奥田英郎という作家は、以前にも東京オリンピック開催前の東京を描いた「オリンピックの身代金」を発表しました。「罪の轍」(新潮社/古書1200円)も、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の浅草と、北海道礼文島が舞台です。

奥田は、ジャンルで言えば推理もの作家の範疇に入るのかもしれませんが、本作は、純文学とか推理小説とかのジャンルを飛び越えた約600ページの大作。大きな物語の波に飲み込まれます。

主人公の一人宇野寛治は、礼文島で暮らす漁師見習いですが、一方で空き巣の常習犯でした。

「黒い海を眺めていたら、体が冷えてきて、寛治は両腕をこすった。夏とはいえ、日本の北端の夜は半袖ではいられない。ひとつくしゃみをして、寛治は見張り台を降りた。再び布団に潜り込み、ラジオをつけた。北朝鮮の放送が混線する中、弘田三枝子の`『ブァケ〜ション』が流れてきた。」

豊かさと明るさ一杯のこの曲に導かれるように、彼は東京へと向かいます。もちろん非合法な手段でですが….。

繁栄の象徴、首都東京。しかし、「山谷の夏は町全体にゴミと汗と酒の臭いが充満し、町井ミキ子は子供の頃から大嫌いだった。今日も朝から気温が三十度を超え、路地裏の隅から隅まで不快な臭気が漂っている。」という町でもありました。三谷の旅館を経営する母を手伝う町井ミキ子は、ふとした事から寛治を知り、深い悲しみに満ちた事件に巻き込まれていきます。彼女は高校卒業後、憧れのOLになろうと受けた就職面接を全部落ちたのは、自分が在日朝鮮人だからだと思っていました。

オリンピックに浮かれている一方で、過酷な日雇い労働につかざるを得ない労働者が溢れかえり、貧富の差が表面化したこの年、浅草で男子誘拐事件が発生します。物語は、誘拐事件を担当する刑事たちの地道な活動を中心にして進んでゆきます。読むうちに犯人が誰かはすぐにわかります。そう、あの男です。しかし作者は、綿密な心理描写と、まるで黒澤明の白黒映画を見ているようなリアリティー溢れる描写で、繁栄から取り残された男の魂の暗部を描いていきます。出生から父親のDVにさらされ、挙句に当たり屋に使われ、脳に障害を持った人生。だから、犯罪小説を読み終わった時のカタルシスはありません。

ところで、昭和38年という昔のことなのに、DV、人種差別、格差、マスコミの世論誘導、一般大衆による偽情報の大量放出等々、今と一緒です。お上が無理にでも盛り上げようとしている来年のオリンピックでも、こんな事件が起こる可能性は大です。そう考えると、ぞっとするエンディングなのかもしれません。未来を予測した骨太の傑作小説でした。