幸田文の随筆は、その文章の上手さに惹きつけられて、チョイチョイ読んでいましたが、こんなネイチャー・ライティング的な本も出していたのです。彼女の最後の長編「崩れ」(講談社950円)です。

この本の紹介をする前にネイチャー・ライティングを一般的に定義しておきましょう。基本的に自然環境を巡るノンフィクション文学をこう呼びます。。自然科学系の客観的な自然観察とは異なり、自然環境をめぐって「作家の思索や哲学的思考」が中心となるのが特徴です。おそらく原点は、アメリカならソローの「森の生活」、日本なら野尻抱影の著作あたりではないかと思われます。芦澤一洋の「アーヴィングを読んだ日」(小沢書店/絶版 950円)がそのアンソロジーとして優れた一冊です。

さて、幸田文の「崩れ」は日本の大自然の中で、各地で起きる山崩れ、河川の氾濫等を現地に出向き取材したものです。昭和51年11月から52年12月まで、雑誌「婦人之友」に連載されていたものを単行本にしてあります。どこから読み出してもいいのですが、第八章「十月なかば、富山県も常願寺川をさかのぼって、立山連峯のうちの一つ、鳶山の崩壊を見にでかけた。」がお薦めです。

砂防のメッカといわれる難所で、崩壊も荒廃も凄まじい場所なのだそうです。見に行きたいという欲求と、老体の自分が、そんな環境で耐えられるのかという不安のせめぎ合いの中、出かけてゆくところは、スリリングな出足です。幸田はその行程をリアリストの目線で見つめ、的確な日本語に置き換えて、読者に荒涼たる現場をつぶさに見せてくれます。リアルな自然描写のなかに、「作家の思索や哲学的思考」が巧みに織り交ぜられています。強力に背負われて、急峻な道を上り、その崩壊の現場に立った時、彼女はこう書き記しています。

「見た一瞬に、これが崩壊というものの本源の姿かな、と動じたほど圧迫感があった。むろん崩れである以上、そして山である以上、崩壊物は低いほうへ崩れ落ちるという一定の法則はありながら、その壊れぶりが無体というか乱脈というか、なにかこう、土石は得意勝手にめいめい好きな方向へあばれだしたのではなかったー私の目はそう見た。」

そして「おそらくここはその昔の崩れの時、人が誰もかつて聞いたことのないような、人間の耳の機能を超えるような、破裂音を発したのにちがいなかろう、と思わされたのである。気がついたら首筋が凝っていた。」と、長く佇むべきではないと確信しています。

「崩壊についての書物は、読んでもわかるところが少なくなかった。」と自分の読書体験を綴り、だからこそ誰でも容易に理解できる荒々しい日本の自然の姿を書こうとしたのかもしれません。そして、その果てにある風景に、帯にあるように「生あるものの哀しみを見つめる」ことに向かいます。

日常生活の様々な風景を描いたエッセイとは全く別の世界ですが、ネイチャー・ライティングの力量まで持っていた作家の大きさを知る一冊です。

★8月9日(水)〜20日(日)「レティシア書房 夏の古本市」を店内で開催します。個性的な28店のよりすぐりの古本が大集合です!(14日は休み)

暑い日が続きますが、お立ちよりください。

★休業のお知らせ 8月7日(月)、8日(火)連休 21日(月)〜25日(金)夏期休業いたします

 

 

 

 

小説なり、エッセイなりを読んでいてシャキッとさせる文章に出会うと、思わず背筋が伸びます。

大学生の時に、辻邦生に出会い初めて言葉の持つ強さに目覚めました。「嵯峨野明月記」、「安土往還記」そして「背教者ユリアヌス」といった歴史小説に、心動かされた「真面目だった」青春時代の思い出です。

その後、様々の作家に出会いました。生き方や世界感が文章に溢れている池澤夏樹。首尾一貫した思想に、強さを感じました。池澤と親交のあった須賀敦子も、やはり凛とした文章を書く作家です。

「幼いときの読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。」

「遠い朝の本たち」(ちくま文庫350円)に収録されているアン・モロウ・リンドバーグのエッセイについて書かれた文章です。一人の少女が、大人へと成長する過程で、精神の羅針盤となった本について書かれています。

最近、その力強さに驚かされたのは幸田文「父その死」(新潮社/絶版1800円)です。

昭和23年夏、父幸田露伴の臨終と葬儀を冷静に見つめた本です。父が初めて寝室で血を吐いた、その瞬間を

「死は父を奪うに、なんとふてぶてしくやって来たことだかと。しょっぱなから鮮烈な血の彩りをもって、不敵に面つきだして挑んだことだった。」

父親に近づきつつある死の訪れに、混乱する彼女を、まるでドキュメンタリストのカメラが正確に捉えた如き描写も凄味があるのですが、何度も吐血を繰り返す中、血の臭いを「鈍重な、ずうずうしい。押し太いにおいだ。ものを統一させる、清澄なにおいではない。悩乱させ騒動させる臭いだ。」と描いています。90ページ弱に及ぶこのエッセイは、最後、簡潔に終わっています

「父は死んで、終わった。」

あとがきで幸田文は、「死とはかくも内外ともにたやすからざることであり、他方からいえばこうもやすやすと行われるかとも深く感じ、思うこと多く」とあり、父の死には「私一人が直面しようとした。面と対えるのは一人の一人だ」と強い文章で、彼女の心持ちを描いています。決して、読んでいて楽しい一編ではありませんが、誰もが直面する死を、正面から捉えた傑作でしょう。

★2月8日(水)〜19日(日)レティシア書房恒例「女子の古本市」を開催いたします。

東京、岐阜、神戸、大阪、滋賀、京都から20数店の女性店主がセレクトしたステキな本が、所狭しと並びます。ご来店お待ちしています。

全集ものには、必ずと言っていい程に「月報」が付いています。月報に載っていた文章で、その作家に興味を持つことがあります。例えば、岩波書店が98年に出した「幸田文全集」の15巻の月報で、画家の宮迫千鶴が、幸田文を「だぶつかない『男前』の魅力」と表現しています。これは、収録されている「塔はこれからさ」という奈良法輪寺の古塔再建をめぐる職人について書かれた文章の一節です。

一仕事が終わった後に職人が感じる寂しさを、

「一仕事の区切りに、秋風のような愁いがもたらされるのは、きりりとして素敵です。だぶつかないほうが男前です。」と、表現するのです。

宮迫は、最初は、きりっとした佇まいが苦手だったと告白しています。いや、私もそう思っていました。古くさい、というレッテルを貼って見向きもしませんでした。しかし、彼女は「だぶつかないほうが男前です。」というのが、そのまま幸田文の魅力だと語ります。そして、こう言い切ります

「女がだぶつかない『男前』を生きる時にだけあざやかに開く花があるとすれば、秘かに心の奥で真似したいと思うようになったのである」

この月報を読んでから、ちょいちょいと幸田文のエッセイを読むようになりました。いかにも、明治女らしいきりっとした文章も、身体がシャキッ!となって良いのですが、掃除について書かれた「机辺」の中のこんな文書が好きです。

「あまり手早にせかせかとしあげた掃除は、たとえ掃除そのものに手落ちはなくても、先ずおよそ父の不機嫌をかうということである。掃除したあとに、せかせかした空気が残っていて、あたかも塵が浮遊しているような、静まらなさがあり、これが父に抵抗を感じさせるらしかった」

「塵が浮遊しているような、静まらなさ」っていい表現ですね。これから大掃除のシーズンですが、ちょっと心に留めておいてはいかがでしょうか。

なにがなんでもクリスマスだ、お正月だというぎゅうぎゅう詰めのこの時期こそ、幸田文の本なんぞ読んで静かにすごしたいものです。この月報の入っている全集は、きちんと函付きの美本で700円です。

 

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