正木香子の「文字と楽園」(本の雑誌社/古書1100円)を読みました。

ぐっとくる本とか、しみじみした感情に包まれる本、あるいは迫力に押しつぶされそうな本は沢山あります。けれども、愛しい気分にさせてくれる、読み終わった後も書架から出して、表紙をそっと撫でてみたくなる本は、あまりありません。これはそんな貴重な一冊でした。

サブタイトルの「精興社書体であじわう現代文学」とあります。精興社は1913年、東京活版所として設立された印刷会社です。。活版印刷の品質の向上を目的として、新しい書体を開発し精興社タイプと呼ばれる、細身の美しい書体を作り上げました。

古くは、1958年から83年まで25年間、串田孫一が創刊した「アルプ」の活版印刷を担当していました。岩波書店をはじめ、多くの出版社で採用されています。例えば村上春樹「ノルウェイの森」、川上弘美「センセイの鞄」、吉田篤弘「つむじ風食堂の夜」、あるいは三島由紀夫「金閣寺」と、読書好きなら一度は出会った書体です。

著者は、この文体が使用された本を十数本選び出して、美しい文字が作り出す世界を教えてくれます。吉田篤弘の「フィンガーボウルの話の続き」に入っている短編「白鯨詩人」をあげながら、こう書いています。

「この本には、文字を目で味わう楽しみがあふれている。物語が料理だとするなら、背後にある皿の美しさの「ほう」と見とれる瞬間がある。でもそれはまぐれや偶然で起きることではない」

作家が紡ぎ出した無数の言葉に命を吹き込み、読者に伝え、言葉の彼方の世界へと連れ出すような書体。その魅力を持っている精興社書体への思いが、ピックアップした本への愛情と共に語られていきます。

個人的にこの書体に着目したのは、新潮社が発行する海外文学シリーズ「クレストブックス」でした。新潮社装幀室が手掛けた、毎回変化する美しいブックデザインと、本文の読みやすさに魅かれました。それまでの、他社のお堅いイメージの書体による翻訳物は、ちょっと苦手でした。クレストブックスの流れるような美しさは、海外文学初心者には、ありがたかったです。創刊から2010年まで編集を担当した松家仁之は、「文字と楽園」によると、最初から精興社ありきで考えていたらしいです。

日頃、何気なく本を開く私たち。どんな字体を使用しているかなんて気にしている人は少ない。しかし、読んだ後も心に残り、再び読もうとする本は、人の半生と同じくらいの歳月を生き抜いた、精興社書体のような日本語書体の偉力なのかもしれません。