張渝歌(ちょう・ゆか)作「ブラックノイズ/荒聞」(文藝春秋/古書1000円)は、台湾発のオカルト小説です。いやぁ〜、怖いですぅ。寝る前に読むと、あなたの枕元に赤い服を着たミナコがじっと立っているしれません。
張渝歌は1989年生まれ、現在台湾で最も注目されている若手推理作家兼シナリオライターです。国立の医大を卒業後、作家に転向しました。本作は2018年に出版されたもので、著者の友人が実際に体験した怪奇現象を基に組み立てられています。
さらに、土俗的なシャーマニズムやキリスト教などが複雑に絡まった韓国映画「哭声/コクソン」から影響を受けたと語っています。「哭声/コクソン」も怖い映画で、その映像表現と語り口に魅了されて、何度か観てはその都度やっぱり観るんじゃなかったと後悔します。なんせラスト、宙ぶらりんの状態で放り出されるのですから。しかも主演が国村隼。これがまた奇々怪々な演技で恐ろしい……..。そんな映画から影響を受けた「ブラックノイズ/荒聞」は、どこからか聞こえてくる声、ミナコとは誰なのかを巡って修羅場が展開します。
わざわざこのような怖い小説を読んだのは、作品の中に、台湾の複雑な民族事情とそこで交錯する宗教が描かれているのに興味があったからです。何度も他国に蹂躙された台湾には、支配者の占領政策の一環で多くの宗教が持ち込まれてきました。道教、仏教、キリスト教、日本が持ち込んだ神道、さらには原住民の山岳信仰が渾然一体となってきました。そこから立ち上る迷信や伝説が巧みに描きこまれ物語に深みを加えています。歴史的事実と虚構を大胆の織り交ぜた作品だと思います。
「ネットには、ブヌン族の人々は三種類の霊がいると信じていると書かれていた。『Kanasilis』に『baban-tainga』、それから『人間の幽霊』である。『Kanasilis』と『baban-tainga』はどちらも『人間』の形をして現れるが、前者は全身青色で後者は大きな耳と角を持っているらしく、子供をさらってその脳みそを好んで食べるそうで………」
「まただ。耳元で再びおかしな音がした。音はまるで遠い荒野ではぜる爆竹のようで、エコーもせずにただ『バリバリ』という雑音だけを響かせていた。音は徐々にピントを合わせるように、やがて女性の声になっていった」
きっと、あなたの耳元にもざわついた音が聞こえてきますよ…….。こわー!!!
●レティシア書房からのお知らせ 明日12月27日(月)は、平常営業いたします。
12/28(火)〜1/4(火)休業いたします。
●1/5(水)から、ギャラリーは「くろねこひじきとわかめin京都」展が始まります。
一昨年読んだ松家仁之「光の犬」と川上弘美「森へ行きましょう」以来の、著者の熱量200%の傑作長編小説に出会いました。西加奈子「夜が明ける」(新潮社/新刊2030円)です。
「苦しかったら、助けを求めろ」
これがテーマの400ページ余りの大長編ですが、読みやすい文体であっという間に読みきれました。
主人公は二人の男性で、思春期から33歳までを描いていきます。
「俺」は、高校で身長191センチの大男のアキと出会います。 普通の家庭で育った「俺」と、母親にネグレクトされていた吃音のアキは、 それまで生きてきた環境が全く違うのに、互いにかけがえのない存在になっていきます。父親を自殺で失った後、遮二無二に働きながら大学を卒業。テレビ制作会社に就職しますが、過酷で理不尽な現場の中で、徐々に心と体のバランスを崩していきます。
一方のアキは、母親の暴力に苛まれながら、アルバイトで家賃や食費を稼ぐ日々を送っています。
「食べたいものを買ってきなさい。そう言って渡される300円が、アキと母親の1日分の食費だった。」そんなある日、マイナーながらやりたい舞台を追い求める劇団に魅了され、飛び込みます。しかし、吃音の彼が舞台に上がることはありません。ひたすら掃除や雑用をこなしていきます。
二人の前には幸せは全く見えません。それどころか、さらに事態は悪化していきます。「俺」は、カッターナイフで腕を切って血を流すことで、一時の心の安定を求めます。
「もう筋肉など残っていない。俺の体を鎧のように覆っていた、あの美しい筋肉は、もうない、代わりに残ったのはこのみすぼらしいあばら骨と、だらしなく出た腹だけ。俺はただのみっともない生き物だ。」
アキも生活できなくなり、ホームレスになって都会のどん底を歩き回り、理不尽な暴力を受け、虐げられる日々を送らざるを得なくなります。
この国に明らかに存在する貧困、虐待、過重労働の実態を描きこみながら、著者はどこかに希望を見出そうと悪戦苦闘します。「当事者でもない自分が、書いていいのか。作品にしていいのか」と言う葛藤を抱えながらの作業だったようです。
かすかな希望を、作家は「俺」の部下だった森という一人の女性に託します。人間の権利を踏みにじるような職場環境の渦中に彼女はいます。彼女が彼に言うセリフ。
「私は、私のために声を上げたんです。それは当然の権利だからです。それは当然の権利だからなんです。そして、先輩、先輩にはもちろん、その権利があるのです。男だからとか、我慢しなきゃとか、泣き言うのは格好悪いとか、そんなこと、金輪際捨てちゃってください。何回も言うけど、今何年ですか?2016年ですよ」
その最後にいうのが、「苦しかったら、助けを求めろ」です。
本の帯に俳優の中野太賀が「息を殺しながら生きなくてもいいように、誰かの心が壊れないように、この物語が生まれたんだと思う」と書いています。その通りだと思います。
再生と救済の長い道のりを描いた物語のラスト。あぁ、こんな実験的な幕引きもあるんだと感心しました。
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京都市が、昨年より始めた京都文学賞。2回目の受賞者は、グレゴリー・ケズナジャットの「鴨川ランナー」(講談社/新刊1650円)です。著者は、1984年生まれのアメリカ人で、母国の大学卒業後、同志社大学大学院で国文学を専攻。現在、法政大学で教鞭をとっています。
この小説は、外国から京都に来た青年の日常の中で芽生える違和感や、ここで生きる不安や葛藤を「きみ」という二人称を用いて描いています。
「きみが初めて京都を訪れたのは十六歳のときだ。この時点できみはすでに二年間、日本語を学習している。」
という書き出しで、物語は滑りだします。「きみ」が京都に来たとき町は宵山の真っ最中でした。「まるで御伽噺の光景だ」。帰国後もその風景がフラッシュバックしてきます。
「きみはもう一度あの場所を訪れたくなる。そこへ行って何がしたいかよく分からないが、とにかくもう一度行くしかないような気がする。」
そして、英語指導助手として再び来日し、初の勤務地である京都府南丹市八木町へと向かいます。京都市内の私立学校ではない、という設定が小説の大きなポイントです。
どれだけ長く日本に住んだとしても感じる違和感。あっ、外国人ね、「どこから来たの」的な立場を押し付けられる居心地の悪さ。「日本語ぺらぺらの外国人」という線引きから逃れられない歯痒さ。田舎の町と繁華街を行きつ戻りつしながら、それらを受けとめるきみ。その姿を内省的に、しかし、私小説的に狭い世界に限定することなく描いていきます。
やがて、きみは就職で京都を離れ東京に住むことになります。初めてこの国へ来てから15年が経過していました。きみがこの国で何を得たのか、あるいは得られなかったのか…..。自宅のベランダから東京の夜景をみているとき、いきなり寂寥感に襲われます。
「京都に帰りたい。ふと頭に浮かんだ言葉はこれだった。すかさず、常に自分の日本語を監視している脳の一部が警鐘を鳴らし出す。帰る、のではない。京都はきみにとって故郷でもなければ、現在の移住地でもない。かつて、一時的に住んでいた街に過ぎない。
それでも仕方がない。文法的にそうとはいえ、きみの頭に浮かんだのは『帰りたい』だった。他にきみの気持ちを正確に表現できる言葉が、きみには分からない。」
異なった文化圏へ越境したとき、人は何を思うのかを淡々と描いた文学です。ご大層な「京都文学賞」なんていうお上の好きそうな言葉がなくても、読んだと思います。
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京都に住んでる方以外は、山科と言われてもピンと来ないかもしれません。ざっくり言えば、京都市の東側に広がる山科盆地北部と、周辺の山地が山科区です。砂岸あろ著「月の家の人びと」(エデイションf /新刊1870円)は、この山科に在る古い屋敷に住む人々の物語です。
実は、もう一つ山科を舞台にした小説があります。梨木香歩の「家守奇譚」(新潮社/古書900円)です。こちらも古風な家に住む青年の不思議な物語で、どうも古風な屋敷がピッタリするエリアなのかもしれません。
「月の家の人びと」に登場する家は、こんな感じです。
「北側の玄関を入って、応接間の東側に八畳の座敷、西側には六畳の洋間、六畳の和室、障子をへだてた北側には台所のある板間と納戸やトイレがありました。
五十年も前、明治の終わりごろに建てられたという家は、土壁はひびわれ、板戸はそりかえり、かなり痛んでいますが、庭ぜんたいはその数倍の広さがあり、とりわけ南側には、高い木立にかこまれた庭がひろがっていました。」
ここに暮らすのは立原家のお母さんのひな子さんと、三人の娘、一人の息子。お父さんはすでに亡くなっています。物語は、ここで成長してゆく子供達の姿を描いていきます。インターネットもない時代のお話で、子どもたちは、しっかり者のお母さんの愛情に育まれながら仲良く生きています。
長女の梢は病弱ですが、大の本好きで「本でできたお城のよう」な部屋で、末娘の柚は、梢に本を読んでもらいながら眠りに就くのが楽しみでした。女の子達が主人公なのですが、もう一人の主人公は、この家じゃないのだろうかと思います。やんちゃをしたり、喧嘩をしたりしながら育ってゆく彼女たちを、この家が、深い愛情を持って微笑ましく彼女たちを見つめているような感じです。
とはいえ、幸せな日が永遠に続いてゆくわけはありません。病弱だった梢が死んだり、一人息子が生まれた時の秘密があったりと様々なことが起きます。しかし著者は、そんな悲しいことも、大げさではなく静かに淡々と描いていきます。
やがて大きくなった子どもたちが出ていき、母親だけが暮らしている家に柚の子どもが遊びにくるところで物語は幕をおろします。
ラストの「はよう、お帰り。気ぃつけて。お帰りや」という、京都言葉の優しさに満たされてページを閉じました。
因みに、この小説のモデルになっているのは、著者の祖父母が住んでいた山科区竹鼻立原町にあった家で、かつて志賀直哉が住み、「山科の記憶」を書いた場所だということです。
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昭和45年、赤軍派が、東京発福岡行きのJAL便をハイジャックし、犯人グループは北朝鮮への亡命を要求。福岡空港と韓国の金浦空港で乗客を降ろす代わりに、運輸政務次官が人質として乗り込み北朝鮮に向かいました。犯人たちはそのまま亡命し、機体と政務次官と乗務員は日本に戻ってきました。
この事件は、「よど号事件」としてすべてTVで同時中継されて、私も固唾をのんで見ていました。それをそのまま取り込んだ小説が、伊東潤「ライトマイファイア」(幻冬舎文庫/古書500円)です。
「平成二十七年五月十七日、緊急連絡を受けた寺島大輔は、自宅マンションのある川崎大師駅から始発電車に乗って八丁畷駅に向かった。」
という書きだしで小説は始まります。警察小説らしいスタートだったので、このまま進行するのかと思いきや、急に時代は1967年(昭和42年)に戻ります。警察官になった中野健作は、突然公安に配属され、名前を変えて過激派の学生団体への潜入捜査に命じらます。
物語は、過激派に入った主人公が、警察官としての職務に忠実にあろうしながら思想的に変わってゆく様子を描き、学生たちの信頼を得て、ハイジャック犯の一人になっていきます。ハイジャック実行寸前に警察が阻止するものと思っていたのに、なにも起こらず北朝鮮へ向かいます。
ここから、この国での思想教育されてゆく姿が物語の本筋になっていきます。え?ハイジャック犯に公安がいた?そんな荒唐無稽な、と思われるかもしれません。しかしその背後にうごめく日本の闇の政治権力者たちの危ない思想を知ると、あったかもしれない、と思わせるエンディングです。
本書の三分の二を費やして、この公安刑事の北朝鮮での悪戦苦闘を描き出し、最後に現代に戻り、最初に登場する寺島の過去がクロスしてゆく物語は、やや出来過ぎの感はありますが、めっぽう面白い小説です。しかも、最後の舞台が基地問題で揺れる沖縄の辺野古です。
ところで、伊東潤という作家は初めてだったので、調べてみたら時代小説の作家で、現代物はこれが初めてみたいでした。ちょっと注目です。
「歩道橋の魔術師」(白水社/古書900円)以来、私は、呉明益にハマってしまいました。日本で出版される本を次から、次へと読んで、4冊目の「眠りの航路」(白水社/新刊2310円)もつい最近読了しました。相変わらず面白い小説ですが、どなたにもオススメできるかといえば、「?」ですね。まるで魔術にでもかかったような、世界を漂うような物語です。
作者自身と思わせる、現代を生きるフリーライターの「ぼく」が、第二次世界大戦中、日本統治下にあった台湾で日本名「三郎」を名乗らされていた「ぼく」の父親の戦争体験と、戦後を父親として生き、その後行方不明になるまでを描いていきます。
著者は、主人公が極端な睡眠障害に陥っていて、そこで父の夢を見て、彼の人生を追体験してゆくというスタイルで物語を進めて行きます。戦時中、日本軍は労働力不足を補うために台湾の少年たちを徴収し、日本に連れてきました。三郎もそんな少年の一人でした。そこで、彼は日本軍のために劣悪な環境で働かされます。その描写はリアルなのですが、夢の中で「ぼく」が追体験している描写でもあります。断片的な夢の中には、日本上空で撃墜されたパイロットが、上野動物園の檻に入れられ見物客に見せられていること、あるいは0戦生みの親、堀越二郎のことなどが登場します。
リアリズム一辺倒の戦時下の物語ではなく進行してゆくので、読んでいて肩が凝らない物語になっています。なんか、三郎少年の世界を、夢で見ているような世界です。
戦後、父は台湾に帰国し、ラジオ修理の腕で商売を始め、「歩道橋の魔術師」にも登場する台北の中華商場という商店街で店を構え、台湾の高度経済成長に伴って繁栄していきます。しかし、時代の変化で商店街が取り壊されて、父は失踪します。その原因も判明しないまま、物語は終わります。
著者はあとがきでこう述べています。
「この小説は歴史を描いているわけではなく、そうでない何かを描いているのだ。小説が完成したその瞬間、私はぼんやりとではあるが、それが何であるのかわかったような気がした。」
私はこれを描きたかったとズバリ言い切らないで、呉明益は読者に、そのぼっ〜とした何かを委ねているのかもしれません。改行も少ない300ページ余にもなる大作ですが、著者に運ばれて、あっちへフラフラ、こっちへフラフラという感覚を味わせてもらいました。
ところで小説の中に、東大法学部の学生で、知識があり、台湾の少年たちに親切だった平岡という人物が登場します。これは後の三島由紀夫のことです。実際に三島はこの工場で働いていたそうです。
盛岡市在住の作家・俳人のくどうれいんを初めて知ったのは、ミニプレス「てくり26号」(まちの編集室/660円)でした。「文学の杜にて」という特集の案内役でした。この号の表紙になっている書店「BOOKNERD」が自費出版した「私を空腹にしないほうがいい」を経て、2020年九州の出版社書誌侃々房から出たエッセイ「うたうおばけ」(1540円)、左右社から歌集「水中で口笛」(1870円)と続き、読者を獲得していきました。
そして、2021年発行された「氷柱の声」(講談社/新刊1350円)で芥川賞候補になりました。連作短編小説のスタイルで、東日本大震災が起きた時、盛岡の高校生だった伊智花が主人公です。震災から10年の時の流れの中で、彼女がどう変化し、どんな生き方を選んでいったかが描かれています。
「うん。かえせ。わたしの十代をかえせ、って、思っちゃった。なんていうか、震災が起きてからずっと、人生がマイボールじゃないかんじっていうか。ずっといい子ぶってたんじゃないかと思っちゃったんです。福島出身で、震災が起きて、人のために働こうと思って医師を目指す女。美しい努力、なんですよね。たしかに。もともとかしこくていい子だからわたしはそういうのできちゃうし、無理もなかったんですけど。でも、これからずっと美しい努力の女として生きていくなんて、もしかしたらいちばん汚い生き方かもしれないって思って、思ったらもう、無理かも!って。だから退学したの」
これは、伊智花の友達で医学部に通うトーミの台詞です。震災を経験したから、こういう生き方が美談に祭り上げられて、彼女たちに重くのしかかってゆく。
震災直後から、メディアは多くの物語を垂れ流し続けてきました。震災の当事者であってもそうでなくても、何かをしなければという思いにとらわれていき、がんじがらめになってゆく若者たちの青春群像が時に痛ましく、時に切なく描かれていきます。
東京の大企業の就職した釜石出身の青年、松田は、会社を辞めて故郷に帰る決心を上司に伝えた時、こんな言葉を投げつけられます。
「震災でちやほやされてたか知らないけど、折角震災採用なのに辞めたら後悔するぞ。」
この時、彼は震災体験者=かわいそう=助けてあげよう=それが企業の社会貢献、という図式に気づきます。
伊智花自身、震災とどう向き合うのかわからないまま生きてきました。しかし、それぞれに思いを抱えた仲間と出会うことで、自分が納得する生き方を見つけていきます。
「いまはちゃんと人生がマイボールになっているから大丈夫。やれることをやれるようにやるしかない。『今やること』がないなら作るしかない。自分がいちばん納得するようにやるんだよ」と、医学部をさっさと辞めて海外に渡り、再び福島で働くトーミは言います。
曇り空の隙間から青空が見え出してきた時に感じるような気分を、味わうことができました。
⭐️北海道のネイチャーガイド安藤誠さんのトークショーを今年も開催します。
10月24日(日)19時スタート(2000円)要予約
ヘェ〜藤沢周が、こんな本格的時代物を書くんだ!小説の王道を行く堂々たる出来栄えに感動しました。
私にとって藤沢作品といえば、「ブエノス・アイレス午前零時」とか、「サイゴン・ピックアップ」などのクールな感覚の現代物でした。それ以来、彼の著作は読んでいませんでした。
で、何でこの「世阿弥の最後」(河出書房新社/新刊2000円)に手を出したかというと、十年ほど前からお能を見たり、小鼓の稽古に通ったりしていることが大きいと思います。室町時代、能のスタイルを完成させた観阿弥と世阿弥親子。本書では、世阿弥が時の将軍によって72歳で佐渡島へ流刑された人生を描いています。
謡曲の詞章と和歌を織り込んだ道中風景が、読者を物語の世界へと誘い込みます。島に着いた当初は、都のことを思い出していましたが、この島の自然が彼の魂を鎮め、やがて、佐渡の人々と風物を愛するようになっていきます。彼の周りに登場する人物造形が巧みで、特に、たつ丸、了隠らの登場人物が世阿弥と関わることで物語がどんどん深くなってゆくところが読みどころです。
世阿弥が島に来た年は、極端な雨不足で稲作に大きな影響が出ていました。そのために島の権力者の命で、「雨乞い能」をするシーンの描写は、前半のハイライトでしょう。自然体で生き、移ろいゆく島の自然を愛しながら、能の深い世界を極めようとする世阿弥の姿が浮かび上がってきます。著者は佐渡島を眺めて育ち、武道を学び、能の体験もしたということですが、だからこそここまで描けるのでしょう。
佐渡に流され、恨みのうちに果てた順徳院の霊を鎮めようと、彼は新作能を書きます。
「いや…….、書かねばならぬ。順徳院の悶死するほどの悲しみを謡にして、仏にあずけ、弔うこと。それが佐渡にこの身を迎えてくださった順徳院への、せめてものご供養と、己れなりの覚悟にせねばならぬ。順徳院の成仏は、また己れの成仏でもあろうに。」
荒ぶる魂を鎮める能舞台が後半の読みどころです。やはり、ここでも荒々しい島の自然を巧みに取り込んで読者をクライマックスへと進めます。
実は、物語にはもう一人主人公がいます。それは彼の息子の元雅です。ただ、彼はすでに死んでいて、亡霊となって父の元に現れて寄り添います。生きている世阿弥と、死んでいる元雅が交錯するシーンが何度か登場しますが、それは、実体と霊が交錯する夢幻能の舞台を見ているようです。
「西行桜」を舞うクライマックスの舞台では、世阿弥に寄り添うよう元雅も舞います。しかし、
「私には元雅を抱くことができぬのだ。抱きしめようとしても、元雅が作った『隅田川』のように、黄泉路の国の我が子は腕をすり抜けていく。
幻に見えければ、あれはわが子か………、互に手に手を取り交はせば……、また消え消えとなり行けば……」
それでも、世阿弥は元雅を感じながらこの曲を舞い切ります。
格調高い文章は最後まで読者を離さずに、濃密なエンディングを迎えます。あぁ〜大長編を読んだ、という醍醐味を堪能できる作品です。
⭐️本の紹介をZOOMにてさせたいただく「フライデーブックナイト」。次回は9月17日(金)です。
⭐️北海道のネイチャーガイド安藤誠さんのトークショーを今年も開催します。
10月24日(日)19時スタート(2000円)要予約
佐藤究の長編小説「テスカトリポカ」(古書/1400円)を読み切りました。本年度、直木賞と山本周五郎賞のW受賞作品です。読んでみて、よく直木賞を獲得できたものだ、とまず驚きました。実際審査委員長の林真理子が、この作品を直木賞にすべきかどうかで大激論になったと語っていました。
ご承知のように直木賞はエンタメ系の小説に贈られる賞ですが、オーソドックスな小説の醍醐味をもたらしてくれ、品格のある作品に与えられることが多いと思います。が、「テスカトリポカ」は、とんでもなく暴力的で残忍な描写が支配する小説です。
メキシコの麻薬カルテルに君臨していたバルミロは、メキシコでの対立組織との抗争に敗れて、ジャカルタに潜伏していました。そこで、日本を追われた元医者の臓器ブローカーに出会います。二人は、誰もやったことのない臓器密売ビジネスを日本で始めるのです。
何らかの事情で無戸籍になってしまった児童を見つけては、悲惨な状況から救い出し、育て、新しい親を探す団体を立ち上げます。しかしこれは表向きで、実際は、子ども達の臓器を摘出して、移植手術を待ち望む裕福な人々に売りつけるのです。やがてこの二人の周りには、自らの暴力的衝動を抑えられない男達が集まってきて、組織は大きくなっていきます。
液体窒素で手足を凍らせてハンマーで打ち砕く、なんていう拷問などとんでもないシーンもあります。麻薬、殺人、アステカの恐るべき邪教、超人的な身体能力を持った少年、闇医者、麻薬中毒の保育士等が入り乱れて、物語は怒涛のごとく進行します。何度か、あれ?これノンフィクション?と思うほどの描写もあって、そりゃ直木賞選考委員の先生達が揉めたのもわかります。
聞くだに恐ろしいアステカ神話の世界が、現代日本の川崎に蘇り、麻薬資本主義の怪物達が咆哮る物語で、日本語をアステカの一言語であるナワトル語でフリガナするという独特の文体を読者に突きつけてきます。(そこが少し読みにくいというのが弱点なのですが)
究極の犯罪小説は、ラストがどうなるのか、途中から心配になり最終ページに近づくにつれてソワソワしましたが、ここに登場する不思議な少年コシモに救われました。途中、中だるみする所もありましたが、このエンディングのおかげで不安な気持ちが吹き飛びました。ひょっとしてコシモは神の国から降臨してきたのかもしれません。
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1993年にスタートした松本清張賞は、エンタメ系の小説に与えられる賞です。2021年満場一致で受賞したのが、波木銅の「オールグリーンズ万事快調」(文藝春秋/古書1000円)です。
この作家は現役の大学生で、弱冠21歳。女子高生が主役で、マリファナを学校で育てるというとんでもない物語です。
作家の中島京子が「おもしろかった。『万事休す』の状況なのに、この愉快さ。作者には天性の資質が感じられた。この賞が人生を狂わせないことを切に願う」と、帯に書いています。才能が爆発する瞬間が、確かにここにありました。
舞台は茨城県の田舎にある落ちこぼれが通う工業高校。三人の女子高校生には、それなりに未来に夢はあるのですが、もう現実はどん詰まり。家庭内環境も滅茶苦茶、学校ももうどうでもいいや、みたいな日々。それが、ひょんなことから学校の屋上菜園でマリファナを育て、あろうことか金を稼いでいきます。三人に悪びれたところなんか全くなく、クソ田舎にバイバイするには金だ!とばかりに行動していきます。
自虐的な笑い、シニカルな視点、オフ・ビートな文体で、一気に突っ走ります。ヤバいキケンな青春小説です。小説家の森絵都は「正直、粗の多い作品だとは思う。巧いとは一度も感じなかった。が、際立って面白かったのは事実」と書いていますが、「際立って面白かった」のは同感です。暴力シーンにセックス絡みのシーンと続きますが、どこか笑えてくるのです。
マリファナを育てるために、校舎屋上を園芸部として使用したいと、メンバーの一人の矢口が先生に許可をもらいに行くシーンです。
「教頭は微笑む。『はは。そうかぁ。矢口さんも、こう見えて女子だなぁ。お花が好きなんだね』
は?うるせぇ。マリファナだよ……..と明かしてしまうとすべてが台無しになるので、秀逸な愛想笑い(自分でもそう思うくらい)を浮かべ、まぁ、はい、と控えめに頷く。」
万事この調子です。とてもとても、素敵な高校生活とは呼べないどん底の状況なのに、タイトル通り「万事快調」とマリファナ作りに邁進する彼女たちに、拍手したくなってくる本当にヤバい小説かもしれません。
さらに彼女たちが卒業した後、「この活動をさ、後輩に継承してくってのはどうかな。金に困ってるヤツ、私たちの学校にいっぱいいると思うんだ」という明るさです。
で、絶対に学校推薦指定図書にはならない物語はどう収束するのか?改心する?まさか!
「きっとマトモなところには辿り着けない。それでも、まぁ、いいか。彼女たちは混乱のさなか、とりあえず、そう思った。」
彼女たちのこれからを応援したくなりますよ、きっと。
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勝手ながら、8/29日(日)は臨時休業させていただきます。