島村 利正(1912年〜1981年)は、長野県の大きな商家の長男として生まれ、稼業を継がずに、家出して奈良の古美術写真出版社、飛鳥園に飛び込み、写真家小川 晴暘に教えを乞う一方、志賀直哉、武者小路実篤らと親交を結び、作家活動に乗り出します。1943年には「暁雲」で芥川賞候補になります。

店頭にある「奈良町登大路町」(講談社文芸文庫/絶版1300円)を読むと、作家が奈良にいた時代のことを描いた「奈良町登大路町」に出会いました。

「青く澄んだあの眼のいろを、奈良町登大路町を、私はときどき思いだした。あの眼との出逢いは、随分遠いむかしのことになるが、私は何かの機会に、ふと、その眼のいろを思いだした。」

と作者の回想で始まるのですが、この「青く澄んだあの眼のいろ」をした人物は、ラングトン・ウォーナーという実在の軍人です。彼は、ボストン美術館で岡倉天心の助手を勤め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣されました。彼の名前は、アメリカ軍上層部に対して、文化財の集まる京都を守るために、爆撃対象から外す様に申告したことで有名になりました。(まぁ、これは眉唾物というのが現在の結論ですが)

そのラングトン・ウォーナーと小川 晴暘との親交を見つめたのが「奈良町登大路町」で、小説というより、個人的エッセイの趣きです。奈良の町を描く簡潔で、端正な文体は、好き嫌いがあるかもしれません。ただ、静かな街並みを歩く主人公たちの足取りから、古美術を巡る幸せな日々が伝わってきます。

島村が読売文学賞を受賞した「妙高の秋」は商家を継がず、奈良にむかった若き日、その後の日中戦争で兄弟が出兵して、戦死する辛い日々を描いた私小説です。殆ど、島村の個人史を読んでいるようですが、叙情的で、明確な文章には引込まれてしまいます。

つまらない奈良の紹介本よりは、遥かに豊かなイマジネーションを与えてくれるのでは、と思います。

 

 

★安藤誠ネイチャートークショー「安藤塾」今年も開催決定しました。

北海道のネイチャーガイドで、釧路ヒッコリー・ウインドオーナー安藤誠さん(写真左・愛犬キャンディと)のトークショーを10月25日(水)19時30分より開催します。(要・予約 レティシア書房までお願いします) 


「『ピアノで食べていこうなんて思ってない。』 和音は言った。『ピアノを食べて生きていくんだよ』部屋にいる全員が息を飲んで和音を見た。」

読んでいる私も息を飲みそうになりました。

宮下奈都「羊と鋼の森」(文藝春秋1100円)の一部です。この本は、2015年のブランチブックアワード大賞を受賞し、翌年の本屋大賞にもノミネートされた、言わば”売れ線”の小説でした。ピアノの調律師を目指す青年の青春小説ね、あっ、そう、とゴーマンかまして見向きもしませんでしたが、いや、どうしてどうして素敵な物語でした。(先入観だけで判断するって最悪ですね…..)

読み出して暫くして、敬愛する作家、原民喜が登場しました。え?ピアノの調律師の話に、なんで原爆の悲惨を作品にしていた原が登場するの?と思っていたら、主役の青年が憧れるベテラン調律師が、原のこんな言葉を紹介するのです。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

ベテラン調律師は、原が理想とする文体こそが、自分が理想とするピアノの音だと青年に伝えます。

青年は、多くの人びととの係わり合いを通じて、自分が進むべき道を模索するのですが、物語の進行があざとくなく、大げさな事件も起こらず、静かに進んでいきます。まるで、美しいピアノソロを聴いているかのようです。物語の中で、ピアノを弾く双子の女の子が登場しますが、その一人が、冒頭に引用した台詞を言う「和音」という少女です。何故、双子の一人がこんな意味不明な発言をしたのかは、小説を読んで下さい。成る程、これはいい台詞だと納得されるはずです。

「ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気づかずにいたのだ」

青年の成長を見守りながら、読者も美しい物を知るという喜びを見出します。小説を読む楽しさを味わえる一冊。出会えて良かった、と思います。

 

Tagged with:
 

翻って、私の芥川龍之介体験は、碌でもないものでした。高校の現代国語の授業、真面目なだけの京大文学部卒の先生が嫌いで、クーラーのない教室で真夏に、龍之介を読まされる苦痛。しかも、教室は、男、男、男!!(つまり男子校)。こんな環境だったので、「龍之介はつまらない」という思い出だけがあって、遠ざかっていました。

しかし、短篇集「舞踏会 蜜柑」(角川文庫300円)に収録されていた「蜜柑」を読んだ時、大正時代にこんな斬新な小説を書いていたのか!!と驚きました。僅か、数ページの小説ですが、もうそのまま映画になりそうな程に映像として迫ってきます。

「ある曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待っていた。」で、小説は始まります。主人公の前に「いかにも田舎者らしい娘」が坐っています。「私はこの小娘の下品な顔立ちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。」

主人公は上流階級の人間なのでしょうね、こんな娘の何もかもがうっとおしいんです。その内、列車はトンネルに差し掛かります。その時、小娘は、無理矢理窓を開けようとします。蒸気機関車の時代ですから、窓を開けたままトンネルに突入すればどうなるかは、蒸気機関車が先導する列車の乗った方なら、その悲惨な状況はご存知ですね。

しかし、小娘はおかまいなく、窓から身を乗り出して前方を凝視しています。今にも怒り出そうとしている主人公は、その時、前方の踏切の前に、三人の男の子を見つけます。

その瞬間、身を乗り出していた小娘が持っていた蜜柑を男の子達に投げつけます。

「私は思わず息をのんだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、おそらくこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾かの蜜柑を投げて、わざわざ踏切まで見送りにきた弟たちの労に報いたのである」

空を舞う蜜柑の橙色と、列車の音、声を上げる男の子たち、そして小娘とそれを見つめる主人公の姿が映画のように流れていきます。芥川の小説が技巧に走り過ぎていると言われるのは、この辺りの描写かもしれません。

小説は、最後この小娘を見上げた主人公にこんな台詞を言わせて終わります。

「私はこの時初めて、言いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可思議な、下品な、退屈な人生をわずかに忘れることができたのである」

作家、梨木香歩は中学二年生の時に、芥川にハマったと書いていました。私の場合、遅すぎたかもしれませんが、彼の短編を読んでいこうと思いました。この短篇集には、三島由紀夫が高く評価した「舞踏会」(これも素敵でした)など大正8年に描かれた作品が十数作収録されています。時代小説「鼠小僧次郎吉」なんて、音読したいような、キリリとした江戸言葉一杯です。

池澤夏樹編集の「日本文学全集」の「近現代作家集1」(河出書房新社1800円)はユニークな編集方針で作られています。

池澤は「はじめに」でこう述べています。

「工夫したのは並べる順番で、これは作者の生年の順とか、作品の発表の順ではなく、その作品が扱っている時代の順にしてみた。作者にとっての現代ないしは同時代を書いたものは発表年を基準にする。」

この「近現代作家集」は第三集まで刊行される予定で、順を追って読むことで、明治時代から3・11までの日本人の歴史を追いかけることになります。

収録されている作家は、久生十蘭、神西清、芥川龍之介、泉鏡花、永井荷風、宮本百合子、金子光晴、佐藤春夫、横光利一、高村薫、堀田善衛、岡本かの子です。その中で、神西清、宮本百合子、横光利一は読んだことがなかったので興味深く読みました。

芥川の「お冨の貞操」は、芥川の短編の巧みさを再認識させてくれるし、横光利一の「機械」は、極めて奇怪な小説で、町工場に働く三人の心理が、ねじれにねじれてゆく様に読者が巻き込まれていきます。読みにくいと言えなくもないのですが、一端巻き込まれると、眩暈に似た感じで酔わせてくれます。

宮本百合子「風に乗って来るコロボックル」は、彼女が19歳の時の作品で、死後に発見されました。北海道のアイヌの人を主人公にした物語は、ファンタジーの様な不思議さに満ちています。コロボックルは、アイヌの伝承に登場する小人のことで、その躍動感は、19歳の若さが書かせたものかもしれません。

「田園の憂鬱」で有名な佐藤春夫の「女誠扇綺譚」は、ゴシックロマン風小説で、かなり面白い作品です。舞台は台湾。廃墟と化した大きな屋敷で、そこから聞こえる女の声を巡る話です。むっ〜とする熱帯の空気と、廃墟の死の匂いがブレンドされているのですが、単なるオカルト小説ではなく、文学として成り立っています。

今回収録された作家で、唯一現役なのが、高村薫。彼女の長編「晴子情歌」の一部が抜粋されています。昭和初期の北海道の鰊の漁場が舞台です。事細かにこの現場が描かれているのですが、池澤は「現代文学には珍しく人間が働く現場を精密に書いた小説だということだ。行間から臭いと匂いが沸き立つあたり、小林多喜二の『蟹工船』などを継承するプロレタリア文学の到達点と言うことができる。」と評価しています。ネオリアリズム映画を観ているような濃い描写です。

どの作品も読み応え十分で、こういうアンソロジーから、自分好みの作家が見つかるかもしれません。

第一次世界大戦の最中、フランスとの激烈な戦闘を続いている西部戦線に若きドイツ兵が送られます。戦場が珍しく静かだったある朝、青年の前に一羽の蝶が飛んできます。塹壕からその蝶々を掴もうと手を出す青年。しかし、その瞬間、敵狙撃兵の弾丸がポールの若い命を吹き消してしまいます。

1929年ドイツの作家レ・マルクが発表した小説「西部戦線異状なし」のラストです。翌年アメリカで、映画化されました。ラストシーンは小説そのままの描き方で、覚えておられる方も多いと思います。

この優れた反戦小説と同じ様なラストを持っているのが、長谷川四郎の「鶴」です。

彼は昭和17年に召集され、満州国で兵役に就きます。そして翌20年、ソビエト国境付近の監視哨に配属され、ここでの体験をもとに、「鶴」を書きました。この地で経験した恐怖、孤独、絶望は、そのまま小説の主人公の心奥深くに入り込んでいきます。いつどこから銃弾が飛んでくるかもわからない状況下で、望遠鏡で国境線を監視する毎日。そんなある日、主人公は望遠鏡のスコープに一羽の鶴を捉えます。

「時々首を垂れて、餌をあさっており生きていることがわかった。それは非常に静かで、純潔で美しかった」

国境と関係なく生きている鶴は、自由の象徴だったかもしれません。しかし、上官の命令で望遠鏡を取りに監視哨に戻った時、ふと主人公は鶴のいた方に望遠鏡を向けます。

「日は明るく、哨舎の中は静かで、破れた天窓からは朝日が射し込んでいた。」

「西部戦線異状なし」と同じく、静謐な時間。鶴はいませんでした。しかし、黒い影が動いたと思った瞬間、「一発の弾丸が窓から入って来たのである。」そして、

「それは望遠鏡の軸にぶつかって、反転して私の胸にあたり、体内にもぐり込んだ。血が傷口から吹き出て望遠鏡を濡らした」

戦場で無意味に命が奪われてゆく、その瞬間の見事な描写です。「鶴」「脱走兵」「張徳義」などを網羅した「鶴」(講談社文芸文庫700円/絶版)は、戦争文学の古典的名著とも言えます。

蛇足ですが、個人的に長谷川四郎の作品で、「ぼくの伯父さん」(青土社1971年)が気になっています。中身も全く知りませんが、ジャック・タチの映画と同タイトルであるところがひっかかっているのです。

 

 

とある小冊子の、映画特集号の原稿を依頼されて小栗康平処女作品「泥の河」を再見しました。(正確には映画館で一度。宮本輝の原作を読んでビデオで一度、今回で三度目)

昭和30年代の大阪の河口で、労働者相手の食堂の子供信雄と、河口に流れ着いた船上生活者一家の交流を描いた映画です。小栗は最近では、画家藤田嗣治の巴里時代を描いた「FOUJITA 」がロードショー公開されましたが、81年白黒スタンダードサイズで発表したのが、「泥の河」です。小さい時、ランニングシャツに半ズボンで遊んだ方、TVを持っている友だち家に行って、真剣に相撲や漫画を見ていた方には必見の映画です。

「スタンド・バイ・ミー」みたいな明るいノスタルジーに満ちた作品ではなく、人生の悲惨をリアルに描きながら、二人の少年の切ない別れを描きます。原作の宮本輝は「川三部作」として「泥の河」、「蛍川」、「道頓堀川」を発表しています。(ちくま文庫300円)

「堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでゆく。」という文章で始まる原作にほぼ沿った形で映画は進行していきます。

この船上生活を余儀なくされている一家の母親は、船で売春をして生計を立てています。信雄は、その母親が客の男に抱かれているところを目撃してしまいます。

「闇の底に母親の顔があった。青い斑状の焔に覆われた人間の背中が、その母親の上で波打っていた。虚ろな対岸の灯りが、光と影の縞模様を部屋中に張りまぐらせている。信雄は目を凝らして、母親の顔を見つめた。糸のような細い目が、まばたきもせず信雄を見つめかえしていた。」

緻密な文章を映画はどう表現しているか。出来る事なら、「泥の河」は原作と映画を両方味わっていただきたい作品です。白黒映画黄金時代の、高度な映画表現技術を身に付けた小栗監督の、一コマ一コマの隅々まで行き渡った表現を鑑賞し、一方、言葉でしか言い表せない表現を味わうなんて、贅沢ではありませんか。

 

小栗は、90年に島尾敏雄の「死の棘」も映画化しています。松坂慶子がノーメイクで出演したことでも話題になった映画です。500数ページにもなる小説の”重さ”にたじろいでしまい、映画を先に見てしまいましたが、再挑戦してみてもいいかなと思います。

店頭には「小栗康平コレクション1 泥の河」(駒草出帆2500円)があります。本作DVDと一緒に監督の詳細なインタビューが付いています。

 

Tagged with:
 

石田千の「月と菓子パン」(晶文社650円)、「屋上がえり」(筑摩書房700円)を読んだ時、著者の文章の”良い加減”なリズム感が心地よく、エッセイ界に新しい人が出現したなと、その後も注目していました。

彼女の初の小説集「あめりかむら」(新潮社700円)を読んでみました。芥川賞候補となった本作は、さらっと街の情景を描く彼女にしては、”濃い”お話でした。

ガンの手術から5年。再発に怯える女性が主人公です。この女性と、大学時代からすべてを卒なくこなし、陽の当たる道を歩んできた戸田君との関係が描かれていきます。何事も上手く行かない彼女と、人生をスキップで駆け抜けてゆく戸田くん。軽蔑の対象でしかない彼。しかし、大きく事態は変わります。突然の戸田君の自殺。えっ、何それ? 何でお前が死ぬの?? バカかお前は……..。

しかし、情緒不安定の彼女の脳裏に戸田君の残像が消えません。なんで、あんなヤツの顔が…..。ここから、彼女の行き場のない迷走が始まります。仕事で京都に来ていた彼女は、何故か買ったお土産を「四条大橋のまんなかで、ぜんぶ川に放り投げてやろうか。混雑する橋をにらんだ。そのとき、大阪へ京阪特急。」。そして突然、大阪へ向かいます。そこに個性的なおばちゃん、おっちゃん、アダルトショップのお客さんたちが登場してきます。

「戸田君。大阪はね、たくさんのひとが肉を喰らい、骨をしゃぶり生きているよ。」

という言葉で小説は幕を下ろします。あれほど嫌っていた戸田君、彼の死、そして彼女自身の心の葛藤に整理をつけた姿をチラリと覗かせた印象的なエンディングです。

この小説集には、第1回古本屋大賞を受賞した「大踏切書店のこと」も収録されています。じいちゃん、ばあちゃんだらけの街にある古本屋兼飲み屋を巡るハートウォ−ミングなお話で、この作家らしい”良い加減”な世界に満ちた短篇です。いいなぁ、この街。

Tagged with:
 

1990年に自死した北海道出身の作家、佐藤泰志が、最近再評価され、認知されているのは、作品が映画化されて、優れた作品になっているからに違いありません。

2010年「海炭市叙景」が公開され、劇場で観た深い感動が忘れられず、原作に手を出したのは私だけではないはず。88年から連載の始まった原作を熊切和嘉監督が、資金を集めて函館で撮影しました。

「待った。ただひたすら兄の下山を待ち続けた。まるでそれが、わたしの人生の唯一の目的のように。今となっては、そう、いうべきだろう。」で始まる原作の一文は、映画ではエンディングに持ってきているのですが、人々の希望と絶望を北国の冷たい風に託して描ききりました。もうすぐ定年を迎える路面電車運転手、家庭に問題を抱えるプラネタリウム職員等の、男たちの人生の悲哀が見事でした。

続いて、2011年、「そこのみにて光輝く」が呉美穂監督によって映画化されました。私は、これについては原作もまだ読んでなくて、映画も観てないので、なんとも言えません。

そして、今公開中で期待の映画、山下敦弘監督の「オーバーフェンス」。もちろん、観に行きます!佐藤最後の芥川賞候補作品で、作家に挫折しかけた時代に、通っていた職業訓練 学校の体験を元にした作品の映画化です。レビューは、後日このブログに載せる予定です。

さて、佐藤のデビュ−作「移動動物園」は、私の好きな作品で、暑い日々、幼稚園やらデパートの屋上に出張しては、小動物を見せる小さな会社を舞台にした小説です。登場人物は三人の男と女。うだる様な暑さの中、ひたすら動物の世話に明け暮れる姿を描いていて、読んでいると咽喉の渇きが襲ってきます。そして、虚無感がじわじわと浸透してくる気分の悪い小説なのですが、逃れられないんですよね、この世界から。

ぜひ、映画も原作も観て欲しい、希有な作家です。蛇足ながら、この三人の映画監督、皆さん大阪芸術大学出身です。

文庫版「移動動物園」「海炭市叙景」は各400円、「そこのみにて光輝く」は500円にて販売しております。

 

 

 

 

 

 

★毎年恒例になりました『ネイチャーガイド安藤誠さんの自然トーク「安藤塾」』は、10月28日(金)7時30分より開催が決定しました。(要・予約 レティシア書房までお願いします) 

★★カナダ在住で、ドールシープを撮影されている写真家、上村知さんの写真展を11月1日(火)〜13日(日)まで開催します。5日(土)夜に、上村さんによるスライドショー 「極北 カナダ・ユーコン&アラスカの旅と暮し」(7時より)を予定しております

  (要・予約 同じくレティシア書房までお願いします)

2012年、編集者出身の松家仁之が、処女作「火山のふもとで」(新潮社1500円)を発表しました。ある建築事務所を舞台に展開する、380ページ程の長編です。

主人公の「ぼく」が、村井建築事務所に就職するところから話は始まります。この事務所は、夏には軽井沢の別荘に事務所を移して仕事をするのが毎年の習わし。所長は、有名な建築家フランク・ロイドに師事して、どちらかと言えば質実剛健な建物を作る昔気質の人物です。さて、事務所が「国立現代図書館」設計コンペに参加するので、「ぼく」も含めたスタッフが夏の山荘で忙しい日々を送ることになり、その日々を細かく描いていきます。

「S字型の書棚は図面上では斬新に見えますけど、実際には円周より落ち着くんじゃないかと思いますね。S字の真ん中が切れているから人の動きにも自由度があるし、視線もむこうに抜けていく。」

というような、スタッフ間の図面を巡る駆け引きなども、事細かに描かれていきます。(だから、最初は読むのに苦労しました)また、ライトを含めて、建築史の話も方々に登場してきて、建築について素人の私には、ちょっと勉強にもなりました。

そんな専門的なやり取りだけでなく、事務所を取り囲む軽井沢の自然が、きめ細かく描写されています。こんなふうに、大きな物語のうねりもなくどんどん進行していくのですが、なぜだか退屈しないのです。まるで、この事務所で一緒に働きながら、「ぼく」の視線で世界を見渡しているかのようです。細部の細部まで手を抜かない作家の力量が生きている小説です。

物語は最後の方で、大きく動きます。そこは伏せておきますが、一時、同じ事務所に集まった者たちの、その後の人生が簡潔に描かれていきます。そして「ぼく」の人生も。

1982年浅間山が噴火しましたが、物語はこの時期にシンクロしています。だからタイトルに「火山」が使われています。

松家仁之は、この本以外に、「沈むフランシス」、「優雅なのかどうか、わからない」の長編を書いていますが、どちらも小説の醍醐味にあふれていました。次作も期待しています。

Tagged with:
 

池澤夏樹の「氷山の南」(文藝春秋1450円)は、連日の猛暑に、涼しくなること間違いなしの小説です。

舞台は南極。その海に浮かぶ巨大な氷山を、オーストラリアまで運んでくるという壮大なプロジェクトに、密航者として乗り込んだ18歳の青年と、様々なエスニックバックグラウンドを持つクルーとの交流、そしてプロジェクトに反対する信仰集団との対立を描いた、ジャンル的に言えば、冒険小説です。

と言っても、お決りの海洋活劇があるわけではありません。淡々と進行する物語を読んでいくうちに、一人の青年が多くの人々との交流を通じて、世界を認識し、我々を取り囲む宇宙を感じるための通過儀礼を描いた教養小説だということが判ってきます。

主人公ジンは、アイヌの血をひく若者。彼の友人がジム。彼のルーツはオーストラリアの先住民族、アポリジニという設定からして、少数民族の生き方が関与してくることが見えてきます。

オーストラリアの荒涼たる大地で、満天の星空を見つめながらジンは、見えている星空の奥に、そして見ている自我の奥に何かが在ることに気づきます。

「星々を自分が今こうして見ている。見る自分と見られる星空の関係はそのまま逆転できる。星もこちらを見ている。無数の星の一つがこちらに視線を手繰り寄せる。一本の光の糸が張り渡される。あの一つの星は人間に見られていることを喜び、ちゃんと見返している。対等の関係だ」

自然は、好き勝手に動き回る存在ではない。「人が見るから、その視線に応じて自然は自らを装う。きりりと姿を整える。」

やがて、ジンは理解します。「自分がいて、世界がある。それぞれがあって、後につながるものではない。この二つは最初からセットなのだ」と。

さらに、彼は氷山を運び、溶かして灌漑に使うというやり方に反対するアイシストという信仰集団のリーダーの女性に出会います。そして、際限のない人間の欲望が、人々を不幸せにしているからこそ、そういう欲望や衝動に抵抗力をつけるためには、「できるかぎり消極的な生き方で済ませる」という思想に魅かれていきます。

「どれほどの権力と冨と美貌と健康と知力と意志を備えていても、一生の間ずっとやりたい放題は続けられない。たいていの場合、欲望の大半は実現しないわ。そのために失望する。不幸感が生まれる。それならば最初のうちに、欲望が妄想に育ってしまう前に、冷やしてしまった方がいいんじゃない?」

主人公ジンは、多くの知的冒険と大自然の中の経験と、そして彼に迫ってくる難問への対処を経て、全500ページにわたる長編はクライマックスを迎えます。長編小説の醍醐味、ここにありですね。

サマーバカンスに何読もうか?とお悩みの方、海辺で、あるいは故郷の山里でじっくり読むのに相応しい一冊です。

 

Tagged with: