新潮社が発行している無料の冊子「波」に連載中の、北村薫の本をめぐるエッセイを愛読していますが、大きな書店にも少ししか置いてないみたいで、入手できなかったものがありました。2021年5月号から22年前半に連載されたものが収録されて、一冊の本になりました。
「水 mizu 本の小説」(新潮社/新刊1925円)は、帯に「謎解きの達人、7編の小説集」とありますが、エッセイ風の散文です。北村薫は、早稲田大学ミステリクラブに所属。1989年に「覆面作家」として「空飛ぶ馬」でデビューしました。「ターン」や「リセット」を面白く読んだ記憶があります。ミステリー系の作家としての顔とともに、読書家としても知られていて、本に関するエッセイも多数あります。最近では、宮部みゆきとの共同で「名短編、ここにあり」が印象に残っています。
本書では、小林秀雄から遠藤周作、橋本治から岸田今日子、芥川龍之介、そして金沢三文豪の泉鏡花、徳田秋声、室生犀星へと自由自在に作家の魅力を伝えています。作家だけでなく、歌舞伎の話や、立川談志の話、由紀さおりの歌からも詳細で深いエピソードが繰り広げられます。様々な人たちが発した言葉や、書き残した物語に秘められた力を掬い取って、ほらここにこんな世界があるよと教えてくれるのです。文学論や、書評集にありがちな硬さが全くなく、でも事実はきちんと押さえてある。とても信頼のできる本です。
こんな文章に出会いました。
「これは、こう聴くのですよ、こう観るのですよ、こう読むのですよ。という補助線に慣れてしまうのは、とても恐ろしいことです。感性が楽をするようになってしまうからです。 勿論、優れた評論を読むことには、大きな意義があります。斬新な解釈、想像的な読み方に教えられることは多い。しかし、考えるより先に道筋を示されてしまうのは、よいことではないでしょう。」
各章の初めに入る、猫をモチーフにした柔らかなタッチの大野隆司の挿画も本書にピッタリです。読書欲が上がる一冊です。
私は「癒し」という言葉が嫌いです。書店員時代に出版営業の人が、この言葉を連発すると不機嫌になったもんです。なんか胡散臭さを感じてしまうのです。しかし、京都在住の数学者森田真生のエッセイ集「偶然の散歩」(ミシマ社/新刊2200円)には、「癒し」という言葉を使いたくなりました。
京都市動物園にいた長老ライオンのナイルが25歳で死にました。著者の3歳になった長男にこのことを伝えた時(ナイルは家族にとっては大切な存在だった)、ちょっと考えて、真剣な表情で、
「『お空の上にいくってこと?お空の上からずっといまも見てるのかな』と、最後は少し明るさを取り戻しながら、どこか遠くを見つめるような目で聞いた。」
「人は、死ぬとどこに行くのだろうか。昨年末に祖父が亡くなったとき、僕は祖父の動かなくなった身体を前に、あらためてこの問いと向き合うことになった。」と、子どもとの会話から祖父の死の話へと入り、「死後の魂は、人間の限界など軽々と超えて、木々や鳥たちと交わり、遠い時空の彼方へだって、きっと自由に飛翔していくだろう。人間らしい個性に束縛されることなく、いまは伸びやかに、万物と融け合っていてほしいと思う。」と書きます。
第1章「プロムナード」は、2017年の夏から冬にかけて日経新聞夕刊「プロムナード」コーナーに連載されていたものです。「プロムナード」は、フランス語で「散歩」という意味。著者は「週に一度、日々の『散歩』の記録を書き残していくように、言葉と向き合う半年間だった。」と言います。だからかもしれません。書斎から生まれたものではなく、子どもの声、風のささやき、めぐる季節の雰囲気など、いつにも増して優しさが溢れているのかもしれません。
本書では、日々大きくなり成長してゆく子ども達に驚き、その子どもに教えられる父親である著者自身の文書も沢山掲載されていて、どれも微笑ましいものがあります。
「花に呼びかけ、石に驚く。子どもはじっとその場で、自分にないものの声を聞く。僕たちも、いまよりももっと、人間でないものたちから学ぶことができるはずなのである。」
ダークな気分のとき、落ち込んだとき、この本を片手に散歩に出かければ、気分が少しは変わるかもしれません。そういえば、こんな素敵な言葉も見つけました。
「静かで節度ある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」
これ、かのアインシュタインが来日したとき、部屋に手紙を届けにきたベルボーイにチップ代わりに手渡したメモだそうです。
夏葉社の島田さんが新刊の営業にこれられて、「今度出す本は本屋さんの本なんですが….」と切り出された時、本屋の本かぁ〜と半分興味を失いかけましたが、内容を聞いてびっくり。本が到着するやいなや読んで唖然としました。
「本屋で待つ」(新刊/1760円)に登場する本屋は、広島県庄原市東城町にある「ウィー東城店」です。棚を特化した個性的な本屋でもなけれな、おしゃれなカフェのある店でもない。地方によくある郊外型の書店です。
著者の佐藤友則さんは、広島県の山あいの町で「佐藤書店」という、本・文房具・化粧品・タバコを販売する店に生まれました。大阪の大学に通い始めたものの面白くなく、パチンコに明け暮れる日々が続いていました。将来の希望も展望もなくした彼が、様々な大人と出会い、故郷に戻り本屋を継いでゆく過程が描かれています。
「ぼくの目標は、お母さんに連れられてきた赤ちゃんを一度でいいから抱っこさせてもらうことだ
った。お客さんに『抱っこさせてください』とお願いして、抱っこさせてもらうのではなく、『もしよかったら、抱っこしますか?』といわれて抱っこさせてもらえるような、そんな関係をお客さんとの間に築きたかった。」
これは、かなりハードルが高い目標です。私もかつて大きな書店で働いていましたが、これはできません。彼は、ひたすら地域の人たちの中に入り込み、愛されることを心がけたのです。それは信頼へとつながり、「ウィー東城店に行けばなんとかしてくれる」という声が出てきます。ラジオが故障したからとかと持ち込んでくるおじいちゃんまで登場します。
本は、人々の暮らしに中に根づき、読む人たちの数限りない疑問に答えてきました。本を読めば解決策が見つかる。それが本への信頼になる。「学者や作家やマンガ家といった人たちが、長い時間をかけて、その信頼を築いたのだ。毎日レジに立っていると、そうした本への信頼をひしひしと感じる。 本屋さんならなにか知っているだろう。本屋さんへ行けばヒントがあるだろう、というお客さんの声。 そうでなければ、本屋に壊れたラジオをもってくるなんてことはないのではないだろうか?」
本書の後半は、この本屋で働く若者たちのことが書かれています。学校に行きたくなくて保健室で過ごした経験や、コミュニケーションが取れず引きこもり状態だった彼らが、本屋での仕事を通して再生するさまが、著者のあたたかい視線で描きこまれています。もう、これだけで、この本屋が只者ではない、と痛感します。
第二作目の詩集「指さすことができない」で、中原中也賞を受賞した大崎清夏の短編小説&エッセイをまとめた「目をあけてごらん、離陸するから」(新刊/リトルモア1650円)は、気持ちが軽くなってくる文章が満載です。
2010年、フランスを代表する女優・歌手ジェーン・バーキン来日の時の話です。主人公は映画宣伝の仕事について3年目、東京で開催されたフランス映画祭のスタッフでした。バーキンは開口一番、ちょうど東京都知事が女性は子供が産めなくなったら女性でなくなるという趣旨の発言に対して、それは違うと明言します。「何かに挑戦するときになぜ失敗を恐れなくてよいかについて、着たいものを着ればよいことについて、何歳だろうとやりたいことをやればよいことについて彼女は語った。」
「通訳の女の子は、泣いているのだった。遠くからきた人の、女たちを勇気づける言葉を自分が日本語に置き換えて伝える喜びで、身体をいっぱいにして。隣に座る、ハイカットのコンバースのシューレースを足首にぐるぐる巻きにしたその人に、自分自身が勇気づけられ、奮い立たされて。揃えた膝の上のメモを握りしめ、涙を拭きながら、女の子はそんな自分に慌てているように見えた。謝る女の子の肩をぽんぽんと優しくさすりながら、ジェーン・バーキンはにっこり彼女に微笑みかけた。」
その場の雰囲気がまざまざと浮かびます。そして、ちょっと前を向いて顔をあげることができます。彼女の短編小説は、どれも都会派らしいセンスの良さと、爽やかな風に満ちた作品ばかりです。なるほど、詩人の書いた小説という感じです。
「実感としての復興は誰かが誰かに対して証明しなければならないようなものじゃない。それは子どもが立って歩けるようになるようなこと。行きたい場所に行きたいときに行き、会いたい人に会うようなことだ。オリンピックを成立させるためにいま盛んに言われている『復興の証』ということばには、顔がない。のっぺらぼうなことばは、誰に言っているのかがわからないのに声ばかり大きくて、耳にするたびに薄気味悪い。」と、エッセイに書かれていることに頷きました。。いや、その通りです。「おもてなし」やら「福島はコントロールされている」などという言葉を発した人は、本当に薄気味悪い存在でした。
最後に掲載されている「ハバナ日記」は彼女のハバナ滞在記ですが、これは若くなかったらできません!羨ましいなぁ〜と思いながら読み終わりました。いい本です。
スタジオジブリ名プロデューサーの鈴木敏夫は、膨大な量の本を所蔵し、読書量も並外れています。今年京都文博で開催された「鈴木敏夫とジブリ展」で、その蔵書を見ることができました。
「読書道楽」(新刊/筑摩書房2200円)では、展覧会に先立ち、彼の心に残った本のこと、作家との出会い、読書した当時の状況など、読書から人生、時代論へと発展したロングインタビュー(全15時間)が行われました。展覧会は、このインタビューをもとに構成されたそうですが、そこに入りきれなかったエピソードを中心に作られました。
「時代ごとに夢中になった作家は何人かいるなと思ったんです。加藤周一さんはもちろん、堀田善衛さんもそう。 年代順に言えば、石坂洋次郎、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、山本周五郎、宮本常一、池澤夏樹、渡辺京二…….まああげだしたらきりがないけれど、小説家もいれば評論家もいる。 それから忘れちゃいけないのが漫画ですよね。ぼくら団塊の世代は大人になっても漫画を読み続けた最初の世代といわれていて、たとえば、大学時代はちばてつやさんの『あしたのジョー』からすごく影響を受けた。」
と、自分の読書体験を総括していますが、なるほど骨のある作家が並んでいます。「明日のジョー」は、私も読んでいましたが、そんなにのめりこんだ記憶はありません。どちらかと言えば、「サイボーグ009」などを熱心に読んだものです。
鈴木も「SFに夢中になるのって、ぼくらより一世代下ですよね。」と言っていました。そして、続けて、自分たちがヒーローものの第一世代であり、それは「月光仮面」だったと言います。1958年〜9年にかけて民放で放送されたTVドラマです。
大学時代、学生運動が盛んないわゆる「政治の季節」の真っ只中。そんな時に、三島由紀夫が結成した左翼に対する軍事的組織「楯の会」に勧誘された話も面白いし、三島の「潮騒」を、「ジブリで映画化しようと真剣に考えたしね。舞台となる歌島をアニメできちんと描いてみたいと思って。」と振り返っています。ジブリ版「潮騒」って見たかったなぁ〜。
第6章「我々はどこへ行くのか」で、彼は自身の引退について興味深い発言をしています。
「最大の失敗は、『風立ちぬ』ですよ。ぼくが宮さん(注:宮崎駿の事)を説得してつくってもらったんですけど、それは戦争の問題さえ片付ければ、宮さんはもうつくらないだろうと思った」
つまり『風立ちぬ』は、宮崎駿の引退映画であり、自分自身の引退にもなるはずだった。ところが中途半端になってしまった。ここで引退して、好きな本を思う存分読むはずだった鈴木のプランは頓挫しました。
「ひとつは重慶爆撃の問題ですよね。、もうひとつはファンタジーなんですよね。『風立ちぬ』にはその要素が少ないでしょう。そうすると、つくり終えたあとで、やっぱりファンタジーをやりたくなったんです。」
確かに0式戦闘機生みの親を主人公にしたこの長編アニメは、割り切れない部分が多々あったように思いました。本のこと、作家のこと、映画のことなどを縦横無尽に語り続ける鈴木敏夫の魅力満載の本です。
以前に紹介したエッセイ「夢のなかの魚屋の地図」に引き続いての井上荒野の作品です。「小説家の一日」(文藝春秋/古書1200円)は、短編小説の名手である彼女が、「書くこと」を主題にした短編集で、全10作品が収録されています。
「書くこと」がテーマだからといって、小説家や作家ばかりが登場するわけではありません。「園田さんのメモ」では、OLの主人公にさっと手渡される先輩社員の園田さんの「五センチ四方くらいの、薄ピンク色の紙」に書かれたコメントがテーマです。宴会で酌はするなとか、ストッキングは不要だとか、よく言えば先輩からの助言、悪く言えばお節介が、次々と届けれます。え?なにこのヒト?いじめ?と思われるかもしれませんが、ラストの切れ味のいいこと!上手いなぁと感心しました。
「窓」は、いつも学校でいじめられている女子中学生が逃げこむ保健室のトイレが舞台です。ここのトイレには窓がありません。彼女は、サインペンでトイレの壁に窓を書きました。息苦しい学校生活から飛び出す象徴のような。ある日、彼女はトイレに入ってびっくりします。「私が描いた小さな四角の中に、小さな小さな木が一本、描き加えられていたからだ。それでその四角はもうただの四角ではなくなっていた。ちゃんとした窓になっていた。」
もう一人、ここに逃げ込む女生徒がいる!一人じゃないのだ。そのことを「トイレの窓」から主人公は知るのです。
私が特にいいなぁ、と思ったのは「料理指南」です。主人公の女性の母は著名な料理研究者でした。母が、昔好きだった人のために作った料理指南書の最後に書いてあった「はい、おしまい」という言葉。なぜ、母は最後のページにこの言葉を書いたのか。やがて、母と同じように料理研究家になった彼女は、好きな人のために作った料理指南書にやはり同じ言葉を書き添えるのです。そこに潜む、親子二代にわたるそれぞれの愛の終焉が切ない。
「書くこと」をこんなに多面的に捉えた小説はないと思います。短編の名手と呼ばれるだけのことはある作品集でした。
著者のモトムラタツヒコは、福岡を拠点に活動しているグラフィックデザイナー。動物をモチーフにした点描画の作品展も行なっています。2018年、東京で個展を開いたとき、荷物が増えるので少しでも軽くするために、いつもなら最低二冊はバッグに入れる本をやめて、「断読」状態で過ごします。ところが、心が落ち着かなくなり、活字が読みたいという渇望が大きくなってきたのです。
「僕は読書という行為が、いかに我が身にとって日々の精神の安寧を、思考の柔軟性を支えているかを思い知ったのであった。」その後間もなく、「読書の絵日記」を描き始め、一冊の本になりました。それが「モトムラタツヒコの読書の絵日記」(書誌侃々房/1650円)です。
読んだ本の表紙が独特のタッチでイラストになっています。まずイラストをじっくり眺めてください。書物への深い愛情が伝わってきます。そして、書名の横にジャンルが書かれていていますが、「プロレス」というジャンルでアカツキ著「味のプロレス」が取り上げられています。表紙絵の横に「まず猪木の延髄斬りを『この角度』で描くことに大いなる味わいを感じてしまう」と註釈が入っています。プロレスの本にはあまり興味ないので、これが延髄斬りなのかと思いながら、手書き(そう、文章は全て手描き文字なのです!)でぎっしり書き込まれた文章を読んでみると、著者のプロレス愛をしみじみ感じます。
ジャンルは多種多様です。「画文集」の安野光雅「らんぷと水鉄砲」があるかと思えば、「漫画」の白土三平の「シートン動物記」があります。「文芸」として、ケストナーの「飛ぶ教室」とスタインベックの「赤い子馬」が両面びらきで並んでいたりします。
所々に、番外編として映画や音楽の紹介が挟み込まれています。その中に、農場に生きるブタの日々を追いかけたドキュメンタリー「グンダ」を見つけました。私もこのブログでご紹介しましたが、モトムラさんも傑作だと評価していて、距離が縮まった気がしました。当店に最近入荷した、パオロ・コニュッティの「フォンターネ山小屋の生活」も取り上げられていました。私も読もうと思っていた一冊。
パラパラとめくっているだけで、実に楽しい読書案内です。
1991年に発表された宮沢和史の「島唄」は、全国的なヒット曲になりました。この歌を聞いた誰しも沖縄音楽のメロディーの美しさに感動されたと思います。しかし、沖縄ではどうだったのか?
「島唄」の中に、「くり返す悲しみは島わたる波のよう」という歌詞がありますが、宮沢は、そこにアメリカや日本に蹂躙され、大きな悲しみを背負った沖縄の歴史を表現したつもりでした。ところが、「あんたの音楽こそ帝国主義じゃないのか。沖縄ブームに乗って沖縄を搾取して、ひと儲けしようとしているんじゃないか」という意見を投げつけられました。
もちろんこの曲を好意的に受け止める沖縄の人々もいましたが、多くの賞賛と批判を浴びる結果となったのです。では、どうすればこの地に生きる人々の心の声を聞くことができるのか。その試行錯誤を綴ったのが、約500ページにもなる大著「沖縄のことを聞かせてください」(双葉社/古書1800円)です。
ヤマトの人間が、勝手に沖縄のことを分かったような曲を発表することは許されるのかと迷い、悩みながらも沖縄に生きる人々に近づいていきます。宮沢のバンド”The Boom”の音楽には、ワールドミュージックのエッセンスが色濃く流れていたのでよく聴いていたのですが、「島唄」をめぐる軋轢と、本人の苦闘を本書で初めて知りました。
宮沢は沖縄の歴史を知るために、多くの人の話を聴きにいきます。元ボクシング王者・具志堅用高、八重山民謡歌手・大工哲弘、映画監督・中江裕司、元ひめゆり学徒隊・島袋淑子、ひめゆり平和祈念資料館館長・普天間朝佳などが登場します。
戦争中の悲惨極まりない状況、戦後のアメリカによる支配、そして日本政府による搾取と数え上げたらキリのない負の歴史を聴きながら、今を生きる若い世代にとっての故郷沖縄とは何かというテーマにまで迫っていききます。
これは歴史の本でもなく、帝国主義を糾弾する本でもありません。沖縄音楽に魅了された一人のミュージシャンが、好きになった対象の内側へとダイブしてゆく本なのです。真摯に沖縄にぶつかり、ヤマトの人間としてこれからどう考え、行動してゆくのかを書こうとした著者の姿勢には、まっすぐな気持ち良さを感じます。
「海をきれいにするのでも、音楽や映像を作るのでも、社会の陰で困っている人を支援する仕組みを作るのでも、学校に入り直すのでもいい。『今、ここ』でなくても、いつ、どこで始めてもいい。それぞれの必然性のある時間と場所で、それぞれの領分で、現在の自分がこの先の百年、二百年という時間軸とつながっていることを信じて未来に種をまいていく人が一人でも増えるといいと思う。手紙を入れたボトルを海に流すように、いつかどこかで名前も顔も知らない誰かに届くはずだと信じて諦めずに続けていくことは、歴史の一部にいるものとして、この社会への信頼を決して失わないという責任を表明する態度でもある。」
長々と引用してしまいましたが、賞賛と批判にさらされた曲を世に出したミュージシャンの、私たち一人一人が未来への有り様にどう責任を持つのかを考えた言葉が、ぎっしり詰まった素敵な本です。
何とも勇ましい台詞ですが、ハードボイルド小説ではありません。ひょんなことから、出会い系サイトに書き込んだ花田菜々子の「出会い系サイトで70人と実際に会って、その人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(河出書房新社/古書700円)に登場します。
著者は1979年生まれ。本と雑貨の「ヴイレッジヴァンガード」に勤務していました。私生活でトラブルを抱えていた彼女は、「X」という奇妙な出会い系サイトに出会います。それは、まったく知らない人と出会って30分だけ会って、話をするというサイトでした。そこに、
「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を一冊選んでおすすめさせていただきます」と書き込み、彼女の活動がスタートします。
やはりというべきか、セックス目的で連絡してくる輩もいましたが、それより新しい人間関係を作る場になってきます。「X 全体がひとつの村のように共同体でもあって、参加している人がどんどん知り合い同士になっていって、関係性や信頼が深まっていくという仕組みが隠れているということが面白かった。」
彼女は、未知の人に本を勧める難しさと、そこにのめり込んゆく熱狂に取り憑かれていきます。と、同時に性別を問わず素敵な人に出会い、変わっていきました。
「憑かれたように人に会って会いまくった。そして知らない人と会うことはもはや生活の一部になった」この本の魅力は、魑魅魍魎の世界かもしれない出会い系サイトに突入して、人の存在を信じ抜く一人の女性の姿にあります。
「それぞれの人生のダイジェストを30分で聞いて、こちらの人生のダイジェストを30分で伝える。限られた時間の中でどこまで深く潜れるかにチャレンジするのは楽しかった。ロープをたぐってするすると降りていって、湖の底に素潜りして一瞬握手して、また浮上してくるような時間には、特別な輝きがあった。」
未知の女性に会う=セックスができる可能性に直結する、みたいな社会の常識をものの見事に蹴飛ばしてゆく姿に拍手を送りたくなります。
やがて、彼女はリアルな場で、本を語るイベントをプロデュースすることになります。そのイベントの前日、大好きだった祖父が亡くなります。真面目な両親とは違い、酒飲みで、彼女が大学生時代には終電でよくばったり出会い一緒に帰ってきた。家族の中で祖父だけが同じ不真面目派だった。イベントをするか、中止してお通夜に参列するか悩みに悩みます。が、不良仲間の祖父なら、「二択で悩んだときは自由な生き方を選択しろ」と背中を押してくれるだろうと、イベントを決行します。
「認知症だった祖父はもう記憶にないかもしれないけど、私たちは自由同盟を結んだ仲じゃないか。ジジイ、悪いが屍越えさせてもらうぞ。」
最後をこんな文章で飾っています。「また今日から何かが始まるのだ。これからもどんどん流されてどこかへ行き続けるのだろうか。ならばどこまでも流れていって見てやろう。行けるいちばん遠くまで。」
未知の世界に飛び込こんで、やがて、日比谷にオープンした女性に向けた新しいスタイルの書店「 HIBIYA COTTAGE」の店長を務めました。残念ながら店は本年2月に閉店しましたが。