少し前に木村友祐との対談「私とあなたのあいだ」(新刊1870円)を紹介した温又柔(おん・ゆうじゅう)。彼女の短編を集めた「空港時光」(河出書房新社/古書1100円)は、台湾の飛行場から日本へ、あるいは東京の空港から台湾に向かって旅立とうとしている人々の姿を簡潔に描いた作品が並んでいます。

温又柔は1980年台湾に生まれ。3歳の時に家族と東京に移住し、台湾語混じりの中国語を話す両親のもとで、日本語教育を受けて育ちました。2009年すばる文学賞佳作を受賞し、その後日本語で作品を発表し続けています。国籍は台湾で、日本に帰化せずに作家活動を行なっています。「私とあなたのあいだ」では、自身のナショナリティーから派生する差別についても語ってくれました。

台湾と日本。そこに交錯する台湾語、中国語、日本語を聞き取りながら、登場する人々の人生を、まるで飛行場の待合室から見たり聞いたりしている感覚で描いていきます。「好書好日」というネットの書評ページにこんな文章を見つけました。

「温さん自身、よく待合室で時間を過ごす。『いろんな人がいる。いろんな日本といろんな台湾を行き来している』。あの人はどんな旅を、あっちの人は、と『空想と妄想でいっぱいになる』そうだ。」

なるほど彼女は、「空想と妄想でいっぱい」になりながら、それぞれの人が母国での揺れる心情の機微を浮かび上がらせています。多くの日本人は台湾人は親日というステロタイプな刷り込みを持っていますが、読んでいると、それは偏見に値する場合もありうるという状況にも直面することになります。

「『入境』と『上陸』を繰り返し、三十五年が経つ。両親とは別に、自分だけでも帰化を、と考えたことがないわけではない。ただ、年数を重ねれば重ねるほど、日本の国籍があってもなくても、自分はとっくに日本人のようなものだから、今さら別にね、という気持ちが大きくなってゆく。申請に関する煩雑な手続きが億劫なのもある。逆に、自分がパスポートまで日本のものを持つようになれば、台湾では完全に『外国人』となってしまう。それをもったいなく思う気持ちもある。」

これは「到着」という短編の主人公の言葉ですが、そのまま著者の思いでしょう。

この物語のラストで、台湾から日本へと帰ってきた主人公咲蓉は、こんな感情を抱きます。

「英語、中国語、韓国語……東京に到着した訪日客を歓迎する文字の中に、おかえりなさい というひらがなが混じっている。これが目に入ると、帰ってきたと咲蓉は思う。台湾語まじりの中国語が耳に飛び込んできた時にも同じ感情を、咲蓉は抱く。」

国境、パスポート、それぞれの国の言葉。そこから人は逃れられない。日本で生まれ、ここで育ち、死んでゆく私たちには見つけられない世界があります。

 

少し前に、今年のベスト1だ!とブログに書いた呉明益の「複眼人」に次いで、彼の「自転車泥棒」(文藝春秋/古書1700円)を読みました。400ページ余りの長編です。タイトルから、同名の昔のイタリア映画を思い出された方もおられるかもしれません。あの映画のように、これも自転車を盗まれた父と子の物語です。失踪した父とともに消えた父の自転車を巡って、息子は、自分の故郷の台湾から時代を遡って戦時下の東南アジアのジャングルへとさすらいの旅を続けるという物語です。

「複眼人」もそうでしたが、こちらも壮大なスケールで展開する小説です。

「父がペダルを踏む力は、明らかに力不足だった。身長はもう同じぐらいなのに、無理やり荷台に乗せられ、おまけにぜえぜえと苦しげな息づかいを間近に聴かされるのはあまりに気恥ずかしかった。」

そんな思い出のある自転車と父の失踪を巡って、これでもかこれでもかと過剰なくらい人物が登場してきます。例えて言えば、大きな川へ流れ込んでゆく小さな川が何本もあって、それらがひとつになって大きな海に向かってゆくのを見ているような感じです。

翻訳の天野健太郎は「厳戒令が解除され、政権交代がなされたあとの文学的テーマは『批判』や『純化』ではもはや物足らず、純文学であっても『普通におもしろい』小説を求められるようになった新世紀の台湾人作家のなかで、呉は質・量ともにその先頭を走っている。」と書いています。その評価は「自転車泥棒」「複眼人」そして短編集「歩道橋の魔術師」を読んで、なるほどと納得しました。(現在、日本で翻訳されているのはこの三作だけです)

本書における大きな川は、百年にもわたる主人公の家族史です。そこに台湾原住民族の報道写真家、蝶の貼り絵工芸を生業にする女性、戦死した日本兵の霊と交流をする老兵、戦中のマレー半島で展開された「銀輪部隊」(自転車部隊)の決死の行軍、ミャンマーで日本軍に接収され、国民党によって中国に連れて行かれ、最後は台湾に渡って台北動物園で生涯を終えたゾウのリンワンの物語などが、支流となって流れ込み、そして最後は父の自転車に向かって収束して行きます。

天野は「この小説は自転車などの『もの』にまつわる壮麗なエピソードとディテールから幕開く物語だ。」と語っていますが、テープレコーダー、手紙、蝶の貼り絵等々が決め細く描かれています。そんな中で、自転車好きの私がいいなぁと思った文章がありました。

「いい職人が細やかな調整をして締めたネジには、集中力が宿っています。ガタつきや異音を防ぐために、ネジは必ず適切なトルクで締められなければならない。このとき工具を通じて、彼らの力が自転車のなかへ移される。そしてたぶん、数十年ものあいだ自転車に留まっている。解体するとき、ぼくはその力を感じることがあります。」

これは登場人物の一人、自転車マニアのナツさんの言葉です。

登場人物たちの人生を追体験して、彼らの幸福や不幸に心震わせたり、過酷な運命に抗うことなく孤独に進んでゆく森の象たちに涙したりしながら、大きな物語を読み終えた充実感でいっぱいになる傑作です。

今年の秋には新作が出るみたいです。今、一番読みたい小説家です。

 

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東山彰良。1968年台湾生まれ。幼少の時に広島に移住し、日本で暮らし始める。2002年「ダート・オン・ザ・ラン」で第1回「このミステリーがすごい!」で大賞を受賞。これは私も読みましたが、とてつもなく面白かった記憶が残っています。その後も推理ものでヒットを飛ばして、15年「流」で直木賞を受賞し、純文学の方へも進出してきました。東山の初めての短編集「どの口が愛を語るんだ」(講談社/古書1200円)は、かなりニューウェイブな作品が並んでいます。

「猿を焼く」は、象徴的なタイトルかなぁと思って読んでいると、本当に少年たちが猿を焼くシーンが登場します。苺農家をやろうと一念発起した都会暮らしの両親と九州に移住した少年が主人公で、意地の悪いクラスメイトや、主人公の少年を殴ったあと団地から飛び降り九死に一生を得た不良、全く未来を信じていない少女などが登場します。

九州の疲弊した田舎町の退屈な日々に埋もれそうになりながら足掻く少年に、重苦しい現実がのしかかり、少女をおもちゃみたいに扱うヤクザ崩れの男の飼っていた猿を殴り殺し、火を付けてしまう。出口の見えない閉塞感に、押し潰れそうになる少年の儚く淡い心情を描いていきます。大島渚や羽仁進の往年の映画を思い出すような、ザラッとした感覚が私は好きです。

「政府が同性婚の合法化を認めた時、立法院のまえに集まった数百人の支持者たちは腹の底から歓声をあげた」で始まる「恋は鳩(はと)のように」では、台湾に住む同性カップルが描かれます。。同性婚の合法化に喜ぶアンディと、彼が愛する詩人で、「地下室」というペンネームで呼ばれる中年男との恋模様を描いていきます。

「地下室はうれしくないの?ぼくたちは結婚できるようになったんだよ」と喜びを隠しきれないアンディに対して「この状況をどう理解していいのか、まだよくわからないだけだよ」と冷めた感じを崩さない地下室。二人の恋愛感情の絡み合いと、地下室を取り巻く人々を描く作品です。艶かしいけれど、クールな雰囲気を持つ作品です。

「無垢と無情」はゾンビが蔓延(はびこ)る世界で、生き延びた者たちのオンラインミーティングが繰り広げられ、感染した家族を殺すべきか、殺して自分も死ぬべきか、それとも生きる覚悟を持つべきなのか、極限状態の人々のむき出しの感情が炸裂する作品です。両親と妹を「バットで二度ずつ殴りつけ、家の外に押し出してドアに鍵をかけた。」主人公の将来に光はないと思って読んでいたのですが、ラストはそうではないんです。後味がいい作品でした。

最も短い「イッツ・プリティ・ニューヨーク」は、他の三編とは全く違い、ウエルメイドなアメリカ映画を観た気分になります。「第一志望ではない人生?いいじゃないか!」そんなラストの台詞がピッタリの作品で、ちょっと口笛を吹きたくなりますね。

こういうのを売れる本と呼ぶのでしょう。いやもちろん、バカにしているのではありません。町田そのこ著「52ヘルツのクジラたち」(古書/900円)は、2021年度本屋大賞第1位を獲得した小説です。多くの人に受け入れられるに違いない作品だと思います。

小さい時から、自分の人生を家族に搾取されてきた貴瑚と、母に虐待されて「ムシ」と呼ばれていた少年が出会い、新しい人生を紡いでゆく物語で、そこに トランスジェンダーの話なども盛り込んで今の時代を反映させる手法は、誰が読んでも納得できるし、上手い!と思いました。

タイトルになっている「52ヘルツのクジラ」は、他のクジラが聞き取れない高い周波数で鳴く、世界に一頭しかいないクジラです。「世界で一番孤独だと言われているクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない。誰にも届かない歌声をあげ続けているクジラは存在こそ発見されているけれど、実際の姿は今も確認されていないという。」

そのクジラの姿に、二人の孤独な魂をダブらせてゆくあたりの筆者のテクニックが見事です。ラスト、二人だけが見る大海原をジャンプするクジラの姿には、ホロリとさせられました。

「ムシ」と呼ばれた少年は言葉を喋りません。ひょんなことから、彼と知り合った貴瑚は、直観します。

「この子からは、自分と同じ匂いがする。親から愛情を注がれていない。孤独な匂い。この匂いが、彼から言葉を奪っているのではないかと思う。

この匂いはとても厄介だ。どれだけ丁寧に洗っても、消えない。孤独な匂いは肌でも肉でもなく、心に滲みつくものなのだ。」

貴瑚と孤独な少年が、人としての心を回復してゆくまでを見届けるのが本書のテーマです。虐待する側には、彼らなりの忌まわしい過去があり、その不満が子供への暴力と向かうという展開も、きっちりと書かれているので、説得力があります。「ムシ」と呼ばれ、過去におののき、未来を閉ざした若い魂と、貴瑚自身の過去の忌まわしい事件を浄化し、二人が新しい地へ向かって歩みだすという、よくあるストーリーなのですが、その背景に52ヘルツの高い声で鳴くクジラがいることが、物語を深くしています。

あんまり文学的ではない、という評価を見た記憶がありますが、文学的かどうかは関係ありません。読者がその物語にのめり込み、参加し、そして、より良き未来への扉を開けることができれば、その小説は読者にとって素晴らしいのです。

「わたしでいいのなら、全身で受け止めるからどうか歌声を止めないで。わたしは聴こうとするし、見つけるから。わたしが二度も見つけてもらえたように、きっと見つけてみせるから。

だから、お願い。52ヘルツの声を、聴かせて。」

最後のページを飾る文章で、私もとても素敵な気分になりました。いい小説です。

台湾先住民族の神話に我を忘れ、巨大なゴミの島が台湾を襲うというデストピア的世界に慄き、謎の複眼人が姿を現し語りかけ、海の、森林の、星空の、圧倒的美しさにひきこまれる長編小説「複眼人」(KADOKAWA/古書1800円)。第71回ベルリン映画祭で「映画化が期待される小説部門」に選出されました。

多分、これを映画化できるのは宮崎駿しかいない、と私は読後に強く思いました。いやぜひ、彼に映画化してほしい。

この長編小説の著者は、呉明益(ウーミンイー)。以前、「歩道橋の魔術師」(白水社/古書900円)をブログで紹介しました。あの時から、この作家の魔術師的世界の虜になっていたので、本書が翻訳出版されるのを期待していました。そして、それは予想以上の出来上がりでした。

次男坊が生きることができない島から追放された少年、夫と息子を山で亡くした大学教師の妻、身内を失った台湾先住民族の男と女、父親が撲殺された環境保護を訴える海洋学者。彼らが主たる登場人物です。

死が同居する残酷な彼らの数奇な人生を、ある時は俯瞰的に、ある時は超接近して描いていきます。彼らの前に広がる大自然の美しさと残酷さ。不意に登場する超自然的存在の複眼人。クライマックス、台湾沿岸に押し寄せる巨大なゴミの島 に為す術もない人類。これはSF なのか、神話的物語なのか、いやいや先住民族の持つアニミズムの救いなのか、地球を食いつぶす人類への警告なのか。「ゲド戦記」の著者、アーシュラ・K・ル=グィンは「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」と本の帯に書いていますが、おそらく多くの小説好きの方がそう思われるでしょう。もちろん私も。

様々な運命を生きる人々を描く執筆の魔力的な力に圧倒されます。350ページ余の長編ですが、あっという間に読んでしまいました。この圧倒的巨大な世界を映画化するのは、「もののけ姫」を監督した宮崎しかいないと思います。

汚染されてゆく海、地震、津波、大雨といった自然の猛威の前に滅んでゆく私たちの世界。その最後に登場するのは、ボブ・ディランの名曲「激しい雨が降る」です。

川本三郎が解説で「呉明益は最後に、これまでの死者を悼むように『激しい雨が降る』の曲(詩)を引用する。ボブ・ディランの初期の作品。(中略)ディランは1962年のキューバ危機の際に米ソ核戦争の危機を覚え、この曲を作ったという。『複眼人』の最後にふさわしい。」と書いています。

今年読んだなかで(まだ5月ですが)、一番物語を堪能しました。

 

 

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乗代雄介の長編小説「旅する練習」(講談社/古書1200円)は、サッカー大好き少女亜美と小説家の叔父が、利根川沿いに数日間かかってテクテク歩き、鹿島アントラーズの本拠地を目指す旅を描いた、ロードムービーならぬロードノベルです。小説のありがたみを堪能する傑作です。

春休みになったら、鹿島にあったサッカー合宿所で亜美が借りたままの本を返しに行く、ついでに鹿島の試合を観ようという計画を立てていた二人。しかし、コロナ感染拡大のため、試合も、学校の授業も全て白紙になってしまいます。

でも、本だけは返しに行こうと、二人は利根川に沿って歩いて鹿島まで行くプランを実行します。この利根川沿いの風景や自然の描写が生き生きとしていて、実際に行ったことはないのに、その空気感が染み込んできます。叔父が、道中つけている日記に登場する鳥たちの生態が詳しく書き込まれていて、こちらもその光景が目に浮かびます。

歩くこと、ボールを蹴ること、そして二人とも日記を書くことを、旅の日課としてスタートします。ボールを蹴ることが至上の喜びの亜美、それを見つめながら日記をつける叔父の姿に、私たちは一緒に歩いているような錯覚に陥ります。気持ちのいい時間を心ゆくまで味わえる小説です。

旅の途中で、やはり歩いてアントラーズの本拠地までゆくみどりさんという女性も加わり、珍道中は続きます。サッカーの話、特に名手A・ジーコの話が印象的です。「人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ。」というジーコの言葉を巡って、叔父の解釈が日記に綴られていきます。

旅の終わり頃、亜美は「サッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい。ジーコもそうだったんじゃないかな。そう思ったら、サッカーと出会ってなかったらって不思議に思えてきたの。」と考えるようになります。

心から好きなものの存在は、人生を考えさせる力となるのです。

鹿島神宮でみどりさんと別れ、本を返し、亜美の新しい人生がスタートするのかと思って、最後のページを捲った途端、とんでもない悲しみと絶望を味わうことになりました。その単語を見た途端、私はえっ??と思い、何度も読み返しました。

これが小説のエンディングとして最適なのか疑問は残りますが、もう一度読みたい、もう一度あの風景に、あの鳥たちに会いに行きたいと思わせる力を持った小説でした。巧みな物語の構成、会話の妙味、自然描写の見事さなど、欠けるものがない作品でした。

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初邦訳になったデンマークの作家ヘレ・ヘレの小説「犬に堕ちても」(筑摩書房/古書900円)は、起伏に富んだ物語を楽しむような小説ではありません。そういうものを排除して、日常を淡々と描く物語です。

「泣くのにちょうどいい場所を探している」四十二歳の女性が主人公です。パートナーとの生活を捨て、突然家を出て、バスを乗り継いで、寂れた海辺の街にたどり着きます。そこに住むジョンとプッテというカップルに出会い、彼らの家に居候しながら次の生き方を模索していきます。彼らの周辺の人たちとも付き合い、少しづつこの土地に馴染んでいきます。

繁栄から取り残された町。孤独と寂寥感の漂う侘しい場所なのですが、彼女にはなぜかしっくりとしてくるのです。

「スラックスとタートルネックのセーターを着て、ストーブの火をおこす。かなり楽にできた。トマトと玉葱を添えたオムレツをこしらえて食卓に着き、ひらひら落ちてくる雪を眺めながら食べた。コーヒーがすばらしくおいしい。」

ありきたりの日常描写が大半をしめ、装飾を排したという意味ではミニマルアート的です。北欧のシンプルな家具の香りが漂ってくるようなあっさりとした物語、と言ってもいいのかもしれません。しかし実は、一度は捨てた日常の向こうに立ち上がる、新しい日常の中で生きることの意味を探し求める物語でもあるのです。

世話を任された犬の散歩。犬に特別な親近感を抱いてくるわけでもない。何事にも夢中になれず、距離感が広がってゆく。でも、荒涼たる風景が、彼女にも、そして私たち読者にも心に染み込んできます。漂う湯気やチロチロと炎をあげる薪ストーブ、熱いコーヒーの入ったカップの温もりにホッとします。

ちなみに「犬に成り下がる」という言い回しがデンマーク語にはあるらしく、翻訳をされた渡辺洋美さんに寄れば「酒に溺れたりして社会的、経済的に零落するという意味で普通に使われる。この小説のタイトルがただちに連想させるのはその成句であり、そういう人間の境遇だ。主人公が犬に堕ちたも同然の身で、はからずも二匹の犬の世話を託されるのは皮肉と言うしかない。」

何かの折に読み返したい、ジョンとプッテたちの食卓に戻りたい気持ちにさせてくれる一作でした。

 

 

大河小説「光の家」から3年、待望の新作が登場しました。タイトルは「泡」(集英社/古書1200円)。

男子高校の二年生になって暫くして学校に行かなくなった薫。これからの事を考えていないわけではないのだが、どうしても学校へ行けない日々。夏休み、彼は大祖父の兼定のいる海辺の街で過ごすことを決めます。兼定は、大戦中ロシアの捕虜として収容所生活を送りました。帰国後、親族の元に戻らず知り合いもいない町に一人住み、小さいながらもジャズ喫茶を経営していました。そこには、ふらりと街にやってきた青年、岡田が店を手伝っていました。

そんな店で薫は手伝いを始めます。

「夏のあいだ、東京から遠く離れた海辺の街で、兼定をたよりに暮らしてみたいと言いだしたのは薫だった。できるだけ遠くへ行きたい気持ちと、はぐれ者のような大叔父への関心、兼定がやっているジャズ喫茶への興味もあった。そして大叔父はたぶん、自分をかまわず放っておいてくれるだろう。」

薫は一人暮らしをしながら、無口な岡田と一緒に店で働きます。凡庸な青春小説だと、主人公が新しい環境で何かを見つけて自信を持つみたいな物語になりそうですが、これにはそんな結末はありません。かといって悲劇的なラストが待っているのでもありません。

ボートに捕まって海へとでた薫、彼はカナヅチです。でも「カナヅチでも浮き袋があれば大丈夫ーいつもはなにかと悲観的なのに、こうして泳げない海に浮かんでいる状態を楽観的にとらえている自分が不思議だった。砂里浜に来てから学校に行かなくなった自分をなんとかしなければ、と考えないでいられるようになった。」

こうしなければならない、ああして生きていかねばならないということへの判断をやめて、薫は海辺の町で、モノトーンのように繰り返す生活に楽しみを見つけていきます。

ロシアでの悲惨な捕虜生活を送った兼定の過去をインサートしながら、薫の定まらない日を描いていきます。

「砂浜に海水がすいこまれると、小さな泡がつぷつぷとつぶれながら消えてゆく。その小さな音がする。自分もこの泡のように、いつか消えてゆくーそれまでにできることはなんだろう。つぎの波がくるまでのあいだ、いまはまだ答えのないその問いは、夜のひろがりそのものになって薫を見おろしていた。その気配を心地いいもののように薫は感じはじめていた。」

夏休みが終わり薫は東京へと戻っていきますが、その後の薫については、一切描かれていません。夏が去った海辺の街では、相変わらず兼定と岡田がジャズ喫茶をやっています。

読んだ後もいつまでも波の音が響いている感じです。

 

 

 

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岸政彦「リリアン」(新潮社/古書1300円)は、大阪を舞台にした小説です。大阪の南の街で暮らすジャズベーシストと、近所の酒場で知り合った女の人生を描いていきます。

シュノーケリングで海に潜るのが趣味の主人公は、街の様子を海の中に例えます。

「海のなかはすべてが揺れているが、地上もそれは変わりない。まばらな店にともる明かりがゆらゆらとまたたいている。規則正しく街灯が並び、オレンジ色の光がまぶしい。そしてはるか上空に満月が登っていて、金色の光が千本も海底に差し込んでいる。風が吹いて、枯れかけた街路樹がおだやかに揺れている。海も街も変わらない。どこへ行くかも決めずにひとりで玄関を出て、海のような街をゆっくりと泳ぐように歩く。」

男はジャズベーシストとして、ライブハウスを掛け持ちしてなんとか暮らしているが、未来は見えない。一方の女(美沙)は、若い時に子供が水死したという過去があります。行きつけの酒場で知り合った二人は、なんとなく付き合いを深めていきます。

「あ、ほんまや!ウッドベースって、鯨に似てるな」「そやな、でかいしな。」

こんな大阪弁の会話で物語は進むのですが、柔らかい大阪弁が、どんどん気持ちよく響いてきます。

ジャズプレイヤーとして、もうこれ以上の進歩はないだろうと思い続ける男と、最初は美容師として生きてゆくつもりだったのに、これからの人生の方向性を見出せない美沙。二人のまったりした日常を淡々と描いていきます。悲劇も喜劇もなく時間だけがゆっくりと進んでゆく、その流れに乗った途端、とても心地よい時間を過ごせるのです。こういう感覚を持つことができるのが文学の力というのかもしれません。

雪の降る元日の早朝、二人はコンビニで肉まんを食べています。その時、美沙が外を歩く一匹の白い犬を見つけます。

「あの子、ひとりかな。飼い主おらへんのやろか。野良ちゃうよな。毛並みいいしな。体格も立派やし。なんでひとりなんやろ。心配やなあ。 どっか暖かい寝床があるといいけどな。私ここでドッグフード買って、あげてこよかな。どこか、暖かい布団で、一緒に寝るひとがいたらええねんけどなあ。」

という会話で物語は終わります。これは孤独で、なんら新しい価値を見出せないまま、人生の折り返しを過ぎた二人が、それでもなんとか生きていこうとする思いだったような気がします。

 

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アントワーヌ・ローランの「赤いモレスキンの女」(新潮社/古書1300円)は、とてもとても素敵な小説です。ズバリ、メロドラマです。

主人公は書店主のローラン。ある日、ゴミ箱に置きっ放しにされた赤いハンドバッグを見つけます。中に入っていたのは、作家のサイン入りの小説「モディアノ」と赤いモレスキンの手帳でした。ローランは、何とかこのバッグの持ち主を探そうと駆けずり回ります。そしてそのうちに、見知らぬこの女性が、何だか昔から知っていた女性に思えてくるのです。憧れ、それとも恋。

一方、強盗に襲われたバッグの持ち主ロールは、バッグを失くし、強盗と格闘した時に負傷までして、散々な日々に落ち込んでいました。傷も癒えて自宅に戻った時、あのバッグが置かれていたのです。えっ?誰?ここから彼女の人探しが始まります。物語は短い章で切り替わってゆくのですが、まるで映画のカットがどんどん変わってゆくようで映像が目に浮かんできます。会えるの?会えないの? もう、メロドラマの王道ですが、スマートで、洒落たタッチで進行する物語は、全く古びていません。(書店主なら、こんな経験してみたい!と思います)

新潮社のブックレット「波」1月号に、東京の書店「title」の辻山良雄さんが、書評を書いていました。書店の描写の確かさ、登場する様々な固有名詞が今のパリの息吹を伝え、登場人物たちがそれぞれの個性を浮かび上がらせながら一つの大きな物語へと流れてゆく様を、こう書いています。

「そうしたすべての動きが自然であり、読んでいてストレスを感じさせない。この感じ、どこかで体験したことがあると思っていたら、エリック・ロメールやフランソワ・トリュフォーといった、同じ国の巨匠の名前がすぐ思い浮かんだ。そう、楽天的でありながら、生きるほろ苦さをしっかりと残した美しいフィルムの数々である。

いろいろ大変だけど、生きること自体がすばらしく、かけがえのないものなんだ。そうしたメッセージが伝わってくる、大人のための人生賛歌である。」

ありがとう、辻山さん。言いたいこと全部言っていただきました。

これ、きっと映画化されると思います。できればモノローグ主体で、モノクロ映画で進行してほしい。「男と女」のクロード・ルルーシュが若ければメガフォン取ってほしいものです。

ローランの娘クロエや、ロールの飼猫ベエルフェゴールがチャーミングな存在で効いています。