「どの話にも闇と光の濃密な匂いが感じられる。正確には闇の深さに触れることで生の光が生まれているのだ。大きな海の中の小島。闇のなかの一点の光。そのなかで生きていることはめちゃくちゃな偶然で奇蹟。」

これ、何の絵本の解説かお分かりでしょうか?実は酒井駒子の「金曜日の砂糖ちゃん」です。

穂村弘の「ぼくの宝物絵本」(白水社/古書1300円)は、国内外の名作絵本70冊をオールカラーで紹介してあります。最初のページを開けると、先ず武井武雄を特集した「別冊太陽」の鮮やかな絵が登場します。文庫でも出版されていますが、これは、大きな版のハードカバーで見ないと絶対に損です。

 

こんな本も選んでいるのかと驚いたのが、太田蛍一の「働く僕ら」です。太田蛍一を知っている方は少ないと思います。彼はミュージシャンで、戸川純、上野耕路と組んだ前衛的音楽ユニット「ゲルニカ」で活動。その後1990年に発表したのが、この絵本です。絵本と言っても子ども向けではありません。昔のロシアとドイツ、そしてアジアのどこかの国の雰囲気をミックスさせたような近未来の国が舞台で、テーマは労働です。アバンギャルドに、そして妖しく展開し、得体の知れない魔力が存在しているみたいです。私は、音楽雑誌で彼が一風変わった絵本を書いているインタビューを読んだ記憶がありますが、こんな世界だったとは……..。版元リブロポートがもう無いために、かなり高値が付いていました。

こちらも高値が付いていて驚いたのは、矢川澄子作・宇野亜喜良絵の「おみまい」です。穂村は、ジョン・テニエルが描いたワンダーランドのアリスを、「じっと顔をみると少女というよりも大人の女性みたいだし、角度によってはなんんだかおばあさんのように思えることもある。私はその無表情さにときめきを覚える。」と書いていて、日本では宇野亜喜良の少女たちが、そういう少女に近いと言います。その代表ともいえるのが「おみまい」に登場するマリちゃんです。太い眉、大きな目、への字の口の無表情な女の子です。物語の中で、睨んだり、肩をすくめたりして、一度も笑いません。確かに、このマリちゃんは愛想はないのですが、カッコイイのです。

穂村はこんな少女に出会うと、「未熟な子どもたちが泣いたり笑ったりしながら経験を積んで成長するなんて、とても信じられなくなる。大人たちが安心するためにそういうことをしたいだけなのでは。」と述べています。

穂村らしい解説の楽しい大人向けの絵本紹介本です。お薦めです。

 

 

「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」

という、とぼけた出だしで始まるのが、内田百閒の「第一阿房列車」(新潮文庫/古書200円)です。用事もないのに、ひょいと列車に乗る行程を「阿房列車」と命名、弟子の”ヒマラヤ山系”と旅に出た記録です。二人の軽妙洒脱な会話が楽しめて、旅のお供にピッタリの一冊ではないでしょうか。文庫本の表紙の内田センセはいかめしい顔つきで立っています。

これが、一條裕子によって漫画化され、3巻まで出版されました。第1巻「阿房列車1号」(小学館/古書500円)を入荷しました。どこか浮世離れしていて、小難しいけれでも、ユーモアもある作家として描かれています。

用事もないのに、長距離列車に乗るのだから、一等席をリザーブしたい、しかし、お金がなければ三等席もやむなしか。しかし、二等席には坐りたくない。

「どっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附きは嫌いである」などと、へ理屈をこね回しながら、ああでもない、こうでもないと悩む内田センセの姿が、可愛らしい。内田の無理難題と、わがままぶりに笑いながら、私たちも、この意味のない、しかし極上の旅に参加することになります。

原作にある「鹿児島阿房列車」の巻頭の文章が、私は好きです。

「六月晦日、宵の九時、電気機関車が一声嘶いて、汽車が動き出した。第三七列車博多行各等急行筑紫号の一等コムパアトに、私は国有鉄道のヒマラヤ山系君と乗っている」

「快調で無駄のない出だし」と森まゆみが解説で指摘しています。きりっと引き締まった文体が魅力の、鉄道紀行文学の雰囲気を漫画版も踏襲しています。というより、原作に魅力があるから、コミックに姿を変えても面白いのでしょう。何より列車の絵が上手い。後半(112p)に「西日を受けて 金色にきらきら光るレールの上を走って、第三四列車が這入って来た。」という文章に登場する電気機関車は、その通り、日の光りを一杯受けてきらきら走ります。

原作から読んでも良し。コミックから読んでも良しという「阿房列車」です。

 

吉田篤弘の「ソラシド」(新潮社/古書1200円)を読みました。タイトルの「ソラシド」は、「ドレミファ」に続いていることから明らかなように、音楽がメインテーマになってくる小説です。でも、音楽の知識をめったやたらと撒き散らすようなオタッキーな物語ではありません。青春小説です。

1968年冬。雑誌のレイアウトを仕事にしていたヤマザキ君は、連れ込み宿の上に住んでいました。「仕事にいかず部屋にいるときは、四六時中、レコードを聴いていた」と書かれているように、給料のすべてをレコードに使っていた男です。それから二十数年。今も同じ様な暮らしを続ける彼が、ある日、昔の雑誌の片隅に、女性二人が組んだ「ソラシド」というバンドの小さなコラム記事を見つけます。この二人の好きなアルバムが、自分が愛してやまないジョージ・ハリスンの「サボイ・トラッフル」というレコードだと書かれていました。そして、「ソラシド」はギター・ボーカルの森山空と、ダブルベースの有元薫の二人組だということでした。

「気になったのは『ダブルベース』という表記だった。『コントラバス』ではない。『コントラバス』なら想像がつく。女性の奏者も少ないけれど何人か知っている。が、女性の『ダブルベース』奏者はかなりめずらしい。」

指を使って弾くダブルベースが、ばかでかく重たい楽器であることを知るヤマザキ君は、このバンドに興味を持ち、彼女たちを探そうと動き出します。小説は、ほぼ全部、彼の「ソラシド」捜しを描いています。腹違いの妹オーや、ちょっと奇妙だけれど、面白い人物たちが登場して、彼を助けます。しかし、「ソラシド」は、今や完全ライブシーンから消息を絶っていて、一切のレコード、CDもありません。消えていった二人を追いかけていながら、それは、1968年の空気を、その時の自分の記憶を再生する旅へと向かっていきます。果たして、ヤマザキ君は、「ソラシド」の二人に出会えるのか、それは読んでのお楽しみですが、とてもとても素敵な幕切れが用意されています。登場人物たちが生きてきた時間の重さを背負いながらも、ヒョイと明日へのステップを踏み出す瞬間を描いて、物語は終ります。

こんな文章が心に残りました。

「あらゆる音楽は、もうここにいない人の痕跡になる。レコードとはそういうものだ。いまここではない過去の空気を、その空気の震えを再現すること」

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「里山という言葉を私が思いついたんは、昭和30年代の話です」

と、語るのは森林生態学の創始者、四手井綱英先生。明治44年、京都に生まれました。林野庁で働き、京大で教鞭をとり、全く新しいアプローチで森を研究し、森林のあるべき姿を提唱した先生です。この先生に、森まゆみがインタビューしたものが、「森の人 四手井綱英の九十年」(晶文社/古書1300円)です。京都の山科にあるご自宅で、その半生を聞き取っています。

「里山というのは落葉樹や常緑樹で、その葉が落ちるので、また堆肥がつくれるという効用があった。あの桃太郎のおじいさんは山へ柴刈りに行きますね。柴は火を燃やすのに便利です。紙なんてないから、ふつうはカマドも炉も最初は柴をたきつけにする」と、柔らかい口調で語ります。

若き日、山登りに夢中になり、先輩だった今西錦司が発案した「山城三十山」によく登ったそうです。一方で、従来の林学に疑問を抱き、森が自然の中でどういう生活をやっているか、どういう行動をしているかを観察する生態学を踏まえた学問へ、情熱を傾けていきます。大学卒業後、東北の営林局へ勤務、ここで、山に暮す、個性的な面々と出会います。この話も面白いのですが、割愛します。

やがて徴兵されて中国へ。戦争で彼が知ったことは、「戦争は森林を破壊する一番の元凶」。軍事用材との一言で、森の材木は無茶苦茶に切り倒され、木だけでなく石油、石炭を取りつくし、人を殺し、文化を破壊することです。戦後、再び東北の営林局に戻り、そして昭和29年、京大に帰ってきます。

大学は技術研究の場ではなく、「森林の基礎学、つまり、森林生態学をやるのが大学や」と、猛進します。新しい学問には冷たい学会。でも先生はメゲマせん。森を守るため東奔西走、やがて各地の自然保護運動へも参加していきますが、生半可な知識と感情論が先行して、森に対する間違った知識が横行しているとか。分かりやすい言葉で話されると、成る程と理解できます。森と共に生きた知識人の豊かな世界が詰め込まれた一冊です。四手井先生は2009年、98歳で天国へ旅立たれました。

京都には、いい公園が少ない。下鴨神社の糺の森、京都御所の外苑だけだ、とも言い残されていました。その糺の森について編集された「下鴨神社 糺の森」(ナカニシヤ出版/古書1950円)も置いています。こちらもどうぞ。

 

 

 

宇佐見英治をご存知ですか。そういう私も、この本を読むまでは知りませんでした。

大阪出身、1918年生まれの日本の詩人、フランス文学者、美術評論家です。今回、港の人から出された「言葉の木陰」(新刊3456円)は、1960年代から、宇佐美が雑誌等に発表した評論、紀行、エッセイをまとめたもので、編集したのは、堀江敏幸。「あらぬものへの呼びかけ」と題した後書きで、2002年に亡くなった宇佐美と一度も会えなかったが、「私が親しんできたのは、書き残された文章のなかから響いてくる声と、最晩年の一時期に頂いた何通かの手紙の、細く流れる美しい万年筆の文字が伝えてくる精神の微動のみだ。」と書いています。

300数ページに渡るこの本を、私はかなり時間をかけて読みました。芸術家の知性とは、何を目指すものなのかを探す読書でした。「大切なのは、創造に仕えること、仕事をとおして生成の鼓動をききとり、世界と一体になることである」と宇佐美は書いています。長い長い創作活動の中から生まれでた言葉は、簡単に理解できるものではありませんでした。実際に、スラスラと読めたわけではありません。しかし、それでも最後まで、好奇心にかられてなんとか読み切ったのは、宇佐美の芸術への深い愛情を込めた言葉に依るところが大きいのです。

以前ブログで紹介した谷崎潤一郎の「蘆刈」を論じた「闇・灰・金ー谷崎潤一郎の色調」で、この作品の前後に書かれた作品に共通していることは、「言葉は叙べられるまえに、まず聴かれるべきだという理念が存在するのだ。」だから、黙読しながら、「さまざまな声や曲調を聴きわける愉しさにある」というのは成る程、面白い指摘だと思いました。

後半、宇佐美は「風」について、「日本語ではかぜと風と二つの表記法がある。しかし、仮名でかぜと書くときと風と書くときではどうも感じがちがう」というところから、詳細に論じていきます。ここは、彼の精密で美しい文章を十分楽しめる章でした。

宇佐美は、戦争で南方に出征しました。その地獄のような戦争体験は、彼を変えました。それまで、短歌作品を発表していた彼は、戦争賛美の言葉を書き連ねてきた歌人たちへの不信から、戦後、短歌と決別します。そして「集団的狂気に抵抗しうる知的で高貴な、明澄な日本語を築きあげること」を目標に彼の戦後をスタートさせます。一人の表現者の強靭な思いです。

 

 

 

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内田洋子の「モンテレッジオ 小さな村の旅する本屋の物語」(方丈社/古書1400円)は、とてつもなく面白いノンフィクションです。

イタリアの辺鄙な場所にあり、これといった観光資源もない小さな村、モンテレッジオ。この村に住む男たちが、はるか昔、景気が悪くなると本を担いで、各地へ出向いたことを知った著者は、何故?という疑問に引っ張られるように、モンテレッジオへと向かいます。

夏から秋にかけて、イタリア各地では祭りが行われるが、「モンテレッジオの収穫祭は、本なのです」というこの村の出身者の言葉に、「鴨やフォカッチャの代わりに、本を肴に踊るなんて」と驚かされます。山、山、山に囲まれた村で、なんで本なんだ?読者にとっても疑問ですよね。内田が一つ一つ疑問を解いてゆく旅に同行して、その先にある本と村人たちとの深い繋がりを知っていきます。

300ページ余りある本の前半は、この村の生立ちに始まり、中世イタリアの政治まで語られます。でも、心配はいりません。写真が数ページに一枚挿入され、平易な文章で著者の驚きが語られているので、けっこうスラスラ読んでいけます。

さて、モンテレッジオの経済は、物々交換や自給自足が基本でした。春には山を越え北イタリアの荘園農地へ出稼ぎに向い、冬に村に戻ってくる、そんな生活が続いていました。ところが1816年夏、ヨーロッパをとてつもない寒波が襲い、農作物が全滅します。村人たちは出稼ぎ口を失います。その後も異常気象は続き、生活は困窮していきます。

売れるものは何でも売ろう!その時に白羽の矢が立ったのが、聖人の祈祷入りの絵札と生活暦でした。それを籠に入れて行商に出掛けたのが本との関わりの第一歩です。山で取れた栗や椎茸やら、枯れ枝を束ねたものまでかき集めて、男たちは行商に出掛けます。ここに興味深い記録があります。1800年代の行商人に、発行された通行許可証です。行商人の職業欄に「本も売る」と記載されていたのです。

そこへもう1人、本への渇望が大きい男が登場します。ナポレオン・ボナパルト。彼の登場は他民族からの独立、国家統一への民族意識を植え付けました。イタリアも例外ではありません。他国の支配から独立し統一国家として進むためには、何が必要か。それは情報です。世の中で何が起こっているのか知る、即ち本を読むことです。

モンテレッジオの男たちは本を詰め込めるだけ詰め、山を越え、各地の青空市場に露天に書店を開き、早朝から夜中まで本を売ったのです。大人たちは、子供たちにも本売りの魂を教え込みます。彼らも重い籠を背負って夜の山道を超えていきました。

当時イタリアを統治していたオーストリアは、独立を求める民衆の蜂起を恐れていました。独立を助長するような本には目をひからせ、発見次第没収していました。しかし、露天から露天へ移動し、所在不明、迅速に行動し、山中も平気で駆け抜ける本の行商人たちは、禁書を運ぶのに適任でした。治安当局は彼らを「文化の密売人」として最も恐れていました。

様々な困難を乗り越え、彼らはこの国の書店、出版文化を育てていきました。

村人たちは「本があるから生きてこられた」と言います。だから、本への感謝祭を開こう。それが「露天商賞」の始まりで、1953年最初の受賞者はヘミングウェイでした。文芸評論家も記者も出版社も加わらず、本屋だけで決定する文学賞の始まりです。我が国の「本屋大賞」みたいですね。

本を売ることの重みを、これほどじっくりと描いた本を知りません。深い感動でページを閉じました。この本を平台に積んでいる書店は、それを知っている書店として信用できると思います。

 

勝手ながらレティシア書房は、5月7日(月)〜10日(木)連休させていただきます。よろしくお願いします。

★5月15日(火)から、沖縄在住のほんまわかさんの「紅型染めと小さな絵本 ほんまわか作品展」を開催いたします。

数日前、翻訳家の藤井光さんが来店されました。現在、同志社大学で英文学を教えておられます。英米文学の翻訳家として、村上春樹、柴田元幸とともに人気があり、当店では、代表作テア・オブレヒト「タイガーズ・ワイフ」(現在品切れ)、アンソニー・ドーア「すべての見えない光」(新潮社/古書・2400円)など、藤井さんの翻訳本コーナーも設置しています。

藤井さんも参加されている「きっとあなたは、あの本が好き」(立東舎/古書・絶版1900円)は、スリリングな読書案内です。翻訳家の都甲幸治が中心となって、様々な作家を数人のゲストが論じ合うもので、「村上春樹が気になる人に」、「ルイス・キャロルが気になる人に」、「大島弓子が気になる人に」、「J・R・R・トルーキンが気になる人に」といった具合に、8人が選ばれています。

取り上げられている作家によってメンバーは変わるのですが、「大島弓子が気になる人に」では都甲に、藤野可織、朝吹真理子という芥川賞作家二人という興味深い組合せ。大島の「バナナブレッドのプディング」から入り、彼女が好きなら気にいる作家として、ミランダ・ジュライへととんでいきます。

藤井さんは、「村上春樹が気になる人に」と「ルイス・キャロルが気になる人に」に参加されています。

「キャロルについて三十〜四十代の男だけで語っているというこの状況も、普通にはありえないでしょ(笑)。でも、キャロルが『不思議の国のアリス』を書いたときには、三三歳。『鏡の国のアリス』が出たときは三九歳。広く見ればだいたい我々くらいのときに書いているので、書く側の心理がむしろわかるかもしれない。」

とおじさん三人(都甲幸治・武田将明・藤井光)で語り合うキャロル論が面白い。アリスが、ロリータファッションの起源の一つになっていることを踏まえて、このファッションの登場する嶽本野ばらの「下妻物語」を俎上に上げる辺りから、面白さのボルテージが上がります。ここに、キャリーぱみゅぱみゅまで登場させて、ロリータもキャリーも、その格好自体が、ハイブリッドでグローバルなアピール力を持っていると論じていきます。

さらに面白かったのが「トルーキンが気になる人に」です。都甲幸治が、トルーキンの「ホビットの冒険」と村上の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の類似点を上げた上で、「村上春樹には、もうちょっと現代文学面白くていいんじゃないのとか、もうちょっといろいろな仕掛けがあっていいんじゃないのみたいな考えがあって、大幅にファンタジーの手法を使っているんでしょうね。」と書いています。ファンタジーの面白さを理解していないと、春樹は読めないんだという考え方ですね。

勝手ながらレティシア書房は、5月7日(月)〜10日(木)連休させていただきます。よろしくお願いします。

 

夏葉社から吉田篤弘の新刊「神様のいる街」(1728円)が出ました。

吉田と神戸、そして神保町の関わりを描いた私小説的短編「トカゲ色の靴」と、「二匹の犬の街」、幻の処女作「ホテル・トロール・メモ」の三作品が収録されています。

持っていたレコードを売り払い、それを旅費にして早朝、家を出る。著者二十歳の時です。「どうしても神戸に行きたかった。行かなくてはならない。(いま行かなくては駄目だ)と、どこからか声が聞こえてきた。」

その思いはどこから来るのか。「神戸にいると、僕は神様の声が聞こえるのだ。(いいか、いまのうちに見ておけ)」と何度も囁かれて、街をさ迷います。海に突き出た人工島を、グルリと周回する無人電車(ポートライナー)に乗って一周したりして、時間が過ぎてゆきます。ここで時間は、しばらく前、東京の美術系大学を落ちて、専門学校に籍を置いていた頃に戻ります。授業にも出ず、自分の居場所が見つからず、無為の日々が過ぎていきます。

「学校にはほとんど通わず、毎日ひたすら神保町に通いつづけた」という具合に、この街の凄味に巻き込まれていきます。そんなある日、彼は老舗書店で、上林暁の本と出会います。貧しい生活の中から、高価な上林の本をいかに買うかという描写は、本好き、古本好きにはたまりません。

戦争の匂いにしみついたボロボロの本を読むことは、

「本に戦争は染みついていた。そこに時間が流れていた。本の中の時間が右手と左手からステレオで伝わってくる。ざらざらした紙に触れることは、そのまま時間に触れることで、古本を買うということ…..手に入れるというのは、こういうことなのだと、ようやく理解しつつあった。」

そして、自分も本をつくりたいという思いが強くなってゆく,,,,。

後半に収録されている「二匹の犬の街」は、ちょっと切ない恋物語です。ここで登場するのは、今はもうない新刊書店「海文堂書店」です。古本は神保町で買うが、新刊は”わざわざ”神戸元町のこの書店で買うその理由が語られていきます。

神保町と神戸を舞台にして、本との、街との、そして恋の物語が描かれた素敵な一冊です。相変わらず夏葉社の装幀は、美しい!

 

勝手ながらレティシア書房は、5月7日(月)〜10日(木)連休させていただきます。

よろしくお願いします。

昨日、このブログでご紹介した片岡義男の「珈琲が呼ぶ」など、珈琲に関連する本を集めたコーナーを作りました。珈琲の美味しい入れ方みたいな実用一点張りのものや、お店飲み歩きみたいなものは沢山出ていますが、読物として面白いものを探すのはちょっと時間がかかりました。

庄野雄治編集による「コーヒーと随筆」、「コーヒーと小説」(mille books/古書各1200円)は、珈琲が登場する小説、随筆がセレクトされているわけではありません。

コーヒーを生豆の状態で仕入れ、焙煎し、販売するコーヒーロースターとして徳島県内で店舗を構える庄野氏が選んだ10本の小説を集めた、「コーヒーと小説」の帯に、こう書かれています。

「小説は読まなければならないものではない。そこがコーヒーとよく似ている。コーヒーを飲まなくても人は生きていける。どちらも、あってもなくてもいい。けれど、あれば生活が豊かになる。だから、小説とコーヒーはよくあうのだ」

この本は以前、ブログで紹介していますので、今回は「コーヒーと随筆」をご紹介します。コンセプトは「繰り返し読める随筆集」です。二葉亭四迷、寺田寅彦、中原中也、北大路魯山人等々20名の随筆が並んでいます。お気に入りの珈琲店で、好きな所を読んでゆくのが良さそうです。

山川直人のコーヒーコミック、「コーヒーもう一杯」、「珈琲色に夜は更けて」、「一杯の珈琲から」(KADOKAWA/古書各600円)も、このコーナーに常備です。独特のペーソスで、現実世界を描いているのに、不思議なファンタジーの世界に迷いこんでしまいます。離婚した夫が、妻と暮す子どもと一緒に、大好きだった古本屋街を巡り、ひっそり店を開けているカフェで二人でコーヒーを飲む「バビロン再訪」など、中年男の哀感溢れる作品群をお楽しみください。

今話題のサードウェーブ・コーヒーの本もあります。何それ?と思われる方に、簡単な説明です。

「1960年年代に始まるインスタントコーヒーの普及で家庭に広まったファーストウェーブ、その後に続くスターバックなどの風味を重視するセカンドウェーブに次ぐ、第三のトレンドです。コーヒーの栽培管理、収穫、生産処理、選別そして品質管理に至る全てで適切な品質管理を行い、個性的で高品質の商品がこのトレンドです。」

私の感覚では、オーガニックコーヒーみたいなものだと思うのですが、詳しくは「サードウェーブ・コーヒー読本」(エイ出版/古書800円)を。

こちらは新刊ですが実用書で楽しい一冊。フランスでベストセラーになった「コーヒーは楽しい」(PIE2484円)は、サブタイトルに「絵で読むコーヒー読本」とあるように、カラフルなイラストで珈琲のすべてが学べます。

珈琲本の隣りには、名物書店店主の本などを揃えたコーナーも作りました。連休にのんびり読書はいかがですか?

 

 

 

入荷しました!

吉田篤弘「いつも晴れていた」(夏葉社1728円)入荷しました。サイン本1冊まだあります!

 と、書いているのは片岡義男。

そして、彼がどうしても行きたかったのが京都の「静香」。千本今出川を西に行ったところにある古い喫茶店です。「僕が平日の午後二時前後に静香の客になるとして、昼には新幹線に乗っていなくてはいけない」と、その通りに京都にやって来ます。

「静香の椅子にすわることが出来た。その椅子にすわってコーヒーを飲むことが出来た。椅子のすわりやすさには感銘を受けた、と言っていい」

片岡の珈琲エッセイ本「珈琲が呼ぶ」(光文社/古書1300円)に書かれています。珈琲を巡って音楽、映画、文学様々なジャンルが語られます。

もう一店、京都の珈琲ショップが登場します。当店からも歩いて行ける「スマート珈琲店」です。この店は、かつて美空ひばりが、映画の撮影で京都に来た時は、必ず母親と一緒にホットケーキを食べていたそうです。ひばりと「スマート」のホットケーキの話から、この後、想像をめぐらせたフィクションが、展開していきます。読んでゆくと、たまには「スマート珈琲店」に行ってみようかなと思ったりしますが、最近このお店は観光客に大人気で、いつも何人かが並んでいて、なかなか珈琲にありつけそうもありません。

本の中に、1938年、服部良一作曲、霧島昇とミス・コロンビアによる「一杯のコーヒーから」という曲について解説している所があります。

「一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある」という歌詞で、珈琲がもたらす夢の時間を歌っているのですが、実は翌1939年は国民精神総動員の年。

「国民の精神をなにに向けて総動員したかったのか。戦争の遂行に向けてだ。」

この年、日本国政府が矢継ぎ早に出した政策は、すべて国民を戦争に駆り立てるものでした。作曲者も歌手もそんな厳しい状況を生きています。「一杯のコーヒーから」は、そんな現実世界に背を向ける明確な意志があったのではないか、と著者は推理します。よくも、無事に発売されたものです。何故なら「時局柄まことに不謹慎である」の一言で、録音も販売もダメ!の時代でしたから。

映画の話も沢山あるのですが、黒澤明の比較的地味な作品「素晴らしき日曜日」の、主人公と彼女の夢が珈琲ショップを持つことだったとは覚えていませんでした。時代は1947年。日本軍兵士として戦争に行った男と、その彼女が、まだ戦争の爪痕が残っている都心でデートする。この時、二人はおいしい珈琲を出す店を持つ夢を語り合います。貧しく、慎ましい暮らしを続ける二人ですが、この時ばかりは素敵な時間を過ごすことができます。しかし、夢の時間は終わり、現実に戻ってゆく。二人の夢の原点が珈琲だったんですね。