「新入生のぼくは、初めて暮らす京都の下宿で、誰にも言えない孤独を抱えながらも、誰にも邪魔されることのない自由を謳歌した。ラジオでは、デビューしたばかりの荒井由実が、少女のようなあどけなさの残る澄んだ声で『ひこうき雲』を歌っていた。それは命のはかなさと、生へのまっすぐな思いを、一筋のひこうき雲に託して歌った名曲だった」

そして、青年は自らも詩作に没頭し始め、大学に行かなくなり、薄っぺらな詩集を自費出版し、詩人になるべく東京へ向かう。

これは詩人、谷郁雄のエッセイ集「日々はそれでも輝いて」(ナナロク社1728円)の冒頭部分です。「本と詩人と」という章では、著者の敬愛する詩人、作家たちの作品を引用して、日々の思いを語っていきます。谷川俊太郎、田村隆一、長田弘、中原中也らの詩人、レイモンド・カーブァー、チャールズ・ブコウスキー、ボルヘスといった個性的な作家も登場します。ミュージシャンのトム・ウェイツも取り上げられています。

トム・ウェイツは1947年生まれのシンガー&ソングライターで、私の大好きなミュージシャンです。掠れた歌声は、人生の深い孤独を感じさせてくれます。グテングテンに酔っぱらって、汚い道路に放り出され、土砂降りの雨で目が覚めた時などに、脳内に響いてくるような歌を歌ってくれます。

ここでは、99年リリースの「ミュール・ヴァリエイションズ」というアルバムの中の1曲「うちへおいでよ」が、取り上げられています。この曲を著者は、「素直になれない人への、呼びかけの歌」、或は「自分で自分に鞭打つ人、悲しみの山を積み上げる人、あきらめの悪い人」への呼びかけの歌だと考え、「この現実世界のどこを見回しても、ありのままの自分を受け入れる『うち』など見つかりっこない」、だから「歌を通して『うちへおいおでよ』とみんなに呼びかけていると解釈します。

「十字架なんかにしがみついてないで/まあその木はなんかに使えるだろう/とにかくうちに来るといい」

なんて、敬虔なクリスチャンが聴いたら、ぶっ倒れそうですが、そう呼びかけられることで、人は救われるのかもしれませんね。

書評家の岡崎武志さんの「ここが私の東京」(扶桑社1100円)が入荷しました。関西での青春時代を経て、東京への憧憬を捨てきれず、上京して20数年。東京暮らしの高揚と失意の繰り返しの中で読み続けた多くの作家と、彼らが生活した東京の様々な場所を歩き、追想しています。

東京の地理は全く頭に入っていませんが、岡崎さんに連れられて、この場所、あの場所と、一緒にブラブラした気分になります。取り上げられる作家は、佐藤泰志、出久根達郎、庄野潤三、司修、開高健、藤子不二雄、石田波郷、富岡多恵子の作家と友部正人、松任谷由実の二人のシンガー&ソングライターです。

この中で、石田波郷だけは全く知りませんでしたが、それもそのはず、現代俳句を代表する俳人の一人だったのです。若くして(昭和7年)上京し、俳人として活動を始めますが、召集され戦地へ。しかし結核を発病し入院し、その後、再発と入院を繰り返します。そして、死を見つめた暮らしが始まります。

「私は絶望はしない。然し手近に掴めそうな希望はもたなかった。希望がなくても生きてゆける、一日一日の生を噛みしめて味わうような生き方を求めた。それはものを深く視つめてそこに己れを徹れせることであった。」という石田の言葉に対して、岡崎さんは

「こういう境遇を、健常者が得ることは難しい。死の谷に歩み行った者のみが、地に触れてつかみ得るひとくれの砂のごとき、苦いが確かな感触であった。」と書いています。

石田は昭和32年、読売新聞に「江藤歳事記」という俳句+写真+随筆というユニークな連載を始めました。その晩年を描く岡崎さんの文章が素敵です。

「長い人生の一部を切りとって、人生の一瞬を永遠にして描き出すことを『スライス・オブ・ライフ』と言う。手法こそ違え、写真と俳句はその店でよく似ていた。上京して二十五年、東京でようやく得た春のような日々であったが、病はいつしか進行し、波郷に残された人生はあと十年あまりしかなかった。」

 

友部正人、松任谷由実については、明日ご紹介いたしますので、お楽しみに。

蛇足ながら「江東歳事記」は「江東歳事記・清瀬村(妙)−石田波郷随想集」として講談社文芸文庫から出ていました。絶版ですが、近日入荷します。

 

「白鯨」と言えば、ハーマン・メルビィルの退屈極まる、しかし、最後まで読んだら荒波の大西洋を乗り越えた気分になる長編小説です。

今手元に、マット・キッシュによる「白鯨」、正確な書名は「モービー・ディック・イン・ピクチャーズ」(スィッチライブラリー1800円)があります。全560ページというボリュームたっぷりの一冊です。

大体、マット・キッシュて誰だ?

彼は、図書館の職員で、イラストレーターでもあります。その青年が、とてつもなく大胆なトライアルをしたのが「白鯨」です。全552ページの原作から、各ページ毎に数行抜き出し、それに全部イラストを付けて全く新しい「白鯨」に仕上げてしまいました。原作を元に、リミックス、カットアウト、コラージュを繰り返したのが、この「白鯨」で、だから「モービー・ディック・イン・ピクチャーズ」というタイトルになっています。文学とアートのぶつかり合いが生み出した新しい形態の書物です。

そして、原作に登場する狂気じみたエイハブ船長のことや、語り手のスターバックのことなど知らなくても、十分楽しめるところが凄い!一冊です。シュールで幻想的な大航海へ連れていってくれます。

翻訳をした柴田元幸によると、キッシュは、コンラッドの「闇の奥」(あのコッポラの映画「地獄の黙示録」の原作)にイラストを付けたリミックスバージョンを出したとか。こちらも興味津々ですね。

「白い鯨との出会いは、グレゴリー・ペックがエイハブ船長を演じる1956年の映画『白鯨』だった。子どものころ、1970年代なかば、土曜の午後をよく祖母の家で過ごして、この映画を切れぎれに観た事を覚えている。僕はすっかり魅入られた。」と、キッシュは、あとがきで述べています。

私もそうでした。淀川長治さんの「こわいですよ〜!」という名調子で始まる「日曜洋画劇場」で観て、虜になりました。銅版画風の画調が神秘的で、今でも映像の断片が頭に残っています。

 

 

 

池澤夏樹編集の日本文学全集の一冊で「宮沢賢治 中島敦」(河出書房新社1800円)を一冊にした本の紹介です。何故この二人?という疑問に編者はこう答えています。

「中島敦は宮沢賢治の十三年後に生まれ、その死の九年後に亡くなった。賢治は享年三十七歳、敦は享年三十三歳。若くして他界したことだけだなく、二人には共に遠くを見ていたという共通点があるように思う。自分というものの扱いに苦労したところも似ている。」

「共に遠くを見ていた」、「自分というものの扱いに苦労」した作家……..。

宮沢はまさにそんな作家だと思います。自分という存在に苦しみ、銀河の果てまで飛んでいってしまった。

死ぬ直前には、「そしてわたしはまもなく死ぬのだろう わたくしというのはいったい何だ 何べん考えなほし読みあさり さうともきかうも教えられても 結局まだはっきりしていない わたくしといふのは」

という「そしてわたしはまもなく死ぬだろう」(未完)の詩を残しています。「これで二時間 咽喉からの血はとまらない おもてはもう人もあるかず 樹などしづかに息してめぐむ春の夜」という詩を書きながら、己がいるべき遥か彼方に地へと向かっていたのでしょう。

中島は1941年、ミクロネシアに渡り、数ヶ月滞在しています。その時、彼が見た南洋の自然、風物、そこに暮らす人々を描いたのが、この全集に収録されている「環礁ーミクロネシア巡島記妙ー」です。

「寂しい島だ」という文章で始まるこの旅行記は、「薄く空一面を覆うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでいる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。」とその気候に辟易しながらも、歩き回る。デング熱が治りきらない状態で、眩暈と、息苦しさでガタガタになってくる。しかし、それでも作家は幻覚に近い美の中で陶酔してゆく。今なら飛行機でヒョイと飛んでいけるのだが、中島が渡航した時代は、当然船の旅。時間をかけて地に果てに行き着いたという感覚ではなかったでしょうか。自分を持て余していた男の放浪記として、私は読みました。

因みに店には昭和11年発行の「南島譚」(今日の問題社/初版2500円)もあります。全集収録の「悟淨出世」「梧淨歎異」も入っていて、古色蒼然とした一冊ですが、手に取ってみてください。

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先月、このブログで、木山捷平の本の紹介で取り上げた「幻戯書房」のシブイ文芸書が数点入ってきました。

先ず、常盤新平の「酒場の風景」(1950円)。雑誌「クロワッサン」や「小説現代」に連載されていた短篇小説をまとめた一冊ですが、銀座の小さな酒場で繰り広げられる男と女のお話が続いていきます。特に深い話があるわけではありませんが、短篇の名手と呼ばれる常盤の真骨頂です。

例えば、「グラスの持ち方」。これ、タイトル通りのグラスの持ち方のウンチク話かと思いきや、妻とのセックスの回数が減っている作家と編集者のお話で、どお〜ってことのない短篇ですが、街の片隅にある小さなバーで、ボソボソと話し合っている中年男の背中が見えてきます。常盤新平は、長編「遠いアメリカ」とアーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」の翻訳がベストだと思いますが、深い香りのアイリッシュウイスキーを飲みながら、ずっと読んでいたい酒場短篇集です。

その中で、「イクスクィジット」という短篇は、日本語に訳すると「名器」、つまり女性性器の事なのですが、これを巡ってああーだ、こうだと話をする青年達に向かって、タンカをきる女性が登場します。こればっかりは、飲む手を留めて拍手、拍手ですね。

次にご紹介するのは、田中小実昌「くりかえすけど」(2900円)。この作家の世界って、飄々としていて、脈絡がなく、あっちへフラフラ、こっちへフラフラなのですが、不思議に、突然心地よくなってきます。

各種文芸雑誌に載せたものを一冊にまとめたこの本の中では、「軽列車と旅団長閣下」が、いかにも田中的世界でした。日中戦争時代の中国で、旅団長にションベンをひっかけた「ぼく」のお話ですが、軍隊の暴力性をえぐり出すような濃密なものではありません。ただ、戦争下ではふと思いついたことをうっかりしただけで、銃殺になるかもしれないと、「銃を肩にのっけたまま小便したことも罪になるのか?」と、悩んでしまう「ぼく」の独白で終わるのです。戦争などバカバカしいと思っている人間の正直な感覚が、独特の語り口で書かれています。

もう一点。戦前の前衛詩を引っ張った詩人、北園克衛が1930年代に書き上げた小説を集めた「北園克衛モダン小説集」(2900円)

「街には花咲く春が訪れて来た。そして街の少女たちはシイルやアストラカンの外套の重さに耐えかねて、チュウリップの水々しい茎のような溌剌とした四肢を、晴々しい春の微風のなかに投げ入れた。

ある明るいエキゾチックな午後であった」

なんて文章で始まる、この詩人らしいエスプリに溢れた小説集です。1930年代に書かれた、モダンな精神に富んだ作品が並んでいます。本の表紙には「白昼のスカイスクレエパア」と書かれていますが、そんなタイトルの小説は載っていません。

白昼の高層ビルに太陽光線が当たった、その眩しさに潜む幻想的なイメージを象徴させたかったのかもしれませんね。

 

国文学者、折口信夫が釈迢空(しゃく・ちょうくう)の名で1943年に出版したた「死者の書」が、近藤ようこによって上下巻のコミックとしてリメイクされました。(角川書店2冊1100円)

奈良県にある当麻寺に伝わる当麻曼陀羅の伝説を基に書き上げられた幻想小説です。

時代は平城京の盛りの頃。お彼岸の日、藤原四家の一つ豊成の娘、郎女(いらつめ)は、日が落ちる山に尊い御方の幻影を見ます。 千部写経の成就に導かれ、非業の死を遂げた大津皇子の亡霊と交わり、尊い御方の姿を蓮糸で曼陀羅に織り上げた姫は、自らも浄土へと誘われてゆく、というお話です。

原作を読んだ時、錯綜する人物、古代の宗教観、死生観等が入り交じって進行するものですから、なかなか読みづらい小説でした。しかし、

「した、した、した」という言葉で死者が目覚める物語の始まりから、何か得たいのしれない力にぐいと掴まれて、魍魎たる世界へと入ってしまいました。

この死者は射干玉(ぬばたま)の闇の中でゆっくりとに記憶を呼び戻し、かつて好きだった耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかけていきます。非業の死を遂げた若者のキャラクター造形が見事で、あの小説はこういう話だったんだと納得しました。

近藤ようこは坂口安吾原作による「戦争と一人の女」(青林工藝舎800円)で、狂気の戦争とその後を生き抜く男と女の姿を、見事にコミックとして成立させていましたが、「死者の書」も、原作へのイントロダクションとして、或は、原作で展開する西国浄土への幻影の視覚化に成功しています。

ラスト、曼陀羅を書き上げた姫が、誰にも気づかれずに、この世から、浄土へと旅だってゆく数ページの描き方は、ひょっとしたら小説以上かもしれません。

松岡正剛は「死者の書」を「日本の女が見た古代の魂の物語なのである。」と「松岡正剛の千夜一夜」で書いていますが、近藤版「死者の書」は、自らの魂の進むべき方向に、すべてを捧げた女の一生の物語と言えるのではないでしょうか。

情報によれば、次回マンガ化するのは、夏目漱石の「夢十夜」だとか。こちらも期待ですね。

 

★臨時休業のお知らせ 6月6日(月)、7日(火)お休みいたします。

 

 

 

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海外文学の翻訳家として、一番人気は柴田元幸ですが、岸本佐和子も負けていません。スティーブン・ミルハウザー、ニコルソン・ベイカーの翻訳で有名になりました。個人的には、ジャネット・ウインターソン「灯台守の話」(白水社900円)がお薦めです。海の気配、潮に香りに満ちた文学で、

「愛している(I  love You) この世でもっとも難しい、三つの単語。でも、他に何が言えるだろう?」

という切ないラストで幕を降ろすのですが、深い余韻を残す翻訳が素晴らしい。

ところで、彼女は翻訳だけでなく、エッセイでも魅力を発揮する女性です。奇妙な味わい、暴走する妄想に彩られた話を、リズミカルな文体で読ませてくれます。第23回講談社エッセイ賞を受賞した「ねにもつタイプ」(ちくま文庫400円)の中に、彼女の小学校時代の、それこそ妄想じみた話が登場します。

ひょっとして海は生き物なんじゃないか?という思いに捉われて、こう考えます。

「あの波は何なのか。行っては帰り、行っては帰り、まるで息みたいに休まない。待てよ。息。ひょっとして海って生きているんだろうか?そういえば、海のあの丸っこい水平線は大きな動物の背中みたいに見えるし、だいいちちょっと生臭い」

海を見る度に彼女の言葉を思いだして、成る程、生き物だなぁ〜と考えてしまいます。

新作「なんらかの事情」(筑摩書房1100円)にも、やはり小学校時代の微笑ましくも、本好きならわかるなぁ〜というお話があります。「どんな本だってこの世にない本はない」という意見のお友達の正子ちゃんに対して、筆者はいやそんなことはないぞ!と、そこら辺の棒切れを振り回して、これが主人公の本なんてないよ、と詰め寄ります。すると、正子ちゃん「双子の棒切れ」って本を読んだと言い返し、ここから、ホンマ、ウソ、みたいな本の話が始まります。そして、著者は、その時代をこう振り返ります

「でもあるわけない本を、私は何度繰り返し読んだことだろう。クリームがかった、厚ぼったい紙だった。くっきりとした濃紺の活字だった。しおりの紐が、きれいな赤い色をしていた。」

なんか、想像できそうな楽しい想い出ですね。

そして、装幀、イラストはクラフト・エヴィング商會。これがまた楽しい。「子供のころ耳かきが趣味だった私は、耳の中の地理に精通していて、毎日のように耳かきの先で耳の中を歩いていた。」なんて、はぁ〜??と思うようなエッセイに、素敵なイラストが添えられています。「不思議の国のアリス」になった気分で、言葉の迷路を遊んでみてはいかがですか。

 

 

 

 

「今日は四月の十三日。洛北二軒茶屋の桜は今日あたりかが満開らしい。ゆうべ歩いた町なかの疎水の桜はもう散りはじめていて、道は花びらで白かった。町なかより気温が三度は低いというここ洛北では、花は少なくとも三日から四日おそくなる」

これを書いたのは日高敏隆。日本の動物行動学の先駆者で、京大で長い間教鞭をとられていました。彼が、街中の身近な自然が起こす驚きを書き綴った「セミたちと温暖化」(新潮社700円)の一節です。寺田寅彦や、野尻抱影を持ち出すまでもなく自然科学者の書く文章は、どうしてこれ程平易で、美しく、自然の風を感じさせてくれるのかと思います。

北風に吹き飛ばされて、どこかに飛んでいく落葉は、情景的には晩秋の寂しさ一杯の感じですが、実はカブトムシのメスは、こういった落葉が溜まった所に卵を産むなんてこと、ご存知でしたか。幼虫の食べ物は、醗酵して腐食土に化しつつある落葉で、メスはその場所を探して卵を生まなければならない。積もった落葉が醗酵して、独特の匂いを出しています。その微かな匂いを求めて飛び回ります。その光景が、目前に広がるような言葉で、日高は、私たちが日頃接している自然の不思議さへと導きます。

表題の「セミと温暖化」では、昨今の地球温暖化をピシャリと言い切っています。

「世界じゅうが平穏であったという年などほとんどないようである。どこかの地域は異常に寒く、その同じときに他の地域は異常に暑いということがくりかえされてきた。それが地球というものである。セミばかりでなくすべての生きものは何十年という長い年月の間、そのような変動に耐えて生きのびてきた。」

著者は、学術的専門書はさておき、一般読者向けの本では、動物と人間の垣根をひょいと飛び越えていく魅力に溢れています。「犬のことば」(青土社1500円)には、そんなエッセイが満載です。親犬と子いぬの会話の話とか、可哀想なくらい嫌われるゴキブリへの愛情とか、微笑ましい話や、大変だなぁ〜と同情を禁じ得ない話など、楽しく動物行動学を学べます。この表紙がすべてを物語っています。

これ、ドイツの児童文学者ケストナーの言葉なんですが、「叙情文学」に新境地を開いた城夏子につけられた言葉です。

1902生まれの城夏子。若い時から少女小説を書き、1924年に小説集「薔薇の小径」(装幀は竹下夢二)を発表し、文壇の地位を確立していきます。しかし、67歳の年に、それまでの地位をあっさり捨てて、千葉県の老人ホームに入所。その後の人生を軽やかに過ごし、多くのエッセイを発表しました。

元雑誌編集者で、「森茉莉かぶれ」、「エッセンス・オブ・久坂葉子」などのアンソロジーでお馴染みの早川茉莉が編集した「また杏色の靴をはこう」(河出書房・絶版1050円)が入荷しました。

「この十年あまり、私は花、猫、人間の、まっ只中にいる。ここは女の天国である」という書き出しではじまる「ここ」とは彼女が入居した老人ホームのことです。とかく、ネガティヴに語られるホームの生活ですが、彼女はものの見事にポジティヴに暮らしを楽しむのです。

「もう十五年もここで暮らしているが、飽きっぽい私が一度も、世の中へ帰りたいと思ったことはない。」とホーム暮らしに惚れまくっています。

早川茉莉は、他の仕事で図書館で調べものをしている時に、偶然に城の「薔薇の小径」に出会います。素敵な装幀に引込まれて読んでいくうちに、キュートなファッションに身を包んだ著者の写真にぶつかります。そして、「私は1902年生まれですから、もう大変な老女です」という文章に、ええ〜うそ〜ぉ!?と仰天し、調べものをほっとらかして、のめり込んでいきました。そして、

「もう面白くて、楽しくて、愉快で、読み終わった時、心だけじゃなく、からだまでが軽くなったような気がした。」

同感です。悲しいことに留まらず、愉しいことに心留めて、みずみずしい感性とオシャレ心で、ふふふっと生きてゆく様がエッセイ集にぎっしりと詰め込まれています。なんせ、戦時中に、ダサいもんぺを身につず、どうしても履かなければならなかった時に、「あんな愉しくないもの身につけたのは、わが生涯にあの時だけである。」と悔しさを滲ませました。

「愉しがりだかうれしがりだか、とにかくかれこれ三十年近くなるだろう、私の心は年と共に華やぎ、愉しみ上手、喜び上手とでもいうのだろうか、全くめそめそ知らずの毎日である」と言い切る彼女が、晩年に暇を持て余さない秘訣を、こう書いています。

「あたりをよく見ることである。よく、丁寧に見ることは発見につながる。一日が暮れようとする時、空の色を仰ぐ、その夕焼けの美しさ、また野鳥の飛翔する姿の面白さ。その気になれば発見はいくらでも出来る。愉しいことである。少なくとも、鏡の中の自分の顔の皺のふえ方を発見するよりは。」

これって、老いも、若きもすぐ出来る贅沢な生活ですね。

このエッセイで城さんに興味を持たれたら、連作短篇集「六つの晩年」(講談社500円)、或は彼女の敬愛する文学者を語る「朱紫の館」(文化出版局900円)もどうぞ。

また、早川茉莉が、41人の作家、文化人のドーナツへの思いを集めた「なんたってドーナツ」(ちくま文庫500円)も楽しい一冊で、お薦めです。

3.11当日、田中トシノリはロンドンにいました。それまで、人生について、生き方について全く考えたことのなかった青年は目覚めます。

広島県福山市出身で、映像作家を目指す彼は、大きく変化する時代のど真ん中で、映画製作を思い立ちます。

尾道の駅裏に、信恵勝彦というオジサンが経営する、古民家を利用した風変わりなCDショップ「れいこう堂」があります。その店長の日常を追いかけたドキュメンタリーを製作したのです。

はぁ〜??CD屋のドキュメンタリーと3.11がどう関係するんだ?その疑問に答えるような製作過程と彼の考えたことをまとめたものが、本になりました。

題して「スーパーローカルヒーロー」(歌島舎1620円)です。

この本によると、信恵さんのCDショップ実に奇妙な店です。商品のCDの間に、無農薬野菜が顔を出し、昼寝する猫に店番を任せ、店長は、イベント準備に、ある時は人助けに、または店の存続のためのアルバイトに出掛けてしまって、めったに会えないという不思議な空間です。ところが、地元では「ローカルヒーロー」として多くのミュージシャン、地元の人々、子ども達にリスペクトされ、愛されています。その姿を追っかけることで、著者曰く「今この瞬間をライブで燃やし尽くしている店長のひたむきさに、人が幸せに生きるとはどういうことか」への答えを見出せるかもしれない思いで、カメラを廻し始めます。

3.11以降、巨大な消費エネルギーで支えるこの国の経済は終りを迎えました。そんな事もわかろうとしない”お気楽”アベちゃんはさておき、この若者は、映画を撮ることで、私たちはどうあるべきかを模索しようと走り出しますが、そんなことに意味が在るのか悩み迷走します。そんな時に出会った詩人のアーサー・ビナードは、彼にこう伝えます

「文学や音楽や芸術だけでは世の中を変えることはできない。だけど、文学や音楽や芸術なしに世の中を変えることはできないと思う」

この本を読み進めてゆくと、多いに笑わせ、泣かせてくれた鹿子裕文「へろへろ」に似ているなぁと思いました。やる事は違っても、自分たちの居るべき場所を自分たちで確保していくという姿勢は同じです。その悪戦苦闘がなぜか軽やかです。

 

自分の生き方を信じ、間違っていたら批判は受け入れる、なんて若者の姿を応援したくなります。本の中に、「映画無料視聴券」(!)が付いていますので、本を読みながら映像も観ていただきたいものです。なお、10月24日(土)、25日(日)の二日間ですが、京都シネマでの上映が決定しています。公式ホームページにて、予告編をご覧下さい