本年度の林芙美子文学賞を受賞した小暮夕紀子の「タイガー理髪店心中」(朝日新聞出版/古書1200円)には、唸りました。人間の奥の奥に潜む様々な情念を見せつけられました。

主人公は、のどかな田舎町で理髪店を経営する老夫婦です。「駅からだとナビを設定してもらうほどの距離でもなく、かといって目立つものはなんにもない、言いようもなく地味に徹した住宅街だった。」という場所に、タイガー理髪店はあります。80歳を過ぎた寅雄と寧子の老夫婦が、町内のお馴染みさんだけを相手に理髪業を営んでいます。

特別に何も起こらない、ゆっくりした時間が流れる毎日です。しかし、妻に老いが忍び寄ってきます。極端な物忘れ、そして徘徊。実は夫婦には息子がいたのですが、14歳の時不慮の事故で失くしていました。その事実が、妻の心の奥で重石になっていました。夜中に息子が死んだ場所へと飛び出す妻の顔には、夫が見たこともないような殺気と空虚な表情が漂っていました。そして、嵐の夜、飛び出した妻を追って出かけた夫は、倒れている妻を発見します。意識がありません。激しい雨に濡れてゆく身体。このままでは死ぬ。その時、夫の心に去来した気持ちを著者はこんな言葉で表現しています。

「これでお互いの老々介護は終わるのだな、寅雄はぼんやりした頭でそんなことを思った。楽になる。そうだ楽になる。」

でも、著者はそんな楽をさせません。ラスト、ゾッとするシーンで物語は幕を閉じていきます。

この本には、もう一作「残暑のゆくえ」が入っていて、これもいい作品で、こちらで賞が取れたのではないかと思ったぐらいです。

今は、定食屋の女将になっている日出代は、母と一緒に戦火の満州から引き揚げてきた少女時代の暗い歴史があります。夫の須賀夫も、大陸から引き揚げてきた人物ですが、何も語らず、でも妻へのやさしさだけは残しています。物語後半で、満州時代の日出代と母の間にあったこと、そしてやはり大陸で軍務についていた夫がやったことを彼女は知ることになります。ここで語られていることは、おそらく事実に基づいたことでしょう。悲しいというような言葉では表現できない悲惨で重苦しい戦場の出来事です。

けれど、この小説が優れているのは、その事実を知った後の日出代が立ち直ってゆくところです。

「ほらやっぱり、自分のことは自分でこしらえるしかないでしょ」

そんな言葉を口にして、いつもの女将の生活へと戻っていきます。その逞しさ。

「もう……….戦争には、行きとうない。」そんなセリフをふと口に出す須賀夫と共に、残りの人生を生きてゆく彼女の姿が印象的な小説でした。戦争で受けたキズがどれほど深いかを、そこから立ち直ってゆく人の重みを描いた優れた小説です。

この作家、全く知りませんでしたが、これからフォローしていきたいと思います。

 

★2/5(水)〜2/16(日) 恒例となりました女性店主による『冬の古本市』を開催します。今年も神戸・大阪・岐阜・東京・御殿場・京都などの女性店主の選書です。ぜひお立ち寄りください

★古本市準備のため2/3(月)〜4 (火)連休いたします。


 

黒川創の400数ページにわたる長編小説「岩場の上から」(新潮社/古書1300円)は、傑作中の傑作と言っても過言ではありません。

黒川は京都出身。鶴見俊輔に誘われ、「思想の科学」編集委員として評論活動を開始。99年「若冲の目」で小説家デビューしました.。2009年「カモメの日」で読売文学賞受賞と小説家として順調に滑り出しました。伊藤若冲を描いた「若冲の目」と、毎日出版文化賞受賞作品「京都」が、私のお気に入りでしたが本作はそれらを凌駕する小説でした。

時は2045年。北関東にある小さな町「院加」に、核燃料処分場が地下深くに建設されるという噂が流れます。物語はそんな町にふらりとやってきた少年シンと様々な影を抱えて生きる人々の関わりを通して、「戦後100年」の視点で日本の現在の政治的状況と、危機迫る未来を描いていきます。と言っても、これはサスペンス小説でもSFでもありません。確かに、現政府を奥で操っている”総統”と呼ばれる人物が存在したり、「戦争には行きたくない、家に戻りたい」という思いだけで中東へ派兵の決定していた兵士200人が、原子力発電所に籠城するという描写もありますが。

ひたすら戦争へと向かう国を象徴的に前面に押し出しながら、そんな時代をどこにでもある町でどんな風に人が生きてきたか、その日常をリアルに描いていきます。妻を亡くした不動産屋、駆け落ちした男女、ボクサーへの道を断たれ軍隊に入隊した男とその妹、夫が出て行った後、町に残って八百屋を切り盛りする妻などが登場します。さらに、首相官邸への住居侵入罪で服役中のシンの母親が登場してきます。彼らが入れ替わり立ち代り登場し、ほんの少し先の我が国を見せてくれます。

ところで、小説に登場する総統はもともとは我が国の首相でした。その人物のことがこう書かれていました。

「現役首相だったころ、あの人物は、未成熟な印象ばかりが強かった。答弁なんか聞いても、ひたすら機械的、表層的で、相手がどう出てきても、結局『断固やります』か、『いいえ、やるつもりはありません』か、切り口上 で終わってしまう。まちがっても、互いの発言がかみあって、やりとりが成り立つということはない。あれは、たぶん、子どものときからのものだったんだろう。」

これって誰かに似てますね。ということは、こいつが日本を戦争へと導くのかと思うととても近未来のお話とは思えません。

★レティシア書房年始年末のお休み 12月29日(日)〜1月6日(月)

新年は1月7日(火)から通常営業いたします。ギャラリーは「本づくりへの願い 版木とともに」(by法蔵館)です。よろしくお願いいたします。

 

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海外文学の面白いところを取り上げる無料のミニプレス「BOOK MARK」の15号が入りました。特集は「Be  short!」と書かれているように、短編小説の特集です。このセレクション見事です。欧米や非英語圏の文学から、刺激的な短編集が15作品選ばれています。

以前ブログでも書いたピョン・ヘヨン「モンスーン」(白水社/古書1600円)も、取り上げられていました。翻訳した姜信子さんが、「不穏です。9つの短編に、9つの日常から洩れでる、9つの密かな叫びがこだましているんです」と解説していますが、まさにそんな物語が詰まっています。

台湾フェミニズム作家リー・アンの短編集「海峡を渡る幽霊」(白水社/古書1800円)は、以前から在庫していた本です。この作家の長編を読んだ記憶があります。人々を締め付ける土俗的風習や情念を、とある殺人事件を通して描く「夫殺し」。凄まじい暴力を振るう夫も、それを容認する人々も、実は極めて孤独な存在だったという視点で語られていました。緻密な執筆力は、この短編集でも生かされています。本作で全ての物語に貫かれているのが、中国語で「鬼」と呼ばれるお化けです。お化けが象徴するものが何かを探してください。

さて、とても刺激的な海外文学を入荷しました。アティーク・ラヒーミーの「悲しみを聴く石」(白水社/古書1550円)です。植物状態で戦争から戻ってきた夫と彼を看病する妻を描いているのですが、回復の見込みのない夫に向かって、妻は自らの罪深い秘密を語り出します。

「透き通った皮膚の下には、静脈が、ぼろぼろの身体から張り出した骨に、窒息しそうなミミズのように絡まっている。左の手首には自動巻の時計、薬指には金の結婚指輪。右ひじの裏側には、カテーテルの針が刺され、頭上の壁につるされたプラスチック製のバッグから、色のない液体がしたたり落ちている。」

滑り出しから緊張感と、奇妙な静謐感に交互に押し寄せてくる長編です。

著者は、アフガニスタン出身の作家であり、映像作家です。アフガニスタン紛争の最中にフランスに亡命し、映画学を学びドキュメンタリー作品を制作。1999年、故国の現状を描いた小説「灰と土」を発表して、後に自ら映画化もしています。

 

10/6のブログでご紹介した「Ank:a mirroring ape」(講談社文庫500円)の佐藤究が、第62回江戸川乱歩賞を受賞した「QJKJQ」(講談社文庫/古書350円)を読みました。いやぁ〜また驚かされました。悪寒、恐怖、不安といった感情がさざ波のように打ち寄せる小説ですが、読み終わって、誠に感動いたしました。物語の真髄に当たる部分や構成には、それはちょっとなぁ〜というところもあるのですが、読者を引っ張る力たるや、エンタメ小説や純文学といったジャンル関係なく、ダントツでした。

物語は、猟奇殺人一家に生まれた女子高生の亜李亜のお話です。父は血を抜いて殺し、母は撲殺、兄は噛みついて失血させ、亜李亜はナイフで刺し殺すという、皆それぞれの殺人手法を持った一家です。と書くと、スプラッタ映画みたいに血みどろ残虐シーンの連続!と思い、もうそれだけでパスの方もおられるかもしれません。しかし、そんな場面は案外少ないのです、これが。

「犯罪者で、猟奇趣味で、死刑宣告を受けるのにふさわしい。それが現実だ。けれどもこうして家があって、理解ある恐ろしい家族がいて、絶望せずに生きていける。」と亜李亜は平和な(?)毎日に馴染んでいます。

ある日、亜李亜は部屋で兄の惨殺死体を発見します。翌日には、今度は母がいなくなります。亜李亜は疑いの眼を父親に向けます。対立してゆく父娘。ナイフの刃を父親に向けるという方向に、物語が進んでゆくのかと思うと、ここから亜李亜自身が、自分って何?、とアイデンティティーを探して、自分の過去を知るために街に飛び出していきます。そして彼女の成長物語へと転じていきます。

「人殺しとは何ですか。そう訊かかれば、わたしはこう答える。それは現実です。」

私は人殺しだ、それがわたしの現実だ。しかし、彼女がそれが自分だと思っていたものが、残酷なまでに打ち砕かれて、人格崩壊の一歩前までいってしまいます。

「わたしは自分の考えに震えている。それを打ち消そうとする。心の底の凄まじい痛みは、声にならない悲鳴に変わる。頭の中で絶叫する。ふと、スタッグナイフで手首を切ろうかなと思う。自分を保つために、狂気を証明する理性を保つために。」

生半可な自分探しのお話など吹っ飛ぶ、凄まじい現実に読者は付き合わされます。後半になると、フロイトやラカンの書物、脳科学の理論などが登場して、人は何故他者を殺すのかという哲学的命題へと突入していきます。果てしない迷走の末に、亜李亜が知った過去とグロテスクな国家の倫理。

「殺人者の脳というブラックボックスをこじ開ける。その成果は、まさに人類学的な資産だ。つまり、殺人を犯した直後の人間を捕まえて、脳を調べるんだよ。弁護士もなく、人権もない。」

そんな事を国がやるわけないと思っている方、日本陸軍が中国で行なった人体実験のことを思い出していただきたい。国家は平気でやるんですよ。

そして、「それは地獄の足音だ。永遠に沈んだはずの、地獄そのものだ。」で始まる血の修羅場…….。物語は、私の予想を完璧に打ち壊して幕を降ろします。

救いはあるのか?

エピローグで亜李亜の取った行動を知って、私たちは胸をなでおろします。地獄から戻ってきた少女の生還に拍手を。

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1972年ソウル生まれのピョン・ヘヨンの短編集「モンスーン」(白水社/古書1600円)は、どの短編も極めて面白いのですが、深い孤独感、緊張と不安を強いられるので、そういうの苦手だな〜と思われる方は、スルーしてください。

タイトルになっている「モンスーン」は、郊外の団地に住み、関係が冷え切り、会話が全く意味をなさない夫婦のお話です。なぜ、冷え切っているのか。それは二人が別々に外出した時に、亡くなった子供のせいです。夫婦のこれからに幸せは見当たらず、暗澹たる日常が繰り返されてゆく姿を描いた作品です

個人的には、この作品よりも他の作品群にひかれました。

上司から中身のわからない袋を渡されて、辺境の町まで運ぶ二人の会社員の、意味を見出せない移動を描いた「観光バスに乗られますか」。地方に派遣され、担当する業務の内容、意味もわからずに同じ作業をする社員の姿を通して、自分の存在が無のループに陥る「ウサギの墓」。

身重の妻を伴って、都市から地方支社へと移動してきた夫が味わう日常の不条理な争い、理不尽な行動に飛び出す夫を、遠くから見つめるように淡々と描いた「散策」。大学の複写・製本室に務めて、判で押したような、コピーのごとき日々を描いた「同一の食卓」。都心への引越しを決め、先に荷物を送った夫婦と子供の遭遇する過酷な一夜と、いつまでもたどり着けない新居への苛立ちを描く「クリーム色のソファの部屋」。

突然失踪したカンヅメ工場の工場長の、全く人間味のないような人間模様を描く「カンヅメ工場」。花屋を営む男の元へ恩師が死にそうだという電話が入り、花束を持って向かった先で、恩師が死ぬのを延々待ち続ける理不尽な状況に陥る男を枝いた「夜の求愛」。そして、大きな屋敷に住む一家の息子とその友達の関係を、冷たく描いた「少年易老」。得体のしれない世界が、突き刺さってきます。

翻訳を担当した姜信子は「ピョン・ヘヨンの作品はひそかにじんわり恐ろしい。」と書いています。この怖さは、恐怖小説やオカルト映画の恐怖とは全く違います。私たち自身が知っていて、どこにでもある、しかしそこを踏み越えたらもう戻れないという、日常に潜む不条理、延々と続く闇を見せつけられます。

脱出不能なループの罠に取り込まれる小説の面白さが堪能できる作品です。この罠の魅力には抗えない。

 

 

佐藤究の「Ank a mirroring ape」(講談社文庫/古書500円)には、ただただ脱帽致しました。

どんなお話かといえば、2026年京都市内各地で暴動が起き、人種国籍を超えて目の前の他人を誰彼構わず襲い始めます。あぁ〜、よくある架空のウィルスか、テロリストの仕業の類の活劇モノやね、と軽く流したアナタ!痛い目に合いますよ。

違うんです、これが。ウイルスでもなく、汚染物質でもなく、テロでもない。原因は一匹のチンパンジーなのです。はは〜ん、それじゃそいつが黴菌を撒き散らすヤツか…….それも違います。

チンパンジーが発する警戒音が、惨劇の原因なのです。嵐山渡月橋を疾走し、銀閣寺を走り抜け、京都御所に立て籠もるAnkと名付けられたチンパンジー。彼が通り抜けた場所にいた人々は、突然、暴徒と化し、お互いに殺し合いを始めるのです。毎朝、我が家の犬の散歩でお世話になっている御所は、もう血だらけの悲惨な場へと変貌します。

警察小説で人気作家の今野敏が、解説でこう書いています。「『Ank』は、私にとって衝撃だった。どれくらい衝撃だったかというと、読後、小説家を辞めてしまおうかと思ったぐらいだった。」

彼はこの文章の後に、それは冗談ではなく、もう自分の出る幕はないとまで書き記しています。トップクラスの作家にそこまで言わせるぐらい、この小説はスケールも内容も深い作品です。決して、荒唐無稽なだけの小説ではありません。

「自己鏡像認識こそが、われわれの意識を変化させる。鏡を見る自分をさらに見るーこのことによって、これは自分だ、これは自分ではない、という神経のフィードバックが起こる。これが脳を活性化させ、より内省的な意識を生み、抽象的なイメージを描くことを可能にする。イメージは共感を生み、ある対象を別の対象に置き換える比喩を生み、ついには言語を生み出すに至る。」

この認識ができるのは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オラウータン、そして人類だけ。本作のベースにあるのは「自己鏡像認識」です。DNAの塩基配列やら、自己認識やら、類人猿の話がポンポン飛び出してくると、私なんぞ???でしたが、物語の面白さに押されて読み切りました。

主人公は亀岡に巨大な霊長類研究所を設置して、その研究を仕切る鈴木望。彼が見た真実の、恐ろしく、しかも深遠な姿。

「十月二十六日の夜が明けると、京都府警右京署の混乱はさらにひどくなった。鳴り続ける電話。増え続ける死傷者。」後半、小説は一気に加速度をあげて、混乱する京都市内の姿を描いていきます。なんせ、私にとってはリアルに知っている通りやら場所が登場するので、恐怖感も一入です。

でも、Ankと鈴木が、濁流と化した鴨川に四条大橋から飛び込むシーンでは、もう泣けて、泣けて……….。

なんでこの物語の場所を京都に設定したのか、その答えは「中京区。西桐院通りと油小路通に挟まれた場所に猩々町という町がある」という鈴木の言葉にあります。「猩々」とは、古い言葉で、オラウンターンを意味する言葉だったのです。さらにいえばチンパンジーを「黒猩々」と、かつての日本人は呼んでいたそうです。

吉川英治文学新人賞、大藪春彦賞、ダブル受賞だけのことはあります。

岩阪恵子の短篇集「雨のち雨?」(新潮社/古書1100円)を読みました。詩人として出発した彼女は、昭和61年「ミモザの林を」で野間文芸新人賞を、平成4年、評伝「画家小出樽重の肖像」で平林たい子賞を受賞しました。私が初めて読んだのは、「淀川にちかい町から」(講談社文芸文庫/古書700円)でした。大阪生まれの著者らしく、活発な大阪弁が飛び交う詩情あふれる短篇集でした。

今回読んだ「雨のち雨」は、文芸雑誌「群像」に連載された短篇集です。極端な言い方になりますが、重松清の小説を読んだ後のような爽やか感は全くなく、突き放されて、ドスンと尻餅を付いて呆然とするような気持ちになる作品ばかりです。

表題作「雨のち雨?」は、夫の昌夫がある日失踪してしまった妻、佐知子の物語です。方々手を尽くすも、全く消息不明のまま。そんな折に義母が、妻のマンションに乗り込み、一緒に昌夫の帰りを待つことになります。

「いずれ義母がもっと年老いてからは同居もあるかもしれないと漠然と考えていたが、このようなどさくさに紛れて同居することになろうとは…..しかも彼女の息子が行方知れずでいない家に二人きりで暮らすことになろうとは…….。」

と、複雑な感情を抱いたまま同居が始まります。そして、物語は失踪した夫ではなくこの二人の生活を見つめていき、えっっ!と思うような、しかし、女性にとっては、あるかも…と納得できる結末を迎えます。

定年退職後、家に居場所のない夫と、何かと活発に外へ飛び出してゆく妻の家にきたムクドリの一家を中心にして進む「ムクドリがやってきた」。どこにでもある夫婦の物語です。ムクドリの巣立ちを見て、少しは前向きな生き方を模索し始めた夫ですが、ゾッとするような、いや笑ってしまうような結末が訪れます。定年退職したアナタの身の上にも、こんな結末は降りかかってきます。

中年を過ぎた夫と妻の暮らしの隙間を描き、そこに忍び込んでくる孤独感、不安、恐れを見事に描き出した短篇集です。年をとらんとわからん話かも…….。

日本文学の巨匠はあまり読まないのですが、芥川龍之介と太宰治は時々読みたくなります。しかも、長編ではなく短編です。超技巧派の芥川の短編は、まるで黒澤の映画を観ているみたいです。ケレン味がちょっと、という方もおられますが、私はそこが好きです。

一方の太宰は、身体中のエネルギーを吸い取られて、フワフワ、ユラユラと彷徨わされるところが気に入っています。今回読んだのは、彼の中期を代表する14編が収められた「きりぎりす」(新潮文庫/古書350円)です。

「もう、どこへも行きたくなりました。すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮かんで、おそろしく目立つような気がして、死ぬほど当惑いたいました。」

お得意の女性の告白体小説「燈籠」。この作品を発表した昭和13年当時、彼は麻薬中毒による錯乱、精神病棟への収容、はたまた妻の姦通事件等でボロボロの状態。絶望の中から、小さな幸せを見つける太宰の姿が反映されています。

同じく告白体小説で、「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。」で始まる「きりぎりす」は、名声を得た画家である夫に見切りをつけた妻が、一気呵成に夫を糾弾するお話で、「おわかれして私の正しいと思う生き方で、しばらく生きて努めてみたいと思います。」と妻の決断を描いています。小心者でいい加減な夫が、名声を得て、立派になってゆくことで、逆に妻に三行半を突きつけられるのが面白いところです。

昭和15年に発表された「鴎」は、戦争に向かう時代に、自分の芸術的思想を守ろうとする生活の中で、出征してゆく兵士への後ろめたさ、自己の信条への不安に押しつぶされてゆく姿が描かれています。

「一片の愛国の詩も書けぬ。なんにも書けぬ。ある日、思いを込めて吐いた言葉は、なんたるぶざま『死のう!バンザイ』ただ死んで見せるより他に、忠誠の方法を知らぬ私は、やはり田舎臭い馬鹿である。私は、矮小無力の市民である。まずしい慰問袋を作り、妻にそれを持たせて郵便局に行かせる。」

この後ろ向きの、ウジウジ、グジグジ感に会いたいために、太宰を読むのかもしれません。

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奥田英郎という作家は、以前にも東京オリンピック開催前の東京を描いた「オリンピックの身代金」を発表しました。「罪の轍」(新潮社/古書1200円)も、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の浅草と、北海道礼文島が舞台です。

奥田は、ジャンルで言えば推理もの作家の範疇に入るのかもしれませんが、本作は、純文学とか推理小説とかのジャンルを飛び越えた約600ページの大作。大きな物語の波に飲み込まれます。

主人公の一人宇野寛治は、礼文島で暮らす漁師見習いですが、一方で空き巣の常習犯でした。

「黒い海を眺めていたら、体が冷えてきて、寛治は両腕をこすった。夏とはいえ、日本の北端の夜は半袖ではいられない。ひとつくしゃみをして、寛治は見張り台を降りた。再び布団に潜り込み、ラジオをつけた。北朝鮮の放送が混線する中、弘田三枝子の`『ブァケ〜ション』が流れてきた。」

豊かさと明るさ一杯のこの曲に導かれるように、彼は東京へと向かいます。もちろん非合法な手段でですが….。

繁栄の象徴、首都東京。しかし、「山谷の夏は町全体にゴミと汗と酒の臭いが充満し、町井ミキ子は子供の頃から大嫌いだった。今日も朝から気温が三十度を超え、路地裏の隅から隅まで不快な臭気が漂っている。」という町でもありました。三谷の旅館を経営する母を手伝う町井ミキ子は、ふとした事から寛治を知り、深い悲しみに満ちた事件に巻き込まれていきます。彼女は高校卒業後、憧れのOLになろうと受けた就職面接を全部落ちたのは、自分が在日朝鮮人だからだと思っていました。

オリンピックに浮かれている一方で、過酷な日雇い労働につかざるを得ない労働者が溢れかえり、貧富の差が表面化したこの年、浅草で男子誘拐事件が発生します。物語は、誘拐事件を担当する刑事たちの地道な活動を中心にして進んでゆきます。読むうちに犯人が誰かはすぐにわかります。そう、あの男です。しかし作者は、綿密な心理描写と、まるで黒澤明の白黒映画を見ているようなリアリティー溢れる描写で、繁栄から取り残された男の魂の暗部を描いていきます。出生から父親のDVにさらされ、挙句に当たり屋に使われ、脳に障害を持った人生。だから、犯罪小説を読み終わった時のカタルシスはありません。

ところで、昭和38年という昔のことなのに、DV、人種差別、格差、マスコミの世論誘導、一般大衆による偽情報の大量放出等々、今と一緒です。お上が無理にでも盛り上げようとしている来年のオリンピックでも、こんな事件が起こる可能性は大です。そう考えると、ぞっとするエンディングなのかもしれません。未来を予測した骨太の傑作小説でした。

 

 

高度200メートルの高さに上がって、高層ビルの窓ガラスを拭く清掃員翔太の青春を描く、古市憲寿「百の夜は跳ねて」(新潮社/古書1100円)は、大都会東京を変わった視点から描いた小説です。著者の古市憲寿は、先日ご紹介した岸政彦と同じく社会学者が本業です。「希望の国の幸福な若者たち」で注目され、2018年、初の小説「平成くん、さようなら」で芥川賞候補になりました。TVにもよく登場されています。

就活で挫折し、なかばヤケクソでこの仕事を選んだ翔太は、高層ビルの窓ガラス清掃をしながら無気力な日々を送っています。ただ日々の生活のためだけに淡々と作業をこなしていたのですが、彼に転機が訪れます。ある高層マンションの清掃作業中のこと、翔太はひとりの老婆と目が合いました。視線を外せば良いのに、吸い寄せられるように見つめ、その後彼女の住む部屋に向かいます。
「3メートルはあるだろう高い天井のリビングには、とにかく様々な箱が並べられているせいで、床はほとんど見えない。僕が座っているテーブルと椅子は、箱に囲まれような形になっていた。僕たち以外に人の気配がないということは一人暮らしなのだろうか」
そんな、どうもよくわからない老婆ですが、さらに彼は「作業中に見える部屋の写真を撮ってきてほしい」という不思議な依頼を受けます。
作業中に写真を撮るのは犯罪ですが、隠しカメラで撮影しては、老婆の元へ持っていき報酬を手に入れます。名前も素性も知らないまま、依頼された仕事を続ける翔太に変化が出てきます。犯罪まがいの事に手を出し、名前も知らないふたりの密会にはいかがわしさが付きまといますが、彼は彼女の喜ぶ顔がただただうれしかったのです。そして彼女と交わした仕事から生きる意味を見出していきます。
「無駄な仕事だと思ってたんです。いくらガラスをきれいにしたところで、数ヶ月後にはすっかり汚くなってるから。雨なんか降った日には、下手をしたら数時間で無駄になる。しかもほとんど誰も見てないんです。」
仕事をそんな風に思い、無意味に生きてきた翔太が、物語の後半、徐々に変化してゆくところが小説の醍醐味です。ラスト近くで、それまで彼女が降ろしていたマンションの部屋のカーテンを、翔太が全て開けて、眩い夜景が飛び込んでくるところは感動的です。

ラストの会話が、小説の読後感を良いものにさせています。