私は図書館で、日中戦争の時代、特に満州国の建国そして治世についての本を貪り読んでいた時期がありました。良くも悪くも魅力的な人物が登場していたので、彼らの人物論も読みました。(もちろん、日本の中国侵略と虐殺行為を肯定するつもりはありません)その中の一人に、後年総理大臣に就任した岸信介がいます。

岸が実名で登場するのが、伊吹亜門著「幻月と探偵」(古書1400円)で、日中戦争が始まった昭和13年の旧満州が舞台です。主人公はハルピンに住む、しがない私立探偵月寒三四郎。彼の元に、ある官僚の若い秘書が変死し、毒殺の疑いがあるので調査をしてほしいという依頼が舞い込んできます。その調査を指示してきたのが、当時満州の高級官僚だった岸信介です。

「異相の男だった。醜いという訳ではないが、一目見たら決して忘れられない顔立ちだ。両頬の肉が迫り出した顔は瓜のように長く、笑うと剥き出しになる前歯は小振りな麻雀牌を並べたようだった。兎か鼠の貌を人間のそれに無理矢理近付けたような顔立ちというのが、月寒の抱いた感想だった。」

そういえば確かにそういう風貌でした。

「プリスタン発フージャン行きの大型乗合車内は、大蒜(ニンニク)の臭いが充満していた。斜め向買いに腰を下ろす満人の老婆は確かに網一杯の大蒜を抱えているが、この悪臭は月寒が腰掛けた布張りの座席からも漂っているようだ。床下から漏れる揮発油臭と混ざって、胸が悪くなるような臭いだった。」

むせかえるような街の描写を織り交ぜながら、物語は進行します。やがて、関係者が毒殺され不気味な展開になっていきます。

推理小説としても面白いのはいうまでもない事ですが、事件の背景に日本軍のシベリア出兵の時に、とある村で起こした村民虐殺事件、さらに軍部による満州全土の阿片密売ビジネスの掌握という昭和史の闇の部分に焦点が当てられていきます。

「金と同じく少量でありながら高額で取引される阿片は、軍部にとって非常に使い勝手の良い代物だった。そのため関東軍は掌中に収めた流通経路を通じて、熱河省などで栽培される罌粟(ケシ)の花を買い上げ、そこから精製した阿片を国内外で多く売り捌いていた。」

麻薬で他国の人々をコントロールするなんて、もうそれだけで戦争の正当性などあったもんではありません。虐殺も日常茶飯事のごとく繰り返されていたはずです。

正当化できるものは無いはずなのに、なぜか満州に関わる人や事件には惹かれるものが多いのです。