目取真俊(めどるま・しゅん)の「風音」(リトル・モア/古書700円)は、沖縄出身の作家だからこそ書ける色彩感覚で、沖縄県の過去の歴史を知っている作家にしか書けない力作です。彼は1997年、「水滴」で芥川賞を獲得しています。

海岸の崖に人の手で積み上げられた石の壁があり、その壁の奥にあるもう一つ空間。そこには、銃弾が貫通して穴のあいた白い頭蓋骨が置かれています。その穴を風が通り抜ける時、不思議な音が発生します。

「音が泣いているように聞こえるだろう。だから泣き御頭というんだ。」

この頭蓋骨をめぐって、物語は始まります。暴力を振るうだけの夫を東京に残し、故郷に戻ってきた和江と息子のマサシ、和江の母マカト。沖縄戦の戦火をかいくぐって生き延びた清吉と、孫のアキラ。沖縄戦の特攻で死んだかつての恋人の骨を探しもとめて、毎年東京から来る藤野。彼らの人生が徐々に、徐々に語られていきます。

「泣き御頭といってもですね、いつも泣いているわけではないんですよ。海から吹いてくる風がですね。こう、何かの拍子であの骨の中を通り抜けたときに、音が鳴るんです」と、現地を案内する男が藤野に説明します。

登場する男たち、女たちはそれぞれに悲しく、辛い過去を背負っています。戦後生まれの和江にとって、故郷は「村には楽しい記憶よりも、つらく、苛立たしく、いつも誰かの視線に脅かされているような記憶が推積していた。」場所でしかありませんでした。だからこそ、東京へ逃げた。この人ならと思って所帯を持ち、息子を育てたが暴力をふるう男であることが分かり、故郷に戻ってきたのです。

清吉は、アメリカ軍の艦砲射撃の中を這いずり回りなんとか生き延びたが、戦後の沖縄返還と同時に本土企業による乱開発、土地搾取で海が荒廃し、漁師として生き残れず、やむなく建築現場で働かざるを得ない日々を送ります。

「自分のやっている工事が、雨が振るたびに海を駄目にしていくことが分かっていても、その矛盾から抜け出すことができない。そのことに悩んで追い込んでしまい、酒浸りにな男たちもいた。」

そんな一人が清吉でした。ヤマトンチュウ政府に滅茶苦茶にされた歴史が、今も続いていることはご存知の通りです。それぞれに背負ったまま、和江の夫が沖縄に現れることで、血なまぐさい悲劇的なラストを迎えます。

けれどもこの小説には救いがあります。それは、アキラとマサシです。二人の人生にどんな未来が待っているか分からないけれど、この地で育んだ二人の友情があれば乗り越えられるかもしれない。そんな僅かの希望を思わせつつ小説は終わります。

映画にもなった名曲「スタンド・バイ・ミー」に、こんな歌詞があります。「君がそばにいてくれたら、怖いもの なんてない」  歌が聞こえてきた気がしました。

 

★年内は12月30日(日)まで営業いたします。年始は1月8日(火)より通常営業いたします。

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。ご予約受付中(1500円)

 

 

 

 

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池澤夏樹の「星に降る雪/修道院」(角川書店/古書500円)は、片方は岐阜を、もう片方はクレタ島を舞台にして、この世のものではないものに憑かれた男の物語。と言ってもホラーではありません。

「星に降る雪」は、岐阜にある世界最大の地下ニュートリノ観測装置スーパーカミオカンデが舞台です。飛騨市神岡町の神岡高山の地下 1000メートルに、素粒子物理研究のための観測装置が設置されています。直径 39m、高さ42mの円筒形タンクに 5万トンの純水を蓄え、壁には直径約50cmの 光電増倍管1万数千本を設置して、宇宙から飛来する素粒子を観測しています。(写真右)

「地下に潜るのは、余計なものを見ないためだ。眼は遠い星からのニュートリノを見る。そのために巨大なタンクに五万トンの水を湛えて、その水を無数の眼が見つめている。ニュートリノしか入れない深い地下に潜る。この微粒子にとっては千メートルの岩盤も直径一万三千キロの地球もないに等しい。すべてをすり抜け、ごくたまに電子や原子核にぶつかって光子に変わる。それを眼は見る。」

池澤は光電増倍管のことを眼と表現しています。

主人公はこの施設に勤務する技術者田村。彼は登山中に親友新庄を雪崩で失くしています。彼の元に、親友の恋人大牧が訪ねてきます。彼女は、当時共に登山していたのですが、雪崩で他のメンバーは助かったのに、何故新庄だけ死なねばならなかったのか、あの時、山で何が起こったのかを田村に問いただします。しかし、彼はおよそ技術者らしくない説明をします。

「星のメッセージって何なの?哲之さんは何を言って死んだの」と問いつめますが、星の彼方からやって来るメッセージを待つなどという答えに、「ぜんぜんわからない」といら立つ彼女の態度はもっともです。地上に生きる時間は、正しい方法で旅立つための準備期間で人はその日を待つだけだという田村の話に、彼女はこう反論します。

「でも、人は旅立ちを待ちはしないのよ。地上でつつましく健全に暮らして、最後に老いて死ぬの。」

真っ当な意見です。地に足をつけて生きてきた彼女には、田村の荒唐無稽とも言える話は信用できません。二人は理解できないまま別れます。ばかばかしい、意味不明という感想を持たれる方があるかもしれませんが、私は信じますね。彼の言う星の彼方にあるものを。

「修道院」はクレタ島を旅行中に、偶然に寄った田舎の町で見つけた修道院を巡る物語です。修道院の墓地の礼拝堂に秘められた悲しい物語を、主人公が宿屋の女主から聞くことになります。

「男が一人ね、村にやってきたんだよ」。どこの誰ともわからない男に、村人は不信感を抱きますが、やがて、彼は廃墟同然になっていた礼拝堂を一人で直し始めます。修道院の院長は、この男が魂に何か重い荷物を背負っていることに気づき、修道院で暮らすことを提案します。しかし、彼の返答は「自分は魂に重い荷物を負っている。その荷が僅かでも軽減できるまではお仲間には入れてもらえない。」でした。

何も語らない男が、たった一人で修道院を直すのか、その理由を読者が追体験してゆきます。上手い!としか言いようのない展開に、早く、早くとページをめくりたくなる気分でした。そして読者は正体不明の男が抱える宗教的な無限地獄を直視することになります。けれども、作者はここで終らせません。男も、彼の人生を読んだ私たちの魂も解放させてくれるようになエンディングを用意しています。いい気分で本を閉じました。

 

 

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鹿島田真希が芥川賞を受賞した「冥途めぐり」(河出書房新社/古書700円)は、発作で脳に障害が出来て車椅子生活を余儀無くされた夫と、妻が一泊の旅に出る物語です。こういうシチュエーションって、辛い生活の話がいっぱい登場しそうなのですが、これは違います。

主人公奈津子の家は、かつては栄華を極めた一族でした。高級リゾートホテルに一家で出かけ、高級なドレスを身に纏い、ダンスを楽しむ、そんな生活でした。母親はかつての栄光を忘れられず、弟も贅沢三昧の日々を再びと願っています。昔利用していた高級ホテルが、超格安で泊れることを知った彼女は、そのホテルへ夫の太一と共に向かいます。

「母親は父親が亡くなった時から奈津子が連れてくる男に期待していたのだろう。弟もそうなのだ。母親と弟は太一からすべべてをせしめてしまうだろう。金だけではない。誇りも。全て。太一は全てを失うだろう。彼女たちは自分たちはなにもしなくても与えられる側の人間だと思っている。なんの根拠もなくそう思っているのだ。母親にとって、男というのは搾取の対象でしかないのだから。母は、女であるというだけで、男に対してそういう態度をとってもいいと思っている。」

奈津子は、母親への憎しみと哀れみの渦の中にいます。そんな時、訪れた元高級ホテルは落ちぶれていました。大ホールには、美しい調度品やら家具は何もない有様。太一が「ここ、なにもないね」と奈津子へ言い放ちます。

「そう、このサロンにはなにもない。見事になにもないのだ。あるのは喪失だけだ。母親が持っていたあらゆる快楽の喪失。」

裕福だった祖父が亡くなり、父が原因不明の病でこの世を去ったあたりから、一家は貧困に蝕まれていきます。しかし、母親と弟は現実を直視することなく、心が停止したまま、栄華の再来だけを望んで生きています。

「もうとっくに、希望も未来もないのに、そのことに気づかない人たちと長い時間過ごす」その辛さを奈津子は知っています。突然怒り狂う母親、借金してもなお高価な食事と酒にのめり込む弟。私はここから逃げ出せない……..。

しかし、車椅子に乗って海を観たり、温泉に入れてもらって楽しむ太一を見ていてふと思う。彼が奈津子の母から受けた仕打ちや、突然襲った病や、その後の生活について、何も語らないのは何故かと。彼は何も考えていないのでは?

「晴の日は服を脱ぎ、雨の日は傘を差す。きっとその程度にしか考えていないのだ。季節が変われば『今日は、いつもよりあったかいや』と呟いたりして。あらゆる猛威を前にして身をさらし、束の間の休息をとる。そうやって生きてきたのだ。普通なら考える。もうたくさんだ、うんざりだ。この不公平とは、と。だけど太一は考えない。太一の世界の中に、不公平があるのは当たり前で、太一の世界は、不公平を呑み込んでしまう。たとえそれがまずかろうが毒であろうが。」

放漫と浪費の悪魔に蝕まれそうだった奈津子の魂は、一人の男の発作でリセットされたのではないのか?もし彼が倒れなかったら、すべて食いつぶされたかもしれない。 太一の発作は、奈津子の人生の発作だったのかもしれない。そう確信した奈津子が、新しい車椅子に乗って買い物にゆく太一を見送るところで物語は終ります。

太一は救世主のような人だった。奈津子が家族の呪縛から抜け出 すことができたことを臭わすラストが印象的です。人によっては、この終わりは甘いと感じる方もおられるでしょう。でも、私はこういう物語の作り方は好きですね。

 

 

 

「70パーセントの青空」は、1988年秋から1989年春にかけて、「月刊カドカワ」に連載されたものに加筆修正した安西水丸の長編小説デビュー作です。

「一九六四年十月、東京は第十八回オリンピックでわきたっていた。昨日、マラソンで、エチオピアのアベベ・ビキラが優勝した。」

主人公は美大を卒業して、大手広告代理店の下請け会社に入社した若い男です。彼が広告代理業界で、様々な人達と出会い変化してゆく姿を追いかけていきます。ここには等身大の著者がいます。物語では、主人公は二人の女性と出会います。割烹で働く古風なヤエ子と、同じ広告代理店で働く現代的な文里です。9ページにヤエ子の、68ページに文里のイラストが挿入されていますが、その絵が二人の女性の内面まで語っています。

「時雨がいった。プラタナスの色づいた紀尾井坂を上がり、上智大学の土手に出た。土手下のグラウンドの土が雨でコーヒー色になっている。身体が冷えて感じたのは雨に濡れたせいではなかった。時雨のいったあと、つめたい風が吹きはじめた。」

都会小説には、なくてはならない上手い情景描写です。かといって、ただスケッチとおざなりの恋愛事件だけで作り上げられた小説ではありません。苦々しい青春の一時を切り取った物語です。

「ぼくは射精した。ヤエ子の腰あたりから、精液は内股をつたって流れた。ぼくはヤエ子の背にかぶさるようにして立っていた。吐く息で、ヤエ子のうなじのほつれ毛がゆれた。」

生々しい性描写を交えながら、空虚さに引きずられる日々が続いていきます。小さな広告代理店に入社したはずが、親会社に出向することになり、実力派のデザイナーたちに揉まれながら、彼は日に日に実績を積み上げていきます。輝ける日々の始まりのはずなんですが、満たされないまま、きらびやかな広告業界の中で立往生してしまいます。

そして、「どこか知らない国に、自分の若い日の時間が持ちたい」という思いに目覚め、会社を辞め、ニューヨークに向かうことを決心します。ラストは新天地に向かう飛行機の中です。

「空は青かった。さわやかな秋の午後の青空だった。この青は、100%の青ではないな。ぼくの仕事の時に使うカラー・チャートをおもった。何パーセントの青だろう。しばらく考えた。

70パーセントの青だと思った。70パーセントの青空。それは完全な青になにかが不足している。今までの自分にそれを重ねた。70パーセントの青空。それはぼく自身だったかもしれない。」

安西自身の青春の記録はこうして幕を閉じます。(2300円/古書・絶版・初版・帯付き)眩しい青空が心に残るエンディングです。

 

 

 

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。ご予約受付中(1500円)

第154回芥川賞を受賞した滝口悠生「死んでいない者」(文藝春秋/古書700円)を読みました。1982年、埼玉生まれの著者は、2011年「楽器」で新潮新人賞、14年「寝相」で野間文芸新人賞候補、15年「愛と人生」で野間文芸新人賞を受賞。そして同年、「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」で153回芥川賞候補となり、翌年、今回紹介する作品で受賞と、文壇を駆け上がっている作家です。

物語は、通夜の一晩だけを描いています。ある男が大往生を遂げ、その通夜に、子ども、孫、ひ孫たち総勢30数名という親類たちが集まってきます。そこで、それぞれの故人への思い、自分の生きてきた道を振り返ります。複数の親族の視点で描いていくので、家族関係が交錯し、家系図を書いて読まないと関係がわからなくなりそうです。シリアスな場に違いなのですが、全体に肩の力が抜けた感じで進行してゆきます。独特の文体です。

「人は誰でも死ぬのだから自分もいつか死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているように思えるのだ。」

不幸な最期を迎えた人の場合はこうはいきませんが、大往生した人の通夜の席ってこんな感じかもしれません。適当にお酒を飲んだり、グタグタと話したりしながら時間が過ぎてゆく非日常的な世界を、まるでカメラが通夜の席にお邪魔して撮影しているような感じです。

 この本に出てくる光景や人達の心情は、年令を重ねると誰でも経験したことがあると思います。読んでいると、あった、あったというシーンが登場します。通夜の一晩を切り取った小説なんて珍しいのですが、おそらく共感しやすいテーマです。「死んでいない者」たちが、「死んだ者」を前にして、生をみつめる様を描いた作品とも呼べます。
「大人だって、死ぬとはどういうことかなのかなどわからない。単に、わからないでいることに慣れたか、諦めたか、混乱しないでいられるだけだ。実際、父がもう長くはない、と知った時から、吉美たちはその死に慣れはじめていたように思う。自分の死についてだって、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいていっている、あるいは近づかれている。まぁ、諦めるしかない話ではあるが、そんな達観はあまり意味のない言わば人生の休日の思考であり、生きるとは結局その渦中にあることの連続なのだ」
表紙の絵は、洋画家猪熊弦一郎の「顔」という作品を使っています。小説に登場する親戚たちの顔のようにも思えてきます。上手い装幀です。

 京都大学文学部卒業、京都在住の谷崎由依の新作「鏡のなかのアジア」(集英社/古書1200円)は手強い作品です。前作「囚われの島」(河出書房/古書1300円)が、書店員から圧倒的支持を受けた長編でした。まだ読んでいませんが。

さて、今作「鏡のなかのアジア」は、チベット、台湾、京都(多分京大)、インド、マレーシアを舞台にした独立短編です。翻訳家の柴田元幸が「物語は自在に時空を移動しつづけ、ホラ話めいたさまざまなイメージはいつしか、圧倒的な美しさを獲得する」と帯に推薦文を寄せています。

「馬のようにしたたかな蹄を持ち、どこまでも駆けてゆくことのできる、墨色をした文字たちは、風の強いときにいっせいに、五色の旗から抜け出していく。」なんて、文章が突然飛び出してきます。文字が抜け出して、空を覆う???

京都編では、主人公の女子大生が「どんなに餅を求めていても、餅の感触に焦がれていても、パンを捨てて餅とともに生きる日々には戻れない。ほんとうに食べたいのはパンではなく餅であるとしても。我々のなかにあるのはただ原風景としての餅、もののイデアのごときものであり、それは疾うに失われている。」うん?「原風景としての餅」って何だ、餅はモチやろ!!などと怒ってはいけません。

ここはいったいどこなのか。時代は現代なのか過去なのか?読み手は狐につままれたような気分になります。その言葉、掴まえた!と思った瞬間、それは、スルリと逃げてしまい、宙ぶらりんの状態に置き去りにされます。日本語の文章の中に、アトランダムにアルファベットに変換された地名や擬音語が耳に残り、文字は音となり、舞台となったアジアの地に溶け込んでいきます。

読者の戸惑いをよそに、物語の空間は捻れ、混沌としていきます。でたらめか、はたまた真実か?読者を幻想空間に陥れる企みが、方々に仕掛けられています。わけのわからん世界に、いつのまにかがんじがらめにされてゆく危ない小説でもあります。

「音が空間をかたちづくる。音が空間をひらいて、その場所は音によってどこまでもひらかれてゆく。私の身体の、私の腕と腋のあいだのほんのわずかな隙間のなかに、無数の音が混在していて耳をすませばすますほどに、それは幾らにも増えていくのだ。私の身体はひろがってゆく。私の身体のあらゆる場所が音に満たされ、ひらいてゆく」

この小説が持っている硬質な幻想力は、読む者をここではないどこかに連れ出す熱量を持っています。ふと気づいて、私は何を読んでいるのか?と自問自答するかもしれません。万人にお薦めは出来ませんが、作家のくり出す言葉に挑戦し、絡み合う文章の謎を解き明かしてみたいと思わる方は、ぜひ。最後まで、なげたらあきまへんで!

 

 

 

岩城保子の「世間知らず」(集英社/古書950円)を読みました。主人公は、画家志望の女性です。自立を目指しながらも、職業を点々としてほぼ無職状態。アルコール依存症に陥り、あげくに同性愛者の男性、夏樹の家に転がり込み、食べさせてもらっている毎日。再婚した父と、新しい母との間にできた双子の姉妹とは顔を合わせれば喧嘩ばかりで、さらに酒にのめり込む日々を、この女性の語りで描いた物語です。

どんどんページを捲っていきました。主人公は友人に誘われて、飢えた子どもたちを支援する慈善事業に参加します。しかし、この時の彼女の思いはこうです。

「飢えた彼らの痩せ衰えた臓器に切なさを感じたからではなく、酒やタバコや不満で擦り切れた自分自身の臓器が、彼らのそれと同じに不憫だと感じたための自己憐憫のせいだったのだろう。彼らへの救済は自分自身の救済。それだけのことだ。」

彼女は、この会への参加を通して、自分をリセットするなんて気持ちは全くありませんでした。そして、ここに参加する女性たちを「掃除や洗濯や育児に追い回される日常の中での、ささやかな気晴らしを求める欲がふんだんに含まれていたに違いなかった。」と決めつけます。

深酒の日々が延々続きます。あるクリスマスの日、彼女は父親に呼び出されます。父は真っ当で安定した生活を娘に望むのですが、彼女は「健康で長生き。それだけが人生の目的であるような男が、かつては妻を見捨て、別の女の腹に双子を身ごもらせるという一端の冒険をしてみせたなんて、咎めるより、むしろ褒めてやるべきなのかもしれない。」と軽蔑の念をあらわにします。

席を立ち、外へ飛び出した彼女を父親が追いかけます。逃げる彼女。父は突っ込んできた車にぶつかり死亡。しかし、彼女は現場を去ります。そして思うのは、「血の喪失。私はもしかしたら、この日が来るのを心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。父親がいる限りは、私は自分がこの世に存在する理由を父親の存在を通してあれやこれやと理屈づける煩わしさに捕われ続ける。」ということです。不道徳なのか、酔っぱらっているのか…….。

酒に痛めつけられた臓器は悲鳴を上げ、腹痛がおき、トイレにかけ込みます。「クリスマスに下痢に苛まれていることを、世間で不幸というのだろう。そう、不幸な人生なのです。」

こんな女性の物語がハッピーエンドで幕が下りるわけがありません。しかし、単純な結末を用意していないところが見事であり、また恐ろしくもあります。本作が第21回のすばる文学賞を受賞した時、選考委員の作家三木卓は「わたしは何よりも語り手であるヒロインの気持ちが身にしみた。それは作者が素直な気持ちでひたすら綴っているからで、素直ということは強いということである」と書いています。

白々しい作為や、過剰な物語性を求めずに書ききった作者の強さに脱帽です。へらへらしたハッピーエンディングのドラマに食傷気味の方には、超お薦めです。

 

★釧路ヒッコリーハウスオーナー安藤誠の「ネイチャートーク」が決定しました。

10月27日(土)19時スタートです。参加費は2000円です(要予約

 

上村亮平が、すばる文学賞を受賞した「みずうみのほうへ」(集英社/古書650円)は、いわゆる純文学純度の高い作品です。帯に江國香織が「完成度が高く、作品世界に手ざわりがある。」と書いています。

「ぼく」の七歳の誕生日、父と一緒に乗った船上で父が忽然と消えます。「ぼく」が、たった一人船に残されるところから物語はスタートします。この小説は、登場人物に名前がありません。唯一名前で登場するのはサイモンですが、彼は、船の甲板で父と遊んだゲームに出てきた男の名前です。伯父に引き取られた「ぼく」は大人になり、ゲームに出てきたサイモンと同じ名前の男に出会います。

ぼくが大きくなるにつれて、同級生の女子やら、憧れの女性が登場してきますが、すべて彼女、もしくは女の子という表現です。だから、どれがどの女性なのか判別できず、さらに時制が、過去と現在を行きつ戻りつするので、迷路の中で立ち往生してしまいそうでした。もちろん、舞台設定に具体的地名がありません。おそらく東ヨーロッパの港町とか、アイスホッケーを見に行くシーンが登場するのでカナダのどこか、或は北海道の漁港……..。とにかく具体的な名称は、消されています。こういう小説って、ちょっとなぁ〜と思われる方もおられるかもしれません。でも、こんな文章を読んでみて下さい。

「空には白い月がでていた。くっきりと夜を切り抜いたような月だ。染み出した冷たい光が空をのみこんでいる。灰色のあばたもよく見える。月が夜気を放射しているのを見ていると喉の奥を寒気が滑り落ちた。空気が薄くなり、時間もすうっと潮のようにひいてゆく。」

静寂に満ちて、冷たさと鋭さが見え隠れする文体で進行します。ダラダラ読んでいると、足下をすくわれてしまいそうです。最後まで登場するサイモンという男の、不気味さと優しさに戸惑いながらも、私はこの本から離れられませんでした。どこへ連れていかれるんだろう、その不安が楽しみな一冊でした。

「月は完全に満ち、ひとつの世界が閉じた音をぼくは聞く。ベンチにうずくまったまま、じっとしている。次から次へと、魚の亡骸が、にぶい地鳴りのような音をたてながら目の前に積もっていく。腕を親指ほどの肉片が芋虫のように這っている」などというおぞましい文章も、そこだけ突出しているわけではなく、この不思議な物語の一部を構成しているのです。月が妖しく光り、ぼくの前に度々現れる湖の静かさが強く残る物語です。

著者は1978年大阪生まれで、関西大学を卒業。神戸在住。是非、関西弁で不可思議な物語を紡いで欲しいものです。

 

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売上げはARKに寄付いたします。よろしくお願いします。(写真展は23日までですが、カレンダーは在庫が無くなるまで販売します)

カレンダーの犬や猫たちついては、撮影者の児玉さんのブログにも書かれています。

 

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辻原登を読み始めたのは、ちくま文庫から出ている彼の読書体験を綴った「熊野でプルーストを読む」(古書500円)の後書きを読んだからです。ここで、映画好きの著者は、編集者から古いアメリカ映画で「男の旅立ち」という西部劇を知ってますか、ときかれます。知らなかった著者は早速ビデオを求めて鑑賞します。

「胸がひりつくように痛くなると同時に、強烈な浄化のある映画だ。」

私が予備校通いをしていた頃のこと。大学もどうでもいいやと、だれ気味の時にフラリと入った映画館で上映していた映画が「男の旅立ち」でした。カウボーイに憧れる少年が自分のアイデンティティーを探し出す地味な作品でしたが、辻原と同じような感想を持ったことを思い出しました。これは、彼の小説を読まねば…..

「枯葉の中の青い炎」(新潮社/900円)は、いい意味で奇妙な後味を残す短篇集です。一ヶ月だけ愛人と同棲したいという夫の望みを承諾して、淡々と自分の生活を続ける妻の行動を描いた「ちょっと歪んだわたしのブローチ」。昭和54年、大阪市内の銀行で起きた三菱銀行猟銃強盗人質事件を題材にした「日付のある物語」。中学時代、野球王と言われた少年のその後を描く「野球王」。戦前、戦後のプロ野球界で活躍した白系ロシア人、スタルヒンのピンチを救う為に、南洋の呪術を使った男を描く「枯葉の中の青い話」等々、舞台も時代もてんでばらばらな作品が並んでいます。

どの物語も、読む者をどこに連れてゆくのか皆目わからない不思議さがあります。「野球王」などは、主人公はなかなか登場しません。「ナバコフの短編で好きなものをひとつといわれれば『マドモワゼルO』を挙げるだろう。」という文章で始まり、ナバコフ家にあった家庭用エレベーターの話へ飛んでいき、はてはO・ヘンリーが登場してきます。しかし、物語は、野球に天才的能力を持ちながら、不幸な生き方しかできなかった男への哀切を込めて終ります。

「枯葉の中の青い話」はファンタジーと言えばそうなのですが、スタルヒンの実人生をノンフィクション風に追いかけながら彼に深く関わる南洋育ちの相沢という男との交流が描き出されます。野球ものノンフィクションの味わいが濃厚な物語は、ラスト、急転直下ファンタジーに変身します。

これもまた小説の面白さか、作者に引っ張られて遠くへやってきて、そこに一人取り残された気分とでも言えばいいのでしょうか? 次はどこへ連れて行ってくれるのやら、楽しみです。

 

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宮城県出身の小説家、木村紅美の「夜の隅のアトリエ」(文藝春秋/古書1150円)を読みました。2006年「風化する女」で文学界新人賞を受賞し、08年「月食の日」で芥川賞候補になり、本作で野間文芸新人賞候補に選ばれて、順調に小説家としての道を歩んでいます。彼女の小説はこれが初めてですが、ハマりました。

東京で美容師をしていた主人公、田辺真理子が「自分の素性もわからなくしたい。仕事も名前も変えて、つきあいのあるすべての人のまえから、突然、予告なしに消える」ことを実行し、年の暮れに東京から半日かけある町に辿り着きます。そこは、「猛吹雪に支配されていた。薄黒色の空から、意思を持っていそうな雪が、たえまなく、降る、というよりも渦を巻きながら、巨大なバケツをひっくり返されたみたいに襲いかかってくる」ような、まるで世界から孤立したような所です。

この町で、彼女は殆ど客のいない散髪屋の二階に下宿し、誘われるままに場末のラブホテルの受付を始めます。生きる希望とか、人生の展望などまるでなく、惰眠を貪る生活を続ける真理子。作家は、ひたすら雪に閉じ込められる町を精緻な描写で描いていきます。退屈?いや、全然。息をひそめて暮らす彼女の生活に安らぎさえ感じてくるのです。そんな生活でも、それなりに人間関係が生まれます。それを切っ掛けに彼女が生きる希望を見出す、などというやわな展開にはなりませんので、ご安心を…….。

デッサン教室でヌードモデルのバイトをした縁で、ラブホテルの主人のヌードモデルを始めます。ここで、二人に歪んだ性関係が生まれるような展開にしないところが巧みです。病気で臥せているホテルの主人の妻、老朽化する建物の改装資金もない、そんな場末のホテルにも容赦なく雪は降りかかります。小説の主人公は、雪かもしれません。

誰も見向きもしない町で生きる真理子を見つめて終るのかと思いきや、こんな展開になります

「いまいるここで、東京を離れいくつめの町になるやら、いつからか正確に把握していない。短くてひと月ほどから長くて一年半ごとに、北から南まで、観光地でなくこれといった特徴のない町、産業が衰え過疎化の進んだ町ばかりに引き寄せられ、移り住んでいる。候補地はいたるところにある。五、六年を過ぎた。」

彼女には、「いままでもこれからも、知らない町へと流れ去ってゆくことだけがたしかだ。追われているようなこの暮らしは安住より生きている心地を得られる。」のです。

寂寞たる光景の過疎の町にあって、その寂しさ、孤独を友にするように生きてゆく自由。

「朝が訪れるまえに、自然とそのままに目ざめなくなる日がくることを夢見る。上手くいくだろうか。くちびるがほころぶ。帰る場所はどこにもない」

この簡潔なラスト。私たちが、見知らぬ町に立ち寄った時、そこに真理子が人知れず生きていると思うような幕切です。

 

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カレンダーついては、撮影者の児玉さんのブログにも上がっています。