クラシックファンのみならず、あらゆるジャンルの音楽ファンに支持されているピアニスト、グレン・グールドの膨大なアルバムから、ちょっと面白い企画物CDが入荷しました。

1枚は、グールドの音楽を使った映画を集めた「グールド・アット・ザ・シネマ」(SONY/国内盤1600円)です。

カート・ヴォネガッドjrの奇想天外な小説「スローターハウス5」は、「明日に向かって撃て」や「スティング」で有名なジョージ・R・ヒルが監督し、グールドの演奏が映画の中で使用されました。原作者ヴォネガッドjrは、この映画をくだらないと発言していましたが、時空を巡る原作を、SF的手法で巧みに映像化していて、ジョージ・R・ヒルの傑作だと思います。バッハ「ゴールドベルグ変奏曲」他のグールドのピアノが静かに画面に溶け込んでいきます。

もう一枚は、坂本龍一がセレクトした「グレン・グールド」(SONY/国内盤2CD2500円)です。お馴染みのグールドベストではなく、坂本的感性で選ばれた作品集で、あぁ〜この瞑想的な雰囲気は坂本らしいな、と感心します。グールドと言えばバッハですが、バッハはたった2曲のみという布陣です。

グールド関連の書籍も沢山出ていますが、あまりにも学究的なものは退屈してきます。やはり一番のお薦めは「グレン・グールドとの対話」(晶文社950円)でしょう。とはいえ、音楽の技法の話になると、私には「???」なので、吹っ飛ばしましたが。クラシック界きっての変人、奇人扱いされているグールドが、「北極圏で少なくとも一回越冬してみたい。太陽のある夏ならだれでも行けるが、ぼくの行きたいのは、太陽のないとき。本当に行ってみたい」と北極への憧れを告白したりと、素顔の彼を知ることのできる一冊です。

そして、フランスの精神分析学者、ミシェル・シュネデール「グレン・グールド孤独のアリア」(ちくま学芸文庫600円)も、やや難解ですが、面白い本です。

「グールドは性的なるものへと話題が及ぶのを好まなかった。彼がバーブラ・ストライザンドを高く買うのも、こまやかな愛情のセンスが彼女にそなわっており、それはあからさまに肉体的接触を求めたりするような種類のものではないということによる。」なんて、記述には驚かされました。

最近入荷した、青柳いずみこ「グレン・グールド」(筑摩書房1500円)も、グールドファンなら手に取ってみてください。

 

なお、この「坂本龍一セレクトグレン・グールド」CDが載っている重量感ケースはハンドメイドの作品です。興味のある方はKADEFのHPをご覧下さい。

Tagged with:
 

90年代だったと記憶していますが、新潮社が「PHOTO MUSEE」というシリーズで、写真家の作品集を比較的安価でリリースしていました。

その中に、「萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや」(1600円もちろん絶版)という本があったみたいです。サブタイトルに「詩人が撮ったもうひとつの原風景」とあるとおり、詩人が見つめた心の原風景が、印画紙に焼き付けられています。

「ながく叫べどもかへらざる幸福のかげをもとめ沖に向かって眺望する」という「青猫」の一節のページには、沖をゆく貨物船を見つめる男の後ろ姿が収められています。スーツ姿の男の姿が孤独感を一層高めています。ページを繰っていくと、風景の奥にポツンと佇む人を配置した作品に目が止まりました(写真右)。セピア調の「大森駅前坂」を撮った写真では、カッと照りつける強い日差しの坂道の彼方に佇む男の姿を捉えています。

その一方、二人の小さい娘と友だちが、線路の向こうから歩いてくる姿を捉えていて、まるで映画「スタンド・バイ・ミー」のワンシーンみたいな郷愁に満ちた雰囲気をもっています。

萩原葉子さんによると、「ずいぶんのんびりした心象風景である。静かでもの音もないようで、単調な自然の風景に、小鳥1羽の生き物もいない。」と振り返っておられます。詩人の違う姿を見せてくれる一冊です。

確かに、静かな風景を好んで撮っているようにも思えますが、その何気ない風景にポツンと人がいるのが印象的です。大阪の南にある石橋駅の踏切を捉えた、全く人気のない作品にも魅かれます。

「いとほしや いま春のまひるどき あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。」

なんて萩原の詩の一節が思い浮かびます。

朔太郎自身、写真を撮ることをこう語っています。

「元来、僕が写真機を持っているのは、記録写真のメモリイを作る為でもなく、また所謂藝術写真を写す為でもない。一言にして尽くせば、僕はその機械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食ってる」

詩人の心象風景が見えてくる写真集です。

 

 

少し前の店長日誌で梨木香歩作品集「西の魔女が死んだ」の素晴らしい後書きについて言及しました。大事なことは、「大きな声を持たずとも、小さな声で語り合い、伝えてゆくことができる。」と、彼女は記しています。

同じことを音楽家、細野晴臣はその著書「分福茶釜」(平凡社/ハードカバー絶版800円)でこんな風に語っています。ある言語学者が「本当のことは小さな声でひそひそ語られる」という発言を受けて

「実は人びとにいっぱい聴かせるような音楽は好きじゃないんだ。大きな音で人に聴かせる音楽ね。大きな音で聴かせる音楽はオペラから始まったんじゃないかな。ローマ帝国のパワーだよ。でも少数民族の音楽って自分だけのためにある。旅をしながら親指ピアノを弾いたり、鼻で吹く笛は自分にしか聴こえないし。自分と自然との環境のなかで、くゆらせる音楽っていうものがある。で、大きい音ってどこから出てくるのか、と考えたら帝国主義なんだと思ったわけ。」

そして、こう結びます。「演説も、アジテーションも、とにかく大きな音は空しいんだよ。」

北欧の少数民族サーミに伝わる伝統民謡、通称「ヨイク」を歌うウッラは、今もトナカイと暮らしています。その音楽は細野の言う通り「自分と自然との環境のなかで、くゆらせる音楽」です。(CD「ルッサ・エアナン」1300円)

「うるさい音楽は音を小さくしたってうるさいし、逆に、いい音楽はフルボリュームにしたって静かなんだよ。」とも語りますが、これ、正しいと思います。店内でかける音楽には気を使っていますが、ジャンル、内容に関係なく、良い音楽は静かに染み込みます。あるロックバンドの音楽を流していた時、ロックのロも知らないお客様が、「この音楽、本に寄り添ってるね」と言ってくださいました。書物にとっていい音楽だったのだと、ちょっと嬉しかった。

細野のこの聴き語り本は、音楽のことだけではなく、例えば、老いることはよい、と語っています。

「本来は自然に年をとれば知恵がつく。ところが最近の老人はちゃんと年をとれていないから。本人も自分を老人と思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。」

こんな具合に、音楽のこと、社会のこと、そして生きることを、盟友鈴木惣一郎と共に語り尽くします。

 

のっけから、こんな具合で始まる。

「ハエがいる。ハエと棲んでいる。天井が高く、吹き抜けのようになっている。去年、三年目に、起きてから寝るまで、下で横になっていないのに気がついた。”セイホ”ー生命保険ではなく、生活保護もそう称ばれている。そこから支給される部屋代の枠内で、当町に移住した。妻の代理人の土建屋に恫喝され、離別して一戸建て団地の家に立ち退いた。」

岡田睦の作品を集めた「明日なき身」(講談社文芸文庫1000円)に収録されている「ムスカリ」の冒頭です。昭和7年生まれの岡田睦は、雑誌「三田文学」に小説を発表、「夏休みの配当」で芥川候補になるも、全く注目されず、私生活では離婚を繰り返し、あげくに生活保護を受ける状態にまで至った私小説作家です。

この作品集には5作品が収録されていますが、いや、もう読むほどに、貧困のあまりの描写にぐったりさせられてしまいます。真骨頂?は「ぼくの日常」でトイレの下水溝が詰まる寸前で、それを直すために、下水溝に手を入れる件です。

「糞小便とトイレットペーパーが溶でけ合って、掴みにくくなっている。右手で掬うように掻き出すのだが、躰までが凍てつくような冷たさだった。ここは石堀と家屋のあいだにある細長い所で、掻き出した異物をあたりかまわず放るように捨てた。」

お食事前の方、ご免なさい。延々こんな日常、薬物依存、飢餓、不眠、身体の不調が語られていきます。一行一行の文章がこちらの身体を蝕んでゆく気分にさせてくれます。だったら、読まなければいいのに、と思いそうですが、本から離れられないところが不思議です。この最底辺の生活描写が、逆に倒錯的に生きる情熱を浮かび上がらせる力を持っているから、面白いのかもしれません。

さらに、悲惨を描く小説が続きます。「火」では、大晦日に「老化したアパートの部屋をあたためていた電気ストーブが点かなくなった」極貧の男が主人公です。精神的に不安定で、不眠に苦しむ彼は、鼻をかんだティッシュに火を点けて、暖をとろうとする。しかし、一気に火は部屋に燃え広がり、唯一あったどんぶりに水をいれて、投げつけるも大きな火災になってゆく。

そんな話ばかりなのですが、途中で放り出させない強さと個性をもっています。基本的に私小説作家は極貧のうちに死を迎えることで、その作家生活の終局を作り上げます。しかし、岡田は、2010年発表の「灯」(この作品種にも収録)以後、消息不明になっています。今も、どこかの取り壊し寸前の廃屋の片隅で、震える手で原稿用紙に向かっているのかもしれません。まだ、暗い情念は生き続けているやもしれません。

Tagged with:
 

これ、どう見ても異常なんですが、実はセルフポートレイト写真なんですよ!

おばあさんが、可燃ゴミとして処分される自分のポートレイトを撮るか?!と思いますが、この作者の西本喜美子さんは、取材当事87歳。熊本在住で、感情認識パーソナルロボット「Pepper」(なんと、熊本弁を話すらしい)と暮らしています。写真を撮り始めたのが72歳。その10年後の2011年に初の個展を開催。この写真が老人虐待だ、と非難が出たりとかしたみたいです。彼女曰く、写真撮影に必要なのは、好奇心と行動力だ。並外れた行動力ですね。

さて、このおばあさんより、少し若いのですが、76歳の小林伸一さん。横浜にお住まいです。このおじいさんの自宅が、そのまま強烈なカラーアートで囲まれています。もちろん、描いたのは小林さん。植物、食物、富士山、鉄腕アトム等々、1階から2階に至まで、鮮やかとかいう言葉が吹っ飛ぶ色彩が迫ったきます。岡本太郎じゃないけれど、「芸術は爆発」ですね。

と、まあ、恐らく世間からは、あの人はちょっとねぇ…….と、敬遠されているかもしれないけれど、好きなように生きて何が悪いという表現者を集めたのが櫛野展正著「アウトサイドで生きている」(タバブックス1944円)です。著者は、日本唯一のアウトサイダー・キュレーターです。社会と断絶した、あるいはさせられた人たちが、再び社会との接続する時にバックアップする存在として活動を続ける一方で、こうも語っています。

この本に登場する多くの人たちが、全く孤立無援なわけではなく、それなりの生活を送っていることを踏まえて、「狂人だから制作しているのわけではない。正気を保っておくためにつくり続けているのだ。誰もがアウトサイダー・アーティストになる可能性を秘めている。そう、みんなアウトサイドで生きているのだ。」

NYの暗闇を歌い続けたルー・リードの名曲“Walk on The  Wild Side”も、アウトサイドで生きているほうは面白いよね、と歌っています。この本に登場する11人の刺激的な生き方を読んで、見て、少しだけ横にそれる楽しさを知っていただければいいかもしれません。

 

 

梨木香歩作品集「西の魔女が死んだ」(新潮社1200円)を読みました。

傑作「西の魔女」に登場するおばあちゃん、ヒロインのまいちゃん、そして愛犬ブラッキーが登場する「ブラッキーの話」、「冬の午後」、「かまどに小枝を」を一緒にした「西の魔女が死んだ」をめぐる作品集です。

作者あとがきは、これ程美しいあとがきはない、と思いました。

「ただシンプルに素朴に、真摯に生きる、というだけのことが、かつてこれほど難しかった時代だあっただろうか。社会は群れとして固まる傾向が強くなり、声の大きなリーダーを求め、個人として考える真摯さは揶揄され、ときに危険視されて、異質な存在を排除しようとする動きがますます高まってきた。」

まいのおばあちゃんと同世代になった作者は、こんな時代だからこそ、まいの物語を読んで、その人に寄り添う一冊であって欲しいという思いから、再度「西の魔女が死んだ」を送り出すことにしたのです。そして

「老若男女問わず、この本を必要としてくれる人びとに辿り着き、人びとに寄り添い、力の及ぶ限り支え、励ましておいで。私たちは、大きな声を持たずとも、小さな声で語り合い、伝えていくことができる。そのことを、ささやいておいで。」

と結んでいます。自分の書いたものが、読者の人生の、小さいかもしれないが、手助けになって欲しいという思いが伝わってきます。

「かまどに小枝を」は、「西の魔女」の中で、自分で生きてゆくことを学んだまいちゃんが、おばあちゃんの家を去った後の日々が描かれています。ある日、彼女は虹を見に丘に向かいます。そして小さな虹に向かって祈りを捧げます。

「この空の下で、私の娘も、その娘も、今、生きている。新しい環境の中で、新しい道を選ぶこと、さらにその道を進むということは、体力と気力がバランスをとっていなければ、なかなか簡単にいくものではない。今はまだアンバランスだとわかっていても、他にどうしようもなく、進まなければならないときがある。時の流れは容赦ない。」

でも祈ろう。それは、著者が、色んな人生を選択した人たちの、明日が良い日でありますようにという祈りなのです。

 

★勝手ながら、5/8(月)、9(火)連休いたします。

 

傑作、名作、レア物ではありませんが、これなら買ってもいいな〜と本好きならニンマリの本が入ってきました。

昭和30年発行の「巴里風物誌」(東峰書店/帯1500円)は、パリを巡るエッセイです。あとがきで著者の渡辺紳一郎は「これは、絵・佐野繁次郎、文・渡辺紳一郎で、佐野君の画集とすれば、渡辺の文は、その説明であり、紳一郎の巴里風物誌とすれば、佐野君の六十枚のスケッチは、その挿画ということになる。」と書いていますが、個人的には佐野の絵を楽しみました。さっと描き上げた街の雰囲気や、行き交う人々の姿は、どれも素敵です。この本、ネット上では数千円の価格が付いていますが、最終ページに小さな蔵書印があるので、この価格になってます。

久世光彦(文)×北川健次(美術)のコラボによる「死のある風景」(新潮社/初版/帯900円)は、身近な人の死であったり、古今東西の文学、美術の表現されている死をテーマにしたエッセイに、銅版画を中心に多彩な活動を続ける美術家が、挑発するかのように制作したオブジェが一緒になった本です。久世が、古本屋で西條八十の詩集「砂金」を見つける度に買っていることを書いた「砂金」は、短い文章なのですが、本好きにはグッとくる物語です。

イラストレーター原田治の初の随筆集「ぼくの美術集」(PARCO出版/初版/函/帯3000円)は、中々入手できない一冊です。先ず、装幀がいいです。やや小さめの落ちついたブルーの函(20cm×13cm)に入った本体は、目の覚めるような黄色の表紙に英語で「OSAMU HARADA MON CAHIER D’ARTS」と書かれています。ペーパーバックの洋書風です。現在も高値で取引されている、詩人にして装丁家の北園克衛について、エラリー・クィーンの「緋文字」の文庫版のカバーデザインが北園であったことを発見したことから始まる北園論は面白いところです。

最後に個人的に読みたかった、堀江敏幸の「未見坂」(新潮社/初版/帯900円)を少しご紹介。初めて、この作家の短篇集「雪沼とその周辺」を読んだ時の深い感動は忘れられません。その彼の連作短篇集がこれです。短編の名手は、芥川龍之介以来、数多くいます。でも、静謐な筆致という言葉が合うのは、今ならこの人でしょう。儚いタッチの版画で人気の清宮質文の作品を表紙に添えたのは、正解です。

なお、本日ご紹介した本はすべて絶版です。

★勝手ながら、5/8(月)、9(火)連休いたします。

兵庫県出身のイラストレーター&画家の下田昌克に初めて接したのは、雑誌「Coyote」最新号(スイッチパブリッシング700円)でした。特集は「アフリカの南」で、この中に彼のアフリカ滞在日記「SOUTHER   AFRICAN DIARY」が載っています。

「アフリカのずーつと下 雲のない空 波のない川」と書かれた最初のページのアフリカ象のイラストに目を奪われました。大草原を行く象が、子供の絵のような無邪気さで描かれています。ページを捲ってゆくと、彼がジンバブエ、ボツワナで出会った人達のスケッチに出会います。これが、いいんですね。やわらかいクレパスのタッチで、アフリカらしい眩しさと、おだやかで滋味深い表情で描かれた人たち。中でも、丸太を削ってカヌーを作っている男性のポートレイトが好きです。

「WILDLIFE野生動物の教え」では、アフリカの動物たちのスケッチが、ペンでさらりと描かれています。この作家の作品は、特集だけで終わりでしたので、面白い作品集ないかなと探していたら、いいのがありました。

谷川俊太郎とコラボした「恐竜がいた」(スイッチパブリッシング/新刊1728円)です。真っ黒な表紙に、描かれた恐竜のユーモラスな姿だけで、この本、面白い!と思ってしまいます。

「ほりだされたほねから なんぜんまんねんまえのほねから すがたかたちをえがくことはできる でもきょうりゅうのこころはみえない かんじることがあったのだろうか かんがえることがあったのだろうか うまれたばかりのこどもをみて だまってかがやくほしぞらをみて それともにんげんだけのものなのだろうか かなしみもおそれもあこがれも」

という谷川の詩と共に、下田の恐竜が闊歩します。ユニークなのは、自作の恐竜の骨のかぶり物を冠って、作品とコラボし、同じ空間で戯れているところです。ユーモラスで、躍動感のある画面になっています。ラストページでは、始祖鳥と人間の大合唱が聞えてきそうな楽しさです。

木版作家山高登さんの、新潮社文芸編集者時代の聴き語りをまとめたのが「東京の編集者」(夏葉社2484円)です。

先ず、登場するのが、昭和30年代の街の姿や、人々の表情を捉えた、約30点の写真です。昭和の風景を、暖かい色合いで版画にしていた山高登さんは、その版画制作のために、東京の街を撮影していました。これが、いいんすね。浅草の賑わい、ハイソな丸の内の風景、建設中の東京タワー、まるでドヤ街のような渋谷等々、街の空気感、通り過ぎる風の匂いが漂ってきます。本文を読む前に、何度も見直しました。

この本を出した夏葉社の島田さんが、2016年夏に山高さんの自宅を訪ね、聞き書きした話は、生まれた頃に始まり、新潮社の編集者時代へ。村岡花子の「赤毛のアン」を新潮文庫で出版したのは彼の企画でした。そして、彼が担当した多くの文士が登場します。気難しくて誰も担当したがらなかった内田百閒を昭和35年から担当し、百閒が亡くなるまでお付き合いが続きました。最後に担当した「日没閉門」は百閒の葬儀の日に完成、本をお棺に納めて、すぐに出棺したエピソードと、その時の写真も収録されています。

様々な文士達との交流が、懐かしく描写されています。静かに時間の流れる部屋で、山高さんと島田さんがゆっくりと、文学や美術への深い愛情を込めて話をされている様が見えてきそうです。文学を愛する出版社代表にとっても、小説を読むことを愛する私たちにとっても、至福の時間です。本の中程に、山高さんが担当された本が数ページにわたって載っています。地味ながら、作者への愛情のこもったものばかりです。

山高さんは、一時、書票の制作をされていました。制作した書票は300種類程とか。その中の何点かを見ることができます。文明開化に湧く時代が色鮮やかに甦るモチーフです。

読んだら終わり、という本ではなく、側において、触れ、ページを眺めることで、さらに本への愛着が深まる一冊だと思います。

 

Tagged with:
 

延江浩著「愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家」(講談社1300円)。ユーミンの夫君で、稀代のアレンジャー松任谷正隆と、70年代から新たな音楽を作り出したミュージシャンの話だと思って読みはじめたのですが、これ、昭和の一時代を丸ごと捉えようとしたとんでもない本でした。

表紙を開けると、先ず松任谷家の家系図が書かれています。正隆の父親の兄弟の嫁として松任谷家にやってきたのが大藤尋子。彼女の祖父は頭山満。この名前を聞いて、「玄洋社」の事を思いだされたら、その方は現代史に詳しい。頭山満は日本の右翼運動の一大源流を作った男であり、戦前は英雄視されて心酔する者も多数いましたが、彼の作った玄洋社は敗戦後GHQによって抹殺させられました。

尋子は、祖父の家には、孫文、大杉栄、犬養毅、広田弘毅、岩波書店の岩波茂雄等々、主義思想に関わらず、そうそうたる面子がたむろしてたと語っています。また、頭を撫でてもらいながら「いかなる理不尽であろうとも、怒りは噛んで飲み下せ。そうすれば己の力に変わる。全ての憤りを己の滋養と心得よ、と諭されたことを覚えています。」とも。

そして、この本は一方で、新しく芽生えてきた日本のポップカルチャーに参加していったミュージシャンの交流を追いかけながら、頭山家と昭和の政治の流れを追いかけていきます。日本の戦後史、あるいは芸術に登場した多くの人々が登場してきます。もうそのまま、お正月にやっている10時間ドラマみたいです。(逆を云えば、掘り下げが足りない部分もあります)

25章「桜の国」では、頭山家と重信家とは交流があったことが書かれています。重信家は、元日本赤軍最高指導者、重信房子受刑者の家です。過激な暴力で世界革命蜂起を計画していた彼女の父、末夫と頭山満の子であった頭山秀三は、戦前の軍事クーデター、5・15事件の同士だったのです。様々な場所で、様々な人達が絡み合い、闘争を重ねて、時代が動いてゆく様を見ているようです。

一方、松任谷正隆と結婚したユーミンは、恐るべき才能で日本の音楽シーンを変えていきます。彼女の周りにも、やはり曲者が集まってきます。細野晴臣、松本隆らの「はっぴーえんど」組、加藤和彦、安井かずみそして「アルファレコード」創設者の村井邦彦。スマートで、お洒落で、クールなサウンドは、今日のJポっプの原点を作ったと言えます。

松本隆が所属していた事務所「風都市」にユーミンが立ち寄った時、彼女はこんな事を感じたそうです。

「事務所の窓から市ヶ谷の(自衛隊)駐屯地が見えたんですけど、すごくざわざわしていたのを覚えています。ちょうど三島(由紀夫)事件の直前か直後のどちらかで、あれも今振り返ると、とても70年代的な光景でしたね」

政治の季節は終わりをつげ、新しいカルチャーの始まりだったのかもしれません。その後の世代の私たちは、そんなカルチャーを浴びる程楽しんだのです。