原子爆弾が投下された広島を舞台にした小説「夏の花」(晶文社/古書700円)や、幼い日々の記憶が瀬戸内の風景と共に切なく描かれた短篇集「幼年画」(瀬戸内人1944円)等を読んで、ファンになった原民喜。彼は、小説家であり、詩人であり、そして童話も書いていました。

彼の童話と、様々な人達が彼への思いを寄せた別巻「毬」を、セットで函入にした「原民喜童話集」(イニュイック2970円)が発売されました。作り手の愛情が溢れる本は、持った瞬間にわかります。シブい色合いの函、その色を邪魔しない帯と、使用されているフォントの美しさ。童話集の表紙に描かれた小さな原の後ろ姿、そして、童話集の装幀とは真逆に光沢紙の「毬」の表紙は、正面を向いた原の写真が使われ、タイトルの「毬」が赤い小さなフォントで目立たないように配置されています。もう、これだけで本を持つ喜び一杯です。

童話集は、7篇のお話と、全集未収録の詩「ペンギン島の歌」が収録されています。

「誕生日」は、遠足に行った雄二君の様子が描かれた短いお話です。天気のいい日、風に吹かれて山に登り、お弁当を食べて深呼吸を一つ。原が作り出す美しい言葉が、読む者を包み込み、幸せな気分にしてくれます。

コスモスの咲いた夜、月に照らされたコスモスを見て楽しむモグラの母と子を描いた「もぐらとコスモス」。「赤、白、深紅、白、赤、桃色……….コスモスの花は月の光にはっきり浮いて見えます。」という風景を見た子供のもぐらの嬉しそうな表情が、目に浮かびます。こちらも数ぺージで、親子がほんの一瞬地上に出ただけのことを描いたお話なんですが、澄み切った月夜の風景が立ち上がってきます。

別巻で詩人の蜂飼耳さんは、「ひかえめな言葉が、目を素通りさせるところもあるのだけれども、いったんその佇まいに気がつけば、実感のある表現として心の底へ落ちる。そこから受け取ることのできる原民喜の感覚のこまやかさには切実なものがあり、一語一語を再現し読んでいくうちに、胸が詰まる」と書いています。「ひかえめな言葉」が「胸が詰まる」という表現は、この童話集の価値を伝えていると思います。

原は亡くなる前年、「ぼくはヒバリです。ヒバリになっていつか空へ行きます」と呟いたそうです。その言葉を巡って、倉敷の名物古書店「蟲文庫」店主田中美穂さんが、とても素敵な原民喜への思いを言葉にしています。

被曝し、悲惨な現状を見た原だからこそ、「幼年画」や「童話集」の収められたような美しい作品を残せたのかもしれません。机の前に置いて、眺め、触れ、そして函から出して何度も何度も彼の言葉を追いかけたいような、大事にしたい一冊です。

★「幼年画」は二種類の表紙があります。どちらも在庫あります。

11月11日のブログ、「ちょっと面白いかも?」でご紹介した本が好評だったので、調子にのって第2弾です。

風や水で動く野外の立体作品で有名な彫刻家、新宮晋が絵本を描いていました。タイトルは「くもSPIDER」(900円)。「ある夏の夕方」でという言葉で始まり、夜の間、一匹の蜘蛛が巣を張ってゆく様を美しい点描で描いた絵本。巣の張り方は、本物そっくりなのですが、星が背景に描き込んであるので、まるで宇宙に浮かんでいるみたいで夢のような美しさです。風で動く作品の作家だけに、今にも巣がふわりと動きそうです。

次に紹介するは、河野多恵子の「半所有者」(700円)です。確か、ブログでも紹介した池澤夏樹個人編集の「日本文学全集」」の「近現代作家3」に収録されていて、そちらで読みました。ぞっとする物語ですが、面白いです。そして本の装幀が素敵です。アンカット版(ペーパーナイフで各ページを切り取るスタイル)ではないのですが、それ風のスタイルで各ページの端に、表紙に描かれている蝶がデザイン化されて描かれているという凝ったものです。中野慎治の挿画も美しい。

「色ざんげ」や「おはん」などを書いた宇野千代の「私の文学回想記」(500円)は、今なら女性誌に乗りそうな彼女の恋愛話満載で、ふふふ、と読んでしまいました。「私と東郷青児との結婚生活くらい、矛盾に満ち、また摩訶不思議なものはなかったと思ひます」で始まる結婚生活記録は、文学者らしく、品位を落とすことなく描いています。「東郷との無茶苦茶な生活も、面白かった、と言はない訳には行きません。昼間は呼吸も出来ないほど借金取りに責め立てられても、夜はその苦痛の痕跡もなく、レコードをかけて客と踊ったりしました。」なんて生活、一般人には想像できません。

現在放映中のNHKの朝ドラ「わろてんか」は、大阪のお笑いを描いていて面白く見ています。笹野高史が気楽亭文鳥役で「時うどん」を演じていましたが、さすがでした。せっかくだから、大阪の芸能のお勉強でもという”奇特”な方に、香川登枝緒の「私説おおさか芸能史」(800円)はお薦めです。香川は「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」等の大ヒットTVドラマの脚本家でした。TV創成期から、この業界で活躍していた人物だけあって、興味のあるエピソード満載の一冊です。漫才、落語に留まらず、歌舞伎、文楽、松竹新喜劇まで上方芸能の話が、ソフトな語り口で書かれています。ちなみに、「わろてんか」でヒロインが演じる女性は、吉本興行を創業から引っ張っぱってきた吉本せいがモデルです。もちろん、この本でも取り上げてあります。

 

筆者の選んだ本がズラリと並んだ正統派の書評集は、どちらかというと苦手です。最後まで読んだのは、斎藤美奈子ぐらいではないでしょうか。岡崎武志の「人生散歩術」(芸術新聞社1300円)みたいに、著者の生き方、或は人生哲学と本がシンクロしているものは、私はあまりお目にかかったことがありません。

けれども、平松洋子「野蛮な読書」(集英社文庫450円)は違いました。こういう本を待ってました。

この書評集は、取り上げる作家も、紹介の仕方もバラエティに富んでいます。例えば、開高健の一冊の本と共に、彼女はあちらへ、こちらへと動き回ります。散歩ついでに買った「戦場の博物誌」は、モスバーガーで先ず読み出し、翌日能登半島へ向かい、半島尖端の宿でつづきを読むといった具合です。移動しながら「戦場の博物誌」を読み続け、開高健を語ります。旅から戻り、風呂で冷えた体をあたため、最終章に進みます。「掌のなかで自分の分身が無に帰する。さいごのあの一瞬。がらんどうの空虚ささえ呑みこむ圧倒的な静寂に、何度読んでもわたしは身じろきもできなくなる。」

面白かったのは、宇能鴻一郎を論じた一章です。「あたし、レイコ。人妻看護婦なんです」とか「あたし、濡れるんです」で始まるお馴染みのポルノ小説の第一人者。平松はこの作家を嬉々として描いていくので、あはは、と笑ってしまいました。しかし、宇野は「鯨神」で芥川賞受賞をした文学作家でもあります。その作品とポルノ作家としての宇野の世界を結びつける辺りの描写が秀逸です。メルヴィルの「白鯨」の如く、神のような鯨と闘う男の話と、「あたし×××なんです」の世界がどう繋がってゆくのか、スリリングですよ。

「男の願望を女の肉体にぴたりと同一に重ねてみせる一人称独白体など、だれもかんがえつかなかった。書きえなかった。むしろ超俗。それは、文学と官能をひとつの頂にさだめて登攀しつづけた宇能鴻一郎ただひとりが達した険しい峰のように思われる。」とは見事な指摘です。

平松は、例えば「箸で食べる『カステラ』。それはびっくりするほど新鮮だった。フォークとか黒文字で粛々と食べるときはまるでちがう。ざくっと箸をつっこんで切り分ける動きは冷や奴を食べるときとそっくりなのだが、ふがふがと頼りなくて、正体のないものを相手にしている感触に調子が狂う。ところが、快感もいっしょに湧いてくる」という具合に、食に関するエッセイで抜群のタッチを出す女性です。宇野が料理好き、食べる事が好き、というのに俄然興味を持ち、珍しい彼の食にまつわるエッセイについても書かれています。

 

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池澤夏樹個人編集による「世界文学全集」と「日本文学全集」について書かれた「池澤夏樹、文学全集を編む」(河出書房新社1300円)が入荷しました。この「日本文学全集」は、当店でもいくつか販売していますが、割と直ぐに売れていきます。

今さら全集か?と首を傾げる方も多かったと思います。しかし、「世界文学」の方は、先の大戦までの文学はばっさり切り捨てて、20世紀後半に書かれた作品を集めました。戦後の新しい流れ、池澤はそれを「ポストコロニアリズムだったり、フェミニズムの流れだったし、それから国境線がおぼろげになってしまった後の、国家単位でない見方であると同時に、人が移動することによって国家を崩してきた結果の『移動の文学』なんだ」と定義しています。

一方の「日本文学」は、「古事記」に始まり「源氏物語」に終るというオーソドックスな構成ですが、すべて新訳、しかも、現代の第一線の作家によるものです。森見登美彦、川上弘美、中島京子、堀江敏幸、江國香織、酒井順子、高橋源一郎、いとうせいこう、三浦しおん、いしいしんじ、町田康、等々、新鮮な顔ぶれが古典に挑戦しています。

「池澤夏樹、文学全集を編む」は、この独創的な全集を巡って、池澤へのロングインタビュー、柴田元幸、鈴木敏夫、藤井光らの全集に入っている作品への思い、「世界」「日本」両方に収録されている石牟礼道子と池澤との対談、大江健三郎との「日本文学全集」刊行についての対談、新訳に挑戦した森見登美彦、川上弘美、中島京子、堀江敏幸、江國香織のトークなど、盛り沢山の内容が収録されていて、この一冊が、これからの新しい文学のムーブメントを予感させるようになっています。

古典文学の現代語訳では、川上弘美が担当した「伊勢物語」が秀逸でした。最後の百二十五段目。病に苦しみ、もう今日明日の命の男が最後に詠んだ歌「つひにゆく道とかけねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」を、川上はこう訳しています

「いつかは ゆく道と 知っていたが それがまさか 昨日今日のことだとは」と書き、こう続けています「生きるとは なんと 驚きにみちたことだとは」

お勉強対象(苦手の)でしかなかった古典がぐっぐっぐっと近づいた瞬間でした。

古典も面白かったですが、お薦めは「近現代作家」と題して全3巻に収録された短編シリーズ。江戸から現代まで、それぞれの時時代を描いた短編が並んでいます。こんなに面白く、どんどん読めた短編集はありません。泉鏡花から円城塔まで、文学の楽しさを思い切り味わうことができます。(各1800円)

なお、「日本文学全集」は角田光代訳で「源氏物語」が刊行中です。

書評家の岡崎武志さんの新刊が出れば、ついつい買ってしまうのですが、今回の「人生散歩術」(芸術新聞社1300円)は、彼のベストの本ではないかと、私は思っています。

サブタイトルに「こんなガンバラナイ生き方もある」とあり、そんな人生を実践したと著者が確信した人物たちについて書かれています。選ばれたのは、井伏鱒二、吉田健一、木山捷平、田村隆一、佐野洋子らの作家、フォークシンガーの高田渡、そして落語家の古今亭志ん生です。

井伏は「自分なくしの旅」、高田は「気骨の人生風来坊」、吉田は「上機嫌に生きる、ただそれだけを」、木山は「危機脱出術」、田村は「恋と友とウィスキー」、志ん生は「「貧乏を手なずけた男」というふうにそれぞれタイトルが付けてあり、興味のある人物から読めるようになっています。取り上げられた人達の人生を見つめることで、そうなんだ、そうやって生きればいいんだということを知る本であり、著者も「私にとっては人生の『実用書』なのである。」と言っています。

例えば、古今亭志ん生の川柳を引合に出して、こんな風に書きます。

「人間は何もしないでいても、本来滑稽な存在である。滑稽と思われることを恥辱と思う人間は、それに抗い、精一杯、虚勢と見栄を張る。しかし、そのこと自体が、また滑稽であることを、志ん生は早くから見抜いていた。そして、自分の稼業である落語に存分に生かした。

我々は、何もくよくよと思い悩むことはない。なぜなら、志ん生の落語があるからだ。」

書評家が書いた「処世術」の本としてぜひお読みいただきたい一冊です。

本好きの人達が集まって作られている「本と本屋とわたしの話」の最新13号が届きました。当店の一箱古本市に毎回出店していただいている「古書柳」の中原さんが古書善行堂の思い出話を書かれています。また、いつも愛読している冊子「入谷コピー文庫」の堀内さんが「氷点」にまつわる話をと、本好きの人達の、マニアっぽくならない、小ネタ満載です。(250円)

 

★連休のお知らせ  勝手ながら11月6日(月)7日(火)連休いたします。 

 

 

柴崎友香の「千の扉」(中央公論新社1000円)を読みました。この作家の本は、映画にもなった「きょうのできごと」(河出文庫400円)ぐらいしか読んでいませんでした。

「千の扉」の舞台は、古くからある都営公団住宅です。いや、この公団が主役と言っても過言ではありません。主人公は39歳の千歳という女性で、結婚した一俊と共に、公団住宅の一室に引っ越してきます。元々、この部屋は一俊の祖父、勝男が住んでいた部屋で、彼が入院したために、その間住むことになったのです。千歳は、彼から公団に住んでいるはずの高橋さんを探して欲しいという奇妙な依頼をされます。ほんとうにいるのかどうかもわからない人物を探して、物語は進むのですが、波瀾万丈の展開は全くありません。

公団の日常、千歳と一俊の生活、二人の知人の出来事が控え目に描かれていきます。どこにでもある公団を、季節の移り変わりと共にひたすら見つめるような作品なのです。そこに住んでいる様々な人達の、それぞれの人生をスケッチしたような物語は、広がることなく、小さな空間で進行します。しかし、その一方で、彼らが住む以前の戦中、戦後を公団で生活していた人たちの姿が挿入されたりして、時空がヒョイと飛び越えたりする構成にもなっています。

「建物も住人も、すべてがゆっくりと衰えて行く。新しいビルや高層マンションが次々と驚くようなスピードで増え続ける都市の真ん中で、ここは時間の速度が落ちてゆくように、千歳には感じられた。」

朽ちてゆく公団に生きた、多くの名もなき人々の過去と、千歳の今の人生が一瞬交錯します。千歳は勝男の奇妙な依頼を解決する過程で、公団が持っている長い時間の記憶、住んでいた人の記憶を旅していきます。そしてラスト、彼女は一つの幻影に出逢います。読み終わって、あれ?これって時間を旅するSF小説だったの?というような不思議な気持ちになりました。

 

 

★臨時休業のお知らせ

11月6日(月)7日(火)連休いたします。

 

 

1961年、一曲の歌が日本中に流れていました。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思いだす春の日 一人ぼっちの夜」

坂本九の「上を向いて歩こう」。中村八大作曲、永六輔作詞のこの曲は、国内はおろか、全米ヒットチャートで”Sukiyaki Song”というタイトルで1位に輝くまでになりました。音楽プロデューサーの佐藤剛が、「上を向いて歩こう」に関わった坂本九、中村八代、永六輔を中心に戦後の日本の風景を視野に入れながら、稀代の希望の歌が誕生するまでを、広範囲に調べ、彼らの人生に分け入ったノンフィクションが「上を向いて歩こう」(岩波書店1450円)です。

この曲が「言語の壁を超えて世界中の人々に受け入れられたのは、歌詞の内容が哀歌、エレジーであったことが、大きな理由」だと論じています。

ギリシア語に語源を持つ「哀歌」とは、人生に起こる悲劇の断面への思いが、整った音律や用語で歌われる叙情詩であり、悲嘆から始まった感情が、永遠の慰めへと昇華する歌であると辞書では解説されていることを前提に、「上を向いて歩こう」にはそのすべてが揃っている、だから、世界中の多くの人々の心に届いてきた、というのが著者の考えです。

「幸せは雲の上に 幸せは雲の上に 上を向いて 歩こう 涙がこぼれないように」

愛する人を失ったのか、辛い別れを経験したのか歌にはなんの描写もありません。人生は「涙がこぼれないように 泣きながらあるく」ものだというペシミスティックなものだが、リフレインされる「上を向いて歩こう」という歌詞が希望を歌います。

坂本九の歌の特徴は、キュートなファルセットボイスにあります。ファルセットボイス、日本語で言うなら「裏声」。著者は坂本の裏声に注目し、こう書いています。

「裏声とは鳴き声に通じる。泣き声とは理性ではなく本能の声である。赤ちゃんの泣き声も、悲しみの泣き声も、歓喜の泣き声も、理性を超えて、本能的な泣き声に通じている。坂本九は裏声を多用して歌っている。楽しそうな歌声の裏には、知らず知らずに泣き声が混じっている。これが坂本九の真骨頂なのである。子供や赤ちゃんに通じる泣き声だからこそ、世界共通のコミュニーケションとなり得たのである。」

中村八大は、坂本のそんな声に触発されて「上を向いて歩こう」を書き下ろしたのです。

戦後の荒廃から、明るい未来めざして歩み出した人々の心に、希望という火をともした歌の力に魅入られた著者の力強いノンフィクションです。

蛇足ながら、敬愛する亡き忌野清志郎は、ライブで必ず、この曲を日本のロックンロールの名曲だ!と宣言して歌い続けてきました。彼にも、「上を向いて歩こう」の偉大さが解っていたのですね。

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伊坂幸太郎の「a night  ホワイトラビット」(新潮社1000円)は、驚く程面白い小説でした。内容というより、その語り口と小説の構成が飛び抜けて上手い!伊坂は元々好きな作家なので、ちょいちょい新作を読んでいるのですが、これはとびきり面白い。

ある家の家族を人質にした立てこもり事件が発生。現場に向かう警察のスペシャルチーム。フツーのサスペンス小説なら、ここから犯人側と警察の息詰るやり取りを重ね合わせてエンディングへ持ってゆくのでしょうが、伊坂はそんなルーティンな作りはしません。本の帯に「展開が思わぬ方向へ飛び跳ねる可能性があります。足下を照らす懐中電灯をお忘れなく」と書かれていますが、もう飛び跳ねまくりです。

サスペンスが盛り上がりそうになると、では読者のみなさんには、少し前に某のその日の行動を見ていただこうと現場から連れ出します。え?事件は???などお構いなしに四方八方へと広がっていきます。昨今の映画によくあるリワインドムービー(一気に現在から過去へ戻り、また現在に戻る)手法や、多くの人物をバラバラと投げ出し、それぞれのエピソードをつなぎながら、大きな物語を作ってゆく方法、あるいはC・イーストウッド監督作品「ジャージー・ボーイズ」で、急に登場人物が画面の観客に向かって語り出すといった演出などが、巧みに取り入れてあります。

しかし、その拡散する話がバラバラになることなく、読者を離さず、しっかりラストまで連れてゆく技は、さすがです。ユーモア、ドタバタギャグのセンスも豊かで、この小説でも方々で笑わせてくれます。一番くすぐられるのは、登場人物の大半が、なぜか「レ・ミゼラブル」を読んでいて、その蘊蓄が語られたり、オリオン座の雑学的知識が小説の小技として使用されたりする部分です。大体、タイトルの「a night  ホワイトラビット」は、海外ならルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、日本なら「因幡の白兎」を連想させるもので、後者はチラッと登場してきます。本好きをクスリとさせる辺りも用意周到です。

私はこの本と、谷崎潤一郎の紀行エッセイ「吉野葛」、能楽師の安田登「あわいの力」、池澤夏樹「文学全集を編む」、吉田篤弘「京都で考えた」を同時進行で読むという、てんでばらばら、支離滅裂な読書時間を過ごしていましたが、それぞれの語り口を大いに楽しみました。古典も当代人気作家も、分け隔てなく読むのが最も楽しいと確信しています。

なお、読書中の「吉野葛」他も、順次ブログでご紹介していきますのでおつき合い下さい。

 

 

 

 

 

★安藤誠ネイチャートークショー「安藤塾」今年も開催決定しました。

北海道のネイチャーガイドで、釧路ヒッコリー・ウインドオーナー安藤誠さん(写真左・愛犬キャンディと)のトークショーを10月25日(水)19時30分より開催します。数名で満席ですのでお早めに(要・予約 レティシア書房までお願いします) 

 

オオカミへのイメージって、決して良いものではないみたいですね。生まれて最初に接するのは、かの有名な童話「赤ずきんちゃん」に登場する、ずる賢い残忍なオオカミでしょう。幼少の時にこれをインプリントされたら、オオカミへの印象は悪くなります。

ジム&ジェイミー・ダッチャー夫妻の「オオカミたちの隠された生活」(エクスナレッジ)を読むと、彼らの本当の姿を、文章と魅力的な写真でみることできます。夫妻は、数年間にわたり、米国アイダホ州ソートゥーズ山脈で、オオカミの群れに囲まれた生活を送り、彼らの社会生活を記録しました。2005年には「リビング・ウィズ・ウルブス」というNPOを立ち上げ、保護活動や人々との共生を模索する活動を始めました。

 

このNPOの名誉理事になっているのが、俳優、監督そしてサンダンス映画祭プロデューサーのロバート・レッドフォードで、この本にも序文を寄せています。西部開拓が始まる以前は、彼らは他の動物たちと平和に暮らしていました。しかし、開拓が始まると、家畜を殺すという妄想に取り憑かれた人間は、徹底的な殺戮を始め、生態系のトップの座を奪い取りました。レッドフォードは、オオカミと同じ遺伝子を共有する犬が、ペットとして人間社会で贅沢な特権を得たのに、「とらばさみや、くくりなわ(どちらも苦痛を与えるワナ)に捉えられて拷問のような苦しみを味わい、子どもたちもろとも銃で撃たれ」ている状況を非難し、今日でさえ、有権者に媚を売る州政府に対し「彼らは真剣に問題を考えている野生生物研究者の助言を無視し、これからもオオカミを殺し続けることを可能にする令状を出し続けている。」と現状を憂いています。

本書は、悪者のレッテルを貼付けられたオオカミが、強い社会的絆を持ち、家族というグループの中で、子育てを行い、仲間を守ってゆく動物であり、知性ある存在であることを解説していきます。先ずは、夫妻が撮った写真をご覧下さい。オオカミの写真集と言ってもいい程に、魅力的な姿を見ることができます。

荒々しい大自然の中で生き抜く彼らの表情、体の動きに、時に獰猛さを、時に内なる心の思いに深さに、オオカミとしての尊厳を感じます。力強さ、優しさ、淋しさ、そして喜び等々、私たち人間が持っている感情を彼らも持っていることを知ることになります。

 

アメリカ先住民のことわざ「オオカミの目を見つめることは、あなた自身の魂を見つめることである」が載っているページの側に、こちらを見つめるオオカミの写真があります。深い憂いを湛えたその視線から、あなたはきちんと世界を見ている?という問いかけを感じます。

吉田篤弘の新刊「京都で考えた」が、ご当地京都先行販売(ミシマ社/初回サイン&ポストカード付き1620円)で入荷しました。

「京都は百万遍にあるほの暗い喫茶店で、角砂糖付きの珈琲を飲みながら、買ったばかりの本のページをめくっている。」なんて出だしを読むと、これは著者好みの本とカフェをめぐる本かいな、と思ってしまって読み続けると痛い目に合います。難しい言葉を駆使した読みにくい文章では全くありませんが、著者が「京都で考えた本」という存在について引っぱり回されます。

先ず、著者の文体と思考法に、同調してください。そうしないとこの本の奥深い楽しみがわかりません。私は、

「本というのは、われわれが身を置いている日常の空間をところどころ押しのけるようにしている方がいい。疎ましくて結構。厚みや重みがあってこそである。いわば、その重さを買っているのである。」

という本の定義めいたことを述べているあたりでシンクロナイズに成功。後は著者の脳内思考の流れにのって、あっという間に読み終わりました。本を読むとはどういうことなのか、とぶつぶつ言いながら、碁盤の目のように続く京都の町中を一緒に彷徨い歩くような本とでも言えばいいのでしょうか。

「生活空間を圧する物理的な重さや大きさが、手の甲に書くべき『忘れてはいけない』ことをアラームのように教えてくれるのだ。人の記憶などというものは、自分の容量に加えて、友人、知人の脳まで駆使しても、結局『忘却』の力には抗えない。しかし、本は忘れない。」

本棚の奥から出て来た時、その昔の記憶がふぁっと甦ることってありますよね。私たちが忘れてしまったことも、本は覚えているのかもしれません。

著者は本屋をこんなステキな文章で表現しています。

「『木の葉を隠すなら森の中に隠せ』と云うが、言葉が隠されている森が書店であり、それも物語の入り口になるような言葉が至るところに隠されているのだ。」

そうすると、さしずめ書架は森の木になるのか。木で出来た書架に置かれた本が、居心地良くしているのはそういうことだったのかと、思わず店の節のある木で作ってもらった書架を振り返ってしまいました。