講談社が、戦後すぐの1946年に創刊した文芸誌「群像」には、多くの文学者が作品を発表 しています。

原民喜「鎮魂歌」や安岡章太郎「悪い仲間」、小沼丹「懐中時計」などは、発表された後に書籍化されていて私も読みました。悪に憧れる青年たちの心象風景を描く「悪い仲間」の面白さが印象に残った記憶があります。

家族の何気ない日々を描いた庄野潤三の「プールサイド小景」も、たしか「群像」に発表され、その後1955年の芥川賞を受賞しています。小津安二郎的な小市民の世界を描いてきたと勝手に思い込んでいたのですが、この作品は異質でした。

先日、文庫版「プールサイド小景・静物」(新潮文庫/古書250円)を再読しました。都会の日常生活をスケッチ風に描きながら、壊れてゆく幸福をクールなタッチで書いています。

「プールの向こう側を、ゆるやかに迂回して走って来た電車が通過する。吊革につかまっているのは、みな勤め帰りのサラリーマンたちだ。彼等の眼には、校舎を出外れて不意にひらけた展望の中に、新しく出来たプールいっぱいに張った水の色と、コンクリートの上の女子選手たちの姿態が飛び込む」

「プールサイド小景」は、こんな都会派小説風の描写で始まります。そのプールの傍で、子供たちを泳がせている父。夕闇が迫る頃になると、「大きな、毛のふさふさ垂れた、白い犬を連れた」妻がお迎えにやってきます。誰が見ても幸せそうな家族なのですが、実は夫は会社での不始末を切っ掛けに解雇されているのです。そして、徐々に忍び寄る家族の崩壊…….。今ならTVドラマにも描かれないようなよくあるお話なのですが、ゾッとするのは終盤の描き方にあると思います。

しばらくは家にいたものの、世間体やら、子どもの手前、そういつまでもこのままではいられなくなった夫は、あてもなく仕事場に向かうような姿で出て行きます。その後ろ姿をみた妻は夫は帰ってくるのか、そんな不安と焦燥にかられます。

「プールの向こう側を、ゆるやかに迂回して走って来た電車が通過する」という最初のシーンが再び登場します。しかし、そこに華やかな女子高校生の姿はありません。ポツンと浮かび上がるのは……..。

最初に読んだ時は感じなかったのですが、小説がものの見事に映像化されています。この文庫には、「家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりついている守宮のようなものだ」で始まる「舞踏」も収録されています。こちらは若い夫婦に忍び寄る家庭の危機が描かれています。

★4月9日(月)10日(火)連休いたします。

4月11日(水)から、京都の出版社ミシマ社の展覧会『ミシマ社と京都の本屋さん』を開催します。

 京都の本屋さんマップをレティシア書房の壁に作り、刊行した書籍や制作資料も展示します。お楽しみに!


 

「月光アパートは、H線、飛田駅の近くにあった。昭和初期に出来たアパートで、壁の色も、今はわからない程古び、玄関からはすえた匂いの漂う。侘しいホテルであった。この辺りの人々は、この月光アパートを、通称、飛田ホテルと呼んでいた。それは売春防止法以来、多くの夜の女たちが、このアパートに住みこんだためであった。」

で始まる「飛田ホテル」は黒岩重吾の短編小説です。

黒岩は1924年大阪に生まれ、同志社大学在学中に、学徒動員で満州へ向います。戦後小説家としてスタート、60年「背徳のメス」で直木賞を受賞した社会派推理作家の一人です。ちくま文庫から出た「飛田ホテル」(古書/500円)は、大阪を舞台に、社会のどん底で生きる男と女の姿を描いた作品集で、酒、煙草、むせ返る様な体臭が漂ってくる男や女が徘徊する街が舞台です。

表題の「飛田ホテル」は、現在の大阪西成のあいりん地区、以前の釜ヶ崎辺りが舞台で、実際の黒岩もこの辺りに住んでいたことがある街です。古びたこのアパートに、刑期を終えた男が戻ってきます。ここには妻が住んでいました。しかし、戻ってみると彼女はいなくて、住人たちもよそよそしい。男は街をさ迷い、妻を探します。そのディテール描写が読みどころです。戦後、盛り上がったイタリアのネオリアリズム映画みたいなザラザラした小説です。

「飛田ホテルは、今夜も薄い夜霧の中に滲んでいた。彼は刑務所から出て、初めてその灯を見た時、それは霧の中に咲いた、オオエビネの花のようだと思った。でも、今彼の眼にうつった灯は、敗残の人間の中に宿る、魂を失った醜い欲望の輝きであった。」

妻を探す男の運命に希望があるのか……あるわけがありません。

作品集には、六つの短編が収録されています。その大半が、大阪、しかも天王寺や、阿倍野界隈が舞台です。

「浪速区馬淵町は中山太陽堂の工場の傍にあった。ごみごみした暗い町である。東は新世界、南は霞町の市電通りを境に西成の釜ヶ崎と向き合っている。終戦以来手を入れられたことのない古びた市営アパートや釜が崎の宿と変わらない旅館、掘建て小屋のような家がならんでいた。」

読者は、薄汚れた街に生きる人達の侘しい生活を凝視してゆくことになります。地の底みたいな場所で蠢く男と女の愛憎劇なんて、TV2時間ドラマのお得意ですが、中身のないドラマと違うのは、登場人物の心の明暗がきっちりと描かれているところでしょう。こういう小説も面白いものです。

★連休のお知らせ 19日(月)20日(火)連休いたします

 

 

 

誰にも頼まれてないのに毎日このブログを書くために、何冊か同時進行で本を読んでいます。楽しいけれど、たま〜にツラい読書だったりします。スムーズに読了すれば順次アップするのですが、何かで止まったりするとあせります。ある日、立ち寄った新刊書店の文庫平台の堂場俊一の「Killers」(講談社文庫/古書800円)の上下巻の分厚い文庫が並んでいるではありませんか! いかん、こんな本読み出したら、ブログアップの計画がめちゃくちゃになると思いつつ、結局購入。もうそれからは、一気に読み上げました。

個人的に、日本作家によるハードボイルド、警察もの、新聞記者もの小説は大好きで、けっこう多くを読んできました。大沢在昌「新宿鮫」、逢坂剛「カディスの赤い星」、原尞「私が殺した少女」などは読み返すこともあります。最近、堂場瞬一が面白い作品を連発していて、上下巻で約1000ページある「Killers」も、読み応え十分のサスペンスものであり、しかも戦後から今日に至る渋谷という街を描ききっているところが注目点です。

「明治通りと直角に交わる細い橋の上に立って、渋谷駅方面を凝視する。渋谷川自体は、両岸をコンクリートで固められてしまい、川というより細い水路のようにしか見えず、川底には申訳程度に水が流れているだけだ。両岸には古びたビルが立ち並び、そこだけが昭和のままになっている。」

そんな今の渋谷に残された古いアパートで、老人の他殺死体が発見されたところから話は始まります。老人の顔には十字の傷が付けられていたので、捜査に当たった刑事たちは、1961年に起こった連続殺人件事件を思い出します。それらの事件の被害者の顔にも同じ傷があったからです。

小説は、現代から東京オリンピックで都市開発の進む渋谷に、時代が戻っていきます。警察の捜査と、犯人の異常なまでの殺人への執着を描きながら、繁栄の影で増幅されてゆく憎悪を炙り出していきます。

「ぞっとする、猥褻な指で背中を撫でられたような不快感が全身を駆け抜けた」

悪寒と恐怖の深い闇。都市開発の名のもとの街殺しは、2020年に迫った東京オリンピックに続いています。もちろん、これはフィクションですが、こんな人物が出てきてもおかしくありません。ラストはぞっとする幕切れです。

だから、東京オリンピックなんて止めましょうよ。

 

頭木弘樹編の「絶望図書館」(ちくま文庫/古書650円)は、実にユニークな短編小説の編集ものです。先ず、ページを開けると「絶望図書館ご利用案内」」があります。曰く、

「この図書館は『絶望的な物語』を集めてあるわけではありません。『絶望から立ち直るための物語』を集めているわけでもありません。絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、その長い「絶望の期間』をいかにして過ごすか?」

そういう状況の時に訪れて欲しい図書館という事なのだとか。三つの閲覧室が設置されていて、それぞれの絶望の状況にお薦めの作品が並んでいます。

第一閲覧室「人がこわい」の中で「人に受け入れてもらえない絶望に」という場合、三田村信行作、佐々木マキ絵の「おとうさんがいっぱい」が挙げられています。第二閲覧室「運命が受け入れられない」の「人生の選択肢が限られているという絶望」には、安部公房の「鞄」が、第三閲覧室「家族に耐えられない」の中の「居場所がどこにもないという絶望」には、手塚治虫「ブラックジャック」が、それぞれ用意されています。

これ、人生にいき詰まった時にどうするか、というよくあるノウハウ本でありませんし、従って解決にはなりません。様々な絶望的状況に陥った時、この物語はよく理解できるよね、というものを集めたものです。例えば、「起きてほしくないことが起きるのを止められない絶望に」という状況には、ウィリアム・アイリッシュの「瞳の奥の殺人」が用意されています。

身体の不自由な老婦人の目前で行われる、息子の嫁による殺人事件を扱ったサスペンスです。確かに、身体も動かせない、しゃべることもできないというハンディがあるのに、殺人を止めるのはほぼ不可能でしょう。でも、ここでこれだけは起こって欲しくない時に、それが起こるってことあります。

李清俊(イ・チョンジュン)の「虫の話」は、「恨みが晴らしようのない絶望に」陥った時にどうぞ、という一冊ですが、いやこれは、宗教と人間を扱った小説としてとても良くできています。息子を殺された母親を描いた本作品を、選んだ編者のセンスに拍手です。

さすがと唸ったのが、「離れても離れられない家族の絶望に」で推挙された、川端康成のわずか数ページの短編「心中」です。ぞっとする美しさに満ちあふれた作品で、ショートショートの才人、星新一が「これだけは書けない」と絶賛したという小品です。

と、まぁ様々な絶望が想定されていますが、おぉ〜こういう時にこれか、上手いなぁ〜、とムフフと頷きながらお読みいただくのがベストです。

因みに第一閲覧室の前に、こんな言葉が掲げてありました。

「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」

太宰治の言葉です。

 

昨年末から、時代に関係なく、様々な作家の短編小説集の中から、適当にピックアップして読んでいます。一つ、二つ読んで、これは私に合わないと思ったら次にいく、という気楽な読書です。芥川龍之介の「地獄変」なんて何十年かぶりに再読して、あまりの面白さに他の龍之介作品を読んだりと、思わぬ効用もあります。

しかし、う〜ん、わからん???が脳内に点滅しながらも、最後まで読んだ短編がありました。古井由吉の自撰短編集「木犀の日」(講談社文芸文庫/古書800円)に収録されている「背中ばかりが暮れ残る」です。

「終日ほとんど動かず、物を読んでいる。くたびれた上着に、冬場なので綿入れをはおり、膝には毛布をまわしている」老いた男は、一日中同じ姿勢で本を読み、食事の準備にくる女に養ってもらい、「疲れのにおう身体を畳の上にゆっくり押し倒す」というスケベな老人。これが主人公だと思っていると、「男の背中に向かって私は呼びかけ」と私が登場します。ではこの老人は何?と思いつつ、先を読むと、こんな文章に出会う。

「夜の夢ではない。昼の妄想とも言いきれない。私の念頭のうちにくっきりと存在している」

えっ?老人は「私」の精神の中に存在する幻影?? と考えていると、今度は「私」が若い時の登山の帰りに、見知らぬ男に誘われて酒を飲んだ話が登場する。こんな具合に、物語はふわりふわりと漂泊していき、「多忙は頭脳の隅に、かえって徒らな夢想の閑をあたえる」という今の「私」の仕事部屋に戻り、そこで彼は、すでに死んだ知り合いの、生前のハガキを見つける。そこには病が回復したので、年内に家に戻りますと近境報告があり、最後は「よい年をお迎への程御祈り申し上げます」と結ばれていて、小説は幕を閉じます。

なんだ、なんだ、これは!と、私の読み方が不十分があったのだと思い、再読するも作品を掴みきれないのです。けれど、不思議なことにこの作品を読むのが苦痛ではなく、引き寄せられていくのです。

古井の作品では、神経を病んだ女性と登山で出会った男を幻想的なイメージを交えて描いた芥川賞受賞「杳子」しか読んだことがなかったので、再度トライしてみたのでした。しかし、う〜ん、わからんかった…….。

表題作「木犀の日」に

「曇天としの夜明けに寝床からむっくり起きあがり、親しい家の祝いによばれていたことを思い出し、閑散とした早朝の路をたどる、という夢は幾度か見たことはある。なにやら苦痛のなごりと、そして恍惚とに堪えるために、ひっそりと足を運んでいる。親しい家はどこの家なのか、何の祝いなのか、なぜ朝早くにか、知るまでには至らない。」

という独白が登場する。老いた精神に宿る幻想と迷走が潜んでいそうです。

こんなもやもやした気分も読書の楽しみとしたいものです。

 

前日に引き続き、中島京子の家族小説をご紹介します。中央公論文芸賞を受賞した「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)は、チャンドラーのハードボイルド小説と同じタイトルですが、こちらは認知症になった父親の物語です。

東昇平には妻と三人の娘がいます。娘達はそれぞれ独立していて、長女は夫の仕事の関係でアメリカに滞在、次女も結婚し、三女はフードコーディネーターとして頑張っています。昇平は教師として職責を全うし、今は妻と二人で暮らしています。

と、こう登場人物を書いてしまうと、やはりどこにでもある家族です。物語は、昇平が徐々に認知症を患い、その介護に巻き込まれる女性たちの10年間の姿を描いていきます。

後半、認知症の進行に伴って、疲弊してゆく妻と娘たちとの葛藤が表面化していきます。作家自身の体験なのか、それとも詳細な取材の結果なのかはわかりませんが、介護の状況はリアルに描かれています。きっと、実際の現場はもっと修羅場なのでしょうが、あくまで小説でノンフィクションではありませんので、その辺りを物足りないと取るか、物語としてスルスルと読めていいと取るかは、読者次第です。

昇平が元気になるという事態はありえませんし、当然、家族との永遠の別れは待つのみなのですが、「お父さん、お別れね」などという陳腐なシーンは全くありません。それどころか、妻や娘たちとの死別のシーンがありません。もう、最後というシーンで一気に舞台はアメリカに変わります。

アメリカにいる長女の息子が登校拒否になり、校長との面談に臨む場面になります。そこで、初めて孫の口から「祖父が死にました」というセリフが出ます。認知症の始まりを、孫が「十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初」と校長に伝えると、その言葉を受けて、校長はこう言います。

「十年か。長いね。長いお別れだね」。その意味を分かりかねた孫に向かって、「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」ざっくばらんな校長との会話に、本のタイトルが登場するのです。

この二人の会話で小説は幕を閉じます。静かなエンディングです。亡くなった人への切ない思いを、ふっと浮き上がらせる巧みな終り方だと思いました。

●レティシア書房のお知らせ●

 年始年末 12月29日(金)〜1月4日(木)休業いたします。


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中島京子が、どこにでもある家族を描いた長編小説、「彼女に関する十二章」(中央公論社/古書1200円)、「長いお別れ」(文藝春秋/古書1150円)を連続で読みました。

家族って、めんどうだなぁ、でも、しかしなぁ〜という実感は誰でもお持ちでしょう。そこを見事に突いて、読んだ後、まぁ仕方ないね、自分の人生だからね。とちょっと前向きになれるお話です。決して「泣ける」とか「涙が止まらなかった」的な陳腐な小説ではありませんので、ご安心を。

今日ご紹介する「彼女に関する十二章」は、初老にさしかからんとする夫婦の物語です。

「どうやらあがったようだわ。こんなにきれいに、まるでお役所仕事のようにきっぱりと容赦なくあがるとは思わなかった。五十歳の誕生日を過ぎてからこっち、きっぱりと月のものが無くなった。」

という主人公の主婦、宇藤聖子のひとりごとで始まります。ライターの夫と、遠くの大学に通っている一人息子、そして自分は、パートをしながら家計を支えるという、典型的な家族の日常が描かれます。現状への不満はないものの、忍び寄る将来への不安。

そんな時、彼女の小学校時代の初恋の男性の息子が現れます。「父親が亡くなりました」という報告と共に。彼の息子の表情に過去の淡い思い出が甦りますが、この二人が恋に陥るわけではありません。これまでの日常になかった感情に揺さぶられる主人公。さらに、パートの仕事で舞い込んだ新しい職場と、その職場で出会った風変わりな老人片瀬。根無し草みたいな生活を続ける彼はこんなことを言います。

「便利ということに興味が持てなくなったんです。」「便利である必要があるのか、何にとって便利か、ということを突き詰めるとめんどくさくなってきて、興味がなくなってしまったんです。」

この老人との付き合いやら、突然女の子をつれて帰ってきた息子の登場やら、それなりに人生は動いていきます。もちろん「寒い日に身体の節々が痛くなったり、シャンプーをいくつ変えても髪型が決まらなくなったり」というこれまでとは明らかに違う兆候を意識せざるをえなくなり、確実に老いは近づいてきます。でも納得して生きるしかないね、ふふふ……、と笑って小説の幕は降ります。

「そう言えばここ二三ヶ月、月のものがないけど、こんどこそ、あがったのかなと考え、どことなく月経前症候群めいた下腹の張りがあるのに気づき、きっぱりとあがらないのよ、予断は許さないのよ、と、一人、カフェオレとトーストの朝食を摂りながら、聖子はいつものように脳内独白を続けた。」と。

「生きるって予断は許さない」というのは真理です。

明日は、老人介護真っ最中の家族を描く「長いお別れ」を紹介します。

 

柴崎友香の「千の扉」(中央公論新社1000円)を読みました。この作家の本は、映画にもなった「きょうのできごと」(河出文庫400円)ぐらいしか読んでいませんでした。

「千の扉」の舞台は、古くからある都営公団住宅です。いや、この公団が主役と言っても過言ではありません。主人公は39歳の千歳という女性で、結婚した一俊と共に、公団住宅の一室に引っ越してきます。元々、この部屋は一俊の祖父、勝男が住んでいた部屋で、彼が入院したために、その間住むことになったのです。千歳は、彼から公団に住んでいるはずの高橋さんを探して欲しいという奇妙な依頼をされます。ほんとうにいるのかどうかもわからない人物を探して、物語は進むのですが、波瀾万丈の展開は全くありません。

公団の日常、千歳と一俊の生活、二人の知人の出来事が控え目に描かれていきます。どこにでもある公団を、季節の移り変わりと共にひたすら見つめるような作品なのです。そこに住んでいる様々な人達の、それぞれの人生をスケッチしたような物語は、広がることなく、小さな空間で進行します。しかし、その一方で、彼らが住む以前の戦中、戦後を公団で生活していた人たちの姿が挿入されたりして、時空がヒョイと飛び越えたりする構成にもなっています。

「建物も住人も、すべてがゆっくりと衰えて行く。新しいビルや高層マンションが次々と驚くようなスピードで増え続ける都市の真ん中で、ここは時間の速度が落ちてゆくように、千歳には感じられた。」

朽ちてゆく公団に生きた、多くの名もなき人々の過去と、千歳の今の人生が一瞬交錯します。千歳は勝男の奇妙な依頼を解決する過程で、公団が持っている長い時間の記憶、住んでいた人の記憶を旅していきます。そしてラスト、彼女は一つの幻影に出逢います。読み終わって、あれ?これって時間を旅するSF小説だったの?というような不思議な気持ちになりました。

 

 

★臨時休業のお知らせ

11月6日(月)7日(火)連休いたします。

 

 

カナダ東端、厳冬の島ケープ・ブレトンで展開するマクラウドの「冬の犬」(クレストブックス1300円)は、寡作で知られるマクラウドの傑作を集めた短編集です。ケープ・ブレトンってどこ?と思われる方が殆どだと思いますが、「赤毛のアン」で有名なプリンス・エドワード島の東側にあります。マクラウドは、作品の殆どをこの島を舞台にしています。

小川洋子は、「馬のひづめから舞い上がる、白い星のような雪の美しさ。遠い過去から受け継がれる死の記憶を、心静かに胸の洞窟におさめる人間達の哀しさ」という推薦の文章を寄せています。大都会の真ん中とは全く違う、針葉樹とごつごつした岩と吹きすさぶ風に取り囲まれた島で、小川洋子が言うように「人間も動物も、与えられたそれぞれの生をただ生きてゆくしかない」という人生の一瞬、一瞬を切り取ったスケッチで満ちています。

波乱に満ちた人生があるわけではありません。二番目に収録されている「二度目の春」は、牧畜の家に生まれて動物達と暮らしてきた少年と、牛の種付けの話です。嵐で牧場が吹き飛ばされるとか、少年が牧畜を捨てて、新しい人生に向かうというようなうねりのある物語ではなく、

「夏の季節には、今も述べたように、動物たちは力強く自由になった。乳牛だけは一日に二回、乳を搾るために納屋につれていかれたが、その乳牛でさえ独立心が旺盛で、ほとんどいばっているという感じになった。ほかの動物たちは、夏休みの長い長い一日一日を、心おきなく好き勝手に草を食んで過ごしていた」

こんな描写が続いていきます。なんだか、少年と一緒に牛を育てている感じです。少年が種付けに取り組んだ人生の一時、それもまた過ぎてゆく。

一番最初に収録されている、十数ページの「すべてのものには季節がある」は、ある一家のクリスマスの夜を描いたものですが、そのラストで、一家の父親は「誰でもみんな、去ってゆくものなのだ」と静かに子供たちに言うシーンがあります。そして、こう続けます。

「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」

そういう人生でありたいものですね。

         

           ★発売開始しました!

           町田尚子さんの限定生産ミニカレンダー(500円)

 

 

 

 

 

島村 利正(1912年〜1981年)は、長野県の大きな商家の長男として生まれ、稼業を継がずに、家出して奈良の古美術写真出版社、飛鳥園に飛び込み、写真家小川 晴暘に教えを乞う一方、志賀直哉、武者小路実篤らと親交を結び、作家活動に乗り出します。1943年には「暁雲」で芥川賞候補になります。

店頭にある「奈良町登大路町」(講談社文芸文庫/絶版1300円)を読むと、作家が奈良にいた時代のことを描いた「奈良町登大路町」に出会いました。

「青く澄んだあの眼のいろを、奈良町登大路町を、私はときどき思いだした。あの眼との出逢いは、随分遠いむかしのことになるが、私は何かの機会に、ふと、その眼のいろを思いだした。」

と作者の回想で始まるのですが、この「青く澄んだあの眼のいろ」をした人物は、ラングトン・ウォーナーという実在の軍人です。彼は、ボストン美術館で岡倉天心の助手を勤め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣されました。彼の名前は、アメリカ軍上層部に対して、文化財の集まる京都を守るために、爆撃対象から外す様に申告したことで有名になりました。(まぁ、これは眉唾物というのが現在の結論ですが)

そのラングトン・ウォーナーと小川 晴暘との親交を見つめたのが「奈良町登大路町」で、小説というより、個人的エッセイの趣きです。奈良の町を描く簡潔で、端正な文体は、好き嫌いがあるかもしれません。ただ、静かな街並みを歩く主人公たちの足取りから、古美術を巡る幸せな日々が伝わってきます。

島村が読売文学賞を受賞した「妙高の秋」は商家を継がず、奈良にむかった若き日、その後の日中戦争で兄弟が出兵して、戦死する辛い日々を描いた私小説です。殆ど、島村の個人史を読んでいるようですが、叙情的で、明確な文章には引込まれてしまいます。

つまらない奈良の紹介本よりは、遥かに豊かなイマジネーションを与えてくれるのでは、と思います。

 

 

★安藤誠ネイチャートークショー「安藤塾」今年も開催決定しました。

北海道のネイチャーガイドで、釧路ヒッコリー・ウインドオーナー安藤誠さん(写真左・愛犬キャンディと)のトークショーを10月25日(水)19時30分より開催します。(要・予約 レティシア書房までお願いします)