小野正嗣が芥川賞を受賞した「九年前の祈り」(講談社/古書750円)を読みました。蓮實重彦が傑作だと太鼓判をおしていたので、レトリックな文体を駆使した小説かなぁと思っていましたが、いや、面白かったです。何と言っても、登場する大分弁バリバリのおばちゃんたちの会話がイキイキしています。

東京で同棲していたカナダ人と別れ、生まれた息子を連れて郷里に帰ってきた安藤さなえが主人公です。さなえの混血の息子、希敏は外見こそ美しいのですが、しばしば癇癪(かんしゃく)の発作を起こして、「引きちぎられたミミズ」のように手の付けられない状態になリます。

「引きちぎられてのたうつミミズに人の言葉が通じるのか。投げかけられる言葉は切実なものであればあるほど、尖った石のつぶてとなって、すでに傷ついた体をさらに切り込んだ。いっそう痙攣させ、のたうたせた。」

帰郷した彼女は、昔なじみの「みっちゃん姉(ねえ)」の息子が入院中で、かなり悪いことを知り、見舞いに行こうとします。みっちゃん姉は、9年前に地元のおばちゃんたち8人で行ったカナダ旅行で一緒だった一人でした。

さなえは見舞いの品に、故郷の島で取れる厄除の貝殻を採りに行きますが、その道中で9年前の旅の記憶がフラッシュバックします。そこでの彼女たちの大分弁が爆発するところは、微笑ましくも哀しくもあります。おばちゃんの二人が、モントリオールの電車ではぐれてしまった時に、みっちゃん姉は近くに教会でお祈りをしようと提案し、見よう見まねでお祈りをします。

「モントリオールの教会で、さなえと他の三人が祈りを終えて立ち上がったあとも、みっちゃん姉は依然としてひざまずいた。真剣な様子に声をかけられなかった。」

その真摯な「祈り」の姿がこの物語の大きなモチーフになってきます。さなえは、みっちゃん姉の息子も障害に苦しんでいることを、道中一緒だったおばちゃんちゃんから聞きます。

「あげえ明るい人じゃけどな、さなえちゃん、どこの世界に明るいだけの人がおるんか……..。そげな人がおったら、そら、ただの馬鹿じゃ…….。」

過去の回想が現在と交錯する文章が、発達障害を抱えた息子、シングルマザーを取り巻く環境、未来への展望が全く見えない人生など、さなえの抱える苦しみをあぶり出していきます。

「その腐敗から生じた毒がさなえの体を通して息子に伝わってしまったのだろうか。だとしたら、すべてはさなえのせいだ。膝の上に置かれている希敏の頭が寝苦しそうだ。汗で少し濡れた希敏の髪をそっと撫でた。」

 旅行の機内で泣き止まない赤ん坊を守らんとしたオバちゃんたち、そしてひたすら祈っていたみっちゃん姉、登場する彼女たちこそ救いの象徴なのです。残念ながら、本作では男性はほとんど無意味な存在です。

そう簡単ではないだろう、これからの人生。でも、

「いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている。悲しみが身じろぎするのを感じた。」と、さなえが感じるラスト。救ったのは、あのおばちゃんたちだったのです。

ちなみに、作者の小野正嗣は、現在「日曜美術館」(NHK・Eテレ日曜朝10時)で司会をしています。

 

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

★レティシア書房 恒例「女子の古本市」は2/6(水)~2/17(日)です。出店者は女子ですが、もちろんどなたでもご来店くださいませ!今回も27店程にご参加いただきます。お楽しみに!

「女子の古本市」準備のため、4日(月)5日(火)はお休みいたします。


 

エマニエル・ゴンザレスの短編を集めた藤井光訳「ミニチュアの妻」(白水社/古書1300円)の奇妙な味わいは、なかなかです。

まずは、「操縦士、副操縦士、作家」という物語でど肝を抜かれました。

「高度二千メートルから三千メートルの間で、僕たちは街の上空を旋回し続けてきた。僕たちの計算では、もう二十年ほどになるはずだ。」

作家が乗っていた飛行機がハイジャックされたのです。普通なら、ここから緊迫したストーリーが読者を巻き込んでいくはずなのでが、なんとこの機体は上空をぐるぐる回っているだけなのです。燃料が尽きたらどうなるのって?なぜか、飛び続けているのです。じゃあ食料は?ハイジャック犯が出してきた飲み物で、栄養が取れるようなのです。犯行の目的は? それもわかりません。そして、二十年以上、乗客たちは空にいるのです。物語は乗り合わせた作家の独白で進みます。

「何週間も、いや何ヶ月も、僕は化粧室の鏡で自分の鏡を見ずに過ごすことがある。もう化粧室の中を知り尽くしているから、目を閉じたままでも生理的なことはすべて済ませられるようになっている。」

不条理な事件が混乱に陥らず、物語は幕を閉じます。いや〜、なんと表現したらいいのでしょうか。何が面白いと問われれば、この不思議な状況です。

次に登場する話がタイトルになった「ミニチュアの妻」です。

主人公は、何でも小型にしてしまう業界(?)で働く技術者です。「何があったのかズバリ言ってしまおう。どうやってか、僕は妻を本当に、本当に小さくしてしまった。」そして、気がつくと、妻はコーヒーマグの高さぐらいに縮んでいたのです。小型化業界って何よ?とクラクラしますが、夫は、妻の肉体的魅力が失われてはいないなどと、ニヤニヤしながら妻のためにドールハウスを作り始めます。しかし、やがて妻との間に争いが発生します。妻は古代の戦士よろしく戦闘開始。

「彼女は小さな槍をいくつもカーペットに突き立て、自分の野営地の周りに防御線を張っている。小さな槍の先には、一匹か二匹のクモと数匹のゴキブリの頭部が刺さっていて、夜になると小さなかがり火が見えるので、ぼくの目は釘付けになる。」

あり得ない展開に、もう笑いながら読んでしまいました。そんな感じでズラリ短編が並んでいます。小説でなければ人に伝えにくい面白さと奇想に満ちたアメリカ文学です。

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

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ミニプレスに目を通していて楽しいのは、この地方には、こんな作家がいたのかという事実を知る時です。

三重県津市から発行されている「Kalas」最新36号を読んでいると、今井貞吉という作家のことが書かれていました。この雑誌の発行責任者西屋真司さんが、伊勢市にある「古本屋ぽらん」の店主から「津を舞台にした小説みたいだから、あなたにと思って取っておいたんです。」と手渡された今井貞吉の「鄙歌」という小説を読み著者のことを調べ始めたのだそうです。

「それは一組の男女の逢瀬を主軸にした物語だった。昭和初期という舞台設定に即した穏当な内容で、この後も派手な事件など起こりそうにない。三分の一程度まで読み進んだ印象はそんなところだ。それで退屈な話かと言えばそんなことはなく、丁寧に記述された戦前の津の風景にいつしかひきこまれている。」

どんな人物なのか、調べてみたものの手がかりが無かったみたいです。しかし、この地方の文化に詳しい市職員の中村光司さんを紹介され、早速会うことになります。中村さんは、伊勢出身の詩人竹内浩三の研究者であり、三重文学協会会長という肩書きの人物です。

氏との会談で今井貞吉のことが明らかになってきました。今井は、明治37年津市で砂糖商を営む家に生まれます。兄の俊三も、昭和12年「饗宴」という長編小説を発表していました。その兄の影響もあって、貞吉は文学に傾倒していきます。兄と共に上京し、小林秀雄、中原中也、中島健蔵らの文人たちと交流していきます。しかし、昭和20年津市への空襲で家財全てを失い、戦後は兄弟の面倒を見ながら、困窮の生活を送ります。こつこつと作品を発表しますが、話題にもならず、昭和60年八十一歳でこの世を去ります。

こうして詳しいことが判明するなんて、地方の文化研究者や、郷土史家の人たちの知識は半端じゃないですね。好きなことをコツコツと、地道にやるって本当に大事なことです。

西尾さんは、最後にこう書いています。

「三十幾つか過ぎた定職もない男の心理描写には、借り物とは思えない追憶と寂蓼がある。津に暮らす読み手としては、全編を通して流れる街への心情に共感するところも多く、確かにこれは同じ土地で生きた人の手による物語だとの印象を強くする。」

一地方都市で、ひっそりと人生を終わらした作家の本。機会があったら読んでみたいものです。

 

★ただ今開催中の「福井さとこ絵本原画展」に伴い、2月3日(日)18時から、福井さんによるスロバキアのお話会を行います。参加ご希望の方はレティシア書房までお申し込み下さい。(075−212−1772)

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梨木香歩の本は、ほぼ読んでいたと思っていたのですが、「ピスタチオ」(700円/古書)は未読でした。何かわからないけれども、それに導かれてアフリカに向かった女性ライター(ペンネームは棚という)の物語です。アフリカの伝統的医術を体得した呪術医に会うのが目的の旅、と書くと何だかおどろどろしそうな話みたいですが、そんなことはありません。

「ピスタチオ」は約300ページ程の小説なのですが、前半100ページほどが、主人公が飼っている老犬マースが病気になり、手術を受ける話です。私事ですが、今年老犬を見送ったばかりで、ちょっとこれにはまいりました。(でも、死にませんので愛犬家の方はご安心ください)

「小さい頃から気象の変化には興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。」

その記憶が、再び彼女をアフリカへと向かわせます。ケニアの奥地にあるウガンダに、呪術医のことを調査した人物がいると知った彼女は、病状の落ち着いたマースを日本に残して旅立ちます。しかし、片山というその男と、ガイドまでもが原因不明の死に方をしているのです……..。

ここから舞台はアフリカに移動します。緑、水、精霊…こうしたキーワードが物語の中心になり、それらが緩やかに回転を始めます。その輪は大きくなったり小さくなったりしながら、主人公を、見えない大きな何かに導いていきます。この作家の上手いのは、ファンタジックな世界どっぷりに描くことなく、リアルに主人公の旅を見つめているところです。 思わぬ出来事に遭遇するのですが、なぜ彼女だったのか、ということに明確な回答を用意していません。霊的なるものの存在だけでは語りきっていない、しかし100%の不思議さが残る物語でした。最後に主人公が書き上げた「ピスタチー死者の眠りのために」は、物語全体を総括すると同時に、見事に梨木の世界でした。さて、タイトルになった「ピスタチオ」の意味は? 最後で、あぁ〜そうだったのかと思って、ページを閉じることになります。
棚は「ピスタチオ ピスタチオ いい一生を生きた 安心してお休み」という言葉を最後に書いて、
「書き上げて、気づけば夜が明けようとしていた。棚は、いつものように散歩に出かけようとマースに声をかけた。月は白く高く上がっていた。風は優しく、木々の梢から、棚の耳元までやってきて、何か囁いて消えた。」
余韻溢れる幕切れです。

★年内は12月30日(日)まで営業いたします。年始は1月8日(火)より通常営業いたします。

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。予約受付中(1500円)レティシア書房075−212−1772

 

お昼の休憩とか、次の授業まであと少し時間が…なんて時に、長野まゆみ「ささみみささめ」(筑摩書房/古書1100円)はオススメです。不気味な話、苦笑いする話、不思議な話、呆然とする話、しみじみする話、ぞっとずる話など25編の物語が詰まった一冊です。一話十数ページ、そしてその殆どの運びが上手い!巧み!最後は座布団一枚!の幕切れなのです。

実は、長野まゆみという作家とは個人的に相性が悪かったのです。彼女は、小学校時代に竹宮恵子「空がすき」の漫画で衝撃を受け、少年愛ものの世界に入りこみ、萩尾望都などを読んでいました。耽美的な作風で、鉱石、幻想世界の美少年、といったモチーフを多用して少年同士、あるいは少年と青年の関係を描いた作品を書いています。宮沢賢治への言及も多いので、何冊か手に取りましたが、最後まで読んだ記憶がありません。しかしこの本で、日常の何気ない瞬間を描きながら、予想外の展開へ読者を誘う手法に、上手いなぁ〜と感心してしまいました。

例えば、娘と介護施設にいる父親の葛藤と許しを描いた「ドシラソファミレド」。物語に登場する「もろびとこぞりて」の歌に託された父のメッセージに気づいた娘の目が潤んでくる所に、こちらも涙します。また、小学校の時、なんでも出来る友だちミッチに羨望の念を持っていた主人公Qチャンが、数十年ぶりに出会い、お互いの人生の分かれ道を振り返る「すべって転んで」のラスト、

「運命の別れ道には太い橋がかかっているわけじゃない。うっかり見逃してしまうような細い細い道なのよ。娘にはそれを云いそびれたけど、このあいだ生まれた孫には耳にタコができるぐらい云ってやるつもり」

こんな会話どこかで聞こえてきそうですね。

この作家らしいな、と思ったのが「スモモモモ」でした。語り手である男には、双子の姉がいます。小さい時から雛人形が大好きで、小学校に入る時もピンクのランドセルに憧れ、しっかり者の姉に寄り添っていました。やがて、姉は結婚し、姉の夫とも仲良くなり、一緒の時間を過ごしますが、突然の事故で姉がこの世を去ります。でも、その後も姉夫妻の家で、義兄の好きな料理を用意して時間を過ごします。

「義兄もぼくを姉だと思っている。姉の死を受け入れることができず。事故で死んだのは、車酔いをする姉と席をかわって助手席に乗っていた弟のぼくだと思い込んでいる。周囲にもそう話す。」

世間的には奇妙な風景かもしれないが、誰も不幸じゃない、という幕切れが素敵でした。

 

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2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。ご予約受付中(1500円)


 

 

目取真俊(めどるま・しゅん)の「風音」(リトル・モア/古書700円)は、沖縄出身の作家だからこそ書ける色彩感覚で、沖縄県の過去の歴史を知っている作家にしか書けない力作です。彼は1997年、「水滴」で芥川賞を獲得しています。

海岸の崖に人の手で積み上げられた石の壁があり、その壁の奥にあるもう一つ空間。そこには、銃弾が貫通して穴のあいた白い頭蓋骨が置かれています。その穴を風が通り抜ける時、不思議な音が発生します。

「音が泣いているように聞こえるだろう。だから泣き御頭というんだ。」

この頭蓋骨をめぐって、物語は始まります。暴力を振るうだけの夫を東京に残し、故郷に戻ってきた和江と息子のマサシ、和江の母マカト。沖縄戦の戦火をかいくぐって生き延びた清吉と、孫のアキラ。沖縄戦の特攻で死んだかつての恋人の骨を探しもとめて、毎年東京から来る藤野。彼らの人生が徐々に、徐々に語られていきます。

「泣き御頭といってもですね、いつも泣いているわけではないんですよ。海から吹いてくる風がですね。こう、何かの拍子であの骨の中を通り抜けたときに、音が鳴るんです」と、現地を案内する男が藤野に説明します。

登場する男たち、女たちはそれぞれに悲しく、辛い過去を背負っています。戦後生まれの和江にとって、故郷は「村には楽しい記憶よりも、つらく、苛立たしく、いつも誰かの視線に脅かされているような記憶が推積していた。」場所でしかありませんでした。だからこそ、東京へ逃げた。この人ならと思って所帯を持ち、息子を育てたが暴力をふるう男であることが分かり、故郷に戻ってきたのです。

清吉は、アメリカ軍の艦砲射撃の中を這いずり回りなんとか生き延びたが、戦後の沖縄返還と同時に本土企業による乱開発、土地搾取で海が荒廃し、漁師として生き残れず、やむなく建築現場で働かざるを得ない日々を送ります。

「自分のやっている工事が、雨が振るたびに海を駄目にしていくことが分かっていても、その矛盾から抜け出すことができない。そのことに悩んで追い込んでしまい、酒浸りにな男たちもいた。」

そんな一人が清吉でした。ヤマトンチュウ政府に滅茶苦茶にされた歴史が、今も続いていることはご存知の通りです。それぞれに背負ったまま、和江の夫が沖縄に現れることで、血なまぐさい悲劇的なラストを迎えます。

けれどもこの小説には救いがあります。それは、アキラとマサシです。二人の人生にどんな未来が待っているか分からないけれど、この地で育んだ二人の友情があれば乗り越えられるかもしれない。そんな僅かの希望を思わせつつ小説は終わります。

映画にもなった名曲「スタンド・バイ・ミー」に、こんな歌詞があります。「君がそばにいてくれたら、怖いもの なんてない」  歌が聞こえてきた気がしました。

 

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池澤夏樹の「星に降る雪/修道院」(角川書店/古書500円)は、片方は岐阜を、もう片方はクレタ島を舞台にして、この世のものではないものに憑かれた男の物語。と言ってもホラーではありません。

「星に降る雪」は、岐阜にある世界最大の地下ニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデが舞台です。飛騨市神岡町の神岡高山の地下 1000メートルに、素粒子物理研究のための観測装置が設置されています。直径 39m、高さ42mの円筒形タンクに 5万トンの純水を蓄え、壁には直径約50cmの 光電増倍管1万数千本を設置して、宇宙から飛来する素粒子を観測しています。(写真右)

「地下に潜るのは、余計なものを見ないためだ。眼は遠い星からのニュートリノを見る。そのために巨大なタンクに五万トンの水を湛えて、その水を無数の眼が見つめている。ニュートリノしか入れない深い地下に潜る。この微粒子にとっては千メートルの岩盤も直径一万三千キロの地球もないに等しい。すべてをすり抜け、ごくたまに電子や原子核にぶつかって光子に変わる。それを眼は見る。」

池澤は光電増倍管のことを眼と表現しています。

主人公はこの施設に勤務する技術者田村。彼は登山中に親友新庄を雪崩で失くしています。彼の元に、親友の恋人大牧が訪ねてきます。彼女は、当時共に登山していたのですが、雪崩で他のメンバーは助かったのに、何故新庄だけ死なねばならなかったのか、あの時、山で何が起こったのかを田村に問いただします。しかし、彼はおよそ技術者らしくない説明をします。

「星のメッセージって何なの?哲之さんは何を言って死んだの」と問いつめますが、星の彼方からやって来るメッセージを待つなどという答えに、「ぜんぜんわからない」といら立つ彼女の態度はもっともです。地上に生きる時間は、正しい方法で旅立つための準備期間で人はその日を待つだけだという田村の話に、彼女はこう反論します。

「でも、人は旅立ちを待ちはしないのよ。地上でつつましく健全に暮らして、最後に老いて死ぬの。」

真っ当な意見です。地に足をつけて生きてきた彼女には、田村の荒唐無稽とも言える話は信用できません。二人は理解できないまま別れます。ばかばかしい、意味不明という感想を持たれる方があるかもしれませんが、私は信じますね。彼の言う星の彼方にあるものを。

「修道院」はクレタ島を旅行中に、偶然に寄った田舎の町で見つけた修道院を巡る物語です。修道院の墓地の礼拝堂に秘められた悲しい物語を、主人公が宿屋の女主から聞くことになります。

「男が一人ね、村にやってきたんだよ」。どこの誰ともわからない男に、村人は不信感を抱きますが、やがて、彼は廃墟同然になっていた礼拝堂を一人で直し始めます。修道院の院長は、この男が魂に何か重い荷物を背負っていることに気づき、修道院で暮らすことを提案します。しかし、彼の返答は「自分は魂に重い荷物を負っている。その荷が僅かでも軽減できるまではお仲間には入れてもらえない。」でした。

何も語らない男が、たった一人で修道院を直すのか、その理由を読者が追体験してゆきます。上手い!としか言いようのない展開に、早く、早くとページをめくりたくなる気分でした。そして読者は正体不明の男が抱える宗教的な無限地獄を直視することになります。けれども、作者はここで終らせません。男も、彼の人生を読んだ私たちの魂も解放させてくれるようになエンディングを用意しています。いい気分で本を閉じました。

 

 

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鹿島田真希が芥川賞を受賞した「冥途めぐり」(河出書房新社/古書700円)は、発作で脳に障害が出来て車椅子生活を余儀無くされた夫と、妻が一泊の旅に出る物語です。こういうシチュエーションって、辛い生活の話がいっぱい登場しそうなのですが、これは違います。

主人公奈津子の家は、かつては栄華を極めた一族でした。高級リゾートホテルに一家で出かけ、高級なドレスを身に纏い、ダンスを楽しむ、そんな生活でした。母親はかつての栄光を忘れられず、弟も贅沢三昧の日々を再びと願っています。昔利用していた高級ホテルが、超格安で泊れることを知った彼女は、そのホテルへ夫の太一と共に向かいます。

「母親は父親が亡くなった時から奈津子が連れてくる男に期待していたのだろう。弟もそうなのだ。母親と弟は太一からすべべてをせしめてしまうだろう。金だけではない。誇りも。全て。太一は全てを失うだろう。彼女たちは自分たちはなにもしなくても与えられる側の人間だと思っている。なんの根拠もなくそう思っているのだ。母親にとって、男というのは搾取の対象でしかないのだから。母は、女であるというだけで、男に対してそういう態度をとってもいいと思っている。」

奈津子は、母親への憎しみと哀れみの渦の中にいます。そんな時、訪れた元高級ホテルは落ちぶれていました。大ホールには、美しい調度品やら家具は何もない有様。太一が「ここ、なにもないね」と奈津子へ言い放ちます。

「そう、このサロンにはなにもない。見事になにもないのだ。あるのは喪失だけだ。母親が持っていたあらゆる快楽の喪失。」

裕福だった祖父が亡くなり、父が原因不明の病でこの世を去ったあたりから、一家は貧困に蝕まれていきます。しかし、母親と弟は現実を直視することなく、心が停止したまま、栄華の再来だけを望んで生きています。

「もうとっくに、希望も未来もないのに、そのことに気づかない人たちと長い時間過ごす」その辛さを奈津子は知っています。突然怒り狂う母親、借金してもなお高価な食事と酒にのめり込む弟。私はここから逃げ出せない……..。

しかし、車椅子に乗って海を観たり、温泉に入れてもらって楽しむ太一を見ていてふと思う。彼が奈津子の母から受けた仕打ちや、突然襲った病や、その後の生活について、何も語らないのは何故かと。彼は何も考えていないのでは?

「晴の日は服を脱ぎ、雨の日は傘を差す。きっとその程度にしか考えていないのだ。季節が変われば『今日は、いつもよりあったかいや』と呟いたりして。あらゆる猛威を前にして身をさらし、束の間の休息をとる。そうやって生きてきたのだ。普通なら考える。もうたくさんだ、うんざりだ。この不公平とは、と。だけど太一は考えない。太一の世界の中に、不公平があるのは当たり前で、太一の世界は、不公平を呑み込んでしまう。たとえそれがまずかろうが毒であろうが。」

放漫と浪費の悪魔に蝕まれそうだった奈津子の魂は、一人の男の発作でリセットされたのではないのか?もし彼が倒れなかったら、すべて食いつぶされたかもしれない。 太一の発作は、奈津子の人生の発作だったのかもしれない。そう確信した奈津子が、新しい車椅子に乗って買い物にゆく太一を見送るところで物語は終ります。

太一は救世主のような人だった。奈津子が家族の呪縛から抜け出 すことができたことを臭わすラストが印象的です。人によっては、この終わりは甘いと感じる方もおられるでしょう。でも、私はこういう物語の作り方は好きですね。

 

 

 

「70パーセントの青空」は、1988年秋から1989年春にかけて、「月刊カドカワ」に連載されたものに加筆修正した安西水丸の長編小説デビュー作です。

「一九六四年十月、東京は第十八回オリンピックでわきたっていた。昨日、マラソンで、エチオピアのアベベ・ビキラが優勝した。」

主人公は美大を卒業して、大手広告代理店の下請け会社に入社した若い男です。彼が広告代理業界で、様々な人達と出会い変化してゆく姿を追いかけていきます。ここには等身大の著者がいます。物語では、主人公は二人の女性と出会います。割烹で働く古風なヤエ子と、同じ広告代理店で働く現代的な文里です。9ページにヤエ子の、68ページに文里のイラストが挿入されていますが、その絵が二人の女性の内面まで語っています。

「時雨がいった。プラタナスの色づいた紀尾井坂を上がり、上智大学の土手に出た。土手下のグラウンドの土が雨でコーヒー色になっている。身体が冷えて感じたのは雨に濡れたせいではなかった。時雨のいったあと、つめたい風が吹きはじめた。」

都会小説には、なくてはならない上手い情景描写です。かといって、ただスケッチとおざなりの恋愛事件だけで作り上げられた小説ではありません。苦々しい青春の一時を切り取った物語です。

「ぼくは射精した。ヤエ子の腰あたりから、精液は内股をつたって流れた。ぼくはヤエ子の背にかぶさるようにして立っていた。吐く息で、ヤエ子のうなじのほつれ毛がゆれた。」

生々しい性描写を交えながら、空虚さに引きずられる日々が続いていきます。小さな広告代理店に入社したはずが、親会社に出向することになり、実力派のデザイナーたちに揉まれながら、彼は日に日に実績を積み上げていきます。輝ける日々の始まりのはずなんですが、満たされないまま、きらびやかな広告業界の中で立往生してしまいます。

そして、「どこか知らない国に、自分の若い日の時間が持ちたい」という思いに目覚め、会社を辞め、ニューヨークに向かうことを決心します。ラストは新天地に向かう飛行機の中です。

「空は青かった。さわやかな秋の午後の青空だった。この青は、100%の青ではないな。ぼくの仕事の時に使うカラー・チャートをおもった。何パーセントの青だろう。しばらく考えた。

70パーセントの青だと思った。70パーセントの青空。それは完全な青になにかが不足している。今までの自分にそれを重ねた。70パーセントの青空。それはぼく自身だったかもしれない。」

安西自身の青春の記録はこうして幕を閉じます。(2300円/古書・絶版・初版・帯付き)眩しい青空が心に残るエンディングです。

 

 

 

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。ご予約受付中(1500円)

第154回芥川賞を受賞した滝口悠生「死んでいない者」(文藝春秋/古書700円)を読みました。1982年、埼玉生まれの著者は、2011年「楽器」で新潮新人賞、14年「寝相」で野間文芸新人賞候補、15年「愛と人生」で野間文芸新人賞を受賞。そして同年、「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」で153回芥川賞候補となり、翌年、今回紹介する作品で受賞と、文壇を駆け上がっている作家です。

物語は、通夜の一晩だけを描いています。ある男が大往生を遂げ、その通夜に、子ども、孫、ひ孫たち総勢30数名という親類たちが集まってきます。そこで、それぞれの故人への思い、自分の生きてきた道を振り返ります。複数の親族の視点で描いていくので、家族関係が交錯し、家系図を書いて読まないと関係がわからなくなりそうです。シリアスな場に違いなのですが、全体に肩の力が抜けた感じで進行してゆきます。独特の文体です。

「人は誰でも死ぬのだから自分もいつか死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているように思えるのだ。」

不幸な最期を迎えた人の場合はこうはいきませんが、大往生した人の通夜の席ってこんな感じかもしれません。適当にお酒を飲んだり、グタグタと話したりしながら時間が過ぎてゆく非日常的な世界を、まるでカメラが通夜の席にお邪魔して撮影しているような感じです。

 この本に出てくる光景や人達の心情は、年令を重ねると誰でも経験したことがあると思います。読んでいると、あった、あったというシーンが登場します。通夜の一晩を切り取った小説なんて珍しいのですが、おそらく共感しやすいテーマです。「死んでいない者」たちが、「死んだ者」を前にして、生をみつめる様を描いた作品とも呼べます。
「大人だって、死ぬとはどういうことかなのかなどわからない。単に、わからないでいることに慣れたか、諦めたか、混乱しないでいられるだけだ。実際、父がもう長くはない、と知った時から、吉美たちはその死に慣れはじめていたように思う。自分の死についてだって、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいていっている、あるいは近づかれている。まぁ、諦めるしかない話ではあるが、そんな達観はあまり意味のない言わば人生の休日の思考であり、生きるとは結局その渦中にあることの連続なのだ」
表紙の絵は、洋画家猪熊弦一郎の「顔」という作品を使っています。小説に登場する親戚たちの顔のようにも思えてきます。上手い装幀です。