本を選ぶ時、山登りに例えると、(関西でいえば)大文字山とか若草山とかいった楽に歩けるコースのような本を何点か選びます。そして、少ししんどいけど登れそうな比叡山とか伊吹山みたいな本をやはり数点横に置いて、交互に読み始めます。しかしたまに、乗鞍岳など初心者に到底無理な山みたいな本を読みたくなる時もあります。

今回トライした赤坂憲雄の「民族知は可能か」(春秋社/古書2000円)は、私にとっては高い山でした。民俗学者赤坂憲雄の本は、すでに一冊、「ナウシカ考」(岩波書店/売切れ)を紹介していますが、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」をここまで徹底的に解読した本はありませんでした。比叡山とは違い、絶壁の続く本でしたが面白かったのも事実です。

今回の「民族知は可能か」は、石牟礼道子、岡本太郎、網野善彦、宮本常一、柳田國男を俎上に上げて、習俗を巡ってかわされた民族知を考える評論集です。で、民族知って何?

「民族知という概念がそもそも曖昧模糊としている。果たして民族知は可能なのか、という問いにたいしてすら、今の私には真っすぐな答えはない。」と著者は書いています。おいおい、それで本を書くなよと思ったのですが、クリスマス前後から正月過ぎまでかかって読んだかいは、それなりにありました。ただし、網野歴史学は全く歯が立ちませんでした。

面白かったのは岡本太郎でした。岡本の日本紀行三部作、「日本再発見」「沖縄文化論」「神秘日本」を中心にして、岡本が東北・沖縄文化の豊穣さを見つめていたことを論じてゆくのですが、「芸術は爆発だ!」と叫んでいた岡本のスケールの大きさと、エネルギッシュな視点には驚きました。

「わたしが関心をそそられるのは、縄文の血脈を引いたエゾやアイヌこそが、『本来の日本人』であり、『人間としての生命を最も純粋に、逞しくうち出しているわれわれの血統正しい祖先』である。そう、太郎がいいきっていることだ。」という著者の指摘を引用しておきます。

石牟礼道子、宮本常一の足跡を辿る文章は知的楽しさを満たしてくれました。柳田國男は、私には消化不良でした。もう少し彼の本を読んで再トライしてみたいです。

 

 

名古屋近郊の東海市で、踊り手がイヤホンで音楽を聴きながら、盆踊りを踊る「無音盆踊り」が始まっています。最近は、地域のお祭りを騒音と感じて、苦情が寄せられているのだそうです。徳島県の阿波踊りの練習でも、うるさいという苦情が県庁に来ているとか。

ところで、盆踊りは、お囃子の入る賑やかなものだったのでしょうか。元来、この踊りには、死者供養の側面があったことは確かです。柳田国男の調査によると、盆踊りの最も古いスタイルを残している「新野の盆踊り」はお囃子を伴わない静かな踊りでした。柳田が大正9年、岩手県で見た踊りも、音楽もなく、決して賑やかなものではありませんでした。

さて、件の「無音盆踊り」は2009年に誕生しました。しかも、驚くべき事に、「無音盆踊り」の前後に、会場に歌を流し、太鼓が盛り上げるフツーの盆踊りもあるのです。となると、無音のそれは騒音対策ではないみたいです。無音の時は、FM電波が二種類の周波数の異なった電波を流し、踊りの場に二つの輪が出来上がり、観客は異なるテンポと所作による二種類の盆踊りを見ることになります。シュールな展開です。

畑中章宏著「21世紀の民俗学」(角川書店/古書1300円)は、現代の様々な現象を民族学を切り口にして解明し、流動的な現象の中に見え隠れする日本人の本質を論じた刺激的な一冊です。

著者は、この盆踊りを「なかなかの『見物』だった。砂をこする草履の音、時間差で打たれる手拍子。お囃子が響かないことで、所作が露わになり、踊るからだが生み出す音だけが聞こえるのだ。」と評価しています。しかし、徹底的に踊ることなく、わずか数十分で終ってしまいます。内省的に霊と向き合う行為が、日本の祭の特色だったはずなのに、そこまでには達していないとも付け加えています。

無音盆踊り以外にも、自撮り棒、宇宙葬、ホメオパシー、アニメ聖地巡礼、ポケモンGO、など多種多様な現象を見つめながら、その奥に潜むリアルを解明していきます。著者はアカデミックな民俗学の教育を受けてはいません。だからこそ、四方八方に広がる思考の行方がスリリングなのかもしれません。

★レティシア書房恒例「夏の古本市」は、8月8日(水)〜19日(日)開催です。