には、ただただ脱帽致しました。

どんなお話かといえば、2026年京都市内各地で暴動が起き、人種国籍を超えて目の前の他人を誰彼構わず襲い始めます。あぁ〜、よくある架空のウィルスか、テロリストの仕業の類の活劇モノやね、と軽く流したアナタ!痛い目に合いますよ。

違うんです、これが。ウイルスでもなく、汚染物質でもなく、テロでもない。原因は一匹のチンパンジーなのです。はは〜ん、それじゃそいつが黴菌を撒き散らすヤツか…….それも違います。

チンパンジーが発する警戒音が、惨劇の原因なのです。嵐山渡月橋を疾走し、銀閣寺を走り抜け、京都御所に立て籠もるAnkと名付けられたチンパンジー。彼が通り抜けた場所にいた人々は、突然、暴徒と化し、お互いに殺し合いを始めるのです。毎朝、我が家の犬の散歩でお世話になっている御所は、もう血だらけの悲惨な場へと変貌します。

警察小説で人気作家の今野敏が、解説でこう書いています。「『Ank』は、私にとって衝撃だった。どれくらい衝撃だったかというと、読後、小説家を辞めてしまおうかと思ったぐらいだった。」

彼はこの文章の後に、それは冗談ではなく、もう自分の出る幕はないとまで書き記しています。トップクラスの作家にそこまで言わせるぐらい、この小説はスケールも内容も深い作品です。決して、荒唐無稽なだけの小説ではありません。

「自己鏡像認識こそが、われわれの意識を変化させる。鏡を見る自分をさらに見るーこのことによって、これは自分だ、これは自分ではない、という神経のフィードバックが起こる。これが脳を活性化させ、より内省的な意識を生み、抽象的なイメージを描くことを可能にする。イメージは共感を生み、ある対象を別の対象に置き換える比喩を生み、ついには言語を生み出すに至る。」

この認識ができるのは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オラウータン、そして人類だけ。本作のベースにあるのは「自己鏡像認識」です。DNAの塩基配列やら、自己認識やら、類人猿の話がポンポン飛び出してくると、私なんぞ???でしたが、物語の面白さに押されて読み切りました。

主人公は亀岡に巨大な霊長類研究所を設置して、その研究を仕切る鈴木望。彼が見た真実の、恐ろしく、しかも深遠な姿。

「十月二十六日の夜が明けると、京都府警右京署の混乱はさらにひどくなった。鳴り続ける電話。増え続ける死傷者。」後半、小説は一気に加速度をあげて、混乱する京都市内の姿を描いていきます。なんせ、私にとってはリアルに知っている通りやら場所が登場するので、恐怖感も一入です。

でも、Ankと鈴木が、濁流と化した鴨川に四条大橋から飛び込むシーンでは、もう泣けて、泣けて……….。

なんでこの物語の場所を京都に設定したのか、その答えは「中京区。西桐院通りと油小路通に挟まれた場所に猩々町という町がある」という鈴木の言葉にあります。「猩々」とは、古い言葉で、オラウンターンを意味する言葉だったのです。さらにいえばチンパンジーを「黒猩々」と、かつての日本人は呼んでいたそうです。

吉川英治文学新人賞、大藪春彦賞、ダブル受賞だけのことはあります。

岩阪恵子の短篇集「雨のち雨?」(新潮社/古書1100円)を読みました。詩人として出発した彼女は、昭和61年「ミモザの林を」で野間文芸新人賞を、平成4年、評伝「画家小出樽重の肖像」で平林たい子賞を受賞しました。私が初めて読んだのは、「淀川にちかい町から」(講談社文芸文庫/古書700円)でした。大阪生まれの著者らしく、活発な大阪弁が飛び交う詩情あふれる短篇集でした。

今回読んだ「雨のち雨」は、文芸雑誌「群像」に連載された短篇集です。極端な言い方になりますが、重松清の小説を読んだ後のような爽やか感は全くなく、突き放されて、ドスンと尻餅を付いて呆然とするような気持ちになる作品ばかりです。

表題作「雨のち雨?」は、夫の昌夫がある日失踪してしまった妻、佐知子の物語です。方々手を尽くすも、全く消息不明のまま。そんな折に義母が、妻のマンションに乗り込み、一緒に昌夫の帰りを待つことになります。

「いずれ義母がもっと年老いてからは同居もあるかもしれないと漠然と考えていたが、このようなどさくさに紛れて同居することになろうとは…..しかも彼女の息子が行方知れずでいない家に二人きりで暮らすことになろうとは…….。」

と、複雑な感情を抱いたまま同居が始まります。そして、物語は失踪した夫ではなくこの二人の生活を見つめていき、えっっ!と思うような、しかし、女性にとっては、あるかも…と納得できる結末を迎えます。

定年退職後、家に居場所のない夫と、何かと活発に外へ飛び出してゆく妻の家にきたムクドリの一家を中心にして進む「ムクドリがやってきた」。どこにでもある夫婦の物語です。ムクドリの巣立ちを見て、少しは前向きな生き方を模索し始めた夫ですが、ゾッとするような、いや笑ってしまうような結末が訪れます。定年退職したアナタの身の上にも、こんな結末は降りかかってきます。

中年を過ぎた夫と妻の暮らしの隙間を描き、そこに忍び込んでくる孤独感、不安、恐れを見事に描き出した短篇集です。年をとらんとわからん話かも…….。

日本文学の巨匠はあまり読まないのですが、芥川龍之介と太宰治は時々読みたくなります。しかも、長編ではなく短編です。超技巧派の芥川の短編は、まるで黒澤の映画を観ているみたいです。ケレン味がちょっと、という方もおられますが、私はそこが好きです。

一方の太宰は、身体中のエネルギーを吸い取られて、フワフワ、ユラユラと彷徨わされるところが気に入っています。今回読んだのは、彼の中期を代表する14編が収められた「きりぎりす」(新潮文庫/古書350円)です。

「もう、どこへも行きたくなりました。すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮かんで、おそろしく目立つような気がして、死ぬほど当惑いたいました。」

お得意の女性の告白体小説「燈籠」。この作品を発表した昭和13年当時、彼は麻薬中毒による錯乱、精神病棟への収容、はたまた妻の姦通事件等でボロボロの状態。絶望の中から、小さな幸せを見つける太宰の姿が反映されています。

同じく告白体小説で、「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。」で始まる「きりぎりす」は、名声を得た画家である夫に見切りをつけた妻が、一気呵成に夫を糾弾するお話で、「おわかれして私の正しいと思う生き方で、しばらく生きて努めてみたいと思います。」と妻の決断を描いています。小心者でいい加減な夫が、名声を得て、立派になってゆくことで、逆に妻に三行半を突きつけられるのが面白いところです。

昭和15年に発表された「鴎」は、戦争に向かう時代に、自分の芸術的思想を守ろうとする生活の中で、出征してゆく兵士への後ろめたさ、自己の信条への不安に押しつぶされてゆく姿が描かれています。

「一片の愛国の詩も書けぬ。なんにも書けぬ。ある日、思いを込めて吐いた言葉は、なんたるぶざま『死のう!バンザイ』ただ死んで見せるより他に、忠誠の方法を知らぬ私は、やはり田舎臭い馬鹿である。私は、矮小無力の市民である。まずしい慰問袋を作り、妻にそれを持たせて郵便局に行かせる。」

この後ろ向きの、ウジウジ、グジグジ感に会いたいために、太宰を読むのかもしれません。

Tagged with:
 

奥田英郎という作家は、以前にも東京オリンピック開催前の東京を描いた「オリンピックの身代金」を発表しました。「罪の轍」(新潮社/古書1200円)も、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の浅草と、北海道礼文島が舞台です。

奥田は、ジャンルで言えば推理もの作家の範疇に入るのかもしれませんが、本作は、純文学とか推理小説とかのジャンルを飛び越えた約600ページの大作。大きな物語の波に飲み込まれます。

主人公の一人宇野寛治は、礼文島で暮らす漁師見習いですが、一方で空き巣の常習犯でした。

「黒い海を眺めていたら、体が冷えてきて、寛治は両腕をこすった。夏とはいえ、日本の北端の夜は半袖ではいられない。ひとつくしゃみをして、寛治は見張り台を降りた。再び布団に潜り込み、ラジオをつけた。北朝鮮の放送が混線する中、弘田三枝子の`『ブァケ〜ション』が流れてきた。」

豊かさと明るさ一杯のこの曲に導かれるように、彼は東京へと向かいます。もちろん非合法な手段でですが….。

繁栄の象徴、首都東京。しかし、「山谷の夏は町全体にゴミと汗と酒の臭いが充満し、町井ミキ子は子供の頃から大嫌いだった。今日も朝から気温が三十度を超え、路地裏の隅から隅まで不快な臭気が漂っている。」という町でもありました。三谷の旅館を経営する母を手伝う町井ミキ子は、ふとした事から寛治を知り、深い悲しみに満ちた事件に巻き込まれていきます。彼女は高校卒業後、憧れのOLになろうと受けた就職面接を全部落ちたのは、自分が在日朝鮮人だからだと思っていました。

オリンピックに浮かれている一方で、過酷な日雇い労働につかざるを得ない労働者が溢れかえり、貧富の差が表面化したこの年、浅草で男子誘拐事件が発生します。物語は、誘拐事件を担当する刑事たちの地道な活動を中心にして進んでゆきます。読むうちに犯人が誰かはすぐにわかります。そう、あの男です。しかし作者は、綿密な心理描写と、まるで黒澤明の白黒映画を見ているようなリアリティー溢れる描写で、繁栄から取り残された男の魂の暗部を描いていきます。出生から父親のDVにさらされ、挙句に当たり屋に使われ、脳に障害を持った人生。だから、犯罪小説を読み終わった時のカタルシスはありません。

ところで、昭和38年という昔のことなのに、DV、人種差別、格差、マスコミの世論誘導、一般大衆による偽情報の大量放出等々、今と一緒です。お上が無理にでも盛り上げようとしている来年のオリンピックでも、こんな事件が起こる可能性は大です。そう考えると、ぞっとするエンディングなのかもしれません。未来を予測した骨太の傑作小説でした。

 

 

高度200メートルの高さに上がって、高層ビルの窓ガラスを拭く清掃員翔太の青春を描く、古市憲寿「百の夜は跳ねて」(新潮社/古書1100円)は、大都会東京を変わった視点から描いた小説です。著者の古市憲寿は、先日ご紹介した岸政彦と同じく社会学者が本業です。「希望の国の幸福な若者たち」で注目され、2018年、初の小説「平成くん、さようなら」で芥川賞候補になりました。TVにもよく登場されています。

就活で挫折し、なかばヤケクソでこの仕事を選んだ翔太は、高層ビルの窓ガラス清掃をしながら無気力な日々を送っています。ただ日々の生活のためだけに淡々と作業をこなしていたのですが、彼に転機が訪れます。ある高層マンションの清掃作業中のこと、翔太はひとりの老婆と目が合いました。視線を外せば良いのに、吸い寄せられるように見つめ、その後彼女の住む部屋に向かいます。
「3メートルはあるだろう高い天井のリビングには、とにかく様々な箱が並べられているせいで、床はほとんど見えない。僕が座っているテーブルと椅子は、箱に囲まれような形になっていた。僕たち以外に人の気配がないということは一人暮らしなのだろうか」
そんな、どうもよくわからない老婆ですが、さらに彼は「作業中に見える部屋の写真を撮ってきてほしい」という不思議な依頼を受けます。
作業中に写真を撮るのは犯罪ですが、隠しカメラで撮影しては、老婆の元へ持っていき報酬を手に入れます。名前も素性も知らないまま、依頼された仕事を続ける翔太に変化が出てきます。犯罪まがいの事に手を出し、名前も知らないふたりの密会にはいかがわしさが付きまといますが、彼は彼女の喜ぶ顔がただただうれしかったのです。そして彼女と交わした仕事から生きる意味を見出していきます。
「無駄な仕事だと思ってたんです。いくらガラスをきれいにしたところで、数ヶ月後にはすっかり汚くなってるから。雨なんか降った日には、下手をしたら数時間で無駄になる。しかもほとんど誰も見てないんです。」
仕事をそんな風に思い、無意味に生きてきた翔太が、物語の後半、徐々に変化してゆくところが小説の醍醐味です。ラスト近くで、それまで彼女が降ろしていたマンションの部屋のカーテンを、翔太が全て開けて、眩い夜景が飛び込んでくるところは感動的です。

ラストの会話が、小説の読後感を良いものにさせています。

 

岸政彦の「図書室」(新潮社/古書1200円)は、私の中では、今年(まだ上半期ですが)中篇小説ベスト1。ブログのタイトルに「小説も上手い」と書きましたが、岸の本職は社会学者です。2016年の紀伊国屋人文大賞を受賞した「断片的なものの社会学」を、面白く読みました。

名古屋生まれ大阪育ちで、今も大阪在住の彼が小説の舞台にしたのは、淀川の岸辺です。主人公は四十過ぎの女性で、定職もあり、そこそこ貯金もある一人暮らしに不満はありません。

「私はベッドに座って取り込んだ洗濯物を適当にたたむと。キッチンでお湯を沸かしてコーヒーを入れた。雨の日曜日。今日はシャワーを浴びたら、梅田に行って、阪急の紀伊国屋か茶屋町のジュンク堂で何か本を買おう。」それなりに幸せな暮らしを続けている主人公が、小学校の頃に通った古い公民館にある小さな図書室のことを思い出します。そこは、

「学校という、いろいろ楽しいこともあるけど、でもやっぱり行かずにすむなら行きたくない場所と、心から愛している母親と猫たちがいて暖かいこたつもある自分の家との間にあって、ちょっと大人になったみたいにひとりになれる場所。」

そこで、一人の少年と出会います。やがて、仲良くなった二人は、世界が終わり、二人だけが生き残るという妄想にのめり込みます。「世界の人類が滅びたあとで、幾多の苦難を乗り越え、スーパーにも忍び込み、畑を耕したり淀川で魚を釣ったりして生きていくことを想像する。」そして、図書室から宇宙の彼方へと飛翔する少年と少女の果てない空想力は、ある大晦日の日、二人にあることを決行させるのです。

たまらない気持ちにさせてくれる小説です。。思い出してください、小さな頃に何気なく見ていた光景や、どうでもいいような会話が、どれ程大切なものだったのかを。そして、その時そこにあった風景の愛おしさ。淀川の匂い、冬空の冷たさ、そしてもういなくなった人たち。ラスト、主人公が、少年といた淀川を再び訪れるシーンは、泣けてきます。いい物語を味わったという思いでページを閉じました。本書には、大阪愛に満ち溢れた自伝エッセイ「給水塔」も収録されています。

「何かのタイミングがたくさん重なって、ひとは知らない街にやってきたり、友人と静かな散歩をしたり、真冬に誰もいない万博公園でいつまでも森を眺めたりすることがある。ふだんどれだけ荒んだ、腐った、暗い穴の底のようなところで暮らしていても、偶然が重なって、何か自分というものが圧倒的に肯定される瞬間が来る。私はそれが誰にでもあると信じている。」

あります。こういう瞬間が人生には。

 

 

 

Tagged with:
 

原田マハの小説は、時々読みます。彼女は、森ビル森美術館設立準備室に在籍していた時に、ニューヨーク近代美術館に派遣されて勤務した経歴の持ち主です。作品でも美術関係のものが多くあります。以前に、ブログで紹介した「暗闇のゲルニカ」は、ピカソの「ゲルニカ」を巡る物語でした。

今回ご紹介するのは、ゴッホが主人公の「たゆたえども沈まず」(幻冬舎/古書900円)です。ゴッホがメインになるのではなく、画商としてパリで活躍する弟テオドルスと、パリで画商を始めた二人の日本人の交流がベースになっています。この二人の日本人のうち一人は架空の人物ですが、史実に基づいた物語として構成されていて、印象派が注目を浴び、新しい美術運動が盛り上がってきたパリの動向、そしてゴッホを含めた新しい画家たちが、日本の浮世絵に大きく影響を受けていた様子が描かれています。

ほぼ400ページの大長編ですが、読みやすいので疲れません。原田マハの小説は、ある文芸評論家が「深みに欠ける」と言っていました。言葉も平易で、改行も多く、また各章が短いのでそう言うレッテルを貼られたのかもしれません。けれども、深みがあっても響いてこない小説を読むよりは、はるかに良いと思います。ちょっと安易だなぁ〜と感じた部分もありますが、新しい芸術運動が吹き抜けたパリのあの時代を、一緒に生きた気分になるのは、作家の力量です。

「印象派ーとは、新たに出現した革新的な画家たちの集まりを皮肉ってつけた意地の悪い呼び名であった。」

1874年、写真家ナダールのスタジオで企画された「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社 第一回展」が印象派が世にでた最初でした。しかし、彼らの自由な画風は全く評価されず、ボロクソに批判されます。それから、時間をかけて美術界のメインストリームになってゆく、その一方で貧乏画家として苦しい日々を続けるゴッホと、彼への憎しみと愛情に揺れ動く弟。そんな時代の流れを柔らかく教えてくれる一冊です。この本を読みながら、店にある図録「広重と歩く東海道五十三次展」(古書1200円)や、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」(古書1300円)を広げて作品を眺めました。今でこそ、大人気の印象派であり、ゴッホですが、こういう歴史があったことを知ることが出来ました。

 

「フィンセント・ファン・ゴッホ。享年三十七。

テオドルス・ファン・ゴッホ。享年三十三。

それぞれが細くはかない糸だった兄と弟は、結び合って強くなり、互いの存在に励まされ合って生き延びた。けれど、決してほどけないはずの結び目が、ふいにほどけた。フィンセントの自死によって。」

物語終章は二人の死です。けれどもこの後に、作家は微かな希望を残します。それは、残されたテオドルスの妻です。安心して、本を閉じることが出来たのは彼女のおかげです。何をしたのかは、この長編にたっぷりとハマってのお楽しみです。

★恒例『レティシア書房夏古本市』は8月7日(水)〜18日(日)開催します。

暑い時ですが、またお運びくださいませ。

以前ブログで紹介した「長いお別れ」に続いて、中島京子の「夢見る帝国図書館」(文藝春秋/古書1350円)のご紹介です。長編小説を読んだ満足感100%の出来上がりでした。安心して読める作家の一人ではないかと思います。

小説家を目指すライターの”私”が、「短い白い髪をして、奇天烈な装いをしていた。」貴和子さんと出会ったところから、物語が始まります。貴和子さんは本が好きで、図書館が大好きな老女です。”私”は誘われるままに、「路地の奥のそこだけが江戸時代を背負っているみたいに古かった」小さな部屋に行き、四畳半の狭い部屋に樋口一葉全集があるのを目撃します。そして、彼女が小説を書いて欲しいと頼んでくるのですが、それはとても奇妙な設定の物語なのです。こんな会話が続きます。

「上野図書館が主人公みたいなイメージなの」「図書館が主人公?」「そう、図書館が語る、みたいな」「図書館の一人称っていうこと? 我輩は図書館である、みたいな?」

そこから、樋口一葉に恋ゴゴロを持ち、宮沢賢治と唯一の友の友情を見守り、関東大震災を耐え抜き、戦時中隣接する動物園の猛獣処分で殺されてゆく動物たちの嘆きに悲しみ、敗戦後に「帝国」図書館の役目を終えるまでの”図書館の人生 “が脈々と語られていくのです。図書館の眼差しが、時に優しく時に切ないところに涙してしまいます。

同時に”私”は、貴和子さんの戦前戦後の苦難の歴史と人生を知り、彼女が纏っている謎を解明してゆく物語が進行していきます。ひとりの女性の人生と、時代に翻弄されながらも本を守り続けた図書館の姿が、後半見事にシンクロしていく、巧みな構成です。

日本国憲法草案のため、アメリカから派遣された女性ベアテは、この図書館で資料を集めながら考えます。

「わたしが憲法草案を書くなら、と、ベアテは考えた。この国の女は男とまったく平等だと書く。神様がわたしのようなちっぽけな人間に、こんな大きな仕事をさせようとしているなら、間違えちゃいけない。わたしはこのチャンスを、彼女たちのために使わなきゃいけない」と、本をしっかり抱きかかえて、立ち去ります。その姿を図書館は優しく見つめていました。

晩年の喜和子さんが家を捨て、自ら選んだ道で幸せな日々を送られたことに”私”も、読者もホッとします。小説の完成を待たずに喜和子さんはこの世を去ります。最後の散骨シーンと、帝国の看板を下ろして役目を終えた図書館の姿がクロスして、大きな歴史を描いた物語は終わりを告げます。

「真理がわれらを自由にする」という最後の言葉は、心の底からジーンときて鮮やかな終わり方でした。

 

♫トーク&ライブのお知らせ  

7月13日(土)18時30分より 『澤口たまみ(語り)石澤由男(ベース)ライブ』

今年1月、当店で行われた「宮沢賢治愛のうた」(澤口たまみ著)出版記念イベントのお二人のトーク&ライブが再び
やってきます。澤口たまみがさんが岩手のイントネーションで賢治作品を朗読。
ベーシスト石澤由男が伴奏を添えま

す。 朗読作品は、岩手の自然を見つめ、野原や林からおはなしを貰ってきたという「鹿おどりのはじまり」他を予定。

●18時受付開始  18時30分より (2000円)ご予約ください。