「創る者も読むものも、人は人生のそのときどき、大小様々な物語に付き添われ、支えられしながら一生をまっとうする。」

梨木香歩の新刊「ここに物語が」(新潮社/新刊1760円)の最後に書かれた文章です。どんな時に、どんな本を読んできたのか、その読書でどう自分が変化してきたのかを、本の紹介というスタイルで、記録しています。通り一遍の書評集ではありません。

「『心のこめ方を知る食卓は、必ず生命を守ると信じております』 経験から滲み出た、こういう揺るぎのない底力のある言葉が、この浮き足立った世の中を支える屋台骨になる。料理をする人もしない人も是非一読して欲しい。」

とは、「辰巳芳子の旬を味わう」の書評の最後を飾る言葉です。

また「大人になってから児童書を読むときにうれしいのは、世界がより低い視点(つまり、より大地に近い)から開かれるので、頭でなく腹の底からの、理屈を超えた共感を得ることできる点である。児童書によらず、本を読むときにうれしいことの一つは、自分の未経験の出来事を疑似体験できることだ。もしかしたらその学習によって、繰り返される悲惨な事態を回避できるかもしれない。」この文章で始まるのは、沖縄戦の悲惨な現状を描いた桜井信夫著の「ハテルマ シキナ」の紹介です。国は町民を守らず、危険地帯に追いやり、日本軍の身を守ったことが描き出されています。

「戦争が人を狂気に駆り立てるとき、制御不能に陥った攻撃性が、本来守るべき自国民へと向かってゆく可能性は大きい。これも、知っておいた方がいい事実である。」

梨木は、様々な物語の世界から、自身が何を掴み出し、どう考えていったのかを、精緻に表現しています。そして、私たちもその思考を受けて、刺激的に考えてゆくというスリリングな構成になっています。

こんな風に解釈するのかと唸ったのが、幸田文「流れる」です。

「京都の言葉で『猫知恵』というのがある。日常生活で出来るだけ自分が優位に立つための、ちょっとした言葉の持って行きようなどのことだ。京都人が(特に女性が)『あのひとは賢いから』と言うときは、たいてい、『あのひとには猫知恵がある』と言っているのである。賢い、の上に『ずる』が伏せられている。そういう伏せ字をする技術もまた、猫知恵から来ているのだ。何も試験の成績だけが頭脳の優秀さの証明ではない。実生活上ではむしろこの猫知恵の方がものを言うことが多いのだろう。京都のくろうと衆は、この猫知恵偏差値において、並外れたエリート集団とされている。『流れる』の舞台は明記されていないが、くろうと衆のそういう事情はどこもさして変わりあるまい。」

さて、京都の方はどう思われますか……..。

 

 

✨●私が担当しています、逸脱・暴走!の読書案内番組「フライデーブックナイト」(ZOOM有料)の3回目が、12月17日に決まりました。次回は「年の瀬の一冊」をテーマにワイワイガヤガヤやります。お問い合わせはCCオンラインアカデミーまでどうぞ。

 

✳️お待ちかね「町田尚子ネコカレンダー」を入荷しました。2022年度版は、猫たちがダンスを踊っています。フラメンコやフラダンス、タップダンスにチアーダンスと、相変わらず笑えます。  550円。限定販売ですのでお早めにどうぞ。

 

 

「秘密の花園」「赤毛のアン」など児童文学について梨木が語る「物語のものがたり」(岩波書店/新刊1540円)は、取り上げた作品を深く掘り下げ、作者の心の中に迫ると同時に、読者だった彼女自身が何を思ったのかを知ることができます。

フランシス・ホジソン・バーネットが1911年に発表した「秘密の花園」は、彼女の「小公子」や「小公女」以上に高く評価されている児童文学です。私はこの本を読んでいないのですが、70数ページを使って詳しく解説、論評した文章を読んでいると、まるでもう読んだかのような気分になってしまいました。

舞台は植民地時代のインド。官史の一人娘メアリーは両親に育児放棄され、気難しく我儘な少女になっていました。そんな時に、流行っていたコレラに両親がかかり、死亡。メアリーはイギリスにいる遠い親戚に引き取れらます。ここでもまた、彼女は放って置かれ、遊ぶ相手もいませんでした。しかし、この大きな屋敷の奥にある庭園を見つけたことから、彼女の人生は大きく変わってゆきます。誰にも相手にされず、孤独だった彼女が生きる力を回復してゆくプロセスを、梨木は丁寧に解説してくれます。

物語に登場するパンとチーズを引き合いに出して、児童文学にある力をこんな風に書きます。「『ハイジ』に出てくるパンとチーズといい、児童文学に出てくる素朴な食べ物は、どうしてこうもおいしそうなのでしょうか。それはきっと、無我夢中で成長しようとしている子どもの食欲が、読み手である私たちにまで働き、『術』をかけるからなのでしょう。その『術』の中で、私たちの内奥にある、ある部分まで、育まれていく感覚を実感するからのでしょう。」

後半では、メアリー・ノートンの「床下の小人たち」、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」、モンゴメリの「赤毛のアン」を読み解きながら、児童文学の先達たち、石井桃子、村岡花子、ビクトリア・ポターたちの創作の核心へと迫っていきます。

ナチュラリストとしての意識の高かったジーン・ストラトン・ポーターが1909年に発表した「リンバロストの乙女」は、村岡花子の手で翻訳されました。

「村岡花子もまた、この『リンバロストの乙女』を、御殿場二の岡の森の中で熱中して読み、自然に親しむことの素晴らしさを日本の若い人たちに伝えたいと強く願ったのだった。その体験が、彼女を翻訳者の道に進ませる原動力の一つになったのだと、後のエッセイで述懐している。」

そんなことも教えてくれるエッセイです。

イラストレーターのユカワアツコは、主に鳥を描く作家です。それも、古い箪笥の引き出しに鳥の絵を描きます。着物をしまう引き出しに、飛び立っていくかもしれない鳥の姿があるのはなんとも神秘的。

描かれているのは特に珍しいというのではない馴染みの鳥(例えばカケスやハシブトカラスやメジロなど)で、そこに梨木香歩が文章を寄せ、写真家長島有里枝が撮影するという「草木鳥鳥文様(くさきとりどりもんよう)」(福音館/新刊3100円)は、どこまでも心落ち着く一冊です。作品は室内のテーブルの上、洗面台や本棚、小さな納戸の奥などに置かれ、「鳥の潜む風景」になりました。

バードウォッチャーとしても有名な梨木は、鳥の生態を簡潔に紹介しながら、その鳥とともに描かれている草木のことも的確に解説しています。「アオバズク」では「深夜になりベッドに入ると、コウコウ、コウコウ、というアオバズクの声が聞こえてくる。ああ、もう渡ってきたのか、と夢うつつで思う。それは毎年繰り返される、初夏の始まりの知らせ」という、物語の始まりを予想させるような文章に続いて、

「京都にももちろん、御池通に見事なケヤキの並木があって、その景観が大好きだったが、ケヤキにはやはり、坂東武者というような素朴でまっすぐなイメージが、いつの季節にもある。昏く燃えるような紅葉の秋、骨組み(?)だけになる凛とした姿の冬、誰も気づかない質素な花とともに芽吹く春、そして初夏、、瑞々しい新緑に身を隠すようにして、アオバズクがこちらを覗くのだ。」

アオバズクの引き出しは、漱石や藤村の古めかしい本が詰まっている本棚に置かれていて、今にもこちらに向かって飛び出しそうです。

年数を経た引き出しに描かれた鳥たちは、美しく輝いていて、梨木は「長島有里枝さんは、気配の滲み出てくるような独特の世界の捉え方で『鳥の潜む風景』を撮られました。」と、あとがきに書いています。風が流れ込んでくるような家のあちこちから、鳥たちのさえずりが聞こえてきそうです。三人の才能ある女性が、見事にコラボした美しい本です。

長島有里枝さんの著書「『僕ら」の『女の子写真』からわたしたちのガーリーフォトへ」(大福書林/新刊3630円)も取り扱っています。

 

 

私が水越武という名前の写真家を知ったのは、かなり前のことです。世界文化社のシリーズ「ネイチャーブックス」の中で、高田宏著「森物語」(1991年)の写真を撮影していたのが水越との出会いです。森と山を撮影するネイチャーフォトグラファーでした。当店でも「カムイの森」という本を販売したことがあります。

彼が、日本アルプスに住むライチョウを撮影した「日本アルプスのライチョウ」(新潮社/古書5000円)を入荷しました。この写真集に入っている一枚、厳冬期の早朝、地吹雪が舞い上がる尾根に佇む一匹の雷鳥を捉えた作品に強く心惹かれました。どんな言葉を使っても、私にはこの作品の素晴らしさを表現できないでしょう。初めてこの写真集を書店で見た時、暫くの間、動くことができなかったくらい。(きっと書店員は不審に思っていたことでしょう)

「冬将軍がやってくる12月上旬、北穂の山頂に建つ小さな山小屋で、私はただ一人、連日荒れ狂う風雪に耐えていた。」

その過酷な環境の中、写真家は撮影に出向きます。

「それにしても彼らはなんと美しく、魅力的な鳥だろう。自分も自由に山を歩き、飛ぶことができたらどんなに素晴らしいことかと、私はライチョウに畏敬の念とともに。強い憧れを抱いた。」

その思いが、この写真集には隅々にまであふれています。氷点下30度まで下がる雪に覆われた山の斜面を滑空するライチョウの姿の美しさ!と同時に、写真家は、彼らが生き抜く日本アルプスの厳しい姿を捉えます。人を寄せ付けない姿、幻想的な風景。

水越は1953年、初めて木曽御嶽山でライチョウを見ます。それから数十年、アルプスを歩きまわり、その姿を追い求めます。近年、中央アルプスのライチョウは絶滅したものと思われていたのですが、2018年、乗鞍で発見され、さらに北アルプスから飛来したメス一羽が発見されています。このメスについて、水越はこう書いています。

「彼女が中央アルプスを目指して飛び立った時の勇気とその生命力に本当に胸が熱くなる。」

最後に、梨木香歩は本書についてこう書いています。

「最近利権絡みの政治の実態が次々暴かれ、胃が重くなる思いだが目を逸らすわけにはいかない。政治に対する逃げの態度そのものが、こういう腐敗を招いたのだとわかってしまったから。この写真集を拝見し、文章を拝読し、今の時代に渇望されているものが何であるかわかった気がした。それはひたむきに純粋な、生きる姿勢のようなもの。時代を超えて揺るがない、気骨のようなもの。ライチョウに、そして八十二歳になられ、今も山へ向かう水越さんの存在に、救われる思いがした。」

京都シネマで上映中に見逃した、ベネディクト・エルリングソン作品「立ち上がる女」(アイスランド映画)。DVDを購入してをやっと見ることができました。

雄大な自然が広がるアイスランドの田舎町に住むハットラは、セミプ口合唱団の講師をしています。
しかし、彼女は一方で、過激な環境活動家でした。地元にできたアルミニウム工場が自然を破壊するとして、一人で果敢な戦いを繰りかえすうちに、マスコミが正体のわからない犯人を「山女」と命名し、政府から目の敵にされるようになります。映画は、そんな彼女の生活を描きます。

ある日、彼女が以前に申請していた養子の件で、通知が来ました。ウクライナで戦火で両親を失った女の子を迎えることが認められます。母親になるという夢の実現のためにも、ハットラは、最後の戦いを挑んでいきます。と、こう書いてしまうと、なんだか厳しい映画だなぁ〜と思われる方もおられるかもしれませんが、この映画、笑えるのです…….。

一つには、劇中音楽を演奏しているブラスバンドと女性3人の合唱隊が、画面に割り込んでくるのです。ハットラが何か行動を起こす時、急に彼女の後方でドンチャカ、ブンチャカ楽器を演奏し始めるのです。え?何これ?? これはあくまでお話ですよ、というために伴奏しているのかと思いましたが、段々とこの音楽が彼女への応援歌に聞こえてきます。彼らが登場すると、こちらも一緒に彼女の行動を応援しているのです。

音楽にのって、ハットラが、自分で決めて自分で動き出した人生が新たな展開を見せていきます。登場人物たちも、個性的です。破壊活動の後、軍隊に追いかけられるシーンの盛り上げ方も、お見事で、サスペンス映画のお手本です。

滅多に映画のコメントを出さない梨木香歩が「楽しい日常と、孤独な戦士であることは両立するのだ。
守るべきもののために、決して屈しない彼女の不撓の精神と肉体は、大地アースの女神の化身のようだ。」という文章を寄せています。その通り、彼女は二つの自分を生き、さらに養子をもらい、もう一つの人生を生きます。幸せを手に入れるために躊躇なく行動する自由で強い女性像を監督は作り上げました。

ラスト、女の子を迎えに行った帰りのバスに乗っていたハットラは、異常気象のせいか大雨で水没した道路を、娘となった女の子を抱いて歩いてゆきます。人生なんでもどんとこい!気合十分の後ろ姿で映画は終わります。ヒロインを演じたハルドラ・ゲイルハンズドッテイルも実にカッコいい!

アイスランドは、男女平等度で十年連続一位を保っている国だそうです。だからこそ、映画の中で男も女も力強く自由な感じに生きているのでしょうか。

★連休のお知らせ 勝手ながら4月13日(月・定休日)14日(火)臨時休業いたします

梨木香歩の本は、ほぼ読んでいたと思っていたのですが、「ピスタチオ」(700円/古書)は未読でした。何かわからないけれども、それに導かれてアフリカに向かった女性ライター(ペンネームは棚という)の物語です。アフリカの伝統的医術を体得した呪術医に会うのが目的の旅、と書くと何だかおどろどろしそうな話みたいですが、そんなことはありません。

「ピスタチオ」は約300ページ程の小説なのですが、前半100ページほどが、主人公が飼っている老犬マースが病気になり、手術を受ける話です。私事ですが、今年老犬を見送ったばかりで、ちょっとこれにはまいりました。(でも、死にませんので愛犬家の方はご安心ください)

「小さい頃から気象の変化には興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。」

その記憶が、再び彼女をアフリカへと向かわせます。ケニアの奥地にあるウガンダに、呪術医のことを調査した人物がいると知った彼女は、病状の落ち着いたマースを日本に残して旅立ちます。しかし、片山というその男と、ガイドまでもが原因不明の死に方をしているのです……..。

ここから舞台はアフリカに移動します。緑、水、精霊…こうしたキーワードが物語の中心になり、それらが緩やかに回転を始めます。その輪は大きくなったり小さくなったりしながら、主人公を、見えない大きな何かに導いていきます。この作家の上手いのは、ファンタジックな世界どっぷりに描くことなく、リアルに主人公の旅を見つめているところです。 思わぬ出来事に遭遇するのですが、なぜ彼女だったのか、ということに明確な回答を用意していません。霊的なるものの存在だけでは語りきっていない、しかし100%の不思議さが残る物語でした。最後に主人公が書き上げた「ピスタチー死者の眠りのために」は、物語全体を総括すると同時に、見事に梨木の世界でした。さて、タイトルになった「ピスタチオ」の意味は? 最後で、あぁ〜そうだったのかと思って、ページを閉じることになります。
棚は「ピスタチオ ピスタチオ いい一生を生きた 安心してお休み」という言葉を最後に書いて、
「書き上げて、気づけば夜が明けようとしていた。棚は、いつものように散歩に出かけようとマースに声をかけた。月は白く高く上がっていた。風は優しく、木々の梢から、棚の耳元までやってきて、何か囁いて消えた。」
余韻溢れる幕切れです。

★年内は12月30日(日)まで営業いたします。年始は1月8日(火)より通常営業いたします。

★イベントのお知らせ「宮沢賢治 愛のうた 百年の謎解き」

2019年1月18日(金)19時より、「新叛宮沢賢治 愛のうた」を出された澤口たまみさんとベーシスト石澤由男さんをお迎えしてトーク&ライブを行います。予約受付中(1500円)レティシア書房075−212−1772

 

作家というのは、こんな思考をするのかと感心した一節。

「あたまを雲の上にだし」で始まる「富士の山」の後半の歌詞「四方の山を見下ろして」に違和感を持ち、

「富士山は、別に他の山を見下ろしているわけではない、ただそこにあるだけだろう、と思えてならなかったのです。そんなふうな擬人化は、富士山の無理やりな矮小化に思え、山を、自然を冒涜しているように感じていたのでした。」

と、語るのは、当店でも人気作家の梨木香歩です。師岡カリーマ・エルサムニーという文筆家と彼女の往復書簡集「私たちの星で」(岩波書店1100円)に登場します。師岡は、日本人の父とエジプト人の母の間に生まれたイスラム系日本人です。彼女が世界で感じたイスラムのことに、梨木が対応するスタイルの書簡集です。

二人は世界情勢やら、人種差別のことを語っているのではなく、日常の些細な事、日々の暮らしの中から浮き上がってきた事などを、ぜひ聴いてくださいみたいな、嬉しそうな感覚で話し合います。もちろん、妙なナショナリズムが徘徊する、今のこの国へは厳しい視線をお持ちですが、肩は全く凝りません。

書簡を読みながら、梨木が異文化に対する態度を書いていた「春になったら苺を摘みに」にあった文章「理解はできないが受け入れる。ということを、観念上だけのものにしない、ということ」を思いだしました。

この書簡の中でも、「違う文化を拒絶せず黙って受け入れた経験を、たくさん持てば持つほど、ひとの『寛容』はどんどん鍛え抜かれていき、そのことがきっと、私たちを『同じ』家族にする、という観測は、あまりにもナイーブな楽観主義でしょうか」と書いています。

20通の書簡を読んで、多くの異なった文化で構成されている世界を見る目に柔軟さが増せばいいと思いました。

さて、件の「富士の山」をどうせ、擬人化するなら、こうだと変えてきました。

「あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見守りて かみなりさまは 下で鳴る 富士は日本晴れの山」

彼女、大声でこれを歌っていたみたいです。なるほど、こっちの方がスケール大きいですね。

 

★安藤誠ネイチャートークショー「安藤塾」今年も開催決定しました。

北海道のネイチャーガイドで、釧路ヒッコリー・ウインドオーナー安藤誠さん(写真右・愛犬キャンディと)のトークショーを10月25日(水)19時30分より開催します。(要・予約 レティシア書房までお願いします) 


 

 

梨木香歩作品集「西の魔女が死んだ」(新潮社1200円)を読みました。

傑作「西の魔女」に登場するおばあちゃん、ヒロインのまいちゃん、そして愛犬ブラッキーが登場する「ブラッキーの話」、「冬の午後」、「かまどに小枝を」を一緒にした「西の魔女が死んだ」をめぐる作品集です。

作者あとがきは、これ程美しいあとがきはない、と思いました。

「ただシンプルに素朴に、真摯に生きる、というだけのことが、かつてこれほど難しかった時代だあっただろうか。社会は群れとして固まる傾向が強くなり、声の大きなリーダーを求め、個人として考える真摯さは揶揄され、ときに危険視されて、異質な存在を排除しようとする動きがますます高まってきた。」

まいのおばあちゃんと同世代になった作者は、こんな時代だからこそ、まいの物語を読んで、その人に寄り添う一冊であって欲しいという思いから、再度「西の魔女が死んだ」を送り出すことにしたのです。そして

「老若男女問わず、この本を必要としてくれる人びとに辿り着き、人びとに寄り添い、力の及ぶ限り支え、励ましておいで。私たちは、大きな声を持たずとも、小さな声で語り合い、伝えていくことができる。そのことを、ささやいておいで。」

と結んでいます。自分の書いたものが、読者の人生の、小さいかもしれないが、手助けになって欲しいという思いが伝わってきます。

「かまどに小枝を」は、「西の魔女」の中で、自分で生きてゆくことを学んだまいちゃんが、おばあちゃんの家を去った後の日々が描かれています。ある日、彼女は虹を見に丘に向かいます。そして小さな虹に向かって祈りを捧げます。

「この空の下で、私の娘も、その娘も、今、生きている。新しい環境の中で、新しい道を選ぶこと、さらにその道を進むということは、体力と気力がバランスをとっていなければ、なかなか簡単にいくものではない。今はまだアンバランスだとわかっていても、他にどうしようもなく、進まなければならないときがある。時の流れは容赦ない。」

でも祈ろう。それは、著者が、色んな人生を選択した人たちの、明日が良い日でありますようにという祈りなのです。

 

★勝手ながら、5/8(月)、9(火)連休いたします。

 

梨木香歩のエッセイ集「鳥と雲と薬草袋」(新潮社1050円)は、ぜひ、ハードカバーで持っていたい一冊です。49の土地の来歴を綴り重ねた随筆集で、その地名に惹かれた著者がフラリと訪れた様が描かれています。

「日ノ岡に、日向大神宮という神宮がある。ひゅうが、ではなく、ひむかい、と読む」

京都市内の三条通りを東に向い、山科方面に向かうと日ノ岡峠に出るのですが、これはこの土地を描いた「日ノ岡」の出だしです。無駄のない、しっかりした文章で描写されていき、一緒にフラリと日向大神宮に詣でた気分になります。最後は「蹴上(けあげ)」という地名の由来も明かされますが、義経がからんでいたとは面白いもんです。

安心して読ませてくれる文章というのは、気持ちがいい。そして、そんな本の中身をサポートするような装幀が施されていると、なおいいですね。装幀は出版社の装幀部が行っているのですが、カバーの色合いや、ページの余白まで愛情が籠っています。何より素敵なのは、挿画・装画を西淑さんが担当しているところです。表紙の渡り鳥に始まり、随所に描かれる小さなイラストが、そっと本の中身に寄り添って心憎い演出です。部屋に立てかけて眺めていたい本です。

もう一点。昭和39年発行の串田孫一「昨日の絵 今日の歌」(勁草書房1100円)は、函から本を出すとオレンジ色の表紙。この本は串田が、絵のこと、音楽のことなど彼が出会った芸術を、エッセイ風に書き綴ってあります。

「静かに針を下ろして、あらかじめその位置に置いた自分の椅子にすみやかに戻って、音の鳴り出す瞬間を待つほんの僅かの時間に、私はやはり彼らの気持ちは今充分にかよい合い、研ぎすまされ、呼吸もまた鼓動さえもぴったりと合ったその容子をちらっと想わないわけには行かない。」これは「室内楽」と題した章の一部です。

各章には、串田自身によるステキなスケッチが描かれています。

やはり、大事に、大事に本棚に置いておきたい一冊です。私は、この本に入っている、やや長めのエッセイ「天使の翼」ほど、音楽を美しく描いたものを読んだ事がありません。静謐で、澄み切った空気の中に、自分を置きたい時には最適です。

 

私は猫背である。女房に指摘される度にシャキッとするのだが、またすぐに元に戻ってしまう。原因は、男子中学、高校という痛ましい6年間にあると信じている。多感な時期、周りが男だらけ(の割にはケイコチャンやらユミコチャンとかいうガールフレンドが・・・)という窒息寸前の、進学校。落ちこぼれの私なんぞ、国立大学を目指す同級生に卑屈になり、自然下を向き、猫背になってしまったというわけ。

大学時代、辻邦生の文学に入れこみ、清冽で凛とした彼の文章に接して、いかん、下を向いていばかりではと思わされました。そうか、作家の文章には、シャキッとさせる効能があることを知り、そういう身体にいい文章を書く作家さんを探しました。

例えば、こんな文章です。

「あれほど巨大な身体を持ちながら、どうして彼女たちはこんなにも静かなのだろうと、私はいつでも息を飲む。老木のように思慮深く四本の脚は、戸惑わず、油断をせず、正しい場所を踏みしめ、一瞬たりとも無駄な音を発しない。もし夏の静かさというものがあるなら、この者たちの足裏こそがそれを生み出しているに違いない、と思わせてくれる」

これ、以前にご紹介した小川洋子の「いつも彼らはどこかに」(新潮社900円)に登場する老いた象の描写です。

静謐で緊張感があり、削り取られた言葉が、シャキ!とさせてくれるのですね。

こういう文章は、私の読書体験から言えば、女性作家で出会うことが多いみたいです。必ず新刊は熟読する梨木香歩は「不思議な羅針盤」(新潮文庫300円)で、煮詰まった人間関係に喘ぐ時、こう言い切ります。

「もう、だめだ、と思ったら逃げること。そして『自分の好きな場所』を探す。ちょっとがんばれば、そこが自分の好きな場所になりそう、というときは、骨身を惜しまず努力する。逃げることは恥ではない。津波が襲って来るとき、全力を尽くして逃げたからと言って、誰がそれを卑怯とののしるだろうか。

逃げ足の速さは生きる力である。津波の大きさを直感するのも、生きる本能の強さである。いつか自分の全力を出して立ち向かえる津波の大きさが、正しくつかめるときが来るだろう。そのときは、逃げない」

強靭な言葉ですね。彼女たちに、背中の曲がった、このばか者が!と怒られながら、ぐぐ〜と背を延ばす毎日です……..。

 

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